全く客が入らない俺のパン屋に、ボロボロの服を着た母親が恥ずかしそうな顔で言った。
「あの、もし余っているパンの耳があったらいただけないでしょうか?」
彼女に連れられてきた女の子は、お腹が空いたような目で商品棚のパンを眺めている。
俺はそんな2人を椅子に座らせると「少しお待ちくださいね」と言って、さっき並べたばかりのパンをトレーに載せていった。
そして、それをトレーごと親子に差し出す。
母親は驚いたように目を丸くし、それから慌てて首を横に振った。
「私、お金持ってないんです。すみません。こんなに買えません」
「いいんですよ、お金なんて。どうせ客なんて来ないんです。好きなだけ焼きたてのパンを食べていってください」
母と娘は戸惑ったように顔を見合わせていたが、よほどお腹が空いていたのか、娘の方が我慢できずにパンにかぶりついた。
それを見ていた母親も、おずおずとパンを食べ始める。
2人はそれからたくさんパンを食べると、何度もお礼を言いながら店を後にした。
この出来事が後に店の運命を大きく変えることになるなんて、この時の俺は知るよしもなかった。
俺の名前は水野。町の片隅で小さなパン屋を営んでいる。
元々は会社員として働いていたのだが、不惑を目の前にして「このままでいいのか」という思いが強くなり、一念発起して脱サラし、パン屋を始めることにしたのだ。
俺が数ある店の中からパン屋を選んだのは、自分自身が食べ歩きするほどにパンが好きだったからだ。
もちろん、パンが好きというだけで店を開けることができるほど甘いものではないことは分かっている。
そこで俺は、懇意にしているパン屋の主人に頼み込み、パン作りの修行をさせてもらうことにした。
「お願いします」
腰を90度に折って懇願する俺を、パン屋の主人は困惑した表情で眺める。
そして頭を掻きつつ「うーん」と唸った。
「そうは言われてもなあ」
「もちろん給料なんていりませんし、店の手伝いもしますから」
そう言って主人に必死で頭を下げ続けていると、俺の熱意が伝わったのか、彼は根負けしたように苦笑して両手を上げた。
「わかった、わかった。水野さんには昔っからうちのパンを買ってもらってるし、そこまで頼まれたら断れないよ。それじゃあ、ただし修行は厳しいよ。ついてこれる?」
「もちろんです」
俺は顔を輝かせてお礼を言い、翌日からパン作りの修行を始めることになった。
彼の言う通り修行は厳しいものだったが、俺は弱音を吐かずに修行をやり遂げ、ついにパン屋の主人から独立してもいいとのお墨付きをもらったのだった。
開業資金に使ったのはサラリーマン時代にコツコツと貯めてきたお金だ。もちろんそれだけでは足りなかったので、残りは銀行からの融資で賄った。
俺はなんとか自分のパン屋を開店にまでこぎつけた。
「おはようございます。今日は寒いですね」
「おはよう、店長。いや、外は風が強くて参ったよ」
焼きたてのパンを店に並べながら俺は穏やかに常連客たちに声をかける。
彼らは俺と笑顔で世間話をしながらいくつかのパンをトレーに載せていった。
当初は集客に苦戦した俺のパン屋だったが、徐々に「おいしい」と評判を呼ぶようになり、今では常連の固定客も増えていた。
人付き合いが良かった俺はお客さんにも気軽に話しかけていたのだが、それも店の評判を上げる要因となったようだ。
常連客の中には俺の人柄を好ましく思って通ってくれている人もいる。
儲かるほど売上が良いというわけでもないが、現在の経営は非常に安定している状態だ。
地域にもすっかり馴染み、俺は店の経営がこのまま順風満帆に続いていくものと疑っていなかった。
しかし、ある時を境に俺のパン屋に暗雲が立ち込めることになる。
「店長、知ってる? 大通りの向こうに新しいベーカリーショップができるみたいだよ」
それを俺に教えてくれたのは常連客の1人だった。彼はお気に入りのカレーパンとサンドイッチを手に、レジを打とうとする俺に言った。
「ベーカリーショップ? それは知らなかったなあ」
「個人じゃなくて大型チェーンの店で。ほら、なんて言ったかな…」
