「ねえ、お母さん、もうここには来ないでくれる?うんちの匂いが店に移っちゃうから」
実の娘にそう言われた瞬間、私は自分の耳を疑った。目の前には豪華なシャンデリアが輝く超高級カフェ。そしてそこには、借金で首が回らないと言って私の元を去ったはずの夫が、見たこともない若い女と腕を組んで座っていた。
私はこの一年、何のために生きてきたのだろう。夫の借金を返すため、慣れない老人ホームで泥まみれになって働き、食事は100円のカップ麺ですませる毎日。ボロボロになった私の手を見て、夫と娘は冷たく笑った。
「離婚届に判を押したのはお前だろう。もう他人なんだよ。さっさと帰れよ」
貧乏人と40年連れ添った夫の口から出たのは、あまりにも残酷な言葉だった。でも、彼らはまだ気づいていない。私が全てを知ってしまったことを。夫が流した悲劇の涙の裏側に、どれほど汚い真実が隠されていたのかを。
血の気が引くような裏切りの連続、信じていた娘の残酷な一言。どん底に突き落とされた62歳の私が最後に仕掛ける倍返しの物語――。
すべての地獄は1年前のあの夜から始まった。
玄関のドアが壊れそうなほど激しく叩かれ、怒号が響き渡る。闇金まがいの取り立て屋たちが毎晩のように家に押し寄せてきた。
「金を出さないなら、この家をめちゃくちゃにしてやるぞ」
震え上がる私をかばうように、夫の正尾はひざまずいて泣いていた。
「ごめんよし子。俺のせいでこんなことに」
正尾は40年、真面目に働いてきたはずだった。それなのに友人の保証人になったせいで、数千万もの借金を背負わされたという。
「よし子、お願いだ。たった1年だけでいい。書類の上だけでいいから、他人になってくれ」
正尾は私の手を握り、必死に訴えた。
「このままだとお前のわずかな貯金や将来の年金まで、あいつらに奪われる。お前を守るにはこれしかないんだ。俺は必ずどこかで金を稼いで、借金を全部返して戻ってくる。だから信じて待っていてくれ」
40年も一緒に歩んできた夫。苦楽を共にしてきた家族。この人を助けられるのは私しかいない。そう思い込んでしまった私は、震える手で離婚届に判を押した。
裁判所の前で正尾は私の手を強く握りしめ、こう言った。
「よし子、本当にありがとう。死ぬ気で稼いで、必ずお前を幸せにする。少しの間だけ辛抱してくれ」
その言葉を私は雲を掴むように信じていた。
それから1年。今の私の現実はあまりにも過酷なものだった。
「あ、臭い」
またおむつの中に手を入れ、鼻をつく強烈な匂いで現実に引き戻される。私が今働いているのは、都心から外れた場所にある老人ホーム。62歳。本来なら孫の顔を見てのんびりと老後を過ごすはずの年齢だ。
でも私の毎日は、認知症の高齢者のお世話と排泄物の処理に追われていた。最初は吐き気がして、ご飯も喉を通らなかった。でも今は違う。ご飯を食べながらおむつの話ができなければ、ここでは生きていけない。
「話せ、この泥棒!私の金を盗んだだろう!」
今日に限って機嫌の悪い佐藤さんが、枯れた声で叫びながら暴れている。
「佐藤さん、綺麗にしましょうね」
優しく声をかけておむつを変えようとした瞬間――パシーン。鋭い乾いた音が響いた。私の左頬が熱く晴れ上がる。佐藤さんが全力で私を叩いたのだ。目の前がチカチカし、耳鳴りがした。
情けなくて悔しくて、涙が込み上げてくる。でも私は唇を噛んで耐えた。ここで怒ったり泣いたりしたらプロじゃない。自分にそう言い聞かせ、晴れた方を隠すようにして作業を続けた。
休憩時間、私はスマートフォンの画面を見つめる。正尾の連絡先はこの1週間ずっと「おつなぎできません」という冷たい機械音が流れるだけ。「きっと取り立て屋から逃げるために電話も変えたんだわ」。不器用な人だから、きっと今もどこかの工事現場か漁村で泥まみれになって働いているはず。私はそう信じて、自分の夕飯である100円のカップ麺にお湯を注いだ。
朝に1円でも多くお金を送るため、自分の食費を削り、ボロボロの服を何度も縫い直して着る毎日。でも私は知らなかった。私がこうして正尾を想って涙を流している時、彼がどこで誰と何をしていたのか。私の人生を根底から覆す残酷なカウントダウンは、もう始まっていたのだ。
「よし子さん、今日はお嬢さんが来る日だっけ?いいわね。楽しみね」
同僚の言葉に、私は少しだけ顔をほころばせた。今日はたった一人の娘である美月が、私の安アパートに作り置きの総菜を取りに来る日。夫と別れ、家族がバラバラになってから1年。今の私にとって、美月と会える時間だけが唯一の心の支えだった。
仕事が終わると、私は急いでスーパーへ寄り、一番安い鶏肉を手に取った。自分の夕飯はカップ麺でも、娘には栄養のあるものを食べさせたい。冷たい雨が降る中、重い買い物袋を下げてアパートへと急ぐ。私の住まいは築40年の木造アパートの一室。日当たりが悪く、いつもどこかカビ臭いような場所だ。それでも美月が来ると思うと、掃除にも力が入った。
台所で汗をかきながら、美月の大好物の煮物を作る。ピンポン。玄関の電子ロックが鳴る音がした。
「美月、いらっしゃい。お疲れ様」
私はエプロンで手を拭きながら、笑顔で玄関へ駆け寄った。美月を抱きしめて、元気だったか聞きたかった。でも、玄関に入ってきた美月の表情を見て、私の動きは止まった。美月は入るなり、鼻をつまんで顔をしかめたのだ。
「ちょっと、お母さん。何この臭い。換気してよ。服に匂いがついちゃうじゃない」
「あ、ごめんね。煮物を作ってたから、すぐ窓を開けるわね」
私は慌てて扇風機を回した。地下に近い1階で、しかも古い建物だから匂いがこもるのは仕方ない。でも年頃の娘にとって、この生活は耐えがたいのだろう。
「重かったでしょう。お母さんが持つわよ」
私が手を伸ばすと、美月はさっと身を引いた。
「いいから、自分でできるから。それより座らせて。疲れてるの」
美月はどかっと、唯一の古びた椅子に腰を下ろした。よく見ると、美月は以前よりずっと綺麗になった気がする。肌はつやつやして、髪も丁寧に手入れされている。コンビニのバイトで大変だと言っていたはずだが、苦労しているようには見えない。
「美月、これ少ないけど足しにして」
私はポケットの奥から、四つ折りにした1000円札を5枚差し出した。老人ホームで夜勤を増やし、食事を削ってこつこつと貯めた5000円だ。本当はもっと綺麗な紙幣で渡したかったけれど、銀行に行く暇もなかった。
「何これ?」美月は不思議そうな顔で汚れたお札を見つめた。「お母さんだってお金ないんでしょ。いいよ、こんなの」
「いいのよ。美月だってバイト代だけじゃ足りないでしょ。美味しいものでも食べなさい」
美月は少し迷うようなそぶりを見せたが、結局その5000円をひったくるようにしてバッグの奥に突っ込んだ。
「ありがとう」
その時だった。美月が足元に置いていた紙袋がごろっと倒れたのだ。
「あ、大変。今直すわね」
私が腰をかがめて紙袋を手に取ろうとした。その瞬間――
「触らないでよ!」
美月が鋭い声を上げ、私の手をばしっと払った。あまりの激しさに、私は呆然と立ち尽くした。
「ど、どうしたの?」
「袋が倒れたから、いいから勝手なことしないでって言ってるの」
美月は慌てて床にこぼれかけた中身を袋に押し込んだ。でも、私の目は逃さなかった。その紙袋から一瞬見えたのは、百貨店のロゴが入った高級ブランドの化粧箱。私の1ヶ月の給料でも買えないような、超有名海外ブランドのマークだった。
「美月。それ、何?高そうなものに見えたけど」
美月の顔が一瞬で真っ赤になった。
「これ?ああ、友達のよ。預かってるだけ。私がお金持ってるわけないでしょ」
「でも、さっきすごく慌てて…」
「もううるさいな!お母さんって、そうやってすぐ人を疑うよね。そういうところが本当に嫌い」
美月は立ち上がり、私が作った物が入ったタッパーを見向きもせずに放置した。
「もう帰るわ。気分悪い」
「美月、おかず持っていかないの?」
追いかける私の声を無視して、鉄のドアががちゃんと大きな音を立てて閉まった。
静まり返った部屋。食卓には冷めかけた煮物が寂しく残されている。私はふと、美月が座っていた足元にきらりと光るものを見つけた。拾い上げてみると、それは黒と金の重厚なケースに入った口紅だった。キャップを開けると見たこともないような上品な色。ケースの底には、美月が友達に預かっていると言ったあの高級ブランドのロゴが刻まれていた。
友達のものをわざわざ使っているの?それとも…。不吉な予感が胸の奥でざわざわと波打ち始めた。コンビニのバイトでかつかつだと言っていた娘。借金に追われて、どこかで泥まみれで働いているはずの夫。それなのに、この豪華な口紅は何を意味しているのだろう。
