「お前、俺が誰だか分かってるのか?俺様にそんなことを言いやがって。」
清掃員として働く50代の俺、細川優は、研修医の山ノ内実に、顔を真っ赤にして怒鳴られた。病院長の息子である彼は、俺に仕事の注意をされたのが気に入らなかったらしい。親の権力を使ってやりたい放題の彼は、俺を「脳なしのじいさん」呼ばわりし、「首だ」と宣告した。呆れ返る思いだった。
俺はこの私立病院で清掃スタッフとして働いて35年になる。もともとはこの病院の医師だったが、年老いて体が激務に耐えられなくなり、引退した後も、大好きな職場に少しでも貢献したいと思って清掃員として残ったのだ。職場のみんなは温かく、人間関係も良好だった。
今まで楽しい毎日だったが、変化が訪れたのは今年の春のこと。毎年やってくる研修医の中に、病院長の息子である山ノ内実がいたのだ。「委長の息子だぞ。分かってるのか?」と傲慢な態度で、周囲とトラブルを起こしていた。
今日も俺の仕事中、指導医の浜野さんがミノるさんに手を焼いていた。ミノるさんの兄は大学病院で働く優秀な医師で、誰に対しても気配りができる人柄だという。同じ親から生まれて、どうしてこんなに違うのか。
仕事中、看護師たちもミノるさんの愚痴をこぼす。「いつも命令口調で、ありがとうの一つもない」「ちょっとしたことで機嫌を悪くする」。現場はかなりストレスを感じているようだった。
ある日、いつものように清掃をしていると、落ち込んだ姿で椅子に座っている浜野さんを見かけた。声をかけようとしたその時、背中に何かが当たった。後ろを向くと、ニヤニヤしたミノるさんが立っていた。足元にはゴミが落ちている。ミノるさんは俺にゴミを投げつけたのだ。
「じいさん、ゴミが落ちてたから拾ってやったぞ。ちゃんと掃除しとけよ」
人にゴミを投げつけておいて、そんなことが言える神経を疑う。
「ミノるさん、人にゴミを投げるなんて、子供でもしませんよ。やめてください」
俺がそう注意すると、「うるせえよ。清掃のじいさんが俺に命令すんな」と吐き捨てて立ち去ってしまった。
「ゆ作さん、大丈夫ですか?」浜野さんが心配そうに駆け寄ってきた。「大丈夫だよ。ただ、あれじゃみんな手を焼いちゃうよな」
浜野さんは、ミノるさんの指導を任されているが、「もう本当なら指導を降りたい」とため息混じりに話した。「でも委員長からじきじきに息子を頼むって言われちゃって。委員長に頭を下げられたら断れないんです」
その日以降、ミノるさんは俺への嫌がらせを始めた。汚れを見つけては「ちゃんと掃除しろ」と仕事を中断させる。ある日、近くで水を飲んでいたミノるさんが、わざと水を床にこぼした。
「じいさん、仕事だ。早く水を吹けよ」
確信犯だ。ニヤニヤしながら命令するミノるさんに、俺は我慢の限界を超えて強めに注意した。「ミノるさん、わざとこぼしましたよね」「わざとじゃないし。言いがかりとかやめろよな」
連日の嫌がらせでストレスが溜まっていた俺は、普段強く言うことはないが、冷静に反論した。「ミノるさん、あなたの言動は目に余ります。仕事を邪魔する。人が嫌がることをわざとするのは人間性を疑います」
するとミノるさんは顔を真っ赤にして怒り出した。「お前、俺が誰だか分かってるのか?俺様にそんなこと言いやがって。掃除しかできない脳のないじいさんが偉そうに黙って掃除してりゃいいんだよ」
周囲の医師や看護師たちも騒ぎを聞いて注目し始めた。「俺は毎日きちんと掃除をしていますよ。それを邪魔しているのはミノるさんじゃないですか」と冷静に言い返すと、「散々忠告したのに俺に言い返すなんていい度胸してるよな。委長の息子には向かうようなバカはこの病院にはいらんわ。お前、首だ」
今までなんとか言い聞かせれば分かってもらえるかもしれないという希望を持っていたが、もう無理だ。呆れ返った俺は言った。「じゃあやめさせてもらいますね。お世話になりました」
もう反論する気もなかった。俺は病院を出て行こうとした。
「ゆ作さん!」浜野さんが追いかけてきて、必死に引き止める。「ゆ作さんがやめるなんて考え直してください。ミノるさんだってふざけていっただけで」
「浜野さん、ありがとう。でもね、もういいんだ」
俺は気持ちだけ受け取り、笑顔で退職した。
仕事を辞めた翌日、のんびりコーヒーを飲んでいると、家のチャイムが鳴った。玄関を開けると、病院長が真っ青な顔で立っていた。その横には、ふてくされた顔のミノるさんがいる。
病院長は緊張した面持ちで言った。「昨日の騒ぎを聞きました。本当にうちの息子が申し訳ないことをしました」
俺がミノるさんに言われたことを伝えると、病院長の顔色はさらに悪くなった。「病院の医師たちが、ゆ作さんが戻ってこない限り出勤しないと言っているんです」
