「今更母親しないでください。」
息子の高二が放ったその言葉に、私の耳は一瞬、何も聞こえなくなりました。隣に座る夫の秋夫が、私の手を強く握りしめます。
「俺たちはもう家族じゃない。他人なんだ。」
高二の冷たい目が、まるで知らない人間を見るように私を見つめています。嫁の美が、追い打ちをかけるように言葉を続けます。
「あなたは私たちにとって他人です。それ以上でもそれ以下でもありません。」
37年間、看護師として働きながら必死に育ててきた息子。マイホームの頭金に1000万円、毎月の生活費に20万円、孫の教育費に年間150万円——総額3300万円以上を援助してきた息子夫婦が、今、私たち夫婦の前で信じられない言葉を口にしています。
「お母さんの考え方って、もう古いんですよ。私たちには新しい家族がいますから。」
その声には、一片の感謝も温かさもありません。その瞬間、私の胸に鋭い痛みが走り、同時に心の奥底で何かが静かに、しかし確実に切れる音がしました。
私、川口英子は68歳。看護師として37年間、地域の総合病院で働いてきました。夫の秋夫は70歳、元公務員として真面目に勤め上げた人です。二人で力を合わせて、たった一人の息子・高二を育ててきました。
高二が結婚すると言ってきた時、私たち夫婦は心から喜びました。結婚式には350万円を援助し、新居のマイホームには頭金として1000万円を渡しました。
「母さん、本当にありがとう。一生忘れないよ。」
あの時の高二の涙を、今でもはっきりと覚えています。孫が生まれてからは、毎月20万円の生活費を援助し続けてきました。孫の教育費も年間150万円。全て私たち夫婦が負担してきました。看護師として働いた給料の大半を息子家族のために使うことに、何の迷いもありませんでした。
「おばあちゃん、大好き。」
孫の笑顔が私の生きがいでした。
でも、いつからでしょうか。息子夫婦の態度が少しずつ冷たくなっていったのは。訪問を嫌がるような素振り。感謝の言葉の消失。そして今日、この言葉です。
「もう家族じゃない。他人なんだ。」
息子夫婦の態度が変わり始めたのは、確か半年ほど前からでした。最初は些細なことでした。私が孫に手作りのおやつを持っていくと、美が顔をしかめます。
「お母さん、虫歯になるので困ります。勝手に与えないでください。」
孫の健康を持ってのことだと理解しようとしました。でも、その言い方には温かさが感じられません。洗濯物を畳んであげようとすると、美が手を止めます。
「畳み方が違うので結構です。帰って手間が増えますから。」
料理を作ってあげようとしても、掃除を手伝おうとしても、全て拒まれるようになりました。
「お母さんのやり方、古臭いんですよね。今の時代に合わないというか。」
美の言葉は日に日に鋭さを増していきます。高二に相談しても、彼は妻の方ばかり持ちます。
「母さん、美の言うことも分かるだろう。今の子育ての常識は昔とは違うんだから。」
「でも、私はただあなたたちの力になりたいだけなのよ。」
「それが善意の押し付けに感じるんだよ。少しは空気を読んでくれよ。」
善意の押し付け。その言葉が胸に突き刺さります。
そして、もっと辛いことが起きました。美が友人と電話で話している声が聞こえてきたのです。
「うちの義母、本当に厄介なのよ。毎日のように来て、古臭い価値観を押し付けてくるの。正直迷惑でしかないわ。」
電話の向こうで笑い声が聞こえます。
「私の母は50代で、話も合うし。でもお母さんは……時代遅れっていうか、もう完全に化石よね。」
化石。私は化石扱いされているのです。
高二も美に同調するようになりました。
「正直、母さんとは価値観が違いすぎるんだよ。もう家族って感じがしないっていうか。」
「家族じゃないって、どういう意味なの?」
「血が繋がってるだけで、心の繋がりなんて感じないんだ。」
