朝の五時前、私は鍵を渡されて、店の裏の車庫へ向かった。軽トラックだと思って扉を開けたら、そこには見たこともないほど長くて低い、黒塗りの高級車が静かに佇んでいた。五千万円だと後で知った。妹が嫌がった縁談の代わりに嫁いだ、この山あいの古い豆腐屋で、私は何も分からないまま最初の一週間を過ごしていた。そしてその夜、家族が突然、店に現れた。母は「かわいそうだから」と言い、妹は「席を返してよ」と言った。…

朝の五時前、私は鍵を渡されて、店の裏の車庫へ向かった。軽トラックだと思って扉を開けたら、そこには見たこともないほど長くて低い、黒塗りの高級車が静かに佇んでいた。五千万円だと後で知った。妹が嫌がった縁談の代わりに嫁いだ、この山あいの古い豆腐屋で、私は何も分からないまま最初の一週間を過ごしていた。そしてその夜、家族が突然、店に現れた。母は「かわいそうだから」と言い、妹は「席を返してよ」と言った。...

車庫の扉を開けた瞬間、私はそこに立ち尽くした。そこにあったのは軽トラックではなかった。見たこともないほど長く、低く、磨き上げられた黒い車。私は「えっ」と声を漏らすことしかできなかった。後で知ったことだが、その車は五千万円したという。

この車と、この人と、この小さな豆腐屋が、私の人生を丸ごとひっくり返すことになるなんて、その時の私はまだ思ってもいなかった。

私の名前は成瀬志乃、二十九歳。この春まで県庁所在地の小さな印刷会社で事務をしていた。伝票を打ち、電話を取り、コピー用紙を補充する。九年働いて、手取りは十六万円。文句を言ったことは一度もなかった。

家族は父と母と、四つ下の妹が一人。妹の名前はかほ。子供の頃から可愛らしく、誰からも好かれた。私は妹と違って地味で口下手で、写真を撮られるのが苦手だった。母はよく言った。「志乃はしっかりしてるから」。

しっかりしている。この言葉は、褒め言葉の顔をした命令だった。しっかりしているから家のことをやる。しっかりしているから我慢する。しっかりしているから妹に譲る。私は二十九年かけて、そういう風に作られてきた。だから、妹に来た縁談を私が代わりに受けることになった時も、ほとんど驚かなかった。「ああ、また私か」。そう思っただけだった。

うちの家には、はっきりした決まりが一つあった。面倒なことは全部私がやる。小学校の頃からそうだった。学校から帰ると、まず洗濯物を取り込み、それから米を研ぐ。母が切りかけたまま置いていった野菜の続きをやる。妹は遊んでいた。一度だけ、妹に手伝ってほしいと言ったことがある。「えー、やだ。お姉ちゃんの方が上手だもん」。そう言われて母が笑った。「そうよ。志乃の方が上手なんだから」。上手だからやる。上手だからやらされる。私は最後まで反論できなかった。

冬の水は冷たかった。給湯器はあったけれど、母がもったいないというので、お湯は使えなかった。私の手は毎年十一月の終わり頃からひび割れた。お正月に親戚が集まった時、母が言った。「志乃は手が汚いから、料理は運ばなくていいわ。かほ、あんたが持っていって」。妹は白い手で大皿を持って行き、親戚に褒められて笑っていた。私は台所で洗い物をしていた。汚いのは、この家の茶碗を洗ってきたからだ。そう思ったけれど、口には出さなかった。

私が自分のお金で買った、たった一つのものがある。小学三年生の遠足の時だった。土産物屋に、白い磁器に薄い青色で小さな鳥が描かれた湯呑みが並んでいた。値段は四百五十円。お小遣いは五百円までと決まっていた。私はお菓子を買わずにそれを買って帰った。家に持ち帰ったら、妹が欲しがった。「それちょーだい」。「志乃?貸してあげなさい」。この家で「貸す」は「あげる」と同じ意味だった。私は黙って渡した。その日の夕方、畳の上で硬い音がした。妹が湯呑みを落としたのだ。割れはしなかったけれど、口が小指の先くらい欠けていた。「ちょっと、もういらない」。母は「あらあら、志乃、片付けておいて」と言った。私は欠けた湯呑みを拾って、引き出しにしまった。欠けたから、私のものになった。それからずっと、私はその湯呑みを使っている。欠けたところが唇に当たると、少しざらっとする。そのざらつきが、なんだか自分のことのように思えて、私は嫌いではなかった。

高校を出る時、進路の話になった。「大学は無理だ。うちにそんな余裕はない」。私は短大へ進んだ。学費の半分は自分でアルバイトをして払った。卒業して地元の印刷会社に就職した。二十歳だった。初任給を持って帰った日、母が封筒を見て言った。「十万、家に入れてね。当たり前でしょ。ここに住ませてもらってるんだから」。手取りは十三万だった。十万を渡すと、残りは三万になる。定期代もお弁当分もそこから出した。それでも私は「わかった」と言った。

九年経って給料が十六万になっても、家に入れる額は十万のままだった。母は「志乃は物を買わない子だから」と言って、金額の話そのものをさせなかった。その間に妹は四年制の私立大学へ行った。「大学なんて無理だ」と言った父が、妹の時は何も言わなかった。入学金も授業料も下宿代も出た。妹は東京の大学へ通い、戻ってきて市内の百貨店の化粧品売り場に勤めた。家に入れるお金はゼロだった。

一度だけ母に聞いたことがある。「かほは、家にお金を入れなくていいの?」。母は洗濯物を畳みながら答えた。「かほはまだ若いんだから、色々使うでしょ。化粧品だって仕事道具なんだし。志乃はそういうの買わないじゃない」。私が化粧品を買わないのは、買うお金がないからだった。言えばまた「しっかりしてるんだから」が返ってくる。

一度だけ、家を出ようとしたこともある。二十五歳の秋だった。会社の近くにアパートを見つけて、不動産屋で契約の説明まで聞いた。家賃四万二千円の六畳間の部屋だった。それでも私には夢のように思えた。家に帰って「出て行きたい」と言った。母は泣いた。「お母さん、志乃がいないと何もできないのに、見捨てるの?」。父は黙ってテレビを見ていた。妹は自分の部屋にいた。私は三日間、母の泣き顔を見て過ごし、四日目に断りの電話をした。

料理だけは好きだった。家の献立は母が決めていたけれど、作るのはほとんど私だった。母は味の感想を言わなかった。父も何も言わなかった。妹は「今日のこれ、地味だね」と言った。だから私は、自分の作ったものが美味しいのかどうか、二十九歳までよく分かっていなかった。会社でも私の役目は同じだった。誰かが休むと、私に回ってくる。急ぎの伝票も、私に回ってくる。嫌ではなかった。手を動かしている間は、何も考えなくて済んだ。

一度だけ、「佐藤さん」という年上の女性にこう言われたことがある。「成瀬さんって、自分のことを一番後回しにするよね」。私は「そうですか」と笑ってごまかしたけれど、その言葉は長い間残った。私を見ていてくれた人がいた。それだけのことが、驚くほど嬉しかった。

二十九歳の春。私に縁談の話が持ち込まれた。持ってきたのは、父の昔の同僚で、山あいの町に親戚がいるという人だった。相手は「柏尾(かしお)」という町で豆腐屋をやっている家の四代目で、三十四歳、独身だという。写真が畳の上の茶ぶ台に置かれた。映っていたのは白い作業着の男の人だった。笑っているのか困っているのか分からない顔で、こちらを見ている。背景に店が映り込んでいた。木の看板に「豆源(まめげん)」と読めた。

母が写真を手に取って、鼻から息を出した。「あら、まあ、随分古いお店ね。山の中らしい。冬は雪も降るそうだ」。そこへ妹が仕事から帰ってきた。コートを脱ぎながら茶ぶ台を覗き込み、写真を一目見ると声をあげた。「え?何これ?無理。こんな田舎の豆腐屋なんて、無理でしょ」。

「まあまあ、そう言わないで。一度お会いするだけでも…」。その「一度だけ」は、結局あった。三月の終わりの日曜日、父と母と妹の三人で出かけていった。私はその日、振替で仕事だった。だから行っていない。あの日私が行けなかったことが、この話の全ての始まりだったのかもしれない。

三人は夕方に帰ってきた。玄関を開けた瞬間から、妹の声が響く。「ありえない。本当にありえないから。お店、想像の十倍ボロいんだけど。なんかね、店の前におばあさんが何人も座ってるの。豆腐買うのに並んでるんじゃなくて、ただ座って喋ってるの。意味わかんない」。母は「まあ、田舎はそういうものよ」と言い、父は困ったような顔で「悪い人ではなさそうだったんだがな」と小さく言った。その夜の後で、母が私を呼んだ。「志乃、あんた行ってくれない?」。私は洗い物の手を止めて振り返った。「行くって、どこに?」。「だから、その豆腐屋さんよ。かほが嫌だって言うんだから、しょうがないじゃない。先方にはかほの名前でお話が行ってるけど、お願いよ。あんたの方が年も近いんだし」。

年が近い。相手は三十四歳。私は二十九歳で、妹は二十五歳。近いのは確かに私の方だったけれど、母が言っているのがそういうことではないのも、私には分かっていた。妹がテレビを見ながらこちらを見て言った。「お姉ちゃんが代わりに行けばいいじゃん。お姉ちゃん、家事とか全部できるし。ああいうお店って、そういう人の方が向いてるでしょ」。父はテレビの音量を少し上げた。私は洗い物に戻った。水道の水は冷たくて、手の甲のひび割れが染みた。

断る理由を探そうとして、探せなかった。行きたくないと言ったら、母は泣く。泣かれたら、私は折れる。二十五歳の秋にそうだったように。それに、これは随分後になって認めたことだけれど、あの時私の中には断りたくない気持ちも少しあった。この家を出られる。それだけがあの晩の私にとって、たった一つの明りだった。「分かった。行くよ」。母の顔がパッと明るくなった。「よかった。志乃は本当にしっかりしてるわね」。

四月の中頃、私は柏尾へ向かった。電車を乗り継いで二時間半。最後の在来線は一両編成で、窓の外は途中から急に山だらけになった。柏尾駅で降りたのは、私一人だった。改札は無人だった。店までは歩いて三十分だと聞いていた。坂を登っていくと、道の両側に古い家が並び始めた。屋根はどれも黒っぽい瓦だった。どこかで水の流れる音がしていた。道に沿った用水路の水が、春の陽に透き通っていた。

坂の途中に、その店はあった。写真で見た通り、古い店だった。木の看板に「豆源」と書いてある。引き戸のガラスの向こうから、白い湯気がゆっくり流れ出していた。店の前の木のベンチに、おばあさんが二人腰かけていた。私が近づくと、一人が声をあげた。腰の曲がった小さなおばあさんだった。「あんた、旅の人かい?」。「いえ、あの…」。「この道はね、上まで行くと何にもないよ。神社があるだけ」。こう言ってから、おばあさんは自分の足元を見て、少し困った顔をした。地面に杖が倒れていた。手を伸ばそうとして、届かないようだった。私はしゃがんで杖を拾い、柄の方を向けて渡した。「どうぞ」。「ああ、すまないね。腰が曲がるとね、下のものが遠くなるんだよ」。隣のおばあさんが笑った。私も釣られて笑った。

それからおばあさんはベンチの端に寄って、自分の隣を手のひらで叩いた。「まあ、座りなさい。坂で疲れたろう」。座るつもりはなかった。でも断る方が失礼な気がして、私は端に腰を下ろした。ベンチの木は日に温められていて、思ったより温かかった。そこで五分ばかり、二人の話を聞いた。今年は雪が少なかったこと。この店の豆腐は昔から変わらないこと。「ここのはね、水がいいから、よそとは違うよ」。私は「そうなんですか」と言った。それしか言えなかった。豆腐に水が関係あることを、その時私は知らなかった。

やがて店の引き戸が開いた。出てきたのは白い作業着の男の人だった。写真の人だとすぐ分かった。濡れた手拭いを持って、袖を肘までまくっていた。その人は私を見て、それからおばあさんたちを見て、少し目を大きくした。「成瀬さんですか?」。「あ、はい。成瀬です」。私は慌てて立ち上がった。「志乃と申します。妹の代わりで…」。代わりで、と言ってしまってから、しまったと思った。初対面で言うことではない。けれど、その人は気を悪くした様子もなく、タオルで手を拭いてから頭を下げた。「奥山宗介です。わざわざ遠いところを、すみません」。「よく分かりましたね」。「この店の看板が出ていたので」。「あの看板、字がだいぶ消えてるでしょう。読めたなら、大したもんです」。そう言ってその人は少し笑った。写真では分からなかったけれど、それは笑った顔だった。

帰りは駅まで送ってもらった。店の裏から、宗介さんが白い軽トラックを回してきた。荷台には木箱と、水を張る浅い容器。宗介さんは助手席をタオルで一度拭いてから「どうぞ」と言った。坂を下りながら、宗介さんが前を向いたまま言った。「さっきベンチにいたおばあさんの杖を拾ってくれましたね。中尾さんと言います」。「え?あ、はい」。「あの人は、具合を悪くしてから、落としたものが自分で拾えないんです。見ていた人は、大抵見なかったことにする。しゃがむのが面倒だから」。私は返事に困った。説教されているのか、世間話なのか分からない。「近くにいたので」。「そうですね」。それきり宗介さんは何も言わなかった。窓は少し開いていて、山の匂いが入ってきた。土と草と水の匂いだ。エンジンはやかましくて、シートは硬い。それなのに、私はその十二分が妙に居心地良かったことを覚えている。

