重くのしかかる鉛色の雲の下、家庭裁判所の正面玄関から一歩踏み出すと、身を切るような冬の風が高橋あずさの着古したコートの隙間から容赦なく染み込んできた。手にしていたのは一枚の紙切れ――離婚届の控えだった。かさりと虚しい音を立てる。
隣で元夫となった斎藤健太が大きく伸びをしながら、換気の声をあげた。
「ああ、清算だ。まるで十年分の重りが落ちたみたいだ」
健太は、まるでゴミでも見るかのような冷たい視線をあずさに向け、嘲るように笑った。その顔には、長年の重荷から解放されたという安堵と、あずさに対する侮蔑が濃く浮かんでいた。
あずさはカサカサに乾いた唇をきつく噛みしめた。臨月を迎え大きく突き出たお腹が、まるで鉛の塊のように重く、腰をまっすぐに伸ばすことさえ苦痛だった。コートの裾を握りしめる手の甲は痩せこけ、痛々しいあかぎれが走っている。
「なんだよ。その目は、まだ俺に何か言いたげなのか」
健太はポケットに手を突っ込むと、小銭をじゃらじゃらと鳴らした。
あずさは震えそうになる声を必死で絞り出した。
「後悔しないの? このお腹の子は、あなたの血を引いた、あなたの子供なのよ」
「くだらねえな」
健太はうんざりしたように顔を歪め、あずさの膨らんだ腹を指差した。
「裁判でも言ったはずだ。その気味の悪い言いがかりは、もううんざりなんだよ。養育費だの慰謝料だの、一銭たりとも払う気はねえからな」
「お金なんていらない。あなたみたいな父親、この子には必要ないわ」
「そりゃ好都合だ。せいぜい勝手に産んで、勝手に育てるんだな」
プライドをひどく傷つけられたように感じた健太は、苛立たしげに足元のコンクリートに唾を吐きかけた。その仕草が、まるで今のあずさの価値そのものであるかのように思えて、彼女の心臓は鋭い氷の刃で突き刺されたような痛みに襲われた。
健太は車のキーを取り出すと、あずさに聞こえよがしに電話をかけ始めた。スピーカーから漏れる甲高い女の声に、健太の表情は途端にとろけるように緩む。
「ああ、美咲? 俺だよ。今、終わった。うん、反抗してきた。まあ、俺たちの世界だな。すぐそっちに行くよ」
電話を続けたまま、健太は階段を軽やかに降りていく。その背中が完全に視界から消えるまで、あずさは詰めていた息を細く長く吐き出した。全身の力が抜け、膝がガクガクと震える。今にもその場に崩れ落ちてしまいそうだったが、奥歯を強く噛み締め、必死に耐えた。
その時だった。裁判所の車寄せの方から、重厚なエンジン音が響き始めたのは。あずさが顔を上げるより早く、黒く艶めく最高級リムジンが、ハザードランプを点滅させながら、まるで時を待っていたかのように滑り込んできた。周囲にいた人々が「なんだ、すごい車だ」「誰か大物が来たのか」と、自然と道を開ける。そのリムジンの車列は、まるであずさのためだけに用意された舞台装置のように、彼女の目の前で寸分の狂いもなく停車した。
何が起きているのか、あずさには全く理解できなかった。次の瞬間、先頭の車両のドアが静かに、しかし威圧的に開いた。中から現れたのは、高価なブラックスーツに身を包んだ屈強な体格の男たち。彼らはまるで訓練された兵士のように一糸乱れぬ動きで次々と降車すると、あずさを護衛するようにその左右に二列の壁を形成した。
あまりに非現実的な光景に、足を止めた通行人たちが固唾を飲んで見守っている。駐車場に向かっていたはずの健太も、まだ携帯を耳に当てたまま、その場で凍りついていた。あんぐりと開いた口が、彼の動揺を物語っていた。