息子のその言葉に、私の心は深く傷つきます。
孫の面会も制限されるようになりました。
「お母さん、もう学校に来ないでください。孫が友達に見られて恥ずかしがってますから。」
「でも、運動会も学芸会も、おばあちゃんは見に行きたいのよ。」
「迷惑なんです。他のお子さんのおばあちゃんは若くて綺麗なのに、お母さんは古臭くてダサいって、孫が言ってるんですよ。」
自分の孫から「古臭い」「ダサい」と言われている。
援助に対する態度も変わってきました。
「毎月20万円の援助、当然ですよね。親なんですから。」
美が当たり前のように言います。
「教育費も親が出すのは義務でしょう。感謝しろなんて、恩着せがましいですよ。」
「でも、少しは感謝の気持ちを……」
「感謝?何に対して感謝するんですか?親が子供を支援するのは当たり前のことでしょう。」
高二も美に同調します。
「援助してもらって当然だと思ってる。だって親の義務だろ。」
私が37年間看護師として働いて貯めたお金。老後のために夫と一緒に大切に貯めてきたお金。それを息子家族のために使うことに、今まで何の迷いもありませんでした。でも、感謝されないどころか「義務」だと言われる。
そして、決定的な瞬間が訪れました。美の実家との露骨な差別です。
「美のお母さんは若くて話が合うから、週末は向こうの実家に行くことにした。私たちとは……母さんとは価値観が合わないから。」
「美の両親は現代的な考え方だけど、母さんは昭和で止まってるんだよ。」
私と夫は、完全に避けられるようになりました。孫の誕生日会にも呼ばれません。
「お母さんが来ると雰囲気が暗くなるので。」
クリスマスもお正月も、全て美の実家で過ごすと言います。
「私たちには新しい家族がいますから。お母さんたちはもう必要ないんです。」
必要ない。その言葉が私の心を完全に打ち砕きました。
そして今日、息子夫婦に呼び出されました。
「大事な話があるから来てほしい。」
高二からの電話に、私と夫は何か良い知らせでもあるのかと期待を抱いて、息子夫婦の家を訪れたのです。
リビングに通されると、高二と美が並んで座っています。その表情には、温かさのかけらもありません。
「母さん、父さん、はっきり言わせてもらう。」
高二が口を開きます。
「俺たちも……母さんたちとは距離を置きたいんだ。」
「距離を置いて、どういうこと?」
夫の秋夫が静かに訪ねます。
「家族じゃないってことだよ。もう他人なんだ。」
その言葉に、私の心臓が凍りつくような感覚を覚えます。
「今更母親するな。」
高二が、まるで他人に向けるような冷たい目で私を見ます。
「ちょっと待って……母親って。私はあなたの母親でしょう?」
「血が繋がってるだけだろ。もう家族って感じがしないんだよ。」
美がさらなる追い打ちをかけます。
「お母さん……いえ、英子さん。正直に言わせていただきます。今からは、英子さんと呼ばせていただきます。」
私の姓で呼ばれたことに、衝撃が走ります。
「あなたは私たちにとって他人です。それ以上でもそれ以下でもありません。私の両親はまだ50代で、話も合うし、現代的な考え方を持っています。でもお母さんは時代遅れで、価値観が合わないんです。だから、もう私たちの人生に関わらないでください。」
高二が冷たく言い放ちます。
「孫にも合わせる必要を感じません。むしろ悪影響です。」
悪影響。自分の孫に「悪影響」だと言われている。
「ちょっと待ちなさい。」
夫の秋夫が、静かだが力強い声で割って入ります。
「お前たちは、今まで英子と私が何をしてきたか分かっているのか?」
「それは親として当然のことでしょう。」
美が、あっさりと答えます。
「結婚式の費用、マイホームの頭金、毎月の生活費、孫の教育費。全部、親の義務です。」
「義務?総額で3300万円以上も援助してきたんだぞ。」
