娘の成人祝いのため、夫の実家に集まった親族は十二人。義母の手料理が並ぶ円卓で、酒が回り始めた頃だった。夫の裕二がわざとらしく声を上げた。
「いやあ、本当困っててさ。こいつ、無職の低能嫁なんだよね」
一瞬の沈黙の後、親族の何人かが乾いた笑いを漏らした。義母は腕を組んで頷いている。
「本当に家族を食い物にする嫁には困ったものだわ」
私はショックのあまり、その場で動けなくなった。長年耐えてきた言葉が、ついに親族全員の前で投げつけられた。もう限界だった。
だが次の瞬間、空気を切り裂いたのは娘のみほだった。
「今すぐでいいよ。私もママもパパがいなくて全然平気だから。離婚よろしく。慰謝料もね」
裕二の口が間抜けに開いたまま止まった。だがみほは視線を逸らさず、まっすぐに父親を見据えていた。
「今までママが稼いだお金、全部返してもらうから。私、ちゃんと覚えてるよ」
親族十二人の視線が一斉に私たちに突き刺さる。その瞬間、私は悟った。全てを暴露するのに、これがいいタイミングだと。
「娘の言う通りです。皆さん、これを見てください」
私は鞄から資料を取り出した。それを見た瞬間、夫の顔色が変わった。親族たちも義母も息を飲む。
これをきっかけに、この席は祝宴ではなく終わりの始まりとなった。
私は地元の信用金庫で窓口業務を担当している。毎日預金や振り込みの手続きをしながら、客の何気ない一言から話題を広げ、ニーズを掴むことを得意としていた。丁寧で穏やかな対応は評判だと、上から褒められることも多かった。常連客からは「幸野さんにお願いしたい」と指名されることもある。
夫の裕二と出会ったのも、その窓口だった。最初はただの利用客に過ぎず、何度か来店する彼とは世間話を交わす程度の関係だった。
私には趣味で俳句教室に通っていた。ほどなくして、その俳句教室に新入りが現れた。裕二だった。
教室の隅でぎこちなくノートを開き、先生の言葉を一生懸命書き取る姿を見た私は、思わず声をかけた。
「あれ、裕二さんじゃないですか? 偶然ですね。俳句が好きなんですか?」
話してみると、驚くほど話が合った。同じ趣味を持つ者同士、休憩時間に仲を深めていく。自分の話を最後まで否定せずに聞いてくれる彼となら、静かで温かな家庭を築けるかもしれない。私は裕二の穏やかな人柄に惹かれて結婚を決めた。
後に知ることになるのだが、実は裕二は俳句に興味などなかった。俳句教室に通い始めた理由も、私に近づくためだけの計算だったらしい。けれど当時の私はまだ何も知らなかった。彼を疑う理由をひとつも持っていなかったのだ。
娘のみほが生まれるまでは、裕二は理想的な夫を器用に演じていた。洗濯物を畳み、夕食の片付けを手伝い、休日には掃除機をかけてくれる。慣れない手つきに多少の不器用さはあったが、その姿勢が嬉しくて、私は何度も感謝を伝えた。
「ありがとう、裕二」
そして笑顔を向けた。これからもずっと夫婦で支え合いながら子育てをしていくのだと、疑わなかった。
しかし出産を機に、その日々は崩壊する。
ある日、私は泣き止まない赤ん坊をあやしながら、洗濯機の前で途方に暮れていた。洗濯は終わっていたが、とても洗濯物を干す余裕などない。
「お願い、裕二。少しだけ手伝ってほしいの」
ソファーに寝転がってテレビを眺めていた裕二は、面倒くさそうに眉を潜めた。
「え? 洗濯物を干せって?」
そして吐き捨てるように言った。
「男が家事なんて、どう考えてもおかしいだろう」
最初は裕二がふざけているのだと思った。もう一度言ったら冗談だと受け流そうとしたが、その顔には冗談めかした様子も申し訳なさもなかった。それは心からの言葉だった。
「そんな、本気なの?」
以降、裕二ははっきりと自分は手伝わないという態度を取るようになった。おむつ替えも夜泣きも、全て私の役目として押し付けられた。
やがて私は職場に復帰した。信用金庫でのフルタイム勤務、帰宅後には夕食作り、洗濯、掃除、育児が待っている。一日のどこにも自分の時間はなかった。早朝から深夜まで休む暇なく働き続ける日々。ワンオペ状態に追い込まれた私は、気づけば椅子に座ったまま眠ってしまうことも増えていた。