私は震える手でスマートフォンを手に取り、美月にLINEを送った。「美月、口紅が落ちていたわよ。そうなものだから、今度取りに来なさい。大事に保管しておくからね」。既読はすぐに付いた。でも返信は一向に来ない。
その夜、私は同僚から「娘さんの近況、SNSで見てみたら?」と言われたことを思い出した。今までそんなものに興味はなかったけれど、同僚に教わりながらなんとか美月のSNSアカウントを探し当てた。そこに投稿されていた写真を見た瞬間、私は持っていたスマートフォンを床に落としそうになった。
「嘘…?これ、どういうこと?」
写真の中に映っていたのは、私が想像もしていなかった眩しすぎる真実だった。
震える指先で、私はスマートフォンの画面をスクロールした。同僚に手伝ってもらってようやく見つけた美月のSNSアカウント。ここに並んでいたのは、私の知らない娘の日常だった。
「何これ?美月が言っていたコンビニの深夜バイトなんて、どこにもない…」
画面の中の美月は、一枚数万円もしそうなワンピースを着て高級ホテルのラウンジでアフタヌーンティーを楽しんでいた。シャネルのバッグ、きらきら光る指輪。どこからどう見ても、生活に困っているようには見えない。
「どうして美月?お金なんてないはずじゃ…」
私は眩暈を覚えながら、さらに過去の投稿を遡った。すると、1ヶ月ほど前の投稿で私の心臓はどくんと跳ね上がった。
「パパが応援してくれたおかげで、念願のお店をオープン。明日からプレオープンです。みんな遊びに来てね」
写真には、シャンデリアが輝くまるでお城のような内装のカフェが映っていた。店の名前は「カフェ・ブラン」。場所は日本でも有数の高級住宅街、自由が丘。
「パパさんがお店を…?わけが分からない。正尾さんは今、借金から逃れるために遠い南の島の漁村で泥まみれになって働いているはず。『俺はマグロ漁船に乗る覚悟だ』なんて言っていたのに」
私はその投稿に添えられた別の写真に目をこらした。美月が豪華なシャンパングラスを掲げ、誰かと乾杯している写真だ。美月の隣に座っている人物の顔はスタンプで隠されていた。でも、グラスを持つその左手が見えた瞬間、私は冷たい水を浴びせられたような感覚に陥った。
その男の手首には、ぎらぎらと光る黄金色のロレックス。そしてその指の付け根から手首にかけて、引き攣れたような大きな火傷の跡があった。
「正尾さん…その火傷の跡、私が忘れるはずありません」
30年前、私たちがまだボロアパートで新婚生活を送っていた頃、正尾が私に美味しいラーメンを作ってあげようとして、うっかり熱湯をこぼしてしまった時の傷だ。お金がなくて病院にも行けず、私が必死に薬を塗って手当てをしたあの傷。正尾はいつもその傷を見て、「これは俺たちが貧乏を乗り越えてきた証拠だ。いつか出世してお前に金のブレスレットを買ってやるからな」と言っていた。
この思い出の傷がある手が、今は世界最高級の高級時計を巻き、借金に追われているはずの男が優雅にシャンパンを飲んでいる。
「嘘よ。嘘に決まってる」
私は混乱し、美月に電話をかけた。呼び出し音が長く続いた後、美月が面倒くさそうに出た。
「もしもし。お母さん、今忙しいんだけど」
「何よ美月。今どこにいるの?」
「仕事は…だからバイトだってば。もう切るよ」
「カフェにいるのね」
電話の向こうで、美月の息が止まるのが分かった。一瞬の静寂。それから美月の声が明らかに震え始めた。
「な、何言ってるの?そんな店知らない」
「SNSを見たわ。正尾さんがお店を出してくれたって書いてあった。あの写真、正尾さんでしょ。あの火傷の跡、お母さんが間違えるはずないもの」
すると美月は開き直ったように、低く冷たい声を出した。
「見ちゃったんだ。ああ、せっかく隠してたのに」
「美月、どういうこと?お父さんは借金で大変なんじゃ…」
「お母さんって、本当にバカだよね」
美月の口から出たのは、信じられないほど残酷な言葉だった。
「お父さんに借金なんて1円もないよ。全部、お母さんと別れるための嘘。お父さんね、宝くじじゃなくて、昔持ってた土地が数億円で売れたの」
「数億円…土地?…どういうこと?」
「そうでも、お母さんと一緒にいたら半分持って行かれちゃうでしょ。離婚の財産分与とか面倒なことになるじゃない。だからお父さんは、お母さんを追い出すためにあんな芝居をしたの」
頭の中が真っ白になった。土地が売れた。借金は嘘。私を財産分与させずに追い出すための罠だった。
「そんな…お父さんは私を愛してるって、守るって言ったのよ」
「愛してたのは、お母さんの労働力だけでしょ。お父さんはもう、お母さんみたいな古臭い女には飽きたんだよ。今は若くて綺麗な美佳さんと高級マンションで幸せに暮らしてるの」
美佳。聞いたこともない名前。私の震えが止まらない。
「お母さんには、おむつの匂いがお似合いだよ。今までご苦労様。もう2度と私たちに関わらないで。お父さんも、お母さんのことは死んだことにしてるから」
ツーツー。電話は冷たく切れた。
私はカビ臭いアパートの床に座り込んだ。私がこの1年、おむつを変え、罵倒され、頬を叩かれながら100円のカップ麺をすって耐えてきた日々は何だったのか。夫を救えると信じ、娘を想い、身を粉にして働いてきた私は、ただの便利な無料家政婦として捨てられただけだったのだ。
「許さない」
握りしめたスマートフォンがみしみしと音を立てた。涙は出なかった。ただ燃え上がるような真っ黒な怒りが、私の胸を焦がしていた。
「正尾、美月、あんたたちだけは絶対に許さない」
私は立ち上がり、ボロボロのコートを羽織った。向かう先は一つ。あのきらびやかな嘘の城、カフェ・ブランだ。
「私を地獄に突き落とした報い、たっぷりと受けさせてやるわ」
高級住宅街・自由が丘。おしゃれな服に身を包んだ人々が行き交う街角で、私は異質な存在だった。老人ホームの夜勤明けのまま、ボロボロのコートを羽織り、髪もろくに整えていない62歳の私。道行く人が汚いものを見るような目で私を避けていく。でも今の私には、そんな視線はどうでも良かった。
目の前に立つ、全面ガラス張りの白亜の建物。カフェ・ブラン。看板の金色の文字が太陽の光を反射して、私を嘲笑っているようだ。私は震える手で重厚なガラス扉を押し上げた。カランカランと上品なベルの音が鳴る。店内に漂うのは芳醇なコーヒーの香りと高級な香水の匂い。私が毎日嗅いでいるあのおむつの臭いとは別世界の空気だった。
「いらっしゃいませ…って、お母さん!?」
カウンターにいた美月が、私の姿を見るなり悲鳴を上げた。店内の客が一斉にこちらを振り返る。美月は真っ青な顔をして、慌てて私の元に駆け寄ってきた。
「何しに来たのよ。来ないでって言ったでしょ」
「美月、説明して。お父さんはどこ?ここにいるんでしょ」
私が声を絞り出すと、美月は周囲をきょろきょろと見渡し、私の腕を強く掴んで隅の方へ引きずっていった。
「やめてよ。大きな声出さないで。店の品位が落ちるじゃない」
「品位?あんた、お母さんに嘘をついてこんな店で贅沢してたの?お母さんが100円のカップ麺を食べてる間に、あんたたちはシャンパンを飲んで笑ってたの?」
すると美月ははっと鼻で笑い、私を冷たく見下した。
「しょうがないじゃない。お母さんはそういう生活がお似合いなんだから。見てよ、その手。赤切れだらけで、爪の間まで真っ黒。それにその格好。さっきから店の中に変な匂いが漂ってるんだけど、お年寄りのうんちの臭いが染みついちゃってるんじゃないの。正直、吐き気がする。そんな格好で私の店に来ないで。ここは一流のセレブが来る場所なの。あんたみたいな介護のゴミが紛れ込む場所じゃないんだよ」
実の娘の口から出た「ゴミ」という言葉。40年必死に育ててきた結果がこれなのかと思うと、足の震えが止まらない。その時、店の奥にあるVIP席のカーテンが開き、一組の男女が現れた。
「美月、何を騒いでるんだ。せっかくのティータイムが台無し…」
男の言葉が止まった。そこに立っていたのは、高級ブランドのロゴが入ったセーターを着て、ふくよかな顔をした正尾だった。その隣には、私の半分ほどの年齢であろう、モデルのような若い女がぴったりと寄り添っている。
正尾は私と目があった瞬間、嫌そうに顔を歪めた。
「なんだ、よし子か。よくここが分かったな」
「正尾さん、どういうことなの?借金は?マグロ漁船に乗るって…あの涙は全部嘘だったの?」
私が詰め寄ろうとすると、正尾の隣にいた女、美佳がくすくすと笑い声を上げた。
「キャハハ、ねえ正尾さん。このおばあさん誰?もしかして噂の前妻?想像以上にボロボロで受けるんだけど」
美佳はこれ見よがしに正尾の腕に自分の胸を押し当てた。