夫の声に怒りが滲みます。
「それが親の義務でしょう。感謝しろなんて、恩着せがましいですよ。」
高二が開き直ったように言います。
「むしろ、今まで散々世話になったくせに、感謝を強要するなんて図々しいと思いますけど。」
美の言葉に、私の全身から血の気が引いていきます。
「あなたたち、本当にそう思っているの?」
私の震える声に、高二が冷たく答えます。
「当たり前だろ。親が子供を支援するのは義務なんだから。」
「で……でも、援助は続けてくださいね。」
美が信じられないことを言います。
「はあ?」
夫の秋夫が、思わず声を上げます。
「援助は親の義務ですから、当然続けていただきます。でも、私たちの人生には関わらないでください。毎月の20万円、孫の教育費、全部今まで通りお願いしますね。それは義務ですから。」
高二も当然のように続けます。
矛盾しています。援助は「義務」だから続けろ。でも「家族じゃない」から関わるな。
「お前たち、何を言っているんだ。」
秋夫が怒りを抑えた声で言います。
「英子は37年間、看護師として働いて貯めた金をお前たちに使ってきた。俺の退職金も、老後のために貯めていた金も、全部お前たちのためだ。」
「それが親の役目でしょう。」
美が平然と答えます。
「でも、だからって家族として扱えなんて、そんな図々しいことは言わないでくださいね。お母さんは、私たちにとって都合の良いATMでいてくれればいいんです。」
ATM。私たちは、息子夫婦にとってATMでしかない。
その瞬間、私の心の中で張り詰めていた何かが、音を立てて完全に切れました。
「分かりました。」
私は震える声で答えます。
「お望み通りにしましょう。」
「母さん……」
高二が少し戸惑った様子を見せます。
「あなたたちが望む通りにします。私たちは今日から、完全に他人として接しましょう。」
「そうしてくれると助かるよ。でも、援助は……」
「全てお望み通りにします。」
私はもう一度、はっきりと言いました。
「英子、帰ろう。」
夫の秋夫が私の肩を抱いて立ち上がります。
「ちょっと待って。援助の件は……」
美が慌てて声をかけますが、私たち夫婦は振り返らずに玄関へ向かいます。
「母さん、父さん、援助はちゃんと続けてくれるよな。」
高二の声が背中に追いかけてきます。でも、私たちはもう振り返りません。
車に乗り込むと、秋夫が私の手を強く握りしめました。
「英子、もういい。俺たちは何も間違っていない。」
「ええ、分かっているわ。」
私の目には、もう涙はありません。あるのは、冷たく静かな決意だけでした。
家に帰ると、秋夫と私はリビングのソファーに並んで座りました。長い沈黙が流れます。
「英子、お前の気持ちは決まっているな。」
秋夫が静かに尋ねます。
「ええ、もう我慢する必要はないわ。」
「そうだな。あいつらが望んだことだ。完全に他人として対応しよう。」
夫の言葉に、私は深く頷きます。
「今夜のうちに、全て停止しましょう。」
私は立ち上がり、書斎のパソコンの前に座りました。秋夫も隣に椅子を引いて座ります。銀行のオンラインバンキングを開きます。
「まず、毎月の生活費として20万円の自動振り込みを停止する。」
画面を操作しながら、私は冷静に作業を進めます。
「次に、孫の教育費の引き落とし口座も凍結しましょう。」
「住宅ローンの援助月10万円も停止だな。」
秋夫が隣から確認します。
クリック一つ。また一つ。画面に「停止完了」の文字が表示されるたびに、私の心に不思議な解放感が広がっていきます。
「これで、月30万円以上の援助が全て止まったわ。」
「年間にすれば360万円以上だ。」
秋夫が静かに呟きます。
「あいつらは、この金額の重さを分かっていない。明日になれば分かるだろう。」