駅で降りる時、宗介さんは運転席から身を乗り出してこう言った。「気をつけて帰ってください」。誰かにそう言われたのが、いつ以来だったか思い出せなかった。

その日駅へ送ってもらう前に、私は店の奥の座敷でお茶を出された。出してくれたのは宗介さんの母親だった。奥山フユさん、六十四歳。背は低いけれど、背筋が真っすぐな人だ。「遠かったでしょう。何もないところで」。「いえ、水が綺麗で驚きました」。そう言ったら、フユさんが手を止めて私の顔を見た。それから少しだけ笑った。「そう。そう言ってもらえると嬉しいね」。この家の人にとって、水を褒められるのは何より嬉しいことなのだと、後で知った。

話は、淀みなく進んだ。宗介さんは自分の仕事の話をした。朝は二時に起きること。年末は休めないこと。雪の季節は道が凍ること。「楽ではないと思います」と何度も言った。そして最後にこう言った。「うちに来てくれとは言えません。ただ、もしよかったら、もう一度来てもらえませんか?今度は朝に。朝の店を見てもらってから、決めてもらいたいので」。

五月の連休の前に、私はもう一度柏尾へ行った。朝の四時半に店に着くように、前の晩から近くの民宿に泊まった。作業場はもう真っ白だった。大きな釜から白い湯気が立ち上って、天井で渦を巻いている。甘い匂いがした。豆を煮る匂いだと教えられた。宗介さんは釜の前に立っていた。長い木のヘラのようなもので中をかき混ぜていた。声をかけるのがためらわれるくらい、真剣な横顔だった。その時、私は一つだけはっきりと思った。この人は、仕事が好きなんだ。私は二十九年、好きなものを持ったことがなかった。持ってはいけないと思っていた。この人のそばにいたら、私もいつかそういうものができるだろうか。

家に帰って、「行きます」と母に言った。母は「まあ、よかった」と言って、それ以上何も聞かなかった。妹は「へえ」と言った。それだけだった。結婚式はあげなかった。宗介さんの方は「志乃さんがしたいなら」と言ってくれたけれど、母が「うちは今そんな余裕がないから」と言い切った。結局、市役所に婚姻届を出しただけだった。

家を出る日、母は玄関で言った。「よかったわね。志乃。向こうのお母さんを大事にするのよ」。私は「うん」と言った。九年間、毎月十万円を渡し続けた家を出るのに、母は最後まで「ありがとう」とは言わなかった。荷物はダンボール四箱だった。服と本と、あの欠けた湯呑み。二十九年分にしては、少なすぎると自分でも思った。

柏尾の家は、店の裏にくっついていた。木造の二階建てで、廊下を歩くと床が鳴る。台所は広く土間があって、「雪の季節は冷えますよ」とフユさんに言われた。私の部屋は二階の南向きの六畳で、窓を開けると山が見えた。

嫁いだ最初の夜、夕飯の後で宗介さんが言った。「志乃さん、一つ言っておきたいことがあります」。私は身構えた。何か条件を言われるのだと思った。「妹さんの代わりに来たと思わないで欲しいんです」。「でも、実際に、実際に話の順番はそうです」。「それは知っています。けど、僕は変わりだなんて思っていません。来てくれたのが、あなたでよかった」。

私は返事ができなかった。二十九年生きてきて、私はそんな風に言われたことが一度もなかった。「しっかりしている」とは言われた。「上手だ」とも言われた。でも、それは全部、私に何かをやらせるための言葉だった。「あなたでよかった」。その言葉を、私はの中で何度も思い返した。嬉しいというより、怖かった。嬉しいと思った後で、裏切られるのが怖かったのだと思う。

翌朝から、私の一日は二時半に始まった。最初は掃除だ。床を流して、水切りをして、道具を並べる。宗介さんと戸田さんはもう仕込みに入っている。戸田さんは五十八歳の職人で、宗介さんのお父さんの代からこの店にいる。「おはようございます」と言うと、顎を二センチくらい引く。それが返事だった。もう一人、杉本タク君という二十二歳の若い子がいた。隣の中野原で生まれ育って、高校を出てすぐにここに入ったという、よく喋る子だった。

私に任されたのは、最初は細かいことばかりだった。床を流す。ざるを洗って伏せる。豆乳を移す時に脇で容器を抑える。店先に並べた豆腐のパックの表面を、乾いた布で拭く。水滴がついていると見栄えが悪いのだと教わった。それからおからを運ぶ。毎朝、豆と同じだけの量が出て、捨てるのが惜しい。朝のうちに農家の人が取りに来る。夜の仕事も一つ覚えた。寝る前に、翌朝分の豆を水につける。夏と冬で漬ける時間が違って、「冬は水が冷たい分、長く置くのだ」と言われた。

そして、慣れてきたら店番をした。朝の七時にのれんを出すと、七時五分にはもう一人目が来る。大体決まった顔触れだった。杖をついたおばあさん。自転車を押したおじいさん。軽自動車で坂を下ってくる人。三日目に、あの日ベンチにいたおばあさんが来た。中尾さん、八十四歳。「おや、あんた、あの時の」。「はい。今度、ここに嫁いできました」。「まあまあ。じゃあ、あんたが、あれかい」。何を刺すのか分からなかったので、私は曖昧に笑った。スミさんは寄せ豆腐を一丁買い、ベンチに座ってしばらく喋ってから帰って行った。それが毎朝の習慣になった。

近所の人には、自分から挨拶をするようにした。頭を下げると、みんなびっくりした顔をして、それから笑ってくれた。私は迷惑をかけたくなかった。ただそれだけだった。この家に来られたのは運が良かったと思っていた。だから、追い出されないように働こうと思っていた。いてもいいと思ってもらえたら、それで十分だった。

宗介さんは、そういう私を黙って見ていた。後で聞いたことだけれど、あの頃宗介さんは私が丹前で豆腐を拭く手つきを、よく見ていたのだそうだ。

嫁いで六日目の朝、あの車庫での一件が起きる。その日、私は夕飯の買い出しに行きたいと思っていた。嫁いで六日、食事はフユさんが作ってくれていた。そろそろ自分がやりたかったけれど、冷蔵庫には材料がほとんどなかった。この町にスーパーはない。買い物は隣の中野原まで、車で二十五分だ。問題はお金だった。嫁いだばかりで、私は生活費のことを一度も聞けずにいた。自分の貯金は少しあったけれど、それを使っていいのかも分からなかった。

朝の五時前、仕込みが一段落したところで、私は思い切って作業場に入った。「宗介さん、夕飯の買い出しに行ってきます」。「行ってきます」と言い切るつもりが、語尾が消えた。宗介さんは釜の方を向いたまま、片手をポケットに入れて鍵を取り出した。「はい、鍵。店の裏の車を使って」。そう言って、私の手のひらに置いた。

私は鍵を握って、裏の車庫へ歩いていった。店の裏には古い車庫があって、その脇の空地に軽トラックを止めてある。ところが、その朝は戸田さんが配達に出していて、空だった。車庫に配達用のもう一台が入っているのだろうと思った。車庫は木造の古い建物だった。トタン屋根で、壁の板は雨で黒くなっている。物置きみたいな建物だと思った。

扉に手をかけて、横に引いた。錆びたレールが、ガラガラと重い音を立てた。そして私は、そこで動けなくなった。薄暗い車庫の中に、黒い車が止まっていた。軽トラックではなかった。長くて低くて、屋根の線が後ろへなだらかに落ちていく。塗装は黒というより、黒い水を張ったみたいだ。天井の隙間から入る細い光が、ボンネットの上で一つの線になっていた。タイヤの脇にはうっすら埃が積もっていたけれど、車体には埃一つなかった。誰かが拭いているのだと分かった。

私は足を止めて、車庫の中を見回した。車の見かけとは裏腹に、中だけは綺麗に片付けてある。奥に電動工具。壁には古い自転車と、束ねた縄と、火のしが立てかけてあるだけだった。もう一度、車を見た。後ろのドアのガラス越しに後部座席が見えた。革の座席の真ん中に、色の抜けた四角い座布団が一枚、置いてあった。それだけが、場違いだった。高そうな革の上に、どう見ても古い家庭用の座布団。柄は元々紺色だったのが、日に焼けて灰色に近くなっている。角のところが少しほつれていた。なぜこんなものが、と思ったけれど、その時の私にはそれを考えている余裕がなかった。

私は引き戸を閉めて、鍵を握りしめたまま走って店に戻った。「宗介さん!」。宗介さんが顔をあげた。「あの、車って、あれ、本当に使っていいんですか?」。「ああ、買い出しなら、それで大丈夫だよ」。「大丈夫な車じゃないです!」。思ったより大きな声が出た。作業場の奥で、タク君が吹き出した。戸田さんは手を止めなかったけれど、口の端が少しだけ動いた気がした。宗介さんは間の抜けた顔をして、それから「あっ」と言った。「ごめん。軽トラのつもりで言ったんだ。戸田さんが乗って出てるのを忘れてた。鍵、間違えて渡した」。そう言って宗介さんは別の鍵を出した。こちらの鍵にはビニールの紐がついていて、油で汚れている。「間違えるようなものですか、あれ」。「うん。良くないな」。宗介さんは自分でそう言って、少し笑った。「の、あれ、何なんですか?」。「仕事で使う車だよ」。「仕事って?」。「うん。人を乗せるのに使う」。それだけだった。それ以上は何も言わなかった。

出がけに、宗介さんが作業台の引き出しから封筒を出して、私に渡した。中にお札が何枚か入っていた。「家の買い物は、そこから使ってください」。「いいんですか?」。「志乃さんの家でもあるので」。お金のことをどう聞けばいいのか、私は六日間ずっと考えていた。聞く前に、渡された。

私はその日の昼間に、泥の跳ねた白い軽トラックで中野原まで買い出しに行った。エンジンの音がやかましかった。坂を下りながら、私は考えていた。この店は古い。看板の字は消えかけている。豆腐は一丁百八十円だ。それなのに、車庫にはあの車がある。計算が合わなかった。そして、あの座布団のことを思い出した。古い座布団が、革の座席の上にぽつんと一枚。あれには意味がある。その時の私は、まだその意味を知らなかった。知ったのは、それから一年近く経ってからのことだった。

うまくいっていたのは、最初の二週間くらいだった。六月に入って梅雨が来て、私の体がついてこなくなった。朝の二時半に起きる暮らしは、思っていたよりずっときつかった。夜の八時に布団に入っても、頭が冴えて眠れない。手は実家にいた頃よりひどくなった。豆腐屋の仕事は、一年中水仕事だ。冷たい水で道具を洗い、水を張った容器に手を入れ、床を流す。実家では真冬だけだったひび割れが、六月なのに指の関節に出始めた。夜風呂に入ると、手が染みた。私は湯船の外に両手を出して、浸かるようになった。それでも、休みたいとは言わなかった。言えるはずがない。

事件が起きたのは、六月の半ばの朝だった。その日は風が強くて、作業場の床がいつもより滑った。私は絞りの終わった豆乳を、大きなステンレスの缶に入れて、豆腐を固める大きな型まで運んでいた。缶は満杯に入ると、私には重かった。タク君に教わった通り、下から支えて持った。三歩、四歩、五歩。そこで、右足が滑った。体が傾いた。缶が肩から離れた。とっさに片手で受けようとして、余計にひっくり返した。白い豆乳が、床いっぱいに広がった。音は思ったより小さかった。鈍い、湿った音がして、それから静かになった。作業場の全員が振り返った。長靴とゴムの前掛けが助けてくれた。それでも、手首から先が赤くなって、湯気の立つ床の上で、私は膝をついたまま動けなかった。

宗介さんが、釜の方から走ってきた。私はてっきり怒鳴られると思って、身を縮めた。「志乃さん、火傷は、痛かっただろう。手、見せて」。私の手を取って、ひっくり返し、両方の手のひらを確かめた。それから肩と足に触れて、「滑ってないか」と聞いた。怒っていなかった。心配していた。そのことが、怒鳴られるより辛かった。戸田さんが無言でモップを持ってきて、床を流し始めた。誰も何も言わなかった。白い豆乳が排水溝へ吸い込まれていく音だけが、しばらく作業場に響いていた。

あの一杯で豆腐が何丁できるのか、後でタク君に聞いたら、「絞りたてなら、四十丁は取れましたね」と言われた。一丁百八十円だから、七千二百円分。けれど、私にとってそれは金額の話ではなかった。朝の二時半から宗介さんと戸田さんが四時間かけて作ったものを、私が五秒で流した。それだけのことだった。

その日の午後、私は二階の自分の部屋で、声を出さないようにタオルを口に当てて泣いた。ここに来て初めて泣いた。役に立たないなら、いる意味がない。私はずっとそう思って生きてきた。「しっかりしている」から置いてもらえる。「家事ができる」から必要とされる。何かができる自分にしか、いる理由がない。それなのに、私はここで何もできていなかった。

