41年間、一度も遅刻をしなかった。それだけが白石千鶴の誇りだった。誰かに褒められたわけでも、昇進したわけでもない。ただ毎朝決まった時間に起きて、薄暗い更衣室でビニール手袋をはめ、腕まくりをして洗濯機の前に立ち続けた。66歳になった今日、その41年が一枚の封筒にまとめられて渡された。退職金は150万円。一度開けて確認し、すぐに封を戻した。数字を見ていると、なぜか泣きたくなった。
3月の終わり、市立病院のランドリーは湿気と消毒用漂白剤の匂いで満たされていた。地下の作業場に蛍光灯の白い光が降り注いでいた。千鶴はその日も午前5時半に出勤し、白衣や患者の衣類を仕分けながら、普段と変わらない朝を過ごした。ただ、ロッカーに私物がほとんど残っていないことだけが、今日という日の異質さを示していた。彼女の手は何十年もの労働を刻み込んでいた。指先はひび割れ、皮膚は荒れ、爪の根元には洗剤が染み込んで白くなった部分が残っていた。洗い物をするたびに右の人差し指の付け根が切れて、絆創膏を貼っては剥がれ、また貼り直すことを繰り返してきた。
午後3時、千鶴は上司の吉田係長から薄い封筒を渡された。係長は50代の男性で、千鶴の退職が今日であることをその朝まで忘れていたらしく、慌てたような顔で「お疲れ様でした。長い間、本当に…」と言葉を切った。続きは出てこなかった。千鶴は小さく頭を下げ、封筒を受け取った。更衣室で私物をまとめながら、千鶴は41年前の初出勤の日を思い出そうとした。しかし記憶はぼんやりとしていて、若い自分の顔すら浮かんでこなかった。代わりに浮かんだのは、洗濯機の振動音、蒸気の厚さ、腰を痛めた同僚が泣きながら作業を続けていた冬の朝の光景だった。
千鶴は小さなナイロンバッグに手鏡とタオルと常備薬を入れ、ロッカーの扉を閉めた。建物の外に出ると、3月末の風がひんやりと吹いていた。彼女は少しの間、正面玄関の自動ドアが開閉するのを見ていた。見舞い客が出入りし、白衣を着た看護師が小走りに通り過ぎ、誰も千鶴には目を向けなかった。41年、この建物のために働いてきた。しかし外から眺めると、病院は何も変わらず動き続けていた。患者は来院し、洗濯機は回り、医療は続いていく。その当たり前の事実が、足の裏から冷えてくるような感覚として伝わってきた。
バスに40分揺られて帰宅した。築30年以上の一軒家は、玄関先の植木鉢が一つ倒れたまま放置されていた。千鶴は傾いた鉢を起こし、土を少し抑えてから扉を開けた。家の中では、夫の白石秀夫が昼間からテレビの前に座っていた。68歳、2年前に長距離トラックの運転手を退職した男だ。腹が出た体に首元の伸びたポロシャツを着て、缶ビールを片手に持っていた。テレビにはゴルフの中継が映っていた。千鶴が玄関で靴を脱いでいると、秀夫は振り向きもせずに言った。
「遅かったな。今日で最後だろう。退職金はいくらだ?」
千鶴は上がり框に腰を下ろし、バッグから封筒を取り出した。「150万でした」
秀夫がようやくテレビから目を離した。立ち上がると、千鶴の前に手を差し出した。「通帳も出せ」
千鶴は手を止めた。両手がほんのわずかに白衣の裾を探したが、もう白衣はなかった。代わりに普段のスカートの裾を指先でつまんだ。「あなた、膝がここのところ痛んでいて病院に行こうかと思っていたんです。それと、電気代が2ヶ月分…」
秀夫は手を引っ込めなかった。「話を聞いているか。通帳を出せと言っているんだ」
千鶴はバッグの底から古い通帳を引き出した。秀夫はそれを受け取り、一度だけ中を確認してから、黙ってズボンのポケットに入れた。
その日の夕方、秀夫は外出した。千鶴は台所に立ち、じゃがいもと玉ねぎだけの味噌汁を作った。冷蔵庫には残り物のご飯があった。夕食の準備をしながら、千鶴は電気代の督促状のことを考えていた。先月届いた封筒は、秀夫に見せないようにタンスの引き出しに隠してある。次の支払日は来週だった。秀夫が戻ってきたのは夜の8時を過ぎた頃だった。両手に大きな紙袋を下げ、顔は上機嫌だった。
「ゴルフクラブを買ってきた。15万円のセットだ。仲間内でも古い道具で出るのは恥ずかしくてな」
千鶴は台所から出てきて紙袋の中を見た。金属の艶が光を受けて輝いていた。秀夫は紙袋を棚の隅に立てかけ、ビールを冷蔵庫から取り出した。「それより来月のゴルフ場の会員費を振り込まなきゃならん。通帳から出しておいてくれ」
千鶴は何も言えなかった。味噌汁が吹きこぼれそうになっていたので、火を弱めた。15万円。自分の月の年金額が6万円だとすると、それは2ヶ月半分に相当する。電気代の督促状の金額と膝の診察費の目安と来月の食費を頭の中で足し合わせようとしたが、計算が途中で止まった。秀夫はソファに座り直し、ゴルフ中継の録画を再生し始めた。千鶴は台所に戻り、味噌汁を椀によそった。じゃがいもはわずかに煮崩れていた。
夕食の間、2人はほとんど言葉を交わさなかった。秀夫はご飯を食べながら「おかずはこれだけか」と言い、それきりだった。千鶴は「はい」とだけ答え、自分の椀を手に持った。食べながら千鶴はぼんやりと41年前のことを考えた。25歳で結婚し、子供は生まれなかった。秀夫は長距離の仕事で1週間以上家を開けることが多く、千鶴は病院の仕事と家の管理を1人でこなしてきた。夫婦としての会話が少しずつ減っていったのがいつ頃からなのか、千鶴にはもう分からなかった。気づけば秀夫は家にいるのに、千鶴と目を合わせなくなっていた。
食後、秀夫はすぐにテレビの前に戻った。千鶴は食器を洗い、台所を拭いた。流しの縁に手をついて換気扇の音を聞きながら立っていると、膝の内側がずくずくと痛んだ。立ちっぱなしの仕事を41年続けてきた体が、それを知らせていた。千鶴はしばらくその姿勢のままでいたが、やがてタオルで手を拭き、電気を消した。
夜、千鶴は布団の中で天井を見上げた。秀夫はすでに隣でいびきを立てていた。150万円が消えた。通帳に入る前に秀夫の手に渡り、すでに数字ではなくなっていた。明日からは月6万円の年金が唯一の収入になる。電気代、水道代、食費、国民健康保険の掛金。千鶴は指を折って計算しようとしたが、6万円の中から何をどう削っても数字が合わなかった。41年間毎月の給料から少しずつ貯めてきた郵便貯金の口座がある。秀夫には知らせていない口座で、今の残高は32万円ほどだった。そこに手をつけることは今まで考えたことがなかった。いざという時のために取っておいた。しかし、今がいざという時ではないとしたら、いつなのか。千鶴はしばらくそのことを考えてから目を閉じた。眠れなかった。秀夫の寝息が静かな部屋に響いていた。千鶴は目を開け、また天井を見た。退職してから8時間も経っていなかった。
翌朝、千鶴は5時半に目が覚めた。体の習慣が抜けていなかった。秀夫はまだ眠っていた。千鶴は静かに起き上がり、台所でお湯を沸かした。窓の外はまだ暗く、遠くに電車の音が聞こえた。カップにお茶を注ぎながら、千鶴は今日から何をするべきか考えた。仕事に行かなくて良い朝は41年ぶりだった。しかし、何もしなくて良いわけではなかった。電気代の督促状を何とか処理しなければならない。それには郵便貯金を崩すしかない。千鶴は口をつけたお茶が暑すぎたので、少しの間カップを両手で包んだまま待った。
秀夫が姿を現したのは9時を過ぎた頃だった。千鶴は洗濯物を干していた。秀夫は欠伸をしながら「朝飯は」と言い、椅子に座った。千鶴はトーストを焼き、昨日の残りの味噌汁を温めた。秀夫は食べながらスマートフォンを眺めていた。何かのゴルフ関連のサイトらしく、指でスクロールしながら言った。「来月、仲間内でコースを回ることになった。宿泊ありで参加費が1人3万5000円だ」
