修二さんは、誰もいないチャペルの入り口で、目も合わせずにこう言いました。「本当の花嫁は、別にいる」。私はその場で、ようやくすべてを悟りました。五年間も毎日通ってくれたお客さんが、朝五時から働く私を選んでくれたのではなく、私の貯金と、私の店を目当てにしていただけなのだと。四十六歳の弁当屋に、身内は弟が一人だけ。何を取られても黙っていると思われていた。彼らはまだ、私の弟が何者かを知らない。あの日…

修二さんは、誰もいないチャペルの入り口で、目も合わせずにこう言いました。「本当の花嫁は、別にいる」。私はその場で、ようやくすべてを悟りました。五年間も毎日通ってくれたお客さんが、朝五時から働く私を選んでくれたのではなく、私の貯金と、私の店を目当てにしていただけなのだと。四十六歳の弁当屋に、身内は弟が一人だけ。何を取られても黙っていると思われていた。彼らはまだ、私の弟が何者かを知らない。あの日...

扉の隙間から、スマートフォンのレンズがこっちを向いている。

「まだいたの?普通は恥ずかしくて逃げ出すでしょ」

神崎リカが笑った。その隣で、エツ子が腕を組んでいる。チャペルの中には誰もいなかった。3列の席も、最前列も空っぽだ。床には踏まれた花びらが散って、破られた赤地の席次表がその上に落ちていた。

一番前の長椅子に、ウェディングドレスの姉が一人で座っている。

「姉さん、式は終わったみたいだ」

「終わったって、どういうことだよ」

「修二さんに言われたの。本当の花嫁は別にいるって」

姉が笑おうとして、失敗した。俺は上着を脱いで、姉の肩にかけた。指先が氷のように冷たい。二十六年前、泣いていた俺の手を握ってくれた、その手だった。

「れん、もういいの。帰ろう」

「良くない」

俺は立ち上がった。喉の奥が焼けるように熱い。

俺の名前は桐生れん。当時三十六歳。十四年前に小さな食品卸の会社を興して、そこから買収を重ねて、ホテルや流通や食品加工の会社を数社傘下に収めた持株会社の代表取締役という肩書きが付いている。ただし、傘下の事業会社に創業家の者は入れていない。非上場だから、株主に向けて顔を出す必要もない。だから俺の顔を知っている人間は、業界の中でもごく限られていた。

姉の名前は桐生みな。俺より十歳上で、当時四十六歳。駅から歩いて七分の商店街で「みなの弁当」という店をやっている。カウンターと厨房だけの、椅子もない小さな店だ。朝の五時から仕込みをして、昼の行列を捌いて、夕方には店を閉める。それを十年続けていた。

俺にとって、姉は母親でもあった。両親を亡くした時、俺は十歳で姉は二十歳だった。

一年前の春、姉から電話がかかってきて、店に来てほしいと言われた。暖簾をくぐると、姉が湯飲みを二つ出して待っていた。何かを言いにくそうにしている顔だ。子供の頃から変わらない。

「結婚したい人がいるの」

俺は湯飲みを持ったまま固まった。

「え?」

「え、って何よ」

「いや、すごいな。すごいよ、姉さん」

自分でも驚くほど大きな声が出た。姉が首を竦めて笑う。四十六歳の姉が、十代の女の子みたいに耳を赤くしていた。俺のせいで、姉は自分の人生を後回しにしてきた。恋も結婚も、全部だ。だから正直に言えば、この日が来ることを俺は半分諦めていた。

「どこで知り合ったんだよ」

「うちのお客さん。もう一年ずっと通ってくれてるの」

「一年も?」

「最初はね、ひどい顔色だったのよ。何も食べてないみたいだったから、その日だけおかずを一品多くしたの。そうしたら、次の日も来てくれて」

姉らしい話だった。姉は昔から、腹を空かせた人間を放っておけない。それで自分の分を削るところまで、昔と変わっていなかった。

「相手はどんな人なんだ?」

「神崎フーズの修二さん」

湯飲みを置く手が一瞬止まった。神崎フーズ。死の食品会社で、うちが五年間で総額三百億円の供給契約を交渉していた相手だ。まだ基本合意の段階で、最終決済の判断はこれから俺が押すことになっていた。

「知ってる会社だ」

「そうよね。大きいところだもの」

姉は俺の会社との関係を知らない。俺も言わなかった。その日のうちに担当役員を呼んで、俺自身をあの案件から外した。姉の結婚に、自分の仕事を混ぜたくなかった。

そして姉は、一つだけ俺に頼み事をした。

「お願いがあるの」

「なんだよ、改まって」

「私の結婚相手には、あなたの肩書きを言わないで」

「なんで?」

「私自身を見て欲しいから」

姉は湯飲みを両手で包んでいた。

「弟が偉い人だから大事にされるんじゃなくて。私だから選んでもらいたいの。変かしら?」

「変じゃないよ」

「桐生なんて、どこにでもある苗字だから大丈夫よ」

姉はそう言って笑った。その一言を、俺は一年後に思い出すことになる。

顔合わせはそれから二ヶ月後だった。都心のホテルの日本料理店の個室で、俺は「都内の会社に勤めています」とだけ名乗った。神崎修二は当時四十二歳。俺より上で、姉より四つ下だった。物腰の柔らかい男に見えた。少なくともその日は。問題は、その母親だ。

神崎エツ子は当時六十七歳。席につくなり、姉を上から下まで眺めた。

「あら、息子より年上なの?」

「はい。四つ上になります」

「しかも、小さなお弁当屋さんでしょ」

「はい。小さな店ですけど」

「家の嫁として、人前に出せる方なのかしら」

箸を置く音が部屋に響いた。修二は何も言わない。父親の神崎竜三は、当時七十歳。料理を運びながら黙っていた。

「うちとは、格が違うのよ。分かっていただけると助かるわ」

エツ子はそう言うと、急に思い出したように鞄からパンフレットを出した。地元の慈善団体のものだ。

「私、こちらの会の役員をしておりましてよ。神崎の家というのは、そういう家なんです」

竜三が初めて口を開いた。

「まあまあ。今度、軽井沢の別荘にでも来なさい。あそこは夏がいい」

姉は背筋を伸ばして、「はい」と答えた。俺は膝の上で拳を握っていた。言い返す言葉はいくらでもあった。この場でこの家の名刺を全部机に並べさせて、うちの会社との取引関係を一枚ずつ説明してやることもできた。けれど、姉が幸せそうに笑っていたから、俺はその日、何も言わなかった。それが間違いだった。

ここで一度、二十六年前まで戻る。姉は高校を出た後、二年間ずっと商店街の食堂で働いていた。調理師の学校に入るための学費を貯めるためだ。願書はもう出してあった。その春から通うはずだった。

両親が死んだのは、その年の二月だった。夜の国道で、対向車線からはみ出してきたトラックに正面から突っ込まれた。二人とも即死だったと聞かされた。俺は小学四年生で、葬儀の間、何が起きているのかよく分かっていなかった。分かっていなかったのは、俺だけだ。

親戚が集まった座敷で、叔父が湯飲みを置いていった。

「みなちゃん、れんは施設に預けなさい。あんたの娘に子供は育てられんよ。あんたには、あんたの人生があるだろう」

誰も悪意で言っていたわけではない。むしろ、あれは正論だった。二十歳の女が、十歳の弟を抱えて生きていける道理はない。姉は畳に手をついたまま、しばらく黙っていた。それから顔をあげて言った。

「この子は、私が育てます」

座敷が静まり返った。

「私たちは、これからも二人で家族です」

その夜、押入れの前で泣いていた俺の手を、姉が握った。骨の細い、冷たい手だった。

「大丈夫。お姉ちゃんがいるから」

姉は調理師の学校に電話をかけて、入学を辞退した。願書と一緒に貯めた金は、俺の中学校の制服代に消えた。それからの姉は、朝の六時に食堂へ行き、夕方に一度帰ってきて俺に夕飯を食べさせ、夜の九時からビルの清掃に出た。帰ってくるのは日付が変わってからだ。朝、俺の枕元には必ず弁当が置いてあった。卵焼きとウィンナーと、前の晩の煮物。姉は自分の弁当を作らなかった。食堂の休憩室で、一番安い菓子パンを牛乳で流し込んでいたと、後で店の人から聞いた。

俺が大学を受ける年、受験料が足りなかったことがある。姉は何も言わずに、母の形見のネックレスを売った。それに気づいたのは、俺が合格した後だ。姉の首から、細い金の鎖が消えていた。

「姉ちゃん、俺、大学なんて行かなくていい」

「何言ってるの?」

姉は洗い物の手を止めなかった。

「あなたが夢を諦めたら、私が頑張ってきた意味がなくなるでしょう」

この言葉が、俺が会社を起こした時の原動力になった。金の話ではない。小学五年生の母の日に、学校で花を作ったことがある。赤い折り紙を巻いた花びらに、割り箸を茎にしたひどい出来のやつだ。母はもういなかった。だから俺はそれを、母親代わりの姉に渡した。姉はそれを、今も台所の棚の奥にしまって持っている。

十年前、姉が働いていた食堂の店主が亡くなった。身寄りのない人だった。遺言があって、借地に立つ店舗兼住宅をそのまま姉に残していた。姉はそこを弁当屋に改装して、「みなの弁当」を始めた。姉の店は、そうやって手に入ったものだ。

話を現在に戻す。顔合わせの後、神崎の家との付き合いが始まった。そして最初に俺が引っかかったのは、母親でも父親でもなく、妹の方だった。神崎リカ、当時三十四歳。化粧品の広告契約をいくつも持っている、フォロワー数万人のインフルエンサーだ。この女は、どこにいてもカメラを回している。食事中も、車の中も、人が話している間も。家族はもう誰も、それを気に留めていなかった。

婚約の顔合わせから半月後、両家の食事会があった。リカはテーブルの向かいにスマートフォンを立てながら言った。

「結婚式の写真、加工しても年齢は隠せないよね」

姉が箸を止めた。

「ねえ、お兄ちゃん。そこ、考えた?」

修二は受け流した。ただ、受け流しただけだった。店の帰り、俺は修二を呼び止めた。

「妹さん、少し言いすぎじゃないですか?」

「悪気はないんだ」

「悪気がなければ、何を言ってもいいわけじゃないでしょ」

「結婚したら分かり合えるよ。うちは、そういう家だから」

修二は姉の方を見て、優しい顔で笑った。

「皆さんも、そう思うだろう」

姉は「はい」と答えた。その顔を、俺は今でも覚えている。あれは同意ではなく、我慢の顔だ。

もう一つ、この頃から引っかかっていたことがある。母親のエツ子はあれだけ露骨に反対しているのに、父親の竜三は一度も反対しなかった。それどころか、エツ子が姉をけなすたびに「まあまあ」と穏やかに止めるのだ。味方なのだろうか。俺は最初、そう思った。だが、息子が四つ年上の弁当屋と結婚すると言い出して、あの、人を肩書きでしか測らない男が一度も嫌な顔をしない。そんなことがあるだろうか。今にして思えば、この家が目をつけていたのは姉ではなく、姉の店の方だった。

