里帰りから戻り、一ヶ月の娘を抱いて玄関を開けた瞬間、義母の冷たい一言が私を出迎えた。
「あなたの居場所は、蒙古の家にはないのよ。」
私は自分の耳を疑った。ここは、亡き父が私に残してくれた大切なマンション。都内の好立地で、現在の価値は9900万円。名義ももちろん私だ。それなのに、目の前に立つ義母は、まるで自分がこの家の主であるかのように腕を組んで私を見下していた。
リビングの奥からは、聞き慣れないテレビのバラエティ番組の笑い声が響いてくる。あ、小岸さん、お帰りなさい。でも、ちょっとタイミングが悪かったですね。廊下の奥から顔を出したのは、夫の妹であるミカだった。彼女は、私が買った覚えのない派手なスリッパを履いていた。その後ろのリビングでは、ミカの夫が、私が大切に使っていたソファに寝転がりながらスマートフォンをいじっている。
私は腕の中で静かに眠る娘を少しだけ強く抱きしめた。怒鳴ることはしなかった。泣き叫ぶこともしなかった。ただ、マザーズバッグの奥底に入れている一通の名刺の存在を静かに思い浮かべていた。
夫は勝ったつもりでいるのだろう。義母も、これで私を言いなりにできると思っているはずだ。けれど、この時の二人はまだ知らなかった。私がすでに、彼らの嘘を終わらせるための準備を始めていることを。
「どういうことか説明してくれる?」
私が低い声で訪ねると、奥から夫の浩司が面倒くさそうに出てきた。
「お前、なんで連絡もなしにいきなり帰ってくるんだよ」
夫の言葉に、私は静かに息を吐いた。
「里帰りを終えて今日戻ることは、一ヶ月前から何度も伝えていた。昨日もメッセージを送った」
私がそう返すと、夫は不満げに舌打ちをした。
「今はたちが死んでるんだよ。未来、お前の部屋はない」
夫は信じられないことを平然と言ってのけた。
「私の部屋? ここは私の名義のはずだけど」
私が事実を述べると、義母が鼻で笑いながら前に出た。
「由美さん、あなた専業主婦でしょう。浩司の稼ぎで暮らしているんだから。この家も浩司のものと同じよ。ミカたちはアパートの更新で困っていたの。家族で助け合うのは当然でしょう」
家族。その言葉がひどく空しく、そして冷たく響いた。
私は靴を脱がずにリビングの様子を静かに見渡した。私が娘のために一生懸命選んで組み立てたベビーベッドはどこにもない。代わりに見知らぬゲーム機と飲み散らかされた缶ビールがローテーブルを占領していた。私がこだわって選んだカーテンは外され、趣味の悪い車のカーテンに変わっている。
「私の荷物はどうしたの?」
私が尋ねると、ミカが悪びれる様子もなく答えた。
「ああ、奥の部屋に全部押し込んでおいたよ。どうせ由美さんが使わないものばっかりだったし、ベビーベッドは邪魔だったからベランダに出しておいた」
奥の部屋とは、父の遺品を大切に保管していた小さな和室のことだ。私は唇を強く噛みしめた。血の味がするほど強く。胸の奥で激しい怒りが渦巻いていた。父の思い出が詰まった部屋を物置きにされ、娘のためのベッドを雨ざらしのベランダに出されたのだ。
けれど、ここで感情を爆発させてはいけない。腕の中の娘が不穏な空気を察したのか、かすかに身じろぎをした。この小さな命を、こんな汚い争いの場に置くわけにはいかない。
「そういうわけだから、お前はしばらく実家に戻ってろよ。浩司が落ち着いたらまた連絡するからさ」
浩司は勝ち誇ったような顔で私を見下ろしていた。
浩司が落ち着く。その言葉の裏に別の意味が隠されていることに、私はすでに気づいていた。なぜなら、私は実家にいる間、ある小さな違和感を見つけていたからだ。
夫が実家に顔を出した二日前のこと。彼が脱ぎ捨てた上着のポケットから、見知らぬ高級レストランのレシートが落ちた。日付は、私が陣痛で苦しんでいた日の夜だった。さらに、夫の車の助手席の下には、私のものではない派手なイヤリングが落ちていたのだ。
夫は私を実家に追いやり、このマンションを妹夫婦に貸すことで、何か別の目的を果たそうとしている。その輪郭が、私の頭の中で少しずつ形を作り始めていた。
「分かったわ。今日は帰る」
私が静かにそう言うと、義母と夫は顔を見合わせてニヤリと笑った。言い返してこない私を、完全に下に見ている証拠だ。
「そうね。それがいいわ。あなたは昔からそういう物分かりのいいところだけは評価してるのよ」
義母の冷たい言葉を背に受けながら、私はゆっくりと玄関のドアを閉めた。ドアが閉まる直前、リビングからミカの笑い声が聞こえた。
「やった。これで家賃浮いたね」
その言葉が、私の心に冷たい炎を灯した。
マンションを出てタクシーに乗り込むと、私はすぐにスマートフォンを取り出した。発信履歴の一番上にある名前に、迷わず電話をかける。数回のコール音の後、落ち着いた低い声が聞こえた。
「由美ちゃん、どうだった?」
電話の向こうの相手は、父の古くからの友人であり、弁護士の達也先生だった。
「先生、おっしゃっていた通りでした。夫と義母は私のマンションを完全に乗っ取るつもりです。義妹夫婦がすでに住みついていました」
私が淡々と報告すると、達也先生は電話の向こうで静かに息を吐いた。
「そうか。お父さんの心配していた通りになってしまったね。彼らはまだ知らないんだね。あのマンションに隠された、お父さんの本当の仕掛けを」
「はい。誰も気づいていません。あの人たちは、名義人の私が黙っていれば、勝手に住みついても自分のものになると思っています」
私は腕の中で再び眠りに着いた娘のぬくもりを感じながら、冷たい声で答えた。
浩司も義母も義妹夫婦も、まだ何も知らなかった。私が背を向けて実家に帰った理由が、単なる敗北ではないこと。彼らが今くつろいでいるその場所が、彼ら自身の首を絞める罠だということ。
父は、万が一の時に娘を守るため、このマンションに法的なある縛りをかけていた。これは、名義人以外の無断居住が発覚した場合、彼らが想像もできないような代償を支払うことになる仕組みだった。
「証拠は十分に集まりましたか?」
達也先生の問いかけに、私はバッグの中に入れた一枚の書類に触れた。
「ええ、もう十分です。あとは彼らが自らボロを出すのを待つだけです」
「分かった。では、予定通りに進めよう。お父さんのためにも、君と子供のためにもね」
電話を切った後、私は窓の外を流れる景色を静かに見つめた。涙はもう出なかった。ただ、必ず娘を守り抜くという強い決意だけが胸の奥にあった。
そして翌朝、私のスマートフォンに思いもよらない人物から焦りに満ちた一通のメッセージが届くことになる。それは、彼らの嘘が崩れ始める最初の小さな音だった。
翌朝、実家の古い和室で目を覚ましたのは、午前六時を少し過ぎた頃だった。隣の布団では、娘が小さな寝息を立てている。その柔らかな頬にそっと触れると、昨日の冷たい玄関での光景が嘘だったかのように心が落ち着いた。
私は静かに起き上がり、枕元のスマートフォンを手に取った。画面には一通のメッセージが表示されていた。送り主は、マンションの隣の部屋に住む田中さんだった。田中さんは、亡き父と古くから親交がある、上品で優しい老婦人だ。
「由美ちゃん、おはよう。朝早くにごめんなさいね。実は昨日から、あなたの部屋から見知らぬ若い人の大声が聞こえるの。ベランダには綺麗なベビーベッドが放り出されているし、何かトラブルに巻き込まれていないか心配で連絡しました」
その短い文章を読み、私は胸の奥が少しだけ温かくなるのを感じた。私を見下し、追い出した夫や義母たち。誰も私の味方がいないように見えたあのマンションにも、私を気にかけてくれる人がいたのだ。
「田中さん、ご心配をおかけしてすみません。実は今……」
私は現在の状況を短く返信し、最後にこう付け加えた。
「決して直接注意などはせず、安全な場所から見ていてください。近いうちに必ず解決しますから」
義妹夫婦が逆上して田中さんに危害を加えるのを防ぐためだ。田中さんからはすぐに、「分かったわ。何かあったら証言するから、いつでも言ってね」と心強い返事が来た。
スマホを置き、私は部屋を出て仏間へ向かった。静まり返った部屋の奥にある、古く立派な仏壇。そこに飾られた父の遺影が、私を静かに見守ってくれていた。私は線香に火を灯し、静かに手を合わせた。線香の薫りの香りが、張り詰めていた心を少しずつ解きほぐしてくれる。
「お父さん、お父さんの言った通りになったよ」
心の中でそう語りかけると、目を閉じた裏側に三年前の記憶が蘇ってきた。父が病室で息を引き取る数日前のことだ。
「由美、あのマンションは必ずお前個人の名義にしておきなさい。浩司君は外面は良いが、どこか信用しきれないところがある。もしもの時は達也に連絡しなさい」
父はそう言って、痩せ細った手で私の手を強く握った。当時の私は、父の心配を少し大げさに感じていた。結婚したばかりの夫は優しく、私の家族のことも大切にしてくれていると信じていたからだ。
でも、長年会社を経営してきた父には見えていたのだろう。夫の言葉の裏に隠された、自己中心的で傲慢な本性が。
父が亡くなり、私はこの世で一人きりになってしまった。だからこそ、私は夫という新しい家族を必死に守ろうとしたのだ。
夫の態度が変わり始めたのは、結婚して一年が過ぎた頃だった。私の話を上の空で聞くようになり、休日は仕事の付き合いだと言って一人で出かけることが増えた。義母からの電話も増え、「由美さんは専業主婦なんだから、もっと浩司に尽くしなさい」と毎日のように嫌味を言われるようになった。
それでも私は、波風を立てないように黙って耐えていた。やっとできた家族を、私の我慢が足りないせいで壊したくなかったからだ。
決定的な出来事は、私が妊娠六ヶ月の時だった。娘のためのベビー服を一緒に選びに行きたいと頼んだ日のことだ。夫はスマートフォンから目を離さず、面倒臭そうにため息をついた。
「適当に買っておいてよ。どうせすぐ着られなくなるんだろう。俺は付き合いで忙しいんだ。金なら、お前の親の遺産があるだろう」
その冷たい言葉を聞いた時、私の中で何かが静かに崩れ落ちた。自分の子供のことすら、私とお金に丸投げしようとする態度。私は言い返そうとした。しかし、お腹の中で小さな命が動くのを感じ、言葉を飲み込んだ。この子が生まれるまでは、穏やかな環境を守らなければ。
私は一人でベビー用品店に行き、小さな黄色い靴下を握りしめながら、誰にも見られないように涙をこぼした。
仏壇の前で目を開け、私は深く息を吸い込んだ。もう、我慢する理由はない。娘は無事に生まれ、私の腕の中にいる。そして夫は、私の最も大切な場所を奪い、見知らぬ義妹夫婦に明け渡した。これ以上、あの人たちに私の人生を好き勝手にさせるわけにはいかない。
私は和室に戻り、昨日持ち帰ったマザーズバッグを開けた。そこから一冊の古い通帳と、銀行のセキュリティカードを取り出す。それは夫と私の生活費を入れている、夫婦の共通口座の通帳だ。浩司は自分の給料の多くをこの口座に入れていると恩着せがましく言っていた。しかし私は長年、この口座に不自然なお金の動きがあることに気づいていた。
私はスマートフォンの銀行アプリを開き、最新の履歴を確認した。画面をスクロールする指先が、ある一点でピタリと止まる。ここには、私が里帰りをしている間に引き出された三十万円という金額が記されていた。引き出しの項目には、家賃の支払いでも生活費でもない、見知らぬ名前があった。
「水希さやか」
女性の名前だった。履歴を遡ると、毎月のように少しずつ金額を変えながら振り込まれているその名前。私はその画面をスクリーンショットで保存し、静かに息を吐いた。
夫が私を実家に追いやり、マンションを義妹夫婦に貸した本当の理由。それは単なる妹への親切心などではない。義妹夫婦からこっそりと家賃を受け取り、この女性への送金に当てるためだったのだ。義母もきっとそのことを知っているはずだ。全員が結託して、私一人を騙し、利用していた。
その事実が私の心を刃物のように切り裂き、そして同時に、不思議なほどの冷静さを与えてくれた。私は達也先生に短いメッセージを送った。