千鶴は味噌汁の椀を洗いながら聞いていた。「それは来月の話ですか?」
「当たり前だろう。今月ではない」秀夫は続けた。「通帳から引き出しておいてくれ。あと、昼は外で食べてくるから弁当はいらん」
千鶴はスポンジを握ったまま流しの底を見ていた。3万5000円。郵便貯金の残高が頭をよぎった。それを使えば28万5000円になる。その次に崩す理由がまた必ず来る。秀夫は食べ終えると車の鍵を持って外に出た。千鶴は食器を洗い終え、台所を拭いた。
午後、千鶴は近所のスーパーに買い物に出た。彼女が持っていった通帳には今日の退職金と年金が入っていた。彼女の手元には2000円ほどの小銭しかなかった。食材コーナーの値引きシールが貼られた豆腐と、袋の底でしなびかけているほうれん草を手に取り、レジに並んだ。帰り道、公園の脇を通ると、ベンチに老いた女性が一人座っていた。70歳前後に見えた。くたびれたジャンパーを着て、足元に古い買い物袋を置いていた。女性は千鶴が通りかかっても視線を動かさなかった。ただ黙って公園の地面を見ていた。千鶴は立ち止まりかけたが、何も言わずに歩き続けた。声をかける言葉が見つからなかった。それに、声をかけて何ができるというわけでもなかった。
家に帰ると、家は無人でテレビがついていた。秀夫はまだ戻っていなかった。千鶴はエコバッグを台所に置き、手を洗った。豆腐とほうれん草で夕食を作ることを考えながら、蛇口を閉めた。水道代が頭に浮かんだ。千鶴は少しの間濡れたままの手を中に浮かせていた。タオルを取り、手を拭き、冷蔵庫を開けた。41年間働いた。それは確かな事実だった。しかし今、千鶴の手元に残っているのは2000円の小銭と、秀夫に知らせていない郵便貯金の通帳だけだった。窓の外では夕暮れが静かに始まっていた。台所に立ったまま、千鶴はその光をただじっと見ていた。
退職してから2週間が過ぎた頃には、白石家の食卓は目に見えて貧しくなっていた。千鶴は朝一で安売りされているもやしを買い、それを油で炒めただけのものに申し訳程度の醤油をかけて出すことが増えた。魚は切り身ではなく、骨と皮ばかりの安いあらを煮付けにして、身の柔らかい部分だけを秀夫の皿に取り分けた。自分の分には骨の周りに残った筋ばかりの肉を突いて済ませた。
ある晩、秀夫は箸で皿をかき回しながら顔をしかめた。「またもやしか。肉はないのか?」
千鶴は流しの前から振り返らずに答えた。「今月は少し厳しくて。魚のあらなら安く手に入ったので」
秀夫は茶碗を音を立てて置いた。「貧乏臭い飯ばかり食わせやがって。俺はゴルフ仲間と高級な店で飯を食う身分なんだぞ。家でこんなものを食わされたら、外で恥をかく」
千鶴は何も言わず、もやしの最後の一口を飲み込んだ。喉の奥に苦いものが残った。「外で恥をかく」という言葉の意味が千鶴にはよくわからなかった。家でどんな食事をしていようと、外でそれを誰かに話すわけでもないだろうに。そう思ったが、口には出さなかった。
その日の午後、秀夫はゴルフ場から戻ってくると不機嫌な顔で玄関の扉を乱暴に閉めた。千鶴は物音に驚いて台所から顔を出した。秀夫はソファに座り込み、缶ビールのプルタブを乱暴に開けた。「今日、コースの後にみんなで焼肉に行こうという話になった。俺だけ先に帰ってきた」
千鶴はおずおずと尋ねた。「どうしてですか?」
「金がないからに決まってるだろう」秀夫は怒鳴った。「あいつらは退職金で株を買ったり株をやったりしている。俺は年金とお前の泣けなしの退職金しかない。情けない話だ」
千鶴は黙って立っていた。秀夫の言葉の中で、自分の退職金が「泣けなしの」という形容詞で呼ばれたことが、胸の奥に小さな棘のように刺さった。41年間毎日洗剤の匂いを吸いながら積み上げてきたものが、秀夫にとっては取るに足らない金額でしかないらしかった。秀夫はテレビをつけ、ゴルフ番組を眺めながら缶ビールを煽った。千鶴は台所に戻り、洗い物を始めた。蛇口から流れる水の音だけがしばらく家の中に響いていた。
夕方になると家の中の空気が重くなり、千鶴は買い物籠を手に外へ出た。実際には買うものはほとんどなかったが、家の中にいると息が詰まりそうだった。近所の公園まで歩き、ベンチの端に腰を下ろした。公園には数羽の鳩が地面をついばんでいた。千鶴はぼんやりとそれを眺めていたが、視線の先に見覚えのある人影があることに気づいた。先日も見かけたジャンパーを着た老女だった。今日はベンチではなく、植え込みの茂みに蹲り、空き缶を一つずつ拾い上げては肩から下げた袋に入れていた。老女は缶を拾い終えるとゆっくりと体を起こした。膝に手をついて立ち上がる動作には、長年の習慣のような滑らかさがあった。目が合うと、老女は驚いた様子もなくふっと口元を緩めた。
「あんたも、お金のかからない老後の楽しみを探してるのかい?」老女は日に焼けた笑みを浮かべていった。「ここらじゃ缶拾いのことを『ゼロ円の趣味』って呼んでるんだよ」
千鶴は何と返して良いかわからず、曖昧に頷いた。老女は名乗り、大塚フミといった。70歳で夫を10年前になくし、今は一人暮らしをしているという。年金だけでは家賃と光熱費を払うのがやっとで、空き缶を集めて換金する金額をわずかな足しにしているのだと、フミは淡々と語った。「最初は恥ずかしくてね」フミは袋の口を縛りながら続けた。「近所の人に見られるのが嫌で、夜にこっそり拾ってた時期もあった。でもそのうちどうでも良くなる。生きるのに恥も外聞もないってことを、こういう年になって初めて知るんだよ」
千鶴はフミの言葉を聞きながら、自分の将来がそこに重なって見える気がした。フミの肌は皺が目立ち、姿勢はやや前傾だったが、目だけは妙にはっきりとしていた。それが長年一人で生き抜いてきた人間の目つきなのかもしれないと千鶴は思った。フミは袋を肩にかけ直すと軽く会釈をして公園を出ていった。千鶴はしばらくベンチに座ったまま、フミの後ろ姿が小さくなっていくのを見ていた。趣味ではなく、それは絶望の中で人がそれでも生き延びようとする姿そのものだった。千鶴は自分自身の姿がその灰色の景色に重なって映るのを感じた。
日が傾き始めた頃、千鶴は重い足取りで家へ戻った。玄関を開けると、廊下に自分の衣類が散乱しているのが目に入った。タンスの引き出しが乱暴に引き出され、中身が床にぶちまけられていた。家の中から秀夫が顔を出した。手には何かの切り抜きを持っていた。
「お前、こんなところに金を隠していたのか」
千鶴は息を飲んだ。秀夫が手にしていたのは郵便貯金の通帳だった。タンスの奥、子供の頃に使っていた古い箱の底に隠してあったものだ。「それは…」千鶴は声を震わせた。「これはもしもの時のために少しずつ貯めていたもので…」
秀夫は通帳を開き、残高のページを千鶴の目の前に突きつけた。「32万。こんな金があるなら、なぜ最初から出さなかった?お前は俺に隠れて自分だけの金を貯めていたのか」
千鶴は答えに詰まった。「隠していたわけでは…ただ何かあった時のために…」
「何かあった時のためなら、今がその何かだろう」秀夫の声が大きくなった。「来月のゴルフ場の会費も払えない。焼肉にも行けない。これがその何かじゃなくて何だ」