式場が決まったのは、その年の秋だった。都心のホテルで、チャペルと披露宴会場を使う。招くのは親族と親しい友人で、五十名ほど。姉が選んだにしては、思い切った場所だった。

「ここ、れんが中学生の時に連れてきてくれたところなの」

「覚えてないなあ」

「あなたの合格祝いよ。二人で一番安いランチを食べたでしょう」

覚えていなかった。姉は覚えていた。いつもそうだ。

打ち合わせに、一度だけ同席した。担当のウェディングプランナーは、若月はるかという当時二十八歳の女性で、姉の話をやたらと丁寧に聞く人だった。

「お花は、どうされますか?」

「あの、白い名前の分からない小さいのがいいんですけど」

「かすみ草ですね。分かります。お母様の好きだったお花ですか?」

姉が目を丸くした。若月が慌てて頭を下げた。

「すみません。写真の話をされていたので、そうかなと」

姉が鞄から一冊のノートを出したのは、その時だ。紺色の大学ノート。表紙にひらがなで「結婚」とだけ書いてある。姉は昔から、これだった。俺の学費を工面していた頃も、同じのノートに一円単位で書き込んでいた。日付、金額、振り込み先、話した相手の名前。何でも一行ずつ並べていく。若月がそのページを見て、少し黙った。

「桐生様、こんなに丁寧な花嫁さん、初めてです」

「お恥ずかしいです。忘れっぽいので」

「いえ、羨ましいです」

姉はそのノートを、どこへ行くにも鞄に入れていた。財布より先に出すこともあった。その日、契約の中身が決まった。チャペルと披露宴会場で五十名。開始は午前十一時、総額は三百二十万円だった。支払い期限は、式の一ヶ月前だった。それなのに、姉はその週のうちに全額を振り込んでしまった。

「早すぎるだろう」

「後で慌てたくないから」

姉は笑ってノートを開き、その日の欄に振り込み先と金額を書き込んだ。小さな山があったのは、その帰りだった。花の色を決める段になって、エツ子から修二へ電話がかかってきた。声が部屋に漏れていた。

「白いお花、やめてちょうだい。神崎の家は代々赤と決まっているの」

「でも母さん、みなさんが……」

「あのね、修二。お弁当屋さんの感覚で神崎の式を決められては困りますのよ」

若月の手が止まった。姉は膝の上で指を組んで、下を向いていた。修二はスマートフォンを耳に当てたまま廊下へ出た。しばらくして戻ってきて、こう言った。

「花は、みなさんの好きなものにします」

姉が顔をあげた。

「いいんですか?」

「僕の式でもあるから」

修二が姉の手の上に、自分の手を重ねた。姉は下を向いて、耳を赤くしていた。あの時の修二の顔を、俺は今でも思い出す。演技だったのか。一瞬だけ、この男にも背骨があったのか。今となっては分からない。

ただ、その帰り際に妙なことがあった。エレベーターホールで、若月が追いかけてきて封筒を差し出したのだ。招待客のリストだった。

「こちら、神崎様からご修正が入りましたので」

姉がその場で開いた。そしてめくる手が止まった。

「この、友人のところ、こんなに少なかったでしょうか?」

商店街の名前が並んでいた欄が、半分になっていた。魚屋の夫婦も、豆腐屋の女将も。姉が十年顔を合わせてきた人たちの名前が、横線で消されている。

「神崎様のご意向で、人数の調整を」

「そうですか」

姉はノートを開いて、その日付とやり取りを書き込んだ。書きながら、一度だけ小さく息をついた。それからもう一度、リストに目を落とす。

「豆腐屋の松江さんは、私が店を始めた時に七輪を貸してくれた人なんです」

「はい」

「魚屋さんは、うちの鯖の煮付けの魚を、十年、一度も高い値段で売らなかった人で……」

若月は口を挟まずに、姉の言葉が終わるまで待っていた。姉はリストを封筒に戻した。

「大丈夫です。写真を送りますって言っておきます」

俺はその場でスマートフォンを出した。修二にでも、あの母親にでも、誰でもいいから電話をかけるつもりだった。姉が俺の袖を掴んだ。

「やめて」

「なんでだよ」

「私が我慢すれば済むことだから」

その言い方を、俺は昔から知っている。中学の制服がきつくなった時も、卒業旅行の積み立てが払えなかった時も、姉は同じ顔をして、同じことを言った。

「あの、桐生様」

若月が声を落とした。

「神崎様のご希望で、式場の窓口が変わるかもしれなくて」

「窓口ですか?」

「はい。詳しくは、まだ……」

若月はそれ以上言わなかった。言えなかったのだ。姉が打ち合わせの席に呼ばれたのは、これが最後になった。

式の二ヶ月前だった。神崎の家に呼ばれて、俺は姉と一緒に和室へ通された。障子から差し込む光と、飾り棚に並んだ壺。座った瞬間から、嫌な予感がしていた。

「規模が足りないのよ」

エツ子が開口一番、そう言った。

「規模ですか?」

「あのチャペル、五十名でしょ?神崎の格式の式が五十名。うちの取引先に、顔向けできないわ」

竜三が湯飲みを置いた。

「最上階の宴会場に移しなさい。二百名だ。招くべき相手が、こっちにはいる」

姉が膝の上で指を組んだ。

「あの、費用が……」

「そこよ」

エツ子が待っていたように身を乗り出した。

「神崎の家に嫁ぐ支度は、女の家が整えるものよ。昔からそう決まっているの。けれど、二百名となると……。うちの規模に釣り合わない縁組を望んだのは、そちらでしょう」

部屋が静まった。

「せめて支度だけでも人並みにしていただかないと、私たちが親戚に説明できないの。分かってちょうだい」

竜三が一枚の紙をテーブルに滑らせた。手書きの見積もりだった。会場と料理で八百万円、衣裳と花と引き出物で二百五十万円。それから、支度金として百五十万円。締めて、千二百万円。

俺は紙を裏返して、また表に戻した。この仕事を十四年やってきた。二百名の披露宴で八百万円というのは、あのホテルの単価なら妥当なんだ。衣裳と装花と引き出物の二百五十万円も、高いが説明はつく。説明がつかないのは、支度金の百五十万円だけだった。式場に払う金でもなければ、業者に払う金でもない。神崎の家に渡すだけの金だ。

「これ、うちの姉が全部出すという話ですか?」

竜三が俺を見た。この日、この男が俺の顔をまともに見たのは、その一度きりだ。

「弟さん、あんた、都内の会社に勤めてるんだったね」

「はい」

「じゃあ分からんだろう。うちのような家には、こういうものがいるんだ」

エツ子が笑った。

「まあ、弟さんに出していただくわけにもいきませんものね」

姉が顔をあげた。

「出します」

俺は隣で耳を疑った。

「姉さん」

「私が出します」

その日から一週間で、姉は金を作った。十年かけて貯めた預金は、九百万円あった。だが五ヶ月前に式場へ三百二十万を払っている。手元に残っていたのは、五百八十万円だ。足りない。三百万円は、店を担保にして信用金庫から借りた。窓口で担当者が何度も確認していた。

「桐生さん、この建物、お店ですよね」

「はい」

「返済が滞ると、お店を手放すことになりますが」

「分かっています」

「失礼ですが、使い道は……結婚式ですか」

担当者のペンが止まった。それから、何も言わずに書類を受け取った。帰り道、姉は妙に機嫌が良かった。

「ちょっと怖い顔されちゃった」

「当たり前だろう」

「でもね、れん。私、生まれて初めてお金を借りたのよ」

姉は空を見上げて笑った。

「借りられるって、信用があるってことでしょ。ちょっと嬉しかった」

この信用が、何に使われたのか。後で思い出すたびに、俺は腹の底が冷える。

数日後、新しい席次表の案が届いた。二百名、ほとんどが神崎フーズの取引先と竜三の知り合いの会社の名前だ。新婦側の欄には、名前が一つしかなかった。

「弟、桐生れん。これ、姉さんの側、俺だけか?」

「そうみたい。商店街の人たちは、人数の調整だって」

姉はその席次表も、ノートに挟んだ。親戚は誰もいない。二十六年前に施設へ預けろと言った連中とは、以来ほとんど付き合いがなかった。姉には、俺しかいない。二百人が入る宴会場で、新婦側の席は俺一人で埋まることになった。

夜、店の暖簾を下ろしてから、俺はもう一度言った。

「姉さん、俺が出す」

「だめ」

「千二百万だぞ。姉さんが十年、朝五時に起きて貯めた金と、店を担保に借りた金だ」

「だからよ」

姉はエプロンを畳んで、それを膝に乗せた。

「あなたのお金で結婚したら、私はまた、あなたに何かしてもらった人になるでしょ」

「そんな話じゃないだろう」

「そういう話なの」

姉は笑った。

「これは私の結婚だから、私の稼いだお金で行きたいの」

言い返せなかった。二十六年前から、この人は一度も、こちらに借りを作らせない。

その後、神崎家から追加の連絡が来た。修二からの電話だった。

「支払いのことなんだけど、段取りも支払いも、こちらでまとめるよ。式場との交渉はうちが全部やる。追加分は一度うちに預けてくれれば、まとめて式場に払うから。その方が値引きも効くんだ」

「振り込み先は、二口に分けてほしい。会社の口座と、父の口座と」

姉がノートを開いて、その二つの名義を書き取った。神崎フーズ、神崎竜三。

「それ、変じゃないか」

「経理のやり方が違うだけよ。大きい会社だもの」

姉はそう言って、二つの口座に振り込んだ。神崎フーズ名義へ六百万円、神崎竜三名義へ二百八十万円。五ヶ月前に式場へ払った三百二十万円と合わせて、締めて千二百万円だ。

振り込んでからすぐに、姉は式場に電話をかけたそうだ。追加の分が届いたか、確かめようとしたのだと思う。だが、電話に出た担当はこう答えたという。

「恐れ入ります。桐生様の式は、神崎様が窓口としてご一括でお受けしておりまして」

「あの、契約者は私なんですけど」

「はい。ご契約者様は桐生様です。ただ、ご連絡は全て神崎様を通すようにとお受けしております」

姉はそれ以上は聞かなかった。聞いても仕方がないと思ったのだろう。その日付とやり取りも、ノートには書いてある。こうして進行の連絡窓口は神崎家に一本化された。式場から姉への連絡は、全てあの家を通ることになった。

俺が姉のノートを初めて手に取ったのは、その夜だ。日付、金額、振り込み先の名義、話した相手の名前。全部が一行ずつ、鉛筆で丁寧に並んでいた。所々、消しゴムで消した後が薄く残っている。十年前の家計ノートと同じ字だった。俺の学費を工面していた頃と、何一つ変わっていない。姉はこの一冊に、自分の千二百万円がどこへ行ったかを、全部書いていた。その時の俺は、それが何を意味するのかを分かっていなかった。

もう一つ、この頃から気になっていたことがある。なぜ今になって式を豪華にするのか。なぜ費用を全額こちらに出させて、その上振り込み先まで自分たちの口座に変えるのか。金が欲しいなら、最初から言えばいい。あの家には、それができない理由があるのだろうか。考えている時間はなかった。三日後、俺は三週間の予定でヨーロッパへ立った。買収した現地の工場で品質の問題が出ていて、俺が行くしかなかった。姉を一人にした、三週間だった。