「やだ、正尾さん。この人すごく匂うわ。まるで腐った雑巾みたいな臭い。不潔だから早く追い出してよ。私、気分が悪くなっちゃう」
「ああ、すまないね美佳。今すぐ片付けるから」
正尾は私の方に向き直り、冷たい視線で言い放った。
「よし子、お前、勘違いするなよ。俺とお前はもう赤の他人だ。離婚届に判を押した時点で、お前には1円も受け取る権利はないんだよ。この店も俺の資産も、全部俺と新しい家族のものだ」
「新しい家族?」
「そう。俺は美佳と再婚する。美月も美佳のことを新しいお母さんとして認めてくれた。お前みたいな、加齢臭とうんちの匂いが染みついた女はもう必要ないんだよ」
正尾はポケットから財布を取り出し、1万円札を数枚、床に投げ捨てた。
「ほら。これで新しい服でも買って、2度と俺たちの前に現れるな。これは40年間の退職金だ。ありがたく受け取って、さっさと消えろ。警察を呼ぶ手間が省けるからな」
私は床に散らばったお札を見つめ、屈辱で目の前が真っ暗になった。美月も正尾も、その女も、みんなで私を笑っている。
「お母さん、早く拾って帰りなよ。そのお金でおむつでも買えば?自分用のも必要になるでしょ」
美月の笑い声が店内に響き渡った。他の客たちもひそひそと私を指さして笑っている。私は無言で床に落ちた1万円札を1枚だけ拾い上げた。そしてそれを正尾の顔に向かって、思い切り投げつけた。
「こんなもの、いらないわ」
「んだと!」
正尾が怒鳴ろうとしたその時、私は店内の全員に聞こえるような大きな声で切り出した。
「正尾さん、あんた、大きな間違いをしてるわよ。私が何も知らないと思って調子に乗ってなさい。でもね、あんたが隠している『あのこと』、私が気づいていないとでも思った?」
正尾の顔から、一瞬だけ余裕が消えた。
「な、何のことだ。はったりを言うな」
「ふふ、どうかしら。楽しみにしてなさい。あんたたちが気づき上げたこの嘘の城、いつどんな音を立てて崩れるか」
私は驚く3人を残して、堂々と店を後にした。背中で負け惜しみと美月が叫ぶ声が聞こえたが、もう怖くない。今はまだ何も言わない。でも、私の手元には彼らが決して予想もしていない切り札があった。
地獄の蓋は、今開いたばかりよ。
カフェ・ブランを飛び出した私は、冷たい雨の中を無心で歩いていた。高級住宅街の華やかな街並が、今の私には鋭いナイフのように突き刺さる。頬には正尾に突き飛ばされた時の痛みが残り、心には実の娘に投げつけられた「ゴミ」という言葉が呪いのようによみがえっていた。
40年よ。40年。尽くしてきた結果がこれなのね。気づけば私は自分の住むボロアパートの前に立っていた。鍵を開けて部屋に入ると、そこには美月が放置していったあの冷え切った煮物がそのまま残っていた。娘のためにと心を込めて作った料理が、今では惨めな私の人生そのものに見えて、私はたまらずタッパーをゴミ箱に投げ捨てた。
「う、うわぁぁん…」
私は床に突っ伏して、声を上げて泣いた。悔しくて情けなくて、体中の水分が枯れ果てるまで泣き続けた。夫の裏切り、娘の変心、若くて傲慢な女の嘲笑。全てが私という人間を否定しているようだった。
その時、静まり返った部屋にスマートフォンの着信音がけたたましく響いた。画面を見ると、美月からの着信だった。「何よ、まだ私をバカにし足りないの?」。震える指で通話ボタンを押すと、スピーカーから美月のきんきんとした怒鳴り声が飛び出してきた。
「ちょっとお母さん、さっきの捨て台詞、どういうつもり?パパがすごく気にしてるんじゃない!」
「正尾さんがどうして?やましいことがないなら、気にする必要なんてないはずでしょ」
「何言ってるのよ!パパが隠してることなんて何もないわよ。お母さんが変な因縁をつけるから、美佳さんが怖がってるじゃない。営業妨害で訴えてもいいんだからね」
美月の声は、怒りよりも焦りを帯びているように聞こえた。私は涙を拭い、低く落ち着いた声で返した。
「美月、あんた本当に、お父さんがどうやってあの金を出したのか、全部聞いてるの?」
「え、だ、だから土地が売れたって言ったじゃない。昔から持ってたあの価値のない土地が、運良く高く売れたのよ」
「ふうん。そう、本当にそれだけかしらね」
「な、何よ、その言い方。もういい。とにかくね、パパからの伝言よ。もしこれ以上店や俺たちの周辺をうろつくなら、弁護士を使って徹底的に潰す。で、あと、お母さんの働いてる老人ホームにも、あんたの素行をばらしてやるって言ってるわ」
「ホームにまで…そんなこと、パパならやるわよ。権力もお金もあるんだから。お母さんが路頭に迷おうが、その後どうなろうが、私たちには関係ないの。分かったら2度と連絡してこないで。あ、今日落とした口紅、汚いから捨てといてね。お母さんに触られたものなんてもう使いたくないから」
プツッ。一方的に電話が切れた。私は手元に残されたあの高級ブランドの口紅をぎゅっと握りしめた。冷たい金属の感触が、私の手のひらに食い込む。
彼らは本気だ。私を社会的に抹殺し、2度と自分たちの華やかな生活を邪魔させないつもりだ。40年連れ添った妻、自分を産んでくれた母。そんな絆など、数億円の金の力の前では塵に等しいのだろう。
「追い詰めるつもりね。いいわ。やってご覧なさい」
私はスマートフォンのギャラリーを開いた。そこには同僚の佐藤さんに手伝ってもらって保存した美月のSNSの写真の数々。そしてさっきカフェで隠し撮りした正尾と美佳の親密な写真が保存されていた。
私は正尾が持っていたあの土地のことを思い出そうとした。正尾は昔相続した埼玉の奥地にある土地を「あんなの、ただの雑種地のゴミだ。税金だけ取られて損してる」といつも文句を言っていた。でも、本当だろうか。あの正尾が、ただの運だけで数億円もの大金を手に入れ、わざわざ綿密な嘘をついてまで私と離婚しようとした。そこにはもっと大きな、法的にも倫理的にも許されない闇があるはず。
その時、私は以前ホームで担当していたある入居者の言葉を思い出した。不動産会社の重役を務めていたという偏屈な老人、上田さん。彼はいつも私がお世話をするたびに、自慢げに昔の仕事の話をしていた。
「よし子さん、土地の価格ってのは動く前に気配があるんだよ。特に公共事業が絡む時はね」
私は上田さんに会いに行く決意をした。今の私には味方もお金もない。でも、正尾が気づいていない私の武器が一つだけある。それは彼がゴミと呼んで見下したこの1年間の私の生活。老人ホームという、様々な人生のプロフェッショナルが集まる場所。ここには、華やかなカフェには決して出回らない本物の情報がある。
「正尾、あんた、私を捨てたことを死ぬほど後悔させてやる」
私は窓の外の闇を見つめ、静かに執念の炎を燃やし始めた。本当の戦いは、ここから始まるのだ。
翌朝、私ははれぼったい目を冷たい水で洗い、いつものように老人ホームへと向かった。美月からはホームに素行をばらすと脅されたが、怖がっていても始まらない。むしろこの場所こそが、今の私にとって唯一の反撃の拠点なのだ。
ホームに着くと、私は真っ先に4階の個室に向かった。そこには元不動産会社重役の上田さんが、窓の外を眺めて座っていた。上田さんは気難しく、他のスタッフからは敬遠されているが、なぜか私には心を開いてくれていた。
「上田さん、おはようございます。お体の具合はいかがですか?」
「ふん。よし子か。お前、今日は顔色が悪いな。何かあったのか?」
上田さんは鋭い目で私を見つめた。私は膝をつき、上田さんの手を握った。
「上田さん、お願いがあります。知恵を貸してください」
私はこれまでの経緯を全て話した。夫の正尾が借金があると嘘をついて離婚を迫ったこと。実は裏で埼玉の土地が数億円で売れていたこと。そして今では若い女と娘と一緒に、私をゴミのように扱っていること。
話を終えると、上田さんは深く椅子に背を預け、鼻を鳴らした。
「なるほどな。突飛な話だが、その正尾という男、やり方が姑息だな」
「姑息ですか?」
「ああ。よし子さん、お前はその埼玉の土地の場所を正確に覚えているか?」
「はい。正尾がいつもあんなゴミみたいな場所だと言っていたので、住所は古い手帳に控えてありました」
私はポケットからボロボロになった小さな手帳を取り出した。ここには正尾が相続した土地の番地が、私の震える文字で書き留められていた。上田さんはそれを受け取ると、老眼鏡をかけ、じっと見つめた。
「ほう。ここか。よし子さん。お前さんは運がいい」
「え?」
「この場所、3年前から大規模な道路計画の予定地になっていた場所だ。国が買い取る土地収用の対象だよ。つまり、売れるかどうかじゃなく、国が数億円で買い取ることが3年も前から決まっていた場所なんだ」
心臓がどくんと大きく波打った。