秀夫は通帳を自分の上着の内ポケットにねじ込んだ。千鶴は床に散らばった自分の衣類を一枚ずつ拾い集めながら、何も言い返せなかった。膝をつき、丁寧に畳んでいたタオル類を拾い上げた時、千鶴の手は小さく震えていた。千鶴は40年間この家で家事をこなし、秀夫の食事を作り、洗濯物を畳んできた。その間、自分の意思で何かを拒んだことはほとんどなかった。今この瞬間も、千鶴は「嫌だ」という言葉そのものをどうやって出すのか分からなかった。床に膝をついたまま、千鶴はただ静かに衣類を畳み続けた。
その夜、秀夫は早々に寝室に引き上げた。千鶴は一人、居間の電気を消さずに座っていた。テーブルの上には畳み終えた衣類が積まれていた。32万円。41年かけて給料の中からほんの少しずつ抜き出して貯めてきた金額だった。1万円札を一枚抜くたびに、心の中で謝るような気持ちがあった。それが今日、たった数分で秀夫の内ポケットに消えていった。千鶴は自分の手のひらを見つめた。指先のひび割れ、爪の周りに残る漂白剤の跡。この手で41年間働いてきた証だった。その手が今、空っぽになっていた。電気を消す前に千鶴はもう一度台所に立ち寄り、明日の朝食の準備を確認した。米びつの底には、あと数合の米しか残っていなかった。買い物に使えるお金は、千鶴の財布の中にある1000円札一枚といくつかの小銭だけだった。千鶴は電気を消し、暗い廊下を歩いて寝室へ向かった。秀夫のいびきが聞こえてきた。布団に入っても千鶴の目は冴えたままだった。天井の木目を見つめながら、千鶴は明日からどうやって食費をやりくりするべきか頭の中で何度も同じ計算を繰り返した。答えは出なかった。
翌朝、秀夫はいつになく早く起きてきた。千鶴が台所で湯を沸かしていると、秀夫は椅子に座りながら唐突に言った。「お前、働きに出ろ」
千鶴は手を止めた。「働くと言っても、どこにですか?」
「どこでもいい。お前の年金じゃ来月のゴルフ会費すら払えないんだ」秀夫は新聞を広げながら続けた。「66ならまだ働けるだろう。パートでも何でも探してこい」
千鶴は湯の立つやかんを見つめながら、しばらく言葉を返せなかった。41年働いてようやく退職したばかりだった。体のあちこちが悲鳴を上げていたが、それを秀夫に訴えたところで聞き入れられないことは分かっていた。「わかりました」千鶴は小さく頷いた。「探してみます」
秀夫は満足そうに新聞をめくった。「いい返事だ。最初からそう言えばいいんだ」
その日の午後、千鶴は近所の図書館に出向き、情報誌を手に取った。60代を歓迎する求人は限られていた。清掃、警備、調理補助。どれも体力を要する仕事ばかりだった。ページをめくっていると、一つの求人が目にとまった。市の外れにあるパチンコ店のトイレ清掃員の募集だった。時給は安く、勤務時間は夜の8時から深夜2時までと書かれていた。千鶴は少しの間、文字を見つめた。深夜の勤務は体への負担が大きいことは分かっていたが、求人誌の中で他に自分を雇ってくれそうな仕事は見当たらなかった。千鶴は求人誌のページを折り、メモ帳にその店の電話番号を書き移した。図書館を出ると、外はすでに夕方の光に包まれていた。千鶴は電話番号の書かれたメモを財布の中にしまい、家に着いた。今夜、秀夫にこの求人のことを話すべきかどうか千鶴は迷いながら歩いた。話せば秀夫は当然のようにこの仕事を進めるだろう。話さなければ、いつまでも「働きに出ろ」という圧力にさらされ続けることになる。家が見えてくる頃、千鶴は財布の中のメモにもう一度そっと触れた。明日電話をかけてみようと決めた。何かを選んだという実感はなかった。ただそうするしかないという諦めに近い感覚だけが、千鶴の胸の中に静かに広がっていた。
翌朝、秀夫が外出したのを確認してから、千鶴はメモ帳を取り出した。昨夜求人誌から書き移しておいたパチンコ店の電話番号が、几帳面な文字で書かれていた。千鶴は電話の前に立ち、その番号を一度声に出さずに読んだ。それから深く息を吸い、受話器を手に取った。呼び出し音が鳴る度に、千鶴の胸が少しずつ早くなった。3回、4回。出なければ今日のところは諦めようかと思った。5回目で男の声が出た。「はい、玉虎パチンコです」
千鶴は声を整えて話し始めた。「あの、求人誌を拝見してお電話しました。清掃のお仕事のことで」
「ああ、清掃ね」男の声は面倒臭そうでも親切でもなく、ただ事務的だった。「今日来られます?面接ったって大したことは聞かないんで、本人確認と体が動くかどうかの確認くらいです」
千鶴は壁の時計を確認した。午前10時を少し過ぎていた。「はい。今から伺えます」
「じゃあ店の裏口から入ってください。国道沿いの駐車場の奥の方。表から入ると客に混じっちゃうんで」
男はそれだけ言って電話を切った。千鶴は受話器を置き、少しの間電話の前に立ったままでいた。話の速さと相手の口調の軽さが、却って気持ちを落ち着かせた。千鶴は財布と保険証を確認し、薄手のコートを羽織って家を出た。
玉虎パチンコは、千鶴が住む住宅街からバスで30分ほど離れた市の外れにある店だった。バスを降りると、国道沿いに大型トラックが絶え間なく走り抜けていた。排気ガスの匂いが漂い、空気がもやもやとしていた。千鶴は歩道の端を歩き、看板の案内に従って店の裏手に回った。店の外観は遠くから見た時よりもくたびれていた。看板の電飾は昼間なので点灯していなかったが、いくつかのランプが割れているのが分かった。壁には薄汚れたペンキが塗られており、剥がれかけた部分から下地のコンクリートが露出していた。裏口の扉は鉄で、鍵が錆びていた。千鶴はドアをノックした。しばらくして中から40代と思われる男が出てきた。痩せ型で背が低く、無精髭を生やしていた。作業着のような格好をしており、左手にタバコを持っていた。
「白石さん?さっき電話した人?」
「はい。白石千鶴と申します」千鶴は軽く頭を下げた。
男は千鶴を上から下まで一瞥した。値踏みするような目つきだったが、悪意のある目つきではなかった。「入って」
裏口から入った先は薄暗い廊下だった。店内の騒音が壁越しに伝わってきた。パチンコ台の電子音と歓声が混ざり合った独特の音だった。男は廊下の奥の小さな部屋に千鶴を案内した。折りたたみの椅子が2脚と小さなテーブルが置いてあるだけの部屋だった。
「俺、店長の池田です。面接って言っても簡単に確認するだけですから」
池田はテーブルに肘をつき、タバコを一本吸い終えてから話し始めた。「清掃の経験は?」
「病院のランドリーで41年間、洗濯と清掃を担当していました。先月退職しました」
池田は少し眉を上げた。「41年。それはすごいね」関心したというより単純に驚いたような口調だった。「うちで求めてる仕事はトイレ清掃がメインです。男女それぞれのトイレと喫煙所。夜の8時から深夜2時、週5日。時給は980円です。きついですよ。正直に言うと、お客さんが多い日は汚れもひどいし、深夜になると体に応える。前に来た人が何人か、1週間もせずにやめてます」
千鶴は池田の顔を見ながら話を聞いていた。池田の口調には応募者を試すような雰囲気はなかった。むしろ後で「こんなはずじゃなかった」と言われることへの予防線を張っているような、疲れた正直さがあった。「やれます」千鶴は答えた。「病院の洗濯室でも汚れ物の扱いには慣れています」
池田はタバコを灰皿で押しつぶした。「じゃあ明日から来てください。制服のエプロンは更衣室のロッカーにあります。清掃道具の場所と手順は最初に私が説明します。靴は滑らないものを履いてきてください。それだけです」