ここから先は、後で姉と姉の店の常連たちから聞いた話になる。俺がヨーロッパにいる間、神崎の家は次の一手を打っていた。姉が呼び出されたのは、俺が立ってから四日目だった。場所は、またあの和室だ。エツ子は姉を座らせるなり、こう切り出した。

「あの、お店、畳んでくださるの?」

姉は一度聞き返したそうだ。

「畳む、というのは」

「神崎家の嫁は働きません。働く嫁を置く家じゃないのよ」

「でも、あの店は先代から譲っていただいたもので……」

「弁当屋でしょ」

エツ子が扇子を畳んだ。

「毎日毎日、油の匂いをさせて、あなた、その手で神崎の家の玄関を開けるつもり?」

竜三はその横で新聞をめくっていた。そして顔もあげずに言った。

「うちの嫁になるなら、それなりの覚悟をしてもらわないとな。捨てるものは捨てる。人間、そういうもんだ」

それから竜三は思い出したように新聞を畳んだ。

「ところで、あの店は借地だそうだな。建物の方は、あんたの名義か?」

「はい。先代から譲っていただいたので」

「登記は、住んでいるのか?」

「住んでいます」

「そうか」

竜三はそれだけ言って、また新聞を開いたという。姉はこのやり取りも、その日のうちにノートへ書いている。誰と何を話したか、という欄に、そのままの言葉で。付き合って八ヶ月しか経たない家の父親が、なぜうちの店の登記を気にするのか。姉はそれを不思議に思わなかった。俺も、後になるまで気づかなかった。リカはその場にいた。何も言わなかった。

姉はその日は返事をせずに帰ったそうだ。異変が起きたのは、その翌日からだった。昼の行列が消えた。「みなの弁当」は、平日の十一時半になると店の前に人が並ぶ店だった。近所の工場の作業員と、商店街の人間と、駅前の会社の若い連中。その列が、三日で半分になった。姉は最初、天気のせいだと思ったそうだ。その週はずっと雨が降っていた。四日目、いつも一番に来る工場の作業員が来なかった。五日目、駅前の会社の若い連中が来なかった。六日目、姉は作りすぎた弁当を三個、自分で片付けた。一週間後には、誰も並ばなくなった。

その夜、姉は店の裏でノートを開いていたという。売上の欄に、前の月の半分の数字が並んでいた。姉はそこに、一行だけ書き添えていた。

「雨のせいではない」

その一行を、俺は後で読むことになる。

理由を姉に教えたのは、豆腐屋の松江さんだった。

「みなちゃん、あんた、あそこの奥さんに何か言ったのかい?」

「神崎さんのお母様ですか?」

「上品な格好した人がね、この商店街を一軒ずつ回ってるんだよ」

松江さんは言いにくそうにしていたという。

「『あそこは衛生面が甘いらしい。息子が結婚するから、内情を知ってるんだけど』って。あんたのこと、心配してるみたいな顔で、そう言って歩いてるんだ」

姉はその場に立っていられなかったそうだ。十年だ。姉は十年、数えるほどしか休まずにその店を開けていた。台風の日も、熱を出した日も、シャッターを開けた。その十年が、上品な言い方の噂一つで削られていく。

姉は初めて、はっきりと言った。修二を店に呼んで、カウンターの向こうからこう言ったという。

「店だけは、畳めません」

修二は困った顔をしたそうだ。

「母さんも、悪気があるわけじゃ……」

「悪気がないなら、なぜ商店街を回るんですか?あれは、私の店を心配して。私の店の何を、心配なさっているんですか?」

修二は答えなかった。長い沈黙の後で、この男はこう言った。

「店をやめてくれとは言わない。ただ、式が終わるまででいいから、母さんの前で働いている話をしないでくれないか?」

「働いている話ですか?」

「うちの親戚には、そういうのを気にする人がいるんだ」

「私は十年、この店をやってきました」

「知ってる」

「知っていて、なかったことにしろとおっしゃるんですか?」

修二はカウンターの木目を見ていたという。

「頼むよ。式が終われば、全部収まるから」

式が終われば。姉はその言葉を、素直に受け取った。夫婦になってしまえば、時間が解決してくれるのだと。あの男がどういう意味でそれを言ったのかを知るのは、二ヶ月後だ。

姉が電話でこの話を俺にした時、声はいつもと変わらなかった。淡々としていた。だから俺は、姉がどれだけ削られているかに気づけなかった。今でもそれを悔いている。

その頃、店ではもう一つ小さなことが起きていた。厨房の冷蔵ケースが動かなくなったのだ。二十年もの、先代の時代から使っていたやつだった。商店街の橋の近くにある工務店から、職人が一人来た。相沢啓介という、当時五十歳の男だ。相沢は工具箱を床に置いて、三十分ほど機械の下に潜っていた。それから顔を出していったそうだ。

「基盤は変えました。あと二年は動きます。ただ、二年です」

「その時は、また来ていただけますか?」

「呼んでもらえれば」

相沢はその後、姉が出した弁当を店の隅で食べていったという。妻を数年前になくして、大学生の娘と二人で暮らしているという話を、ポツポツとしたそうだ。姉は多分、こんなことを言ったのだと思う。後で本人から聞いた言葉だ。

「一人で夕飯を食べる人が、うちに来るのよ」

「はあ」

「働きに出てるお母さんのことか。奥さんをなくした人とか。カウンターの端で、立ったまま食べていく人がいるの。だから、椅子を置きたいんですけど、場所がなくて」

「置けますよ」

相沢は厨房の方を見て言ったそうだ。

「この壁、抜けます。抜いたら、椅子が四つ。いや、五つ置ける」

姉は笑って。

「そうですね。いつかね」

と答えた。その「いつか」が本当に来るとは、誰も思っていなかった。

海外にいる間の連絡は、その週から途絶えた。帰国したのは式の一ヶ月前だった。空港から直接、姉の店へ行った。シャッターが半分降りていて、中で姉が一人、稲荷寿司を包んでいた。昼の二時だ。前なら、片付けが終わっている時間だった。

「電話、出なかっただろう」

「時差があるでしょ」

「三週間で二回だぞ」

姉は手を止めずに笑った。痩せていた。頬がこけていた。

その週末、話し合いの席が持たれた。俺が同席を申し出た。姉は断ったが、今回だけは俺も引かなかった。場所はまた神崎家の和室だ。エツ子が茶を出しながら言った。

「弟さんまで来られるとは、思いませんでしたわ」

「姉の家族は、俺だけなので」

「あら、ご立派」

竜三が咳払いをした。この日の竜三は、上機嫌だった。上機嫌の理由は、すぐに分かった。

「ああ、店の話は、式が住んでからにしよう。今はそれどころじゃない」

「それどころではない、というのは?」

「うちが今やってる、大きな話がある。決まれば、会社の形が変わる」

「そうですか」

「決まれば、こんな細かいことで揉めるのも馬鹿らしくなる」

竜三は湯飲みを置いて、一人で笑った。

「五年で三百億だ。あんたの勤め先の業界でも、大きいだろうな」

その瞬間、和室の空気の温度が、俺の中でだけ変わった。五年で三百億。うちが神崎フーズと交渉している供給契約の規模と、桁も年数も同じだ。俺は膝の上で手を組んだまま、頭の中で書類をめくった。基本合意にあたって、こちらは相手方の財務資料を一式取得している。案件からは外れていても、代表として一度は目を通していた。神崎フーズの借入残高は六十二億円。年商に対して重すぎる。返済のスケジュールも、翌年の春に山が来る形だった。あの数字を思い出した瞬間に、この家の景色が変わって見えた。格式でも、家柄でもない。この家は、金に困っている。

「弟さん、どうかしたか?」

「いえ、大きな話ですね」

「大きいさ。だから今は、余計なことに気を取られたくないんだ」

余計なこと。姉の店のことを、この男はそう呼んだ。その余計なことを、エツ子の方は忘れていなかった。

「そういえば桐生さん、お店、いつ畳んでくださるの?」

姉が湯飲みを置いた。

「その件は、式が済んでからと……」

「もう、一ヶ月ないのよ。仕入れの契約とか、そういうものがあるでしょ。早めに切っておかないと」

「はい」

「お返事は?」

「考えさせてください」

エツ子が眉をあげた。

「考える?あなた、うちに入るのよ。考えることが何か、あるの?」

俺が口を開きかけた時、姉が机の下で俺の膝を抑えた。言うなという意味だ。この二十六年で、数えきれないほどされた合図だった。代わりに、俺は別のことを聞いた。

「一つだけ、伺っていいですか?」

「なんだね」

「支度金の百五十万円は、何に使うお金ですか?」

竜三の眉が動いた。

「そういうことは、若い人が聞くもんじゃない」

「姉が十年働いて貯めた金です。だからなんだ。使い道を聞くのは、おかしいことでしょうか?」

エツ子が割って入った。

「弟さん、神崎の家では、そういうものをいちいち数えたりしませんの」

数えたりしない。俺の会社では、金を数えない人間から順にやめてもらっている。数えない会社が最後にどうなるか。それを、俺は買収の現場で何度も見てきた。

話が式の段取りに移った時、修二が言った。

「打ち合わせは、全部済ませた。あとは当日を待つだけだよ」

姉が顔をあげた。

「全部ですか?」

「うん。花も、引き出物も」

「若月さんとは、そのお話を……」

「担当は変わったんだ。もっとベテランの人になった。その方がいいだろう」

姉は何も言わずにノートを開いて、その日付を書いた。

帰りに、俺は一度だけ足を止めた。玄関の靴箱の上に、古い集合写真が飾ってあった。神崎フーズの創業何十周年かの記念写真だ。前列の真ん中に若い頃の竜三がいて、その後ろに従業員が三十人ほど並んでいる。写真の隅が黄ばんでいた。悪い会社ではなかったのだろう。少なくとも、この写真を撮った日までは。

車に乗ってから、姉が窓の外を見たまま言った。

「れん、私、間違ってるかな?」

「何が?」

「あの家に入れば、修二さんは楽になるのかなって、思うの」

「姉さんが楽になる話は、どこにあるんだ?」

姉は答えなかった。姉を店の前で下ろしてから、次の信号で止まった時に、俺は顧問弁護士の三宅直へ電話をかけた。当時五十二歳。創業の頃からうちの案件を見てきた人だ。

「先生、姉の結婚のことで、少し相談したいことがあります」

「桐生社長のお姉様の、おめでたい話ではないですか?」

「まだ分かりません。ただ、金の流れが妙です」

俺は見積もりの内訳と、二つの振り込み先を伝えた。三宅は最後まで黙って聞いていた。

「社長、今の段階で私が言えるのは、二つです」

「どうぞ」

「一つ、お姉様が書いておられるというノート。そのままにしておいてください。書き足すのは構いませんが、破ったり書き直したりはさせないように」

「分かりました」

「もう一つ、相手の口座を調べようなどとは思わないでください。それをやった瞬間に、こちらが加害者になります」

「調べません」

「結構です。必要なのは、お姉様ご自身が振り込んだ先の名義だけです」

電話を切った後も、その言葉が耳に残っていた。姉が自分で振り込んだ先の名義。それだけで足りると、三宅は言った。その夜、俺は秘書の立花に連絡を入れた。当時三十四歳で、俺の数字の目になってくれている人だ。