「先生、夫の口座から特定の女性への継続的な送金記録を見つけました」
送信ボタンを押した瞬間、部屋の空気が少しだけ変わった気がした。私はもう、ただ耐えるだけの妻ではない。
その時だった。再び私のスマートフォンが短い振動を立てた。画面を見ると、今度は義母からのメッセージだった。そこには、彼女の苛立ちがはっきりと現れた、思いがけない一言が書かれていたのだ。
「由美さん、奥の部屋の引き出しにあったはずのマンションの権利書とあなたの実印はどこにあるの? ミカたちが住むための手続きに必要だから、すぐに実家から持ってきなさい」
画面に表示された義母からのメッセージは、私の想像をはるかに超える無遠慮なものだった。私はその短い文章を何度も読み返した。驚きよりも先に、背筋に冷たいものが走った。昨日、私が居場所はないと冷たく追い払われてから、まだ二十四時間も経っていない。それなのに義母たちは、私が大切にしていた父の遺品部屋に勝手に入り込み、引き出しの中を漁っていたのだ。
そして何より不自然なのは、ミカが住むための手続き。ただ親族が仮住まいをするだけで、そんな重要な書類は必要ない。彼らの本当の目的が、ただの家賃浮かしや居座りではないことが、はっきりと形を見せ始めていた。
私は湯飲みを持つ手にふっと力を込めた。熱いお茶の温度がひんやりと手のひらに伝わる。悲しみはなかった。あるのは、彼らの底知れぬ強欲さに対する静かな怒りだけだった。
実は、マンションの権利書と私の実印は、この実家にもあのマンションにもない。父が亡くなった直後、達也先生の強い勧めで、全て銀行の貸金庫に移してあったのだ。マンションの引き出しに残しておいたのは、古い家電の保証書と、私が学生時代に使っていた文房具だけだった。
あの家族には、絶対に大切なものを預けてはいけない。貸金庫の鍵を渡された時の達也先生の真剣な目を思い出す。もし私が何も知らず、言われるがままに実印と権利書を渡していたら、どうなっていただろうか? 彼らは間違いなく、マンションを担保にして多額の借金をするか、勝手に名義を変更して売り飛ばすつもりだったのだろう。
私は義母のメッセージにあえて短く返信した。
「権利書は父の遺品整理の時にどこかにしまったままですぐには見つかりません。探しておきます」
相手を油断させるための小さな嘘だ。既読はすぐについた。数分後、義母からは「本当に気の利かない使えない嫁ね。早く探しなさい」という、怒りに満ちた文字だけが送られてきた。
私はすぐに達也先生に電話をかけた。
「先生、先ほど義母からマンションの権利書と実印を渡せと連絡がありました。義妹たちの居住手続きに必要だと言っています」
私がそう伝えると、電話の向こうで達也先生は低く笑った。
「なるほど。やはりただ住みつくだけでは満足できなかったようだね。予想通り、不動産を担保にして金を引き出すつもりだろう。貸金庫に預けておいて正解だったね、由美ちゃん」
「はい。本当に先生とお父さんのおかげです」
「このまま適当にごまかして、相手の焦りを引き出そう。彼らが無理に動けば動くほど、こちらの法的な武器は増えていくからね」
先生の落ち着いた声に、私は深く頷いた。
それから一時間後、今度は夫の浩司から電話がかかってきた。
「あ、由美。母さんからLINE行っただろう。書類、見つかりそう?」
電話の向こうの夫の声は、妙に明るく、媚びるような響きがあった。いつも私を見下して家事の文句ばかり言っている時の冷たい声とは、まるで違う。
「ええ、でも、どうして権利書が必要なの? 美香さんが住むだけなら、いらないはずだけど」
私が静かに問いかけると、夫は一瞬言葉に詰まった。
「ああ、いや、町内会の手続きとか、火災保険の変更とかでさ。手元にあった方がいいんだよ。お前は専業主婦で世間のことを知らないから、俺が代わりにやってやるって言ってるんだ」
火災保険の変更に、権利書は必要ない。次々と重ねられる稚拙な嘘に、私は呆れを通り越して哀れみすら覚えた。
「そう……でも、本当にどこにしまったか覚えていないの。もしかしたら、間違って捨ててしまったかもしれないし」
私がわざとそう言うと、電話の向こうで夫が舌打ちをする音がはっきりと聞こえた。
「ちっ、お前、肝心な時に本当に使えねえな。あのマンションはお前の親父が残したもんだろうが、適当に管理しやがって。とにかく、明日までに絶対に見つけておけよ。じゃなきゃ、お前との離婚も考えるからな」
夫は一方的にそう言うと、電話を乱暴に切った。ツーという電子音が響くスマートフォンを、私は冷めた目で見つめた。
離婚も考える。以前の私なら、夫に嫌われたくなくて、その言葉を聞いて泣き崩れていたかもしれない。娘から父親を奪ってはいけないと、必死に謝っていたはずだ。けれど、今の私には、その言葉が夫の焦りの裏返しにしか聞こえなかった。
隣の部屋で目を覚ました娘が、小さな声で泣き始めた。私は急いで駆け寄り、娘を抱き上げた。
「ごめんね。お腹空いたね」
ミルクを飲ませながら、私は娘の小さな指をそっと握った。この子は、あんな男を父親だと信じて育っていくところだったのか。もし私が事実を知らずにマンションを奪われていたら、この子を守るためのお金も、住む場所も、全て失っていただろう。そう思うと、悔しさよりも安堵の方が強く湧き上がってきた。
午後になり、実家のインターホンが鳴った。玄関を開けると、郵便配達員の方が立っていた。
「佐藤さん、郵便物の転送手続きをされていましたよね。昨日から今日にかけて、マンションに届いた分をお持ちしました」
私は里帰りをする前、大切な書類を見落とさないよう、念のために自分宛ての郵便物を実家に転送する手続きをしていた。
「ありがとうございます」
受け取った二通の封筒をリビングのテーブルに置き、一枚ずつ確認していく。その中に、私宛てではないものが一通、混ざっていた。転送の機械処理のミスで、夫の郵便物が一緒に送られてきてしまったようだ。
浩司宛てという名前に目をやった私は、そこに書かれている差出人の名前に目を疑った。それは誰もが知る、大手消費者金融の名前だった。しかも封筒には、赤い文字で「重要」「最終通知」と太く印字されている。
私は封筒を持つ手に、じわりと汗が滲むのを感じた。夫が私を家から追い出し、マンションの権利書を欲しがる本当の理由。その答えが、この小さな封筒の中に詰まっている気がした。
その時だ。封筒の隙間から、もう一枚の小さな圧着はがきがこぼれ落ちた。そのはがきは消費者金融からのものではなかった。全く別の、しかし夫の裏の顔をさらに深く暴く決定的な機関からの通知だった。
私はそのはがきを握りしめ、静かに目を閉じた。床に落ちたその圧着はがきには、「家賃保証会社」という文字が記載されていた。私は少しだけためらいましたが、ゆっくりとそのはがきの糊を剥がした。ペリペリという小さな音が、静まり返った和室に響く。
中から現れたのは、決して見過ごすことのできない重大な事実だった。
「各位 保証人 佐藤浩司様へ 契約者 水希さやか様の家賃滞納につきまして」
水希さやか。それは、夫と私の共通口座から毎月不自然なお金が振り込まれていた女性の名前だ。はがきに書かれていた金額は、なんと二ヶ月分で四十万円にもなっていた。つまり、その女性が住んでいる部屋の家賃は、月に二十万円ということだ。
私ははがきを持つ手にぐっと力を込めた。手がかすかに震えたが、それは悲しみから来るものではなかった。あまりにも身勝手な夫の嘘に対する、静かな怒りの震えだった。
テーブルの上には、大手消費者金融からの「最終通知」と書かれた赤い封筒が置かれている。夫が私を家から追い出し、異常なまでに権利書を欲しがる本当の理由。それが、タズルのピースが組み合わさるように、私の中で明確な形になった。
浩司は私に隠れて、多額の借金を重ねていた。さらに、水希さやかという愛人を高級なマンションに住まわせ、その連帯保証人にまでなっていた。しかし借金はついに限界に達し、愛人の家賃すら払えなくなってしまったのだろう。だからこそ、焦って私の実印とマンションの権利書を奪おうとしているのだ。
私を実家に追いやり、義妹夫婦を住ませたのも、ただの親切心ではない。義妹夫婦から家賃名目で現金を受け取り、少しでも借金の返済に当てようとしているのだ。そして最終的には、私のマンションを担保にして、数千万円という融資を引き出すつもりなのでしょう。
私ははがきと封筒をスマートフォンで撮影した。そしてすぐに達也先生に画像を送り、電話をかけた。
「先生、先ほどの画像を見ていただけますか? 夫の郵便物が転送ミスでこちらに届いたのです」
電話の向こうで、達也先生がパソコンを操作する小さな音が聞こえた。
「確認したよ。なるほど。これは決定的な証拠になるね」
達也先生の落ち着いた声に、私は少しだけほっと息を吐いた。
「家賃保証会社からの通知、消費者金融からの最終通知。浩司君は完全に首が回らない状態だ。だから、由美ちゃんのマンションを担保にして一発逆転を狙っているんだろうね」
「このまま泳がせておけば、ボロを出しますか?」
私が尋ねると、達也先生は力強く答えてくれた。
「間違いない。彼は今、ものすごく焦っている。焦った人間は、必ず自分から決定的なミスを犯すものだよ。由美ちゃんは今のまま、何も知らない大人しい妻を演じていればいい」
先生の言葉が、私の心に小さな勇気を与えてくれた。私は一人ではない。父が残してくれた賢明な味方が、しっかりと私を支えてくれているのだ。
電話を切った直後、私のスマートフォンが短い通知音を鳴らした。画面を見ると、夫の浩司からのメッセージだった。
「由美、さっきは怒って悪かった。仕事で疲れてて、つい苛立ってたんだ」
先ほどまでの威圧的な態度はどこへやら、急に優しい夫を演じ始めている。
「明日の昼間、少しだけ会えないか。お前と娘の顔が見たいんだ。美味しいケーキでも買って、実家に行くよ」
私はそのメッセージを見て、冷たい笑みがこぼれるのを抑えられなかった。ケーキを買って娘の顔を見に来る。普段の夫なら、絶対にそんなことは言わない。目的はただ一つ。優しい言葉で私を油断させ、マンションの権利書と実印を探し出させることだ。
「分かったわ。明日の午後なら大丈夫よ」
私はあえて短い返信を送った。既読はすぐにつき、「ありがとう、楽しみにしてるよ」と嬉しそうなスタンプが送られてきた。夫は自分が私を完全にコントロールできていると、信じて疑っていない。
夫とのやり取りを終え、私はふと時計を見上げた。午後三時を回ったところだった。その時だ。今度は、マンションの隣に住む田中さんから、焦ったようなメッセージが届いた。
「由美ちゃん、大変よ。今、あなたの部屋の前に若い女の人が来ているの。その人がドアを激しく叩いて、中から出てきた妹さんと大声で言い争いをしているわ。どうやら、お金のことでもめているみたいなんだけど」
田中さんからのメッセージを読み、私の心臓は大きく打った。若い女、お金の揉め事。その正体に、私はすぐに思い当たった。夫が隠していた嘘が、ついに彼ら自身の手によって崩れ始める音が聞こえた気がした。
私は息を飲み、田中さんに返信した。
「田中さん、危険ですから絶対にドアは開けず、鍵をかけておいてください。もし可能なら、何を話しているか少しだけ教えてもらえませんか?」
数分後、田中さんから三十秒ほどの短い音声データが送られてきた。
「ドアの覗き穴からこっそり録音してみたの。二人の声が大きすぎて、廊下中に響き渡っているわよ」
私は和室の隅に移動し、娘が起きないようにスマートフォンの音量を最小まで下げた。そして震える指で再生ボタンを押した。
スピーカーからかすかに聞こえてきたのは、ヒステリックな若い女の高い声だった。
「浩司を出してよ! 電話にも出ないし、どういうこと!? 自分のマンションを売ってでも、私にまとまったお金を払うって約束したでしょ!」
それは間違いなく、通帳の振り込み履歴にあった水希さやかの声だった。
続いて、義妹であるミカの苛立った声が響く。