次に、私は書類棚からこれまでの援助記録を取り出しました。結婚式費用の領収書、マイホーム頭金の振り込み明細、毎月の生活費の記録、教育費の支払い証明。全てを丁寧にファイルに整理します。
「結婚式350万円。マイホーム頭金1000万円。5年間の生活費に月20万円で1200万円。孫の教育費、年間150万円で5年間、750万円。」
秋夫が一つ一つ確認しながら電卓を叩きます。
「合計で3300万円を超えているな。」
「これだけのことをしてきたのに、私たちはATM扱いよ。」
私の声には、もう悲しみはありません。あるのは、静かな怒りとかたい決意だけです。
「英子、お前は37年間、看護師として朝早くから夜遅くまで働いてきた。その給料の大半をあいつらのために使ってきたんだ。」
「私の老後資金も、あなたの退職金も、全部息子家族のためでしたね。でも、もう終わりだ。これからは俺たちのために使おう。」
秋夫の言葉に、私は深く頷きます。
書類の整理が終わると、私は携帯電話を手に取りました。
「何をするんだ?」
「念のため、今日の会話を記録として残しておくわ。」
メモに書き留めておきましょう。日時、場所、言われた言葉。全てを詳細に記録します。
「今更母親面するな。」「もう家族じゃない。」「他人だ。」「援助は親の義務。」「でも関わるな。」「都合の良いATMでいればいい。」
一言一句、正確に書き残します。
「証拠は十分だな。」
秋夫が私の肩に手を置きます。
「ええ、もし何か言われても、全て記録がありますから。」
作業を終えると、私たち夫婦はソファーに座り、温かいお茶を入れました。
「英子、後悔はないか?」
「全くないわ。むしろ、今までよく我慢してきたと思うくらい。」
「俺もだ。息子のためと思って耐えてきたが、もう限界だった。」
夫婦で静かにお茶を飲みながら、私たちは明日のことを考えます。
「明日の朝、あいつらは気づくだろうな。ATMから20万円が振り込まれていないことに。教育費の引き落としもできない。住宅ローンの援助も入らない。そして、慌てて電話をかけてくるでしょうね。」
私は静かに微笑みました。
「その時、どう対応する?」
「他人として、丁寧に対応するわ。だって、他人になりたいと言ったのは向こうですから。」
秋夫も同じように微笑みます。
「そうだな。お望み通りにしてあげよう。」
時計を見ると、もう夜の10時を過ぎています。
「さて、明日が楽しみですね。」
私は夫に向かって言いました。
「35年間、俺たちは息子のために尽くしてきた。でも、明日からは俺たち自身のために生きよう。」
「ええ、お望み通りの他人として、完璧に対応しましょう。」
窓の外を見ると、満月が静かに輝いています。不思議なことに、今日一日でいろんな思いをしたのに、私の心は不思議なほど穏やかでした。
「お前は強いな。」
「あなたがいてくれるから、強くなれるのよ。」
夫婦で手を取り合い、私たちは新しい人生への第一歩を踏み出す準備を整えました。パソコンの画面には、まだ「停止完了」の文字が表示されています。これが私たちの反撃の始まりでした。明日、息子夫婦がどんな反応を見せるか。それを想像すると、不思議な期待感が胸に広がってきます。お望み通りにしただけ。私たちは何も間違ったことはしていません。そう、何度も自分に言い聞かせながら、私たち夫婦は静かに眠りに着きました。
翌朝目覚めると、穏やかな朝日が部屋に差し込んでいました。夫と一緒に朝食を取りながら、私は不思議なほど心が落ち着いているのを感じます。
「今日はゆっくり過ごそう。買い物にでも行くか。」
「そうね。久しぶりに二人でデパートにでも行きましょうか。」
そう話していた、午前10時過ぎ。携帯電話が鳴り始めました。画面には「高二」の文字。一度、二度、三度と電話は鳴り続けます。でも、私は出ません。
「出なくていいのか?」
秋夫が尋ねますが、私は首を横に振ります。