あずさが呆然と立ち尽くしていると、二代目のリムジンの後部座席のドアが、内側からゆっくりと開かれた。静寂が、まるで張り詰めた弦のように裁判所の広場を支配した。磨き上げられた革靴が静かにアスファルトを踏む。続いて現れたのは、銀髪を隙なく整え、まるで彫刻のように厳格な表情をした初老の男だった。その男がまとう空気は、周囲のざわめきを一瞬で凍てつかせるほどの威圧感を放っていた。
男は、まるであずさ以外の人間は存在しないかのように、まっすぐに彼女を見つめていた。そして、迷いのない足取りであずさの元へ歩み寄ると、彼女の数歩前でピタリと足を止め、背筋を伸ばしたまま腰を直角に折り曲げた。それはビジネス的な会釈ではない。心の底からの敬意と忠誠を示す、九十度の最敬礼だった。
「お嬢様、お迎えが遅くなり、大変申し訳ございません」
腹の底から響くような重く明瞭な声が、裁判所の広場にこだました。
お嬢様――その言葉が誰に向けられたものか、周囲の人々が理解するのに数秒を要した。そして、その視線が一斉に、見窄らしいコートを纏った臨月の女、あずさへと注がれる。あずさ自身も、目の前で起きていることが信じられず、ただ瞬きを繰り返すばかりだった。黒田に続いて整列していた男たちも、寸分の狂いもなく一斉に頭を下げた。
「お嬢様、お待たせいたしました」
遠くでその光景を目の当たりにした健太は、電話の相手も忘れ、ただ口を半開きにして立ち尽くしていた。昨日まで自分に頭を下げ、顔色を窺って生きていた女が、今や屈強な男たちに護衛されている。健太の足がわずかに震え始めた。
呆然と黒田を見つめているあずさに、彼はゆっくりと顔を上げた。
「会長が首を長くしてお待ちでございます」
そう言うと、黒田はあずさが着ていた使い古しのコートにそっと手をかけ、まるで汚れたものに触れるかのように慎重に脱がせた。そして、どこからか取り出した最高級の毛皮のストールを、ふわりと彼女の肩にかける。温かく柔らかな感触が、冷え切ったあずさの全身を優しく包み込んだ。それは今まで感じたことのないような、上質で気品のあるぬくもりだった。
「お腹のお子様はお元気でいらっしゃいますか? すっかり冷え込んでまいりました。さあ、早く車内へお入りください」
黒田は恭しくリムジンの後部座席のドアを開けた。
その一連の流れを、忽然と姿を現した幽霊にでも遭ったかのように目を白黒させて見つめていた健太の脳裏に、一つの考えが稲妻のように走った。
「ああ、そうか。そういうことか。金がない、金がないと嘆いていたくせに、とっくに別の男に乗り換えていたのか」
健太の顔が瞬時にどす黒い色に染まった。この家柄も金もないはずのあずさに、こんな高級車が迎えに来る理由など一つしかない。どこかの金持ちの爺の愛人か、パトロンでも見つけたに違いない。そうでなければ説明がつかない。途端に、恐怖は怒りへと変わった。
「おい、高橋あずさ!」
健太は獣のような叫び声をあげ、あずさの方へ駆け寄ろうとした。しかし、あずさは彼に一瞥もくれなかった。それどころか、黒田に支えられ、まるで女王のように誇らしげな足取りでリムジンのステップに足をかける。
「おい、聞こえねえのか? そんな車に乗り込みやがって、いい加減にしろよ。このクソ女が!」
健太が裏返った声で吠えた。
その瞬間、二人の黒服のボディーガードが巨大な壁のように彼の行手を阻んだ。鋭い眼光に睨まれ、健太は思わず短い悲鳴を漏らし、後ずさった。
「な、なんだお前ら! 人様の夫婦の問題に首を突っ込むんじゃねえ!」
恐怖と悔しさに顔を歪めた健太は、ポケットから震える手でスマートフォンを取り出すと、リムジンに乗り込むあずさの姿を必死にカメラに収めた。