「はあ? あんた誰よ? お兄ちゃんは今いないわよ。大体、このマンションはお兄ちゃんがあのバカな嫁から取り上げる予定の家なんだからね。あんたなんかに渡すお金なんて、一円もないわよ」
「バカな嫁って何よ!? 浩司はもうすぐ離婚して、そのお金で私とやり直すって言ってたわよ!」
「ちょっと、近所迷惑でしょう! 帰らないなら、警察呼ぶわよ!」
二人のみっともない言い争いは、ドアが乱暴に閉められる音と共に途切れていた。
私はスマートフォンを持ったまま、冷たい畳の上に座り込んだ。あのバカな嫁から取り上げる。そのミカの一言が、鋭い氷の刃のように、私の胸の奥に深く突き刺さった。
私は決して声を上げて泣き叫んだりはしなかった。ただ、膝の上に置いた手が、血の気が引くほど白く、小刻みに震えていた。
夫は私を騙し、裏切り、そして私の背後で、愛人や家族と一緒に私を嘲っていたのだ。あのマンションの奥には、父との思い出が詰まった和室があった。父が遊びに来た時にくつろげるようにと、私が丁寧に畳を拭き、大切に手入れをしていた部屋だ。一緒に温かいお茶を飲みながら、これからの新しい家族の話をした、私にとって何よりも掛けがえのない空間だった。
その追いやられた部屋は、今や義妹たちの荷物やゴミが無造作に押し込まれた物置きにされている。父が私の未来を守るために残してくれた大切な場所が、夫の借金と愛人のための道具として扱われている。その事実が、私の心をひどく冷たく、そしてどこまでも重くした。
夫への愛情や未練は、もう一ミリも残っていなかった。ただ、私と父の思い出を踏みにじられたことだけが、どうしても許せなかった。
私は深く深呼吸をして、震える両手を強く握りしめた。そして、田中さんに感謝のメッセージを送った。
「田中さん、本当にありがとうございます。怖い思いをさせてしまってごめんなさい。この音声は、私の身を守る大切な証拠になります」
私はすぐに、その音声データを達也先生に転送した。数分後、達也先生から短い電話がかかってきた。
「由美ちゃん、音声を聞いたよ。彼らは完全に自滅の道を歩み始めているね」
達也先生の声はいつも通り冷静で、私の心を落ち着かせてくれた。
「はい。夫は愛人に、マンションを売ってお金を渡すと約束していたようです。美香さんも、私からマンションを取り上げると言っていました」
「これで、浩司君が君の財産を不当に処分しようとしている決定的な証拠になった。さらに、義妹もその計画を認識していることがはっきりと分かる。愛人と二人の証言が、彼ら自身の首を絞めることになるよ」
その言葉を聞いて、私の中で小さな決意が固いものに変わった。もう、ただ耐えてやり過ごすだけの妻は終わりにしよう。彼らが勝手に嘘を重ねて崩れていくのを、私は冷静に見届けることにしたのだ。
そして翌日の午後、実家のチャイムが鳴り、予定通り夫の浩司がやってきた。
「由美、元気だったか? ほら、駅前で有名なケーキ買ってきたぞ」
玄関を開けると、夫は少しも悪びれる様子もなく、気持ち悪いほどの笑顔で立っていた。彼の手には、私が昔好きだと言ったことのある洋菓子店の紙袋が握られている。リビングに通すと、夫はベビーベッドで眠る娘を覗き込んだ。
「お、少し見ない間に大きくなったな。本当に可愛いやつだ」
言葉ではそう言っているが、夫の視線はすぐに娘から外れた。彼の目は、部屋の隅にある仏壇の引き出しや押入れの方向を、チラチラと探るように動いていた。マンションの権利書と私の実印がどこにあるのか、気になって仕方がないのだろう。
私は温かい紅茶を入れ、夫の前に静かに置いた。
「ありがとう。仕事、忙しいのにわざわざ来てくれて」
私がわざとらしく感謝の言葉を口にすると、夫は得意げに胸を張った。
「まあな、俺はお前たち家族のために毎日必死で働いてるんだからさ。お前ももう少し、俺に感謝してくれよ」
隣の部屋には、昨日届いたばかりの消費者金融からの真っ赤な最終通知書が隠してある。それを知らずに「家族のために働いている」と大法螺を吹く夫の姿は、滑稽を通り越して哀れでさえあった。私は湯飲みを持ち上げ、その熱さを指先に感じながら、静かに一口飲んだ。
「そうね。あなたの本当の姿には、感謝しているわ」
私の言葉の裏にある意味に気づくこともなく、夫は本題を切り出してきた。
「ところでさ、昨日言ってた権利書と実印なんだけど、見つかったか?」
夫はケーキに手をつけることもなく、身を乗り出してきた。その顔には、隠しきれない焦りが溢れている。
「ああ、あれね。実は、昨日思い出したの」
私がそう言うと、夫の目がパッと輝き、さらに身を乗り出してきた。
「本当か!? どこにあったんだ? 実家のどこか?」
「ううん、違うの。あのマンションの奥の和室の引き出し。そこの一番奥に、古いファイルに挟んで大切にしまっておいたの」
私は夫の目を見つめながら、平然と嘘をついた。本当は、達也先生の指示で銀行の貸金庫にあるのに。わざと、あの追いやられた部屋にあると伝えたのだ。
その言葉を聞いた瞬間、夫の顔色が変わった。
「な、和室の引き出し……」
夫は引きつった笑いを浮かべながら、スマートフォンをポケットから取り出した。義妹たちが私の大切な和室を物置きにし、荷物を天井まで押し込んでいること。夫も知っているはずだ。そこから小さなファイルを探し出すとなれば、義妹夫婦と大掛かりな片付けをしなければならず、トラブルになるのは目に見えている。
「そうよ。美香さんたちに探してもらったらどうかしら。家族で助け合ってるんでしょう?」
私が微笑みながら提案すると、夫は額に冷たい汗を浮かべた。
「ああ、そうだな。俺から美香に言っておくよ」
夫はハンカチを取り出し、首筋の汗を拭った。その時だ。テーブルの上に置かれた夫のスマートフォンが、突然ブルブルと震え出した。画面が明るくなり、そこに表示されたポップアップ通知。それを横目で見た瞬間、夫の手から持っていたフォークがカチャリと音を立てて落ちた。
通知の送り主は「水希さやか」。そして、最初の数文字だけが表示されたメッセージには、こう書かれていた。
「昨日マンションに行ったわよ。あなたの妹に……」
夫の顔から完全に血の気が引いた。私はその光景を、静かに見つめていた。
カチャリと落ちたフォークの音が、静かな和室に異様に大きく響いた。
「どうしたの? 大事な仕事の連絡?」
私がわざと心配そうな声を作って尋ねると、夫はビクッと肩を震わせた。
「あ、いや、大したことじゃない。ちょっと、部下がミスをしたみたいで……」
夫は引きつった笑顔のまま、震える手でスマートフォンをポケットに押し込んだ。さっきまでの、私を見下して偉そうに振る舞っていた態度は、完全に消え去っている。額には脂汗が滲み、目は泳いでいた。愛人がマンションに乗り込み、義妹と揉め合った。その事実が、夫の頭の中で最悪のシナリオを描き出しているのだろう。
「す、すまん、由美。急に会社に戻らないといけなくなった。ケーキ、後で食べてくれ」
夫は逃げるように立ち上がり、私の返事も待たずに玄関へと向かった。
「和室の引き出し、美香さんによろしく言っておいてね」
私が背中に向けてそう声をかけると、夫は無言のまま、慌ててドアを閉めて出て行った。残されたのは、手つかずの高級ケーキと、冷めかけた紅茶だけだ。
私は窓から、足早に去っていく夫の背中を見下ろした。かつては、この背中を頼もしく思った時期もあった。でも今は、自らの嘘に追われる、滑稽なピエロにしか見えなかった。
夫が去ってから十分後、私はスマートフォンを手に取り、達也先生の番号をタップした。数回のコールの後、落ち着いた声が帰ってきた。
「由美ちゃん、浩司君の様子はどうだった?」
「先生の予想通りでした。愛人からのメッセージを見た途端、顔色が真っ青になって逃げ帰りましたよ」
私は、夫に権利書と実印はマンションの和室にあると嘘の隠し場所を教えたことを報告した。電話の向こうで、達也先生が「ふふふ」と低く笑う声が聞こえた。
「それは見事だね。あのマンションでは、大変なことになっているはずだよ。和室は散らかし放題なんだろう? そこから小さなファイルを探し出して、必ず姪っ子が何かしら騒ぐ。ええと、義妹の天才と愛人の追求で、夫婦はパニックになっている。結果、部屋をひっくり返して探すはずだ。彼らが荒らしてくれれば、お父さんが仕掛けた契約の現状回復の違反という項目に、さらに重いペナルティが加算される。彼らは自分たちの手で、自分たちの首を絞めることになるんだ」
父が私を守るために結んでくれた特別な信託契約。ただのマンション名義ではなく、管理と処分に厳しい制限がかけられている、特殊な法的な枠組みだ。無断居住者に対する即時退去と多額の違約金だけでなく、部屋を不当に改造したり荒らしたりした場合の損害賠償も、明確に定められていた。
「私たちは、ただ待っていればいい。彼らが焦って、最後の一線を超えるのをね」
達也先生との電話を終えた私の心は、驚くほど澄み切っていた。悲しみも悔しさも通り越した先にあったのは、娘と自分の人生を必ず取り戻すという、静かな覚悟だった。
その夜のことだ。再び、隣の部屋の田中さんからメッセージが届いた。
「由美ちゃん、今夜もごめんなさいね。今、あなたの部屋からすごい音がしているの。物を投げつけるような音と、浩司君と美香さんの怒鳴り声が聞こえるわ」
私はその文章を見て、冷たく微笑んだ。達也先生の言った通りになった。嘘の隠し場所を教えられた夫は、急いでマンションに戻り、和室の荷物をひっくり返しているのだろう。それを止めようとする義妹夫婦と、壮絶な言い争いになっているに違いない。愛人が乗り込んできた件で美香はすでに怒っており、そこに夫が強引に和室を荒らし始めたのだから、修羅場になるのは当然だ。
「田中さん、何度もすみません。うるさくて、お休みになれませんよね。警察に通報しても構いませんよ」
私がそう返信すると、田中さんからは「大丈夫よ。お父さんのためにも、しっかり見届けさせてもらうから」という、温かい言葉が帰ってきた。私を見下していた夫と義妹たちが、今頃ゴミの山の中でみっともなく争い合っている。その光景を想像するだけで、長年の我慢が少しだけ報われたような気がした。
翌朝、私は朝食の片付けを終え、縁側で娘をあやしていた。ポカポカとした太陽の光が、娘の柔らかな頬を照らしている。この穏やかな時間を、誰にも壊させはしない。そう強く思った時、スマートフォンがけたたましく鳴り響いた。画面には「義母」の文字が表示されている。
私は深呼吸をして、通話ボタンを押した。
「由美さん、あなた一体どういうつもりなの!?」
電話に出るなり、義母の金切り声が鼓膜を突き刺した。
「どういうつもりとは、何のことでしょうか?」
私が淡々と返すと、義母は電話の向こうで息を荒くしていた。
「とぼけないでちょうだい! 浩司が昨日から、ミカの荷物を全部ベランダに放り出して、和室をめちゃくちゃにしているのよ! ミカは泣いて怒るし、近所からは苦情が来るし、どうしてくれるの!?」
やはり、夫は完全に理性を失っていたようだ。権利書を見つけなければ、自分の借金がバレて人生が破滅する。その焦りが、実の妹の荷物すら容赦なく外へ投げ捨てる暴挙に出させたのだろう。
「それは大変ですね。でも、私は和室の引き出しにしまったかもしれないと言っただけです。散らかしたのは、浩司さんですよね?」
私が冷静に事実を指摘すると、義母は言葉に詰まった。しかし、すぐにまた怒鳴り始める。
「へりくつ言わないで! 大体、あなたがさっさと権利書を出さないから、こんなことになるのよ! 嫁の分際で偉そうに! 実家に引きこもってないで、今すぐマンションに来て、浩司と一緒に探しなさい!」
義母の言葉には、私への思いやりも、事の異常さを疑う冷静さもなかった。あるのは、自分の息子が思い通りにならないことへの苛立ちだけ。
「申し訳ありませんが、娘から目を離せないので、行けません。それに、探しても見つからないと思いますよ」
「はあ? どういうことよ!」
私は意図的に、声を少し低くした。
