夜の11時を過ぎた成田空港は人影もまばらだった。スーツケースを引いて自動ドアを抜けると、冬の冷たい空気が首筋に触れた。7年ぶりの日本の空気は、思っていたよりも湿っぽく、そして懐かしかった。
俺の名前は山田浩、45歳。心臓外科医だ。ボストンの大学病院で長く働いてきた。
ロビーの隅で、見覚えのある背中が立ち上がった。グレーのコートに手袋、黒崎信吾。昔、カ木先生の下で一緒に働いた同期だった。
「久しぶりだな、山田」
「黒崎か。まさかお前が迎えに来るとは思わなかった」
「委員長から頼まれたんだよ」
車に乗り込むと、黒崎はゆっくりとアクセルを踏んだ。窓の外を街灯が後ろへ流れていく。
「カ木先生の容態、聞いてるか」
「電話で少しだけ。狭心症の気用があるとは聞いていたが」
「半年前に2度目を起こした。今は何とか抑えてるが、無理が効かない体だ」
「先生がそんなことになっていたとは知らなかった」
「お前に知らせないでくれと言ったのは先生本人だ。海外で頑張ってる教え子の手を止めたくなかったんだろう」
俺は黙ってフロントガラスの先を見た。7年前、俺を送り出してくれたカ木先生の声が耳の奥に蘇った。「君の腕はもっと広い場所で生きる」。あの言葉に背中を押されて、俺はこの国を出た。
「正直に言うとな、山田。俺はお前を呼び出すのに反対だった」
「だろうな。お前らしい」
「だが先生がどうしてもと言うんだ。聞いてやるしかなかった」
車は高速道路に乗った。
「黒崎、病院は今どうなってる?」
「来てみれば分かる」
それ以上、彼は何も言わなかった。7年という時間は、思っていたよりも重かった。
翌朝、俺はカ木総合病院の正面玄関に立っていた。古い3階建ての病棟。レンガ色のタイルは少し色褪せ、所々にひび割れが見えた。
中に入ると、待合室はすでに患者で埋まっていた。受付の前には長い列。ロビーの長椅子では、男性が膝の上で杖を握り、若い母親が子供をあやしていた。
その中を、白い服を着た1人の看護師が駆けるように通り抜けていった。彼女の顔にはっきりと疲れの色が浮かんでいた。
俺は受付に近づき、カ木委員長と約束していることを告げた。すると奥から50代の女性が出てきて、深く頭を下げた。
「山田先生でいらっしゃいますね。お待ちしておりました。看護部長の三瀬と申します」
「三瀬さん、お世話になります。今日からしばらくお邪魔します」
「委員長は委員長室でお待ちです。ご案内いたします」
廊下を歩きながら、三瀬部長は周囲を気にするように小さく言った。
「先生、ご無理を言って呼び戻したようで、本当に申し訳ありません」
「いえ、先生のご様子が気になっていましたから。むしろもっと早く戻るべきだったかもしれない」
「…みんな限界に近いんです」
その一言に、俺は廊下を歩く足を少し緩めた。すれ違う職員の表情を、俺は黙って観察した。誰もが下を向き、足早に歩いていく。笑顔はなく、挨拶の声も小さい。
ナースステーションの前を通った時、若い看護師が机につっぷして目を閉じているのが見えた。三瀬部長は何も言わず、ただ毛布を1枚、その肩にかけた。
「あの子、36時間連続で勤務しているんです。今は仮眠の時間なので」
「15分くらいですか?」
「ええ。それでも起きたらまた走ります。皆、委員長のために踏ん張っているんです」
俺は何も言えなかった。7年前のこの病院の風景とは、まるで違っていた。あの頃は廊下に笑い声があった。カ木先生がいて、若い研修医たちが冗談を言い合い、患者の家族が「ありがとう」と頭を下げて帰っていった。その面影は今も確かに残っている。だが、その上に、重い疲労の膜が張り付いていた。
「先生、委員長はご自分の体のことは何も話されないと思いますけれど、どうか見ていてくださいませ。あの方がどれほど無理をしてこられたかを」
三瀬部長は静かに微笑み、ドアを軽く叩いた。
「どうぞ」
7年前と変わらないカ木先生の声だった。ドアを開けると、窓辺の机に向かって座る男性が振り返った。カ木竜一、68歳。以前より痩せていた。だが、目の光だけは少しも衰えていなかった。
「ひろし、よく帰ってきてくれたな」
「先生、ご無沙汰しております。お加減はいかがですか?」
「何?まだまだ働けるよ。お前にこんな田舎まで来てもらって申し訳ないと思ってる」
俺は机の前の椅子に腰を下ろした。
「ボストンでの仕事は順調なんだろう?」
「ええ、おかげ様で。ですが先生のお話を聞いて、すぐに飛んでまいりました」