「神崎フーズの件、監査の進み具合を確認してくれ」

「基本合意に基づく実地監査の方は、来週で三回目です」

「取引の中身と、現場の実態まで洗ってほしい。現物がどこから来て、どう記録されているか。そこまでだ」

立花は一拍だけ黙った。

「社長、何かありましたか?」

「まだ分からない。分からないから、頼んでる」

窓の外に、雨が降り始めていた。式場に直接確かめることもできた。あのホテルはうちの取引先だ。一本入れれば、二百名の予約があるのか、金が届いているのかも、その日のうちに分かっただろう。やらなかった。ホテルに俺の名前を出せば、すぐに神崎の家まで伝わる。姉が一年前に頼んだのは、たった一つだけだった。私自身を見て欲しい、と。あと一ヶ月。式さえ終われば、この家との力関係は変えられる。そう思っていた。その一ヶ月を、俺は使わなかった。

式の十日前だった。姉の携帯に、エツ子から電話が入った。姉はその時、店の厨房にいて、揚げ物の途中だったという。

「あら、忙しいところごめんなさいね。式のことで、ご連絡が」

「はい」

「式場の都合で、会場が元のチャペルに戻りましたの」

姉は油の温度を落とした。

「戻った、というのは」

「最上階の宴会場が、抑えられなくなったのよ。あちらの手違いですって。全く、あんなホテルでも、そういうことがあるのね。では、二百名の方は、そちらはこちらで調整しますから、ご心配なく。それから、時間も変わりましてね。午後三時からになりましたわ」

姉は手を止めた。

「午後三時」

「ええ、午前の枠が埋まっているそうなの」

「あの、うちは五ヶ月前に、午前十一時でお願いして……」

「だから、あちらの手違いだと申し上げているでしょう」

エツ子の声が、少し尖った。

「桐生さん、こういうことでいちいち騒ぐと、うちの品位が疑われますの。分かってちょうだい」

電話が切れた。姉はエプロンで手を拭いて、鞄からノートを出した。そして、午前十一時と書いた行に、細く線を引いた。その下に「午後三時」と書き足し、日付と電話をかけてきた相手の名前を並べた。姉はそれから、式場に電話をかけている。

「桐生と申します。三月の式のことで」

「桐生様ですね。お待ちください」

保留の音楽が、長かったそうだ。

「お待たせいたしました。当日は、午後三時からとお受けしております」

「あの、私が契約した時は、午前十一時で」

「はい。ただ、その後の変更につきましては、神崎様を通じてお受けしておりまして」

「変更は、いつ入りましたか?」

「恐れ入ります。ご連絡の窓口が神崎様になっておりますので、詳細は神崎様へお尋ねいただけますでしょうか?」

姉は礼を言って、電話を切った。そのやり取りも、ノートに書いてある。時刻まで書いてある。午後二時十八分、と。

それでも姉はまだ疑っていなかった。疑うという発想が、この人の中にはあまりない。ただ、一度だけ確かめている。その夜、姉は修二に電話をかけた。

「修二さん、式の時間が変わったって、お母様から伺ったんですけど」

「ああ。うん。変わったんだ。式場の都合なんだよね」

「そう、式場の都合だ」

修二は即答したという。

「すまない。伝え忘れていた。バタバタしてて」

「いえ、でも、招待状はもう出してしまいましたよね?お時間が違うと」

「そっちは、うちで刷り直して出したから、心配ない」

「刷り直し?」

「うん。だから、皆さんは何もしなくていい」

姉はその招待状の現物を、一度も見ていない。宛名も、文面も、何時からと書いてあるのかも。全部、あちらが用意して、あちらが出した。姉の側から出したのは、俺への一通だけだ。俺の分だけは、姉が自分で書いた。そこには「午後三時」と書いてあった。その招待状を、俺は今も持っている。姉の字で「弟 桐生れん 様」と書いてある。宛名の下に、小さく手書きで添えてあった。

「三時に、二階のチャペルで」

印刷屋には頼まなかったそうだ。一通だけだから、と。十日前のその夜、姉は店の冷蔵庫の前で、長く立っていたという。式の後で、商店街に何を配ろうか。そんなことを考えていたらしい。翌朝も、姉は五時に起きた。式まで十日を切っても、体は同じ時間に目を覚ますのだと、後で笑っていた。

式の五日前、ドレスの最終合わせがあった。本来なら、新郎か家族が付き添うものだ。修二は仕事で行けないと言った。エツ子は「そういうものは、ご自分でなさるものよ」と言った。姉は一人で行った。店の休憩時間を使って、白いドレスを着て鏡の前に立った。誰も見ていない。写真も撮らなかった。

「せめて一枚くらい、撮ればよかっただろう」

後で俺がそう言ったら、姉はこう答えた。

「恥ずかしかったのよ。四十六だもの」

その日、姉がノートに書いたのは一行だけだ。

「ドレス直しなし」

それだけだった。

もう一つ、この十日間に姉が見たものがある。神崎リカの投稿だ。仲間内にだけ公開しているアカウントで、姉は修二の携帯の画面越しに偶然それを見たという。

「明日は面白いものが取れそう。案件の撮影より楽しみ」

日付は、式の前日になっていた。姉はそれを、結婚式が楽しみだという意味だと思ったそうだ。

そして最後に一つ。式の三日前、姉が神崎の家に届け物をしに行った時、廊下で竜三が電話をしていた。

「ええ、ええ。高瀬さんのところとは、当日に。はい。そちらの方は、ご心配なく。いや、こちらも身内だけの、こぢんまりとしたものにしますので」

姉は「高瀬」という名前を知らなかった。取引先だろうと思って、そのまま通りすぎた。その名前をもう一度聞くのは、三日後だ。

前日、姉は店を休みにした。十年で三度目の休みだった。朝から商店街を回って、呼べなくなった人たちに頭を下げたそうだ。

「呼べなくて、ごめんなさい」

大屋の松江さんは、姉の手を握って泣いたという。

「あんたが謝ることじゃないよ」

「写真、送りますね」

「送っとくれ。何枚でも」

魚屋の夫婦は、その朝に届いた鯛を一匹、姉に持たせた。

「めでたいんだから、持っていきな」

姉はその鯛を、店の冷蔵ケースに入れた。式の後で煮付けにして、商店街に配るつもりだったのだと思う。その鯛は結局、そのまま冷蔵ケースに残った。

俺の方は、その時別のことに追われていた。他県の食品加工工場で、深夜に設備の事故が起きた。幸い、人は無事だったがラインが止まった。深夜二時に呼び出され、朝の五時に出荷停止の判断を下した。損失は数億円になる。そういう判断をするのが、俺の仕事だ。数字を見て、切るべきものを切る。冷たいと言われることもあるが、迷わない。その俺が、姉に群がっていたものを、何ひとつ切り落としてやれなかった。

式の当日、午前中いっぱいは対応で潰れることになった。姉には前の晩に電話をした。

「悪い。午前中は、無理かもしれない」

「三時からだから、大丈夫よ」

「必ず行く」

「知ってる」

姉は笑っていた。

「ねえ、れん。明日、あなたが来てくれるだけで、私の側の席は全部埋まるのよ」

その時、何か言えば良かったのだと思う。何を言えば良かったのかは、今でも分からない。姉は最後まで、何ひとつ疑わなかった。

式の当日、姉は朝の八時に家を出た。ホテルの支度室は使わせてもらえなかった。前の晩にエツ子から「支度は外で済ませてきてちょうだい。当日の控え室は、身内で使いますから」と言われたからだ。姉は近所の美容室で髪を結い、ドレスを着せてもらい、ブーケを受け取った。かすみ草と白い小さな花の束だ。そして一人でタクシーに乗って、ホテルへ向かった。到着したのは、午後二時四十分。姉はロビーのソファーには座らなかった。ドレスにしわがつくといけないから、壁際に立って待っていたそうだ。

ホテルの人が、何度か声をかけてきた。

「どちらのお式でいらっしゃいますか?」

「神崎です」

「神崎様。少々お待ちくださいませ」

その度に担当者が奥へ引っ込んで、戻ってこなかった。三度、同じことが繰り返されたという。四度目に、若い女性のスタッフが困った顔で言った。

「あの、神崎様の式でしたら、午前中に終わっておりますが」

姉には意味が分からなかった。

「午前中ですか?」

「はい。十一時からのお式で……」

姉は笑って、「何かの間違いですね」と答えたそうだ。それから二十分、姉は同じ場所に立っていた。誰も迎えに来なかった。三時が近づいて、姉は自分でチャペルへ歩いていった。

チャペルの扉の前に、修二が一人で立っていたそうだ。他には誰もいなかったという。姉が名前を呼ぶと、修二は目も合わせずに一言だけ告げて、下の階へ降りていった。何を言われたのか、姉はその場では飲み込めなかったという。

俺が工場を出たのは、午後一時過ぎだった。高速が混んでいて、ホテルの車寄せに着いたのは三時十二分。姉には遅れると連絡してあった。エレベーターで二階へ上がり、チャペルの前まで来た時、笑い声が聞こえた。

「まだいたの?普通は恥ずかしくて逃げ出すでしょう」

神崎エツ子だった。その隣で、リカがスマートフォンを構えている。俺は二人の横をすり抜けて、扉を押した。中には誰もいなかった。三列の席も、最前列も空っぽだ。床には踏まれた花びらが散って、破られた赤地の席次表がその上に落ちていた。一番前の長椅子に、ウェディングドレスの姉が一人で座っていた。

「姉さん、式は終わったみたいだ」

「終わったって、どういうことだよ」

「修二さんに言われたの。本当の花嫁は別にいるって」

扉の隙間から、レンズがこちらを向いている。

「ドレスまで来て、本当に自分が花嫁だと思ってたんだ」

俺は上着を脱いで、姉の肩にかけた。指先が氷のように冷たい。二十六年前、泣いていた俺の手を握ってくれた手だった。

「れん、もういいの。帰ろう」

「良くない」

俺は立ち上がった。喉の奥が焼けるように暑い。エツ子が扉のところで笑った。リカのスマートフォンが、今度は俺の方を向いた。俺は姉の隣に座り直した。

「姉さん、鞄」

姉が足元の紙袋を差し出した。ドレスに合わない、古い革の鞄が入っていた。その中から、紺色の大学ノートを出した。表紙に、ひらがなで「結婚」と書いてある。開いた。日付が並んでいる。金額が並んでいる。話した相手の名前が並んでいる。

五ヶ月前の欄。式場との契約総額、三百二十万円。振り込み先は、ホテルの運営会社の名義。二ヶ月前の欄。追加費用、六百万円。振り込み先、神崎フーズ。同じ日、二百八十万円。振り込み先、神崎竜三。前の欄に細く線が引かれ、その下に「午後三時」と書き足されている。電話の相手の名前と時刻まで。