「浩司さんが何か大変な隠し事をしていて、焦って探しているように見えませんか? お義母さんは、浩司さんが何のためにそこまでして権利書を欲しがっているか、本当に知っているんですか?」
私の問いかけに、義母は一瞬、沈黙した。
「な、何を言ってるのよ。ミカたちが住む手続きのため……」
「ただの手続きのために、妹の荷物をベランダに投げ捨ててまで、部屋を荒らしますか?」
私が静かにそう言い放つと、電話の向こうから、義母の浅い呼吸音だけが聞こえてきた。義母は薄々気づき始めているはずだ。自分の息子が、何かとんでもないトラブルに巻き込まれていることに。しかし、彼女はそれを受け入れたくなくて、必死に私に責任を押し付けようとしているのだ。
「いいから、今すぐ来なさい! 来ないなら、浩司と本当に離婚させるわよ!」
義母は最後にそう叫んで、一方的に電話を切った。私はスマートフォンをテーブルに置き、小さく息を吐いた。離婚させる。かつては私を縛りつけていたその言葉も、今となっては滑稽な負け惜しみにしか聞こえない。むしろ、私の方から離婚届を突きつける日が、もうすぐそこまで来ているのだから。
午後になり、私は再び銀行のアプリを開いた。夫との共通口座を確認し、私は息を飲んだ。そこには、娘の将来のためにと少しずつ貯めていた貯金の残高が、たった一日でほぼゼロになっていたのだ。夫が最後にすがった、最も愚かな手段。その引き出し先の記録を見て、私は静かに目を閉じた。
画面に表示された残高は、「0円」。それは、娘が将来困らないようにと、私が少しずつ切り詰めて貯めてきた二百万円だった。引き出しの履歴には、再びあの名前があった。水希さやか。
夫は、和室をめちゃくちゃに探してもマンションの権利書が見つからず、パニックになったのだろう。昨日マンションに乗り込んできた愛人の怒りを沈めるため、娘のための貯金にまで手をつけたのだ。
これが、長年連れ添った夫の正体だった。家族のためと言いながら、自分の身と欲望のために妻の居場所を奪い、娘の未来すら平気で食い潰す男。私の胸の中にあった未練や情けは、この残高の画面を見た瞬間に完全に消え去った。
私はすぐに達也先生に連絡し、口座の履歴のスクリーンショットを送った。
「先生、夫が娘のための貯金を引き出しました。全額、愛人の口座に振り込まれています」
電話の向こうの達也先生は、静かな、しかし確かな怒りを込めた声で答えた。
「確認したよ。これで、浩司君は完全に一線を越えたね。夫婦の共有財産であっても、愛人への贈与や生活費の流用は、悪意の遺棄や不法行為に問える。裁判になった時、彼には言い逃れのできない強力な証拠になる」
「このお金は、娘のためのものでした。絶対に許しません」
私の声は、自分でも驚くほど冷たく、静かだった。
「由美ちゃん、お父さんが残した契約の効力を発動するまでもう少しの辛抱だ。彼らは今、泥の中で自分たちから穴を開けている状態だよ」
達也先生の励ましに、私は深く頷いた。
電話を切った直後、今度は見知らぬ番号から着信があった。不審に思いながらも電話に出ると、聞こえてきたのはひどく苛立った女性の声だった。
「もしもし、由美さん? 私、美香だけど」
義妹のミカだった。いつも私を使えない嫁と見下し、マンションから追い出した時には勝ち誇って笑っていた彼女の声が、今は焦りと怒りで震えている。
「美香さん、どうしたの? そんなに慌てて」
私がわざと落ち着いた声で訪ねると、ミカは堰を切ったようにまくし立てた。
「どうしたの、も何もないわよ! お兄ちゃん、一体どうなってるの!? 昨日から目つきがおかしいし、和室の荷物を全部ベランダに投げ捨てて、壁紙まで破いて探し物をしてるのよ! 権利書を探しているんでしょう!? 見つからないみたいね。そんな書類一枚のために、どうしてこんなに狂ったみたいになるのよ!? それに昨日、変な若い女がマンションに来て、ドアをガンガン叩くし! お兄ちゃん、あの女に借金でもしてるの!?」
ミカは自分の都合の悪いことは棚に上げ、全ての責任を夫に押し付けようとしていた。私はスマートフォンの録音ボタンを、静かに押した。
「美香さんは、浩司さんが何に焦っているのか、何も知らないの?」
私が探りを入れると、ミカは鼻で笑うように答えた。
「知るわけないでしょう! お兄ちゃんがあのマンションは俺のものだから、家賃半分で住まわせてやるって言うから、住んでるだけよ! 私たちだって、アパートの更新料が払えなくて困ってたんだから。親族なら助けるのが当然でしょう!」
親族なら助けるのが当然。その言葉の裏にある、果てしない甘えと強欲さ。彼女たちは、他人の財産を奪うことに、何の罪悪感も抱いていないのだ。
「でも、あのマンションは私の名義よ。あなたたちが勝手に住みついていることは、犯罪になるかもしれないわよ」
私がわざと冷たく言うと、ミカは一瞬言葉に詰まり、すぐに声を荒げた。
「はあ!? 何言ってんのよ! お義母さんも、由美は専業主婦なんだから、実質浩司のものだって言ってたわよ! あなたがいちいち権利書なんて隠すから、お兄ちゃんがおかしくなったんじゃない!」
見事なまでの責任転嫁だった。
「お義母さんも、浩司さんが愛人に貢いで借金を作っていることを知っているの?」
私が確信をつく質問を投げかけると、電話の向こうでミカが息を飲む音が聞こえた。
「わ、愛人? 借金? 何のことよ、知らないわよ!」
「浩司さん、水希さやかという女性の高級マンションの家賃を払えなくて、保証人として通知が来ているのよ。さらに、消費者金融からも最終通知が来ているわ」
私が事実を淡々と告げると、ミカは完全に言葉を失った。数秒の沈黙の後、震える声が返ってきた。
「う、嘘でしょう? お兄ちゃん、一部上場の企業で稼いでるはずじゃない」
「だから、私のマンションの権利書を探しているのよ。マンションを担保にして借金を返すためにね。和室を荒らしているのも、そのためでしょう」
「そんな……それじゃ、このマンションはどうなるのよ!? 私たち、アパートを引き払っちゃったのに!」
ミカの頭にあるのは、夫の心配でも私の心配でもなく、ただ自分がただ同然で住める家がなくなるという恐怖だけだった。
「それは、浩司さんに聞いてみればいいわ。でも、これだけは言っておくわね」
私は録音されていることを意識しながら、ゆっくりとはっきりと告げた。
「あのマンションに、私以外の人間が無断で居住した場合、法的な措置を取ることになります。壁紙を破いたなら、その修理費用も全て請求しますよ」
「ちょっと待ってよ! 私はお兄ちゃんに言われただけで……」
「ごめんなさい、娘が泣いているから、切るわね」
私はミカの叫びを遮り、冷たく電話を切った。この通話録音は、ミカが兄に言われて無断で居住していると自白した証拠になる。彼らは今、マンションの権利書を探すために部屋を破壊し、そしてお互いの責任をなすり付け合って、内輪揉めを始めている。父がマンションに仕掛けた罠が、彼らの首を少しずつ、確実に締め上げていた。
その日の夕方、実家の固定電話が鳴った。ナンバーディスプレイに表示されたのは、義母の家の番号だった。私は深呼吸をして、受話器を取った。
「はい、佐藤です」
「由美、あんた、ミカに何を吹き込んだの!?」
電話に出るなり、義母のヒステリックな声が響き渡った。ミカが義母に泣きつき、私が言った借金や愛人の話を伝えたのだろう。
「何とは、事実を伝えたまでですが」
私が冷静に答えると、義母は怒りで声を震わせた。
「出たらめを言うんじゃないわよ! 浩司が借金なんてするはずないでしょう! あの子は真面目で、あなたみたいな役に立たない嫁を養うために、身を削って働いているのよ!」
義母は、息子を盲信していた。いや、本当は薄々気づいているのかもしれない。それでも、自分の育てた完璧な息子が借金まみれで不倫をしているという事実を、認めたくないのだ。
「消費者金融からの通知も、振り込みの履歴も、全て証拠として残っていますよ。浩司さんは、娘のための貯金まで全額引き出して、その愛人に振り込みました」
「嘘よ! あなたが浩司を落とし入れようとして、偽物の書類を作ったんでしょう! この恩知らずが!」
義母の罵倒は、もはや論理破綻を起こしていた。
「明日、浩司と一緒にそっちに行くわ! あなたが隠している権利書と実印、私が直接探し出してやるから、覚悟しなさい!」
義母はそう言い捨てて、ガチャンと受話器を叩きつけた。私は静かに受話器を置き、長く息を吐いた。怒りよりも、呆れと虚しさが胸に広がった。あれほど私のことを見下し、実家に追いやって勝ち誇っていた人たちが、たった数日でここまでみっともなく取り乱すとは。
明日、彼らが実家に乗り込んでくる。それは、私にとって最後の試練になるはずだ。夫はついに本性を現し、力づくで全てを奪おうとするだろう。しかし、彼らはまだ気づいていない。彼らが私を追い詰めたつもりでいるその行動全てが、達也先生の緻密な計算の上で、踊らされているだけだということに。
そしてその夜、私のスマートフォンに、夫から一通の恐ろしいメッセージが届いた。その内容は、私が想像していたよりもはるかに狂気に満ちた、悪魔のような提案だった。
夜の十一時を回った頃、スマートフォンが短く振動し、画面に夫からのメッセージが表示された。私は暗い和室の中で、その画面をじっと見つめた。
「由美、明日の朝十時に、母さんとそっちに行く。もし権利書と実印を出さないなら、離婚だ。それだけじゃない。お前には、専業主婦として家庭を顧みなかった責任がある。娘の親権は俺がもらうし、あのマンションも慰謝料代わりに名義を変更してもらうからな。それが嫌なら、大人しく俺の言う通りにしろ」
その身勝手極まりない文章を読み、私は思わず冷たい笑いを漏らしてしまった。家庭を顧みなかった? 愛人に貢ぎ、借金を重ね、娘の貯金まで引き出した男が、どの口でそんなことを言えるのだろうか? 慰謝料代わりにマンションを寄越せという要求も、法的に何の根拠もない。自分の罪を全て私に押し付け、力づくで財産を奪おうとする。それが、窮地に追い込まれた浩司の出した答えだった。
私はこのメッセージをスクリーンショットで保存し、すぐに達也先生のメールアドレスへ転送した。
「先生、夫から脅迫とも取れるメッセージが来ました。明日、義母と共にこちらへ乗り込んでくるそうです」
深夜にも関わらず、達也先生からはすぐに返信があった。
「確認した。これで、浩司君の不法な財産奪取の意図が明確になった。明日は予定通り、私とお父さんの友人を二人連れて、実家へ向かう。君は決して一人で対応せず、彼らが来たら、私たちを家の中に通しなさい」
先生の力強い言葉に、私の心はすっと落ち着きを取り戻した。明日の朝、彼らは思い知ることになるのだ。自分たちが手を出そうとしている相手が、決して無力で孤独な女ではないということを。
翌朝、私は実家のリビングを片付け、来客の準備を整えた。娘は、母が二階の部屋で面倒を見てくれている。午前九時四十五分、予定よりも少し早く、外に一台の車が止まる音がした。窓から覗くと、浩司の車ではなく、義母の車だった。車から降りてきたのは、義母、浩司。そして、なぜか二人のミカとその夫。四人だった。
彼らは皆、強張った顔をして、私の実家の門をくぐってきた。インターホンが乱暴に鳴らされる。私は深呼吸を一つして、玄関のドアを開けた。
「おはようございます」
私が静かに挨拶をすると、義母がズカズカと上がり込んできた。
「挨拶なんかどうでもいいわ! さっさと権利書と実印を出しなさい!」
浩司も義母の後ろから、威圧的に私を睨みつけた。
「昨日のLINE、見たよな。出さないなら、親権もマンションも俺がもらう。お前は、裸で追い出されるんだぞ」
「ちょっと待ってよ!」
その後ろから、ミカが甲高い声で割って入った。
「お兄ちゃん、私の話が先でしょう!? 昨日、あの女がまたマンションに来て大騒ぎしたのよ! アパートの更新料、どうしてくれるの!? このマンション、本当に私たちにくれるんでしょうね!」
ミカの夫も、「そうですよ、義兄さん。約束が違うじゃないですか」と不満げに浩司に詰め寄る。私の実家の玄関先で、彼らはみっともない言い争いを始めた。