面接は十分と少しで終わった。千鶴は池田に礼を言い、裏口から外に出た。秋の日が傾き始めていた。バス停まで歩きながら、千鶴は今自分がしたことの現実をゆっくりと咀嚼した。深夜2時まで働いて、バスは終わっている。歩いて帰れば1時間以上かかる。しかし、それを選んだのは自分だった。他に選択肢がなかったから選んだのだ。
翌日の夜、千鶴は午後7時半に家を出た。秀夫には「近所の知り合いのところに顔を出す」とだけ言っておいた。秀夫はテレビを見ながら「ああ」と言っただけで、それ以上は何も聞かなかった。バスに揺られながら、千鶴は窓の外を流れていく夜の町を眺めた。住宅街の灯りが遠ざかり、やがて国道沿いの看板が増えていった。玉虎パチンコの看板が見えてきた時、千鶴はバスを降りた。夜になると昼間よりも電飾の欠けが目立った。半分以上が消えた看板は、それでもゆっくりと点滅を繰り返していた。
裏口から入ると更衣室には先客が一人いた。50代と思われる小柄な女性で、千鶴と同じ緑色のエプロンを身につけようとしていた。女性は千鶴の顔を見て軽く会釈した。「今日から来た方ですか?私は本田と申します。ここで清掃を3ヶ月ほどやってます」
本田は物静かな人だった。清掃道具のある場所、各トイレの担当エリアの分け方、汚れがひどい時の手順、記録用紙の書き方。必要なことを余分な言葉なしに教えてくれた。千鶴は一つ一つを頭に入れながらエプロンの紐を結んだ。洗剤の匂いが更衣室に漂っており、千鶴は懐かしいような、しかし病院のそれとは少し違う種類の匂いだと思った。
清掃カートを押して千鶴は店内の奥へと向かった。自動ドアが開いた瞬間、タバコの煙と騒音が一気に押し寄せてきた。数百のパチンコ台が列をなし、それぞれから電子音と光が放たれていた。客の大半は中高年の男性で、台の前の椅子に座ったままほとんど姿勢を変えずに玉の行方を追っていた。千鶴はその間を縫うように歩き、女性トイレの扉を開けた。中に入ると、外の騒音が少し遠くなった。蛍光灯の下に3つのブースが並んでいた。千鶴はビニール手袋をはめ、スプレーボトルを手に取り、最初のブースから清掃を始めた。汚れは想像していたよりも手ごわかった。便器の縁に固まった汚れ。床のタイルの目地に入り込んだ汚れ。鏡の水垢。千鶴はブラシを動かしながら、41年間で身につけた手順を淡々と実行した。しゃがみ込んでから立ち上がり、次のブースへ移動する。その繰り返しだった。
1時間ほど経った頃、千鶴は立ち上がった拍子に軽い目まいを感じた。壁に手をつき、しばらく動きを止めた。深夜まで続く清掃に体が慣れていなかった。それでも千鶴は休まなかった。洗剤の量を少し調整し、動作のペースを落とした。体の使い方を工夫することは、41年の経験が教えてくれた。千鶴は自分のリズムを作り直しながら黙々と作業を続けた。
深夜12時を過ぎ、本田から「交代で15分だけ休んでいい」と声がかかった。千鶴は清掃道具をカートに戻し、廊下の端に置かれたプラスチックの椅子に腰を下ろした。すると、廊下の先から聞き覚えのある足音が聞こえてきた。千鶴は顔を上げた。廊下の向こうから痩せた女性がカートを押して歩いてきた。頬が落ちくぼみ、髪は後ろでまとめられていたが、その輪郭に千鶴には見覚えがあった。
「松岡さん?」千鶴は立ち上がった。
女性が顔をあげた。目が合った瞬間、女性も表情を変えた。「白石さん…」
松岡ゆり。千鶴がかつて同じ病院のランドリーで働いていた古い同僚だった。年齢は千鶴と同じ66歳のはずだった。しかし今廊下に立っているゆりは、それよりはるかに老けて見えた。頬の肉が落ち、目の下に濃い影が刻まれていた。首元が細く、エプロンの首掛けがずり下がっていた。
「こんなところで…」ゆりは小さく笑った。喜びの笑ではなかった。懐かしさと、この場所で会ってしまったことへの気まずさが混ざったような複雑な表情だった。「白石さんもここで働いてたの。先週から?」
「松岡さんはいつから?」
「3ヶ月くらい前から」ゆりはカートを壁に寄せ、千鶴の隣の椅子に腰を下ろした。「退職してから少し経って、お金が足りなくなって」
2人はしばらく黙っていた。廊下の先からパチンコ台の電子音が漏れ聞こえていた。千鶴はゆりの横顔を見ながら、ゆりの現状を慎重に推し量った。3ヶ月ここで働いているということは、ゆりの生活が千鶴よりも人足先に苦しくなったということだ。やがてゆりが口を開いた。「息子がね、40歳になったのに仕事をやめてしまって。正社員だったのに、上司と揉めたとかで急に辞めたらしくて。それから8ヶ月、家でゴロゴロしてる」
千鶴は相槌を打ちながら聞いていた。「最初は次の仕事を探してるんだろうと思って、何も言わなかった。でも3ヶ月経っても4ヶ月経っても面接に行ってる様子もなくて。聞いたら、しばらく休みたいっていうの。40歳で、しばらく休みたいって」ゆりの声は平坦だったが、その平坦さが感情を抑えるための意志の力を感じさせた。「食費も家賃も全部私の年金から出てる。5万8000円の年金で2人分の生活をしようとしたら、足りるはずがない。だからここに来た」
千鶴は答えに迷った。ゆりの状況は千鶴自身の状況と似ているところもあれば違うところもあった。千鶴の場合は夫が原因だった。ゆりの場合は息子だった。しかしどちらも行きつく先は同じ。この深夜の廊下だった。「うちも…主人がなかなか」千鶴はそれだけ言った。それ以上説明しなくても、ゆりには伝わるものがあるように思えた。ゆりは短く頷いた。「そうか」それだけだった。余分な同情も助言もなかった。それが千鶴にとってはむしろ救いだった。
休憩の15分が終わり、2人は再び立ち上がった。ゆりは自分のカートを持ち、男性トイレの方へ向かった。千鶴も清掃道具を手に取り、喫煙所へ向かった。廊下で一人になった千鶴は、さっきのゆりの横顔をもう一度思い浮かべた。あの落ちくぼんだ頬、目の下の影。3ヶ月でそうなるのか。それともそれ以前からそうだったのか。千鶴には分からなかった。
それから30分後。千鶴が喫煙所の床を拭いていると、廊下の方から鈍い音がした。何かが倒れる音だった。千鶴はブラシを置き、廊下に出た。ゆりがトイレの扉のそばに倒れていた。床に横向きに倒れており、カートが傾いて洗剤が少しこぼれていた。千鶴は駆け寄り、ゆりの肩に手を置いた。「松岡さん、松岡さん!」
ゆりの目は細く開いていた。意識はあるようだったが、返事ができなかった。額が冷たい汗で濡れており、顔色は蛍光灯の光の下で青みが勝って見えた。千鶴はゆりの体を仰向けにし、頭の下に自分のエプロンを畳んで置いた。それから廊下の端まで走り、大きな声で呼んだ。「人が倒れました!」
パチンコ店の従業員が2人駆けつけた。池田も出てきた。救急車の手配は従業員がやってくれた。千鶴はゆりのそばに膝まずいたまま、ゆりの手を握り続けた。ゆりの手は細く骨張り、微かに震えていた。千鶴はその手を握りながら「もうすぐ来ますから」「もうすぐ来ますから」と繰り返した。かける言葉はそれ以外になかった。救急車は十分ほどで到着した。救急隊員が素早くゆりの状態を確認し、担架に乗せていった。千鶴はその様子を廊下の壁に背をつけて見ていた。ゆりが運ばれていく時、一瞬だけゆりの方を見た。何かを言おうとしていたのかもしれなかったが、声にはならなかった。扉が閉まり、救急車のエンジン音が遠ざかっていった。廊下に静寂が戻ってきた。床にはこぼれた洗剤の跡が残っていた。
池田が千鶴のそばに来ていった。「悪いんですけど、残りの清掃続けてもらえます?1人いなくなっちゃったんで」