「いいぞ。それでいい。証拠を撮れた。お前がどれだけ節操のない汚い女か、世間中にばらまいてやるからな」
撮った写真を確認し、健太は歪んだ笑みを浮かべた。あずさを乗せたリムジンの窓が静かに上がっていく。黒くスモークが掛かったガラスの向こうに、あずさの冷たい横顔が見えたのが最後だった。やがて車列は、泥水を跳ね上げながらあっという間に裁判所の駐車場から走り去っていく。
健太は遠ざかる車のテールランプを見送りながら、再び地面に唾を吐きかけた。
「けっ、バカみたいに大げさな行列作りやがって。どうせ年寄りの慰み物になって、すぐに捨てられるのが落ちだ。せいぜい上手い飯食って、せいぜい長生きしろよ」
彼は耳にスマートフォンを当て直すと、先ほどの写真を浮気相手の美咲に送信した。
「美咲、今とんでもないもん見ちまったよ。写真を送ったから見てみろよ。あの高橋あずさって女、どっかの爺の愛人になったみたいだぜ。傑作だろう」
健太はせせら笑いながら、自分のボロボロの車に乗り込んだ。
――三年後。
斎藤健太は、借金まみれの事務所で、闇金業者に机に叩きつけられていた。
「誰がテメェの投資話に金を出すかっつってんだ。さっさと返済しろや。今月末までに一銭も払えなけりゃ、旦那の工場を売り飛ばすぞ」
机の下にうずくまり、震えながら電話を切った健太は、テレビの速報に目を奪われた。
「資産家を語り、中小企業の経営者らから数十億円を騙し取ったとして、桜井美咲容疑者が本日未明、フィリピンへ逃亡したことがわかりました。警察は国際手配を行い……」
画面に映し出された顔写真。それは、自分を「この家の金で会社を大きくする」と唆し、離婚までさせた愛人、桜井美咲その人だった。最後の砦と信じていた工場を売ってまで注ぎ込んだ金も、明日の生活費さえも、すべて騙し取られたのだ。恐怖と絶望の中で、その美咲の顔を見た瞬間、健太の頭の中で何かが音を立てて崩れた。
工場を売り飛ばした金も、美咲への投資も、すべて闇に消えた。闇金からの追及、詐欺の共犯者としていつ逮捕されてもおかしくない状況。もはや破産宣告も時間の問題だった。そんな中で、唯一の望みの綱として、日本経済の頂点に君臨する総天グループとの下請け契約を勝ち取るという、狂気じみた計画を思いつく。これが成功すれば、すべてをひっくり返せる。あずさを追い出したことも、すべて正しかったと証明できる。そう自己暗示をかけ、健太は死人のように青ざめた顔でスーツを着込んだ。
総天グループ本社ビル最上階のペントハウス。神々しいまでの静寂が支配する会議室に通された健太は、窓の外を向いて置かれた巨大な椅子に向かって、九〇度の最敬礼をした。
「初めまして! 私、大江コーポレーションの代表取締役を務めております、斎藤健太と申します! 本日はこのようなお時間をいただき、誠にありがとうございます!」
返答はない。空調の低い唸りだけが耳に届く。不審に思い、恐る恐る顔を上げたその時、義姉るという嫌な音とともに、巨大な椅子がゆっくりと回転を始めた。
「……え?」
椅子がこちらを向いた瞬間、健太は自分の目を疑った。そこに座っていたのは、半年前に「厄病神」と呼び捨て、金も払わず放り出したはずの女、高橋あずさその人だった。
俯きがちで、いつも怯えていたあの女の姿はどこにもない。そこにいたのは、絶対的な自信と気品を全身から放ち、まるで女王のように優雅に脚を組み、この国の経済の中枢で君臨する女だった。その冷たい瞳の奥に、ほんの少しの嘲笑を宿して。
「……あ、あ、お前……っ!」
幽霊でも見たかのように、健太は数歩後ずさった。床に置いていたブリーフケースに足をぶつけ、苦労して準備してきた契約書類が無残に床へと散らばる。