「うるさいな! 今、それを解決しに来たんだろうが!」
浩司がミカに怒鳴りつける。
「とにかく、お前らも由美の部屋を探せ! 権利書さえ見つかれば、金はどうにでもなるんだ!」
夫は私を無視して、実家のリビングへと靴を脱ごうとした。その身勝手な振る舞に、私の堪忍袋の緒が切れかけた。その時だ。
「そこまでになさい」
玄関の外から、低く、しかしよく通る声が響いた。驚いた四人が振り返ると、そこには黒いスーツを着た達也先生が立っていた。そして、先生の後ろには、見覚えのある男性が二人、控えている。父の生前、会社の役員を務めていた佐藤さんと林さんだった。彼らは皆、厳しい顔つきで、浩司たちを睨みつけていた。
「な、何だ、あんたたちは!」
浩司が後ずさりしながら叫ぶ。達也先生は静かに靴を脱ぎ、私に向かって軽く頷いてから、浩司たちに向き直った。
「私は弁護士の達也と申します。由美さんの代理人であり、亡きお父様の遺言執行人でもあります」
弁護士。その言葉を聞いた瞬間、浩司と義母の顔から、さっと血の気が引いた。
「で、弁護士。何の用だ? これは夫婦の問題だぞ」
浩司が虚勢を張って怒鳴るが、その声はかすかに震えていた。達也先生は、手にした鞄から一束の書類を取り出した。
「夫婦の問題? いいえ、これはすでに立派な法的な事件です。浩司さん、あなたは由美さんのマンションを無断で占拠し、義妹夫婦を住ませ、さらには権利書を不当に奪おうとしている。これは、犯罪に該当する可能性があります」
「犯罪!?」
義母が後ずさりし、ミカは夫の背中に隠れるように縮こまった。
「そして、その後ろにいらっしゃるミカさん夫婦」
達也先生の鋭い視線が、義妹夫婦を捉えた。
「あなたたちは、名義人である由美さんの許可なく、マンションに不法に居住しています。お父様が結んだ信託契約に基づき、無断居住者には即時退去と、一日につき十万円の違約金が発生することになっています」
「十万!?」
ミカが悲鳴のような声をあげた。
「一週間住んでいるとすれば、すでに七十万円。さらに、和室の壁紙を破き、荷物をベランダに放置して破損させた損害賠償も、別途請求します。ざっと見積もって、あなたたち夫婦には、二百万円ほどの請求がいくことになりますね」
「嘘よ! そんなの聞いてない! お兄ちゃんが住んでいいって言ったのよ!」
ミカはパニックになり、浩司の腕を掴んで揺さぶった。
「お兄ちゃん、どういうことよ!? 私たち、アパートの更新料も払えないのに、二百万なんて払えるわけないじゃない!」
「うるさい! 黙れ!」
浩司はミカを振り払い、達也先生に向かって吼えた。
「そんな契約、無効だ! あのマンションは、由美の親父が残したもので、由美は俺の妻だ。つまり、俺の財産でもあるんだよ!」
その見苦しい言い訳に、達也先生は冷たく嗤った。
「浩司さん、あなたは本当に何も分かっていないようですね。あのマンションは、お父様が由美さん個人の特有財産として残したものです。あなたには、一円の権利もありません」
先生は書類の一枚を、浩司の目の前に突きつけた。
「それどころか、あなたは由美さんの娘のための貯金二百万円を無断で引き出し、愛人である水希さやかさんの口座に送金していますね。さらに、消費者金融から多額の借金をし、マンションの権利書を担保にしようと画策している。これらは、全て証拠として残っています」
借金、愛人、娘の貯金の横領。それらの事実が冷たい声で読み上げられる度に、浩司の顔は青ざめ、やがて土色に変わっていった。
「ち、違う、それは……」
浩司は何か言い訳をしようと口をパクパクさせるが、言葉にならない。義母は「愛人? 借金?」とつぶやきながら、信じられないものを見るような目で、自分の息子を見つめていた。
「浩司、あんた、まさか、本当に……」
義母の声は震え、その目には絶望の色が浮かんでいた。自分が完璧だと信じていた息子が、実は見栄っ張りで愚かな嘘つきだったという事実を、ついに突きつけられたのだ。
「由美さんからは、すでに離婚の申し立てと、慰謝料の請求を依頼されています」
達也先生の言葉が、彼らに最後の一撃を与えた。
「浩司さんには、愛人との不貞行為と悪意の遺棄による慰謝料、そして横領した貯金の全額返還を求めます。もちろん、親権は由美さんが持ちます。あなたは、文字通り全てを失うことになるのですよ」
玄関は、深い沈黙に包まれた。つい先ほどまでは我が物顔に振る舞い、私を罵倒していた四人は、今はまるで死刑宣告を受けた罪人のように、俯いている。
私は一歩前に出て、震える夫の顔をまっすぐに見つめた。
「浩司さん、あなたの居場所は、もう私の人生にはないのよ」
それは、数日前にあのマンションで、彼が私に放った言葉だった。その言葉をそっくりそのまま返すことで、私は彼との関係を永遠に断ち切ったのだ。
私の静かな一言が、玄関の空気を完全に凍らせた。ほんの数日前、私をマンションから追い出す時に、彼自身が勝ち誇って放った言葉。それが今、最大の仕返しとして、彼の胸に突き刺さっていた。
数秒の沈黙の後、浩司は顔を真っ赤にして喚き散らした。
「ふざけるな! 誰が、こんな出たらめを信じるか!」
浩司は達也先生が差し出した書類を、乱暴に手で払いのけた。
「弁護士だかなんだか知らないが、こんなのは無効だ! 夫婦の財産は半分ずつ分けるのが法律だろうが! 俺は、絶対に認めないからな!」
彼は完全にパニックに陥り、自分の都合の良い法律論をまき散らしている。義母も、震える手で浩司の腕にしがみついた。
「そう、そうよ! 浩司は悪くないわ! きっと、この弁護士が由美と結託して、浩司を騙そうとしているのよ! 帰りましょう、浩司! 私たちも、ちゃんとした弁護士を雇って、こんな女たち、逆に訴えてやるわ!」
苦しい負け惜しみを叫びながら、義母と浩司は逃げるように玄関を飛び出していった。
「あ、ちょっと、お兄ちゃん! 私たちはどうなるのよ!」
取り残されたミカ夫婦も、達也先生の冷たい視線に耐えきれず、慌てて二人の後を追って車に乗り込んだ。急発進する車のタイヤの音が、静かな住宅街に響き渡り、やがて遠ざかっていった。
嵐が去った後の玄関には、静寂だけが残された。
「由美ちゃん、怖かっただろう。よく頑張ったね」
達也先生が、優しく声をかけてくれた。
「いいえ。先生や、佐藤さんたちのおかげです。本当に、ありがとうございました」
私は深く頭を下げ、先生たちをリビングへと案内した。温かいお茶を出しながら、私はようやく少しだけ肩の力を抜くことができた。しかし、戦いはまだ完全に終わったわけではない。彼らが「別の弁護士を雇う」と言い放っていた以上、次なる一手を打ってくる可能性が高いからだ。
その夜、娘が眠りに着いた後、私は達也先生が置いて行った調査報告書を、一人で読み返していた。リビングのオレンジ色の照明の下で、これまでの違和感が、タズルのピースのように一つ一つ繋がっていくのを感じた。
報告書には、浩司の借金の全貌が記されていた。彼が水希さやかという女性と出会ったのは、今から約二年前のこと。私たちが結婚して、ちょうど一年が過ぎた頃だった。彼女は、浩司が仕事の付き合いでよく使っていた高級クラブのホステスだった。浩司は彼女の前で、若くして成功した経営者を気取っていたようだ。高級レストランでの食事、ブランド品のプレゼント。そして最終的には、彼女のために家賃二十万円の高級マンションを契約した。
もちろん、一般的な会社員である浩司の給料で、そんな生活が維持できるはずがない。彼は消費者金融を何社も回り、限度額まで借金を重ねていった。私が「仕事の付き合いが忙しい」という彼の言葉を信じて、一人で夕食を食べていた夜、彼はずっとその女性と会っていたのだ。
点と点が、明確な線になって結ばれていく。思い返せば、小さな違和感はいくつもあった。毎月決まった時期になると、浩司は決まって泊まりの出張を入れていた。それは、水希さやかのマンションの家賃の支払い日と、見事に重なっている。彼が時折、私にケーキや花を買ってきて機嫌を取ろうとしていた日、それは彼が私の目を盗んで夫婦の共通口座からお金を引き出した直後だった。
さらに、私が里帰り出産をする時期についても、彼は予定より早く実家に帰るように強く進めてきた。私がいない間に、借金の督促状を隠し、マンションを自由に使うための準備をしたかったのだろう。全ては、彼の身と嘘を守るための行動だった。私のことなど、最初からどうでもよかったのだ。
私は報告書を持つ手に、少しだけ力を込めた。怒りというよりも、そんな男を信じていた過去の自分に対する、深い虚しさが込み上げそうになった。けれど、その虚しさを埋めてくれたのは、やはり亡き父の存在だった。
達也先生は、今日の帰り際、私に一つの真実を教えてくれた。
「お父さんはね、浩司君が結婚の挨拶に来た時から、彼の本質を見抜いていたんだよ」
先生の言葉に、私は驚いて顔をあげた。
「君には言わなかったが、お父さんは浩司君のことを、『言葉は丁寧だが、自分の非を絶対に認めない。そして、見栄のために平気で嘘をつく男だ』と評していた。お父さんは、彼が将来必ず金銭的なトラブルを起こすと予感していたんだ」
だからこそ、父はあのマンションをただ私に譲るのではなく、達也先生を信託監督人とする、特殊な家族信託契約を結んだのだ。この契約がある限り、名義人である私であっても、勝手にマンションを売却したり、担保に入れて借金をしたりすることはできない。つまり、浩司がいくら部屋を荒らして権利書を見つけ出したとしても、あのマンションをお金に変えることは、絶対に不可能だったのだ。
父は自分の命が長くないと悟った時、残される私と、これから生まれてくる孫を守るために、完璧な防波堤を築いてくれていた。
「お父さん、ありがとう」
私は誰もいないリビングで、小さくつぶやいた。目から、温かい涙が一筋だけこぼれ落ちた。それは悲しみの涙ではなく、父の深い愛情に守られていたことへの、感謝と安堵の涙だった。私がこれまで黙って耐えてきた時間は、決して無駄ではなかった。浩司の嘘を泳がせ、証拠を完全に揃えるために必要な時間だったのだ。
私はもう、迷うことはない。しかし、浩司という男の愚かさを、私はまだ甘く見ていたようだ。自分の罪が全て暴かれ、弁護士から法的な制裁を突きつけられたにも関わらず、彼はまだ自分が勝てると思い込んでいた。義母の「私たちが訴えてやる」という言葉に背中を押され、彼はとんでもない暴挙に出ることになる。
翌朝、実家のポストに、見慣れた浩司の字で書かれた一通の封筒が届いていた。中に入っていたのは、緑色の縁取りがされた離婚届。そして、便箋に殴り書きされた一枚の手紙だった。その手紙には、信じられないような脅迫と、彼の歪んだ自信が綴られていた。彼がこれから仕掛けてくる、最後にして最大の悪あがき。それが、彼自身の人生を完全に終わらせる引き金になるとも知らずに。
実家のポストに入っていた茶封筒。その中から出てきたのは、半分に折られた緑色の離婚届と、乱雑な文字で書かれた一枚の便箋だった。離婚届の浩司の欄には、すでに署名と捺印がされている。私は便箋を開き、そこに書かれた文字を目で追った。
「弁護士なんて連れてきて、偉そうにするな。お前の親父が仕掛けた契約だかなんだか知らないが、俺が調べたところ、あんなものは夫婦間では無効になるらしい。慰謝料だの何だの言っているが、俺には払う気は一切ない。どうしても離婚したいなら、この離婚届にサインして、明日までに提出しろ。そうすれば、親権はお前に譲ってやる。ただし、あのマンションは俺の慰謝料として、名義を変更してもらう。もしこれを拒否するなら、俺は会社を辞めて自己破産する。そうなれば、お前は一円も取れずに、俺の借金だけを背負うことになるんだぞ。どうだ? 怖いだろう? 大人しく、俺の言う通りにしろ」
私はその手紙を読み終え、小さくため息をついた。自己破産する。俺の借金を背負うことになる。浩司は、インターネットの薄っぺらい知識を拾い集め、私を脅しているつもりなのだろう。しかし、彼が知ったかぶりで振りかざしている法律知識は、ことごとく間違っていた。