千鶴は池田の顔を見た。池田の口調に悪意はなかった。これが仕事の現場だということを千鶴は分かっていた。「はい」と答え、清掃道具を手に取った。誰もいなくなった廊下で、千鶴はゆりが倒れた場所の床を拭いた。こぼれた洗剤を丁寧に拭き取り、床の汚れを落とした。ブラシを動かしながら、千鶴は先ほど握っていたゆりの手の感触を思い出していた。細く冷たく震えていたあの手。それがずっと指先の記憶として残り続けていた。
喫煙所を終え、残りのブースも一人でこなした。深夜2時になり、清掃道具を片付けて更衣室に戻ると、本田がコートを羽織っていた。「さっきの方、知ってる人だったの?」本田が訪ねた。
「昔、同じ職場で働いていた人です」千鶴はエプロンを脱ぎながら答えた。
本田は「そうか」と言い、それ以上は何も聞かなかった。2人は更衣室を出て裏口で別れた。
深夜2時過ぎの国道には、大型トラックが時折り走り抜けていく以外、ほとんど人の気配がなかった。バスはとっくに終わっており、千鶴は歩いて帰ることにした。財布の中のわずかな小銭では、タクシーに使う余裕はなかった。街灯の下を一つずつ通り過ぎながら、千鶴は歩いた。夜の住宅街は静まり返っており、犬の鳴き声がどこかから聞こえた。千鶴は一定のペースで歩き続けた。足の裏が硬い地面に慣れるまでの間、千鶴はゆりのことを考えていた。あのまま入院したとしたら、息子はどうするのだろう。息子が家にいてゆりが入院していたとしたら、食事はどうなるのか。生活費はどこから出るのか。考えれば考えるほど答えが出ない問いが積み重なっていった。
1時間ほど歩いた頃、千鶴は自分の家の並ぶ住宅街に入った。深夜3時を過ぎていた。家の灯りは全て消えていた。玄関の鍵を開け、中に入ると秀夫の靴が揃えられていた。千鶴は靴を脱ぎ、音を立てないように廊下を歩いた。台所で水を一杯飲み、そのまま寝室に向かった。秀夫のいびきが聞こえた。千鶴は布団に入り、天井を見た。今日だけでたくさんのことがあった。しかし整理する気力が今は残っていなかった。千鶴はただ目を閉じ、体を横にしていた。いつの間にか浅い眠りに落ちていた。
月末、仕事を終えてロッカーに戻ると、池田が封筒を手渡した。「今月分です。お疲れ様でした。松岡さんの代わりに色々やってもらって助かりました」
千鶴は封筒を受け取り、更衣室で一人になってから中を開けた。4万円が入っていた。千鶴はその紙幣を一枚ずつ確かめ、丁寧に封筒を閉じた。帰り道、千鶴は頭の中で使い道を考えた。電気代の督促状の金額がいくらだったか。膝の痛みと目を薬局で買えばいくらくらいになるか。米があと何日分のこっているか。それぞれの数字を頭の中で並べながら歩いた。全部を解決するには足りないが、優先順位をつければ今月をしのぐことはできるかもしれない。それだけで十分だと思った。家に着き、千鶴はバッグを枕元に置き、封筒の位置をもう一度確かめてから布団に入った。今夜は深く眠れる気がした。
翌朝、目が覚めると外はもう明るかった。千鶴は起き上がり、枕元のバッグに手を伸ばした。バッグの口は開いていた。財布も保険証もある。しかし封筒がなかった。千鶴はバッグを逆さにして中身を全部出した。封筒はなかった。千鶴は立ち上がった。秀夫は玄関の鏡の前に立ち、タグが切られたばかりらしい新しいポロシャツの襟を整えていた。明るいベージュ色の襟にロゴが入ったシャツだった。
「あなた、私の封筒」千鶴は声をかけた。
秀夫は鏡から視線を外さずに答えた。「使った。今日、ゴルフ仲間と焼肉に行くことになったんだ。先月行けなかった分を取り返さないとな。お前は毎晩遅くまで何かやってるんだろう。少しは家計に入れるのが筋というものだ」
千鶴はその場に立ち尽くした。「あれは電気代を払う予定だったんです。それと食費も…」
「細かいことは後でどうにかなる」秀夫は玄関の棚から車の鍵を取り上げた。「お前も少しは融通を聞かせろ」
千鶴は秀夫の腕に手を伸ばした。「待ってください。返してもらわないと電気が止まってしまいます」
秀夫は腕を払いのけた。千鶴の体がよろめき、後ろに下がった拍子に踵が冷蔵庫の前の段差に引っかかり、体のバランスが崩れた。とっさに手をつこうとしたが間に合わず、左の膝が冷蔵庫の下隅に打ち付けられた。鈍い衝撃が走り、千鶴はその場にうずくまった。秀夫は一瞬だけ振り返り、千鶴の様子を見た。しかし何も言わず、玄関の扉を開けて出ていった。扉が閉まる音が台所の空気を振わせた。
千鶴はしばらくの間、冷蔵庫の前の床にしゃがみ込んだまま動かなかった。膝の内側が痛んだが、それよりも体全体の力が抜けたような感覚の方が強かった。台所の床は冷たかった。窓の外では近所の家から朝食の匂いが流れてきていた。誰かが目玉焼きを焼いているらしく、バターの香りが微かに届いた。千鶴はゆっくりと床に手をつき、体を起こした。台所の椅子に腰を下ろし、テーブルの上を眺めた。何も置かれていないテーブルの木目を、千鶴はしばらくの間見ていた。4万円。深夜の国道を歩いて通い、便器を磨き、ゆりが倒れる場面を見て、それでも休まず働いて受け取った金だった。その金が一瞬で消えた。秀夫が焼肉を食べるために。
千鶴は自分の両手を見た。指先のひび割れ、漂白剤で変色した爪の周り。この手で稼いだお金の行き先を、千鶴は自分で決めることができなかった。それがどういうことなのか、頭では理解できていた。しかし感情がそれに追いつくのにはもう少し時間がかかりそうだった。やがて千鶴は立ち上がり、米びつを開けた。残りの米を確認した。あと3日分ほどある。電気代はいつまで持つかわからない。督促状の金額を支払えなければ、いずれ電気が止まる。困った時、秀夫はどうするだろう?おそらくまた千鶴に怒鳴るだろう。千鶴のせいだと言うだろう。千鶴は蛇口をひねり、水を一杯飲んだ。水道代はまだ払えている。少なくとも今日は水が出る。千鶴はそれだけを確認し、米を研ぎ始めた。手を動かしていれば、考えが一時的に静まった。米を研ぐ音、水が白く濁る感触。それだけに集中しようとした。完全にはできなかったが、それでもしないよりはマシだった。千鶴はいつものように朝食の支度を始めた。
膝を冷蔵庫の角に打ち付けた翌日、千鶴は着替えの時初めてその箇所を確認した。膝のお皿の外側に青紫色の痣が広がっていた。押すと鈍い痛みがあったが、骨には異常がないように思えた。病院に行けば診察がかかる。今の千鶴にその余裕はなかった。千鶴は濡れたタオルを固く絞り、痣の上に当ててしばらくそのままでいた。その日の家事はいつもと変わらずこなした。秀夫が起きてくる前に洗濯物を干し、朝食を作り、食後の食器を洗った。秀夫は何も聞かなかった。千鶴の膝のことを気にしている様子はなく、昨日の出来事がなかったかのように新聞を広げてテレビをつけた。千鶴はそれを見ながら、腹が立つという感情が今の自分には浮かんでこないことに気づいた。ただ淡々と手を動かし続けていた。
昼過ぎ、千鶴は薬局まで歩いた。市販の湿布が一箱600円。消炎剤入りの塗り薬が800円。千鶴は財布の中の小銭を数えた。湿布を一枚だけ買うことにした。レジで受け取ったレシートを財布にしまい、薬局を出た。晴れているのに風が冷たかった。
