「お母さん、どうしてこんなところにいるの?」
私はその光景が信じられなかった。母は犬小屋のような小さな建物の中にいた。薄暗い内部には湿った土とカビの匂いが混ざり合い、鼻の奥を刺す。壁には爪で引っかいたような細い傷跡が無数に走っていた。それが母の仕業なのかと思うと、胃がひっくり返りそうになった。
その時、スマホが激しく鳴り響いた。画面には義妹の中村エリの名前。
「あら、しおりさん?私たち、今家族で温泉旅行中よ」
電話の向こうから賑やかな笑い声が聞こえてくる。
「お母さんは旅行に誘っても行かないって言うから置いてきたのよ」
エリは平然と嘘を並べ立てる。母は目の前の汚れた小屋の中にいるのに。私は怒りを押し殺すのに必死だった。
電話を切った瞬間、涙が溢れた。私は心に復讐の炎を燃やし始めていた。
「もう大丈夫だからね、母さん。私が全部終わらせるから」
母を強く抱きしめた。その震えが復讐の決意になった。
私はしおり、35歳の主婦。結婚して8年、3歳の息子ゆう太がいる。この穏やかな幸せの裏で母が苦しんでいたなんて、考えもしなかった。
全ての始まりは父が病で亡くなった後だった。私は将来を考えて都会へ嫁ぐことを選んだ。母を弟夫婦に託して。
「俺たちが母さんを見るから」
弟・ケン太のその言葉に安易にすがってしまった。あの時、エリがどれほど傲慢な人間か気づいていたのに、私は見て見ぬふりをした。自分の責任を回避したかったのだ。
ケン太は昔から流されやすい性格だった。彼は妻のエリに逆らえない。エリが仕事での失敗を金で解決してから、彼は完全に彼女の支配下に置かれた。
エリは母の存在が邪魔だった。彼女は母の尊厳を少しずつ奪い始めた。
「お母さんに家事をやってほしいの。忙しくて私、何もできないから」
最初は些細な命令だった。しかしそれはエスカレートしていく。母は食事を奪われ、古い服ばかり着せられ、狭くて薄暗い部屋に押し込められた。
ある日、久しぶりに実家を訪れた私は台所で母の預金通帳を見つけた。父が母の老後のために残した大切な資金だ。開いてみると、そこには数年に渡る大量の引き出しの記録。
「そんなバカな…」
毎月数十万円単位の引き出し。母がこんな大金を使うはずがない。全てエリに盗まれたんだ。父が守り抜いたお金まで。
母に改築の話を聞いた時も違和感があった。エリが母のために部屋を増築すると言っているらしい。でも、それはきっとエリの衣装部屋になるだけだろう。
そして、父の遺品は全て売り払われていた。
「ヘリさんに言われて売ってしまったのよ。邪魔だと言われて…」
母は泣きながらそう言った。父の思い出の品が、二束三文で。
私は実家でエリと直接対決した。彼女は笑顔で嘘を並べ立てる。
「あれは生活費よ」
「これが報いよ」
私は何も言い返せなかった。彼女の言う通り、私は母を置いて逃げた人間なのだから。
その後、私は母を連れ出そうと決意した。早朝、エリに気づかれないように実家へ向かった。母は薄い布団の上で横になっていた。驚くほど痩せ細った体。
病院に連れて行くと、医者は深刻な顔をした。
「重度の栄養失調です。極度の脱水症状もある。全身の打撲跡も…このままでは命に関わりますよ」
母は命の危険がある状態だった。それでも母は「エリさんに怒られる」と怯えていた。
エリからの怒涛のメッセージが届く。「勝手に連れ出すな」「警察に言うぞ」。
母は「ごめんね、しおり。今からすぐ帰るから」と言った。エリを刺激してもケン太が困るだけだと。
「私にとってはこれが幸せなの」
母はそう言って地獄に戻っていった。私はその光景をただ見ていることしかできなかった。