それでも私は踏ん張った。みほのために。その思いだけで多忙な日々を乗り越えた。
だが、みほが中学生になる頃、もう一つの異変が訪れる。毎月渡されていた生活費が少しずつ減り始めたのだ。
「今月はちょっと厳しいんだ。会社が不況でさ、手当てがカットされてて」
裕二は苦笑いを浮かべながら言い訳をした。
「仕方ないわね。私も働いているし、なんとかになるでしょう」
翌月、さらに金額は減った。また翌月も減る。しかし家計簿の数字を見つめているうちに、疑惑が浮かんだ。こんなに急激に減るものだろうか。
ある日帰宅が遅れた私は、台所のテーブルに放り出されていたレシートの束を見つけた。
「あら、これは何?」
何気なく手に取ると、それは競馬場の売店やパチンコ店の食堂のものだった。
「あなた、こんなものを見つけたんだけど」
夫にレシートのことを聞いてみると、彼の目が泳ぎ始めた。
「仕事帰りに少し寄っただけだよ。気晴らしだ」
ごまかそうとする。
気晴らしにしては回数が多すぎる。使われた金額も決して小さくなかった。このままやり過ごしてはいけない。そう感じた私は弁護士に相談した。
同時に探偵にも依頼して、裕二の身辺調査を始めることにした。配偶者を疑う行為に胸を締め付けられながらも、真実を確かめなければと自分に言い聞かせた。
その結果、残酷な真実を知ることになる。
実は裕二は一年前に会社を解雇されており、完全な無職だったのだ。毎朝スーツで出かけていたのは、仕事に行くふりをするためだった。そして家を出て、パチンコ店や競馬場を点々とする日々を送る。日が暮れると、仕事帰りだと偽って帰宅した。
さらに別の事実も発覚した。裕二は義両親や義兄、遠方の親戚にまで連絡を取り、嘘を吹聴していた。
「幸野が贅沢して生活費を使い込むから、借金が絶えないんだ」
なんと借金の理由を、無職の自分の遊興費ではなく、妻である私のせいにすり替えて、多額の金を無心していたのだ。
義母の和子は、息子である裕二の言葉を鵜呑みにしていた。ある時、義母から電話が入った。何のことだろうかと電話に出ると、突然罵倒された。
「あんたが贅沢するから裕二が苦労してるんじゃないか。借金まで背負わせて、よく平気でいられるね。家族を苦しめるんじゃないよ」
身に覚えのない非難の言葉。私は驚きで、しばらく何も言い返せなかった。ショックのあまり言葉が出てこない。
しかし頑張って声を絞り出した。
「お母さん、落ち着いてください。何か誤解をしているようなので、一度直接お会いして話を」
「話なんていらない。あんたは家族を食い物にする最低な女だよ」
そして一方的に通話は切れた。
自分の中で何かが限界を迎えた。私は静かな部屋で一人、テーブルに突っ伏す。胸の奥で様々な感情が音を立てて崩れていくのを感じた。
私はなぜこんな目に遭っているのだろう。支え合うはずの夫婦は、気づけば一方的に搾取される関係になっていた。これまでの献身も努力も、なかったことにされている。
私は電話をそっと置き、深く息を吸った。そして落ち着いて、これからのことを考えた。弁護士の声が頭の中で蘇る。
『証拠を集めてください。感情ではなく事実で戦いましょう』
その日から私は、裕二とかわされる会話の一つ一つを録音し始めた。裕二の暴言、生活費を減らした言い訳、ギャンブルに通うことを冗談めかして語る声。無職であることを裏付ける解雇通知書のコピー。そして家計の全てを自分の給料で支えてきた明細や通帳の記録。一つ一つを淡々と集め、整理し、ファイルに閉じていく。この作業には感情をえぐられた。しかし同時に、その作業が自分を守る盾になることも理解していた。
やがて、義兄の息子の成人を祝う親族集会の日が訪れた。義実家には義両親、義兄家族、遠方から駆けつけた親戚、合わせて十二人が集まり、玄関先から賑やかな笑い声が響いていた。
「お邪魔します」
私が義実家に足を踏み入れた瞬間、空気は一変した。冷たい視線が一斉に突き刺さる。あちこちでひそひそ声が起こり、誰かが鼻で笑う。椅子に座る前から、そこに自分の居場所はないのだと告げられているようだった。
