アイスコーヒーの冷たさが顔に広がる。それが何なのか理解するのに数秒、そして誰にやられたのかを認識するのにさらに数秒かかった。俺は怒りで震えていた。今朝からこの女はとことん俺の神経を逆撫でしてきた。怒っていいかどうか自問し、答えは当然「いい」だった。俺は低い声で、しかしはっきりと言った。
「今すぐ社長を呼びなさい」
俺の名前は三木達也。55歳になる大手メーカーの会長だ。グループは本社を含め20社にまで成長した。だが、俺は椅子に座って頷いているだけの会長ではない。どこかのグループ会社で問題があれば、直接乗り込んでいく。今日も東京第一支社に来ていた。最近、この支社の車内の雰囲気が良くないという情報が入ったからだ。
潜入するときはいつも偽名を使う。三浦達也。本名を名乗れば、会長だと気を使われるからだ。支社の受付で対応してくれた若本という女性に案内され、会議室で待つ。ほどなくして坂田という若い男性社員が入ってきて、人事の書類の説明をしてくれた。その時だった。会議室のドアが開き、スレンダーな女性がスーツ姿で現れた。新谷ゆみ。新任の営業課長だという。
「どうせすぐにやめるんだから、人事の書類なんていらないわよ」
新谷は俺の前にある書類を掴み、ビリビリと引き裂いた。俺は即座に理解した。この女がこの支社の問題の中心人物だろう、と。坂田が気を遣って新しい書類を用意すると言ったが、俺は 「今じゃなくてもいいですよ」 と伝えた。
新谷に連れられて向かったのは資料室のような書庫だった。そして付箋に書かれたメモを渡してくる。
「この付箋に書いてある書類を、ここから探し出して私に提出してちょうだい」
書かれた資料の数は半端ではない。しかも車内でしか通じないような専門用語のオンパレードだ。用語の説明を求めると、新谷は面倒くさそうに肩をすくめた。
「せめて用語の説明だけでも…」
「すでにやめたくなっているわね。でも、ありがたいことに、その仕事が終わるまでやめさせないわよ」
俺は「了解した」と頷きながら、営業部長への挨拶について訊ねた。すると新谷は「部長なら今、休職中よ。細かいことは私にも知らされていないの」と言い放ち、自分の席へ戻っていった。やはりそうか。調査で営業部長が休職していることは掴んでいたが、まさか新谷が関係しているとは思わなかった。
途方に暮れながら、俺は資料を探すために営業部のエリアへ移動した。新谷以外の誰かに聞ければ、暗号のようなメモも解読してもらえるかもしれない。しかし、営業部のフロアはまるでお通夜のように静かだった。社員たちは皆、生気のない目で資料を見たりパソコンに向き合ったりしている。一人の社員に話しかけると、その社員はダメだと首を横に振った。次の瞬間、新谷の声が飛んできた。
「ちょっと三浦さん、他の営業社員の邪魔をしないでちょうだい」
「ですが、教えていただかないと資料探しができません」
「全くどん臭いおじさんね。こっちへ来なさい。私が直接教えます」
新谷からメモの読み方や収納ルールを教わり、ようやくスタートラインに立った。1時間ほど経った頃、書庫の入り口で呼ぶ声がした。さっき首を横に振った青年、坂田だった。彼は周りを気にしながら、こう言った。
「新谷課長が外回りに出ていったので大丈夫ですよ。初日から新谷課長の仕事を頼まれるなんて最難でしたね。でも、俺たちがあそこで手伝うと、三浦さんが余計に怒鳴られることになるので黙っていたんです。すみません」
「新谷課長って、どういう人なんでしょう?」
「負のカリスマ性の持ち主、って言えば分かりやすいですかね。とにかく営業部であの人に睨まれたらおしまいです。たとえ上司であってもです」
「営業部長が休職してるのも、新谷課長のせいですからね。ここだけの話ですけど」
俺はその言葉に二度驚いた。同時に、彼女の恐ろしさを思い知った。俺は今日一日、内勤の社員の手も借りながら、新谷が戻る予定の30分前、午後3時ちょうどに資料を探し終えた。昼も取らずにやったので、空腹と足腰の痛みで散々な気分だ。それでも、新谷にはこの後、厳重注意を与えようと考えていた。そう思っていると、ちょうど新谷が戻ってきた。
「新谷課長、よろしいですか? ご依頼の資料が集まりましたので、お届けに上がりました」
「あら、何かしら? …ふーん。それ、しまっていいわ。もういらないから」
「はあ? あなたが集めろと今朝、おっしゃったんですよね?」
俺はたまらず声を荒げた。
「いい? 三浦さん。あなたみたいなおじいさんはどうか知らないけど、何が必要かなんてのは、時と場合によって変わるものよ。だからその書類はもう必要ないの。元あった場所に返しておきなさい」
こんないい加減な命令にいちいち従っていたら、営業部長が病んでしまうのもよくわかる。俺だって長く彼女と働いていたら、同じ道を辿っていたかもしれない。その時、スマホが鳴った。秘書からの連絡だ。
「会長、お疲れ様です。新谷ゆみ、やはり黒でした。財務部長にも連絡済みです」
「わかった。ご苦労様」
俺が通話を切ったその瞬間だった。ガシャーと、何か冷たいものが顔にかけられた。アイスコーヒー。新谷が俺の目の前にいたグラスを、わざわざ俺の顔に向かって投げつけたのだ。俺は怒りに震えた。そして、なるべく静かに、はっきりと言った。
「今すぐ社長を呼びなさい」
「え? 何ですって? 聞こえないわね」
