社長室に呼び出された時点で、嫌な予感はしていた。だが、まさかあの噂が現実になろうとは。
「お前が第一課の課長か。今度、私の息子を営業部に入れることにした。今日はその報告だ」
泉社長は高級リクライニングチェアにふんぞり返ったまま、天気の話でもするかのようにそう告げた。
「ということで、誰を飛ばすかはお前が決めろ。ああ、できるだけ古参の人間にしろよ」
俺は胃嵐し健二。大学卒業後、この食品メーカーに長く勤め、今は営業部第一課の課長を務めている。入社以来、営業一筋。常に第一線で現場の声を聞き、それを会社に還元していきたいと考えてきた。
数日前、情報通の部下から耳を疑うような噂を聞かされていた。泉社長が自分の息子を入社させるらしい。しかも営業部にねじ込みたいのだという。
「息子を入れる代わりに営業部の誰かを飛ばすんじゃないかって噂なんですよ」
その言葉に、その場にいた全員が息を呑んだ。俺だって同じ気持ちだった。
泉社長は先代社長の娘婿だ。先代の泉社長が1年前に病気で亡くなり、その後を継いだのが今の泉社長だった。
先代は優しく厳しく、常に社員のことを第一に考えてくれる人物だった。社員たちもそんな先代を慕い、会社は業界でも中堅どころまで成長した。今の社員たちは、お世話になった先代への恩を返すつもりで、後継ぎの泉社長を盛り立てて日々仕事に励んでいる。
しかし、泉社長本人には経営能力がまるでなかった。外見は確かに出立ちのいいイケメンだが、彼のやることはいつも的外れで、その都度、周囲が全力でフォローしてきた。それでも彼は、社員たちの頑張りによる業績を自分の手柄だと勘違いしている節があった。
「お言葉ですが、泉社長。今の業績が保てているのは、古くから務める社員が若手を引っ張っているからこそです。それを古参だからと言って飛ばすというのは……」
なるべく相手を刺激しないよう、慎重に言葉を選んだつもりだった。だが、無駄だった。
「なんだ、お前。高が課長の分際で、俺に指図しようというのか」
泉社長はそれまで面倒そうな顔をしていたのが、一転して怖い目をして俺を睨みつけた。
「本当にここの社員は生意気だな。俺が何かしようとするたび、いつもああだこうだと横やりを入れてくる」
彼は吐き捨てるように続けた。
「それもこれも、あの義父が社員を自由にさせすぎたからだ。何が社員の個性を尊重だ。社員なんてものは、そもそも駒だろう。駒は黙って上の言うことを聞いていればいい」
先代を貶めるその暴言に、俺はさすがに黙っていられなかった。
「先代の社長は、社員である私たちを一個人として信頼してくださいました。そして私たちも先代を信頼しました。だから今のこの会社が……」
「うるさい!」
泉社長は叫び、リクライニングから立ち上がると、俺を間近で睨みつけた。
「本当にお前は二言目には先代が先代が。そんなもの、あったって何の役にも立たないだろうが。いい加減、お前ら古参の解雇主義にはうんざりなんだよ」
そう言って、彼はふと何かを思いついたように、ニヤリと笑った。
「そんなに仲間が大切なら、お前が会社をやめろ。そうすりゃ、他の年寄りどもは会社に残れるんだぞ」
俺は一瞬、言葉を失った。そして、一度目を閉じ、深呼吸をした。やがて、まっすぐに泉社長を見て言った。
「そこまでおっしゃるのであれば、分かりました。私が会社をやめます。その他の社員は、どうぞ今まで通りに」
「ふん。じゃあ最初からそう言えばいいだろうに。全く。では、本日中に退職届を提出しなさい」
俺はそれには答えず、無言で一度頭を下げ、社長室を出た。
それから1週間後の最終出社日。部下たちが口々に惜しんでくれた。
「課長、本当にやめるんですか? なんでこんなことに……今でもまだ信じられません」
俺は切なくなりながらも、明るく笑って言った。
「いいんだよ、これで。幸い営業部は人員が足りてるからな。とは言え、お前たちはお前たちらしく、新しい課長をよく盛り立てていってほしい」
こうして俺は、長年勤めた会社を去った。
それから1か月後のことだった。ちょうど昼頃、俺のスマートフォンに泉社長から立て続けに電話がかかってきた。最初は無視していたが、相手があまりにしつこいものだから、仕方なく応答した。