覚悟はしていたはずなのに、胸の奥がきしむ。私は黙って席に着いた。
誰からも話しかけられない円卓の端で、料理に箸をつけるふりをしながら、ただ時間が過ぎるのを待つ。酒が回り始めた頃、場の中心にいた裕二の声が一際大きくなった。
「いやあ、本当困っててさ」
わざとらしく笑いを取るように、彼はグラスを揺らす。親族の視線が一斉に集まるのを確認してから、口元を歪めた。
「こいつ、無職の低能嫁なんだよね」
その言葉を皮切りに、部屋のあちこちからどっと笑いが起こる。低能な嫁。その言葉が刺さった。
「俺の稼ぎに寄生して、ブランドばかり買い漁るんだわ、こいつ」
テーブル越しに誰かが白けたように視線を送ってくる。義母は腕を組み、頷きながら相槌を打った。
「そうなのよ」
裕二はさらに言葉を重ねる。酒に酔った裕二は上機嫌に語った。
「それに最近太ってきたしさ。みほが成人したら、速攻で離婚してやるつもりなんだ」
その瞬間、空気がぴたりと止まった。私はゆっくりと視線を上げる。グラスの向こうで裕二は笑っていた。悪びれる様子もなく、ただ面白い話題を提供しただけのように。
とうとう我慢の限界を迎えた。立ち上がろうとしたその時、その場で最初に声を発したのは私ではなかった。
「今すぐでいいよ」
それはみほだった。その声には揺るぎない意志が宿っている。椅子から立ち上がったみほは、まっすぐに父親を見つめていた。怯えも迷いもなく、その瞳には長い年月の中で積み重なった怒りと悲しみが宿っていた。
「今すぐでいいよ。私もママも、パパはいらないから」
ざわめきが起こる。誰かが息を飲む音がはっきりと聞こえた。裕二は一瞬言葉を失い、顔を引きつらせた。
「な、何言ってんだよ。子供が生意気に」
だが、そのセリフをみほは遮った。
「今までのママの給料、返して。慰謝料もよろしくね」
中学生になり大人びた表情を見せた娘の目は、今や父親を見据えたまま揺るがない。代わりに揺らいだのは父に対して積み重なった怒りの感情だった。
「何言ってんだよ」
「みほ、冗談だろ」
裕二は取り繕おうとする。しかしその声はわずかに震えていた。酔いの勢いで放った言葉が自分に跳ね返ってくるとは、想像していなかったのだろう。
みほは椅子から静かに立ち上がった。
「冗談じゃないよ。ずっと聞いてた。ずっと見てた。ママが倒れそうになりながら働いて家事をして、私の学費の心配をしているのに、パパは嘘をついて遊んでばかり」
これはいいタイミングかもしれない。そう考えた私は、ゆっくりと鞄に手を伸ばした。中から分厚い封筒を取り出し、ためらうことなくテーブルの上に叩きつけた。乾いた音が部屋に響いた。親族の視線が一斉に封筒へと集まった。
「娘の言う通り、これが全ての答えです」
私はみんなに封筒の中身を見せた。封筒の口が開けられ、書類が広げられる。会社からの解雇通知書のコピー。日付が並んでいる。担当者の署名、解雇理由。義母が顔を引きつらせて覗き込む。
次に取り出したのは写真の束だ。昼間のパチンコ店のネオン、競馬場のスタンド。そこに写り込んだのは、ネクタイを緩めタバコを加えた裕二の姿だ。新聞の競馬欄にペンを走らせているところもある。日付入りの写真は、まるで証拠品のようにテーブルの上に順番に並べられていった。
親族たちがざわめく。
「仕事に行ってるんじゃなかったのか」
「これ、毎日じゃない」
さらに私は別の書類を取り出した。それは銀行口座の取引明細のコピーだった。食費、光熱費、学用品費、修学旅行積み立て、塾の月謝など、生活に必要な支出が順番に並んでいた。
「ご説明しますね。私は仕事をやめていません。夫が無職になってからも、家計を支えるために勤務時間を増やしました」
「そんな」
思わず義母が口を開いた。
「あなたの息子さんの借金の返済も、今日のご馳走も、親族の集まりにかかる費用も、全て私の給料から出しています」
義母は言葉を失ったように、口を開閉するだけだった。先日電話で浴びせられた義母の罵倒。その言葉が今は自分に降りかかっている。
裕二は顔色を変え、封筒の中身を乱暴に掴み取ろうとした。
「やめろよ。こんなのみんなの前で見せる必要ないだろ。家の中のことを外で言うなんて」