「いいえ、今は出る気分じゃないわ。」
電話が止むと、今度はメールが次々と届き始めました。
「母さん、電話に出て。どういうこと?お金が入ってない。すぐに電話して。緊急。」
美からもメールが来ます。
「お母さん、お金が引き出せないんです。どうなってるんですか?こっちは生活できないんです。すぐ連絡ください。」
メールは10通、15通、20通と増えていきます。
「相当慌ててるな。」
秋夫が、少し呆れたように言います。
「ATMが動かなくて困っているのでしょうね。」
私は冷静にそう答えました。
午前11時を過ぎると、着信は30回を超えます。留守番電話にも、次々とメッセージが入ってきます。
「母さん、頼むから出てくれ。」
「お母さん、お願いです。」
必死な声が録音されていますが、私たちは聞き流すだけです。
午後1時、家の固定電話も鳴り始めました。
そして午後2時過ぎ、ついにインターホンが鳴ります。モニターを見ると、高二と美が玄関の前に立っています。二人とも、焦りで顔が歪んでいます。
「父さん、母さん、いるんでしょ?開けて。」
高二の声がインターホン越しに聞こえます。
「お父さん、お母さん、お願いします。」
美も必死に叫んでいます。
秋夫がインターホンのボタンを押しました。
「どちら様ですか?」
冷静な声で夫が尋ねます。
「父さん、何言ってるんだ?俺だよ。息子の高二だよ。」
「申し訳ありませんが、昨日『他人になった』とおっしゃった方ですよね。」
「それは……あの時は……」
高二が言葉に詰まります。
「お引き取りください。他人との面会はお断りしています。」
秋夫はそう言って、インターホンを切りました。
「父さん、待って。お願いだ。」
外で高二が叫ぶ声が聞こえます。
「お父さん、このままじゃ生活できないんです。」
美の鳴き声も混じります。でも、私たちは動きません。
30分ほど玄関の前で懇願していたようですが、やがて諦めたのか、二人は帰って行きました。
午後、私はようやく高二からの電話に出ることにしました。
「母さん、やっと出た。どういうことなんだ?」
電話口から、焦った声が聞こえます。
「どちら様でしょうか?」
私はできるだけ冷静に尋ねます。
「何言ってるんだよ。息子の高二だよ。」
「息子?申し訳ありませんが、昨日『もう家族じゃない。他人だ』とおっしゃった方ですよね。」
「それは……あの時は言いすぎただけで……」
「言いすぎということは、本心ではなかったのですね。」
私の冷たい声に、高二が言葉に詰まります。
「とにかく、お金が入ってないんだよ。どうなってるんだ?」
「お金?どのお金のことでしょうか?」
「毎月の20万円だよ。今月分が振り込まれてない。」
「ああ、生活費の援助のことですね。」
私はわざとゆっくりと答えます。
「そうだよ。早く振り込んでくれよ。こっちは生活できないんだから。」
「申し訳ありませんが、それはできません。」
「なんで?親なんだから助けてくれよ。」
「昨日、『もう家族じゃない』とおっしゃいましたよね。」
「そんな……今は緊急なんだ。」
高二の声がさらに必死になってきます。
「緊急であろうとなかろうと、あなたは昨日、私たちは他人だとおっしゃいました。他人に生活費を援助する義務はございません。」
私は冷静に言葉を続けます。
「そんな……親子なんだから、助けてくれよ。」
「親子?もう家族じゃないとおっしゃいましたよね。それとも、あれは嘘だったのですか?」
私は一つ一つ丁寧に、昨日言われた言葉を返していきます。
今度は美が電話を奪い取ったようです。
「お母さん、こんなことして、私たち本当に困ってるんです。」
「困っている?それは大変ですね。」
「大変なんです。だから……援助してください。お願いします。」
美の声は、すでに涙声になっています。