まず、婚姻前から父に譲り受けたマンションは特有財産であり、夫婦の共有財産ではないため、離婚時の財産分与の対象には絶対にならない。そして、彼が愛人に貢ぐために作った借金は、完全に彼個人の負債だ。私が連帯保証人になっていない以上、彼が自己破産しようが、私に返済義務が生じることはありえない。
むしろ、彼が自己破産すれば、愛人への送金記録なども全て裁判所に調べられ、免責が認められない「免責不許可事由」に該当する可能性が高いだろう。彼は自分が私を完全に追い詰めたと信じ込み、勝ち誇っているのだろう。しかし、実際には、自らの無知と愚かさを書き連ねた証拠を、わざわざ私に送り付けてきただけなのだ。
私はすぐに、その手紙と離婚届をスマートフォンで撮影し、達也先生に送信した。
「先生、夫からこんな手紙が届きました」
数分後、達也先生から電話がかかってきた。
「由美ちゃん、手紙を見たよ。いやはや、ここまで無知だと、逆に関心するね。彼は、完全に自分の首を絞めているよ」
電話の向こうの先生の声には、呆れ半分、苦笑い半分の響きがあった。
「この手紙は、彼が不当な要求(マンションの名義変更)を盾に離婚を迫っているという、強力な脅迫の証拠になる。さらに、自己破産を盾に慰謝料の支払いを逃れようとしている悪意も明白だ」
「先生、彼は明日までに返事をしろと言っています。どうすればいいでしょうか?」
私が尋ねると、達也先生は少し考えた後、落ち着いた声で答えた。
「彼らに、最高の舞台を用意してあげようじゃないか」
「最高の舞台、ですか?」
「ああ、浩司君も義母も、まだ自分たちが正義だと思い込んでいる。彼らのその幻想を、完膚なきまでに打ち砕く場所が必要だ。彼らにこうお伝えなさい。『明日、マンションで親族会議を開きましょう。そこに、サインした離婚届を持っていきます』とね」
先生の提案に、私は少し驚いた。あのマンションには、今、義妹夫婦がいる。そこに浩司と義母も集めれば、完全に向こうのテリトリーに足を踏み入れることになる。
「先生、向こうのテリトリーに乗り込むのは、危険ではありませんか?」
私の不安を察したのか、達也先生は優しい声で言った。
「大丈夫だよ、由美ちゃん。彼らにとってのテリトリーが、実は最大の処刑場になるように、仕掛けてあるからね。明日、私もお父さんの古い友人たちを連れて同行する。全て、私に任せておきなさい」
その力強い言葉に、私は深く頷いた。
「分かりました。先生を信じます」
電話を切った後、私は浩司に短いメッセージを送った。
「明日の午後一時、マンションに行きます。そこに両家の親族を集めてください。離婚届の件、そこで決着をつけましょう」
既読はすぐに着いた。数分後、浩司からは「分かった。逃げるなよ」という短い返信があった。彼はきっと今頃、義母やミカと一緒に、嫁が観念したと大喜びしていることだろう。自分たちの完全勝利を信じて疑わない、彼らの姿が目に浮かぶようだ。
その夜、私は仏壇の前に座り、静かに目を閉じた。明日で、全てが終わる。私を苦しめてきた嘘と裏切りの連鎖を、全て断ち切ることができる。隣の部屋で眠る娘の寝息を聞きながら、私は小さな深呼吸をした。もう、誰も私から何も奪うことはできない。
翌日の午後一時前、私は達也先生の運転する車で、自分のマンションへと向かっていた。後部座席には、昨日も同行してくれた佐藤さんと林さんの姿がある。マンションの前に到着すると、見慣れた義母の車が、すでに止まっていた。
「さあ、行きましょうか」
達也先生の言葉に頷き、私はゆっくりと車を降りた。エレベーターに乗り、自分の部屋がある階へ向かう。長い廊下を歩く足音が、やけに大きく響いた。
部屋の前には、隣の田中さんが立っていた。
「由美ちゃん、大丈夫? 中から、すごい笑い声が聞こえるわよ」
田中さんは心配そうに、私を見つめた。
「大丈夫です、田中さん。今日で、全て終わらせますから」
私が微笑みで答えると、田中さんはほっとしたように頷き、自分の部屋へ戻って行った。私は深呼吸をして、ドアの取っ手に手をかけた。鍵は、開いていた。
ドアをゆっくりと開けると、リビングから大きな笑い声が聞こえてきた。
「本当にあの嫁、バカよね。最初から大人しく離婚届にサインしていれば、こんな大事にならなかったのに!」
義母の甲高い声だった。
「全くだよ。これで、このマンションは俺のものだ! 美香、家賃は少し上げてやるから、覚悟しておけよ!」
浩司の得意げな声が続く。
「えー、お兄ちゃん、ケチ! でもまあ、あの女が追い出されるなら、いいや」
ミカも下品に笑っていた。彼らは、私がマンションを諦め、自分たちの言う通りになるということを、完全に信じ切っていた。まるで自分たちがこの世界の支配者であるかのように、勝ち誇った顔でビール缶を傾けている。
私は靴を脱ぎ、達也先生たちと共に、静かにリビングへと足を踏み入れた。私たちが姿を現した瞬間、リビングの空気が一瞬で止まった。
「来たわね」
義母が腕を組み、私を冷たく睨んだ。しかし、その後ろに立つ達也先生たちの姿を見た瞬間、彼女の顔色が変わった。
「な、なんで、弁護士を連れてきてるんだよ! 親族会議だって言っただろうが!」
浩司が慌てて立ち上がった。
「ええ、親族会議です。だからこそ、法的な立ち合い人が必要でしょう」
私が静かに答えると、浩司は苛立ちを隠せない様子で舌打ちをした。
「まあいい。サインした離婚届は、持ってきたんだろうな」
浩司が手を差し出す。私はバッグから、緑色の縁取りがされた紙を取り出した。しかし、それは離婚届ではなかった。私がテーブルの上に静かに置いたのは、彼らが想像もしていなかった、ある書類だった。その紙を見た瞬間、浩司の顔から、完全に表情が消え去った。
私がテーブルの上に静かに置いたのは、浩司が用意した離婚届ではない。「退去通告書及び損害賠償請求書」。そう赤字で印字された、法的に効力のある正式な警告書だった。
浩司は、その紙に書かれた文字を見た瞬間、動きを止めた。さっきまでの勝ち誇った薄笑いは、完全に消え去っている。代わりに、彼の顔には恐怖と混乱が広がっていた。
「だ、な、なんだよ、これ……」
浩司は震える手で紙を持ち上げようとするが、指がうまく動かないようだ。義母は状況が飲み込めず、苛立ったように浩司の肩を強く叩いた。
「浩司! 何をもたもたしているの!? 早く、その女にサインさせなさいよ! どうせ、負け惜しみの手紙でも書いてきたんでしょう!」
しかし、浩司は義母の言葉に答えることができない。その様子にしびれを切らしたのか、ミカが横からその書類をひったくった。
「ちょっと貸してよ! え?」
書類に目を通したミカの、女神から出る甲高い声が裏返った。
「即時退去、無断居住の違約金、一日につき十万円…… 何よ、これ!?」
その叫び声に、ソファで寝転がっていたミカの夫も跳び上がった。
「おい、どういうことだ、浩司! あんた、このマンションは自分のものになるから、家賃半分で住んでいいって言ったじゃないか!」
ミカの夫が、浩司の胸ぐらに掴みかからんばかりの勢いで詰め寄る。
「し、違う! これは由美の嫌がらせだ! あいつが勝手に作った、嘘の書類だ!」
浩司は必死に否定するが、その声はひどく震え、目は泳いでいた。私は静かに、そして冷たく言い放った。
「嘘かどうか、二枚目の書類も見てみればいいわ。浩司さんの本当の姿が、そこに全て書かれているから」
ミカは慌てて、警告書の二枚目をめくった。そこには、達也先生がまとめた、浩司の不法行為の全てが記載されていた。
「水希さやかへの継続的な送金、総額三百万円以上。さらに、娘の口座からの二百万円の無断引き出し……」
ミカが震える声で読み上げるその内容に、リビングは水を打ったように静まり返った。
「お兄ちゃん、これ、本当なの!? 自分の娘の貯金まで盗んで、愛人に貢いだの!?」
ミカは信じられないという目で、浩司を強く睨みつけた。義母は慌ててミカから紙を奪い取った。
「嘘よ! 浩司がそんなことするはずないじゃない! きっと、この弁護士が由美と結託して、嘘の書類を作ったのよ! 私の息子を落とし入れようとして!」
義母は、達也先生を睨みつけながら、必死に息子を庇おうとする。しかし、達也先生は表情一つ変えず、静かに自分の鞄を開けた。
「嘘ではありません。これが、銀行から取り寄せた正式な取引履歴のコピーです。そして、こちらが、金融機関からの通知状です」
先生がテーブルの上に並べたのは、疑いのない決定的な証拠の数々だった。夫と愛人の名前が並んだ家賃保証会社からの通知、大手消費者金融からの真っ赤な最終通知、そして、娘の貯金がたった一日でゼロになった生々しい口座の履歴。それらを目の前に突きつけられ、義母の顔から見る見るうちに血の気が引いていった。
「ほ、こんな、浩司。嘘でしょう? あんた、本当に愛人に貢いで、借金なんて……」
義母は震える声で息子に問いかける。しかし、浩司は俯いたまま、一言も答えることができなかった。何も言い返せないその沈黙が、何よりも確かな自白だった。
「ふざけるな!」
突然、ミカの夫が怒鳴り声をあげた。
「こんな借金まみれの嘘つきに、関わってられるか! ミカ、今すぐ荷物をまとめるぞ!」
「え、でも、行くところなんてないわよ! アパートはもう引き払っちゃったし、お金もないのに!」
「ホテルでも、実家でもいい! 一日十万も違約金を払わされたら、俺たちまで破産するぞ! 早くしろ!」
ミカの夫は、ミカの腕を乱暴に引っ張って、奥の和室へと向かった。ほんの数分前まで、私を嘲り、一つの家族として団結していたはずの彼ら。それが、自分たちの利益が脅かされた瞬間に、もろくも崩れ去っていった。私はそのみっともない争いを、ただ静かに見つめていた。私の悲しみも、悔しさも、もうない。あるのは、この人たちと完全に縁を切ることができるという、深い安堵だけだった。
「待ってよ! あなたたち、私たちを置いて逃げるの!?」
義母がミカ夫婦を引き止めようとするが、誰も義母の声に耳を貸さない。パニックになった義母の怒りの矛先は、再び私に向けられた。
「由美! あなた、なんて恐ろしい女なの! 家族をこんな風に引き裂いて、平気なの!?」
義母は涙を浮かべながら、私に向かって金切り声をあげた。私は一歩前に出て、義母の目をまっすぐに見つめ返した。
「家族を引き裂いたのは、私ではありません。浩司さんの嘘と裏切りです。そして、その浩司さんを甘やかし、産後一ヶ月の娘を抱いた私を、この家から追い出したのは、お義母さん、あなたです」
私の静かで冷たい言葉に、義母は言葉を失い、後ずさりした。
「あの時、あなたは勝ち誇って笑っていましたね。でも、浩司さんは、娘の未来のためのお金まで盗んだのです。私は、絶対にあなたたちを許しません」
私の声は、少しも震えていなかった。もう、過去の弱い私ではないのだ。
その時、ずっと俯いていた浩司が、フラフラと顔を上げた。彼の目は赤く充血し、異常なほど見開かれている。
「お前のせいだ!」
浩司は絞り出すような低い声でつぶやいた。
「お前が、お前が権利書をさっさと俺に渡さないから、こんなことになったんだ! 俺は、何も悪くない!」
彼は完全に理性を失い、私に向かって両手を振り上げ、飛びかかってこようとした。自分の罪を全て私のせいにして、力づくで現状を覆そうとしたのだ。
「危ない!」
佐藤さんが叫んだ。しかし、浩司の手が私に届くことはなかった。達也先生が静かに一歩前に出て、浩司の前に立ちはだかったのだ。
浩司の振り上げた手は、空中でピタリと止まった。達也先生が、浩司の腕を静かに、しかし力強く掴んだのだ。
「そこまでです。これ以上、由美さんに近づけば、直ちに警察を呼び、傷害未遂で被害届を出します」
達也先生の声は決して大きくはなかったが、背筋が凍るような威圧感があった。後ろに控えていた佐藤さんと林さんも、無言のまま一歩前に出た。大人の男性三人に囲まれ、浩司の猿のような怒りは、あっけなく萎んでいった。
