夕方、スーパーからの帰り道。玄関で靴を脱ごうとしたその時、リビングから息子と嫁の声が聞こえてきた。「親なんてATMと同じでしょう。必要な時にお金を引き出すだけの存在よ」。私はその場に凍りついた。毎月30万円、3年間で1080万円。全て息子家族のためだと思って渡してきたお金。でも彼らは私のことを「金ずる以外の価値がない」と言い、さらに認知症の診断書を偽造して財産を奪い、施設に入れようと計画して…

夕方、スーパーからの帰り道。玄関で靴を脱ごうとしたその時、リビングから息子と嫁の声が聞こえてきた。「親なんてATMと同じでしょう。必要な時にお金を引き出すだけの存在よ」。私はその場に凍りついた。毎月30万円、3年間で1080万円。全て息子家族のためだと思って渡してきたお金。でも彼らは私のことを「金ずる以外の価値がない」と言い、さらに認知症の診断書を偽造して財産を奪い、施設に入れようと計画して...

夕方4時過ぎ、いつものスーパーから帰宅した私は、玄関で息子夫婦の会話を聞いてしまった。
「親なんてATMと同じでしょう。必要な時にお金を引き出すだけの存在よ。」
息子の妻、ゆかりの声だった。私は、その場で凍りついた。

私は藤崎友子、65歳。40年間中学校の国語教師を務め、5年前に定年退職した。夫は10年前に病気で亡くし、今は一人暮らしだ。
「毎月30万も振り込んで、まだ気づかないなんて、本当におめでたいわよね。」
「まあ、母さんには感謝してるよ。金銭的にはね。」
息子の高一郎の言葉に、私の心臓は早鐘を打ち始めた。

3年前から、孫の教育費や住宅ローンの返済にと、求められるまま援助してきた。まさか、そんな風に思われていたなんて。
静かに荷物を置き、私は廊下の影からリビングの様子を伺うことにした。テーブルには、私が先週送った30万円で買ったであろう高級ワインのボトルが並んでいる。
思い返せば、最初は「孫の塾代が足りなくて」という話だった。可愛い孫のためならと、喜んで10万円を振り込んだ。
それが次第に、住宅ローンの返済、車の車検代と、金額も頻度も増えていった。退職金と、夫が残してくれた保険金、コツコツと貯めた貯金。合わせて4500万円。老後の蓄えとして大切にしてきたお金だったが、息子家族のためならと、言われるがまま送金を続けてきたのだ。

「来月は50万要求してみるわ。どうせ断れないでしょう。」
「東打田生子の私立中学の入学金って言えば、すぐに振り込むよ。本当に都合のいいATMだよ。暗証番号もいらないし、手数料もかからない。」
2人の笑い声が、私の胸に鋭い痛みを与えた。これまでの3年間で、総額いくら渡してきただろうか。計算すると、1080万円にもなることに気づき、愕然とした。

私は静かに、でも確実にある決意を固めていった。震える足で自室に戻り、ベッドに腰を下ろした。
「ATM」まさか自分がそんな風に呼ばれているなんて。
先月のことを思い出した。高一郎から電話があり、「母さん、ちょっと相談があるんだけど。ゆかりの父親が入院してね、手術費用で50万円必要なんだ」と言われた。私は迷わず送金した。家族の一大事ですから、当然のことだと思っていた。でも今思えば、ゆかりの実家は裕福なはずだった。

立ち上がって、箪笥の引き出しから通帳を取り出した。過去3年間の記録を見返すと、驚くべき事実が浮かび上がる。最初の頃は2、3ヶ月に1度、10万円程度だった。それがいつの間にか毎月になり、金額も20万、30万と増えていった。そして気づいたことがもう一つ。送金の理由が、後になるほど曖昧になっているのだ。「生活費がちょっと苦しくて、助けて欲しい」具体的な理由もなく、ただお金を要求されるようになっていた。