夕方、階段の下からフユさんの声がした。「志乃さん、ちょっと降りてこられるかい?」。顔を洗って降りて行くと、フユさんは台所でじゃがいもの皮を向いていた。私が来ると、隣の椅子を目で示した。「座りなさい」。私は座った。フユさんは手を止めずに言った。「あの人もね、若い頃、釜をひっくり返したよ。あの人というのは、宗介の父さん、誠一って言うんだけどね。あの人は、三回やった。三回目の時は、うちの父さんにひどく怒鳴られてね。裏の川に座り込んで、日がくれるまで帰ってこなかった」。じゃがいもの皮が、細い一本の帯になって落ちていった。「落とさない人はね、持ったことがない人だけ」。

私は膝の上で手を握った。「あんたは、よくやってる。よくやりすぎてるくらいだよ」。その言葉を、私はうまく受け取れなかった。「よくやっている」と言われても、頭のどこかが「そんなはずはない」と押し返してくる。

そして、次の壁がすぐに立ちはだかった。六月の終わり、中野原のスーパーの棚の前にいたら、通路の向こうから話し声が聞こえてきた。店に来たことのあるおばさんが二人、立ち話をしていた。「豆源さんとこ、お嫁さん来たんだってね」。「そう。県庁所在地の方の人らしいよ」。「ねえ、もと、あの娘さんの代わりなんでしょ?」。「そうなの。妹さんが嫌がったから、お姉さんが来たんだって。どこから聞いたんだか。そういう話は回るのが早い」。私は棚の前で立ち尽くした。「代わり」。その言葉が、もうこの町にも届いていた。私は買い物かごを持ったまま、しばらく立っていた。それから、何も買わずに店を出て、軽トラックのハンドルに額をつけた。

宗介さんは「代わりだなんて思っていない」と言ってくれた。でも、世の中はそう思っている。そして、本当のことを言えば、私自身が一番そう思っていた。私はこの店に、妹の代わりに来た。それは事実だ。事実は言葉では消せない。家に帰って、私は宗介さんに何も言わなかった。言えなかった。

その夜、夕飯の後で宗介さんが台所に立った。「志乃さん、ちょっと」。作業場から小さな器を持ってきた。中に白いものが盛ってあった。豆腐というには形がなくて、雲みたいにふわふわしていた。「今朝のやつの残り、寄せ豆腐です」。「寄せ豆腐?」。「型に入れないで、固まったのをそのまま掬ったやつ。すぐ崩れるから、店には出さない。まず、食べてみて」。私はスプーンで少し掬って、口に入れた。温かかった。そして、甘かった。砂糖の甘さではない。豆の甘さと、それから水の味だった。水に味があるということを、私はその時初めて知った。飲み込んだ後、口の中に何も残らないのに、まだ甘さの影みたいなものが残っている。気がついたら、涙がお椀の中に落ちていた。私は慌ててそれを隠そうとして、うまくいかなかった。「ごめん。しょっぱくなったな」。「すみません。すみません」。「謝らなくていいですよ」。宗介さんは向かいの椅子に座って、それ以上は何も言わなかった。私はすすり泣きながら、全部食べた。食べ終えてから、こう言った。「美味しいです」。宗介さんはしばらく黙っていた。それから、こう言った。「うん。うちの豆腐は、うまいよ」。自分の店の豆腐を、この人はそんな風に言った。照れもせず、飾りもせず、ただ本当のことを言うみたいに。私はその言い方が、なんだかとても羨ましかった。

七月に入って、宗介さんは私に仕事を教え始めた。最初は豆の選別だった。作業場の隅に台があって、そこに乾いた大豆を薄く広げる。虫の食った豆、割れた豆、色の変わった豆を取り除く。指で一粒ずつ寄せていく、地味な仕事だ。「悪い豆が一粒混じると、その全部が少し変わります」。「一粒でですか?」。「一粒で分かる人には、分かる」。最初は一時間で目が痛くなった。二週間経つと、悪い豆が目に飛び込んでくるようになった。宗介さんが使っている大豆は、山を二つ超えた先の農家から直接買っているものだった。この土地の寒さに合う品種で、粒が揃っている。値段は輸入のものの三倍近くする。「三倍だから、一丁百八十円だと、正直、あんまり儲からない」。「分からないんですか?」。「この店だけならね」。「この店だけなら」。その時の私は、この言葉の意味を取り違えていた。よそに勤めにでも出ているのだろうか、くらいに思っていた。

水のことを教わったのは、七月の終わりだった。その日は日曜で、店は休みだった。宗介さんが軽トラックに私を乗せて、山へ登っていった。曲がりくねった道を十五分ほど走って、道の脇に止める。そこから歩いて十分。杉の林の中の細い道を登っていった。木の間から、水の音がしてきた。たどり着いた場所には、石を組んだ小さな水溜まりがあった。その底から、水が湧いていた。透明で、上から見ると水があるのかどうか一瞬分からないほど澄んでいた。「滝の入りの水です。うちの店の水は、ここから引いている」。「引いているというのは?」。「ここからパイプを通して、下の店の水槽まで落としている。先代の台に敷いたやつを、少しずつ直しながら使ってます。昔は脇口がもう一つあったそうなんですけど、今はここ一つです」。私はしゃがんで、水に手を入れた。痛いくらい、冷たかった。「豆腐はね、九割が水なんです」。「九割?」。「うん。だから、豆と濾し布と腕がどれだけ良くても、水が悪いと美味い豆腐にはならない。逆に言えば、この水があるから、うちみたいな小さい店でも、東京で勝負ができる」。「東京で勝負」。その言葉が、山の中の湧き水の前で出てきたことに、私は少し驚いた。

「上の方の山、見えますか?」。顔を上げると、杉の林の向こうになだらかな峰が続いているのが見えた。「あの山に降った雨が、何十年かけて地面に染みて、ここに出てくる。じいさんはそう言ってました。だから、逆に木を切って表土がむき出しになると、雨が地面に染みないで、谷から直接落ちてくる。そうなると、濁ります。だから、山を守るのは、水を守るのと同じことなんだって」。その時の私は、この話を綺麗な昔話として聞いていた。それが、一年経たないうちに私たちの首を締める現実の話になるとは、思っていなかった。

店に戻って、私は初めて作業場の壁に貼ってある紙をちゃんと見た。水質の検査結果表だった。食品を作るのに湧き水を使う店は、年に一回、水の検査を受けなければならない。その結果を張ってある。一番新しいものは、今年の四月付け。一番古いものは、二十年以上前だった。紙の右下に、それぞれ小さな印が押してある。新しい方は宗介さんの字だった。古い方は違う人の字だ。かすれて、張った太い字だった。「この字は、親父です」。そう言って宗介さんは、紙の束の下の方を指でめくった。「七年前の五月に、死にました」。「すみません」。「いや、もう七年だから」。もう七年だから、と言いながら、宗介さんは紙の束を最後まで見ていた。

夫の仕事の全体が見えたのは、八月の中頃だった。冷蔵のトラックが週に何度か来るのは知っていた。でも、私が店に出ている時間と重なっていて、裏でしていることは見たことがなかった。その日の午後、たまたま店番を変わってもらって裏へ回った。裏口が開いて、タク君と戸田さんが白い発泡スチロールの箱を次々に積み込んでいた。「これ、どこへ行くんですか?」。「東京です。今日出せば、明日の朝には向こうの厨房に入ります」。「東京の、どこに?」。「ああ、色々っすね。料亭とか旅館とか。全部で百二十件くらいあるって聞いてます」。私は聞き間違いだと思った。「百二十件?」。「はい。ああ、志乃さん、知らなかったんですか?」。その時、宗介さんが裏口から出てきた。手に伝票の束を持っている。「タク、それは俺から話す」。「すいません」。タク君が言って中へ戻った。宗介さんは伝票を台に置いて、私の方を向いた。「ちゃんと話してませんでした。すみません」。

そして宗介さんは、自分の仕事の話をした。株式会社豆源は三十八名。工場は隣の中野原にあって、そこで大量に作る分を回している。この柏尾の店で作っているのは、一番手のかかる料亭向けと、地元で売る分だけ。取引先は全国で百二十件あり、料亭、旅館、料理屋、それから海外にも輸出している。ただし、豆腐そのものは送らない。生の豆腐は日持ちしないから、海を越えられない。送るのは大豆と天然のにがり。作るのは向こうの職人だ。宗介さんは年に何度か行って、その手を見る。会社の売上は、去年で十四億円だった。私は台の縁を掴んだ。「十四億円」。「はい」。「じゃあ、車は…?」。「あの車は、向こうの料理長が日本に来た時に、空港まで迎えに行くのに使ってます。空港からここまで、車で二時間四十分かかるので」。「二時間四十分を、あの車で?」。「はい」。

私は言葉が出なかった。頭の中で、いろんなものがひっくり返っていた。ボロい看板。一丁百八十円の豆腐。ベンチのおばあさん。泥の跳ねた軽トラック。それと、車庫のあの黒い車と、十四億円という数字。「あの、それなら…」。言おうとして、私は言い淀んだ。それでも、聞かずにはいられなかった。「それなら、なんでこの店をやってるんですか?」。聞いてから、しまったと思った。失礼な聞き方だった。けれど、宗介さんは気を悪くせず、むしろ待っていたような顔をした。「会社が大きくなっても、俺の原点はこの店なんです」。宗介さんは湯気の出ている作業場の方を見た。「この釜と、この水と、この豆腐を捨てたら、意味がない。向こうの料理長が食べたいと言ってるのは、工場のじゃなくて、この釜のなんです。だから、この店を畳んだら、会社の方も終わる」。そう言ってから、宗介さんは少し笑った。「まあ、それは建前かもしれないですけど。本音を言うと、俺はここで豆腐を作ってるのが、好きなんです」。その言い方に、私は胸を突かれた。好きだからやっている。そんなことを堂々と口にする大人を、私は初めて見たのだと思う。

九月に入って、私は帳簿を手伝うようになった。宗介さんが持ってきた伝票を見て、私は思わず声を出した。数字が合っていないのではない。整理の仕方が、あまりにも力業だった。「宗介さん、これ、全部手で出してるんですか?」。「そうです。毎月、毎月」。私は九年間、印刷会社で伝票を打ってきただけの人間だ。けれど、この帳簿を綺麗にすることはできた。私は取引を並べ替えて、地元向けと料亭向けと海外向けを分けた。分けてみて、私は初めてこの店の本当の形を見た。地元で売っている豆腐は、赤字だった。大豆の値段と燃料と人件費を割り付けると、一丁百八十円ではまるで足りない。足りない分は、料亭向けと海外向けの利益から回されていた。「宗介さん、これ、地元の分は?」。「うん、持ち出しです」。「値上げしないんですか?」。宗介さんは伝票の束を揃えながら、あっさりと言った。「しません」。

タク君の話を聞いたのも、この頃だった。夕方、店じまいの後で、タク君が縁側の木の下に座ってため息をついていた。「いやあ、親がまた言うんですよ」。「何を?」。「豆腐屋なんか、いつまでやるんだって。うちの親、中野原で床屋やってるんですけど、同級生がみんな県庁所在地の方に出て、大きい会社に入ってるから」。「そう」。「志乃さんは、何も思わないんですか?こんな山の中で」。私は少し考えてから、答えた。「思うよ、時々」。「やっぱり」。「でもね、私はここに来るまで、自分で選んだものが一つもなかったの。だから、ここが山の中でも豆腐屋でも、あんまり関係ない」。タク君は「うわ、重」と言って笑った。私も笑った。笑ってから、私は自分の言ったことに少し驚いていた。「ここに来るまで、自分で選んだものが一つもなかった」。そんなことを誰かに口にしたのは、初めてだった。

秋が来て、山の色が変わった。十一月には、作業場の湯気が外の空気に触れてすぐ白くなった。十二月に入ると、水も夏より温かいくらいなのに、濡れた手を空気に晒した瞬間、指の感覚を持っていかれるようになった。そして、年末が来た。豆腐屋の十二月二十八日から三十一日は、一年で一番忙しい。地のし、鏡餅、年越しの前。この四日間だけで、普段の二週間分が動いた。二十八日の朝、のれんを出すのと同時に、店の前に行列ができた。こんな山の町のどこに、これだけ人がいたのかと思うくらい、次から次に来た。「絹ごし五丁!木綿三丁!油揚げ十枚!」。注文は伝票に書ききれず、途中からエプロンのメモに走り書きをした。宮子さんが包み、私が受け取り、タク君が裏から運んでくる。宗介さんと戸田さんは作業場に入りっぱなしで、朝から一度も座らなかった。

昼を過ぎて、ようやく列が切れた。私は店の上がり口に腰を下ろした。足の裏が石みたいに硬い。エプロンの前は水で濡れて、手はいつも以上に赤かった。それなのに、私は笑っていた。自分でも変だと思った。こんなに疲れているのに、体の芯が温かかった。必要とされているというのは、多分こういうことなのだと思った。二十九年間、私は家で必要とされてきたつもりでいた。けれど、あれとこれは、何かが違った。ただ、この列に並んだ人たちは、みんな「ありがとう」と言って帰っていった。あの家では、一度も言われたことのない言葉だった。