私はその手を避け、静かに言った。
「外で言いふらしたのは誰だと思っているの? 『私が贅沢して生活費を使い込むから借金が絶えない』って、そう言って義両親や義兄夫婦、おまけに親戚の方々にもお金を無心したでしょう」
親族の誰かがはっとして視線をそらす。貸した覚えのある者。私を責める言葉を信じてしまった者。それぞれが気まずそうにしていた。
みほが父をまっすぐ見据えたまま言葉を重ねる。
「ねえ、パパ。家事もしないで、働きもしないで、ママのお金を当たり前みたいに使って。親戚からもお金借りて。パパはそれでいいの? 恥ずかしくないの?」
その言葉は、かつて裕二が笑いながら吐いた『寄生虫』という表現を、冷酷に返していた。
裕二は口を開いたが、もはや軽口も冗談も出てこない。視線は泳ぎ、喉の奥で言葉が絡まる。
私は最後にきっぱりと言った。
「私はこれ以上、あなたの嘘に付き合うつもりはありません。あなたの言葉も暴力も、全て記録しています。今日のことも含めて、しかるべき手続きを取ります」
部屋の空気が大きく揺れた。誰も笑っていない。酒の席はすでに終わり、ここは法廷のようになっていた。
そんな中、強い怒声が響き渡った。声の主は義兄・聡だった。
「裕二、お前は俺から百万円借りたよな。あれもギャンブルか」
そう言うと兄は立ち上がり、テーブルを拳で叩いた。兄は会社員をしている。人前では冷静沈着で通っているが、今は怒りを隠しきれていなかった。血の気を帯びた表情で、とうみつけ視線を逸らさない。
「違う。それは雪野が」
裕二は慌てて口を開く。しかし言葉は続かない。用意していたはずの言い訳は、テーブルの上に無造作に並べられた証拠の束によって粉砕されていた。
その時だった。高い声がした。
「やめなさい、聡。あの書類も写真も全部、捏造よ」
義母が立ち上がり、私を指差す。そして恨めしそうな顔で私を睨みつけた。
「裕二が無職なわけないでしょ。毎日スーツを着て出勤してるのよ。ギャンブルなんてする子じゃないの。全部この嫁がやったこと。この嫁が勝手に作った話よ」
周囲の親族が戸惑いの表情を見せる中、義母だけは頑なに息子を庇い続けた。信じたいものしか信じない。その強烈な母性が、現実から目を背けさせていたのだ。
「お母さん、お気持ちは分かります。ですが現実は書類の通りです」
私は視線を親族全員に向け、告げる。
「これから、裕二さんに貸したお金はまず戻ってこないと思ってください。無職で収入がありませんから」
一同が息を飲んだ。
「さらにギャンブル依存の疑いも強いです。私からも返済はしません。どうかそれだけは覚悟してください」
親族たちの間に重い沈黙が流れた。誰もが胸のうちで損失を計算し、やり場のない怒りを噛み殺している。
私は続けて、新成人の甥の方へ向き直った。祝いの主役である青年は、困惑したまま固く姿勢を正している。
「聡君、あなたのお祝いの席を台無しにしてしまって、本当にごめんなさい」
深々と頭を下げると、聡は慌てて首を横に振った。
「いえ、そんな」
むしろ彼は申し訳なさそうな顔をしている。
そして私はゆっくりと鞄に手を差し入れた。取り出したのは一枚の書類だ。それは離婚届だった。それをテーブルの中央に、ためらうことなく叩きつけた。
「もう終わりにします」
短い言葉だった。だがそれだけで十分伝わるだろう。
「あなたがどう弁解しようと、どう取り繕おうと、私の決意は変わりません。私はあなたの妻を続けるつもりはないです。今日ここで終わらせますから」
裕二は蒼白になり、書類を掴もうと手を伸ばす。
「待てよ、雪野。そんな大事なことを勝手に決めるなよ、こんなの」
みほがその手を遮った。父を睨みつけ、はっきりと言う。
「勝手に決めたのはパパの方じゃない。嘘をついて全部ママに押し付けて。それでもまだ自分だけ被害者ぶるの?」
娘から父親に向けられた感情は、冷め切ったものだった。
私は義実家の座敷を見渡す。親族の表情、沈黙、乱れた証拠書類。そして最後に小さく息を吐き、言った。
「お世話になりました。これで失礼します」