その週から、秀夫の行動が変わり始めた。ゴルフバッグは玄関の隅に立てかけられたまま動かなくなり、代わりに秀夫は午前中から外出するようになった。どこへ行くのかを尋ねると「ちょっとそこまで」とだけ言って出ていった。帰宅時間はまちまちで、昼過ぎに戻ってくることもあれば夕方になることもあった。千鶴が異変に気づいたのはある夜のことだった。秀夫が上機嫌で帰ってきて、缶ビールを何本も続けに空にしながら「今日は2万勝った」と言った。翌日は不機嫌なまま帰ってきて、夕食も黙って食べ、早々に寝室に引き上げた。その翌日はまた上機嫌だった。千鶴はその波のパターンを数日のうちに把握した。秀夫はパチンコを始めていた。千鶴は秀夫のパチンコについて直接何かを言うことはなかった。言ったところでどういう反応が返ってくるかは想像するまでもなかった。ゴルフの代わりにパチンコへ移ったのは、ゴルフ場の会費が払えなくなったからだろうと千鶴は推測した。パチンコなら、負けた日のことを考えなければ、一回の出費が予測可能だ。秀夫なりの対面を保ちながら楽しみを維持しようとする計算があるのかもしれなかった。しかし実態はそう単純ではなかった。秀夫が「2万勝った」といった翌日には「先週の負け分を取り戻した」と言い、その翌日にはまた機嫌が悪く帰ってきた。勝った金は夕食の外食や酒代に消え、負けた分は翌日のパチンコに取り返しに行くことに使われた。秀夫の行動の中に、パチンコで稼ごうという本気の計算があることを千鶴は次第に感じるようになった。それが深刻な問題であることも感じていた。しかし、千鶴にそれを止める術はなかった。
秀夫がパチンコ店に通い始めてから、家計への貢献はさらに減った。以前は秀夫の年金の一部が食費に回ることがあったが、今はそれもなくなっていた。千鶴の年金6万円と、パチンコ店の清掃で稼ぐわずかな収入だけで、2人分の生活費を賄わなければならなかった。食費を削り、光熱費の支払いを後回しにしながら、千鶴はその日その日をやりくりしていた。
ある水曜日の朝、千鶴が洗濯物を干し終えて玄関を入ると、郵便受けの中に数通の郵便物が届いていた。電力会社からの請求書やチラシが数枚。そしてその中に、一際目立つ赤い封筒があった。千鶴は封筒を手に取り、差出人を確認した。見たことのない会社の名前が印刷されていた。消費者金融の会社のようだった。宛先は夫の名前だったが、千鶴が郵便物を管理していたため、秀夫の郵便物は千鶴が受け取ることがほとんどだった。千鶴は居間のテーブルに腰を下ろし、封筒を開けた。折りたたまれた書類を広げると、びっしりとした文字が並んでいた。千鶴はゆっくりと読み始めた。最初の段落を読んだ時、意味がうまく入ってこなかった。もう一度最初から読み直した。「担保」という言葉が出てきた。その担保物件の住所として記載されていたのは、今千鶴が暮らしているこの家の住所だった。借入金額は500万円。返済が滞っており、このまま対応がなければ担保の処分手続きに入る。期限は30日以内とある。
千鶴は書類をテーブルに置いた。両手が微かに震えていた。秀夫がこの家を担保に入れて500万円を借りていた。千鶴は何も知らなかった。いつ、どうやってそんなことができたのか。夫婦の共有財産である家を、片方だけの意志で担保に入れることができるのか。千鶴には分からなかった。分からないことだらけだった。千鶴は書類をもう一度手に取り、隅から隅まで読んだ。しかし法律的な文章は、何回読んでもどの部分が自分に関係しているのか、何をすれば良いのか、読んでも分からなかった。分かったのは30日という期限があること。その期限が、来週から数えて4週間後であること。それだけだった。
千鶴は書類を封筒に戻し、テーブルの上に置いた。窓の外では風が落ち葉を揺らしていた。この家が自分のものでなくなるかもしれない。その言葉の重さを、千鶴はゆっくりと何度も胸の中で転がした。この家に嫁いできたのは25歳の時だった。以来40年以上、千鶴はここで生きてきた。狭い台所も、すり減った畳も、長年の雨染みが残る天井も、千鶴の生活の一部だった。それがなくなるということを、まだ実感として掴むことができなかった。
秀夫が帰ってきたのは夕方だった。パチンコ店帰りらしく、上機嫌とも不機嫌とも取れない疲れたような顔をしていた。玄関で靴を脱ぎながら「飯はできてるか」と言った。
「少し待ってください。それより、これを見てもらえますか?」千鶴は封筒を差し出した。
秀夫は封筒を受け取り、中の書類を引き出した。千鶴はその様子を見ていた。秀夫の目が書類の上を動いた。一瞬だけ、目の周りの筋肉が緊張したのが分かった。しかしそれはほんの一瞬ですぐに表情が戻った。「ああ、これか」秀夫は書類をテーブルに置いた。
千鶴は秀夫の顔を見た。「『ああ、これか』とはどういうことですか?知っていたんですか?」
「知ってるも何も、俺が借りたんだから当然だろう」
千鶴は言葉を失った。「いつのことですか?なぜ私に?」
「お前に言う必要はない。俺の名義の家を担保にして俺が借りた金だ。お前に関係のあることじゃない」
「関係のあることじゃない」って…」千鶴の声が震え始めた。「私もここに住んでいます。ここが取られたら、私はどこへ行けばいいんですか?」
「そんなことは考えてなかった」秀夫はあっさりと言った。
その言葉があまりにも軽かったために、千鶴はしばらく何も言えなかった。考えてなかった。40年間一緒に暮らした妻がどうなるかを、秀夫は考えていなかったのだ。
「500万円を何に使ったんですか?」千鶴はなんとか声を出した。
秀夫は少し間を置いた。「パチンコと飲み代だ。あと…ゴルフの会費の大部分とか、色々だ」
「全部ですか?」
「全部だ」
千鶴はテーブルの上の書類を見た。500万円。千鶴が41年間働いて受け取った退職金の3倍以上の金額が、パチンコと飲み代に消えていた。秀夫の表情には疚しい様子はなかった。ただ少しだけ話が面倒になってきたという疲れのようなものが浮かんでいた。
「なぜ、こんなことを」千鶴は繰り返した。怒鳴っているわけではなかった。声は低く、しかし確かな重さを持っていた。「なぜ私に一言も言わずに?」
秀夫は腕を組んだ。「お前に言えば反対するだろう。反対されても俺の意思は変わらない。だったら最初から言わない方が早い」
「反対するかどうかじゃなくて…」千鶴は何と言えばいいか探した。「夫婦の財産でしょう。この家は…」
「名義は俺だ」秀夫は即座に返した。「名義が俺である以上、俺が決めることだ。お前が何十年家事をしようが、それは関係ない」
千鶴はその言葉を聞きながら、40年分の記憶が一気に頭の中を流れていく感覚を覚えた。この家の雨漏りを直したのは千鶴だった。台所のタイルが剥がれた時も、千鶴が業者に連絡し支払いをした。秀夫が長距離の仕事で家を開けている間、この家を守り続けたのは千鶴だった。それが「関係ない」という一言で切り捨てられた。
「あなたは」千鶴は声を絞り出した。「私が41年間、この家で何をしてきたか分かっていますか?」
秀夫は千鶴の顔をまっすぐ見た。「分かってる。お前は家事をしてた。それはそうだ。でも俺は外で稼いで、この家を持てるようにしたんだ。どちらが重要かは言うまでもないだろう」
千鶴は秀夫の目を見た。秀夫は本気でそう思っているのだということが、その目から伝わってきた。怒りで言っているわけでも、千鶴の感情を傷つけようとして言っているわけでもない。秀夫にとってそれは当然の論理だった。それが千鶴には、怒鳴られるよりも重くのしかかった。
「30日で、この家はどうなりますか?」千鶴は声のトーンを落として尋ねた。
「どうにもならなければ、取られるだろう」秀夫は平然と言った。「俺は妹のところに少し世話になるつもりだ。お前はまあ、なんとかするだろう」