「お前、なんで電話に出ないんだ? いや、今はそれどころじゃない。今すぐ会社に戻ってこい。そして息子のサポートにつけ」
そのあまりの物言いに、俺は呆れ果てた。出て行けと言ったり、戻ってこいと言ったり。本当に彼は社員を駒としか見ていないんだな、と今さらながら実感した。
「そちらはなかなか大変ですね。急激な業績悪化で株も大暴落しているようですし」
実は退職後、営業部の部下から事情を聞かされていた。泉社長の息子は、俺に代わって課長職に就いたものの、取引先に挨拶もしなければ、電話の一本も書けない、全くの役立たずだったらしい。取引先からの依頼も面倒なものは全て周囲に押し付け、自分は定時で帰って遊び歩く。出社してもスマートフォンでゲームをしているという絵に書いたようなドラ息子だった。彼に注意しようものなら、「親父に言いつけてやる」と決まり文句のように言うので、半月も経つ頃には誰も彼の相手をまともにしなくなったそうだ。それでも泉社長は、息子が営業で頑張っていると信じきって、社内外に言いふらしては恥を上塗りしているのだという。
さらに時間が経ち、状況は悪化した。息子の仕事ぶりに怒った取引先が、次々に契約を打ち切る事態が発生したのだ。
「何を他人事みたいに。くそ! あいつらも酔った勢いで、『お前をやめさせるような会社とは取引しない』とか言い出すし。さてはお前、追い出された腹いせに俺の悪口でも言いふらしたのか?」
「悪口って……子供の喧嘩じゃあるまいし」
思わず笑ってしまいそうになったが、そこは懸命に口を閉じた。それに、息子の件がなくとも、取引先があの会社との契約を打ち切るのも、分からないではなかった。
というのも、取引先の多くは、俺が平社員時代からコツコツと足を運び、コミュニケーションを取り、少しずつ信頼を結びながら獲得していった企業だった。俺を信用してくれた取引先が紹介してくれた新たな取引先や、俺がいるからと他社からあの会社へ乗り換えてくれた相手も含めれば、実に全体の9割は俺の力で築いた関係だった。信頼が信頼を呼び、またそこに新しい関係性が生まれる。双方向の信頼とは、まさしく人の輪なのである。
まあ、この人には何を言っても無駄だろう。そう諦めの境地に達し、俺は淡々と答えた。
「先に断っておきますが、私は貴社に対して何の嫌がらせもしていません。また、私はもう会社をやめた人間ですので、そちらで何が起ころうと、完全なる他人事です。それに、私はすでに再就職していますので」
「はあ? 再就職?」
馬鹿にされたと思ったのか、こちらを嘲笑うように笑った泉社長だったが、俺が今在籍している会社名を挙げた途端、絶句したように息を飲んだ。そう、俺は今、元の会社のライバル会社で同じ営業をしている。幸い、今の会社は俺を高く評価してくれて、おかげさまで順調に過ごしている。
「では、以降は一切連絡してこないでください。必要ならば、しかるべきところに訴えますので、そのおつもりで」
そこまで言って、俺はさっさと電話を切った。
彼に向かって告げた言葉は全て本当のことだ。今の会社は、俺が前の会社を辞めたと知るや否や、早々に「うちに来てくれ」と勧誘してくれた。前の会社で取引があった相手も、「俺がいるなら」と早速契約を乗り換えた企業もあるくらいだ。仕事上の契約は確かに会社と会社のものだが、そこには必ず人がいることを、泉社長は未だに気づいていないらしい。
こうなっては、あの会社は、少なくとも泉親子はもう駄目だろうな。俺はそう思い、胸の内でそっと手を合わせた。
それからさらに1年後。泉社長の会社は、今までの業績の貯金でなんとか持ちこたえていたものの、誰の目から見ても倒産は時間の問題と見られていた。そして、そんな状況を見るに見かねた株主総会で、泉社長は解任となり、銀行から新社長が送り込まれることとなった。その後、会社を追い出された泉親子の行方を知る者は、誰もいないらしい。
俺は今、新しい会社で忙しい日々を送っている。新規開拓した取引先もあり、改めて人の輪の大切さを実感しているところだ。今ある信頼を大切にしながら、新たな場所で新たな信頼を結ぶ。毎日、ワクワクした気持ちで自分の仕事に邁進している。