リビングからまた声が聞こえてくる。廊下に出て、そっと聞き耳を立てた。
「そういえば、来年あたり母さんを老人ホームに入れるって話。どうする?」
高一郎の言葉に、私は息を飲んだ。
「いいんじゃない? この家売れば、かなりの金額になるでしょう。駅から近いし、土地も広いし。母さんの貯金もまだかなりあるはずだ。老人ホームの費用を差し引いても、俺たちの手元に残る金額は相当なものになる。年金も管理できるしね。月に10万以上あるんでしょう?」
「でも、母さんがどう思うかな?」
「大丈夫よ。認知症の気があるって医者に言わせればいいのよ。最近物忘れが激しいとか、適当に症状を作ればいいの」
「なるほど。それは名案だな。」
2人の会話は、さらに恐ろしい方向へと進んでいった。
「正直、もうお母さんと一緒にいるのも限界なのよ。この前も私たちが旅行に行く時に孫の面倒を頼んだら、『疲れた』って買い出して」
「確かに、最近は役に立たないことが多いな。」
役に立たない。私は唇を噛みしめた。先月、息子夫婦が海外旅行に行くというので、10日間孫の世話を引き受けた。朝5時に起きてお弁当を作り、学校まで送り迎えをし、塾の送迎もした。体力的にきつかったのは事実だが、可愛い孫のためだと思って頑張った。今思い返すと、あの時2人からはお礼の一つもなかった。
「ま、祖母なんだから、孫の世話をするのは当然だろう。」
「そうよね。っていうか、お金もらってるんだから、それくらいやって当たり前。」
お金をもらっている? 逆ではないですか? 私がお金を渡しているのに。
「そろそろ限界ね。早くホームに入れて、財産整理しましょう。」
「そうだな。来月あたり、認知症の診断書をもらえる病院を探しておくよ。ついでに成年後見人の手続きも調べておいて。財産管理は私たちがやるから。」

私は静かに自室に戻り、ドアを閉めた。もう十分だった。十分すぎるほど、息子夫婦の本心を知ることができた。
鏡に映った自分の顔を見つめる。確かに65歳。若くはない。でも認知症ではないし、まだまだしっかりしている。40年間、教師として多くの生徒たちを育ててきた自信もある。そして何より、私にはまだ4500万円の貯金がある。これは私が汗水流して働いて貯めたお金だ。息子夫婦のATMになるために貯めたのではありません。

スマートフォンを手に取り、銀行のアプリを開いた。そして、一つの決断を下すことにした。
本当にこれでいいのか? 腹を割った息子に対して、こんなことをしていいのか? そんな時、リビングからまた声が聞こえてきた。今度は電話をしているようだ。私は再び廊下に出て、聞き耳を立てた。
「ああ、川原。この前の件なんだけどさ」
どうやら友人と話しているようだった。
「いや、大丈夫、大丈夫。今月も30万振り込ませたからさ。来月の旅行代は確保できたよ」
「え? 親に申し訳ないって、何言ってるんだよ。親の金を使うのは子供の権利だろう」
私は胸が締めつけられる思いだった。友人にまで、そんな話をしているなんて。
「俺の母親なんて言えば、いくらでも金出してくれるから。まさにATMだよ。しかも24時間365日営業のな」
電話の向こうで友人が何か言ったようだった。
「情けない? いやいや、賢いって言ってほしいよ。親をうまく使うのも、生きる知恵ってもんだろ。それに、もうすぐ財産が入る予定なんだ。母親を施設に入れて、家と貯金を手に入れる計画があってね」
ゆかりの声も聞こえてきた。
「あなた、そんなこと他人に話して大丈夫?」
「川原は大丈夫だよ。あいつも似たようなことやってるから。」
似たようなこと。つまり、親を食い物にしている人が、他にもいるということだろうか。
「実はね、もう弁護士にも相談してあるんだ。認知症の診断さえ取れれば、成年後見人になれるって」
「へえ。準備がいいのね。」
「当然だろ。4500万の貯金と、この家と土地合わせれば、6000万は下らない。それに年金が月に13万。これを逃す手はない」
私の個人情報を、こんなに詳しく他人に話しているなんて。しかも、まるで獲物を狙うハイエナのような口ぶりだ。
「母さんには悪いけど、もう用済みなんだよ。金ずる以外の価値はない。」

