目の前で、孫娘の咲がボロボロになって泣いていた。親代わりに育ててきた大切な子を泣かせたのは、職場の部長の卑劣な罠だ。
「おじいちゃん、私、会社やめたい……」
その言葉を聞いた瞬間、俺の中で何かが静かに、しかし確実に切れた。
俺の名前は大城志介、60歳。18年前、娘夫婦を交通事故で亡くした。まだ何も分かっていない幼い咲を葬儀で抱きしめ、「じいちゃんたちがいるからな」と約束した。それからは妻と二人で咲を育てることを決意したが、その2年後、妻も突然の病でこの世を去った。以来、俺は男手一つで咲を育ててきた。
中学生になった咲を、作業着姿のまま古びた軽トラで迎えに行った時は、恥ずかしそうに「ボロい軽トラで迎えに来ないでよ」と言われた。思春期の娘にとって、親がじいちゃんであることも、古い軽トラも気恥ずかしかったのだろう。すまないと謝ると、咲は罰が悪そうに俯きながら「迎えに来てくれたのはありがたいけどさ」と小声でお礼を言った。母親譲りの優しい子だった。
高校1年生の秋、咲が進路相談をしてきた。「私、大学には行かないで働くよ」と。俺は教育資金を貯めた通帳を見せたが、咲は「私、そんなに頭良くないし、学びたいこともないの。でも、早く社会に出て自分の力でお金を稼ぎたい。初めてボーナスをもらったら、おじいちゃんと一緒にちょっといい温泉旅館に行きたいな」と言った。俺は「分かった」とだけ答え、その貯金は咲が結婚する時に渡すと約束した。
咲は高校卒業後、全国に支社を持つ建設会社の地元の支社で働き始めた。最初は慣れない仕事に苦労しているようだったが、4年も経てばすっかり一人前の社会人になった。
ある休日、帰りが遅くなりがちな咲に「最近どうだ?」と聞くと、いつもと違う様子で「ちょっと色々と大変かな」と答えた。話を聞けば、営業部に所属する咲が大手企業との契約のチャンスを掴んだのに、上司の池田部長に「お前にはまだ早い」と言われ、次の交渉には部長が単独で行くことになったらしい。
池田部長は実力ではなく、支社の専務の親戚というコネで部長になった男だった。咲が大きなチャンスを持ってきたことで欲を出し、功績を横取りしたのだ。
「社会に出ればこういう理不尽なこともあるよね。部長に逆らったところで、私にメリットはないし。平穏に過ごせるなら受け流すよ」
咲は俺よりよほど冷静だった。本人がそう言うなら俺が出る幕はない。「何か困ったことがあったら、じいちゃんに相談しなさい」と言うと、咲は笑顔で「今回は残念だったけど、今までの功績はちゃんと認められてるはず。これからが頑張り時だよ」と励ましてくれた。
しかし、この日を境に咲は徐々に元気を失っていった。心配して何度も尋ねても、弱々しい笑顔で「平気だよ」と返すだけだった。
ところがある日、咲が久しぶりに明るい笑顔で帰宅した。
「池田部長から、来月昇進試験を受けてみないかって言われたの。それで、部で少し早めの昇進祝いもやるんだって。おじいちゃん、当日はお迎え頼んでいい?」
「いいぞ。ボロの軽トラでよければな」
俺の冗談に、咲は中学時代を思い出したらしく笑った。
「もちろんいいよ。会社のみんなに、自慢のおじいちゃんと愛車だよって自慢するんだから」
そして昇進祝い当日。仕事が終わり自宅でくつろいでいる時、咲から迎えに来て欲しいとメールが届いた。時刻は19時半。飲み会ならこれからが本番のはずだが、やけに早い。疑問に思いながらも軽トラを走らせた。
指定されたのは、繁華街から少し離れた公園の前だった。咲はどこだろうと辺りを見渡すと、ゆっくり近づいてくる人影を見つけた。
「昇進祝いはどうだった?」
笑顔で近づくが、途中で足が止まる。咲のスーツは何かの液体で汚れ、頭と顔にはクリームのようなものが付いていた。目元には力を込めて必死に涙をこらえている。
「……自分の功績でしょ、あれ」
「なんだと? 詳しい話を聞かせろ」
「いや、とにかく帰ろう。お風呂に入って温まった方がいい」
咲を軽トラに乗せ、自宅へ急いで戻った。風呂から出てきた咲の目元は真っ赤に腫れていた。一人で泣いていたのだとすぐに悟った。俺は何も言わず台所へ向かい、お茶を淹れて咲の隣にそっと腰を下ろした。
咲は両手で湯のみを包むように持ち、小さく「ありがとう」とお礼を言った。しばらく二人して黙ったまま座っていた。
「おじいちゃん、あのね。この前、池田部長に契約のチャンスを横取りされたって言ったでしょう。あの人、とんでもないことをしていたの」