「すまんな。本当はお前を呼び戻すつもりはなかったんだ」
カ木先生は窓の外に目をやった。
「この病院もな、ひろし、私が思っているよりずっと疲れてしまっているらしい。看護師がやめていく。若い医者も続かん。患者は増える一方だ。私はもう駆け回る体じゃない」
「先生、それは…」
「責めているんじゃないんだ。誰のせいでもない」
そう言って先生は深く息をついた。俺は胸の奥が締めつけられた。
「ひろし、お前にお願いがある。3ヶ月でいい。この病院に残って、外科を見てやってくれんか?」
「3ヶ月ですか?」
「黒崎にはもう話してある。あいつは反対しとったがな。だが、お前の手とお前の目が、今この病院には必要なんだ」
俺はすぐには答えられなかった。ボストンには来月から始まる新しい臨床研究のプロジェクトがあった。チームの仲間も俺の戻りを待っている。3ヶ月という時間は、決して短くはなかった。
それでも、カ木先生の目を見た時、俺の中で答えはもう決まっていた。
「先生、分かりました。3ヶ月をお引き受けします。私にできることがあれば、何でもやらせてください」
「そうか。ありがとう、ひろし。お前に来てもらえて、本当に良かった」
先生は深く頭を下げた。俺は慌てて立ち上がり、その肩にそっと手を置いた。痩せた肩だった。
「明日から外科の開始に入ってくれ。黒崎が案内する。それから白石という若いのがおる。あれはお前に合わせたい子でな」
「白石ですか?」
「いい目をしておるんだ。だが、近頃やめると言い出してな。お前の話を聞かせてやってほしい」
窓の外で白い水線が風に揺れていた。この3ヶ月で何ができるかは分からない。だが、やるしかない。俺をここまで導いてくれた人のために。
委員長室を出ると、廊下の向こうから三瀬部長が小走りに駆けてきた。その後ろから白衣の若い医師が疲れた顔で歩いてきた。目が合った瞬間、彼は軽く頭を下げて、そのまま俺の横を通りすぎていった。
俺はふと思った。あれが白石という若い医者だろうか。背中に何か重いものを背負っているように見えた。
朝7時半、俺は黒崎の後ろに付いて回診の列に加わった。担当カルテを抱えた看護師、研修医、そして黒崎。5人ほどの小さな集団が病室を1つずつ回っていく。最初の病室は男性患者。黒崎が手早く聴診器を当て、短く言葉を交わして次へ向かう。その動きには無駄がなく、確かに腕の立つ男のままだった。
2つ目の病室で、俺はカルテに目を落としながらふと足を止めた。女性患者。手術待機となっているが、待機期間が4ヶ月を超えていた。
「黒崎、この患者さんの手術はいつになるんだ?」
「来月の末だ。順番待ちでな」
「4ヶ月は長い。心機能の低下が進んでいる。もう少し早めた方がいい」
「言われなくても分かってる。だが、こっちにはこっちの事情があるんだ」
廊下を歩く看護師たちがちらりとこちらを見て、足早に通りすぎていく。ナースステーションに戻った時、黒崎はカルテを机に置き、俺の方を向いた。
「山田、お前が言っていることは正論だ。ボストンならその通りにやれるだろう。だが、ここはボストンじゃない。外科医は俺と白石の2人だけだ。手術室も2つ。麻酔科医は週に3日しか来ない」
「事情は分かった。だが、患者の心臓は待っちゃくれないぞ」
「それを毎日聞かされてるのは俺なんだよ」
黒崎は短くそう言って、白衣の裾を払った。背中には隠せない疲労が滲んでいた。7年、俺がボストンで腕を磨いている間、この男はこの場所で、たった1人踏ん張ってきたのだ。そう思うと、何も言えなくなった。
昼過ぎ、俺は院内を歩きながら自販機の前で、見覚えのある白衣を見つけた。白石。昨日廊下ですれ違った若い医者だった。その場にぼんやりと立っている。
「白石君だね」
「ああ、山田先生。すみません、昨日はちゃんとご挨拶もせず」
「いや、いいんだ。少し話さないか」
白石は戸惑った顔をしたが、こくりと頷いた。俺たちは階段を登って屋上に出た。冬の風が頬を切るように冷たかったが、空はよく晴れていた。柵に寄りかかって町並みを見下ろす。低い屋根が並び、その向こうに田んぼと山が見えた。
「先生、ボストンってどんなところですか?」
「寒い町だよ。冬は雪が降る。ここよりずっと冷える」
「医療はやっぱり違いますか?」
「違うところもある。だが、人はどこの国でも同じだよ」
白石はしばらく黙っていた。やがてぽつりと言った。
「先生、僕、やめようと思ってるんです。来月いっぱいで」