しばらく考え込んだ彼がようやく思い出した名前は、誰もが知っている有名なチェーン店だった。
大型チェーンの強みは、何と言っても店の大きさと品揃えの多さだ。スタッフも多く、個人が立ち向かえるものではない。
その店がオープンしたら、客も減りそうだな。
俺は常連客と笑顔で会話しながらも、心の中は不安でいっぱいだった。
それから1ヶ月ほどして、新たなベーカリーショップがついに開店した。
すると、予想していた通り客が一気に減ってしまった。客が減ることは想定内だったが、その減り方は想定以上のものだ。
さすがに焦った。俺は偵察がてら新しくできたベーカリーショップへと足を運んでみた。
そして店に一歩足を踏み入れた途端、俺は強い衝撃に襲われることになる。
店内は思っていたよりも広く、おしゃれな商品棚には所狭しと様々な種類のパンが並んでいた。
品数はもちろん、俺は価格の面でも驚きに目を見張った。そのベーカリーショップでは、個人ではとても対応できないような安価で手頃なパンを販売していたのだ。
しばらく呆けたように立ち尽くしていた俺は、店のスタッフに声をかけられて我に帰り、適当に目についたパンを数個買って店を出た。
いくらなんでも、これは強敵すぎる。
そんな考えが頭をよぎるが、弱気になっていては勝てるものも勝てなくなる。
俺は気を取り直し、先ほど買ってきたパンを一口かじってみた。
全国にいくつもチェーン店を出しているだけあって、味も文句なしだ。
しかし、だからと言って自分のパンが負けているとも思わなかった。こうして実際に食べてみても、俺のパンは大手チェーン店のものにも決して負けていないと自信を持って言える。
俺は落ち込みそうになる自分を叱咤し、これまで以上に精を込めてパンを作ろうと心に決めた。
それから俺は新しいベーカリーショップに負けないよう、クオリティにこだわったパン作りや新たな商品の開発に尽力した。
しかし客足は元には戻らず、それどころか減っていくばかりだった。
そんな中、物価高でパンの原材料までが高騰し、さらにパンを焼く光熱費までもが値上がりし、どんどん経営を圧迫するようになっていった。
売上は見る見るうちに悪化していき、最近では銀行への毎月の返済にも窮する始末だ。
売れ残りが目立つようになってきた商品棚を眺めながら、俺の頭に「倒産」の二文字がよぎる。
「そろそろ限界かな…」
誰もいない店の中で、俺はため息をつきながら一人で力なく呟いた。
そんなある日、全く客のいない店内で暇を持て余していた俺は、店のドアが開く音で我に帰る。
笑顔で挨拶をしようとしたが、入ってきた客を見て一瞬言葉に詰まった。
店にやってきたのは一組の親子だった。まだ若そうな母親が、小学生くらいの女の子を連れている。それだけであれば何も珍しいことはないのだが、問題は2人が着ている服にあった。
その親子はどちらもボロボロで汚れた服を着ており、見るからに貧しそうな様子だ。
パンを買うお金を持っているかどうかも疑問だったが、俺はどんな客にも平等に接すると決めている。
最初の驚きが過ぎ去ると、俺はいつもの笑顔を浮かべ「いらっしゃいませ」と温かくその親子を迎えた。
すると母親は店に並べられたパンを見るでもなく、何やらうろたえた様子で俺の前にやってくる。
そのまましばらくためらっていたが、やがて思い切ったように顔を上げ、弱々しく小さい声で話しかけてきた。
「あの、もし余っているパンの耳があったらいただけないでしょうか? 捨てる予定のものでも構いませんので」
それだけ言うと、彼女は恥ずかしそうな顔で俯いてしまった。
娘の方はお腹が空いた様子で棚に並ぶパンを物欲しそうに眺めている。
「こちらに座って、少しお待ちくださいね」
俺は小さな丸椅子を二つ持ってくると、それに親子を座らせ、商品棚から焼き上がったばかりのパンをトレーに載せていった。
そしてトレーを2人に差し出す。
母親はびっくりしたように目を丸くし、それから慌てて首を横に振った。
「私、お金持ってないんです。すみません。こんなに買えません」
「いいんですよ、お金なんて。どうせ客なんて来ないんです。好きなだけ焼きたてのパンを食べていってください」