「3年前…まだ私たちが夫婦として普通に暮らしていた頃です。正尾さんは3年前から、数億円が手に入ることを知っていたんですね」
「間違いなくな。だが、普通に売却して金が入れば、お前さんに半分持っていかれる。だからあいつは、金を受け取る直前にお前さんを追い出す計画を立てたんだよ」
怒りで視界が真っ赤に染まった。正尾は数億円という大金を独り占めするために、私を借金の恐怖に落とし入れ、絶望の中で離婚届を書かせたのだ。40年の絆を、金のためにゴミのように投げ捨てた。
「上田さん、これ、法的にどうにかならないんでしょうか?」
上田さんはにやりと不敵な笑みを浮かべた。
「もちろんできる。これは単なる離婚じゃない。立派な詐欺、あるいは公序良俗に反する契約として、離婚そのものを取り消せる可能性がある。だが、一番の急所はそこじゃない」
上田さんは私の耳元でささやいた。
「よし子さん、お前さんが1年前に見たあの取り立て屋、本当に恐ろしい連中だったか?」
私はあの夜の光景を思い出した。怒号を上げ、ドアを蹴り、正尾を土下座させた男たち。怖かった。でも、今思えば、彼らは家の中のものを壊したりはしなかった。それに、正尾さんに早く判を押させろと、そればかり言っていた気がする。
「ふふっ、それだよ。あいつらは正尾の雇った役者か、仲間の誰かだ。借金なんて最初から1円もなかったんだよ。お前さんをパニックにさせて、思考能力を奪うための芝居だ」
膝の力が抜け、床に座り込んでしまった。芝居。全てが、私の善意と家族を思う心を利用した卑劣な演劇だった。私はその嘘の涙を信じて、1年間おむつを変えて働き続けてきた。
「許せない…上田さん。私、あいつらを絶対に許しません」
「いい目になったな、よし子。いいか。お前さんの武器は、俺だけじゃない。あそこの個室にいる金子さんは、元国税局の調査官だ。そして、隣の部屋にいる佐藤さんは、元人権派の弁護士だ」
私は顔を上げた。このホームには、正尾が「うんちの匂いがするゴミ」と呼んで見下した場所には、彼のような小物が逆立ちしても勝てない本物のプロたちが隠居しているのだ。
「よし子さん。お前さんは今まで俺たちに最高のお世話をしてくれた。その恩返しをさせてくれ。お前さんのことをバカにしたあの男と娘に、本当の地獄を教えてやろうじゃないか」
上田さんが差し出した、節くれだった強い手。私はその手を、今度は力強く握り返した。
「はい。お願いします」
私の胸の中で、これまでの悲しみは全て冷たく鋭い刃に変わった。さあ、正尾、美月。あんたたちが誇っているお金とプライド、私がこの場所から粉々に砕いてあげるわ。待っていなさい。本当のスカッとは、これからが本番よ。
翌日から、私の隠密活動が始まった。仕事の合間を縫って、まずは元国税局の金子さんの元へ。金子さんは私が持ってきた正尾の過去の銀行口座の控えを、鋭い眼光で見つめた。
「よし子さん、これは面白いことになってきたぞ」
金子さんは細長い指で机を叩いた。
「この男、土地の収用金を受け取る前に、不自然な現金の引き出しを繰り返している。おそらく、離婚の生活費を隠すために、ペーパーカンパニーや知人の口座に金を逃がしているな。これは立派な脱税の疑いがある」
さらに元弁護士の佐藤さんも加わった。
「偽装の借金を使って離婚を強要したとなれば、これは脅迫による意思表示の取り消しが可能だ。よし子さん、お前さんが撮ったあのカフェの写真、それから娘との通話記録。全てがパズルのピースのようにつながっていく」
心強い味方を得て、私は少しずつ自信を取り戻していった。しかし、そんな私の動きを察知したのか、あるいはただの嫌がらせか。正尾と美月が、ついに実力行使に出てきたのだ。
その日の昼下がり。ホームの玄関ホールに、異様なほど高級な香水の匂いが漂ったかと思うと、全身をブランド品で固めた美月と、その後ろで傲慢そうに胸を張る正尾が立っていた。
「ちょっと!ここによし子っていう不潔な女が働いてるでしょ。責任者を呼びなさい!」
美月の叫び声がホールに響き渡った。慌てて出てきた施設長に向かって、美月は顔を真っ赤にしてまくし立てた。
「あの女、私の店に来て大暴れしたのよ。営業妨害よ!それに、実の娘を騙してお金を巻き上げようとしてるの。こんな犯罪者まがいの女を雇っておいていいんですか?」
正尾も、これ見よがしに高級な懐中時計をいじりながら続けた。
「施設長さん。俺は彼女の元夫だがね。彼女は精神的に不安定なんだ。入居者の方々に危害を加えるかもしれない。今のうちに首にした方が、あんたのためだよ」
騒ぎを聞きつけた同僚や入居者の方々が集まってきた。私は震える拳を握りしめ、物陰からその光景を見ていた。悔しさが込み上げる。彼らは、私のたった一つの居場所さえも、嘘と悪意で塗りつぶそうとしている。
「よし子!出てきなさいよ!隠れてないで、自分のしでかしたことを謝りなさい!」
美月が私を見つけ、指を差して笑った。
「見てください、この格好。毎日うんちを触ってるような女が、私たちの神聖な店を汚したんです。施設長さん、今すぐここで解雇を言い渡してください。そうじゃないと、この施設を訴えますよ」
施設長は困惑した表情で私を見た。
「よし子さん、これは本当のことなのかね?」
私は一歩前に出た。言い返したい、怒鳴りたい。でも、佐藤さんから言われていたのだ。「敵が攻めてきた時こそ、沈黙を貫け。怒りはエネルギーとして蓄えておけ」。私は深く頭を下げ、一言も発しなかった。
その様子を見て、美月と正尾は勝ったと確信したのだろう。美月が勝ち誇ったように私の耳元でささやいた。
「ざまあ見ろ。これで明日からあんたはホームレスね。あ、そうそう。パパがね、美佳さんと入籍したの。今日からあの方が私の本当のお母さん。あんたみたいなうんち臭いババアは、一生どぶ板でも舐めてなさい」
正尾も、私の足元に唾を吐きかけるような仕草をして笑った。
「よし子、お前はもう終わったんだよ。40年も無駄な人生を送って、最後は1人ぼっちで死ぬ。それがお前に似合いの結末だ」
2人は周囲の軽蔑の視線にも気づかず、高笑いしながら去っていった。施設内には重苦しい沈黙が流れた。同僚たちの中には、美月の言葉を信じて、私を避けるように目をそらす人もいた。
私は崩れ落ちそうになるのを、必死で耐えていた。全てを失った。仕事も、信頼も、そして母親としての尊厳も。でも、その時、私の肩に温かく力強い手が置かれた。
「よし子、いい芝居を見せてもらったな」
振り返ると、そこには車椅子に乗った上田さんと、金子さん、佐藤さんの3人が並んでいた。上田さんは去っていく2人の背中を睨みつけながら、にやりと笑った。
「あいつら、自分から地獄の入り口を全開にして帰りやがった。ふっ、施設長。今の騒ぎ、防犯カメラに音声付きでしっかり録画されているな?」
佐藤さんが鋭い声で施設長に問いかけた。施設長は少し震えながらも頷いた。
「あ、はい。ばっちり撮れています」
「よし。美月と言ったな。名誉毀損、営業妨害、さらには不当な解雇の強要。これだけの証拠があれば、慰謝料だけで数百万は硬い。そして正尾。あいつが自慢に持っていたあの懐中時計、あれは隠し財産で買ったものだろう。金子さん、出番だ」
金子さんは不敵な笑みを浮かべて頷いた。
「ああ、税務署への匿名通報の準備は整った。あそこまで派手に宣伝して回れば、調査官が食いつくぞ」
私はようやく呼吸ができるようになった気がした。夫も娘も、私を潰したつもりで得意になっている。でも、彼らが踏みにじったこの老人ホームこそが、彼らを破滅させるための巨大な罠になっていることに、まだ気づいていないのだ。
「よし子、反撃の準備はいいか?」
上田さんが私を見上げた。私は涙を拭い、今までで一番強い意思を込めて答えた。
「はい。あいつらが持っているもの、全て奪い取ってください」
本当の逆転の幕が上がった。
正尾がホームに乗り込んできてから3日が経った。彼らは私が首になったと思い込み、ほくそ笑んでいるのだろう。美月のSNSには、新しい母親の美佳と正尾の親子3人で高級フレンチを楽しむ写真がアップされていた。
「ようやく厄介払いができて最高の気分。これからは本物のセレブ家族として歩んでいきます。お母さん、これからもよろしくね」
その投稿を見て、私は静かに拳を握った。本物の家族?笑わせないで。40年分の私の人生を奪い取り、その上に築いた幸せなんて、砂の城にすぎないのだから。
実際、私は首になっていなかった。それどころか、施設は「よし子さんは今まで誰よりも熱心に働いてくれた。あんな心ない言葉を信じるわけがない」と、全面的に私の味方をしてくれたのだ。
「よし子さん、準備は整ったよ」