なるほど。医師たちが仕事をしなければ病院は成り立たない。大きな問題になるのを恐れて、病院長が息子を連れて謝罪に来たのだろう。
「俺はみんなの話をずっと聞いてきました。現場では多くの医師や看護師が困っていました。俺は間違ったことを指摘しただけです」
病院長は何も言えず、頭を下げるだけだった。すると隣でミノるさんが、「は、偉そうにしやがって。父さん、こんな脳なしじいさんの言うこと聞かなくていいよ。出勤してない医師もみんな首にしちゃえばいいんだって」と言い放った。
その瞬間、家の奥から浜野さんをはじめとする、出勤拒否をした医師たちが姿を現した。
「ミノるさん、あなたは知らないようだけどね。ゆ作さんは脳なしのじいさんじゃないんだよ。俺たちをここまでしっかり育ててくれた恩師なんだ」
浜野さんの言葉に、後ろの医師たちも頷いている。
「恩師だって? このじいさんが? ただの清掃員だろ?」ミノるさんは鼻で笑う。
俺は静かに言った。「俺は医師免許を持ってますよ」
ミノるさんは理解できないといった表情をした。
そう、俺は今は清掃員として働いているが、元々は医師としてこの病院に長年勤めていた。周囲からは「名医」とも呼ばれ、俺の診察を受けに地方から来る患者もいたほどだ。今病院で活躍している浜野さんや他の医師たちの中にも、俺が指導した者は多い。
俺は中年になってから、新しい医師の育成に力を入れていた。医師の激務に体が耐えられなくなり引退を決めた時、医師たちが口々に「ゆ作さん、やめないでください」と懇願してくれた。しかし続ける自信はなかった。それでもこんなに必要としてくれる人がいる以上、このまま病院を去るのも申し訳ないと思い、思いついたのが清掃員として働くことだった。
「そのじいさんが名医? 恩師?」ミノるさんが驚くのも無理はない。元医師が清掃員になっているなんて、誰も想像できないだろう。
「みのる、本当にお前は何てことをしてくれたんだ。このままじゃ病院は終わりだ」病院長が感情的に叱る。「ゆ作さんが許してくれなかったら、お前にはもう病院をやめてもらう」
ようやく事態の深刻さを理解したようで、ミノるさんは深く頭を下げた。「ゆ作さん、すいませんでした」
そのまま動かないミノるさんを見つめ、俺は言った。「ミノるさん、顔をあげてくれ」
言われた通りに顔を上げたミノるさんは、今にも泣きそうな表情をしていた。
「俺はね、浜野さんから聞いてるよ。君は知識も豊富で実力も高いって。きっと君は本当に頑張って研修医になったんだろう」
俺が優しく語りかけると、ミノるさんの瞳から涙がこぼれた。「浜野さん、そんなこと言ってくれてたんすか?」
浜野さんはミノるさんの日々の言動に頭を悩ませていたが、その実力はしっかり評価していた。だからこそ、言動さえ治ればとずっと悩んでいたのだ。しかしミノるさんはそれを全く理解していなかった。
「浜野さんから聞く限り、君は優秀な医師になれる素質があると思うんだ。悪態をついていないで、みんなと仲良く仕事をすれば、もっと楽しく働けるはずだよ」
「本当にすいませんでした」ミノるさんは何度も何度も頭を下げた。プライドが高く周囲を見下していたミノるさんが自発的に謝る姿を見るのは初めてだった。
「分かった。今までのことは水に流すよ。ただ、これからは礼儀正しく、みんなと仲良く働くんだよ」
俺はそれを条件にミノるさんを許すことにした。
その後のミノるさんは、今までとは別人のように穏やかになり、周囲と上手くやっているようだ。浜野さんに尋ねると、「ミノるさんは頑張ってくれてますよ。本当にゆ作さんのおかげです」と笑顔で答えてくれた。
清掃員として復帰した後、ミノるさんと話す機会があった。ミノるさんが周囲に悪態をついていた原因は、家庭環境にあったらしい。昔から優秀な兄と比較され、強いコンプレックスを持っていたという。だから人一倍勉強を頑張って医師になろうと努力していたが、父である病院長が勝手に研修先を決めてしまったことに腹を立て、反発していたようだ。
「父さんのしたことは本当に腹が立ちましたが、俺もガキでした」「少し大人になったようだね」と話しながら、俺たちは笑った。
ミノるさんは、兄に対する劣等感を抱えていたが、今は周囲の人間にしっかり評価され、自信を持って働けている。病院長とも、今回のトラブルをきっかけにお互いの悪い点を反省し、良い距離感で上手くやっているらしい。
一時はどうなるかと思ったが、みんなにとって良い結果になった。そして俺は今日も、いつもと同じように清掃をしている。もう医師としては頑張れないが、そこで働く人間を支えられたらと思っている。みんなが頼ってくれる限り、俺はできるだけ力になろう。清掃員として働く限り。