「ふん……なるほどな。大した出世じゃないか。あのリムジンは本物だったってわけか。どこの会長様の寵愛を受けて、こんな場所まで這い上がってきたんだ?」
恐怖が怒りに転嫁される。健太は唾を飛ばしながら、デスクに詰め寄った。
「ふざけるんじゃねえよ! おい、高橋あずさ! 正気か!? ここは総天グループだぞ! 日本の経済を動かす神聖な会議室なんだ! お前みたいな薄汚い女が座っていい椅子じゃねえんだよ!」
バン! と、健太は思い切り重厚なマホガニーのデスクを叩きつけた。
「会長様に媚びてりゃ何でも許されるとでも思ってんのか? 今すぐそこをどけ! 本部長様がお見えになったら、お前なんかじゃ済まされねえぞ!」
獣のように吠える健太に対し、あずさは眉一つ動かさなかった。それどころか、まるで愚かな虫の鳴き声でも聞くかのように、ふっと嘲るように笑ってみせた。その侮蔑に満ちた態度が、健太の怒りの炎にさらに油を注ぐ。
「何がおかしい!」
「……お話は済みましたか?」
ようやくあずさが静かに口を開いた。その声は、かつてのあずさのものとは似ても似つかない、ピンと張りつめた冷たい響きを持っていた。
「斎藤健太社長。随分と威勢がいいのですね。ですが、その汚い口を閉じて、その節穴の目をかっぽじって、よくご覧なさいな」
「なんだと?」
あずさは、まるで指揮者のようにすっと指を伸ばし、デスクの上に置かれていた、ずっしりと重そうなクリスタルの塊に触れた。
「ここは私の仕事場です。そして、私はあなたのような有象無象を追い出す立場にある者」
「何言って……狂ってやがる! お前は本当に頭がおかしくなっちまったんだな! 俺は今日、契約を取り付けに来たんだ。お前なんかに俺の人生の邪魔はさせん!」
激昂した健太は、そのクリスタルの塊を掴み、床に叩きつけようと手を伸ばした。
その瞬間、あずさは指先でその塊をすっと健太の方へ引いた。磨き上げられたデスクの上を、クリスタルのネームプレートが氷の上を滑るように、音もなく健太の目の前へと滑ってくる。そして、寸でのところでピタリと止まった。
健太の視線が、そのプレートに刻まれた黄金に輝く文字に吸い寄せられる。
そこに刻まれていたのは、想像もしていなかった名だった。
「総天グループ 戦略企画本部長 高橋あずさ」
――その瞬間、健太の世界から、すべての音が消えた。
「あ、ありえねえ……そんなバカなことが……。これは何かの手の込んだいたずらだ! そうだ! そうに違いない! あの女が俺を陥れるために仕組んだ罠なんだ!」
その声を聞き流しながら、あずさは優雅に立ち上がった。そして、一つの決断を固めた目で、凍りついた健太を見下ろす。そこにはもう、怯えも、未練も、何一つない。ただ、自分をここまで貶め、今もなお傲慢に振る舞う男への、絶対的な冷徹さだけがあった。
「総天グループを敵に回したということの意味を、とっくりと味わいなさい」
あずさのその言葉を皮切りに、何もかもが終わりに向かって動き出した。会長であり実の父である高橋強が現れ、健太に向かって「二度とその汚い顔を見せるな」と告げ、屈強な警備員たちが、もがく健太をゴミのように引きずり出した。
ビルの外に放り出された健太は、冷たいアスファルトの上で、破れたスーツに血のにじむ姿で転がっていた。そこからの顛末は、夢だった。闇金の取り立てから逃げるように、母・斎藤悦子と共に、狂ったようにあずさの住む高橋家の門の前に現れた。雨の嵐の中、あずさに孫を返せと、自分たちの血を引く子を返せと、悪意と狂気に満ちた絶叫を挙げて。