私はその年末、初めてにがりを打たせてもらった。きっかけは二十八日の午後だった。店の方が一息ついて、タク君と戸田さんが包みに回っていた。作業場に、宗介さんと私だけがいた。「志乃さん、手、空いてますか?」。「はい」。「じゃあ、これ、やってみますか」。差し出されたのは、柄の長い木のヘラと、にがりを入れた小さな瓶だった。私は首を横に振った。「無理です。私、できません」。「できないですよ、最初は。じゃあ、なんで、そのうちできるようになるからです」。そう言われても、私の手は動かなかった。失敗したら、また六月のようになる。せっかく作ったものを、私がダメにする。それが怖かった。宗介さんは私の顔を見て、何かを察したようだった。「志乃さん」。「はい」。「これ、失敗したら、俺が困ります。だから困るけど、それだけです。あなたがここにいていい理由が、減ったりはしません」。私はヘラを見つめた。「いていい理由」。その言葉を、私はこの人に一度も言っていない。言っていないのに、この人はそれを知っていた。私は、木のヘラを受け取った。

にがりを打つ作業は、思っていたより静かだった。豆乳の入った桶の温度を測る。宗介さんが横で「もう少し」と言う。私はにがりを少しずつ落として、ヘラで大きく二回だけ混ぜる。そこから待つ。木綿なら、ここからが長い。寄ったものを崩して、布を敷いた型箱に移し、重しを乗せて水を抜く。抜けたら水槽に沈めて、冷めるまでさらす。年越しはそれをしないのだと教わった。桶の中で、白い液体がゆっくり変わっていく。表面の光り方が変わって、ヘラを入れると重さが変わって、やがて雲のような塊があちこちに浮かんでくる。

一回目は失敗した。失敗した分は、宗介さんが黙って崩して、木綿の型箱に移した。「これはこれで、売れます」とだけ言われた。にがりを入れるのが早すぎたと言われた。固まったものが、硬くてボソボソになっていた。私は「すみません」と言った。宗介さんは「はい、次」と言った。次の日も失敗した。今度は、遅すぎた。

その次の日に、それは起きた。にがりを落として、二回混ぜて、ヘラを引き上げた時、桶の表面がふっと動いた。ゆっくり、静かに、白いものが寄っていった。水の中で雲が生まれるみたいだった。宗介さんが私の横で、小さく言った。「できましたね」。「これ、いいんですか?」。「いいです。それ、うまいやつです」。私はヘラを持ったまま、桶の中を見ていた。自分の手が作ったものが、そこにあった。二十九年生きてきて、私が作ったものを「これはいい」と言われたのは、初めてだった。その時、私の手は相変わらずひび割れていた。指の関節は赤く、爪の周りは荒れていた。それでも、その手は今、雲を作っていた。

大晦日の朝、私はその豆腐を店に出した。寄せ豆腐は元々、店に並べるものではない。崩れやすいからだ。頼まれた家にだけ、その日の分を器で分ける。年末はその注文が一番増える。朝の七時ののれんを出すと、いつものようにスミさんが来た。杖をついて、坂を下りてゆっくり歩いてくる。「おはよう。今年も世話になったね」。「こちらこそ。あの、スミさん」。私は器を出した。「これ、味を見てもらえませんか?」。「あら、なんだい」。「寄せ豆腐です。私が作りました」。スミさんは目を細めて、器を見た。それから店先のベンチに腰を下ろして、私の渡したスプーンで一口、掬った。口に入れて、しばらく黙っていた。長い沈黙だった。私は自分の心臓の音が聞こえるほど、緊張していた。やがてスミさんはスプーンを持ったまま、正面を向いたまま、こう言った。「誠一さんのだ」。え。「あんた、これ、誠一さんの豆腐だよ」。スミさんの目から、涙が落ちた。深い頬を、すっと降りていった。スミさんは拭わなかった。「うちの人が病気で寝てた時ね、誠一さんが毎朝、これを持ってきてくれたんだよ。うちの人は、もう何も食べられなくてね。それでも、これだけは食べたの。最後の日もね。だけは…」。私は何も言えなかった。「あんた、ここに来てくれて、ありがとうね」。その言葉は、私の一番柔らかいところに、まっすぐ入ってきた。「代わりに来た嫁」。この町の人がそう言っているのは、知っていた。スミさんも、知っていたはずだ。それでも、この人は「ありがとう」と言った。私はエプロンで顔を覆って、その下で声も出ないくらいに泣いた。スミさんは何も言わずに、私の背中を杖の持ち手でトントンと叩いていた。

その日の夜、店を閉めた後で、私は聞いた。「宗介さん、私、なんでスミさんにお父さんの豆腐だって言われたんでしょう」。宗介さんは手を止めて、少し考えてから言った。「にがりを落とすのが遅いからです。怖いから、手がゆっくりになる。ゆっくり入れると、柔らかく寄る。親父も、そうでした。あの人は、最後までにがりを怖がっていた」。宗介さんは片付けをしながら続けた。「スミさん、泣いてたって」。「はい」。「スミさんが泣くのを見たのは、俺は親父の葬式以来です」。私は洗ったざるを重ねながら、俯いていた。「志乃さん」。「はい」。「四月に初めてここに来た日のこと、覚えてますか?」。「覚えてます」。「あの時、俺、店の中から見てたんです。あなたがスミさんの杖を拾って、それからベンチに座って、五分くらい話を聞いてた」。「見てたんですか?」。「見てました。それで、この人だと思いました」。私は手を止めた。「前に、来てくれたのがあなたで良かったと言いました。あれ、慰めで言ったんじゃないんです。今日、はっきり分かりました。俺は、間違ってなかった」。

作業場にはまだ湯気の名残りがあった。裸電球が一つだけついていて、床の水溜まりに光が映っている。私はその水溜まりを見ながら言った。「私、まだ、代わりだと思ってます」。「はい」。「そう思うの、やめられないんです」。「うん。でも、いつか、やめられるといいですね」。「いつか」。その「いつか」が来るまでに、私はもう少し時間が必要だった。大晦日の夜、除夜の鐘が山の向こうから聞こえてきた。私はこの家に来て、初めて「来年」が楽しみだと思った。その気持ちが、一ヶ月も持たないことを、その時の私はまだ知らなかった。

年が明けて、柏尾に雪が来た。一月の柏尾は、私が想像していたよりずっと白かった。朝起きると、窓の外が全部消えている。屋根から落ちた雪が、軒下に山になって、そこを毎朝タク君と二人でスコップで掘る。配達も大変になった。トラックにチェーンを巻いて、坂を慎重に降りていく。もう一つ、雪の季節に怖いことがあると教わった。山からのパイプが凍ることだ。宗介さんは、雪の朝一番に水槽の落ち口を見に行く。

そんな一月の半ばに、実家から電話がかかってきた。家の電話が鳴ったのは、夜の七時過ぎだった。フユさんが取って、私を呼んだ。受話器を受け取ると、母の声だった。「志乃、あんた、元気にしてるの?」。「うん。元気だよ」。「ふん。ねえ、志乃」。母の声の調子が変わった。私はその変わり方を、よく知っていた。何かを頼む時の声だ。「あんた、随分いいところに嫁いだそうじゃない?」。私は受話器を握り直した。「どういうこと?」。「山田さんから聞いたのよ。ほら、あの縁談を持ってきてくれた人。あの人が、柏尾のご親戚から聞いたって。豆源さんは、本当は大きな会社をやってるんでしょ。年が何億も、あるんだって。それに、あんた、車庫に五千万の車があるんだって」。

耳の奥が、すっと冷たくなった。誰が言ったのだろう、と思った。けれど、分かる。宗介さんが料理長を迎えに行く時、あの車は坂を下って町を抜けていく。町の人は、みんな宗介さんの仕事を知っている。隠していないのだから、当たり前だ。隠していないものが、実家に届いた。それだけのことだった。「お母さん、それが、どうしたの?」。「別に、よかったわね、よ。でもね、かほがね、ちょっと言ってるのよ。あの話、元々自分に来たものだったのに、って。かほも、まあ、あの子も若いから。今度、そっちに行くから、その時にでも」。電話は、そこで切れた。私は受話器を持ったまま、廊下に立っていた。台所からフユさんが顔を出した。「ご実家?」。「はい」。フユさんは私の顔を見て、それ以上は何も聞かなかった。

三日後の日曜日、実家の車が店の前に止まった。日曜は店は休みだ。私は洗濯物を干していた。エンジンの音がして、窓から見下ろすと、見覚えのある白いセダンが坂を上がってくるところだった。心臓が、きゅっと縮んだ。降りてきたのは三人だった。父、母、妹。妹は膨らんだ白いコートを着て、ヒールのある靴を履いていた。柏尾の雪道でヒールを履く人を、私はそれまで見たことがなかった。妹は車を降りたところで、いきなり滑って、母の腕にしがみついた。「何これ?歩けないじゃん」。その声が、二階の窓まで届いた。

私が階段を降りて行くと、宗介さんがもう玄関で対応していた。作業着ではなく、休みの日のセーターを着ていた。「わざわざ雪の中を、どうぞ、お上がりください」。「いや、突然すみません」。「まあまあ、こんな立派な…」。お宅。という言葉が、私の耳に刺さった。去年の春まで、母はこの家を「随分古いお店」と言っていた。座敷に通して、フユさんがお茶を出した。私は入り口のところに座った。

最初の十分は、当たり障りのない話だった。雪のこと、道のこと。父が「息子さんは、会社もやっておられるそうで」と言い、宗介さんが「小さいものです」と答えた。それから母が湯呑みを置いて、こう言った。「あのね、奥山さん。実はね、今日は、少しお願いに来たんです」。「はい」。「このお話は、下の娘に来たものだったでしょう」。座敷が静かになった。「かほは、あの時まだ若くて、よく分かっていなかったんです。田舎は嫌だとか、そんなことばかり言って。でも、今は違うんですよ。この子も、この町の良さが分かるようになって…」。妹が背筋を伸ばした。ちゃんと練習してきたのだと分かる言い方で、こう言った。「あの、私、あの時のこと、反省してます。やっぱり、私が嫁ぐはずだったのに、勝手なことを言って」。そして、私の方を見た。「お姉ちゃん、悪いんだけど、席を返してよ」。

席。妹は言った。座敷の座布団でも指すみたいな、言い方だった。私は膝の上の自分の手を見ていた。ひび割れた、赤い手だった。父が、一つ喉を鳴らしていった。「本来はね、妹の縁談だったんですから。筋を通した方がいいと、私も思うんです」。母が頷いた。「志乃だって、無理をしてきたんですから。かわいそうでしょ」。

かわいそう。私を身代わりにした人たちが、私を「かわいそう」と言った。何か言わなければいけない、と思った。頭では分かっていた。ここで言わなければ、私はまたあの家に戻ることになる。けれど、口が開かなかった。二十九年だ。私は二十九年かけて、「言わない」という筋肉だけを鍛えてきた。言えば母が泣く。言えば場が壊れる。言えば私が悪者になる。その回路が、いざという時、私の喉を押さえた。私は黙っていた。膝の上で手を握って、俯いていた。

その時、宗介さんが湯呑みを畳の上に置いた。かちん、と小さな音がした。「お話は、分かりました」。宗介さんは怒鳴らなかった。ただ、いつもより少しだけゆっくり喋った。「つまり、僕に、離婚しろとおっしゃっている。そういうことで、よろしいですか?」。母が、口を開けたまま止まった。「僕が妻として迎えたのは、彼女です。誰かの代わりでは、ありません」。母の顔が固まった。「でも、その縁談は、私に来たものでしょ」。「はい。話の順番は、そうです。でも、縁談は書類じゃありません。席でもありません。返す、返さないというものでは、ないんです」。妹が言い返そうとして、言葉に詰まった。何を言えばいいのか、分からないという顔だった。「それに、僕は去年の三月のあの日のことを、覚えています」。「え?」と母が言った。「あの日、皆さんがこの店に来られた日です。あの日に見たことを、僕はまだ全部お話ししていません。今日は、お話ししません。お話しすると、多分、皆さんが帰りにくくなるので」。座敷が、浸透した。父の顔から血の気が引くのが、私にも分かった。母は湯呑みに手を伸ばして、持ち上げずに、また置いた。「雪が積もりますから、暗くなる前に出た方がいいです。坂は、下りの方が危ないので」。

三人は帰った。玄関で母が何か言おうとして、うまく言えずに、「またね」と言った。私は「うん」と言った。車が坂を下っていく音を、私は玄関に立って聞いていた。音が消えてから、私は宗介さんに頭を下げた。「すみませんでした」。「志乃さんが謝ることじゃないです。でも、志乃さん」、宗介さんは玄関の土間に立ったまま私を見た。「あれは、僕が言うべきことでした。だから、僕が言いました。それだけです」。そう言って、宗介さんは作業場の方へ歩いていった。私はそこに残って、しばらく外を見ていた。