姉は何ひとつ疑わずに、何ひとつ漏らさずに書いていた。最後のページに、鉛筆で書かれた短い欄があった。

「準備は全部終わった。あとは当日を待つだけ」

その下の日付は、前日になっていた。姉は前の晩にこの一行を書いてから、寝たのだ。

ページの真ん中あたりに、挟んであるものがあった。指で触ると、質感が他と違う。固くて、ざらついている。引き出すと、それは赤い髪の花だった。色が抜けて、ほとんど桃色になっている。折り紙を巻いた花びらと、割り箸の茎。俺が小学五年生の時に作ったやつだ。

「これ、持ってきたのよ」

姉が少し笑った。

「ブーケに入れようと思って、忘れちゃった」

俺はそのノートを閉じて、膝の上に置いた。手が震えていたのは、怒りのせいだ。足元から破られた席次表を一枚だけ拾って、上着の内ポケットに入れた。姉の名前が印刷された、切れ端だった。

「姉さん」

「何?」

「一年前の約束、覚えてるか?」

姉が顔をあげた。目が赤い。

「肩書きを言うな、ってやつだよ」

「うん」

「あれ、もういいな」

姉は長い間黙っていた。ブーケを握る手に力が入って、かすみ草が潰れた。それから、はっきりと言った。

「ああ、いい」

「本当にいいんだな」

「私自身を見てもらいたかったの。もう、見てもらったから」

姉は自分の言葉で笑った。ひどく苦い笑い方だった。

「あの人たちが見てたのは、私じゃなかったのね」

俺は立ち上がって、チャペルを出た。エツ子が腕を組んで立っていた。

「あら、お帰り」

「フロントに用があるので」

「まあ、逃げるのね」

一階へ降りた。フロントの前で、俺は一度だけ深く息を吸った。この一年、俺はこの名刺をあの家に一度も出さなかった。姉に頼まれたからだ。頼まれたからというより、姉の言い分が正しいと思ったからだ。人を肩書きで測るべきではない。姉はそれを、二十六年かけて俺に教えた。給食着のエプロンのまま、俺の授業参観に来た人だ。だが、肩書きでしか人を測らない相手には、肩書きが一番早く効く。それが、この世界の汚いところだった。

名刺入れから一枚抜いて、カウンターに置いた。

「支配人にお取り次ぎください」

フロント係の若い男が、事務的な笑顔で名刺を受け取った。

「恐れ入ります。どのようなご要件で?」

それから、名刺の文字を見た。笑顔が消えた。

「少々お待ちくださいませ」

若い男は電話に手を伸ばしかけて、やめた。そしてカウンターの奥の扉へ、走った。走るなと教育されている人間が、走った。

チャペルへ戻ると、エツ子とリカが扉の前から動いていなかった。

「支配人に会ってくるって言ったの?」

「はい」

「支配人を呼んで、どうするの?」

エツ子は口元に手を当てて笑った。

「あなたみたいな人が、会える相手じゃないわ」

支配人が現れるまでの、十数分。あの十数分のことは、一生忘れないと思う。

チャペルの扉が開け放たれて、神崎の家の人間が四人入ってきた。エツ子とリカ、それから竜三と修二だ。修二はモーニングを着たままだった。胸の花が、まだ刺さっている。姉が立ち上がった。

「修二さん」

修二は目を合わせなかった。

「姉さん、どういうことですか?」

「見れば分かるだろう」

「今日、私たちの結婚式ですよね」

「本当の花嫁は、別にいる」

姉がすでに一度、男から言われた言葉だ。それをこの男は、俺の前でもう一度口にした。短い一言だった。この男は最後まで、自分の口で説明するということをしなかった。姉の膝が折れかけた。俺が支えると、姉は俺の腕の中で「ごめんね」と言った。この場面で謝る人間が、たった一人だけ。リカがスマートフォンを構えたまま、近づいてきた。

「これ、最高ねえ。こっち向いてもらっていい?」

「やめろ」

「なんで?身内の記録じゃん」

「取るな」

「四十六の女がドレス着て、一人で花婿を待つ姿って、最高なんだけど」

リカはレンズを姉の顔に寄せた。

「タイトル、決めてるの?『勘違い花嫁ドッキリ』」

俺は足元を見た。踏まれた花びらと、破られた赤地の席次表。式がもう終わった場所にしては、片付けが遅すぎる。

「これ、いつからこのままなんだ?」

リカが肩をすくめた。

「午前の式で撒いた花びらでしょ。片付けの人が掃除しようとしたから、『待って』って言ったの。『後で撮るから、そのままにしておいて』って。席次表、破いたのは私。ちょっと足りない気がしたから」

この女は、自分が何を言っているか分かっていない。分かっていないまま、全部を自分の手で録画していた。画面がこちらから少しだけ見えた。コメントが、下から上へ流れている。仲間内だけに流している配信だそうだ。数十人が見ていた。

「後で編集して出すの。顔は隠すから、大丈夫よ」

大丈夫。この女は、本気でそう思っていた。

俺は修二の方を向いた。この日初めて、この男の名前を呼んだ。

「修二さん」

「なんだよ」

「一つだけ、聞かせてください」

「何だ」

「姉のどこが気に入って、二年間、あの店に通ったんですか?」

修二の肩が動いた。

「答えられませんか?」

「あの店の、味噌汁が」

「味噌汁?」

「優しかった」

それきりだった。くだらない答えだと思うだろうか。俺はそう思わなかった。この男は多分、本当のことを言った。腹を空かせた人間に、熱いものを出す。それだけのことを、姉は二十六年やってきた。この男は二年間、それをもらって、最後に姉を空っぽのチャペルへ置いていった。

エツ子が近づいてきて、姉の顔を覗き込んだ。

「桐生さん、あなた、最初から神崎家にふさわしくなかったのよ」

「お母様」

「もう、お母様じゃありませんの。他人ですわ」

エツ子はドレスの裾を指で払った。汚いものを見る目つきだった。

「うちはね、あなたたちが一生働いても入れないような家と結婚するの。格が違うのよ。最初から、そう申し上げていたでしょ」

姉は俯いていた。エツ子はまだ足りないという顔をした。

「ねえ、桐生さん。あなた、いくつまで待つおつもりだったの?四十六でしょ?子供も望めないでしょうし」

「お母様、それは……」

「うちは跡取りがいるの。それを分かっていて、あなたは息子に近づいたんじゃないの?」

「そんなつもりは……」

「じゃあ、何のつもりだったのかしら?」

俺は口を挟まなかった。挟めば、この人はもっと喋る。黙っておいた方がいい場面が、世の中にはある。もっとも、その時俺がそこまで冷静だったかと言うと、嘘になる。拳の中で爪が手のひらに食い込んでいた。後で見たら、血が滲んでいた。

それでも、姉は聞いた。この状況で聞かなければならないことを、聞いた。

「あの、式場のお金は」

空気が変わった。竜三が初めて口を開いた。

「金の話か」

「はい。全部で、千二百万円です。そのうち八百八十万円を、そちらにお預けしました」

「息子と付き合えただけでも、十分だろう」

「そういう話ではなくて」

「じゃあ、どういう話だ?」

竜三が一歩前に出た。

「言っておくが、あんたが勝手に出したんだ。うちが強制した証拠が、どこにある?」

「振り込んだ記録は?」

「振り込んだのは、あんただろう」

竜三の声が低くなった。

「なあ、桐生さん。これ以上騒ぐな。あんたの店、あの商店街だったな」

姉が顔をあげた。

「うちは、食品の会社だ。あの辺りの問屋にも、顔が利く。仕入れが止まったら、あんたの店は何日持つ?」

潰すぞ、と言っている。チャペルの高い天井に、その声が反響した。最前列の後ろのステンドグラスから、午後の光が斜めに落ちていた。人を祝うために作られた部屋で、七十歳の男が四十六歳の女に店を潰すと言っている。修二はその横で、下を向いていた。飛べなかった。

姉の唇が動いた。声にならなかった。俺には分かった。姉は、俺に迷惑がかかると言っている。この後に及んで、弟の仕事に傷がつくことを心配している。だから、何も言い返さなかった。二十六年、この人はずっとそうだった。自分の分を後回しにして、俺の分を前に置いた。安いパンを食べて、俺に卵焼きを持たせた。ネックレスを売って、俺を大学に入れた。その人が、白いドレスを着て、四人の人間に囲まれて俯いている。

「姉さん」

俺は姉の手からブーケを取って、長椅子の上に置いた。

「もう、黙らなくていい」

「でも、れんの会社が関係ない。迷惑がかかるでしょう」

「かからない」

俺は姉の肩に手を置いた。

「今日から、姉さんは何も我慢しなくていい」

姉が俺を見た。

「れん」

「なんだよ」

「あなた、怒ってる?」

「怒ってる」

「私のために?」

「そうだよ」

姉の目から、初めて涙がこぼれた。この日、姉が泣いたのはその時が最初だ。式が終わっていると知った時でもない。「本当の花嫁は別にいる」と言われた時でもない。弟が自分のために怒っていると分かった時、だった。

竜三が咳払いをした。

「もういい。下へ戻るぞ。まだ披露宴の途中だ」

姉が顔をあげた。

「披露宴?」

「ええ、この下の階でやっておりますのよ」

エツ子が床を指した。

「あなたが押さえてくださった、お部屋でね」

俺は隣で息を止めた。姉が五ヶ月前に自分の名義で押さえ、自分の金で払い切った披露宴会場のことだった。エツ子が笑った。

「何ができるって、おっしゃるの?弟さん、あなた、都内の会社にお勤めなんでしょ?そう聞いています」

俺は答えた。

「姉から、そう名乗るように言われていましたので」

エツ子の顔が一瞬止まった。

「なんですって」

その時、廊下の絨毯を踏む足音が、いくつも重なって近づいてきた。扉が開いた。先頭にいたのは、白い手袋をした五十代の男だった。その後ろに、黒いスーツが四人。全員が早足で、全員が息を切らしていた。男は俺の三歩手前で足を止めて、腰から折るように頭を下げた。

「桐生社長。お待たせして、申し訳ございません」

総支配人の大城だった。当時五十五歳。都内でこの規模の宴会場を持つホテルは、数えるほどしかない。そのほとんどが、うちの傘下の食品会社から食材の供給を受けている。大城は年に何度か本社へ来ていた。俺の顔を知っている、数少ない一人だ。

チャペルが静かになった。竜三の顔から、血の気が引いていくのが見えた。

「桐生社長」

「はい」

「桐生って……」

「姉の弟ですよ」

俺は竜三の目を見て言った。

「あなたたちが、何の価値もないと笑った女に育てられた人間です」

竜三の唇が動いた。声は出なかった。この男が今、頭の中で何を計算しているかは分かった。俺も同じ計算を毎日している。五年間で総額三百億円の供給契約。神崎フーズが社運をかけて交渉してきた話。まだ基本合意の段階で、最終契約は締結されていない。そして、その最終決済の判断を押すのが誰か、ということ。