休憩室に集まった最強の助っ人たち。元不動産の上田さん、元国税局の金子さん、元弁護士の佐藤さん。彼らの前には数枚の書類と1台のノートパソコンが置かれていた。
「よし、まずはこれからだ」
佐藤さんがある書類を私に見せた。
「正尾が買ったのカフェ・ブラン、もとビル。あそこのオーナーは私の古い知人でね。正尾が契約時に提出した資産証明書に、重大な不備があることが分かった」
「不備ですか?」
「ああ。あいつは土地の収用金が入ることを確信して、まだ自分の手元にない金を確定した資産として偽って申告していたんだ。これは明らかな契約違反。オーナーは激怒しているよ」
さらに金子さんが不敵な笑みを浮かべた。
「脱税の件も順調だ。正尾の銀行口座から引き出された多額の現金。あいつはそれを『借金の返済に当てた』と嘘をつくつもりだったんだろうが、その金の流れを追ったら、美佳という女の隠し口座に行き着いた。贈与税の未申告並びに資産隠し。近日中に、税務署の調査が入るだろう」
私は鳥肌が立つのを感じた。私が1人で泣き寝入りしていたら、決してたどり着けなかった真実。プロの力によって、正尾の嘘の城が少しずつ剥がれ落ちていく。
その時でした。私のスマートフォンに一通のメッセージが届いた。差出人は正尾だった。
『よし子、みじめに暮らしているか?来週、俺と美佳の結婚パーティーをカフェ・ブランで開く。お前みたいな貧乏人には一生縁のない華やかな宴だ。一応、40年の縁に招待状を送ってやる。来てもいいが、入口で警備員に追い出されないよう、せめて清潔な服を着てくるんだな。まあ、うんちの匂いがするお前には、外から指を加えて見てるのがお似合いだが』
メッセージには、豪華な招待状の画像が添えられていた。パーティーのドレスコードは「ホワイト&ゴールド」。成功者の証を誇示するかのような、あまりにも傲慢な招待だった。
「よし子さん、どうした?」
上田さんが尋ねた。私は黙って正尾からのメッセージを見せた。佐藤さんは鼻で笑い、上田さんは椅子を叩いて激怒した。
「あのクソ野郎!どこまでよし子さんを侮辱すれば気が済むんだ!」
しかし、金子さんだけは眼鏡をきらりと光らせて言った。
「絶好の機会じゃないか。ふっ、向こうから舞台を用意してくれたんだ。あいつらが最も得意絶頂にいるその瞬間、招待されたセレブや客人の前で、あいつらの化けの皮を剥いでやる。これ以上の復讐はないぞ」
佐藤さんも頷いた。
「よし、よし子さん、その招待状、受けてやりなさい」
「でも、私、あんな華やかな場所へ行けるような服も自信もありません」
私が弱気になると、上田さんがぐっと私の肩を掴んだ。
「バカを言うな。お前を誰だと思ってる?この30年間、あのクソ男を支え続けてきた本物の功労者だぞ。服なら心配するな。俺たちには金と人脈がある」
上田さんはどこかへ電話をかけ始めた。
「もしもし、私だ。一級品のドレスと腕利きの美容師を用意しろ。モデルを1人、最高に輝かせるんだ。経費はいくらでも出す」
金子さんも続ける。
「私はパーティーの出席者名簿を洗う。正尾を支援している投資家たちに、あいつの正体を記した資料を事前に送っておく」
そして佐藤さんは私に一枚の切手を差し出した。
「私は法的手段を完結させる。パーティーの当日、あいつらが最も絶望するタイミングでプレゼントを届けるよ」
私は3人の熱い思いに打たれ、何度も深く頭を下げた。もう迷いはない。正尾に投げつけられた「退職金」の1万円。その何万倍、何億倍もの代償を、あいつらに支払わせてやる。
「よし子さん。最後に一つ、これを預かっておいてくれ」
上田さんが渡してくれたのは、小さなICレコーダーだった。
「あいつらは必ず、自分から罪を自白する。その傲慢さが、あいつらの命取りだ」
1週間後。自由が丘のカフェ・ブランは、光の海に包まれようとしていた。そこには、私が今まで見たこともないような凛とした美しさを纏ったよし子が現れることになる。
正尾、美月。あんたたちが誇るその白いドレスが、私の怒りで真っ黒に染まるのを楽しみにしていなさい。
結婚パーティーまであと3日。自由が丘のカフェ・ブランでは、美月がピリピリとした空気の中で従業員を怒鳴り散らしていた。
「ちょっと!このクロスの折り目、もっとキッチリしてって言ったでしょ。パパと美佳さんの晴れ舞台なんだから、完璧にやりなさいよ!」
美月は焦っていた。実はここ数日、店の周囲で嫌なことが続いていたのだ。保健所の抜き打ち検査が入ったかと思えば、今度は消防署から設備の不備を指摘され、さらには銀行の担当者から「資産状況の再確認をしたい」という不穏な電話がかかってきていた。
「何なのよ、もう。全部あのうんち力ババアの呪いなんじゃないの?」
そこへ、豪華な毛皮を羽織った美佳が、大量の買い物袋を下げて入ってきた。
「美月ちゃん、見て見て!パーティー用の2次会のドレス。150万もしちゃった。でも、正尾さんが『美佳の好きなものを買え』って言ってくれたから、遠慮なく買っちゃったわ」
「美佳さん、ちょっと買いすぎじゃない?パパもさっき電話で誰かと怒鳴り合ってたし。なんだか様子がおかしいのよ」
「え、大丈夫よ。正尾さんには数億円もあるんだから。あんなボロ雑巾みたいな前妻と別れて、ようやく自由になれたんだもん。パッと使わなきゃ損よ」
2人がそんな会話をしていると、奥の事務所から正尾が顔を真っ赤にして飛び出してきた。
「くそっ!どういうことだ?あのジジイども!」
「パパ、どうしたの?」
「土地の収用金の支払いが一時停止されたんだ!何者かが所有権の正当性について異議を申し立てたらしくてな。そのせいで、銀行からの融資もストップだ。このままだと、パーティーの支払いどころか、来月のビルの賃料も危ない」
「え、そんなの誰が…」
美月の頭に、あの日の私の顔が浮かんだ。老人ホームで一言も発さず、ただ静かにこちらを見つめていた。不気味なほど落ち着いた、私の目が。
「まさか、お母さん…?」
「あんな、機械音痴で世間知らずのババアに、そんな高度なことができるはずないわ」
「あ、あの女にそんな知恵があるわけがない。きっと、俺を妬んでいる同業者の嫌がらせだ。よし子なんて、今頃ホームを首になって、公園の炊き出しにでも並んでるだろうよ。がはは」
正尾は自分に言い聞かせるように笑ったが、その手はわずかに震えていた。
そこへ、追い打ちをかけるように一通の封筒が届いた。差出人は、なんと国税局だった。
「国税?なんで俺のところに?」
「パパ。それ、例の隠し口座のことじゃないでしょうね」
「バカを言え。あんなのバレるはずがない。とにかく、パーティーは予定通りやるぞ。ここで中止にしたら、投資家たちに見限られる。金なら、どこからでも工面してやる」
焦りに駆られた正尾たちは、まだ気づいていなかった。彼らの足元には、すでに取り返しのつかないほどの巨大な亀裂が入っていることを。そして、彼らがバカにしていた前妻が、彼らが決して足を踏み入れることのできない特等席で、自分たちを待ち構えていることを。
一方その頃の私は、背筋を伸ばして鏡の前に立っていた。
「よし子さん。お前さんは今日、誰よりも気高く美しい、復讐の女神になるんだ」
上田さんの声が響く中、私は最高級のシルク素材のドレスに身を包んでいた。一流の美容師によって整えられた髪、上品ながらも力強いメイク。鏡の中に映っていたのは、おむつを変えて泥まみれになっていた、あのよし子ではなかった。
40年間、家族のために自分を押し殺して生きてきた。その抑圧されてきたエネルギーが、今、静かな怒りの輝きとなって、私の全身を満たしていた。
「よし子さん。正尾が投げた1万円札、あいつの顔に叩きつける準備はいいか?」
金子さんが私の手元にあるものを差し出した。
「はい。もう一歩も引きません」
私の手には、正尾の嘘を、おかまいなしに破壊する決定的な証拠が握られていた。
いよいよパーティー当日。華やかな自由が丘の夜が、彼らにとっての処刑場に変わる時が来た。
さあ、地獄のパーティーへ。主役の登場だ。
自由が丘の夜。カフェ・ブランはまばゆいばかりのライトアップに包まれていた。店内に一歩足を踏み入れれば、ドレスアップしたセレブたちがシャンパングラスを片手に談笑し、最高級の料理がテーブルを彩っている。
パーティーの主役、正尾と美佳は、ドレスコード通りの純白の衣装に身を包んでいた。正尾は1年前の惨めな姿が嘘のような、仕立てのいい白いスーツ。その隣で美佳は、数百万はするであろうウェディングドレスを身にまとい、勝ち誇ったような笑みを浮かべている。
「皆様、本日はお集まりいただきありがとうございます」
正尾が壇上に上がり、マイクを握った。