その瞬間、私の中で何かが音を立てて崩れ落ちた。用済み。金ずる以外の価値はない。思い返せば、高一郎を大学まで行かせるために、私はどれだけ苦労したことだろう。夫の収入だけでは足りず、私も教師として必死に働いた。高一郎が就職した時は、自分のことのように嬉しかった。結婚式では、涙が止まらなかった。幸せになってほしい。ただそれだけを願っていた。
「お母さんの部屋、もう1度探ってみない? 通帳とか印鑑とか、今のうちに場所を確認しておいた方がいいんじゃない?」
「それもそうだな。今なら昼寝してるかも。」
足音が近づいてくる。私は慌てて自室に戻り、ベッドに横になった。目を閉じて、寝たふりをする。ドアがそっと開く音がした。
「寝てるみたいね。」
「よし、探すぞ。」
2人は遠慮なく、私の部屋を物色し始めた。タンスの引き出しを開ける音、クローゼットを探る音。まるで泥棒のようだ。いや、泥棒そのものかもしれない。
「通帳、あった。印鑑はこれかな?」
私は薄目を開けて、2人の行動を見ていた。証拠として、後で必要になるかもしれないと思ったのだ。
「へえ、本当に4500万もあるんだ。」
「年金の通帳もある。毎月きっちり13万入ってるね。」
「これ、全部来年には俺たちのものか。」
2人は通帳を元の場所に戻すと、静かに部屋を出ていった。

私は起き上がり、今度こそ決心した。もう迷いはない。この人たちは、私の息子でも嫁でもない。ただの強盗だ。
息子夫婦が部屋を出て行った後、私はすぐに行動を開始した。まず、スマートフォンで先ほどの会話を思い出しながら、重要な点をメモに書き留めた。認知症の診断を偽造しようとしていること。財産を狙っていること。私を用済みと言ったこと。全て証拠として残しておく必要がある。
次に銀行アプリを開いた。定期送金の設定画面を表示させ、迷わず停止ボタンを押した。
「本当に定期送金を停止しますか?」確認画面が出る。私は深呼吸をして「停止」を選択した。
『定期送金を停止しました。』画面に表示された文字を見て、少し胸がすっとした。これで来月からの自動送金は止まる。でも、これだけでは足りない。

私は通帳と印鑑を取り出し、別の場所に移すことにした。寝室のタンスではなく、書斎の隠し金庫。これは夫が生前使っていたもので、息子も知らないはずだ。続いてパソコンを開き、これまでの送金記録を全て印刷した。3年間で1080万円。改めて数字を見ると、怒りが込み上げてくる。
そしてLINEを開いた。息子との会話履歴を見返すと、ほとんどがお金の無心だった。「母さん、今月ちょっと厳しくて」「子供の塾代が」「車の修理代が」「ゆかりの父親が」全てスクリーンショットを取り、保存した。
次に、私は古い友人に電話をかけた。大学時代からの親友で、今は弁護士をしている。
「もしもし、とも子? 久しぶり。実は相談があって」
事情を説明すると、相手は真剣な声になった。
「それはひどいわね。成年後見制度を悪用しようとしているなんて。どうしたらいいかしら?」
「まず、認知症じゃないという診断書を取っておいた方がいいわ。信頼できる医者を紹介するから」
「それと、これまでの送金記録は全て証拠になるから、きちんと保管しておいて。返還請求もできる可能性があるわ。」
「返還請求?」
「ええ。もし脅迫的な要素があれば、返金を求めることができるの。」
私は少し希望が見えてきた。