「神崎社長、うちの担当役員から決済権者の名前は、聞いていませんか?」

「聞いた。聞いたが、名前だけだ」

「顔は、見たことがなかったということですね」

竜三が一歩下がった。

「うちは非上場です。表に出ませんから、無理もありません」

「まて。桐生さん。いや、桐生社長。今日のことと、会社の話は別だろう」

「別ですよ」

俺は答えた。

「別に扱います。だから、今は姉の話をしましょう」

修二が急に前へ出てきた。さっきまで下を向いていた男が、別人のような顔で笑った。

「桐生社長、あの、違うんです。これは家族が勝手に……僕は反対したんです。母たちが、強引に」

「そうですか?」

俺は修二を見た。

「では、聞きます。姉に『本当の花嫁は別にいる』と言ったのは、誰ですか?」

修二の口が半開きになった。

「言ったのは、誰ですか?」

「それは、さっきの話です」

「忘れましたか?」

修二は答えなかった。エツ子が息子の袖を引いた。俺は大城の方へ向いた。

「大城さん、お願いがあります」

「なんなりと」

「本日、この会場で行われた式に関する記録を、全て保全してください。予約の履歴、変更の履歴、入金の記録、館内の防犯映像。今から、手を触れないでいただきたい」

「承知いたしました。直ちに」

それから俺は、姉を振り返った。

「開示の請求は、俺ではなく契約者からになります。姉さん、頼めるか?」

姉が立ち上がった。ドレスの裾を持って、大城の前まで歩いた。

「桐生です。五ヶ月前に、こちらと契約をしたものです」

「はい。存じ上げております」

「私の契約について、記録を見せていただけますか?」

大城は姉に向かって、俺にしたのと同じだけ深く腰を折った。

「かしこまりました。ご契約者様のご要望ですので、直ちにご用意いたします」

十分後、俺たちは二階の控室にいた。神崎の家の四人も、逃げなかった。逃げれば、認めることになると思ったのだろう。大城が持ってきた書類は、三種類だった。

一枚目、予約の履歴。

「五ヶ月前、桐生みな様でチャペルと披露宴会場をおさえ、開始は午前十一時、三列予定五十名。変更の履歴は、ございません」

「ない、というのは」

「会場の変更のお申し込みは、一度もお受けしておりません。最上階の宴会場につきましては、当日は別のご予約が入っておりました」

姉が口を押えた。

「では、二百名は……」

「そのようなご予約は、当ホテルには存在いたしません」

二枚目、当日の進行表。

「チャペル、神崎修二様、高瀬彩佳様」

姉がその名前を読んだ。廊下で聞いた名前だ。

「この枠は、誰の予約ですか?」

大城が答えるのに、少しだけ時間がかかった。

「桐生みな様のご予約でございます。ご新婦のお名前の変更を、神崎様から当日にご依頼いただきまして」

三枚目は、防犯映像の静止画だった。午前十時五十四分、チャペルの入り口。白いドレスの女性が、モーニング姿の男に手を引かれて中へ入っていく。花びらが撒かれている。その花びらを、四時間後に姉が踏んだ。姉はその静止画を、長いこと見ていた。

「この人、幸せそう」

「姉さん」

「私、この人のこと、何も知らないの」

姉は指で画面の端をなぞった。

「悪い人じゃないのかもしれない」

この場面で、そんなことを言う人だった。

もう一人、大城が連れてきた人がいた。若月はるかだった。

「桐生様。ご無沙汰しております」

姉が椅子から半分立ち上がった。

「若月さん、あの、担当が……」

「はい。外れました」

若月は姿勢を正して、はっきりと言った。

「私は桐生様に、午前十一時とお伝えしておりました。ご契約の直後から、神崎様は窓口をご自分たちにと繰り返しておられました。二ヶ月前に正式なお申し出があり、合わせて担当を外れるようにと」

「理由は、聞きましたか?」

「聞きました。桐生様に余計なことを言うから、と」

若月は目を伏せた。

「申し訳ございません。おかしいと思っておりました。それでも、お客様のご意向ですので……」

「若月さんのせいじゃないです」

大城が姉に向き直った。

「桐生様、当ホテルとしても、確認が足りませんでした。進行の窓口も、本日のご新婦のお名前の差し替えも、ご契約者様に直接お伺いを立てるべきでした。ご入金のお問い合わせにお答えしなかったことも、あってはならないことでございます」

「いえ、そんな……」

「申し訳ございませんでした」

大城が腰を折った。後ろの四人も、一斉に頭を下げた。姉は困った顔をして、俺の方を見た。人に頭を下げられることに、慣れていない人だ。

会場を移すという話は、最初から一度も式場へ届いていなかった。追加の支払いも、一円も届いていなかった。姉が五ヶ月前に自分の名前で押さえて、自分の金で払い切った午前十一時の枠。そこに、そのまま別の花嫁が入っただけだった。

その時、廊下側の扉が開いた。白いドレスの女性が、そこに立っていた。高瀬彩佳、当時三十二歳。製菓会社の社長令嬢だという話は、後で聞いた。その時の俺には、まだ何も分かっていなかった。彩佳の後ろから、白髪の男が入ってきた。父親の高瀬聖一郎、当時六十三歳。披露宴が中断されているのを不審に思って、様子を見に来たのだという。

彩佳は部屋の中を見回して、姉のところで目を止めた。姉もドレスを着ていた。

「どうして?」

彩佳が修二を見た。

「修二さん、この方、なぜウェディングドレスを?」

修二が両手をあげた。

「彩佳さん、落ち着いて。この人は、前に付き合ってた人だ」

「前に?」

「別れた後も、つきまとってくる元の恋人だよ。まさか、式場まで来るとは」

姉が息を吸う音がした。彩佳は動かなかった。修二を見て、姉を見て、それからテーブルの端に置かれた赤地の席次表の切れ端を見た。俺がチャペルの床から拾ってきたものだ。破れた紙に、「桐生みな」という名前が印刷されていた。

「この席次表に、この人が載っているんですか?」

修二の顔が固まった。俺は姉が持ってきたノートと、契約書の写しをテーブルに置いた。

「高瀬さん、順番にご説明します」

「あなたは……」

「桐生れんです。この人の弟です」

俺は一枚ずつ並べた。五ヶ月前の契約書。姉の名義。開始は午前十一時、三列五十名。振り込みの記録、三百二十万円。それから、姉のノートを開いた。

「二ヶ月前、神崎さんのご家族から、会場を最上階へ移すという話がありました。見積もりは総額で千二百万円。すでに式場へ払った三百二十万円を差し引いた、八百八十万円をこちらへ振り込めと言われました。姉は、言われた通りに振り込んでいます」

彩佳がノートを覗き込んだ。

「神崎フーズと、神崎竜三」

「はい」

「これ、式場ではないですよね」

「式場ではありません」

彩佳が顔をあげた。

「じゃあ、私たちが今日使った部屋は?」

大城が答えた。

「桐生みな様のご予約でございます」

後で聞いた話だが、彩佳は派手な式を望んでいなかったそうだ。「神崎家から、まずは親族だけでこぢんまりと。披露宴は後日改めて」と言われて、それがこの人らしいと思ったのだという。チャペルと小さな披露宴会場、五十人。彩佳はそれを、修二の誠実さだと受け取っていた。本当は、姉が押さえた枠がそれだけだったというだけの話だ。

彩佳がテーブルに手をついた。

「この方の式を奪って、私との式に使ったの?」

修二が慌てた。

「違う。奪ったんじゃない。あれは有効に使ったというか」

「有効に」

「会社を守るためだったんだ」

彩佳がゆっくりと顔をあげた。

「会社を守るためなら、女性を騙していいの?」

修二が黙った。高瀬聖一郎が、娘の前に出た。

「神崎さん、うちは御社に五十億の出資を検討していました」

「高瀬さん、それと、これは同じ話です」

高瀬は竜三の方を見なかった。書類だけを見ていた。

「人の結婚式を、別の人間の金で用意する。それを平然とやる会社に、五十億を預けるとおっしゃるんですか?」

「誤解です。手違いが重なっただけで」

「手違いというのは、一度きりのものを言います」

高瀬はそこで初めて、竜三の顔を見た。

「神崎さん、一つだけ確認させてください」

「何でしょう?」

「うちからの出資の話と、この方からお金を受け取った話と、どちらが先に決まったんですか?」

竜三が答えなかった。

「答えられませんか?」

「同じ頃だ」

「そうですか」

高瀬は頷いた。それだけで足りるという、頷き方だった。

リカはもう、撮影をやめていた。スマートフォンを両手で握って、壁際に立っている。エツ子は椅子に座ったまま、扇子を握りしめていた。さっきまで扇いでいたのに、もう握っているだけだった。この家の人間は、自分たちが今どこに立っているのかを、ようやく分かり始めていた。

高瀬が娘の方に手を置いた。

「彩佳、どうする?」

彩佳は指輪を外した。そして、修二ではなく、姉の方へ向き直った。

「桐生さん。私、何も知りませんでした」

「はい」

「知らなかったで済むことではないと分かっています。それでも、謝らせてください」

彩佳が頭を下げた。ドレスの裾が床についた。

「本当に、申し訳ありませんでした」

姉が慌てて、彩佳の腕を取った。

「やめてください。あなたのせいじゃないです」

「でも……」

「ドレス、汚れます」

姉はそう言って、彩佳のドレスの裾を持ち上げた。枠を奪われた側が、奪った側の裾を支えていた。彩佳が声をあげて、泣き出した。

「結婚は、破談にします」

彩佳は指輪をテーブルに置いた。

「婚姻届は、式の後で二人で出しに行く約束でした。まだ、出していません。よかった」

高瀬が携帯を出して、その場でどこかへ電話をかけた。短い電話だった。

「出資の件、止めてくれ。理由は後で話す」

竜三が椅子から立ち上がりかけて、また座った。五十億円が消える音を、俺はその部屋で聞いた。

大城が最後の一枚を持ってきたのは、その時だった。

「桐生様、ご入金の記録です」

姉が受け取って、目を落とした。そして、そのまま動かなくなった。

「れん、どうした?」

「一つしか、ないの?」

俺は横から覗いた。五ヶ月前の日付。桐生みな、三百二十万円。それだけだった。二ヶ月前からの、八百八十万円はどこにもない。一円も、このホテルには届いていなかった。

俺の手元には、まだ読み上げていない一冊があった。姉が振り込みの度に一行ずつ書き出してきた、あの紺色のノートだ。俺はそのノートを開いて、テーブルの真ん中に置いた。そのノートはもう何度も開いたせいで、背が破れかけていた。表紙の「結婚」というひらがなは、姉が式場と契約した日に書いたものだ。姉は「結婚」という漢字を、なぜかひらがなで書いた。後で理由を聞いたら、こう答えた。「なんだか、漢字だと照れ臭くて」。四十六歳の女が照れ臭いから、ひらがなで書いた表紙。それが、この日の切り札になった。