母と娘は戸惑ったように顔を見合わせていたが、よほどお腹が空いていたのか、娘の方が我慢できずにパンにかぶりついた。
それを見ていた母親も、おずおずとパンを食べ始める。
「お母さん、これ美味しい」
「本当、美味しいわね」
「美味しい」と言いながら笑顔でパンを食べる2人に、俺は自分の心が温かくなるのを感じた。
自分のパンを美味しいと言ってくれる人がいる。それだけで俺は幸せになれるのである。
2人はそれからたくさんパンを食べると、すっかりお腹いっぱいになったようだ。
空腹が解消されたことで元気を取り戻したのか、2人の顔は店にやってきた時とは打って変わって明るいものになっていた。
パンを食べ切った母親は椅子から立ち上がると、俺に向かって深々と頭を下げた。
「本当にありがとうございました。なんてお礼を言っていいか…」
「いいんですよ。売れ残っても破棄するだけですし、食べてくれた方が俺も嬉しいです」
すると娘の方も椅子からぴょんと飛び降り、満面の笑みを浮かべて言った。
「おじさん、ありがとう。すっごく美味しかった」
「そうか。それは良かった」
俺は彼女と目線を合わせるように屈み、小さな頭を優しく撫でる。
「お腹が空いたら、いつでもおいで」
「いいの?」
「ああ。待ってるよ」
俺はそう言いながら立ち上がり、その後ぽつりと付け加える。
「店がいつまで持つかは分からないけど」
そのセリフに母親が軽く驚いた顔をしたが、俺はそれ以上詳しいことは何も言わなかった。
その後、親子は何度も頭を下げながら店を出ていき、俺は笑顔で2人を見送った。
あの親子が来てから数日後、俺がいつものように店のシャッターを開けようとすると、何やら外が騒がしいことに気づいた。
うちの店は7時開店で、あと1時間ほどもすれば小学生たちの元気な声が聞こえてくるが、この時間に人の声が聞こえるのは珍しい。
「何事だろう」と首をかしげながらシャッターを開けた俺は、店の前に100人ほどの行列ができているのを見てぎょっとした。
どうやらみんな、うちの店が開くのを待っていたらしい。一体なぜ?
俺は店を開けるのも忘れ呆然としていたが、列の先頭に今では少なくなった常連客たちが立っているのに気づいた。
俺は彼に近づき、この状況について恐る恐る尋ねる。
「あの、これは一体何事ですか?」
「店長、何も知らないの?」
俺の問いに彼は驚きの声をあげ、逆に問い返されてしまった。
常連客の反応に俺はますます困惑する。一体俺のパン屋に何が起こっているというのだろうか。
すると彼は面白そうな顔で笑いながら、人々が殺到している理由を教えてくれた。
「このお店、数日前テレビに出てたんだよ」
「テレビ?」
俺は呆気にとられて聞き返す。ここ数日、店にはわずかな客が来るくらいで、テレビの撮影スタッフなどが訪れたこともない。
みんなどこか別の店と間違えているのではないかと思い、一気に不安になった。
「うちはテレビの取材なんか受けたことないけど、何かの間違いじゃないですか?」
眉を八の字にして慌てる俺を見て、彼はますますおかしそうに笑う。
「間違いじゃないよ。数日前、この店にボロボロの服を着た親子が来たでしょ」
「なんで知ってるんですか?」
この前来た親子はとても印象が強かったので、もちろん彼女たちのことは覚えている。
だが、2人が来ていた時、店には他に誰もいなかったはずだ。それなのになぜ彼があの親子のことを知っているのだろうか。
目を丸くして驚く俺に、彼はもったいぶった口調で事実を告げる。
「実はね、あの2人は本当の客じゃなくて、番組が用意した役者だったんだよ」
「え?」
どうやら先日の親子とのやり取りは、俺の知らないところで撮影されていたらしく、その様子が昨夜のテレビ番組で放送されたということだ。
俺は驚きながら、あの親子のことを思い出す。店に入ってきた時の2人はそれはそれは悲壮感が漂っており、本当に貧しい親子そのものだった。あれが演技だったとは、今でも信じられない。
何が何だかよくわからず呆然としている俺に、常連客が詳しいことを説明してくれた。