電話を切った後、私は最後の準備に取りかかった。LINEのメッセージ作成画面を開き、文章を打ち始めた。
『高一郎へ。本日をもって、全ての金銭的援助を停止します。』
でも、これだけでは物足りない気がした。もう少し付け加えることにした。
『ATMは故障しました。修理の予定はありません。』
ふふっと、うまい表現だと思った。相手の言葉をそのまま返すのだ。
さらに続ける。
『なお、過去3年間の送金総額1080万円について、返還を求める可能性があることをお知らせします。』
最後に、決定的な一文を加えた。
『今後、認知症の診断を偽造したり、財産を不当に取得しようとした場合は、法的措置を取ります。』
文章を読み返し、これでよしと頷いた。でも、まだ送信はしない。もう少し様子を見てから、最適なタイミングで送ることにした。

夕方6時を過ぎ、息子夫婦が帰り支度を始めているようだった。玄関で靴を履く音が聞こえる。
「じゃあ母さん、また来月お願いね」
高一郎が廊下から声をかけてきた。
「また来ますね、お母さん」
ゆかりの声も聞こえる。
私は返事をしなかった。もう、あなたたちに返事をする必要はないのです。
玄関のドアが閉まる音を確認してから、私はLINEの送信ボタンを押した。
『メッセージを送信しました。』これで反撃の第一歩を踏み出したのだ。

LINEを送信してから、わずか5分後だった。スマートフォンが激しく振動し始めた。高一郎からの着信だ。私は電話に出なかった。すぐにLINEの通知が来た。
『母さん、今のメッセージどういう意味? 冗談だよね。電話出て』
メッセージが次々と送られてくる。私は既読もつけず、ただ眺めているだけだった。30分ほど経つと、今度はゆかりから電話がかかってきた。これも無視だ。その夜は、着信履歴が50件を超えた。LINEメッセージも100通近く。でも私は一切反応しなかった。

翌朝6時、インターホンが鳴り響いた。モニターを見ると、息子夫婦が立っている。髪は乱れ、目は血走っているようだった。
「母さん、開けて。話があるんだ」
高一郎がインターホンに向かって叫んでいる。
「お母さん、誤解があるみたいです」
ゆかりも必死の形相だった。
私は落ち着いてインターホンの受話器を取った。
「おはようございます。どちら様ですか?」
「母さん、俺だよ。高一郎だよ。」
「ああ、高一郎さん。ATMは故障中だと、昨日お伝えしたはずですが」
「何言ってるんだよ。金の話じゃない。」
「あら、でも昨日、私のことをATMだとおっしゃっていましたよね。『必要な時にお金を引き出すだけの存在だ』と」
一瞬の沈黙があった。
「聞いてたのか?」
「ええ、全部聞かせていただきました。『用済みで、金ずる以外の価値がない』とも」
「それは…」
「お引き取りください。もう、あなた方とは話すことはありません。」
「待って。今月の振り込みがないと、ローンが払えないんだ。」
「それは私には関係のないことです。自分で何とかしてください。」
「母さん、この今回だけだから。本当に」
私は受話器を置いた。でもインターホンは鳴り続ける。ドアを叩く音も聞こえてきた。
私は警察に電話をかけた。
「もしもし、警察ですか? 不審者が家の前で騒いでいるので、来ていただけますか?」
15分後、パトカーがやってきた。警官が息子夫婦に事情を聞いているようだった。窓から見ていると、高一郎が必死に何か説明しているが、警官は首を横に振っている。結局、息子夫婦は警官に促されて帰って行った。