池田部長は咲を担当から外した後、単独で大手企業との交渉に臨んだ。より大きな功績を欲しがった部長は、自社が有利になるよう独断で条件を変更した。咲が担当していた時点で条件は決まっていた上、一方的すぎる変更に相手は激怒し、契約は白紙撤回。しかし池田部長は、その原因を全て咲のせいにした。「咲が暴走して相手を怒らせた」ということにされたのだ。
咲は弁明の機会も与えられず社内で孤立。そこに池田部長から「今回の件は俺が上層部に進言し、不問にしてもらった。お前の昇進は確実だ」と持ちかけられた。しかしこれは全部嘘だった。昇進を餌に咲の気をそらせて、証拠になりそうなメールや記録を削除し、改ざんしていたのだ。そして飲み会の席で、種明かしをした。
「飲み会に行ったら、部長と取り巻きたちが待ってたの。部屋の扉を開けたら、急にケーキをぶつけてきて。私が驚いていると、『嫌がらせよ。もう証拠は全部消した。お前には何もできない』ってニヤニヤしながら言ってきたの。頭の上から飲み物もかけられたわ。私がやめてって抵抗したら『冗談だろ』って言われた。あれが冗談? 私は何も面白くなかったわ。そのまま飛び出して、公園まで歩いたの」
咲は怒った声をあげるが、その顔は悲しみに満ちていた。涙を溜めた目で俺を見た。
「おじいちゃん、私、会社やめたい」
その瞬間、俺の中で何かが切れる音がした。胸の奥底から、静かに、しかし確実に何かが燃え上がってくる。だが俺は表情を崩さず、咲を見つめた。
「もちろん、そんな会社はやめていい。咲なら新しい職場はすぐに見つかるさ。生活費のことは心配しなくていいぞ。じいちゃんがどれだけ金を持ってるか、お前は知ってるよな。前に見せた教育資金の通帳の額、覚えてるだろ?」
俺が笑うと、咲も少しだけ表情を緩めた。
「ありがとう。私、すぐ転職活動するね」
「それもいいが、少し待ってくれないか?」
「どうして?」
首をかしげる咲に、俺は深く笑みを返した。ポケットからスマホを取り出すと、ある人物に電話をかけた。コール音が数回鳴り、相手が出る。俺は静かに、しかし鋭い声で告げた。
「おう、俺だ。おたくの会社、全力で潰すからな」
次の瞬間、咲は目を丸くして俺を見た。
翌朝。俺と咲は、ある人物が訪れるのを待っていた。朝10時、チャイムが鳴り、玄関へ向かう。
「よく来たな」
俺が声をかけると、上等なスーツに身を包んだ男が勢いよく頭を下げた。
「この度は大変申し訳ありませんでした」
「まあ、とにかく入れ。玄関先でする話じゃないだろ。お前も入れ」
俺はスーツ姿の男性の後ろにいたもう一人の人物に声をかける。今にも消えそうな声で「あ、はい」と返事をした人物を見て、咲が声を上げた。
「……昨日ぶりですね、池田部長」
我が家に訪れたのは、咲の上司である池田部長と、その上司であり支社のトップである斎藤社長だった。リビングに案内すると、二人は椅子に座ることなく、俺たちに向かってその場で土下座した。
「申し訳ございません、大城会長。まさか会長のお孫さんが我が社で働いていたとは、全く知らなかったんです」
俺は冷めた目で斎藤社長と池田部長を眺めていた。そう、俺はただの老人ではない。
俺は若い頃、上司からの理不尽ないびりを受けて会社を辞めた経験がある。負けず嫌いだった俺は、上司を見返してやるという気持ちで会社を起こし、いつの間にか地元で強い力を持つ、23社のグループ企業のトップになったのだ。銀行、不動産、タクシー会社、スーパーマーケット。様々な業種の会社を経営している。咲の会社は全国に支社を持つが、俺は地元のみ。だが地元では、誰も逆らえないほどの力を持っている。
昨日、俺は咲の目の前で斎藤社長に直接電話をした。手短に事情を話すと、斎藤社長は言葉を失った。俺は最後にこう言った。
「咲がいいと言えば、明日10時にうちへ来い。咲が拒否すれば、お前たちの会社は終わりだ」
「……分かりました。明日ご自宅に伺わせてください」
電話を切ると、咲は驚いた顔で俺に次々と質問を浴びせた。
「おじいちゃんって、どこかの工場で働いてたんじゃなかったの? いつも作業着だったじゃん!」
「グループ企業の一つに農業関係があるんだ。土いじりが好きでな。会長ではあるが、大体そこで働いて汗を流してるんだよ」
俺は咲に詳しい事情を話していなかった。実は昔、娘がよからぬ連中に狙われたことがある。俺を脅して金を要求するつもりだったらしい。咲を同じ目に合わせたくないと考えた俺は、妻と話し合い、本当の姿を徹底的に隠すことにしたのだ。咲も俺の仕事に関して詳しく聞いてこなかったため、今まで奇跡的に隠し通せていた。
「すまない、咲。ずっと隠してて」
咲は最初驚いていたが、俺から事情を聞くと首を横に振って答えた。