コートを羽織り、立ち上がる。みほも無言で私の隣に並んだ。そして私たち二人は、振り返ることはなかった。
背後で誰かが叫んでいたようだが、私はもう立ち止まらない。玄関の扉を開けると、冬の冷たい空気が頬を打った。
義実家を後にしてから、私は離婚に向けて動き続けた。離婚協議は淡々と進み、書類のやり取りと弁護士からの連絡が日常になる。必要なことだけを淡々とこなす日々。
そんなある朝、同僚から一本の連絡が入った。
「幸野さん、SNS見ました?」
その声はどこかためらいがかった。嫌な予感がする。通話を切り、急いで画面を開いた瞬間、私は息を飲んだ。
『信用金庫職員・塩田幸野の顧客情報を悪用して私服を肥やす収奪犯。ホスト通いで借金まみれ、金庫の金も横領してるらしい』
それは実名だった。職場も担当業務も書き連ねられている。根拠のかけらもない噂話が、あたかも事実であるかのように拡散されていた。
「何よ、これ」
背筋に冷たいものが走る。信用金庫という場所で働く者にとって、顧客情報の悪用という言葉は致命傷だった。
ほどなくして職場の電話が鳴り響く。
「おい、ネットに書かれていたことは本当なのか? そんな人間が窓口に立ってるなんて、説明しろよ」
市民からの抗議、問い合わせ、苦情。窓口業務は混乱し、支店全体に緊張が走った。私自身に身に覚えがないと分かっていても、信用を大地とする金融機関がこの事態を放置するわけにはいかない。
午後、支店長からの呼び出しを受け、会議室に通された。重々しい表情の上司たちの前で、私はまっすぐに背筋を伸ばした。
「幸野さん、辛い判断ですが、事実確認が取れるまで自宅謹慎という形を取らせてください」
「承知しました。必ず潔白を証明します」
私は小さく頷いた。
帰宅すると、家の中が異様に静かだった。みほは何も言わずに私を見つめる。
「ママ、大丈夫?」
どうやらネットの騒動を知っているようだ。私は娘を抱きしめた。
「大丈夫。時間はかかるかもしれないけど、ちゃんと分かってもらえるから」
その夜、スマートフォンが震えた。表示された名前は裕二だ。
「はい、もしもし」
すると軽い声が響いた。
「いやあ、騒ぎになってるみたいだな。大変だな、雪野」
「何の用ですか?」
軽口に乗らないよう、厳しい声で返すと、裕二は楽しそうに笑う。
「おい、俺と復縁しろよ」
突然こんなことを言い始めた。
「俺とよりを戻せばさ、あの書き込み止めてやってもいいんだけど」
言葉の意味が理解できた瞬間、背筋が凍った。脅迫だ。しかも社会的信用を盾にした卑劣なものである。
「あれ、あなたがやったの?」
「さあ。ネットは怖いからな。でも俺ならなんとかできるかも」
軽薄な笑い声。まるで人の人生を持て遊ぶことに快感を覚えているかのようだった。
「条件は簡単だ。離婚を取り下げろ。俺の嫁に戻れ。それだけで全部丸く収まる」
私は深呼吸をすると、言った。
「無理です」
短く言い切ると、電話の向こうで一瞬沈黙が流れる。
「強気だな。職を失ってもいいのか? どうなっても知らないぞ」
「この件に関しては弁護士に相談しています。あの投稿のIPアドレス特定も進めていますわ」
その言葉に、裕二の動揺が伝わった。
「おい、冗談だろ?」
「冗談ではありません。名誉毀損、業務妨害。結構重い罪になると思うわ」
通話の向こうで歯噛みする音がした。
「生意気になったな」
私は無言で通話を切る。テーブルの上には弁護士から送られてきた資料が並んでいた。スクリーンショット、ログの保存方法、警察への相談手順。一つ一つを確認しながら、私は静かに覚悟を固めた。
負けないわよ。
私は裕二に屈するつもりはない。しかし、電話を切った後も私の胸の奥には嫌な予感が残っていた。これだけで終わらない。そんな直感があったのだ。
その予感は的中する。ある日、一本の連絡が入った。それは「塩田さん名義のカードについていくつか確認したい点があります」というクレジット会社からの問い合わせだった。利用明細には、覚えのない高額な支払いが並んでいる。ブランド店、温泉旅館、高級レストラン。いずれも私が足を運んだ覚えのない場所ばかりだった。