後日、もう一度実家を訪れた時、玄関先で恐ろしい会話を聞いてしまった。
「お母さんの持ち物を全て処分するのよ。早めの遺品整理よ」
エリは母がまだ生きているのに、その痕跡を消そうとしている。ケン太は逆らえずに従っていた。
そして公園での事件。エリが突然現れて息子に話しかけた。
「あなたのお母さんは迷惑な人よ。わかる?」
子供に何てことを言うんだ。ゆう太は混乱して泣きそうな顔をしていた。
エリの悪意は止まらない。ママ友の間にもデマを流したらしい。「しおりさんはお母さんの金を狙ってるって」。
さらにエリは母の生活費を全て私に負担させた。月々の送金を強いられ、私は節約のために特売のスーパーに通う日々。そんな私をエリは嘲笑った。
「貧乏な顔して特売品を漁ってるんでしょう」
ある日、実家に電話をかけても母が出ない。胸騒ぎがして向かうと、庭の奥に小さな小屋が建っていた。中からかすかな嗚咽が聞こえる。
「お母さん!」
鍵をこじ開けると、そこにはぐったりとした母がいた。エリが母を犬小屋に閉じ込めていたのだ。三日前から。
エリに電話をすると、彼女は平然と言った。
「温泉旅行よ。お母さんは行かないって言うから置いてきたの。あの犬小屋でおとなしくしてる」
ケン太の笑い声まで聞こえてきた。許せない。絶対に許さない。
私は幼馴染みの里美に相談した。彼女は不動産鑑定士で、自分の事務所を構えていた。
「できる。私がいるから」
里美は冷静に計画を語った。エリが行った増築は違法行為。近隣からのクレームもある。そこを突けば、あの家には住めなくなる。
計画は実行された。近隣住民がエリの家に押し寄せた。
「改築のせいで日当たりが悪くなった」
「お母さんの件、聞いたわよ。ひどすぎる」
エリは顔面蒼白になっていた。そして、夫婦の関係も崩壊し始めた。
「お前のせいでしょ!」
「俺のせいじゃない!勝手に改築したのはお前だろうが!」
ケン太が初めてエリに反抗した。長年維持されてきた支配関係が、音を立てて崩れていく。
エリから助けを求める電話が来た。「お金払うから、どうにかしてよ。300万、いや500万でもいい!」
「もう遅いです。手遅れなんです」
私はそう言って電話を切った。
行政から警告が出され、専門家の調査の結果、家は修繕不可能だと判断された。取り壊しが決定した。エリの自慢の豪邸は、負の遺産となって消えていく。
解体現場に立った時、私はある指示を出していた。それは庭の隅にある小さな小屋を残すこと。
「エリの家だけを徹底的に壊し、あの犬小屋だけは残してください。それが最大の制裁です」
里美の計画通り、豪邸は瓦礫の山となった。その中に、ぽつんと一つの小屋が残された。母が閉じ込められていた場所。それがエリの罪の証として、永遠に残される。
エリとケン太は全てを失った。家も、金も、信用も。そして、互いの愛も。
「あんたのせいだ!」
「お前のせいだろうが!」
二人は狭いアパートの一室で、互いを責め合いながら暮らしている。エリが盗んだ母の預金は全額返済させた。エリの評判は地に落ち、近所にも顔向けできない状態だ。
私は母と新しいマンションで暮らし始めた。日当たりのいい、静かで穏やかな場所。
「気持ちがいいわ。本当にありがとう」
母はようやく笑顔を見せてくれた。あの地獄の日々は遠い過去になった。母の尊厳は完全に取り戻されたのだ。
「しおり、あなたも幸せにならなきゃだめよ」
母は私の手を取った。その手は温かかった。
「うん。お母さん、これからは家族みんなで幸せになるわ」
私は自分自身にそう誓った。これで長い戦いが終わったのだ。温かく優しい光の中に、母との新しい未来がある。