「私はかつて、無一文にも莫大な借金を背負い、どん底を味わいました。しかし、不屈の精神と、ここにいる娘の美月、そして愛する美佳の支えによって、再びこの成功の舞台に立つことができたのです。これこそが、真の愛の力です」
パチパチパチ。大きな拍手が湧き起こる。
「パパ、最高!」
美月も華やかなドレス姿で、最前列から声援を送っていた。正尾は調子に乗り、さらに言葉を続ける。
「ちなみに、以前の妻は私の苦労を知るなり、自分だけ逃げるように離婚届を置いて出ていきました。金のない男には用がないというわけですな。はっはっは」
会場に失笑が漏れる。
「嫌だわ。ひどい奥さんね」「やっぱり苦労を共にするのは、今の若くて綺麗な奥様じゃないとね」
そんな無責任な声が、正尾たちの自尊心をさらに満たしていく。
その時だった。カツン、カツン、カツン。会場の入口から、静かだけれど力強いヒールの音が響いた。ざわついていた会場が一瞬で静まり返る。全員の視線が入口の扉へと注がれた。
そこに立っていたのは、一人の女性だった。深いネイビーのシルクのドレスをまとい、首元には上品なパールのネックレス。一流のプロによって施されたメイクは、彼女の持つ真の強さを際立たせていた。凛とした立ち姿、迷いのない眼差し。その圧倒的なオーラに、会場の誰もが「どこかの名門の夫人か、大企業の重役か」と息を飲んだ。
「え、誰?あの人…」
美佳が不安そうに正尾の袖を引いた。正尾も目を細めて、その女性を凝視した。
「見覚えがあるような…いや、まさか。あんな綺麗な女、知るはずが…」
美月だけが、その女性の顔を見て、持っていたグラスを床に落とした。パリン。高い音が静寂を破る。
「お母さん…!」
その一言で、会場に衝撃が走った。正尾が椅子から転げ落ちそうになり、美佳は「えっ」と叫んで顔を歪めた。
「よし子、お前…!何なんだ、その格好は!どこからそんな服を盗んできた!」
正尾が壇上から指を差して怒鳴った。私はゆっくりと、一歩ずつ壇上へと近づいた。招待客が割れて道を作る。私の目は、ただ一人だけを捕えていた。
「招待状を頂いたから、伺ったのよ。正尾さん。素晴らしいパーティーね」
「ふ、ふざけるな!警備員!警備員は何をしてる!この不潔なうんちババアを早く追い出せ!」
美月が発狂したように叫んだ。
「皆様、騙されないで!この女はただの介護士のゴミなんです!私のパパを貶めに来た、薄汚い前妻なんです!」
会場がざわつく。
「え、あの美しい人が、さっき正尾さんが言っていた『逃げた妻』なの?」「でも、全然雰囲気が違うじゃない」
私は美月の罵声を無視して、バッグから一台のスマートフォンを取り出し、会場の大型スクリーンに接続した。
「皆様、主役の正尾さんは、私との離婚を『愛の力で乗り越えた成功物語』として語っていらっしゃいますが、その裏にある真実を、少しだけお見せしたいと思います」
「やめろ!何をする、よし子!」
正尾が顔を真っ赤にして寄ってこようとしたが、客席に座っていた一人の老人、上田さんがすっと杖を突き出して正尾を制した。
「座れ、正尾君。主役の退場には、まだ早いぞ」
「う、上田先生…?なぜ、あなたがここに?」
正尾は、かつての仕事の取引相手であり、政財界に顔の利く上田さんの姿を見て、凍りついた。
スクリーンに、一枚の古い図面と、最近の土地収用通知書が大きく映し出された。
「正尾さん、あんた、3年前から知っていたわよね。埼玉のあの土地が、国によって数億円で買い取られることが決まっていたのを」
会場から、「え、数億円?」とどよめきが起こる。
「そして、そのお金を一人占めするために、あんたは『借金』という役者を雇って私を脅し、錯乱させて離婚届を書かせた。これがあんたの言う成功物語の正体よ」
さらに、画面が切り替わった。そこには、正尾が借金返済と偽って、美佳の口座に多額の現金を送金している証拠資料がびっしりと並んでいた。
「よ、よし子。これ、どこで…?」
「あんたが『うんちの匂いがする』と言ってバカにした、私の職場。そこにね、あんたが一生かかっても勝てないような、本物の正義の味方がいたのよ」
私はマイクを握り直し、震える手で正尾を見上げた。
「正尾さん、あんたの嘘はもうおしまい。さあ、皆様の前で説明して。あんたが隠している4億円の行方と、私にした卑劣な芝居の数々を」
正尾の顔から、血の気が一気に引いていった。
「4億円…!そんなの聞いてないわよ!」
美佳がめまいを起こして騒ぎ出し、美月はがたがたと震えて腰を抜かしている。会場の視線が、憧れから軽蔑へと変わった瞬間だった。
でも、これはまだ序章よ。地獄のパーティーは、ここからが本番。
会場内は、蜂の巣をつついたような騒ぎになった。スクリーンに映し出された隠し口座のリストと、土地収用の証拠。正尾が語っていた美談は、一瞬にして醜い詐欺事件へと塗り替えられたのだ。
「な、なんだこれは!?嘘だ!全部、でたらめだ!」
正尾は壇上で顔を引きつらせて叫んだ。
「よし子、貴様!こんな巧妙な合成写真を作って、俺を落とし入れようってのか!」
私は何も答えなかった。ただ静かに、冷ややかな視線を正尾に向けるだけ。この沈黙こそが、今の私にとって最大の武器だった。何も言わなくても、スクリーンの証拠が雄弁に真実を語っているからだ。
「パパ、どうにかしてよ!お客様がみんな変な目で見てるじゃない!」
美月が泣き叫びながら、正尾の腕を掴んで揺さぶった。
「お母さん、もうやめて!私のお店なのよ!営業妨害で訴えるわよ!」
美月は客席に座る有名投資家やセレブたちの顔色を伺い、必死で弁解して回った。
「皆様、信じないでください!母は精神を病んでるんです!貧乏生活が長すぎて、パパの成功を妬んでるだけなんです!」
しかし、招待客たちの反応は冷ややかだった。
「いや、あの書類、本物じゃないか」「国税の調査資料みたいなマークが入ってるぞ」
その時、美佳がヒステリックな声を上げた。
「ちょっと正尾さん!4億円って何よ?私には『1億円』って言ったから、その金で店を出したって言ったじゃない。残りの3億円は、どこに隠してるのよ!?」
美佳の言葉に、会場が凍りついた。
「おい、美佳!今、そんなことを言ってる場合か!」
正尾が慌てて美佳の口を塞ごうとしたが、もう遅すぎた。自ら隠し金があることを、認めてしまったのだ。
「話してよ、あんた!私を騙してたのね!前妻を追い出すために、私を利用しただけなの?4億もあるなら、もっと高い宝石を買ってくれたっていいじゃない!この嘘つき!」
美佳は正尾の胸ぐらを掴み、激しく揺さぶった。純白のドレスが乱れ、髪もボロボロ。成功者の花嫁の面影は、どこにもなかった。
「警備員!警備員を呼べと言ってるだろう!」
正尾が絶叫したその時、会場の入口から三人の男性がゆっくりと歩み寄ってきた。一人は車椅子の上田さん。そして、金子さんと佐藤さんだ。
「警備員を呼ぶ必要はないぞ、正尾君。我々が、本物の警備役を連れてきたからな」
上田さんが不敵に笑った。
「な、何なんだ、あんたたちは!あの老人ホームの…!」
正尾は、自分が「ゴミ」と呼んだ場所の入居者たちが現れたことに、激しく動揺した。
「ご紹介しよう。こちらは元国税局調査官の金子さん。そして、元人権派弁護士の佐藤だ」
上田さんが誇らしげに2人を紹介した。会場の空気が、さらに引き締まる。
「正尾さん。あなたの資産隠しと贈与税の未申告については、すでに当局に資料を提出済みです。今、この店の外には、本物の税務署の方々が待機していますよ」
金子さんが懐からバッジを取り出すような仕草で告げた。
「そ、そんなバカな…!」
正尾は壇上で、がくりと膝をついた。
「さらによし子さんに対する詐欺的な離婚誘導についても、訴訟の準備は完了しています」
佐藤さんが、分厚い書類の束を正尾に突きつけた。
「離婚届の取り消し並びに、40年間の財産分与の正当な請求。あなたが隠し持っている4億円、その半分…いえ、慰謝料を含めて、ほぼ全てをよし子さんに支払っていただくことになります」
「全てだと…?」
正尾の顔が、土色に変わった。
「嘘よ!そんなのありえない!」
美月もがたがたと震えながら、その場に座り込んだ。
「私のお店はどうなるの?パパのお金で建てたのよ!私の夢なのよ!」
美月が私にすがりつこうとしてきたが、私はその手を冷たく振り払った。
「美月。あんた、さっき私のことを『ゴミ』と言ったわね。でも、ゴミだったのは私じゃない。金のために親を捨て、嘘に加担した、あんたたちの方よ」
私は、正尾から投げつけられていた1万円札を取り出した。そしてそれを、床にひざまずく正尾の頭の上から、静かに落とした。
「これ、返すわね。あんたの言う『退職金』。これからは、あんたがこの1万円を握りしめて、どん底の生活を味わう番よ」