俺の店が出たという番組は、視聴者の希望を叶えるという企画がメインの人気番組だったようだ。その企画の一環として、俺の店が紹介されたらしい。
だが、その説明を聞いてもまだ分からないことだらけだった。俺はそんな番組のことは知らなかったし、もちろん企画に応募したこともない。
一体誰が…と思っていると、そこで先頭にいた男性が、並んでいた他の常連客と何やらチラチラと視線を交わしていることに気づいた。
「どうしたんですか?」
「いや、その番組の企画に応募したのは、俺たちなんだ」
「え?」
再び驚く俺に、彼らはやや気まずそうな表情を浮かべる。
「新しいベーカリーショップができてから、この店の客が減っちゃっただろ。だからもっと大勢の人たちにこの店の良さを知ってもらいたいと思って、みんなで相談して番組に応募したんだ」
彼らは「勝手なことをして申し訳ない」と頭を下げるが、俺は驚きでそれどころではなかった。
それにまさか常連客たちが俺のパン屋をそれほどまでに愛してくれていたとは知らず、彼らの気持ちを知って胸が熱くなる。
「店長に相談もなしにこんなことをするのもどうかと思ったんだけど、俺たち、どうしてもこのパン屋をなくしたくなくて。パンの美味しさももちろんだけど、店長の人柄の良さをどうしてもみんなに知って欲しかったんです」
ようやく驚きが収まった俺は余裕を取り戻し、笑顔で彼らに言った。
「ありがとうございます。確かに驚きましたが、皆さんが俺のためにここまでしてくれて、本当に嬉しいです」
俺がそう言うと、彼らもようやく笑顔になった。
事情が分かり、ようやくこのすごい行列にも納得できたが、俺は少しだけ残念な気持ちにもなった。
なぜかと言えば、先日の親子が役者だったということを知ってしまったからだ。
俺のパンを美味しそうに食べる彼女たちの姿は、最近塞ぎ込んでいた俺に力を与えてくれた。しかし、それも最初から演技だったのかと思うと、少し落ち込んでしまう。
そんな俺の様子に気づいたのか、常連客の1人が心配そうに聞いてきた。
「店長、どうかした? やっぱり俺たちのやったことが迷惑だったんじゃ…」
「いえ、違うんです。皆さんの気持ちは本当に嬉しかったし、こんなにお客さんが増えたことにも感謝してます。ただ、あの親子のことが…」
俺が先ほど感じた気持ちを正直に告白すると、常連客たちは納得したように頷き、それからにっこりと微笑んだ。
「大丈夫だよ、店長。あの2人がパンを食べていた時の笑顔だけは、演技じゃないから」
「いや、役者なら美味しくないパンでも美味しそうに食べるくらいはお手のものでしょ」
疑い深い俺に苦笑しつつ、先頭にいた常連客がスマホで動画を見せてくる。
どうやらそれは数日前に放送された番組の見逃し配信のようだ。本当に俺の店と先日の親子が映っており、俺はなんだか変な気分になる。
親子たちは俺の店から立ち去ると、番組スタッフの元へと向かいインタビューに答えていた。
それは確かに俺がパンをご馳走した親子だったが、普段の様子に戻った途端、華やかなオーラが溢れ出し、まるで別人のように変わる。
役者とはすごいものだなと目を見張っていると、そのインタビューの中で母親役の女性が笑顔で俺のパンについて語っていた。
「本当にすごく美味しいパンでした。大手のチェーン店にも負けない味で、ついつい夢中になって何個も食べちゃいました」
すると女性に続いて、子役の女の子も元気な声をあげる。
「すっごい美味しかったです。今度はお客さんとして買いに行きたいです」
まだまだ小さいのに大人のようなしっかりした受け答えに関心しつつ、彼女たちの言葉に俺は感激する。もちろんこれもテレビ用の建前なのかもしれないが、そう言ってくれただけでも嬉しかった。
彼女たちのインタビューが終わると、常連客はスマホを操作し、今度はあるSNSのコメントを見せてくれた。
そこには「ここのパン食べてみたい」「美味しそう」などという感想と共に、「水野さん神」「めちゃめちゃいい店長」などと俺を絶賛するコメントが並んでいた。