千鶴は秀夫の言葉をもう一度頭の中で繰り返した。「俺は妹のところに行く。お前は何とかするだろう」。秀夫の計画の中に、千鶴の存在が入っていなかった。
翌朝、千鶴が台所で朝食の支度をしていると、寝室から物音がした。引き出しを開ける音、衣類が積み重なる音。千鶴は台所に立ったまま、音の意味を推し量った。しばらくして秀夫が廊下に出てきた。大きな旅行鞄を手に持っていた。鞄は膨らんでいた。
「行ってきます」秀夫は言った。挨拶のようでいて、挨拶ではなかった。
千鶴は台所から出た。「いつ戻ってくるんですか?」
「分からん。妹のところでしばらく様子を見る。借金取りが来ても、向こうには関係ないからな」秀夫はそれを当たり前のことのように言った。「お前は一人の方が静かでいいだろう」
「静かでいい」というのは…。千鶴は秀夫の顔を見た。「私をここに置いていくということですか?」
「お前には年金がある。パチンコの仕事もあるんだろう。なんとかなる」
千鶴は鞄を持った秀夫の腕に手を伸ばした。「この家はどうするんですか?私はどこへ行けばいいんですか?」
秀夫は腕を引いた。千鶴の手が虚しく空を切った。「それはお前が考えることだ。俺はもう決めた」
秀夫は棚の上に置かれていた千鶴の小銭貯金の陶器の瓶を手に取り、ためらいなく逆さにした。ジャラジャラと小銭が畳の上に落ちた。秀夫はそれを上着のポケットに入れた。千鶴はそれを見ていたが、止めなかった。止めようとする力が、もうどこにも残っていなかった。
秀夫は鞄を肩にかけ、玄関へ向かった。靴を履きながら、一度だけ振り返った。「お前も少し、自分で何とかすることを覚えろ。俺に頼りすぎだ」
玄関の扉が閉まった。閉まる音は特別大きくも小さくもなかった。ただ扉が閉まり、鍵がかかる音がした。そして静寂が戻ってきた。千鶴は台所の椅子に座り込んだ。朝食の支度は途中のままだった。コンロの上で湯が沸き、やかんが小さく鳴り続けていた。千鶴はしばらくの間、その音をただ聞いていた。
秀夫がいなくなってから、千鶴は家の中を歩いて回った。特に目的があったわけではなかった。ただ急に広くなったような気がする家の中を、確かめるように歩いた。寝室のドアを開けると、秀夫が使っていた側の布団が乱れたままだった。引き出しが半開きになっており、残していった衣類が少し乱れていた。千鶴はその引き出しを静かに閉めた。秀夫の側の布団の乱れを直し、枕を揃えた。なぜそうするのか自分でも分からなかった。ただ手が動いた。台所に戻り、冷蔵庫を開けた。中には卵が3個と大根の半端と豆腐が一丁あった。それだけだった。電気代の督促状はまだ有効で、支払いが間に合わなければいつ電気が止まるかわからない。電気が止まれば冷蔵庫も止まる。この卵も豆腐も、早めに使い切った方がいい。千鶴はそんなことを考えながら冷蔵庫を閉めた。箪笥に戻り、棚の上の赤い封筒をもう一度手に取った。30日以内。今日を含めて残り何日か、千鶴は暦を見て数えた。26日だった。千鶴はその数字をメモ帳に書き留めた。なぜ書き留めるのか、書き留めて何をするのかは分からなかったが、何かを記録することが今できる唯一のことに思えた。
夕方になると、千鶴は近所を少し歩いた。秀夫がいなくなったことを誰かに話したいわけでもなく、ただ外の空気を吸いたかった。住宅街の路地を一回りして帰ってきた。玄関の鍵を開けながら、帰宅しても「ただいま」を言う相手がいないということを初めて意識した。40年間、秀夫がいてもいなくても千鶴はこの扉を開けてきた。しかし今日の静けさは、これまでとは種類が違った。秀夫が出張で家を開けている時の静けさとは、根本的に何かが違っていた。千鶴はしばらく玄関に立ったまま、その違いが何なのかを考えた。答えは出なかった。
数日後、千鶴はいつも通りパチンコ店に出勤した。更衣室でエプロンをつけながら、本田にゆりのことを尋ねてみた。「松岡さん、その後どうなったか何か聞いていますか?」
本田は首を振った。「店長に聞いたら、まだ入院してるって。それ以上は分からないって言われた」
千鶴は頷いた。ゆりの息子は今どうしているだろうと思った。母親が入院して、家には40歳の息子が一人残されている。年金は入院中は出ない。息子が働いていなければ、収入はゼロだ。そういう状況でも、息子は仕事を探すだろうか。千鶴には分からなかった。ただ、ゆりが退院した時、戻る家が保たれているかどうかが心配だった。清掃の作業をしながら、千鶴はゆりのことを何度か頭に浮かべた。自分とゆりは似たような場所にいる。原因は違っても、どちらも誰かに消耗させられ、それでも一人で立っていなければならない。違うのは、ゆりには息子という一応の家族がいることだ。千鶴には、今も連絡を取れる身内も友人もほとんどいなかった。
深夜2時に仕事を終え、千鶴は一人で夜道を歩いて帰った。歩道を離れ、住宅街に入ったところで、ふと立ち止まった。前方に街灯があり、その光の円の中に一匹の猫が座っていた。野良猫らしく毛並みは荒れていたが、姿勢は安定していた。千鶴が近づいても猫は動かなかった。ただ黄色い目で千鶴を見ていた。千鶴は猫の前で少しの間立ち止まり、それから歩き始めた。猫は動かなかった。家に着き、電気をつけた。今は一人の人間もいない空間を見渡し、千鶴は上着を掛けた。台所でお茶を淹れ、椅子に座って飲んだ。赤い封筒が目に入った。残り23日。千鶴はその数字を今夜もメモ帳に書き直した。
布団に入ってから、千鶴はしばらく眠れなかった。今まで眠れない夜には、隣で秀夫の寝息が聞こえていた。それがうるさいと思うこともあったし、逆にその音がなければ落ち着かないと感じることもあった。今夜はその音がなく、家の中が本当に静かだった。30日の期限が来て家が差し押さえられたとして、その後はどうなるのか。千鶴は頭の中でその先を想像しようとした。住む場所を失った時、千鶴が頼れる人間は誰もいなかった。子供はいない。兄が一人いたが、20年以上前に疎遠になり、今どこにいるかも分からなかった。友人と呼べる人間も、長年働き続ける中でいつの間にかいなくなっていた。千鶴はそういう状況に気づかぬうちになっていた。仕事と家事で時間が埋まり、誰かと関わる余裕が少しずつ失われていった。秀夫の存在が、千鶴が外の人間関係を持つことを妨げていた側面もあった。秀夫は千鶴が女性同士で食事に行くことを心よく思わなかった。電話で長話をすることも好まなかった。千鶴はそういう機会を少しずつ断り続け、いつの間にか連絡を取る相手が誰もいない状態になっていた。それでも以前は秀夫が家にいた。良い夫ではなかったかもしれないが、家に帰れば誰かがいた。それが今は、誰もいない。千鶴は布団の中でそのことを考えながら、孤独というものが音のない形で存在することに気づいていた。公園で会ったフミのことを思い出した。夫を10年前になくし、一人で生活費を工面して、「恥ずかしいと思う気力もなくなった」と言っていたフミ。千鶴はあの時の言葉を聞いて、遠い未来の話のように感じていた。しかし今、それは遠い話ではなくなっていた。千鶴はそのことを確かめるように、もう一度フミの言葉を頭の中で繰り返した。「明日のことは明日考えればいい」。千鶴にはまだその境地に達する術が分からなかった。ただ、いつかそこにたどり着く日が来るかもしれないという予感だけが、薄く静かに胸の中にあった。