「あの日に見たこと」。宗介さんは言った。私は、聞かなかった。聞いてしまったら、もう実家に電話ができなくなる気がした。守られた。確かに、守られた。宗介さんが言ってくれた言葉は、私が一生忘れないだろうと思うくらい、真っすぐな言葉だった。それなのに、胸の底に石が入ったみたいだった。妹に「席を返して」と言われて、父に「筋を通せ」と言われて、母に「かわいそう」と言われて。それでも、私は自分の口から、何一つ言えなかった。言えなかったのだ。二十九年やってきたことは、そう簡単には変わらなかった。

その夜、私は眠れなかった。布団の中で、天井を見ていた。頭の中で、あの座敷の場面が何度も繰り返された。その度に、「言うべきだった言葉」を考えた。考えて、考えて。けれど、どれもあの場では言えなかっただろう、と思った。夜中の二時頃、一階で水の音がした。宗介さんが起きて、仕込みを始めたのだ。日曜の夜でも、月曜の朝は来る。私は布団を出て、階段を降りた。作業場を覗くと、宗介さんが一人で豆を洗っていた。「あれ、まだ起きてたんですか?」。「眠れなくて」。「そうですか」。私は入り口に立って、宗介さんの手元を見ていた。ざるの中で、水を吸った大豆が、ざらざらと重い音を立てていた。「宗介さん」。「はい」。「私、か、自分で言えるようになりますか?」。宗介さんは手を止めなかった。「なりますよ」。「なんで、そう思うんですか?」。「にがり、打てるようになったでしょ」。私はその返事に、ふっと笑ってしまった。全然理屈になっていない。けれど、その夜一番私を楽にしたのは、その理屈になっていない一言だった。

二月の初め、古沢さんが店に来た。古沢松尾さん、八十八歳。この町で一番年上だ。若い頃は猟師をやっていて、山の見回りもしていた。誠一さんとは年が一回り以上離れていて、山のことは何もかも古沢さんが教えたのだという。その日、古沢さんはいつもと様子が違った。豆腐を買わずに、いきなりこう言った。「宗介、上の山に、人が入ってるぞ」。宗介さんが手を止めた。上の山というのは、滝の入りの上だ。「こっち側。重機が二台、上がってた。俺の見間違いじゃない。テープが張ってあった。まだ杭はきっと打ってない。測量の段階だ」。宗介さんの顔から、表情が抜けた。

その日の午後、宗介さんは軽トラックで山へ上がった。帰ってきたのは、三時間後だった。作業着のまま、宗介さんは座敷に上がった。フユさんと戸田さんも、呼ばれた。「丸山さんの持ち山が、売られていました」。丸山国さん、六十二歳。町の外に住んでいて、滝の入りの上の山を相続した人だ。私は名前だけ、聞いたことがあった。「去年の秋に、丸山さんのお父さんが亡くなって、丸山さんが山を相続したそうです。それで、業者に売った。買ったのは県外の土木の会社です。看板が立っていました」。「増って、何の?」。「土砂の中間処理場です。よそから出た土を持ち込んで、選り分けて、また出す施設だと、書いてありました。山としては二束三文でも、施設の用地としては高く売れる。買い戻すなら、その見込み分まで乗ってきます」。戸田さんが、初めて口を開いた。「水は」。たった一言だった。でも、その場の全員が、同じことを考えていた。「削るのは、こっち側です。うちの湧き水の、真上になります」。指先が冷えていくのを感じた。七月に宗介さんが言った言葉が、そのまま頭に響いた。「山を守るのは、水を守るのと同じことなんだ」。その山が、削られる。

翌日から、私は事務仕事の合間に調べ物を始めた。町役場で書類を見せてもらい、図書館で本を借りた。九年間伝票を打っていただけの私にできるのは、これくらいだった。まず、面積が広い林地の開発には、県の許可が必要だということ。そして、許可の前に、地元へ説明会をすることになっているということ。さらに、地元の人なら誰でも、県に反対の理由を書いて出せること。意見書というもの。それが何通集まっても、許可を止める力はない。ただし、県は必ず目を通して、業者に答えさせなければならない。私はそれを紙にまとめて、宗介さんに見せた。「志乃さん、これ、全部調べたんですか?」。「調べただけです。分かってるわけじゃないです」。「いや」。宗介さんは紙を上から下まで読んで、それから顔をあげた。「助かります。俺、こういうのが本当に苦手で」。その言い方に、私は少しだけ嬉しくなった。私にも、できることがある。それが分かるだけで、体の中に力が入った。

説明会は、二月の終わりに町の公民館であった。夜の七時からで、集まったのは三十人だった。ほとんどが、年寄りだった。前の方に机が並んで、業者の人が三人座っていた。資料を配って、地図を広げて、説明した。言っていることは、丁寧だった。丁寧だけれど、何が何だか分からない。図面の記号、専門の言葉、届け出の名前。年寄りたちは、みんな資料を裏返したり、顔を見合わせたりしていた。やがて、後ろの方から声が出た。「水は、どうなる?」。古沢さんだった。杖をついて、立ち上がっていた。業者の一人が答えた。「適切に管理いたします。基準は守ります。周囲への影響が出ないよう、配慮いたします」。「配慮じゃ、わからん。水は、どうなる?」。同じ答えが返ってきた。古沢さんは杖の柄を握って、しばらく立っていた。それから、座った。座る時に、小さくこう言った。「誠一が、生きてりゃなあ」。私はその言葉を、はっきり聞いた。

会が終わって外に出ると、星が出ていた。宗介さんは業者の人と何か話している。私は玄関で待っていた。そこへ、スミさんの隣の家のおばあさんが来て、私の袖を引いた。「あんた、あれかい?豆源さんの若いお嫁さん」。「はい」。「スミさんね、あの人、この頃店に来られなくなってね。雪で転んだの。骨は折れなかったけど、腰がねえ」。私は、そのことを知らなかった。確かに、一月の半ばから、スミさんは店に来ていない。雪だから、休んでいるのだろうと思っていた。

翌朝、私はチェーンを巻いた軽トラックで、スミさんの家へ豆腐を持っていった。坂を登って、細い道に入り、板葺きの家の前に止める。玄関を叩くと、しばらくしてスミさんが、腰を手で抑えながら出てきた。「あら、あらまあ。絹ごしと、寄せ。持ってきました」。「あら、私、頼んでないよ」。「はい。頼まれてません」。「お金、いくら?」。「絹ごしが百八十円と、寄せが三百円です」。スミさんはエプロンのポケットから財布を出して、小銭を数えた。数える手が、震えていた。私は待っていた。お金を受け取って帰ろうとすると、スミさんが背中に声をかけた。「志乃さん」。はい。「あんたね、誠一さんに似てるよ」。私は振り返った。「あの人もね、こうやって持ってきたんだよ。頼んでないのに」。

その日から、私は配達を始めた。町の一番奥から坂の下の集落まで、歩けなくなった人の家を回る。最初は五件。三月には、十一件になった。配達に回るようになって、私は町の人の顔と名前を覚えた。誰がどの豆腐を好きか。誰が一人暮らし か。豆腐を渡すのに五分。話を聞くのに十五分。効率は悪かった。宗介さんは、何も言わなかった。

そして、三月の初め、私は帳場の引き出しの奥から、古い帳面を見つけた。帳簿の整理をしていた時だ。一番下の引き出しの奥に、紐で閉じた分厚い帳面が押し込まれていた。表紙に「納品覚え」と書いてある。誠一さんの字だった。開くと、家の名前がずらりと並んでいた。中尾スミさんの家だ。古沢。丸山。私が配達で回っている家の名前も、たくさんあった。日付ごとに、豆腐の数が書いてある。「絹ごし二丁、木綿一丁、寄せ一つ」。そして、代金の欄があった。その欄が空白の家が、いくつもあった。パラパラめくっていくと、空白は一回や二回ではなかった。同じ家が、何ヶ月も、何年も、空白のまま続いている。

私は帳面を持って、台所へ行った。フユさんが漬け物を出していた。「フユさん、これ」。フユさんは手を拭いて、帳面を受け取り、ページをめくって、少し目を細めた。「そうすけど、父さんがね、四十年、つけてたんだよ」。「この、代金の開いてるところは、取らなかったの?」。私は黙った。「年金の出る月と出ない月があってね。ない月は、払えない家があるんだよ。あの人はね、それでも持っていくの。持っていって、書くだけ書いて、代金は書かない。私はね、何度も怒ったよ。うちも楽じゃないんだからって」。フユさんはそこで、帳面のページに手を置いた。「そしたら、あの人、こう言うんだよ。『こっちが取らんでも、あっちは食っとる』って」。「こっちが取らんでも、あっちは食っとる」。私はその言葉を、口の中で繰り返した。「そのくせ、自分の車はボロボロの軽トラでね。三十年、同じのに乗ってた」。私は帳面を膝に置いて、あることを思い出した。車庫の後部座席に置かれた、色の抜けた座布団のことだった。

三月の半ばに、店に一人の男が訪ねてきた。黒瀬慎司と名乗った。四十八歳。明和食品という会社の常務だという。名刺を見て、私は少し驚いた。名前を聞けば、誰でも知っている会社だった。黒瀬さんは物腰の柔らかい人だった。座敷に上がって、宗介さんと二時間近く話をした。私はお茶を出しに入っただけだったけれど、部屋を出る時に聞こえた言葉が、耳に残った。「山の件は、うちの方で買い取ることもできますよ」。

その夜、宗介さんが私に書類の束を渡した。「志乃さん、これ、読んでもらえますか?」。「私が、ですか?」。「俺、多分、都合のいいところしか読んでない」。私は部屋に持ち上がって、夜中まで読んだ。書いてあることは、こうだった。明和食品が、株式会社豆源の株を買う。宗介さんは役員として残る。取引先は、そのまま引き継がれる。そして、明和食品が金を出して、丸山さんとの売買を白紙に戻す。山は止まる。ただし、白紙に戻せば、丸山さんは受け取った代金を業者へ返さなければならない。返せば、相続税が払えなくなる。その分も、明和食品が持つ。それだけの資金力がある会社だった。つまり、この話を受ければ、水が守れる。読み進めて、私は十ページ目の下の方で止まった。小さな字で、こう書いてあった。「柏尾の店舗については、三年以内に閉鎖し、製造を中野原工場へ統合する」。私はその一文を、三回読んだ。

翌朝、書類に付箋を張って、宗介さんに返した。宗介さんは付箋のところを開いて、その一文を長い間読んでいた。それから、書類を台の上に置いて、こう言った。「そうか」。「気づいてなかったんですか?」。「うーん。でも、字で見ると、違うな」。宗介さんは釜の方を見た。まだ火が入っていなかった。縁の一箇所が欠けた、小指の先くらい欠けた、昔からの釜。それが裸電球の下で、黒く黙っていた。そして、宗介さんはこう言った。「畳もうか」。

私は、自分の耳を疑った。「え…」。この話を受ければ、明和さんが金を出して、山を丸山さんの手に戻してくれる。山は止まる。滝の入りは削られない。水は残る。引き換えに、三年でこの店を畳む。「前に、この店を畳んだら会社も終わると言いました。あれは、思いたかっただけなのかもしれない」と宗介さんは言った。「うちは中野原の水を使ってる。このお店がなくなっても、豆源という会社は、多分続く。店一つと、水と、どっちを残すかという話なんです。その方が、いいのかもしれない」。

私は、その時何を考えたのか、後になってもうまく説明できない。体が、先に動いた。「だめです」。声が出た。自分でも驚くくらい、大きな声だった。宗介さんが、振り返った。「だめです。畳んだら意味がないって言ったのは、宗介さんです。この釜と、この水と、この豆腐を捨てたら意味がないって。私、それを聞いて、この人はすごいって思ったんです」。「志乃さん」。「スミさんは、この釜の豆腐を食べたいんです。工場のじゃないんです。誠一さんが持っていった豆腐は、この釜のです。畳ませません」。言ってしまってから、私は自分の手が震えていることに気がついた。私は今、宗介さんに逆らった。この家に来て、初めて、私は人に「だめです」と言った。宗介さんは、しばらく黙って私を見ていた。それから、両手で顔を一度拭った。「そうだな。ごめん」。そして、釜に火を入れた。マッチの音がして、青い炎が回った。「畳もうか」と言った人と同じ人の手だった。

その週、東京から人が来た。柴田正幸さん、六十五歳。東京の料亭「梅本」の料理長だ。豆源の取引先で、一番古く、一番大きな相手だという。宗介さんが山のことを電話で話したら、次の休みに自分で来ると言ってきたそうだ。柴田さんは新幹線と在来線を乗り継いで、三時間半かけて駅に着いた。宗介さんは、あの黒い車で駅まで迎えに行った。夕方、座敷に膳を出した。私が作った煮物と、寄せ豆腐を出した。柴田さんは寄せ豆腐を一口食べて、目をつぶった。それから、宗介さんに聞いた。「これ、介君が打ったの?」。「いえ、志乃が打ちました」。柴田さんが、私を見た。私は縮み上がった。「お嫁さん、それを打ち始めたのは、いつから?」。「あの、去年の暮れからです」。「三ヶ月」。柴田さんはもう一口食べて、スプーンを置いた。「うちの若いのに、これを打てるのが、何人いるかな?」。宗介さんが笑った。私は顔が熱くなって、俯いた。それから柴田さんはお茶を一口飲んで、こう言った。「奥さん、一つ聞きたいことがあるんだけど」。「はい」。「あの車、乗った?」。私は「え?」と言った。「駅から乗せてもらってきたやつ。すごいな」。「あ、いえ、私は運転してません」。「そう」。柴田さんは湯呑みを両手で包んだ。「あの車の話、聞いてる?」。「仕事でお客様を迎えるのに使うと」。「うん。それは、そうなんだけどね」。柴田さんは宗介さんを見た。宗介さんは、少し困った顔で目をそらした。「宗介君。話していい?」。「どうぞ」。