「暴力を振るえば、あなたは間違いなく逮捕されます。そうなれば、会社も即、解雇でしょう。莫大な借金を抱えたまま職を失えば、あなたの人生は完全に終わりますよ」
その冷酷な事実を突きつけられ、浩司は竦んだように後ずさりした。そして、短い悲鳴のような声をあげ、その場に力なくへたり込んだ。彼の目からは先ほどの凶暴さは消え、ただ、恐怖に怯える情けない色だけが浮かんでいた。
その時、奥の和室から、ミカの夫が大きなスポーツバッグを二つ抱えて飛び出してきた。
「ミカ、早くしろ! こんな借金まみれの男の横にいたら、俺たちまで巻き込まれる!」
ミカも慌てて自分のコートを羽織りながら、リビングを横切った。
「お義母さん、ごめん! 私たち、お金ないから、一日十万の違約金なんて、絶対に払えない! あとは、お兄ちゃんと二人で、何とかして!」
「待ってちょうだい! 私たちを置いて行く気!?」
義母がすがりつこうと手を伸ばしたが、ミカはそれを冷たく振り払った。
「冗談じゃないわよ! お兄ちゃんが嘘をついてたのが悪いんじゃない! 私たちの人生まで、めちゃくちゃにしないで!」
ミカたちは靴もろくに履かず、逃げるように玄関を飛び出していった。バタンと重いドアが閉まる音が、マンション中に響き渡った。これで、私を嘲っていた家族の結束は、完全に粉々に打ち砕かれた。ミカ夫婦が去った後のリビングには、ひどく重く苦しい沈黙が降りてきた。義母は床に座り込んだまま、ただ呆然と玄関のドアを見つめている。浩司は荒い息を吐きながら、まだ現実を受け入れられない様子で、虚空を睨んでいた。
「なんでだ? 俺の計画は完璧だったはずだ。お前の実印と権利書さえ手に入れれば、このマンションを担保にして、三千万は借りられたんだ。そうすれば、借金も返せて、さやかともやり直せたのに……」
その身勝手な言葉を聞いて、達也先生は深くため息をついた。
「浩司さん、あなたは本当に何も調べていなかったのですね」
先生は鞄から、分厚い一冊のファイルを取り出し、浩司の目の前に置いた。
「お父様が結んだ信託契約の意味を、もう一度教え示しましょう。このマンションの法的な管理権限は、信託監督人である私にあります。たとえ由美さんの実印と権利書をあなたが盗み出したとしても、私の署名と捺印がなければ、銀行は一円も融資しません」
「なんだと……」
浩司の目が、信じられないというように大きく見開かれた。
「さらに言えば、契約書には『名義人の配偶者が不動産を不当に処分しようとした場合、直ちに配偶者の居住権を剥奪する』という項目も盛り込まれています。つまり、あなたが権利書を探そうと和室を荒らした時点で、あなたは法的にこの家から完全に追放されていたのです」
浩司は、口をパクパクと開閉させた。彼が必死になって実家を漁り、妹の荷物を投げ捨ててまで探していた権利書。それは、最初から彼にとって何の価値もない紙切れでしかなかったのだ。
「親父の罠だったのか……?」
「罠ではありません。お父様の、娘を守るための深い愛情です。あなたの浅はかな知恵と欲望など、お父様には最初から見透かされていたのですよ」
達也先生の静かな言葉が、浩司の心を容赦なく切り裂いていった。しかし、達也先生の追求は、これだけでは終わらなかった。
「それから、浩司さん。あなたの借金の原因である、水希さやかさんについてですが」
その名前が出た瞬間、浩司の体がビクッと跳ねた。
「今朝、私の事務所に一本の電話がありました。水希さやかさん本人からです」
「さ、さやかが、なんで弁護士なんかに……」
「彼女は、昨日マンションに乗り込んできた際に、あなたが家賃も払えないほど困窮している事実を知りました。そして、私からの通知を受け取り、あなたが完全に無一文になることを悟ったのです」
先生は手元のメモを、淡々と読み上げた。
「彼女はこう言っていました。『浩司にはもう見切りをつけました。私は今日の午後の便で、実家のある地方へ帰ります。マンションは解約せずにそのまま出ていくので、滞納分の家賃は、連帯保証人である浩司に、全て請求してください』と」
「嘘だ、嘘だ!」
浩司は頭を抱え、絶叫した。
「あいつは、俺のことが本当に好きだって言ってたんだ! 俺が金持ちだからじゃない! 俺自身を愛してるって!」
「現実を見なさい」
達也先生の冷たい声が、浩司の絶叫をピタリと遮った。
「あなたが彼女に与えていたのは、お金だけです。お金がなくなった瞬間に、彼女はあなたを捨てて逃げたのですよ。残されたのは、彼女が滞納した家賃の請求書と、消費者金融からの多額の借金だけです」
自分の全てだった愛人に裏切られ、多額の負債だけを押し付けられた。その事実が、ついに浩司の精神を完全に打ち砕いた。彼は床に両手をつき、呻き始めた。
「ああ……ああ……」
それは、大人の男とは思えないような、情けなく、哀れな鳴き声だった。私はその背中を、ただ冷めた目で見つめていた。かわいそうだとは、一ミリも思わなかった。彼が今流している涙は、失った家族への後悔ではなく、ただ自分の思い通りにならなかったことへの、悔し涙に過ぎないからだ。
義母は、泣き崩れる息子を見て、ついに観念したように、両手で顔を覆った。
「もう、終わりね…… 私たち、これから、どうやって生きていけばいいの?」
義母のつぶやきは、誰の心にも届くことなく、冷たい空気に溶けていった。
全てが終わった。私も、達也先生も、そう思ったその時だった。同行していた佐藤さんが、ずっと気になっていたように、部屋の奥の和室を指さした。
「由美ちゃん、彼らが荒らしたという和室だけど、少し様子がおかしくないか?」
その言葉に、私ははっと顔を上げた。浩司が権利書を探すために、壁紙まで破って荒らしたという和室。そこには、父が私にも隠していた、もう一つの本当の秘密が隠されていたのだ。
佐藤さんに促され、私たちはリビングから奥の和室へと、ゆっくりと足を踏み入れた。そこには、目を疑うような無惨な光景が広がっていた。私が実家に帰る前に、拭き掃除をして手入れをしていた畳。それは何枚も乱暴に剥がされ、床の下地が冷たく剥き出しになっていた。部屋の隅に大切に積み上げていた娘のための小さなおもちゃや本は、ゴミのように床に散乱している。父の思い出が詰まったアルバムも、無惨に放り出されていた。
そして、何より異様だったのは、部屋の奥にある壁の一部だ。分厚いクロス張りの壁が、まるで獣の爪で引き裂かれたように、広範囲にバリバリに破られていたのだ。浩司がマンションの権利書を探すために、どれほど狂ったように部屋を破壊したのかが、一目で分かった。自分の借金と愛人のために、妻の大切な思い出の場所をここまで無慈悲に壊せる男。私は胸の奥がひどく冷たくなるのを感じながら、その惨状を静かに見つめた。
しかし、佐藤さんが指摘した「おかしな点」は、散らかった部屋の様子そのものではなかった。破られた壁紙の奥、深く。コンクリートの壁の一部に、銀色に光る小さな金属の扉が露出していたのだ。
「あれは……金庫ですか?」
私が思わず声を漏らすと、達也先生が静かに頷いた。
「はい。壁に埋め込まれた貸金庫です。お父様がこのマンションを購入した際、特別に業者に依頼して、作りつけたものです」
私は驚いて、背後で床に座り込んでいる浩司の方を振り返った。浩司は虚ろな目で、その銀色の扉をじっと見つめている。
「暗証番号が、どうしても分からなかったんだ……」
浩司は、誰に言うともなく、力なくつぶやいた。
「壁を叩いたら、音が空洞だったから、絶対にそこに権利書があると思った。でも、どんな番号を入れても、ビクとも開かなかったんだ」
彼の指先を見ると、無理やり扉をこじ開けようとしたのか、爪の先から乾いた血が滲んでいた。一夜中、獣のように壁を壊し、金庫と格闘していた彼の姿が目に浮かぶ。
達也先生は無言のまま、金庫の前に立った。そして、鞄から小さな鍵を取り出した。
「浩司さん、この金庫は、暗証番号だけでは開きません。私が預かっていたこの特殊なマスターキーがなければ、絶対に開かない仕組みになっているのです」
先生が鍵穴に鍵を差し込み、静かにダイヤルを回す。カチャリ、カチャリという、冷たい金属音が、静まり返った和室に響いた。次の瞬間、重い音を立てて、金庫の扉が開いた。
金庫の中に権利書が入っていると信じていた浩司が、はっと顔を上げた。もう、すがるような目で、這うように入り口まで近づき、中を覗き込もうとする。これで一発逆転できるかもしれない。そんな浅はかな期待が、彼の目にまだ浮かんでいた。
しかし、達也先生が中から取り出したのは、権利書でも実印でもなかった。それは、一通の少し古びた封筒と、一冊のま新しい通帳だった。
「由美ちゃん、これは、お父様から「万が一の時が来たら、あなたに渡してほしい」と、強く頼まれていたものです」
達也先生から手渡された茶封筒には、「由美へ」と、父の力強い字で書かれていた。私は震える手で封を開け、中に入っていた便箋を取り出した。便箋を開いた瞬間、懐かしい父の筆跡が目に飛び込んできた。そこには、父の深い愛情と、恐ろしいほどの先見の明が記されていた。
「由美、この手紙を読んでいるということは、浩司君がマンションの権利書を探して、この壁を壊したということだろう。最初の一行を読んだ瞬間、私の息が止まりそうになった。父は、浩司がいつか暴走し、この部屋を荒らすことまで、完全に予測していたのだ。私は無意識のうちに、その手紙の続きを声に出して読み上げていた。
「私は、浩司君と初めて酒を飲んだ時、彼が自分の見栄のために平気で嘘を重ねる人間だと気づいていた。彼は、外面を取り繕うのがうまいが、本質はひどく浅はかだ。いつか必ず金銭的な問題を起こし、お前を深く苦しめる日が来ると、確信していた」
手紙を持つ私の手に、ぽつりと温かい涙が落ちた。何年も一人で耐え続けてきた寂しさが、父の言葉で一気に溶けていくようだった。
「だから、私は彼が絶対に手を出せないように、達也に頼んで、厳しい信託契約を結んだ。そして、この隠し金庫を作った。浩司君は、きっとこの金庫に権利書があると信じて、壁を壊してまで必死に開けようとしたはずだ」
読み上げる私の声を聞き、浩司の体がビクッと大きく跳ねた。
「だが、ここに入っているのは、権利書ではない。一緒に同封した通帳を見てほしい。それは、お前とこれから生まれてくる孫のための資金だ。私の個人資産から、完全に彼の手が届かない形で残しておいた。由美、我慢しなくていい。堂々と、新しい人生を歩みなさい。お前は一人じゃない。私が、ずっとお前を守っている」
私が手紙を読み終えると、和室は深い静寂に包まれた。達也先生が静かに補足した。
「この通帳の資金は、法的に浩司さんの借金の返済に当てられることは、絶対にありません。由美さんとお子様の、完全な固有財産として守られています」
浩司は口を半開きにしたまま、完全に言葉を失っていた。彼が必死になって探し、人生の逆転をかけていた隠し金庫。そこに入っていたのは、権利書でもお金でもなく、彼の破滅を予言する、亡き父からの手紙だった。
「最初から……俺は、親父さんの手のひらの上で、踊らされていただけなのか……」
浩司の口から、乾いた笑い声のようなものが漏れた。自分の浅はかな計画も、枯れ果てた欲望も、愛人との密会も。全ては、三年前に亡くなった父に、最初から見透かされていた。自分が賢いと思い込んでいた男にとって、これほど残酷な真実はない。その圧倒的な事実が、浩司の歪んだプライドを、根元から完全にへし折った。彼はもう、言い訳をすることも、怒鳴る気力も失っていた。ただ、畳の剥がされた冷たい床を見つめ、放心状態になっている。
私は、父が残してくれた通帳をしっかりと胸に抱きしめ、浩司を見下ろした。
「これが、このマンションの本当の真実よ」
私の冷たく、そして静かな宣告に、浩司はただ、力なく項垂れた。これで、本当に全ての嘘が暴かれたのだ。
しかし、まだ現実を受け入れられない人物が、一人だけ残っていた。義母だ。息子が完全に敗北し、全ての財産も名誉も失ったという現実。それをどうしても直視できない彼女は、突然、狂ったように立ち上がった。そして、信じられないような言葉を叫びながら、私に向かって突進してきたのだ。