あずさは静かに門を開け、冷たい雨の中、二人と対峙した。
「これ以上騒ぐなら、威力業務妨害で通報します」
「どこまで偉そうにすれば気が済むんだ! この女! ここはどこだと思ってるんだ? 私の可愛い孫がお腹にいるんだから、私にも権利があるんだよ!」
悦子は、あずさの毅然とした態度に逆上し、唾を飛ばさんばかりの勢いで捲し立てた。
「ああ、母さん落ち着いて。……あずさ、頼むよ。もう一度だけ、話し合おう。俺が悪かったのは認める。でも、俺は父親だ。父親なんだよ」
「父親は、死んだと申し上げたはずです」
あずさの冷たい拒絶に、健太の顔が見るみるうちに引きつっていく。
「この……!」
本性を表したように、健太はあずさの腕を乱暴に掴んだ。その手を払いのけると、悦子が今度はあずさの髪の毛を掴み、狂ったように体を揺さぶり始めた。
「よくも……よくも私の健太の人生をめちゃくちゃにしてくれたな! お前さえいなければ!」
そう叫ぶと、悦子はありったけの力を込めて、あずさの体を突き飛ばした。
あずさの足が、雨で濡れた石段から滑り落ちた。悲鳴が、激しい雨音にかき消される。世界がスローモーションになった。体が宙に浮き、重力に逆らえないまま、背後にある五段の階段へと吸い込まれていく。
鈍く重い音がして、あずさの背中と腰が階段の角に叩きつけられた。肺からすべての空気が強制的に絞り出され、声が出ない。そのまま彼女の体は最後の段まで転げ落ち、冷たい石畳の上に無惨に打ち捨てられた。
痛みのあまり、あずさは本能的に下腹部に手を伸ばした。次の瞬間、焼けるような激痛が全身を貫き、足の間にぬるりとした生温かい液体が溢れ出すのを感じた。雨泥に混じって、鮮やかな赤色の液体が流れ出していた。
「あ……あ……」
意識が遠のく中、あずさは救急車のサイレンと、父の絶叫を聞いた。
「――おぎゃあ……!」
五時間後、手術室に、死んだように動かなかった小さな命の産声が響き渡った。あずさも、赤ん坊も、奇跡的に命を取り留めた。
「おめでとうございます、会長。奇跡です。お母様は峠を越えました。そして、息子さんも、元気に泣いています」
――一年後。
総天グループ創立十周年記念式典の会場で、高橋あずさは副会長に就任し、スピーチを行った。
「この一年は、私にとってあまりにも過酷な冬の季節でした。しかし、その凍てつくような寒さがあったからこそ、私は今こうして強く立つことができています。そして、私の息子、この希望が、私に春という名の光を運んできてくれました。これからの総天グループは、ただ利益を追求するだけの企業ではありません。人々の暮らしに寄り添い、人を大切にする企業となります」
その姿を、日本の刑務所の檻の奥で、囚人番号三四八〇番として、ボロボロの囚人服を着てテレビ越しに見つめる男がいた。斎藤健太だった。その目からは、大粒の涙が止めどなくこぼれ落ちていた。
「あずさ……俺の息子が……望む……」
しかし、その嘆きは、雑魚寝房の冷たい空気に吸い込まれ、あずさのところへ届くことは永遠にない。
同じ頃、認知症が進み、言葉も失った斎藤悦子は、介護施設の薄暗いベッドの上で、テレビに映るあずさの姿を見て、ただ歪んだ叫び声を上げていた。誰も望まない、無意味な残り火だけが、そこで消えることなく燃え続けていた。
あずさは、言葉を失った二人のことを想う。しかし、それでも涙は出なかった。彼女の心は、もう過去に囚われてはいない。
「行こう、希望」
あずさは、天使のように微笑む我が子を抱き直し、会場の出口へと力強く歩き出す。巨大な扉が開かれ、その向こうには、まばゆいばかりの春の光の世界が広がっていた。