その日の午後、今度は元職場に電話がかかってきた。退職した中学校からだった。
「藤崎先生、お久しぶりです。実は高一郎さんから電話があって、どうやら私が認知症になったという嘘を広めようとしているようでした。」
「ご心配をおかけして申し訳ありません。私は至って健康です。実は息子とは金銭トラブルがありまして」
「そうでしたか。確かに先生のお声を聞く限り、とてもしっかりされていますね」
元同僚は安心したようだった。
夕方になると、今度はゆかりの両親から電話があった。
「とも子さん、うちの娘から聞いたんですが、援助を打ち切られたとか。」
「はい、その通りです。」
「でも、あなた、息子さん家族が困っているんでしょう?」
「申し訳ありませんが、もう私には関係ありません。それより、先月ゆかりさんのお父様の手術費用として50万円お渡ししたんですが、本当に手術されたんですか?」
「え? 手術? 私は何ともありませんが」
やはり、嘘だったのだ。
「そうですか。では、詐欺で訴えることも検討させていただきます。」
電話の向こうで、慌てる声が聞こえた。

3日後、高一郎から手紙が届いた。
『母さん、本当にすみませんでした。カッとなって、ひどいことを言ってしまいました。反省しています。どうか許してください。せめて今月分だけでも振り込んでもらえませんか? 本当に生活が苦しいんです。』
手紙を読んで、私は苦笑した。謝罪の言葉の後に、結局はお金の無心だ。
私は返事を書いた。
『高一郎へ。手紙は読みました。でも、ATMに手紙を送っても、お金は出てきません。それより、過去3年間の1080万円の返済計画を送ってください。弁護士を通じて請求することも考えています。』

1週間後、また息子夫婦が家に来た。今度は土下座をしている。
「お母さん、本当に申し訳ありませんでした」
「お母さん、私が悪かったんです」
私は玄関のドアを開けた。でも、チェーンはかけたまま。
「何の用ですか?」
「母さん、許してください。もう2度とあんなことは言いません」
「信用できませんね。それに、一度壊れたATMは、もう治りません。」
「そんなこと言わないで。俺たちの生活がかかってるんだ」
「あら、私の生活はどうでもいいんですか? 老人ホームに入れて、財産を奪おうとしていたくせに」
高一郎とゆかりの顔が青ざめた。
「それも聞いていたのか?」
「ええ。成年後見制度を悪用しようとしていたことも、全て録音してあります。」
嘘です。録音はしていません。でも、相手の動揺を誘うには十分だった。
「母さん、お願いです。せめて、せめて今月だけでも。」
「お断りします。今後、一切の連絡を禁じます。もしまた来るようなら、警察に通報します。」
私はドアを閉めた。その後も手紙や電話は続いた。でも、私の決意は変わらない。
ある日、ゆかりから「離婚を考えている」という連絡が来た。
「お母さんのせいで、夫婦仲が最悪になりました。」
それは的外れな毒だった。でも、この程度で夫婦仲が悪くなるというのは、その程度の関係だったということだろう。それとも、金目当てで結婚されたんですか?
電話は一方的に切られた。

あれから3ヶ月が経った。私は今、豪華客船の甲板に立っている。紺碧の海がどこまでも広がっていた。
「とも子さん、朝食の時間よ」
リエコが声をかけてきた。彼女も定年退職を機に、この世界一周クルーズに参加したのだ。
「ありがとう。すぐ行くわ」
朝日を浴びながら、私は深呼吸をした。なんて清々しい朝だろう。毎月30万円、年間360万円。そのお金を自分のために使えるようになって、人生が180度変わった。
レストランに向かいながら、この3ヶ月のことを振り返った。
息子夫婦との縁を切ってから1ヶ月後、高一郎から一通の手紙が届いた。
『母さん、ゆかりと離婚することになりました。あいつの本性を知って、俺も目が覚めたんです。金目当てで結婚したって言葉を聞いて、ショックでした。』
手紙には反省の言葉が綴られていた。でも、最後にはやはりお金の無心が書かれていた。
『離婚の慰謝料と弁護士費用で、本当にお金が必要なんです。』
私は返事を出さなかった。自分で巻いた種は、自分で刈り取るべきだ。
その後、風の噂で息子の現状を知ることになった。元同僚の先生が、偶然息子を見かけたそうだ。
「藤崎先生、この前スーパーで高一郎さんを見かけたんですけど、随分やつれていましたよ。日雇いの仕事をしているって聞きました」
正直、胸が痛んだ。でも、これも彼が選んだ道だ。親をATM扱いした報いを、身を持って知ることになったのだ。