会場からは、正尾たちへの激しい罵声が浴びせられた。しかし、これで終わりではない。
「よし子さん。まだ、とっておきのプレゼントがあるぞ」
上田さんが、にやりと笑った。正尾たちが本当の絶望を知るのは、ここからだったのだ。
「プレゼント…?これ以上の嫌がらせがあるっていうのか!」
正尾は震える声で叫んだ。壇上の正尾は、もはや成功者の面影などみじんもない。純白のスーツは美佳との揉み合いでしわだらけになり、額からは脂汗が滝のように流れ落ちている。
「嫌がらせ?いや、これは正当な権利の行使だよ」
佐藤弁護士が、鞄から一通の赤い封筒を取り出した。
「君はあの埼玉の土地を売却した際、よし子さんの同意を得たと偽って、書類を偽造したね」
正尾の顔が一瞬でどす黒く変色した。
「な、何を言う!あれは俺が相続した土地だ!俺の好きにして何が悪い!」
「確かに相続したのは君だ。だが、あの土地の維持費や固定資産税、さらには収用のための交渉費用。これら全てを、この40年間、よし子さんのパート代や内職の稼ぎから支払っていたという記録が残っている。つまり、実質的にはあの土地は2人の共同財産なんだよ」
会場から、「当たり前だわ」「ひどい男ね」とよし子への同情の声がさらに強まる。
「そして、最大の事実はこれだ」
佐藤弁護士がスクリーンの映像を切り替えた。そこに映し出されたのは、正尾が土地を売却した際、よし子の署名を真似て書いたという偽造文書のコピーだった。
「よし子さん、あなたはこの書類にサインをした覚えはありますか?」
私はゆっくりと首を振った。
「いいえ。そんな書類、見たこともありません。その時期、私は正尾さんに『借金が来るから隠れてろ』と言われて、親戚の家に押し込められていましたから」
会場に、冷たい静寂が流れた。
「正尾君。君がやったことは、単なる資産隠しじゃない。有印私文書偽造並びに同行使。立派な刑事罰の対象だ。さっき、金子さんが外に税務署の人がいると言ったが、実はもう一人、警察の方も同行しているんだよ」
「け、警察?高が離婚の揉め事で、警察が出るわけがないだろう!」
「いいや、出るんだよ。君がよし子さんを騙して書かせた財産分与放棄の確約。あれも、脅迫と詐欺によって書かされた無効なものだと認定された。つまり、君が隠している4億円。そしてこの店の資産。全ては現在、不正取得として差し押さえの対象になっているんだ」
その瞬間、店の入口から数人のスーツ姿の男女が入ってきた。彼らは迷いのない足取りで正尾へ向かうと、呆然と立ち尽くす正尾の前に立った。
「金山正尾さんですね。土地売却に関する文書偽造並びに多額の脱税の容疑で、同行をお願いします」
「う、嘘だ…!嘘だ!」
正尾の絶叫が、高い天井に虚しく響いた。招待客たちは、汚いものを見るような目で正尾を避け、会場から逃げ出すように立ち去り始めた。残されたのは、崩れ落ちた正尾と、顔を引きつらせた美月、そしてパニック状態の美佳だけだった。
「ちょっと!差し押さえってどういうことよ!」
美佳が刑事に向かって食ってかかった。
「このドレスも、私の指輪も、正尾さんからもらった私のものよ!返さないわよ!」
「残念ながら、それらの購入資金もよし子さんから騙し取った金である可能性が高いため、証拠品として一時回収となります」
刑事が淡々と告げると、美佳は「きゃあ!」と叫びながら、その場に倒れ込んだ。
そして、美月。美月は自分が「ゴミ」と呼んだ私が、今や誰よりも高い場所に立ち、自分を見下ろしていることに耐えられないようだった。
「お母さん、ごめんなさい!私が悪かったわ!お願い!パパを許してあげて!この店がなくなったら、私、生きていけない!私、お母さんのことが大好きなの!あの時は、パパに騙されて、仕方なく言ったのよ!」
美月が私のドレスの裾にすがりついて、泣き始めた。つい数日前、「うんちの匂いがするから来るな」と言い放ったその口で、今度は「大好きだ」と。私は美月の頭を優しく撫でようとして、その手をすっと引っ込めた。
「美月。あんた、さっきの美佳さんの姿、よく見ておきなさい。本当のゴミがどういう姿をしているか。あんたが誇っていたこのカフェ・ブラン。今日から、ここがどうなるか知ってる?」
美月は涙目で私を見上げた。
「ここは、本当のオーナーに返却されることになったの。そして、そのオーナーから次の運営を任されたのは…」
私は会場の隅で静かに微笑んでいる施設長を見た。
「私よ」
美月の時が止まった。
「ここは、今日からお年寄りやそのご家族が心から安らげるための『ケアカフェ』として生まれ変わるわ。あんたみたいに、金と見えぼんしか頭にない娘が立つ場所じゃないの」
私は、警官に連行されていく正尾の背中を、一滴の涙も流さずに見送った。40年の月日が、音を立てて崩れ去っていく。でも、不思議と心は晴れやかだった。
「よし、よし子さん。これで一件落着だな」
上田さんが車椅子を回して、私の隣に来た。
「いいえ、上田さん。これからですよ」
私は震える手でマイクを置いた。
正尾、美月、そして美佳。彼らがこれから味わう本当の地獄は、お金を失うことだけではない。自分たちがバカにして踏みにじった「弱者」の力によって、社会的に抹殺されるという究極の屈辱。逆転劇は、ここから最高のクライマックスへと向かう。
「連れて行け」
刑事のその一言で、正尾の腕に冷たい手錠がかけられた。カチャリ。乾いた金属音が、静まり返った店内に響き渡る。それは、正尾が40年かけて築き上げてきた嘘の城が、完全に崩壊した合図だった。
「話せ!俺には4億あるんだ!弁護士を呼べ!金ならいくらでも払ってやる!」
正尾は往生際悪く床を蹴って暴れた。しかし、その姿はもはや哀れでしかない。自慢だった白いスーツは涙とよだれで汚れ、成功者のプライドはズタズタだ。
「ふうっ。まだそんなことを言っているのか」
佐藤弁護士が、哀れみの視線を正尾に向けた。
「正尾君。君の口座は全て凍結された。土地の収用金も、不正な手続きが判明したため、国が没収の手続きに入っている。さらに、君がこの1年で使い込んだ数千万。あれはよし子さんの共有財産の使い込みだ。君に残されたのは、莫大な借金と、刑務所だけだよ」
正尾は口をぱくぱくさせ、魚のようにあえいだ。
「ふ…ふ、そんな嘘だろ…」
その時、美佳がヒステリックに笑い出した。
「あはは!負債?冗談じゃないわよ!金がないなら、こんな男と一緒にいる意味なんてないわ!刑事さん、このドレス、あげるわよ!指輪も持っていきなさいよ!その代わり、私をここから出して!こんなうんちみたいな男、知ったこっちゃないわ!」
美佳は、さっきまで愛を誓っていた正尾の顔に、脱ぎ捨てたハイヒールをなじりつけた。
「最低!詐欺師!私の時間を返してよ!」
罵声を浴びせながら、美佳は警官に引きずられるようにして連行されていった。金がなくなれば愛も消える。あまりにも浅ましい、偽物の家族の末路だった。
そして、床に泣き崩れる美月。美月は私の足首を掴み、必死に訴え続けた。
「お母さん!信じて!私はパパに利用されてただけなの!本当はお母さんのこと尊敬してたのよ!おむつを変えてるお母さんの手、かっこいいって思ってたの!」
「嘘を吐きなさい」
私は低く冷たい声で遮った。
「あんたは私に『ゴミ』と言った。『お母さんの匂いが店に移る』と言った。あんたが守りたかったのは、私じゃない。お父さんから与えられる、きらびやかで楽な生活だったんでしょう」
「違うわ!そんなこと…」
「いいえ。あんたはね、自分の母親が100円のカップ麺を食べて耐えていることを知っていた。知っていて、美佳さんとフレンチを食べて笑っていた。それがあんたの本性よ。もう、私を『お母さん』と呼ばないで」
私が冷たく言い放つと、美月の顔から憑き物が落ちたように表情が消えた。そして、今度は鬼のような形相で私を睨みつけたのだ。
「何よ、急に偉そうに!ちょっと金が入るからって、調子に乗らないでよ!あんたみたいなババアが、一人で生きていけるわけないじゃない!せいぜい寂しくのたれ死になさいよ!」
美月の本性が、むき出しになった。私はその醜い姿を見て、ようやく心の呪縛が解けた気がした。こんな娘のために、今まで泣いてきた自分が馬鹿らしくなったのだ。
「よし子さん、もう行こう」
上田さんが優しく声をかけてくれた。
「はい」
私は、正尾たちが連行されていく背中に向かって、最後の一言を投げかけた。
「正尾さん、美月。あんたたちがバカにした『うんちの臭い』。実はね、このホームの入居者の皆さんがあんたたちの不祥事を暴くために、自分のコネクションを総動員してくれたの。あんたたちが『ゴミ』だと笑った人たちの力で、あんたたちは全てを失ったのよ。それを、一生牢屋の中で思い出しなさい」