柴田さんは湯呑みを畳に置いて、私の方を見た。「あれね、僕のせいなんです」。もう、十年以上前の話だった。柴田さんは当時、新しい仕入れ先を探していた。人伝てに豆源の名前を聞いて、自分の目で見に行くことにした。着いたのは、柏尾駅の無人改札だった。そこに、軽トラックが止まっていた。「誠一さんがね、迎えに来てくれたんです。白い軽トラで、荷台に木箱が積んであってね。僕はね、それを見て、ああ、いいなあ、と思ったんですよ。東京の店の前には、毎日、黒塗りの車が並ぶ。うちの旦那衆が乗ってくる車だ。僕はそれを厨房から見て育った。だからね、軽トラの助手席に座らせてもらったのが、本当に嬉しかったんです」。柴田さんはそこで、少し笑った。「シートが硬くてね、窓が閉まらなくて、山の匂いがした。僕はあの十二分で、この店から仕入れようと決めてました。豆腐を食べる前に」。私は頷いていた。私にも、あの十二分の記憶がある。「でもね」。柴田さんの顔から、笑みが引いた。「誠一さんは、それをずっと悔んでいたんです」。「悔んでいた?」。「うん。会うたびに謝られました。『あんな車に乗せてしまって、申し訳ない』って。僕が何度、嬉しかったと言っても、聞かないんです。最後に話した時にも、言われました。亡くなる、一ヶ月前。あれは電話でしたけどね」。柴田さんは天井の方を見上げた。「こう言われたんですよ。『うちの豆腐は、日本一だと思っとる。ここは、ずらんだけど、あなたを軽トラの助手席に乗せたのだけは、悔いが残る』って」。座敷が静かになった。外で、風が鳴っていた。三月の柏尾の夜は、まだ冬の風だった。「僕はね、ずっと考えてたんです。あの人は、何が悔しかったんだろうって。多分ね、自分のことじゃないんですよ。自分の豆腐に、それだけの敬意が払われてないと思ったんだ。日本一の豆腐を、日本一の座敷に届けるのに、あの車では足りないと。そうしたら、誠一さんが亡くなって、何年か後にね、挨拶に車が来たんです」。柴田さんは、宗介さんの方を見た。宗介さんは畳を見ていた。耳が赤くなっていた。「僕は乗る時に笑いましたよ。『宗介君、俺はやりすぎだ』って。そしたら、この人、何て言ったと思います?」。柴田さんは私に向かって言った。「『親父の宿題です』って」。私は、口を押さえた。そして、あのことを思い出した。「あの後ろの席の…」。「ああ、座布団ね。あれ、誠一さんが軽トラの助手席に敷いてたやつです。僕が座ったやつ。宗介君が、それを新しい車の後ろに敷いてるんですよ。革の上に、色の抜けた座布団を」。私は、何も言えなかった。五千万円の車の後部座席に、色の抜けた座布団が一枚。意味が分からないと思っていた。間違いだと思っていた。そうではなかった。あれは、あの車の一番大事な部分だった。

山の話は、その晩、一度だけ出た。「それは、僕の問題でもある」とだけ言って、柴田さんはそれ以上は言わなかった。その柴田さんが休まれてから、私は作業場に行った。戸田さんが一人で、道具を洗っていた。日曜の夜に道具を洗っているのは、戸田さんの習慣だった。私は隣に立って、しばらく黙っていた。それから、聞いた。「戸田さん」。「うん」。「宗介さんが、海外に売り始めたのは、いつからですか?」。戸田さんは手を止めた。ざるを水につけたまま、しばらく動かなかった。それから、ぽつりと言った。「七年前だ」。七年前。誠一さんが死んだ年だ。私は息を吸った。「フユさんから聞いた。あんた、帳面見たろ?」。「はい」。「誠一さんが死んだ時、あの帳面の空白を足したら、二千百万を超えとった。四十年分の、取らなかった豆腐代だ。宗介が嫁いで、まず言われたよ。『この店は無理だ』って。近所にも、周りにも。『地元の豆腐をやめるか、値段をあげるか、どっちかだ』と言われた。宗介さんは、どっちもやらんと言った」。戸田さんは、ざるを引き上げて、水を切った。「その分、外回りを始めた。東京、大阪、それから外国。年に何回も家を空けて、あれは一人で飛行機に乗って、言葉も分からんところで、頭を下げてきたんだ。七年だ。七年かけて、百二十件にした」。戸田さんは、私の方を見た。「あんた、なんでだと思う?」。私は、答えられなかった。答えは、分かっていた。分かっていたけれど、口にすると、涙が出そうだった。「地元の豆腐を、一丁も値上げさせんためだ。百八十円のままにするために、あいつは外国まで行った」。戸田さんはざるを伏せて、水切りを閉めた。返す言葉が、私にはなかった。「言うなよ。あいつ、この話を人にするのが嫌なんだ」。「はい」。「あんたには、言っといた方がいいと思ったんだ」。そう言って、戸田さんは作業場を出ていった。

私は一人になってから、帳場へ行って、あの納品覚えを出した。一番最後のページを開いた。日付は、七年前の五月だった。誠一さんが亡くなった月だ。最後の行の下に、余白があった。その余白に、字が書いてあった。日付ごとの記録ではない。走り書きだった。かすれた、太い字が、少しだけ震えていた。そこには、こう書いてあった。「宗介、水を守れ」。それだけだった。言葉は、それだけで、後は何も書いていなかった。豆腐のことも、店のことも、金のことも、何も書いていなかった。「水を守れ」。私はその一文を、指でなぞった。そして、この一年に見てきたことが、全部、一本の線につながった。車庫の黒い車。色の抜けた座布団。一丁百八十円の豆腐。空白の代金欄。七 年の外回り。壁に貼られた水質の検査結果表。そして、削られようとしている山。私は帳面を持って、作業場へ行った。宗介さんは、一人で豆を洗っていた。私が帳面の最後のページを開いて差し出すと、宗介さんは手を止めて、それを見た。長い間、見ていた。「知らなかった。フユさんも、戸田さんも、知らなかったんでしょうか?」。「母さんは、多分、知ってた。母さんは、俺に継がせたくなかったんです。あの一行を見せたら、俺が絶対に降りられなくなると、分かっていたんだと思う」。宗介さんは濡れた手を前掛けで拭いて、その一行をもう一度、読んだ。「親父は、豆腐のことは、何も書いてない」。「はい」。「水のことしか、書いてない」。その夜、私は初めて、私自身のために、この店を守りたいと思った。

その翌朝、私は台所でフユさんに帳面を見せた。フユさんは最後のページを長いこと見て、それから頷いた。「知ってたよ。あの人が死んだ晩に、私が先に見つけたの。なぜ宗介さんに見せなかったか。あの子に、あの一行を見せたら、あの子は水のために店を潰すと、思ったからだよ。あの頃のあの子は、一人だった。一人で背負わせたら、折れる」。フユさんはそこで手を止めて、私を見た。「今なら、見せてもいいと思ったの。あんたが、いるからね」。「いていい」と言ってもらうためでは、なかった。追い出されないためでも、なかった。私が、守りたかった。

三月のうちに、私たちは意見書を出した。町内の四十人分の署名も、添えた。それでも、四月の終わりに、県の許可が降りた。「基準は満たしている」。それが、県の答えだった。そして、山で木を切る音が始まった。朝、作業場にいると、山の方から低い音が響いてくる。チェーンソーと、重機が地面を噛む音だ。音は、毎日少しずつ大きくなった。宗介さんは、県庁と町役場に通い続けた。話し合いを申し入れ、断られ、また申し入れた。私は、書類を作り、名簿を打ち直した。明和食品の黒瀬さんからは、月に二回、丁寧な手紙が届いた。「決断が遅れるほど、山は削られてしまいます」。と書いてあった。

そして、五月の連休明けに、雨が降った。三日続いた、大雨だった。山の斜面から泥水が流れ落ちて、道の側溝が茶色く濁った。雨が上がった翌朝、私はいつものように作業場の水槽を見に行った。そこで、足が止まった。水が、白っぽかった。透明ではなかった。ほんの少し、乳のような色がついていた。掬って手のひらに乗せると、分かるかどうかというくらいの差だった。それでも、毎朝この水を見てきた私には、分かった。私は携帯電話を出して、水槽の水を写真に撮った。何かの役に立つとは、思っていなかった。ただ、この色を残しておかなければいけない気がした。宗介さんを呼んだ。宗介さんは水を掬って、しばらく光に透かしていた。「今日は、やめます」。

その日から、丸二日、豆源は豆腐を作らなかった。宗介さんは朝から、電話をかけ続けた。東京にも、大阪にも。うちの豆腐を待っている店に、一件ずつ、「水が戻るまで、出せない」と頭を下げた。前の日に出した分の水がどうだったかも、隠さずに伝えた。どの店も、事情は分かってくれた。中でも、柴田さんはこう言ったそうだ。「待つよ。よそ様を入れる気はない」。検査に出した水の結果は、二日目の夕方に届いた。基準を超えていた。この水では、豆腐は作れなかった。店の引き戸には、初日から紙を張ってあった。「都合により、お休みします」。と書いた紙だった。

その日の夕方から、店に人が来始めた。豆腐を買いにではない。話を聞きに来るのだ。夜には座敷に、七人が集まっていた。古沢さんも、いた。そして、三日目の夜が明けて、あの日だった。フランスから、ベルナールさんが来る日だった。ベルナールさんは、パリで日本料理の店をやっている。豆源とは四年の付き合いで、毎年この時期に日本へ来る。去年は連休の前で、私とは入れ違いだった。今年は、山の話も聞きたいと言ってきていた。到着は昼前。空港からここまで、車で二時間四十分だ。

問題は、その日の朝に起きた。宗介さんに、県から連絡が入ったのだ。造成の件で、その日の午後に話ができるという。相手から時間を作ってきた話で、断れなかった。宗介さんは県庁所在地まで出る。片道一時間半。戻りは、早くても夕方だ。戸田さんは「俺は、ここを開けられん」と言った。三日分の濁った水を、パイプから全部抜いて、水槽を洗い直す作業が、その日から始まることになっていた。作業場を離せる人は、いなかった。「これ、免許ありますけど、あの車で迎えに行くのは、運転手の仕事じゃないんだ。二時間四十分、うちの水と豆腐の話をしながら、お客様を店まで連れてくる仕事なんだ。俺、まだ店のことを、人にうまく喋れないっす」。作業場が、静かになった。私は、自分の手を見ていた。それから、口を開いた。「私が、行きます」。三人が、私を見た。「志乃さん」。「軽トラは、毎日乗ってます。配達で、山道も走ってます」。「あれは、軽トラとは違う」。「違うのは、知ってます」。私は言葉を探した。うまく言えなかったけれど、言わないと、動かないと思った。「でも、あの車を出さないと、空港から店まで乗ってもらう車がありません。うちのお客様を、迎えに行かないわけには、いかないです」。

「うちのお客様」。自分でそう言った時、胸の奥で、音がした。いつの間にか、私はこの店を「うち」というようになっていた。宗介さんは、私の顔をしばらく見ていた。それから、ポケットから鍵を出した。「はい。去年から、志乃さんの分も、入れてあります」。そんなことを、この人は一年前から決めていたらしかった。

車庫の引き戸を開けた。一年前と同じ、錆びたレールの音がした。一年前と同じように、そこに黒い車がいた。けれど、一年前とは、何もかも違って見えた。ボンネットの下から細いコードが出て、壁のコンセントに繋がっていた。バッテリーをつなぎっぱなしにする道具だと、後で知った。コードを外して、運転席に座り、エンジンをかけると、音がほとんどしなかった。出る前に、後ろを振り返った。後部座席の真ん中に、色の抜けた座布団があった。私はそれを、両手でそっと整えた。坂を降りるのは、十分かけた。誰も乗っていないのに、ブレーキをそっと踏んだ。

山を越えて、空港へ向かった。二時間四十分。何度も、路肩によって、後ろの車を先に行かせた。到着口に、ベルナールさんは立っていた。背の高い、白髪交じりの人だ。木箱を一つ、抱えていた。銘柄の分からない、土産のワインだった。「すみません。今日は、山のことで役所に行ってます。私は、妻の志乃です。私が運転します」。ベルナールさんは、目を丸くして、それから笑った。「奥さんが?うん。いい」。