「読み上げます」

竜三が椅子の上で体を起こした。

「まて。それは、その女が勝手に書いたものだろ」

「そうです。姉が勝手に書いたものです。証拠になるのか、そんなもの」

「なりますよ」

俺はページをめくった。

「五ヶ月前、式場との契約。総額、三百二十万円。振り込み先は、ホテルの運営会社。これは、今、大城さんの記録と一致しました」

「それが何だ?」

「次です」

俺は指で行をたどった。

「二ヶ月前、追加費用として六百万円。振り込み先の名義、神崎フーズ」

竜三が黙った。

「同じ日、二百八十万円。振り込み先の名義、神崎竜三」

竜三が息を飲む音がした。

「合わせて八百八十万円。二百名の式にいると言われて、姉が振り込んだ金です。そして今、大城さんが持ってきた入金の記録には、五ヶ月前の三百二十万円しかありません」

俺は竜三の顔を見た。

「八百八十万円は、このホテルに一円も届いていません」

部屋が静まり返った。

「桐生社長、それは、その、経理の処理が遅れているだけで。二ヶ月ですよ。うちは大きい会社だ。そういうこともある」

「では、会場を移すという申し込みは、なぜ一度も式場に出ていないんですか?」

竜三が言葉に詰まった。

「二百名の宴会場も、最初から押さえられていません。押さえていないものに、なぜ八百八十万円が必要だったんですか?」

「それは……」

「答えられないでしょう」

俺はノートを閉じた。

「言っておきますが、俺はあなたの口座を調べていません。調べる気もありません。弁護士に止められています。他人の口座を勝手に追えば、こちらが加害者になる」

「じゃあ、なぜ……」

「姉が、自分で振り込んだんですよ」

俺はノートの表紙を指で叩いた。

「自分の金を、自分の手であなたの名前の口座に振り込んだ。だから、この一冊にあなたの名前が残っている。それだけの話です」

竜三の口が動いた。声は出なかった。その時、修二が急に立ち上がった。

「父さん、父さん、金を受け取ってたのか?」

「今更、何を言う」

「僕は、聞いてない」

「聞いてないわけがあるか。振り込み先を二つに分けろと言ったのは、誰だ?会社の口座と、私の口座と。お前が電話で伝えたんだろうが」

修二の口が開いたまま、止まった。姉が修二を見た。

「修二さん?」

「違う、違うんだ。皆さん、僕はただ、父に言われた通りに」

「言われた通りに、私に電話をかけたんですね」

「それは……」

「『経理のやり方が違うだけだ』って、あなたが言ったんですよ」

姉の声は責めていなかった。ただ、確認していた。それが一番つらい。姉はもう泣かなかった。膝の上で指を組んで、答えを待っていた。二十六年、この人はずっと待っていた。給料日を待ち、俺の合格発表を待ち、店の客が戻るのを待った。その日も、待っていた。待っている人の前で、待たせている側が黙っている。俺はそれが、我慢ならなかった。

「あなたたちは、姉を騙しやすい相手だと思ったんでしょう。四十六歳で、弁当屋で、身内は弟が一人だけ。何を取られても黙っている女だと。その女が、十年間、一円単位で帳面をつける人間だとは思わなかった」

姉が俺の袖を掴んだ。やめて、という意味ではなかった。姉は自分でテーブルに手を置いて、竜三に聞いた。

「私は、何だったんですか?」

「何だ?」

「私は、修二さんのお嫁さんになる人じゃなかったんですね」

竜三が目をそらした。

「そのお金は、会社にいるお金だったんですね」

答えはなかった。答えないことが、答えだった。姉は「結婚相手」ではなかった。傾いた会社を延命させるための、資金として選ばれていただけだ。

俺は携帯を出して、立花に電話をかけた。

「桐生だ。監査の中間報告。今すぐ、俺の端末に送ってくれ」

「中間報告ですか?まだ確定していませんが」

「確定していない状態のまま送ってくれ。読むのは、俺だけだ」

三分で届いた。俺はそれを開いて、竜三の方へ画面を向けた。

「基本合意に基づく実地監査の、三回目の中間報告です」

「なぜ、あんたが……」

「決済権者だからです」

俺は項目を読み上げた。

「原材料の表示について、記録と現物の照合が取れない品目が七つ。検査記録のうち、日付と担当者の署名が後から書き加えられたと見られるものが複数。取引先から寄せられた品質指摘の内容と、御社の回答が一致しない案件が三件」

もう一つある。俺は画面を送った。

「二年前から、同じ運送会社への支払いが毎月二百万円ずつ計上されています。ところが、その会社の登記上の代表者は、御社を辞めた元経理部長です」

「それは、正規の取引だ」

「品質指摘の三件も、その運送会社を経由した納品でした」

竜三が椅子の肘掛けを掴んだ。

「それはまだ、調査中だ。確定していません」

俺は画面を伏せた。

「だから、俺は不正があったとは言いません。言えません。なら、言えるのはこちらが取引の前提として求めた内容が確認できなかったということです」

竜三が食い下がった。

「桐生社長、今日のことで頭に来ているんだろ。会社の話は別だと、さっきあんたも言った」

「言いました」

俺は姉の方を見た。姉はドレスの膝に手を置いて、背筋を伸ばして座っていた。

「姉を傷つけたから、取引をやめるんじゃありません」

俺は竜三に向き直った。

「表示を偽って人の金を受け取り、商品の記録も合わない。そういう会社に、うちのスーパーに並ぶものを任せられない。それだけです。客の口に入るものなんですよ」

竜三の額に汗が浮いていた。そして、この男は小さく呟いた。

「誰が、誰に……」

竜三が口を割ったのは、その十分後だ。追い詰められて自白したのではない。この男はまだ計算していた。ここで正直に話せば、取引を残す余地があるかもしれない。そう思ったのだと思う。

「桐生社長、全部話す。だから、契約の話はもう一度、考えてくれ」

「聞くだけ、聞きます」

竜三は上着の内ポケットからハンカチを出して、額を拭いた。

「一年前だ。息子が弁当屋の女と結婚すると言い出した。それで、調べさせた。探偵所に」

姉が顔をあげた。

「私ですか?」

「あんたの資産をだ」

竜三は姉の方を見なかった。

「預金が九百万円。店は借地だが、建物はあんた名義で、登記簿で確認した。先代から譲られたものだと分かった」

姉が聞いた。

「それを聞いて、結婚を認めたんですか?」

「認めた」

竜三は正直だった。この後に及んで、嘘をつく体力がなかったのだろう。

「悪いが、それだけの話だ。四十六の弁当屋なんぞ、本来なら門前払いだ。だが、金があるなら、別だ」

「弟のことは、調べなかったんですか?」

俺が聞くと、竜三は初めてこちらを見た。そして、馬鹿げた話だという顔をした。

「調べさせたのは、あの女の預金と店だけだ」

「なぜ」

「弁当屋の弟に、何がある?」

竜三が鼻で笑った。

「金をかけて調べる価値もないと思った」

その一言で、この一年の全部が説明された。この男は姉を金額で見た。だから、姉の家族も金額で見た。弁当屋の姉に、大した弟がいるはずがない。そう決めて、そこで調べるのをやめた。見下すというのは、目を閉じるということだ。

姉が竜三に、一つだけ聞いた。

「一年前、蓄前においしいと言ってくださいましたよね」

竜三が眉を寄せた。

「何の話だ?」

「私が朝から仕込んだものです。息子さんが持って帰るとおっしゃって、パーごとお渡ししました」

「覚えとらん」

「そうですか」

姉は頷いた。

「覚えていないんですね」

それだけだった。姉は責めなかった。だが、一言の後、竜三は最後まで姉の顔を見られなかった。

「修二さんが店に通い始めたのも、あなたの指示ですか?」

「いや、竜三は首を振った。あれは本当に偶然だ。息子が勝手に通っていた。私は、それを使えると思っただけだ」

修二が下を向いた。

「使える、ですか?」

「息子には見合いをさせるつもりだった。だが、女がいると言い出したので、まず調べさせた。金があると分かったから、結婚を認めた。式の話が出た時に、それを使わせてもらった」

「使わせてもらった、という言い方をなさるんですね」

竜三は答えなかった。その時、エツ子が突然立ち上がった。

「ちょっと待って。あなた、それは違うでしょ?」

「黙ってろ」

「私は聞いてないわよ、そんな話」

エツ子の声が裏返っていた。

「私はあの女を追い出したかっただけよ。お金なんて、一円もいらないって、私はずっと言っていたじゃないの」

「だから、黙ってろと言っている」

「あなたが受け取ってたの。あの女のお金を」

エツ子が姉の方を見た。それから、また夫を見た。この家は、父親と母親で目的が違っていた。父は金を受け取ってから、捨てるつもりだった。だから婚約を続けさせ、支払いを済ませてから当日に切った。母は最初から、追い出すつもりだった。式で恥をかかせれば、女の方から消える。慰謝料も返還も求められない。エツ子はそう考えていた。この二つが、同じ日に合流したのがこの日だった。

「じゃあ、私が計画したことは、何だったのよ」

エツ子が扇子をテーブルに叩きつけた。

「私はね、あの女に消えて欲しかっただけよ。お金なんて、一円もいらなかった。こちらから婚約を切れば、慰謝料だの何だのと言われるでしょう。式の費用も返せと言われる。だったら、あの女の方から逃げ出すようにすればいいのよ」

エツ子はもう止まらなかった。

「恥をかかせれば、女は消えるの。昔からそうよ。式の日に一人で置いていけば、二度と顔を出せなくなる。誰にも文句を言われずに済むでしょ」

俺は口を挟まなかった。この人は、自分が誰の前で喋っているかを数えていなかった。部屋には十数人いた。ホテルの総支配人と、役員と、記録係の社員が数人。若月はるか。高瀬親子。姉と、俺。そして、神崎の家の四人。大城が記録を取っていた若い社員の方を見た。社員は、メモを取る手を止めなかった。エツ子はそこまで行ってから、ようやく気づいたらしい。口を押えた。

「なんでもないわ」

「リカさん」

俺は、撮影をやめた妹の方を向いた。

「あなた、いつからカメラを回しているんですか?」

リカの手が震えた。

「え、今日だけじゃないでしょ。家でも、車でも、食事の時でも回している。ご家族はもう、誰も気にしていない。なんで分かるか。それを見ていれば分かります」

俺は姉のノートを持ち上げた。

「姉は、これに書きました。あなたは、映像に残しましたね」

リカがスマートフォンを胸に押し付けた。

「あれは、その、身内の記録で」

「その記録の中に、何が映っていますか?」

答えはなかった。その中に何が映っていたかは、外へ出たものを見て知った。全部があった。エツ子が「あの女が自分から恥ずかしくなって消えるようにすればいい」といった日の食卓。修二が「振り込み先を変えれば分からない」と笑った夜。竜三が「これ以上騒げば店を潰す」と姉を脅した、その日のチャペル。そしてリカは、それを仲間内の限定配信に流していた。数十人が見ていた。数十人のうちの一人が、外へ出した。そこから先は、誰にも止められない。三日後には、姉の店の常連の手にまで届いていた。豆腐屋の松江さんが震える手で俺に電話をかけてきて、こう言った。

「あの子が、笑い物にされてるんだよ。どうにかならないのかい」

話をその部屋に戻す。家族が、互いを見た。

「お前があんな計画を立てるからだ」

「方針を決めたのは、あなたでしょ」

「金の取ったりが悪いんじゃないの?」

「ママが言えって言ったじゃん」

その言い争いを、俺は最後まで聞かなかった。廊下へ出て、顧問弁護士に電話をかけた。

「先生、記録は揃いました。段取り通りに」

一週間後の本社の会議室で、正式な通達が読み上げられた。三宅弁護士と担当役員と、立花が同席した。内容は三つだ。

一つ、五年間で総額三百億円の供給契約について、基本合意を破棄に戻す。最終契約は締結しない。二つ、現在続いている取引についても、契約期間の満了を持って更新しない。三つ、理由は、基本合意に基づく実地監査で確認できなかった項目があり、取引を継続できる状態にないと判断したこと。