正尾は絶望に顔を歪め、美月は言葉を失って立ち尽くした。豪華なシャンデリアが輝くカフェ・ブラン。いなくなった店員も客もいない、静まり返った店内で、私は大きく深呼吸をした。鼻をつく高級香水の匂いも、もうない。あるのは、戦い抜いた後のすがすがしい空気だけだった。
さあ、ここからは私の時間です。
1ヶ月後。自由が丘のあの場所には、新しい看板が掲げられていた。
「ケアカフェ・よし子」
かつてのカフェ・ブランの、人を嘲笑するようなきらびやかさは、もうない。温かみのある木の家具が並び、窓辺には季節の花が飾られ、店内にはお年寄りから子供まで誰もがほっとできるような、穏やかな音楽が流れている。そして何より、そこには最高のコーヒーの香りと、手作りの焼き菓子の匂いが満ちていた。
「よし子さん、お疲れ様。今日も大盛況だね」
車椅子で店を訪れた上田さんが、嬉しそうに目を細めた。
「上田さん、いらっしゃいませ。おかげ様で、ホームの入居者の方々も、ここに来るのを毎日楽しみにしてくださってるんですよ」
私は仕立ての良いエプロンを着け、明るい笑顔で答えた。正尾から取り戻した4億円の半分…いえ、慰謝料や賠償金を含めた正当な取り分は、全て私の口座に振り込まれた。私はそのお金を、自分の贅沢のためではなく、このカフェとホームの設備の充実のために使うことに決めたのだ。
今の私は、100円のカップ麺をすする生活とは無縁だ。でも、贅沢品を買いあさることもない。自分の力で誰かを笑顔にする。その喜びに勝る贅沢はないと、ようやく気づけたからだ。
その時だった。カランカラン。入口のベルが鳴った。入ってきたのは、ボロボロのサンダルを履き、何日も洗っていないようなベタついた髪の女性。かつての華やかな面影はみじんもなく、痩せこけて顔色も最悪の美月だった。
「お母さん!お願い、助けて!私、もうダメなの…!」
美月は私の姿を見るなり、すがるような目で駆け寄ってきた。カウンターに突っ伏して、一目もはばからず泣き出した。
「あの後、お店の借金が全部私に回ってきて、パパの隠し資産も全部差し押さえられて、住んでたマンションも追い出されたの。今は1泊1500円のドヤ街みたいなところに泊まってるけど、もうお金が底をついたわ…」
美月の体からは、独特の酸っぱい匂いが漂っていた。かつて私のことを「匂い殿の知った娘」と笑った娘が、今や誰よりも強い貧乏の匂いをまとっている。あまりにも皮肉な光景だった。
「お母さん、ここ、私のお店だった場所でしょ。お願い、ここで働かせて!私、心を入れ替えて頑張るから!うんちの掃除だって、何だってやるから!」
美月の言葉に、客席のお年寄りたちが眉をひそめた。上田さんは鼻で笑い、佐藤弁護士は静かにコーヒーを飲み続けている。私は、美月の汚れた手をそっと見つめた。
「美月。あんた、私の手を『ゴミ』と言ったわね。でもね、この手があったから、あんたは今まで不自由なく暮らしてこれたのよ。おむつを変えて、泥にまみれて働いて。その労働の臭いをバカにするような人に、この神聖な場所で働く資格なんてないわ」
私は、美月の目の前に、一杯の冷たい水を置いた。
「これ、差し上げるわ。飲んだら、すぐに帰りなさい。あんたの居場所は、ここにはないの」
「お母さん!冷たいこと言わないでよ!実の娘じゃない!あんた、お金持ってるんでしょ?数億あるんでしょ?少しくらい分けてくれてもいいじゃない!」
本性が出た。結局、美月が求めているのは、私ではなく私の持つお金だったのだ。
「美月。あんた、さっき『自分の分のおむつが必要になるでしょう』って私を笑ったわね。その言葉、そのまま返すわ。あんたがこれから歩む道は、誰にも助けてもらえない、孤独で過酷な道よ。自分の犯した罪を、一生かけて償いなさい」
「警備員さん、この方を外へ」
「やめて!話してよ!このうんちババア!あんたなんて、死んじゃえばいいのよ!」
美月は叫びながら、警備員に引きずり出されていった。その姿を見て、私はただ静かに目を閉じた。悲しみはない。ただ、これで本当に私の40年が終わったんだなという、確かな手応えだけがあった。
「よし子さん。正尾の方も、判決が出たよ」
数日後、佐藤弁護士が新聞の切り抜きを見せてくれた。
「有印私文書偽造、同行使、並びに所得税法違反。懲役3年の実刑判決だ。『刑務所の中でも、俺には4億あるんだ』って、自慢して暴れてるらしいよ。自分を騙していた美佳にも面会を拒否され、弁護士費用も払えず、国選弁護人に事を投げられたそうだ」
「正尾。あんたが一番愛していたお金。そのお金に裏切られ、暗い牢獄の中で孤独に過ごす毎日。それこそがあんたに、最もふさわしい罰よ」
私はスカッとした。本当に、心から。窓から差し込む太陽の光を浴びた。自由が丘の町は、今日も輝いている。でも、今の私が見ている輝きは、あの頃の嘘の輝きではない。どん底から自分の足で立ち上がり、信じるべき仲間を見つけ、自分を取り戻した。62歳、私の人生、最高の春がやってきた。
さて、物語は最後の一幕。私に訪れた、予想外の幸せな結末をお話ししましょう。
「よし子さん、このアップルパイ、絶品だね。亡くなった家内が作ってくれた味にそっくりだ」
穏やかな午後の光が差し込む店内で、上田さんが目を細めて笑った。
「ありがとうございます、上田さん。隠し味に、少しだけ愛情を多めに入れておきましたから」
私は焼きたてのパイを運びながら、心からの笑顔を返した。あれから半年。私の生活は、驚くほど劇的に、そして美しく変わった。正尾、そして美佳。彼らの消息は、もう私の耳には入ってこない。あの日、美月を店から追い出した後、私は彼女からの連絡を全て遮断した。情けをかけることが、彼女のためにならないと悟ったからだ。
彼女は今、どこかの町で自分の足で立ち上がることの難しさを噛み締めていることだろう。でも、それは彼女自身が選んだ道の報い。私が背負うべき荷物ではない。
私は、正尾から取り戻したお金の多くを使い、一つの基金を設立した。『よし子の手』。借金や離婚で居場所を失った高齢の女性たちが、もう一度職業訓練を受け、自立するための支援団体だ。かつての私のように、一人で泣いている誰かの手を握ってあげたい。それが、私の新しい人生の目的になった。
「よし子さん、今日のお肌、つやつやじゃないか。恋でもしてるのかい?」
金子さんが、いたずらっぽく眼鏡を光らせた。
「もう、金子さん。店長の恋なんて、そんな余裕ありませんよ」
でも、毎日が楽しくて仕方ないのは事実だ。そうなのです。今の私は、誰かの顔色を伺うことも、嘘をついて自分を偽ることもない。朝起きて、自分のために丁寧に入れたコーヒーを飲み、お世話になった大切な仲間たちと笑い合う。夜は静かな部屋で、ふかふかの布団に包まれて眠る。かつて「うんちの匂いが染みついている」と罵られた私の手は、今や美味しいコーヒーを入れ、誰かの背中を優しくさすり、新しい未来を切り開くための、誇り高き手になった。
「よし子さん。君は本当に強くなったね」
佐藤弁護士が、しみじみとつぶやいた。
「いいえ、私は皆様に強くしてもらったんです。あの老人ホームで皆様に出会わなければ、私は今頃まだ、一人で暗い部屋で泣いていたでしょう」
私はカウンター越しに、3人の恩人たちを見つめた。血のつながりはなくとも、私たちには絆がある。裏切りと嘘にまみれた偽物の家族よりも、ずっと深くて温かい、本物の絆だ。
ある夕暮れ、私は一人、店のテラス席に座って自由が丘の夜空を眺めた。1年前、あのカビ臭いアパートでカップ麺を食べていた頃には、想像もできなかった光景だ。あの時、正尾は私に「40年の退職金」として1万円を投げつけた。でも、今の私には、何億円もの資産よりも価値のあるものが、たくさんある。自分を信じる心、頼もしい仲間、そして自由という名の翼。
何が起こるか分からない。62歳。世間では、もう遅いと言われる年齢かもしれない。でも、私は身をもって知った。人生をやり直すのに、遅すぎることはないのだと。地獄を見たからこそ、今の光がどれほど眩しいかを知っている。裏切られたからこそ、本当の優しさがどれほど尊いかを知っている。
私は、自分の赤切れだらけだった手を、愛おしく見つめた。この手は、私の戦いの記録だ。そしてこれから、たくさんの人を幸せにするための、魔法の手だ。
さあ、明日も頑張りましょう。私はそっと立ち上がり、店の明かりを消した。明日の朝には、また美味しいコーヒーの香りが、この町を包むことだろう。私の物語は、ここで一旦おしまい。でも、私の本当の人生は、まだ始まったばかりだ。
どん底から這い上がった、一人の女性の逆転劇。最後までお聞きいただき、ありがとうございました。皆様の人生にも、最高のスカッとと温かな光が訪れますように。