帰りの二時間四十分を、私は一生忘れないと思う。最初の一時間、ベルナールさんは外を見ていた。山が近くなってきた頃、後ろの席から声がした。「山、削ってる」。バックミラーを見ると、ベルナールさんが窓の外を見上げていた。遠くの斜面が、茶色くむき出しになっていた。「はい。あそこです」。「水、ダメになる?」。「分かりません。もう、少し濁りました」。しばらく、車の中は静かだった。やがて、ベルナールさんが聞いた。「志乃さん、この店、なぜ続ける?」。私は前を見たまま、少し考えた。英語も、フランス語も分からない。私が言えるのは、一番簡単な言葉だけだった。だからかもしれない。私はその時、一番本当のことを言った。「うちの豆腐は、一丁百八十円です」。「百八十。はい」。「安いです。作るのにかかるお金の方が、多いです」。「赤字?」。「はい。赤字です」。私はハンドルを握り直した。「でも、この町のおばあさんたちは、その豆腐を毎朝、買います。歩けない人には、私が持っていきます。みんな、これを食べて、生きています。夫のお父さんは、お金を払えない家からは、代金を取りませんでした。帳面にも、何も書いてないんです。何年も。夫は、その豆腐の値段をあげないために、外国まで行きました。ベルナールさんのところに行ったのも、それです」。バックミラーの中で、ベルナールさんが動きを止めた。「ごめんなさい。うまく言えません」。「いえ」。ベルナールさんは、しばらく黙って、それから、こう言った。「私、知らなかった」。「夫は、言いません。人に言うのが、嫌みたいで」。「そうか」。「そうか」。もう一度、同じことを言った。そして、ベルナールさんは、自分の座っている座席を見下ろした。「志乃さん、この座布団」。「はい。前からずっと」。「ご存じでしたか?」。「初めて乗った時、宗介さんに聞いた。これ、何?って。宗介さん、何も言わない。分かってた」。私は少し笑った。「あの人らしい」。あれは、宗介さんのお父さんのです。フユさんと戸田さんに言われた話を、私はもう半分してしまっていた。それなら、残りも、この人にだけは、全部言わなければいけないと思った。後で宗介さんに叱られるなら、それでいい。そして、私は柴田さんから聞いた話をした。滝の入りの、駅前の軽トラック。硬い助手席、閉まらない窓。誠一さんが亡くなる一ヶ月前まで、悔やんでいたこと。宗介さんがそれを「親父の宿題です」と言ったこと。話し終わる頃、車は柏尾に入っていた。ベルナールさんは、長い間、何も言わなかった。坂を登り切る手前で、後ろから声がした。「志乃さん」。「はい」。「私、いい席、座ってる」。私は前を向いたまま、口をきつく結んだ。泣いたら、運転できないと思った。

店の前に着いて、車を止めたところで、私は息を飲んだ。店の前に、人がいた。十人以上。全員が、泥だらけだった。長靴を履いて、スコップを持って、みんな汗をかいていた。一番前に、古沢さんが立っている。八十八歳の古沢さんが、泥のついたズボンで、杖もつかずに立っていた。私は車を降りた。「どうしたんですか?これ?」。古沢さんが口を開いてきた。「二の口を、開けてきた」。「二の口?」。「昔な、滝の入りには、脇口が二つあったんだ。上のと、裏側のと。裏側のは、水が少なくてな。その上、パイプを引くには遠すぎた。手入れが続かんで、豆源の爺さんの台で、廃止に なってから、六十年だけど。あっちは、山の反対側だ。今度の造成は、かわらん」。私は、口を開けたまま、古沢さんを見ていた。「俺が、子供の時、遊んだ場所だ。誠一が小さい頃、俺が連れて行って、教えた。場所を覚えとるのは、もう、俺しかおらん。言うても、一人分だ。実際は回らんだろうから、言わんかったけど。今日は、人手があれば、いいんだろ」。古沢さんの後ろから、タク君が泥だらけの顔を出した。「掘ったら、出ました。まだ出るそうです。量は少ないですけど。仕込みに使えるのは、今日は、一釜分がやっとです。あとは、みんなでポリタンクに詰めて、坂の上から順に、担ぎ下ろしました。垂らす水も、それで足します。掘り始めたのは、前の日の夜です。最初に出た水で、戸田さんが、もう豆をつけてました」。一釜。たった一釜だった。けれど、その一釜が、三日ぶりの水だった。私は、集まった人たちの顔を順番に見た。半分くらいは、配達で回っている家の息子さんや、連れ合いだった。中には、あの納品覚えで、代金の欄が空白のままになっていた家も、あった。誰かが言った。「志乃さん、早く。豆が、待っとる」。私は、走った。ベルナールさんは、タク君が店の中へ案内してくれた。戸田さんが「さっき、宗介さんに電話をかけた」と言った。「二の口の水が出た。これで打っていいか、と。返事は、こうだった。『そうだ。打て。ただし、検査の結果が出るまで、店には出すな』と」。

その日の午後、私は一年分の緊張の中で、にがりを打った。戸田さんが、横についてくれた。「水が変われば、寄り方も変わる。俺が打っても、一発ではいかん」と戸田さんは言った。「だったら、いつも打っとる手の方が、ええ」。ベルナールさんは、戸田さんに白い割烹着と長靴を出されて、手を洗って、それから、作業場の隅に立って見ていた。桶の温度を測って、にがりを落として、ヘラで二回。そして、待つ。白いものが、ゆっくり寄っていった。戸田さんが、小さく頷いて、それから、独り言のように言った。「水は変わったけど、水を食べて育った山は、同じだ。だから、味は、戻る」。掬って、器に盛った寄せ豆腐。まず、戸田さんが一口食べて、頷いた。「二の口は、昔から、山のものが飲んできた水だ」。それから、ベルナールさんの前に置いた。ベルナールさんは、スプーンで少し掬って、口に入れて、目を閉じた。長い時間だった。それから、目を開けて、こう言った。「水の味が、する。私の店では、この味、ない。同じ豆、同じにがり、同じやり方でも、できない。だから、毎年来る」。その言葉を聞いた時、私の目から、ぽろっと涙が落ちた。手の甲で拭った。荒れた手の甲だった。

その時だった。店の前で、車の止まる音がした。引き戸のガラス越しに、白いセダンが見えた。実家の車だった。降りてきたのは、三人だった。父と、母と、妹。母が先に店に入ってきて、作業場の方を覗いた。「もういいでしょ?この前の話、もう一度だけ、考えてちょうだい」。そして、店の人たちに気づいて、顔をしかめた。妹が入ってきた。一月の時と同じような白いコート。今度は薄手のものだった。妹は、表の泥だらけの人たちをちらっと見て、鼻に手を当てた。「何これ?どぶ?」。

私の中で、何かが動いた。体が、熱くなった。耳の奥が、鳴った。けれど、まだ、声が出なかった。二十九年の筋肉は、そう簡単には緩まなかった。その時、外で軽トラックの音がした。宗介さんが、帰ってきた。作業着ではなく、きちんとした上着を着て、書類の袋を持っていた。県から戻ってきたところだった。宗介さんは、表の泥だらけの人たちを見て、それから、店に入ってきた。宗介さんは、古沢さんの方を向いた。「本当に、二の口を、開けたんですか?」。「開けた」。宗介さんは、しばらく古沢さんを見ていた。それから、腰を折って、長い間、動かなかった。体を起こすと、宗介さんは私に目をやった。「志乃さん、ご苦労様。その水で、打ったのか?」。「はい」。「そうか」。それから、宗介さんはベルナールさんに向かって、頭を下げた。「ベルナールさん、遠いところを、すみません。あと、少しだけ、待ってもらえますか?」。ベルナールさんは「大丈夫だ」と言って、椅子に座り直した。それから、宗介さんは、私の実家の三人と向き合った。「奥山です。この前は、失礼しました」。「いえ、こちらこそ」。「あの、今日はですね。その前に、一つだけ」。宗介さんは袋を台の上に置いた。「前にお越しいただいた時、『去年の三月のあの日の話は、今日はしません』と申し上げました。今日は、します」。母の顔が、こわばった。「去年の三月の終わりに、皆さんがこの店に来られました。僕は、その時、店の中にいました」。宗介さんは、妹の方を見た。「かほさん。あなたは、店の前で、こう言いました。『こんなところに住むくらいなら、死んだ方がマシ』と」。妹の顔が、赤くなった。「そんなの、言葉のあやで…」。「はい。それは、いいんです。僕が忘れられないのは、その後です。店の前のベンチに、中尾さんが座っていました。当時、八十四歳です。腰が悪くて、しゃがめません。あなたは、その方に向かって、こう言いました。『ちょっと、どいてくれる?邪魔なんだけど』」。座敷の中が、凍りついた。「スミさんは、どきました。杖をついて、立って、端に寄りました。僕は、それを見ていました」。宗介さんの声は、大きくなかった。怒鳴りもしなかった。ただ、事実を一つずつ置いていくような、言い方だった。「その次の月に、志乃さんが来ました。志乃さんは、同じベンチの、同じ人の杖を拾いました。拾って、柄の方を向けて、渡しました。それから、隣に座って、五分、話を聞きました。僕は、それも見ていました」。宗介さんは、母と父の方を向いた。「この店を、貧乏だと笑う人に、この店は、任せられません」。そして、妹を見た。「そして、車や金を見て、戻ってきた人を、僕は、家族とは呼べません」。

母が何か言おうとした。口が動いたけれど、音にならなかった。父は、俯いていた。妹が、震える声で言った。「お姉ちゃん。お姉ちゃんも、そう思ってるの?」。私は、妹を見た。妹が生まれてからずっと、私はこの子に、何一つ言い返したことがなかった。鉛筆も、消しゴムも、湯呑みも、進学も、結婚の話も、全部渡してきた。渡してきたのは、この子のためではなかった。私が言うのが、怖かったからだ。私は、器を台に置いた。そして、一歩、前に出た。「かほ」。自分の声が、思ったより、はっきり出た。「スミさんと、私は思った。私の豆腐を食べて、泣いてくれた人。嫁いで三日目の朝、あの人は、『じゃあ、あんたが、あれかい』と言った。あれが何だったのか、私はもう、知っている。妹の代わりに来た嫁だ。知っていて、それでも、『ありがとう』と言ってくれた人だ」。その人が、杖をついて、端に寄った。体の芯が、すっと冷たくなった。「私はね、あんたのことを、恨んでないよ」。「え?」。「本当に、恨んでない。あんたは、子供の頃から、そうしていいって、教わってきただけだから」。私は、父と母を見た。二人とも、私と目を合わせなかった。「私も、同じ。私は、『譲ればいい』って教わってきた。だから、二十九年、譲ってきた」。私は、一度、息を吸った。「でも、もう、やめます。私は、もう、妹の代わりには、戻りません」。言った。言葉が、私の口から出た。膝が震えていた。心臓が痛いくらい、鳴っていた。それでも、私は言葉を続けた。「この店で、私として、生きていきます。ここに、私の仕事があります。私が作った豆腐を、美味しいと言ってくれる人が、います。今日、私はあの車を運転して、お客様を迎えに行きました。一年前の私には、そのどれも、できませんでした」。私は、妹をまっすぐ見た。「かほ、この席はね、返せるようなものじゃないの。これは、席じゃなくて、私の毎日だから」。

妹の目から、涙がこぼれた。何か言おうとして、言えずに、口を押さえた。母が「志乃、あんた…」と言いかけた。その時、外から声がした。「もう、帰りな」。古沢さんだった。泥のついた長靴のまま、引き戸のところに立っていた。「あんたら、この店に、何しに来た?豆腐を買いに来たんなら、売ってやる」。「一丁、百八十円だ。そうじゃないなら、帰れ」。その後ろに、泥だらけの人たちが立っていた。誰も、何も言わなかった。ただ、そこに、立っていた。父が、「行こう」と言った。三人は、店を出ていった。妹は、最後に一度だけ、振り返って、私を見た。私は、頷いた。頷いただけで、何も言わなかった。車が坂を降りていく音が、だんだん小さくなった。音が消えた後、店の中で最初に口を開いたのは、ベルナールさんだった。「私、日本語、難しい。全部、わからない。でも、志乃さんが、強かった。そうは、分かった」。私は、笑おうとして、失敗した。そして、その場にしゃがみ込んで、声をあげて、泣いた。宗介さんは、何も言わずに、私の横にしゃがんだ。背中に手を置いて、そのまま、私が泣き止むまで、そこにいた。

その夜、宗介さんは県での話し合いの結果を教えてくれた。造成は、一旦、止まることになった。止まった理由は、水だった。検査の結果と、雨の後の水の写真が、効いた。県は、業者に、影響の調査をやり直すよう、求めた。「止まっただけです。中止じゃない」。「はい」。「調査が終われば、また動く。その時に、どうするかを、それまでに決めないといけない」。決めなければならないことは、はっきりしていた。山を買うか、買わないか。買うなら、お金がいる。丸山さんが業者へ返す代金と、返したら払えなくなる相続税の分。かなりの額になる。明和食品の話を受ければ、そのお金は出る。ただし、柏尾の店は、三年で閉じることになる。