嫌なことをする時の新谷は、とても楽しそうだ。その時、外回りから岸部社長が戻ってきて、フロアが騒がしいのに気づき、こちらを覗き込んだ。コーヒーをぶっかけられて震えている俺を見て、岸部は顔色を変え、ガタガタと震え出した。
「あ、社長。見てくださいよ。今日入った新人さんですよ。とんでもないおじいさんを採用されたんですね。まあ、今日でやめると思いますけど」
岸部は足早に新谷に近づくと、彼女の後頭部をぐいと押し、深々と頭を下げた。
「うちの新谷が、とんだご迷惑をおかけして、大変申し訳ございませんでした。三木会長」
「ちょっと痛い! 社長、手をどけてくださいよ!」
「黙って頭を下げなさい! この方はグループ20社の会長、三木達也さんなんだぞ!」
「え? だって三浦って…どういうことなの?」
三浦は偽名だ。俺は潜入するとき、いつも本名を隠すようにしている。岸部が代わりに説明してくれた。
「我が社に問題があるという密告があり、今日、三木会長自らが来られる予定になっていたんだ。皆には最後まで身分を明かすなと言われていたが、新谷君、君はなんて真似をしてくれたんだ」
本当になんて真似をしてくれたんだ、と思う。俺は日帰りの予定で来たので、着替えすらない状態だ。
「それから、君の経費の不正利用についても裏が取れた。財務部長、帳簿を持ってきなさい」
財務部長が持ってきたのは、経費精算書と領収書のコピーだ。そこにはスーツや化粧品の領収書がわんさと出てきた。
「不正利用なんてしていないわ!」
「君はなぜ経費で化粧品やスーツを買ったのかね?」
「は? そんなの決まっているじゃない。どちらも仕事でしか使わないからよ」
自分が悪いことをしているという意識そのものが、欠落している。無知ほど怖いものはないと思った。
「新谷課長。君の弁明を聞きたいところだが、コーヒーをかけられている状態なので、結論から先に言わせてもらう。おって連絡があるまで、自宅待機だ」
「ちょっと、なんでよ! 理由を言いなさいよ!」
「君が営業社員たちのモチベーションをどれだけ下げているかを知った。君が営業に出かけてから、彼らが生き生きと会話している姿を見たことがあるかね?」
「ないわよ、そんなの! モチベーションがないのは個人の勝手でしょ!」
「ならば、その主張を是非とも貫いてくれ。君が弁護士を立てて、法廷で争える日を楽しみにしているよ」
そして、俺は総務の若本が近所の洋服店で買ってきてくれたシャツとズボンに着替え、社長室で岸部と向き合った。
「悪の強い女性ですね、新谷さんは」
俺はほとほと呆れ果てた。
数日後、岸部当てに新谷の弁護士から内容証明郵便が届いたという知らせが入った。不当な自宅待機、経費不正利用の主張……好き放題書いてある。相手の弁護士を挟んでのやり取りが始まったが、その主張はとにかく妙だった。「経費でスーツやコスメを買ってはいけない規定がどこにあるのか」「社員からやる気を奪っている具体例を上げてくれ」など、その弁護士の頭を疑うレベルの内容だった。こちらは監視カメラの映像を提出し、常識的な見解を送り返した。先にギブアップしてきたのは新谷側だった。弁護士も、新谷のあの性格に手を焼いたのだろう。そして新谷は懲戒解雇となり、支社を去った。
新谷が退職してから、人事部は退職手続きに、経理は退職金の計算に、総務は彼女が残していった私物を自宅へ送り返す作業に、それぞれ追われていた。
3ヶ月後、久しぶりに東京第一支社を訪れた。支社は活気に満ち溢れ、営業部の社員たちの顔も明るい。新谷が座っていた席には、見知らぬ男性が座っていた。新しい営業課長らしい。坂田に挨拶をすると、彼は笑顔で言った。
「もう潜入しなくても大丈夫そうですけどね」
「ああ、今日は近くを通ったから、様子を見に来ただけだよ」
「そうでしたか。社長なら、社長室にいらっしゃいますよ」
社長室を訪ねると、岸部が「ああ、三木会長。お疲れ様です」と迎えてくれた。
「それより、営業部長が来週復帰するそうです。もう新谷はいないと伝えたところ、見る見るうちに症状が良くなってきまして」
「それは喜ばしい話だ」
「ところで、噂の新谷はどうしているのでしょうか?」
「懲戒解雇ですから、次の雇い先は慎重になるでしょうね」
「同感ですな」
「何にせよ、謝れる人間になってほしいですね」
そう言って、俺はふと気がついた。新谷は俺にコーヒーをぶっかけ、岸部に無理やり頭を下げさせられていたが、あの時に謝罪の言葉は一度もなかったな、と。
「そうですね。そこが一番、欠落しているかもしれませんね」
東京第一支社の騒動が、ようやく一通り収まった。本社に戻り、顧問弁護士との最後の面会を終えて、応接ソファに背を預けた俺に、秘書がねぎらいの言葉をかけてくれた。
「お疲れ様でした」
「何を言っても分かり合えない人間っているんだね」
「新谷さんこそ、まさにそういう人物だったのですね」
「ああ、久しぶりの難敵だった。君にも色々頼み事をして済まなかったよ」
「大変な思いをされたのですね」
「それにしても、今頃新谷はどうしているのやら。東京第一支社からも何の連絡もない」
そもそも、彼女は誰かと連絡を取り合っていたのかどうか。会社を去った人間のことを思っても、どうしようもない。俺は脳内のスイッチを切り替えた。これでこの件は終わりだ。