「うん。別にそのせいで困ったことは一度もないし、それに、ちゃんと聞かなかった私も悪いよ。それにしても、いつも偉そうな支社長の慌てた声が聞けて、ちょっとだけすっきりしたよ」
どうやら咲は俺が思っていた以上に強い子のようだ。咲は緩んだ表情を引き締めると、俺に向かって頭を下げた。
「ありがとう、おじいちゃん。お願いします」
そして今日、目の前に顔面蒼白の二人が並んでいる。咲が呆れた顔で池田部長を見た。
「池田部長、私が誰であろうと、あんなことをして許される理由にはなりませんよ」
言い返された池田部長は押し黙る。斎藤社長が恐る恐る口を開いた。
「大城さん、会長から電話で少し話を聞きました。君の口から、何があったか詳しく教えてくれるかな?」
「分かりました」
咲は、昇進祝いと嘘をついて呼び出された件、飲み会の席での仕打ち、さらには大手企業との契約のチャンスを奪われた件を詳細に話した。
「池田部長は証拠を捏造したり削除しましたけど、相手の会社に残っている証拠には手を出せません。担当者の連絡先は知っています。その人にコンタクトを取って確認すれば、池田部長が一方的に条件変更を突きつけて相手を怒らせたことが分かるでしょう」
斎藤社長の顔に怒りの感情が宿る。悪事がバレた池田部長は、青を通り越して白い顔色に変わっていた。
「咲の言う通り、相手が誰であろうと、嘘をついて呼び出してさらし者にするのはダメだ。どんな理由があろうと許される行為ではない」
俺が声をあげると、池田部長がびくっと体を震わせる。
「おっしゃる通りです」
「斎藤社長、あなたにも責任がありますよ。このような問題のある人物を部長に据えるなんて」
斎藤社長はうつむき、再び頭を下げた。
「面目次第もございません。全て社長である私の責任です」
咲は「偉そうな人」と言っていたが、斎藤社長はそれなりに仕事ができる人だ。23社の会長として何度か顔を合わせたことがあるが、いつも俺に対して礼儀を尽くしていた。咲が泣いて帰ってきた時は本気で会社を潰そうと思った。権力を持つ俺が動けば、この地域から追い出すこともできたはずだ。しかし、今の斎藤社長からは心から反省しているのが伝わってくる。
俺が咲に視線を移すと、彼女は小さく頷いた。
「私が問題視しているのは、池田部長の言動だから」
名前を呼ばれ、池田部長が息を呑む。
「なあ、大城さん。悪かったよ。俺も心の底から反省してる。もう二度とあんなバカなことはしないからさ」
「バカなことだと自覚した上でやったんですね。救いようがないですよ、部長」
咲が冷静に返すと、斎藤社長が続けて宣言した。
「池田部長の今後の処遇について、すぐに社内で検討します。大城さんにしたことは、許されない行為です」
「そうだな。他人の衣服を汚す行為は犯罪行為だ。咲がその気になれば、訴えることも可能だぞ」
池田部長の顔色がさらに変わる。咲は淡々と言い放った。
「訴えはしません。でも、それなりの罰は受けていただきたいです」
「厳しい処罰を下すと約束します」
斎藤社長の力強い声に、咲は納得した様子だ。
「では、これ以上は何も言いません。あとはよろしくお願いします、斎藤社長」
「大城さん、お願いだ。俺の話を聞いてくれ」
「あなたの話なんて、聞く価値もありませんし、時間の無駄です。自分の愚かな行為を心の底から後悔して、反省してくださいね」
咲がきっぱりと言うと、池田部長の顔に絶望の感情が広がった。どうすることもできないと悟ったのか、がっくりと肩を落とした。
斎藤社長の行動は早かった。翌月には池田部長の処分が決まり、社内に通達された。部長は降格処分の上、総務部に移動となった。斡旋した専務にも厳重注意が下され、取り巻きたちもそれぞれ厳しい処罰を受けた。その後、池田部長は家庭も失い、憔悴しきった様子で働いていると咲が教えてくれた。
「営業部は別の人が部長になって、いい雰囲気になったよ。おじいちゃんのおかげだね」
咲はすっかり元気を取り戻し、今も同じ会社で働き続けている。転職するなら俺のグループ会社を紹介しようかと言ったが、あっさり断られてしまった。
「どんどん昇進して、池田部長を見返してやりたいの。私、おじいちゃんと同じで負けず嫌いだから」
俺が会社を起こした理由と同じだ。咲は母親譲りの優しさに加え、俺の負けず嫌いな性格も受け継いだらしい。少々心配ではあるが、咲の意思を尊重して、これ以上は何も手出ししないことにした。
「じゃあ、行ってきます」
「おう、気をつけてな」
元気よく出社する咲を見送る。さて、俺も仕事に行くか。いつもの作業着に着替えて、軽トラに乗り込む。空を見上げると、今の俺の気持ちと同じように、雲ひとつない気持ちのいい青空が広がっていた。