すぐに調査を開始する。そこで判明したのは、裕二が以前から私の身分証や給与明細を勝手に持ち出していたという事実だった。自宅の引き出しにしまっていたはずの書類が、いつの間にか抜き取られている。なんと裕二は私の名義でカードを偽造、作成し使用していたのだ。
ここまでするだなんて。
さらに追い打ちをかけるように、調査の中で別の名前が浮かび上がる。それは義母の名。私が家を出た直後から、偽造カードは義母の手にも渡っていた。義母は当時長男夫婦と同居していたが、裕二を庇い続け、私を罵倒した際に愛想を尽かされ、完全に絶縁されてしまう。そして家を出て行ったのは長男夫婦の方だった。
広い義実家に一人残された義母。年金とパート収入だけでは生活は苦しく、孤独と不安が心を蝕んでいく。その隙間に入り込んだのが裕二だった。
「母さん、雪野の金があるぞ。どうせあいつは金を余らせてるんだから、俺たちが使っても問題ない」
そんな甘い言葉にすがるように、義母は息子と共謀した。偽造カードを使い、これまで我慢してきた鬱憤を晴らすかのように贅沢を重ねる。食事、買い物、旅行。
その事実を知った私は、怒りに身を任せず冷静に動いた。すでに何度も、感情だけで動けば足元を救われることを学んでいたからだ。
私は淡々と証拠を揃えた。カードの利用履歴、監視カメラ映像、申し込み時に使われた書類のコピー。全てが偽造と不正利用を裏付けていた。
そしてある日、私はその資料を持って信用金庫へ向かった。自宅謹慎中の身ではあるが、事情が事情だ。応接室で支店長と本部の担当者に向かい、私は静かに説明を始めた。SNSでの誹謗中傷、裕二からの脅迫電話、偽造カードの不正利用。そしてそれらが全て繋がっていること。書類を一枚一枚提示するたび、室内の空気は重くなっていった。
「これは個人の問題では済みませんね」
沈黙を破ったのは支店長だ。
「職員の名誉を著しく傷つけ、業務を妨害した。しかも金融機関の信用を狙った悪質な行為です」
信用金庫側は満場一致で決断した。裕二らを名誉毀損と業務妨害で刑事告訴することを。職員を守ることは、組織を守ることでもある。
私は深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
それと同時に、私自身も訴訟の準備を進める。名誉毀損、有印私文書偽造、そして同行使。被告欄には裕二と義母、二人の名前が並ぶ。
これは復讐じゃない。私と娘の人生を守るための当然の手続きよ。
夜、帰宅するとみほがテーブルに向かって宿題をしていた。顔を上げた娘は、私の表情を見て小さく頷く。
「どう? 解決しそう?」
「ええ、安心して」
それだけで十分だった。長い闇の中で、ようやく出口が見え始めている。嘘はどれほど重ねても、真実には勝てない。
警察の捜査は迅速だった。SNSに書き込まれた誹謗中傷は、裕二がネットカフェから投稿したものであることが、IPアドレスと防犯カメラ映像によって裏付けられる。そして偽造カードの使用履歴も、動かぬ証拠となった。
やがて裕二と義母は揃って逮捕された。
裁判で明らかになったのは、その悪質さだ。裕二には執行猶予なしの実刑判決が下り、義母も多額の罰金と賠償金の支払いを命じられる。法廷で二人が見せた懊悩の表情を、私は静かに見つめるだけだった。
一方、義兄・聡をはじめとする親族は、裕二に貸していた金の返済を厳しく求めた。実家は差し押さえられ、義母は長男夫婦からも完全に拒絶され、帰る場所を失う。裕二と義母は、終わりの見えない借金地獄と業を背負いながら生きていくことになった。
私は職場の正式な調査を経て復職した。
「みんな、よく耐えたね」
次々と声をかけてくれる。同僚や上司の言葉に、胸の奥がじんわりと温かくなった。ようやく普通の日常が戻ってきたのだ。
それからの私は、みほの高校受験を全力でサポートした。夜遅くまで一緒に机に向かう日々の中で、みほがふと笑っていった。
「私が就職したら、初月の給料でママを旅行に連れて行くから」
私は娘の頭をそっと撫でる。
失ったものは多かった。それでも守り抜いたものは、確かにここにある。
私は前を向き、新しい人生を歩き始めた。