「返しなさいよ! その通帳! それは、浩司のこれからの生活に必要なものなんだから!」
義母は、発狂したような叫び声をあげながら、和室の入り口から私に向かって突進してきた。その顔は怒りで真っ赤に歪み、目は血走っている。自分が信じていた完璧な息子の肖像が完全に打ち砕かれ、さらに彼が多額の借金を背負って無一文になったという現実。それをどうしても認めたくない彼女は、父が私に残してくれた通帳を奪い取ることで、無理やりにでも解決の糸口を見つけようとしたのだ。
しかし、義母の手が私に届くことはなかった。私を守るように立っていた佐藤さんが、さっと一歩前に出て、義母の腕を静かに、しかし強く掴んだ。
「いい加減になさい、奥さん。これ以上、醜態を晒すなら、警察を呼びますよ」
佐藤さんの低く、ドスの利いた声が、和室に響いた。長年、父の右腕として会社を支えてきた佐藤さんの気迫に押され、義母はピタリと動きを止めた。
「離して! 浩司は悪くないわ! 悪いのは、全部、この計算高い嫁と、死んだ父親よ!」
義母は佐藤さんの手を振り払おうと、必死に身をよじりながら、まだ見苦しい言い訳を叫び続けていた。しかし、そのヒステリックな叫びを止めたのは、私でも、達也先生でもなかった。
「母さん……もう、やめてくれ」
背後から聞こえた、ひどく掠れた、力のない声。義母ははっとして振り返った。床に座り込んだままの浩司が、虚ろな目で義母を見上げていた。
「浩司、何を言っているの!? しっかりしなさい! こんな女たちに負けて!」
「負けたんだよ……完全に、俺の負けだ」
浩司は、自嘲するような乾いた笑いを漏らした。
「最初から、俺はあの親父さんの手のひらで転がされていただけなんだ。俺が嘘をついていることも、借金まみれなことも、全部、見透かされていた。俺は、本当に……最低な人間なんだよ」
自らの口から放たれた、その決定的な自白。義母は、信じられないものを見るように、ゆっくりと首を振った。
「嘘よ…… あなたが、愛人に貢いで、借金なんて…… そんなはず、ないじゃない。あなたは、私の自慢の息子なのに……」
義母の声は次第に小さくなり、最後は、空気が抜けるような音に変わった。彼女の中で、何十年もかけて築き上げてきたプライドと世間体が、音を立てて崩れ落ちた瞬間だった。
義母は泣き叫ぶことも、床に土下座することもなかった。ただ、糸が切れた操り人形のように、手から力が抜け、壁際に置かれていた小さな椅子に、どさりと力なく座り込んだ。そして、視線の合わない目で床の木目を見つめ、両手で自分の口元を覆った。その手は、小刻みに、しかし止めどなく震え続けていた。親戚には何と説明すればいいのか。ご近所の目はどうなるのか。自分の老後は、誰が面倒を見てくれるのか。義母の頭の中は、今、息子の心配ではなく、自分自身の保身と恐怖で埋め尽くされているのだろう。
私は、手の中にある父の通帳と手紙を、静かにバッグにしまった。そして、床に座り込む浩司と、呆然とする義母に向かって、静かに歩み寄った。
「浩司さん、お義母さん。あなたたちが私から奪おうとしたものは、最初から、あなたたちのものではありませんでした」
私の声は、驚くほど澄んでいて、少しの震えもなかった。怒鳴る必要も、罵倒する必要もなかった。事実を、ただ淡々と突きつけるだけで、彼らには十分すぎるほどの罰になるからだ。
「産後一ヶ月の娘を抱いて帰ってきた私に、あなたたちは『もう居場所はない』と言いましたね。あの時の、あなたの勝ち誇った顔と、お義母さんの冷たい笑いを、私は一生忘れません」
浩司は顔を上げることもできず、ただギュッと目を閉じた。義母は、覆った手の下で、小さく息を飲むのが聞こえた。
「でも、私が黙っていたのは、あなたたちに屈したからではありません。娘を守り、父との約束を果たすために、あなたたちの嘘が全て暴かれる瞬間を、待っていただけです」
私は一呼吸置き、最後通告を行った。
「明日のお昼の十二時までに、あなたたちの荷物を全てまとめて、このマンションから出て行ってください。それ以降も居座る場合は、不法侵入として、警察に通報します」
「追い出されて……俺に、どこへ行けって言うんだ……」
浩司が、か細い声でつぶやいた。愛人には逃げられ、借金があり、会社に戻ることもできない彼には、文字通り行く当てがない。
「実家に戻ればいいのではありませんか? 『家族で助け合うのが当然』と、お義母さんもおっしゃっていましたし」
私が冷たく言い放つと、椅子に座っていた義母が、ビクッと肩を跳ねさせた。
「無理よ!」
義母が震える声で叫んだ。
「うちには、浩司の借金を肩代わりするようなお金なんて、一円もないわ! もし、取り立ての人が実家に来たら、ご近所に噂されて、生きていけなくなるわ!」
自分の息子を見捨てる、非常な一言だった。つい数日前まで「浩司は私の自慢の息子よ」と私を見下していたのに、今では浩司を疫病神のように扱い、拒絶しているのだ。浩司は、義母の言葉を聞いて、口元を歪め、ついに声を上げて泣き崩れた。妻を裏切り、娘の貯金を盗み、妹夫婦を利用し。そして最後には、一番の味方だと思っていた実の母親にまで見捨てられた男。それが、彼の歩んできた人生の、最終的な到達点だった。哀れだとは思うが、同情の余地はない。彼が自分の手で蒔いた種が、ただ実を結んだだけなのだ。
「荷物の搬出と、部屋の明け渡しについては、私が明日立ち合います」
達也先生が、冷酷な事務的な口調で引き継いだ。
「浩司さん、先ほど由美さんがお渡しした退去通告書と損害賠償請求書は、必ず目を通しておいてください。あなたには、マンションの現状回復費用、慰謝料、そして、娘さんの貯金の全額返還義務があります。自己破産をしても、悪意の不法行為による慰謝料は免責されない可能性が高いこと。よく覚えておいてくださいね」
先生の言葉は、浩司のわずかな希望すらも、完全に断ち切るものだった。会社での信用を失い、給料を差し押さえられながら、一生かけて借金と慰謝料を払い続ける人生。それが、彼に与えられた現実だ。
「それから、ミカさん夫婦が滞納した違約金についても、あなたに連帯して請求させていただきます。ご家族で、よく話し合って決めてください」
達也先生がそう締めくくると、リビングは再び重い沈黙に包まれた。誰も、言葉を発することはない。ただ、浩司のすすり泣く声と、義母の浅い呼吸音だけが、虚しく響いていた。
「行きましょう、先生」
私は達也先生と佐藤さん、林さんに声をかけた。これ以上、この空間にいる必要はない。私たちがやるべきことは、全て終わった。
私は玄関に向かって歩き出した。ドアの取っ手に手をかけた時、ふとリビングを振り返った。そこには、私が選んだカーテンはなく、趣味の悪い車のカーテンが引かれた薄暗い部屋で、うずくまる浩司と、茫然自失の義母の姿があった。かつては「家族」と呼んだ人たちの、あまりにも無惨な結末。けれど、私の心に未練は、一切ない。
私は静かにドアを開け、マンションの廊下へと出た。新鮮な空気を胸いっぱいに吸い込むと、重かった肩の荷が、すっと消えていくのを感じた。
「お疲れ様、由美ちゃん」
達也先生が、優しく微笑みかけてくれた。
「よく、最後まで冷静に、立派にやり遂げたね。お父さんも、きっと空の上で安心しているよ」
「はい。先生たちのおかげです。本当に、ありがとうございました」
私は深くお辞儀をした。長かった戦いが、ようやく終わったのだ。
マンションを出ると、西の空が美しい夕焼けに染まっていた。早く実家に帰って、娘の温かい頬に触れたい。私の胸の中には、未来への明るい希望だけが満ちていた。
しかし、この物語には、最後にほんの少しだけ、優しい余談が残っている。
あの修羅場から、三ヶ月が経った。季節はすっかり秋めき、風が心地よく頬を撫でる時期になった。
浩司と義母がマンションから退去した翌日、私は達也先生と共に、部屋の確認に入った。壁紙はひどく破かれ、畳は剥がされたままだったが、不思議と悲しい気持ちにはならなかった。むしろ、あの壁の奥から現れた父の金庫と手紙が、私に前に進む勇気を与えてくれたからだ。
浩司は、最後までしっかりと私の目を見ることはできなかった。「由美……すまなかった」と、玄関で荷物を抱えたまま、消え入りそうな声で呟いたのが、彼との最後の会話だった。私は何も答えず、ただ静かに頷くだけに留めた。義母は、私と目を合わせることすら避け、足早に車へと乗り込んでいった。
後日聞いた話では、浩司は義母の実家への出入りを拒絶され、今は家賃の安いボロアパートで一人暮らしをしながら、消費者金融への返済と、私への慰謝料を毎月振り込み続けているそうだ。もちろん、水希さやかという愛人も、義妹の美香たちも、彼の元からは完全に離れていった。
私は達也先生に手続きを全て任せ、浩司と正式に離婚を成立させた。親権はもちろん、私だ。慰謝料と、横領された娘の貯金も、分割ではあるが、毎月確実に回収する取り決めを交わした。
今日、私は久しぶりに、リフォームを終えたマンションを訪れた。玄関を開けると、新しい畳の爽やかな香りが鼻をくすぐる。壁紙も全て張り替えられ、床に散乱していたゴミも、綺麗に片付けられていた。リビングには、明るい太陽の光がたっぷりと差し込んでいる。そして、部屋の真ん中には、私が娘のために一生懸命組み立てた、あの綺麗なベビーベッドが置かれていた。
「綺麗になったね」
私が声をかけると、腕の中で娘が「あう」と嬉しそうな声をあげた。私は娘を抱えたまま、奥の和室へと歩みを進めた。青々とした新しい畳が敷き詰められた部屋の奥。あの銀色の金庫は、壁紙に隠されることなく、あえて見える状態のまま残してもらった。それは、私にとって、父がいつでも見守ってくれているという、お守りのような存在になったからだ。
私は畳の上に座り、バッグから、父が残してくれた通帳と手紙を取り出した。何度読んでも、父の深い愛情に、胸が熱くなる。
「由美、我慢しなくていい。堂々と、新しい人生を歩みなさい。お前は一人じゃない。私が、ずっとお前を守っている」
父の言葉を心の中で反芻しながら、私は金庫の扉に、そっと手を触れた。
「お父さん、ありがとう。私、もう、大丈夫だよ」
冷たいはずの金属の扉が、今日は不思議と、温かく感じられた。
「あら、由美ちゃん、こんにちは」
開け放った玄関から、明るい声が聞こえた。振り返ると、隣の田中さんが、ニコニコと笑いながら立っていた。手には、可愛らしい小さな花束が握られている。
「田中さん、こんにちは。その節は、本当に色々と助けていただいて、ありがとうございました」
私が深々と頭を下げると、田中さんは「そんなの、いいのよ」と手を振った。
「それより、リフォームが終わって、本当に良かったわね。これ、お祝いの気持ち。娘ちゃんのベビーベッドの横にでも、飾ってね」
田中さんから受け取ったのは、娘の頬と同じ、優しい黄色のガーベラだった。
「ありがとうございます。とっても、いい香り」
「これからが、新しいスタートね。何か困ったことがあったら、遠慮なく言うのよ。私たち、ご近所さんなんだから」
田中さんの温かい言葉に、私は深く頷いた。かつては、見知らぬ愛人や義妹夫婦が怒鳴り合っていた、あの冷たい廊下。今は、そこからこんなにも優しい言葉が聞こえてくる。私はもう、我慢して泣き寝入りするような自分ではない。父が残してくれたこのマンションと、その奥に隠された深い愛情が、私を強くしてくれた。達也先生や佐藤さんたち、そして田中さんのような温かい人たちとの繋がりが、私を支えてくれている。
娘のため、そして何より、私自身の人生のために。私は娘を高く抱き上げ、リビングの窓から広がる青空を見上げた。秋の澄んだ空は、どこまでも高く、一点の曇りもなかった。
「さあ、帰ろうか。私たちの、大切な新しいお家に」
私の言葉に答えるように、娘が「キャッキャ」と声を上げて笑った。その笑顔を見つめながら、私は、かつてないほどの穏やかな安堵感と、強い希望に包まれていた。