「でも、私たちは他人ですよね。昨日、そうおっしゃいましたよね。」
「あれは……私たちが間違ってました。」
「間違っていた?具体的に、何が間違っていたのですか?」
私の問いに、美が言葉に詰まります。
「お母さんを傷つけたこと、ひどいことを言ったこと……全部間違ってました。」
「そうですか?でも、『あなたは私たちにとって他人です。それ以上でもそれ以下でもありません』とおっしゃったのは、どなたでしたか?」
「ごめんなさい。本当にごめんなさい。」
美が泣き始めます。
「それに、『援助は親の義務』とおっしゃいましたね。」
「あれは……言いすぎました。」
「『感謝しろなんて恩着せがましい』ともおっしゃいましたね。」
「申し訳ありませんでした。」
「でも、他人に義務はございません。あなた方が『他人だ』とおっしゃったのですから。」
私の冷静な言葉に、美が号泣し始めます。
「お母さん、お願いします。許してください。このままじゃ、子供の塾も払えないんです。」
「塾?それは大変ですね。でも、教育費は親の責任ですよね。」
「お母さん……」
「私は、孫に悪影響を与える存在なのでしょう?ならば、教育費を出す必要もありませんね。」
「そんなこと言ってません……」
「いいえ、はっきりとおっしゃいましたよ。『孫に合わせる必要を感じない。むしろ悪影響だ』と。」
美が言葉を失います。
「お母さん、子供が泣いてるんです。友達は塾に行けるのに、自分だけ行けないって……」
「それは、親御さんがなんとかすべきことですね。私は他人ですから。」
電話の向こうで、美が崩れ落ちる音が聞こえます。
高二が再び電話を取りました。
「母さん、頼む。俺たちが悪かった。本当に悪かった。謝るから。」
「何が悪かったのですか?具体的におっしゃってください。」
「母さんを傷つけたこと、ATM扱いしたこと、他人だって言ったこと……全部悪かった。」
「そうですか。理解されたようですね。」
「だから……援助を元に戻してくれ。お願いだ。」
高二の声が懇願するように変わります。
「それはできません。」
「なんで?謝ったじゃないか。反省してるんだ。」
「あなた方は昨日、『他人だ』とおっしゃいました。私たちはお望み通りにしただけです。」
「今更そんな……」
「『今更母親面するな』とおっしゃったのは、あなたですよ。」
私は、高二の言葉をそのまま返しました。
「母さん、お願いだ。このままじゃ、俺たち本当に生活できないんだ。」
「それはお気の毒ですが、他人の生活には責任が持てません。」
「お母さん……父さん……」
高二が、父親にも助けを求めます。秋夫が電話に出ました。
「なんだ。」
「父さん、母さんを説得してくれよ。」
「お前だ。昨日のことを覚えているか?」
「覚えてる。でも……」
「『援助は親の義務』だと言ったな。」
「はい。」
「では、その義務を果たす親は、お前にとって何だ?」
「それは……」
高二が言葉に詰まります。
「『他人だ』と言ったな。他人には義務はない。当然のことだろう。お前たちが望んだことだ。お望み通りにしただけだ。」
秋夫はそう言って、電話を切りました。
私たち夫婦は、リビングのソファーに座り、温かいお茶を入れます。
「よく言えたな。」
「ええ、もう迷いはないわ。」
窓の外を見ると、夕日が美しく沈んでいきます。私の心は、不思議なほど穏やかでした。
それから数週間が経ちました。息子夫婦からの連絡は、最初の数日は激しく続きましたが、やがてパタリと途絶えます。
近所の方から、息子夫婦の様子を聞くことがありました。
「高二さんち、最近大変そうですよ。どうかしたのですか?」
「へえ、そうなんですか。」
「住宅ローンが払えなくて、困っているみたいで。美さん、深夜のコンビニでアルバイトを始めたそうですよ。」
「そうですか。」
私は淡々と答えます。