「カ木先生から聞いてる」
「もう続けられないんです。眠れないし、患者さんの顔が夢に出てくるし、自分の判断が正しかったのか毎晩考えて、手が震えるんです」
俺は彼の横顔を見た。若い。俺がこの病院にいた頃とちょうど同じ年頃だった。
「白石君、震えるのは君がちゃんと患者を見ている証拠だよ。何も感じなくなったら、それこそ医者は終わりだ」
「でも先生、僕は黒崎先生みたいに強くない。あの人は何があっても顔色1つ変えないんです」
「黒崎は顔色を変えないんじゃない。変えないようにしてるんだよ。あいつも君と同じだ。震えてるのを見せないだけだ」
白石は俺の方を振り向いた。
「俺もな、白石君。初めての手術の後、手洗い場で吐いたんだ。カ木先生が黙って背中をさすってくれた。あの時の手の温度は今でも覚えてる」
「先生でも、そんなことが…」
「医者はな、強くなるんじゃないんだ。震えながら、それでも次の患者の前に立つ。それだけだよ」
白石は俯いて、缶コーヒーを口元に運んだ。
「先生、もう少しだけ考えてみます」
「ああ、それでいい。急いで決めることじゃない」
風がまた2人の間を通り抜けていった。
その日の夕方、俺は事務の小寺係長に呼ばれて会議室に向かった。扉を開けると、テーブルを囲んで三瀬部長と黒崎が座っていた。皆の表情が硬かった。
「山田先生、お忙しいところ申し訳ありません。実は先生にもお耳に入れておきたいことが」
「何かありましたか?」
「委員長が午後の外来の途中で胸の痛みを訴えられて、今循環器の病棟で休んでおられます」
「発作ですか?」
「軽い狭心症の発作だと担当医は言っております。命に別状はないと。ただ、ご本人は明日も外来に出ると」
「先生、止めてください。あの方は私たちが何を言っても聞いてくださらないんです」
三瀬部長の目が少し赤かった。俺はゆっくりと椅子に座り、しばらく天井を見上げた。
「山田先生。先生はもう外科はできない体だ。それでも外来を減らすことすら拒んでる。なぜだか分かるか?」
「患者を減らしたくないんだろう」
「ああ。先生は、患者を断るくらいなら自分が倒れた方がマシだと思ってる人だ。昔からな」
俺は深く息を吐いた。7年前と何も変わっていなかった。あの人は自分の体を顧みない人だった。
「山田先生、お願いですが、外科の体制を少し見直していただけませんでしょうか。先生のお力で」
「私にできることは限られています。3ヶ月という約束で来た身です」
「それは違うぞ、山田」
黒崎が低く言った。俺は彼の方を見た。
「3ヶ月でも半年でも、お前がここにいる間にできることはある。俺はお前のやり方に賛成じゃない。だが、先生を救えるなら頭を下げる」
そう言って、本当に頭を下げた。昨日まで対抗心を隠さなかった男が、机の上に額が触れそうなほど深く。三瀬部長も、事務係長も続けて頭を下げた。
俺は何も言えなかった。窓の外では、もう日が落ちかけていた。
「頭を上げてください。俺1人でできることはありません。皆さんと一緒に考えさせてください」
3人がゆっくりと顔を上げた。三瀬部長の頬を一筋の涙が伝っていた。会議室を出ると、廊下の向こうに白石が立っていた。何か言いたげな顔でこちらを見ていた。俺は彼の肩を軽く叩いて、ただ前を歩いた。明日、カ木先生の病室を尋ねよう。そして、もう一度あの人と話さなければならない。
翌朝、俺はカ木先生の病室を尋ねた。先生はベッドの背を起こして、膝の上に新聞を広げていた。点滴のチューブが痩せた腕につながっていた。
「ひろし。すまんな、こんな格好で」
「先生、無理はなさらないでください」
「いや、な。こうしてじっとしていると、かえって落ち着かんのだ」
俺はベッドの脇の椅子を引き寄せて腰を下ろした。
「先生、昨日、外科の3人と話しました」
「黒崎が頭を下げてきました」
「もうあいつが頭を下げたのか」
「先生のために頭を下げると、あの黒崎がです」
「そうか」
先生は窓の外に目を向けた。
「ひろし、お前に1つ、聞いてもらいたい話がある」
「はい。何でしょうか」
「私はな、この病院を自分の城だと思ったことは1度もないんだ。ここは患者さんと職員と町の人たちの場所だ。私はただ、預かっているだけだった」
「先生らしい考え方です」
「だがな、預かったものを誰かに渡さなきゃならん時が来た。私はもう駆け回れん」
俺は黙って先生の言葉を受け止めた。