一方、私の生活は劇的に変わった。まず、ずっと行きたかった海外旅行を計画した。現役時代はお金も時間もなくて、諦めていた夢だ。旅行会社でパンフレットを見ていた時、この世界一周クルーズを見つけた。100日間の船旅。
「素的ね」
隣で同じパンフレットを見ていた女性が声をかけてきた。それが、リエコとの再会だった。
「とも子? まさかあなたも」
「久しぶり。そうなの? 思い切って申し込もうと思って」
2人で参加することになり、今に至る。
船内での生活は、想像以上に充実していた。毎日違う景色、美味しい食事、新しい友人たち。そして何より、自分のためだけに時間とお金を使える自由。
「とも子さん、今日のダンスパーティー参加する?」
同じテーブルの友人が誘ってくれた。70歳を過ぎても、皆さん本当にお元気だ。
「もちろん参加するわ」
夜、ドレスアップしてパーティー会場へ向かった。生バンドの演奏に合わせて、みんなで踊る。こんな楽しい時間を過ごせるなんて、3ヶ月前には想像もできなかった。

部屋に戻ると、日本からメールが届いていた。元教え子からだった。
『先生、お元気ですか? Instagram見ました。世界一周なんて素敵です。私も先生みたいに、自分の人生を大切にしたいです。』
私がSNSに投稿した写真を見てくれたようだ。海辺での写真、ピラミッドの前での写真。どれも笑顔いっぱいだ。
そういえば、出発前に銀行で残高を確認した時、職員さんに言われた言葉を思い出した。
「藤崎様、老後の資金運用のご相談はいかがですか?」
「いいえ、結構です。これからは、自分のために使いますから」
「素晴らしいですね。人生を楽しむことが、一番の投資です」
その通りだと思った。
船は明日、バルセロナに寄港する。ガウディの建築を見るのが楽しみだ。ふと、息子のことを思い出した。もしあの時、あんな言葉を聞かなければ、今でも言われるままにお金を渡し続けていただろう。そして最後には、本当に財産を奪われ、施設に入れられていたかもしれない。ある意味、息子夫婦の本音を聞けたことは、幸運だったのかもしれない。
「とも子さん、星を見に行かない?」
リエコが誘ってくれた。甲板に出ると、満天の星空が広がっていた。
「きれいね」
「本当に。でも、とも子さんの方が輝いているわよ」
「お世辞が上手ね」
2人で笑い合った。私は今、心から幸せだ。誰かのATMではなく、一人の人間として、自分の人生を生きている。もちろん、息子を生み育てたことを後悔はしていない。でも、親子の関係にも、限度があるということを学んだ。
最近読んだ本に、こんな言葉があった。『親の愛は無償だが、無限ではない。』まさにその通りだ。私たち親も、自分の人生を大切にする権利がある。子供のために全てを犠牲にする必要はないのだ。
船旅も残り1ヶ月となった。帰国したら、次は国内の温泉巡りをしようと計画している。それから、昔から興味があった陶芸教室にも通ってみたい。人生100年時代と言われている。65歳なんて、まだまだ若い。これからの30年を、どう生きるかは自分次第だ。

最後に、同じような境遇で悩んでいる方へのメッセージを送りたいと思う。子供に尽くすことは素晴らしいことです。でも、それが一方的な搾取になっているなら、勇気を持って「ノー」と言ってください。あなたの人生は、あなたのものです。誰かのATMになる必要はありません。私の経験が、少しでも皆さんの参考になれば幸いです。

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