「それに、お孫さんも塾をやめたって聞きました。夫婦喧嘩も絶えないみたいで、近所中に声が聞こえるそうですよ。」
「自分たちで巻いた種です。」
私はもう、心を痛めることもありません。
一方、私たち夫婦の生活は、驚くほど豊かになっていきました。毎月30万円以上の援助をしなくて済むようになり、経済的にも精神的にも余裕ができたのです。
「英子、来月、北海道に旅行に行かないか。」
ある朝、秋夫が提案してくれました。
「北海道?素敵ね。」
「看護師として37年間、休みなく働いてきたんだ。たまにはゆっくりしよう。」
「ええ、そうしましょう。」
私たち夫婦は、結婚以来初めて、二人だけでゆっくりと旅行を楽しむことにしました。富良野のラベンダー畑、美瑛の丘。美しい景色を見ながら、夫と手を繋いで歩く時間がどれほど幸せなことか。
「こんなに穏やかな気持ちになったのは、何年ぶりだろう。」
秋夫が優しく微笑みます。
「本当にそうね。息子家族のことを心配する必要がなくなって、心が軽くなったわ。」
旅行から帰ると、私は看護師時代の仲間たちとの交流を再開しました。
「英子さん、久しぶり。元気そうね。」
「ええ、とても元気よ。」
「息子さんは……」
「今は……自立して頑張っているみたいよ。」
それ以上は語りません。友人たちとランチを楽しみ、美術館に行き、コンサートに足を運ぶ。こんなに自分の時間を楽しめるなんて、何年ぶりでしょうか。
そして何より嬉しいのは、夫との時間が増えたことです。
「英子、今日はイタリアンでも食べに行こうか。」
「いいわね。あの新しくできたお店、行ってみましょう。」
夫婦で外食を楽しみ、映画を見に行き、二人でゆっくり散歩する。当たり前のようで、でも私たちにはなかなかできなかったこと。
ありがとう。
「何が?」
「あなたが私を支えてくれたから、あの時、毅然とした態度が取れたわ。」
「俺も英子には感謝している。37年間、よく頑張ってくれた。」
夫婦で手を取り合い、私たちは新しい人生を歩んでいます。
ある日、弁護士から連絡がありました。
「川口様、念のためお伝えしておきますが、もし息子さんから何か法的な請求があった場合、こちらで対応できますので、ご安心ください。」
「ありがとうございます。でも、もう連絡は来なくなりました。」
「そうですか?それは何よりです。」
息子夫婦も、ようやく現実を理解したのでしょう。私たちはもう二度と戻らないということを。
窓の外を見ると、春の桜が美しく咲いています。68年の人生で、今が一番自由で一番幸せだと感じます。
理不尽に屈してはいけない。正当な権利を主張することは、決して悪いことではない。我慢し続けることが美徳とは限らない。この経験を通して、私は大切なことを学びました。自分を守ることは、誰にでもできる権利です。言うべき時には、毅然とした態度を取るべきなのです。悪いことをした人には、必ず報いがあります。因果応報は必ず実現されるものです。そして、正しいことを続けていれば、必ず報われます。勝利は、正しい人のものなのです。
もしあなたが理不尽な扱いを受けているなら、一人で我慢し続ける必要はありません。正当な権利を主張し、自分を守る勇気を持ってください。あなたには勝利する力があるのですから。私たち夫婦の完全勝利は、理不尽に屈することなく、正面から堂々と戦い抜いた結果です。あなたもきっと、自分だけの勝利を手にすることができます。正義と努力があれば、必ず相手への報いは実現します。今この瞬間から、強く生きる一歩を踏み出してください。
リビングのソファーで夫と並んで座りながら、私は静かに微笑みます。
「英子、幸せか?」
「ええ、とても幸せよ。」
窓から差し込む柔らかな光の中で、私たち夫婦は新しい人生を自分たちのために生きています。これが私たちが選んだ道。そして、これからも続いていく本当の幸せな人生なのです。