「ひろし、お前にこの病院を継げとは言わん。お前にはお前の場所がある。ボストンには、お前を待っている患者がおる。だが、3ヶ月の間に1つだけ頼みがある」
「何でしょうか?」
「黒崎と白石を繋いでやってくれ。あの2人は似ているようで、まだ互いを知らん。お前ならそれができる」
俺は先生の顔を見た。痩せた頬に穏やかな笑みが浮かんでいた。7年前、俺をボストンへ送り出してくれたあの日の笑顔と同じだった。
「先生、1つお伝えしたいことがあります」
「なんだ」
「3ヶ月で帰るつもりでした。ですが、もう少しここにいてもいいと思っています。半年。もしかしたら、もう少し長く」
「無理はせんでいい」
「無理ではありません。先生に教わったことを、ここで返したいんです。それはボストンではできないことですから」
先生はしばらく何も言わなかった。やがて、低い声で言った。
「ありがとう、ひろし。お前はいい医者になったな」
俺は先生の手の上に自分の手をそっと重ねた。温かい手だった。
その日の午後、俺は手術室の前の廊下に立っていた。僧帽弁閉鎖不全症の女性。手術日を早めることを、黒崎と相談して決めた。助手は黒崎、第2助手に白石。俺は第1助手に入る。それが俺たちが出した結論だった。
手術室の前で、黒崎が手洗いをしていた。
「山田。今日は俺が執刀でいいのか?」
「お前の患者だ。お前が手術してきた患者だ。俺は横で見てる」
「山田のやり方を見せて欲しいと頼むつもりだったんだがな」
「次の手術で見せるよ。今日はお前の手を白石に見せてやってくれ」
黒崎は手を止めてこちらを向いた。マスクの上の目が、少しだけ柔らかくなっていた。
「白石にか。あいつはお前のことを強いと思ってる。だが、お前がどれだけ震えながら手を動かしてきたか知らないんだ。今日、それを見せてやれ」
「俺は震えてなんかないぞ」
「そうか。それなら震えてないところを見せてやってくれ」
黒崎は笑った。手術室の扉の前に白石が立っていた。ガウンを着て、強張った顔をしていた。俺は彼の肩を軽く叩いた。
「白石君、今日はよく見ておけ。黒崎の手を目に焼きつけてこい」
「はい、分かりました」
「君の手も、いつかあの人の手のようになる。今日はそれを学ぶ日だ」
白石はゆっくりと頷いた。扉が開き、3人は手術室の中へ消えていった。
手術は4時間を超えた。廊下のベンチで待っていたのは、患者の夫と三瀬部長だった。三瀬部長は手術中、ずっと廊下の窓から夕暮れの空を見ていた。やがて手術室の扉が開いた。最初に出てきたのは白石だった。
「無事に終わりました。黒崎先生、すごかったです」
三瀬部長は立ち上がって、その場で頭を下げた。患者の夫も、深く深く頭を下げた。白石は廊下の壁に寄りかかって、長い息を吐いた。その横顔を夕日が照らしていた。少し遅れて、黒崎と俺が手術室から出た。黒崎は白石の肩を、無言で1度だけ叩いた。
三瀬部長がそっと俺の隣に来て、小さな声で言った。
「先生、白石君の目、変わりましたね」
「ええ。あいつはやめませんよ、多分」
「ありがとうございます。本当にありがとうございます」
三瀬部長はそれ以上言葉にならず、ハンカチを目に当てた。
3ヶ月が過ぎようとしていた。俺はボストンに連絡を入れ、滞在をさらに3ヶ月伸ばすことを伝えた。チームの仲間は驚いたが、最後には「お前らしい」と笑ってくれた。カ木先生は外来を週2日に減らした。本人は不服だったが、三瀬部長と事務が折れなかった。先生は苦笑いしながら「お前たちには勝てんな」と頭を掻いていた。
ある朝、俺は病院の正面玄関に立っていた。あの日と同じレンガ色のタイル。背後から声がかかった。
「先生、おはようございます」
「白石君。おはよう。早いな」
「今日、僕が第2助手で入る日なんです。少し早めに来ました」
「そうか。落ち着いてやれ」
白石は少し照れたように笑って、玄関を入っていった。入れ違いに黒崎が出てきた。コーヒーの缶を2本持って、俺に1本差し出した。
「寒いな」
「ああ、そうだな」
「カ木先生が毎年植え替えてるんだとさ。今年は三瀬さんが変わったらしいが」
俺たちはしばらく黙ってコーヒーを飲んだ。
「山田。お前が来てくれて、よかったよ」
「俺もだ、黒崎。もう一度仕事ができてよかった」
黒崎は何も言わずに、缶を軽く当てた。ロビーの中から、看護師たちの挨拶の声が聞こえてきた。7年前のあの病院の風景が、少しずつ戻りつつあった。
俺はゆっくりと、病院の中へ歩き出した。