神崎からは、竜三とエツ子が来た。修二は来なかった。来られなかったのだと思う。読み上げが終わると、竜三が立ち上がった。

「待ってくれ。そんなことをされたら、うちは終わる」

「そうですか」

「五年で三百億だぞ。あれがなければ、事業が回らん」

「知っています」

「知っていて、切るのか?」

「こちらで判断してのことです」

俺は書面を揃えた。

「竜三さん。この男は一週間で枯れた。終わらせたのは、俺じゃない。あなたたち自身です」

エツ子が椅子から乗り出した。

「あなた、お姉さんの仕返しでしょう。私怨で会社を潰す気なの?」

「こんなのは私怨です」

「こんなのは……」

「『格が違うのよ』と言いたいんですか?」

エツ子が黙った。

「一年前から、何度も聞かせていただきました。うちとは格が違う、と」

俺は書面を机に置いた。

「格が違うのは、確かにその通りでした。ただ、あなたが思っていたのとは、逆の意味です」

エツ子の顔から、表情が抜けた。三宅が前へ出て、別の封筒を渡した。

「桐生みな様の代理人として、二点お伝えします。一点、詐称によってお受け取りになった八百八十万円の返還と、無駄にした式費用三百二十万円の賠償。合わせて千二百万円。二点、当日の対応についての慰謝料、八百万円。総額で、二千万円です」

「そんな金が、どこにある?」

「争われるのは自由です」

三宅は淡々としていた。

「ただ、争えば時間がかかります。記録は全て保全されていますし、証言してくださる方も、複数いらっしゃる。長引けば、その間ずっと外に出続けます。御社にとって、どちらが得かはご判断ください」

竜三が席を立ちながら、最後にこう言った。

「息子の結婚は、うちの家の話だ。会社とは関係ないだろう」

「関係あります」

俺は答えた。

「うちが仕入れるのは、御社が作ったものです。物を作るのは、人です。人の金の使い方が、その人の作るものに出ないと、本気でおっしゃっておられますか?」

竜三は答えなかった。エツ子の腕を引いて、部屋を出ていった。

竜三は三日後、和解に応じた。自宅を売って払う、と言ってきた。その日の夕方だった。俺が店に着いた時、姉はカウンターの中で大根を刻んでいた。客はいない。まだ行列は戻っていなかった。暖簾をくぐって入ってきたのは、修二だった。痩せていた。ネクタイをしていなかった。

「みなさん」

姉が包丁を置いた。修二はカウンターの前で膝をついた。そのまま、床に頭をつけた。狭い店だ。土間に頭がつくともう、体の置き場がない。

「やり直そう」

姉は答えない。

「本当は、君を愛していたんだ。父と母に逆らえなかっただけなんだ」

俺は入り口に立ったまま、動かなかった。この男が何を計算しているかは、分かっていた。姉と元に戻れば、俺が契約を戻すかもしれない。そう思っている土下座の角度が、それを言っていた。

姉はしばらく黙っていた。それから、エプロンで手を拭いて、カウンターの外へ出た。

「顔を、あげてください」

修二が顔をあげた。

「みなさん」

「あなたが別の人を選んだことより」

姉の声は震えていなかった。

「私を笑い物にしたことが、悲しかった」

「それは、母が……」

「お母様の話をしているんじゃありません」

姉は修二を見下ろしていた。

「あなたはチャペルで、私に何て言いましたか?」

修二が口を開いて、閉じた。

「『本当の花嫁は別にいる』と、言いました」

修二は返す言葉を持っていなかった。

「あの言葉は、お母様のものじゃありません。あなたが、自分の口で言ったんです。あなたが守りたかったのは、私ではなく、あなた自身だったんですね」

修二が床に手をついた。姉の手を掴もうとした。俺が動くより先に、姉が自分でその手を振り払った。音がした。

「私が愛した修二さんは、もうどこにもいません」

姉は一歩下がった。

「二度と、私の前に現れないでください」

修二はしばらく床を見ていた。それから立ち上がって、暖簾をくぐって出ていった。俺の横を通ったが、目は合わなかった。

店に、大根を刻む音だけが戻った。姉が包丁を持ったまま、俺の方を見ずに言った。

「れん、なんだよ」

「せっかく仕事を休んで来てくれたのに、あんなことになって」

「姉さん」

「私人を見る目がなかった」

姉の手が止まった。

「四十六にもなって、こんな姉さんで」

俺は鞄から、紙に包んだものを出した。カウンターの上に置いて、開いた。赤い髪の花だ。色が抜けて、ほとんど桃色になっている。あの日、ノートに挟まっていたものを、俺が預かっていた。

「これ、覚えてるか?」

「覚えてるわよ」

姉が包丁を置いた。

「小学五年生の母の日でしょ?あなたが学校で作って、私にくれたの」

「捨てられなくて」

「捨てるわけないでしょ」

姉はその花を指で持った。花びらが一枚、取れかけていた。

「姉さん」

「何?」

「姉さんが俺を見捨てなかったから、今の俺がいる」

「そんな、大げさな」

「大げさじゃない」

俺は姉の目を見た。

「二十歳の姉さんが、俺を施設に預けてれば、今の俺はいない。会社もない。今日の話も、何ひとつできなかった」

姉が首を横に振ろうとした。今度は俺が。

「姉さんを、一人にしない」

「れん」

「だから、頼むから」

言葉が詰まった。息を吸って、もう一度言った。

「今日のことで、姉さんの人生まで終わらせないでくれ」

姉の手から、髪の花が落ちた。姉はその場にしゃがみ込んで、両手で顔を覆った。そして、声をあげて泣いた。四十六歳の姉が、子供みたいに泣いた。二十六年間、俺の前で声をあげて泣いたことのない人だ。両親の葬式でも、ネックレスが首から消えた日も、店の行列が消えたと聞かされた日も、この人は声を殺していた。俺は姉の隣にしゃがんで、背中に手を置いた。二十六年前に、この人が俺にしてくれたのと同じことしか、思いつかなかった。

どれくらい、そうしていたか分からない。姉が顔をあげた時、目の周りが真っ赤になっていた。それでも、この人が最初に見たのは厨房の方だった。

「大根、下茹でしなきゃ」

「今かよ」

「今なのよ。明日のおでんに使うんだから」

姉は立ち上がって、鼻をすすって、蛇口をひねった。水の音がした。その音を聞きながら、俺は床に落ちた髪の花を拾った。取引を一つ切ったところで、姉から奪われた時間は戻らない。だが、これから作れるものはある。

神崎フーズが本当に傾いたのは、和解が済んだ後だという。行政の立ち入り検査が入り、第三者委員会の報告が出て、竜三と修二は株主総会で取締役を解任されたそうだ。別荘まで担保に入っていたため、竜三は資産の大半を失ったらしい。リカは化粧品の広告契約を解除され、エツ子は慈善団体から退会を求められた。エツ子は「貧しい女に息子の人生を壊された」と近所へ言いふらしたそうだが、あの動画が残っていたので、誰にも信じてもらえなかったという。俺が聞いたのは、そこまでだ。それ以上を追いかける気はなかった。

帰ってきた二千万円で、姉はまず信用金庫の借入れを返した。店にかかっていた担保が外れた。残りで店を回した。壁を一枚抜いて、カウンターの向かいに椅子を五つ置いた。前に相沢さんが「この壁は抜けます」と言っていた、あの壁だ。名前は「みなの台所」になった。昼は今まで通り、弁当を売る。夕方から夜にかけては、一人で夕飯を食べる人が来る。学校帰りの子も、仕事帰りの人も、一人暮らしの年寄りもいる。誰が来てもいいし、誰も理由を聞かれない。俺がやったのは、経営計画を作ること、仕入れ先を紹介すること、ホームページと会計を見ることだけだ。金は渡さなかった。姉が受け取らなかったからでもあるが、それだけではない。あの店は、姉が自分で作らなければ意味がなかった。

開店の日、姉は朝の五時に起きた。十年と変わらない時間だ。夕方、最初にカウンターへ座ったのは、作業服の男だった。仕事帰りに前を通って、看板を見て入ってきたのだという。

「一人でも、いいんですか?」

「一人のための店です」

姉はそう答えたそうだ。姉は今も、紺色のノートを使っている。中身は、仕入れと売上と、来た人の名前だ。誰が何を残したか、誰が最近来ていないか。そういうことが、一行ずつ書いてある。

「もう書かなくてもいいだろう」

「書くのよ」

姉は笑った。

「書いておけば、忘れないもの」

あのノートが姉を守ったのか、姉があのノートを守ってきたのか。俺には今も、分からない。若月はるかさんは、あの後、式場をやめて別の会社へ移った。今も月に一度、店に来る。姉のノートを見て「初めてです」と言ってくれた人だ。高瀬彩佳さんからは、年に二度、手紙が届く。去年の暮れの手紙には、仕事を始めたと書いてあった。姉は返事を書くのに、いつも三日かける。

二年後の夏、姉は相沢啓介さんと結婚した。娘の香織さんは大学生で、姉のことを最初は「みなさん」と呼び、途中から呼び方を変えた。式はその「みなの台所」でやった。椅子を全部外して、テーブルを寄せて、常連が二十人ほど入った。豆腐屋の松江さんは前の年に足を悪くしたが、その日は杖をついてきた。魚屋の夫婦は、鯛を持ってきた。二年前に冷蔵庫の中で終わってしまった、あの鯛の代わりだそうだ。

俺は姉と腕を組んで、厨房の前から窓際まで、十歩ほどのバージンロードを歩いた。

「今度こそ、本当の花嫁みたいだ」

歩きながら、姉が言った。

「違うよ、姉さん」

「え?」

「姉さんは前から、誰かに選んでもらわなくても、価値のある人だった」

姉が笑って、それから前を向いた。相沢さんはその日、一度だけ姉に向かって、こう言った。

「みなさん、俺はあんたに何かしてやれる男じゃない。でも、あんたが誰かに何かしてやるのを、隣で見ているのは得意だ」

姉が笑って、それから泣いた。それでいいのだと思った。この人に必要だったのは、してくれる人ではない。「していい」と言ってくれる人だ。姉のブーケには、あの髪の花が添えてあった。相沢さんが、取れかけの花びらを直してくれたそうだ。木工用の接着剤で、職人らしく丁寧に。

姉を一人にしたあの家は、金も会社も信用も失った。けれど、俺が本当に取り返したかったのは、奪われた金でも、契約でもない。自分が幸せになってはいけないと思い込んでいた、姉の顔だ。二十歳の姉が「この子は私が育てます」と言った時、この人は自分の人生を後回しにした。それから二十六年、一度も前に出さなかった。あの日のチャペルでさえ、この人は弟に迷惑がかかると思って、黙っていた。その姉が今、自分の店で、自分の名前を呼ばれて笑っている。あの日、ドレス姿で一人泣いていた姉は、もういない。今度こそ、姉は自分のための人生を歩いている。俺はそれを、隣で見ていられればいい。姉のブーケに添えられた、色の抜けた赤い髪の花が、午後の日差しに揺れていた。

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