その日の日曜、座敷に人が集まった。宗介さんと、フユさんと、戸田さんと、タク君と、私。それから、東京の柴田さんも来た。ベルナールさんは、前の日にフランスへ発ったけれど、一枚の紙を置いていった。宗介さんが、その紙を広げた。ベルナールさんの字で、金額が書いてあった。この先五年分の大豆とにがりの代金、千二百万円。それを先に払うという、申し出だった。「僕のところも、同じことをします」。柴田さんが言った。「うちだけじゃない。話を回してみたら、二十件近くが乗ると言ってます。みんな、うちの店の板場が、豆源の豆腐で回ってるのを知ってるんだ。宗介君、これは寄付じゃないよ。前払いだ。だから、これから五年、僕らはあんたに豆腐を作ってもらう権利がある」。宗介さんは、紙を持ったまま、動かなかった。戸田さんが、ぽそりと言った。「足りるのか?」。「足りない」。宗介さんが言った。「うちは売上があります。でも、手元に残るのは、そのうちのわずかです。中野原の工場を建てた時の借入れも、まだ返し終わっていない。今すぐ動かせる金は、山の値段には、届きません」。宗介さんは、そこで一度言葉を切って、それから言った。「あの車を、売ります」。「え?」。「五千万しました。俺が、外国を回った七年分の稼ぎです」。座敷が、静かになった。私は、顔をあげた。「だめです」。今度は、自分でも驚かなかった。声は、すぐに出た。「あれは、売りません。あれは、お父さんの宿題です。宗介さんが外国を回って出した答えです。それを、山の代わりに、出したりしません」。座敷が、どよめいた。やがて、柴田さんが、小さく笑った。「奥さんの言う通りだ。あれを売るくらいなら、僕が先に、出しますよ」。宗介さんは、何か言おうとして、やめた。それから、深く息を吐いた。

私には、もう一つ、言いたいことがあった。「あの、丸山さんに、会いに行きませんか?」。全員が、私を見た。「丸山さんは、お金が必要で、売ったんだと思うんです。相続税で。でも、あの人が、あそこを削って欲しいと思ってるとは、限らないです」。「志乃さん、それは…」。「一回、話をしてみたいんです」。私はその日の夕方、帳場から納品覚えを持ってきた。そして、「丸山」という名前のページを開いて、宗介さんに見せた。そこには、二十年以上前から、名前があった。「丸山種」と、書いてあった。丸山国さんのお母さんだ。今は、もう、亡くなっている。「絹ごし一丁」。ほとんど毎日、絹ごし一丁。そして、代金の欄が、何年分も、空白だった。

翌日、宗介さんは丸山さんの家を訪ねた。県庁所在地の郊外にある、静かな住宅地だった。丸山さんは六十二歳で、痩せた、静かな人だった。私たちが名乗ると、しばらく玄関に立ったまま、何も言わなかった。「豆源です。はい。そうか。あんたが、誠一さんの…」。座敷に通されて、お茶が出た。宗介さんは、山の話をした。水のこと、豆腐のこと、造成が止まっていること。丸山さんは、黙って聞いていた。話が終わって、私は納品覚えを出した。「これをお見せしたくて、きました」。丸山さんは、老眼鏡をかけて、ページを開いた。そして、そのまま、動かなくなった。長い時間だった。丸山さんは、名前の並びを、目で追っていた。「おふくろだ」。「はい」。「毎日、一丁、絹ごし。お袋は、これしか食べられなかったんだ。最後の、三年」。丸山さんは、代金の空白の列を見た。「金は、頂いていません」。「そうか」。丸山さんは、メガネを外して、目の辺りを手で押さえた。「俺は、東京に出ちまってな。一度も、帰らなかった。お袋が死んだ時も、間に合わなかった。山を売ったのはな、金が、いったからだ。税金が、な。あの山は、金にならん山だ。誰も、欲しがらんと思ってた」。さっき、水の話を聞いた時は、正直、ピンと来なかった。けど、この帳面を見てな。あの山の水が、お袋の食っとった豆腐になっとったんだな」。その日、話はまとまらなかった。まとまるわけがない。丸山さんはもう山を売ってしまっていて、契約がある。けれど、帰り際、丸山さんは玄関で、こう言った。「話し合いには、俺も出る。売ったのは、俺だ。俺が言えば、聞くこともあるだろう」。

それから、半年かかった。書き切れないほど、色々なことがあった。私たちは、町役場と県庁に通い続けた。町からは、三百八人分の署名と要望書が出た。柏尾に住んでいる人の、ほとんど全部だ。県は、その紙の束を背に、調査のやり直しを求める姿勢を崩さなかった。調査には、金も時間もかかる。そして、丸山さんは、約束を守った。協議に毎回出てきて、売った本人として、「あの山は、削らないで欲しい」と言い続けた。売主にそう言われては、業者も強く出られない。待たされるうちに、採算が合わなくなって、業者の方が先に手を引いた。業者は、買った値段のまま、山を丸山さんに返した。丸山さんは、納税を待ってもらって、手をつけずにいた売却の代金を、そっくり業者へ返す。返してしまえば、今度こそ、相続税が払えない。そこを、引き受けたのが、町だった。山は町が水源として買い上げ、「これから先も、削らない」という取り決めをした。丸山さんは、町から受け取った代金で、ようやく税金を納めた。山の管理は、森林組合が受け持つ。買い上げのお金の一部は、豆源が出した。ベルナールさんと柴田さんが集めてくれた、五年分の前払いがあった。豆源は、それを丸ごと、町への寄付に回したのだ。「うちらが前払いした金で、山が残るなら、その方が、豆腐は長く食える」。そして、「豆源の水を守る会」という、そっけない名前の会ができた。会員は、全国の料亭と旅館と料理屋だった。年に一度、みんなで山に登ることになった。

その知らせが来た日、宗介さんは黒瀬さんに電話をかけた。「せっかくのお話でしたが、お断りします」。電話の向こうで、黒瀬さんは少しの間、黙っていた。それから、こう言ったそうだ。「そうですか。いい水ですね、あそこは」。黒瀬さんは、その後も時々、うちの豆腐を注文してくれている。個人の名前で、家に送っている。

雨の濁りは、十日ほどで抜けて、再検査で基準に戻り、店は元通り動き始めた。それでも、水槽の底の石の色まではっきり見えるようになったのは、夏の終わりだった。その朝、宗介さんは水を掬って、光に透かし、「うん」と言った。それだけだった。二の口は、そのまま残すことにした。普段は使わない。使うのは、年に一度、水が出るか確かめる日だけだ。それでも、埋めずに残しておこうと、宗介さんが言った。

古沢さんは、半年ほどして腰を悪くし、施設に入った。私は、月に一度、豆腐を持って会いに行く。いつ行っても、古沢さんは同じことを言う。「あの水はな、俺が誠一に教えたんだ」。その度に、私は「知ってます」と言う。古沢さんは、満足そうに頷く。

全てが片付いた冬の夜、私は台所で洗い物をしていた。宗介さんが座敷から出てきて、湯呑みを流しに置いた。私が使っている、あの欠けた湯呑みだった。宗介さんが、間違えて使ったらしい。「あ、これ、志乃さんのだった」。「いいですよ」。「これ、前から使ってるよね」。「小学三年の時に、買ったんです」。私は水を止めて、湯呑みを手に取った。口の欠けたところを、指でなぞった。「妹が落として、欠けたんです。欠けたから、いらないって言われて、それで、私のものになりました」。宗介さんは、しばらく、その湯呑みを見ていた。それから、こう言った。「うちの釜もね、縁が、欠けてる」。「知ってます。あれ、じいさんの代からのやつだ」。「取り替えろ、何度も言われた。でも、あれじゃないと、あの味にならないんだ」。宗介さんは、湯呑みを私の手から取って、棚に戻した。一番取りやすい、手前の段に置いた。「欠けてる方が、いいものって、あるんだよ」。私は、俯いて、水道の蛇口を見ていた。見ていないと、また、泣いてしまいそうだった。

あれから、二年が過ぎた。豆源は、今も柏尾の坂の途中にある。板壁は、去年、直した。前の看板は字が消えかけていたので、新しい板に掘り直してもらった。ただし、掘ってもらったのは、前と同じ「豆源」という店の名前だけだ。会社の名前は、入れなかった。古い看板は、店の中の壁にかけてある。

新しく始めたこともある。山の話が片付いた次の秋から、うちは豆腐弁当を始めた。きっかけは、配達だった。回っているうちに、気づいた。豆腐を買ってくれるお年寄りの多くが、特にご飯を作っていない。一人暮らしで、面倒で、豆腐を冷やしたまま、醤油をかけて食べている。それでは、体が持たないと思った。私は宗介さんに言った。「高級なお豆腐だけじゃなくて、昔からのお客さんが、毎日食べられるものを、もう一つ作りたいです」。宗介さんは、少し目を大きくして、それから笑った。「俺も、そう思ってた」。始めるまでに、半年かかった。保健所に何度も通って、台所を作り直して、豆腐とは別の許可をもらった。宗介さんは、一度も、めんどくさそうな顔をしなかった。弁当は、五百円にした。ご飯と、うちの豆腐を使った料理が三品。厚揚げの煮物、白和え、豆乳のあんかけ。副菜は、日替わりだ。寒い時期は、別の器に温かい汁を入れて、持っていく。作るのは、私とフユさんと宮子さんで、一日三十食だけ。それ以上は、手が回らない。弁当を始めてから、配達の時間が長くなった。豆腐を渡すのに五分、話を聞くのに十五分だったのが、今では三十分になる日もある。それでも、宗介さんは、何も言わない。

スミさんは、八十七歳になった。腰はもっと曲がったけれど、まだ自分の家にいる。私が弁当を持っていくと、玄関で待っていて、この頃は、献立に注文をつけるようになった。「志乃さん、この前の煮物ね、ちょっと、甘かったよ」。「すみません。次は、控えます」。「いいの、いいの。うまかったよ」。「どっちなんですか」。と言うと、スミさんは、声を出して笑う。

タク君は、今もうちにいる。去年、タク君の親御さんが、店に来た。中野原で床屋をやっている、夫婦だ。二人は、タク君が釜の前に立っているのを見て、それから、何も言わずに、帰った。その日から、タク君は、何も言われなくなったそうだ。タク君は、去年から帳簿を任されて、今年、寄せも打てるようになった。三回失敗して、四回目にできた。私は横で見ていて、なんだか、自分のことのように嬉しかった。

「豆源の水を守る会」は、今も続いている。年に一度、五月に山に登る。会員が全国から来て、滝の入りの水源まで歩く。去年は、四十二人来た。みんな仕事の服のまま、長靴で登ってくるので、毎年、誰かが転ぶ。その日、私は山の上で弁当を配った。宗介さんは、脇口のそばの石に腰かけて、みんなが食べているのを、黙って見ていた。私は、その横に座って、聞いた。「誠一さん、この景色、見たかったでしょうね」。宗介さんは、しばらく、杉の木を見上げた。「どうかな。親父は、人が来るのが苦手だったから。四十二人も来たら、逃げてるかもしれない」。そう言って、宗介さんは笑った。私も、笑った。それから、宗介さんは、小さく付け加えた。「でも、水は、喜んでると思う」。

実家のことも、少しだけ書いておく。去年の暮れに、母から電話があった。要件は、特にない。「元気にしているか」と聞かれて、「しているよ」と答えた。それだけの電話だった。妹は、去年、結婚した。相手のことは、知らない。招待はされず、父から手紙で知らせがあっただけだ。その手紙の最後に、父の字で、こう書いてあった。「あの時は、悪かった」。それだけの一行だった。私は、その手紙を、机の引き出しにしまった。返事は、まだ書いていない。いつか書くかもしれないし、書かないかもしれない。急がなくていいと、今は思っている。

そして、あの車のことだ。黒い車は、今も裏の車庫にいる。年に五回か六回、お客様を迎えに行く時だけ出す。運転するのは、大抵、私だ。いつの間にか、運転は私の方がうまくなってしまった。宗介さんは、山道でどうしてもスピードを出すので、お客様に「怖い」と言われたことが、二回あった。後部座席の座布団は、まだ、あのままだ。去年、角のほつれたところを、フユさんが縫ってくれた。糸の色が、少しだけ違う。それで、良かったと思っている。

先週の朝のことだ。店の前には、いつものようにお客さんが並んでいた。奥の作業場では、東京へ出す料亭向けの荷造りが進んでいた。タク君と戸田さんが、箱を運んでいた。私は帳場の机で、その日の配達の順番を、書き出していた。机の上に、あの車の鍵が置いてあった。前の週に使ったまま、しまい忘れていた。鍵を眺めていたら、宗介さんが通りかかって、言った。「今日は、志乃さんが運転する?」。私は、顔をあげて、笑った。「まだ、軽トラでいいです」。宗介さんも、笑った。「じゃあ、軽トラで行こう」。

その日は、配達の日だった。私たちは、古い軽トラックの荷台に、水を張った容器と、発泡スチロールの箱と、三十個の弁当を積んだ。私が運転席に乗って、宗介さんが助手席に乗った。エンジンをかけると、いつものやかましい音がした。シートは硬い。窓は、少し閉まりにくい。坂を降りて、最初の一軒は、スミさんの家だ。玄関の前に立っていたスミさんが、手をあげた。私は、クラクションを、短く鳴らした。窓から、山の匂いが入ってきた。土と草と、水の匂いだ。助手席の宗介さんが、腕を組んで、前を見ていた。その横顔を、私は、一度だけ、盗み見た。五千万円の高級車より、私にとって大切だったのは、この人と一緒に守っていく、小さな豆腐屋だった。

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