俺はネットやSNSなどに疎く、こんな騒ぎになっていることなど露ほども知らなかった。
それらのコメントを読んでいるうちに、徐々に視界がぼやけてくる。どうやら思わず涙ぐんでしまったようだ。
慌てて目をこすっていると、常連客たちが優しい笑みを浮かべて俺の肩を叩いた。
「さあ、店長、みんな待ってるよ。早くお店を開けよう」
「そうですね。でも、こんなにたくさんのお客さん、さばききれるかな?」
「そのために俺たちがいるんだよ」
「え?」
何のことかと不思議に思っている俺に、常連客たちは得意な様子で言った。
「こうなることが分かってたから、俺たちは店を手伝おうと思って早く来たんだ。接客や誘導は私たちに任せてください」
胸を叩いて請け負う常連客たちを、俺は目を丸くしてまじまじと見つめてしまった。
そして彼らのやる気満々の顔を見て、思わず吹き出してしまう。
「俺なんかより、皆さんの方がよっぽどこのパン屋の店員みたいですね」
「何言ってるの? ほら、早く開けて開けて」
常連客たちにせかされながら、俺は店をオープンする。
その瞬間、待っていた大勢のお客さんたちから歓声のような声が湧き上がり、俺は飛び切りの笑顔で「いらっしゃいませ」と声を張り上げた。
その日、店の前の行列は途切れることなく、パンは焼いたそばから飛ぶように売れていった。俺は休む暇もなくパンを焼き続けたが、それでも全く追いつかないくらいだった。
また、最近は客足が減っていたせいでそれほど材料を仕入れていなかったこともあり、時間を待つまでもなく材料が昼頃には底をついてしまった。
せっかく来てくれたお客さんたちに申し訳なく思いつつ、俺は彼らに頭を下げながら品切れになってしまったことを伝える。
パンを買えなかったお客さんたちは残念そうではあったが、誰も怒ることなく「また来ます」と言ってくれた。
店を閉めると、手伝ってくれた常連客たちが魂が抜けたような顔で椅子に座り込む。
「いやあ、思った以上に大変だった。店長、こんなことずっと1人でやってたんだな」
「こんなに大勢のお客さんを相手にしたのは、さすがに俺も初めてですよ」
俺も彼らと同じようにヘトヘトだったが、気分は上々だ。
手伝ってくれた常連客たちにお茶を配り、そして売らずに取っておいたパンを渡す。
「あれ? 全部売り切れたんじゃないの?」
「皆さんのために取っておいたんです。俺が皆さんのためにできることと言えば、パンを焼くことくらいですから」
俺がそう言うと、彼らは感激したような顔でパンを受け取り、美味しそうな顔で食べ始めた。
やはり誰かが自分のパンを美味しそうに食べているところを見るのが、俺にとって一番の幸せだ。彼らの姿を見ながら、改めてそう感じる。
「そうそう。これからは忙しくなるだろうから、スタッフを増やした方がいいよ」
「確かに今日は皆さんがいてくれて助かりましたが、きっと一時的なものじゃないですかね。きっとすぐにブームも過ぎますよ」
すると常連客たちが「甘い」と声を揃えて言ってきた。
「1度このパンを食べれば、絶対にお客さんはまた戻ってくるよ」
「そうそう。店長のファンもたくさんいますしね」
彼らは自信満々にそう言い切ったが、俺は半信半疑だった。もちろんそうなれば嬉しいのだが、明日からもこの盛況ぶりが続くという保証はない。
再び客足が減ってもがっかりしないよう、俺は大きな期待は抱かずに彼らの話を聞いていた。
だが、常連客たちが言っていたように、行列は翌日以降も続き、俺一人では手が回らなくなる。
そこで俺は彼らの助言通り数人のスタッフを雇い、自分はパンを焼くことだけに専念することにした。
俺は大勢のお客さんのために朝から晩までパンを焼き続けた。
これまでとは比べ物にならないくらいの忙しい毎日だったが、この忙しさが逆に心地よい。
最近は来なくなっていたかつての常連客たちが戻ってきただけでなく、新たな常連客も増え、俺の店はかつての売上を大きく超えるようになっていった。
それもこれも、俺の店を愛してくれるお客さんたちのおかげだ。
俺は彼らに支えられていることに幸せを感じながら、今日も精一杯の感謝を込めてパンを焼くのだった。