秀夫が出ていってから10日が経った。家は静かなままだった。千鶴は毎朝5時半に目を覚まし、台所でお茶を淹れ、一人分の食事を作った。一人分の食事は二人分の時よりもずっと少量で良かった。米びつの減りが遅くなり、それだけが唯一この状況のわずかな慰めだった。毎日の行動はほとんど変わらなかった。午前中に洗濯と掃除をし、昼過ぎに近所のスーパーへ買い物に行き、夕方に夕食の支度をし、夜になるとパチンコ店へ向かった。秀夫がいた頃と、外から見た生活の輪郭はほとんど同じだった。しかし家の中の空気は明らかに変わっていた。秀夫がいた頃の重さとは別の種類の重さが、今は家の中に漂っていた。
役所には2度足を運んだ。最初は法律相談の窓口に、次は住宅支援の窓口に。担当者はどちらも丁寧に話を聞いてくれたが、千鶴の状況を即座に解決する制度はないことが話をするうちに明らかになっていった。夫が担保に入れた家の問題は、まず法的な手続きが必要で、それには弁護士に相談することが必要で、弁護士への相談には費用がかかる。そういう説明を受けるたびに、千鶴の手元にあるものの少なさを改めて突きつけられた。2度目の役所帰りに、千鶴は公園のベンチに立ち寄った。フミがいるかもしれないと思ったが、その日は空き缶を拾う人影はなかった。ベンチに一人座り、鳩を眺めた。犬を連れた老人、子供を乗せた自転車、スマートフォンを見ながら歩く人。誰もが自分の世界の中にいて、千鶴の存在など目に入っていなかった。千鶴はしばらく座っていたが、やがて立ち上がり、家へ向かった。
12月の第1週に入ると、冷え込みが急に厳しくなった。夜、千鶴は電気ストーブのスイッチを入れようとしたが、ウンともスンとも言わなかった。コンセントを確認し、電源を確かめ、それでも動かなかった。翌日、電力会社から通知が届いており、それでようやく電気の供給が止まったことを知った。電気代の督促状に対応できていなかった。次の手続きをするためには、未払い分と手数料を支払う必要があり、千鶴の今の手元にある現金ではすぐには対応できなかった。電気のない夜は、思っていたよりも暗かった。ロウソクを一本探し出し、台所のテーブルに立てた。小さく揺れる炎の光の中で、千鶴は手のひらを眺めた。漂白剤で荒れた指先が、ロウソクの光に照らされてオレンジ色に見えた。寒さは深夜になるほど増した。千鶴は毛布を3枚重ね、その中に体を縮こまらせた。眠れるほどではなかったが、横になることはできた。天井の木目は暗くて見えなかった。千鶴は目を開けたまま、闇の中で息をした。羊を一匹数え、また一匹数えた。眠れない時にいつもそうしていた。夜明け近くになってようやく浅い眠りに落ちた。
翌朝、千鶴は近所の銭湯まで歩いた。番台の主人は常連の千鶴の顔を見ると、何も言わずに小さく頷いた。千鶴は湯に浸かりながら、体の芯まで染み込んでいた冷えが少しずつほぐれていくのを感じた。湯船の中で千鶴は目を閉じた。あと何日、こうして銭湯に来られるだろう。銭湯代は一回450円。1週間で3000円を超える。それだけの余裕が、後どれくらい続くか。お湯から上がり、脱衣所で体を拭きながら、千鶴は鏡の前に立った。66歳の自分の顔をゆっくりと見た。病院で働いていた頃は、更衣室で顔を見ても特に何も感じなかった。今は少し違って見えた。目の周りの皺が前より深いような気がした。頬が少し落ちたような気もした。栄養が足りていないのかもしれなかった。千鶴は洗面道具を袋にしまい、銭湯を出た。
12月の第2週のある朝、玄関の郵便受けに一通の書類が入っていた。封筒ではなく、配達証明の形で届けられた書類だった。千鶴は居間のテーブルに座り、それを開いた。読み進めていくうちに、千鶴の手が止まった。差し押さえの手続きが正式に開始されるという通知だった。来週中に家の鍵を指定の場所に返却し、退去しなければならないとある。千鶴はその文面を3度読み直した。3度読んでも内容は変わらなかった。千鶴は書類をテーブルに置き、両手を膝の上に置いた。部屋の中を一度見回した。台所の棚に並んだ食器。寝室との間の引き戸。居間の隅に積み上げた毛布。何十年もかけて少しずつ積み重なってきた生活の痕跡がそこにあった。来週中に、それを片付けて出て行かなければならない。千鶴は立ち上がり、台所に行った。電気がないので、コンロのガスだけは使えた。千鶴は鍋に水を張り、火をつけた。湯が湧くのを待ちながら、どこへ行くかを考えた。答えは出なかった。
その日の午後、千鶴は家の中を一部屋ずつ歩いて回った。整理をしようとしたわけではなかった。ただ歩きたかった。台所には40年以上使い込んだまな板があった。表面に無数の包丁の跡がついており、縁が少しかけていた。千鶴はそれを両手で持ち上げ、裏側を確認した。秀夫が結婚祝いにもらった引き出物の一つだと聞いていたが、送り主の名前はもう覚えていなかった。寝室には千鶴が長年使ってきた裁縫箱があった。蓋の表面が少し剥げていたが、中に針と糸とボタンが整理して入っていた。千鶴は蓋をそっと開けて閉じた。廊下の奥の押し入れを開けると、秀夫が残していった衣類がいくつかあった。季節外れの厚手のコートと、古いゴルフウェアの上下。秀夫が持っていかなかったものだった。千鶴はそれを眺め、押し入れを閉めた。これをどうするかは後で考えることにした。
居間に戻り、窓の外を眺めた。庭先の植木が風に揺れていた。空は薄曇りで、光の加減が柔らかかった。千鶴はしばらくの間、景色をただ見ていた。この窓から見える景色も、もうすぐ自分のものではなくなる。それがどういう感覚なのかを、千鶴はまだ言葉にできなかった。
夕方近くになって、千鶴はコートを羽織り家を出た。行き先を決めないまま玄関の鍵を閉め、歩き始めた。住宅街の路地を抜け、千鶴の足は自然と公園の方へ向かっていた。空は暮れかかっており、街灯がいくつか灯り始めていた。公園に入ると、夕方の散歩をする人の姿がいくつかあった。犬を連れた夫婦。ジョギングをする若い男。それぞれが自分のペースで動いていた。千鶴は奥のベンチへ向かいながら、植え込みを見た。そこに、いつもの人影があった。大塚フミだった。今日は缶を拾っているのではなく、植え込みの脇に置いた段ボールの上に腰を下ろし、何かを食べていた。コンビニの袋に入ったらしいおにぎりだった。フミは千鶴に気づき、顔を上げた。「来たね」それだけ言った。
千鶴はフミの近くで立ち止まった。「ここにいてもいいですか?」
「もちろん」フミはおにぎりの包みを畳みながら、隣を示した。足元にはもう一枚のダンボールが畳まれていた。千鶴はフミが示したダンボールを見た。それを受け取るということが何を意味するか、分かっていた。それでも千鶴は、そのままフミの隣に座ることにした。ダンボールを広げ、地面に置き、その上に腰を下ろした。地面からの冷気が、薄いダンボールを通して伝わってきた。千鶴はコートの前を合わせた。フミは黙っておにぎりを食べ、開いた袋を丁寧に畳んだ。
「家のこと、どうなった?」フミが尋ねた。
千鶴は驚いた。前回あった時、そんな話をした覚えはなかった。しかしフミには、千鶴が置かれている状況の輪郭が何か見えているのかもしれなかった。「来週中に、出ることになります」千鶴は答えた。
フミは頷いた。驚いた様子も、同情した様子もなかった。「そうか。行くところはあるか?」
「ありません」
フミはしばらく黙っていた。公園の奥でサッカーをしていた子供たちが、親に呼ばれて帰っていった。だんだんと人が減り、公園が静かになっていった。
「私が最初にここで夜を明かしたのは、3年前の冬だ」フミが静かに話し始めた。「あの時は惨めで情けなくて、夜中ずっと泣いていた。でも泣いても誰も来なかった。泣き終わったら、自分で起き上がるしかなかった」
千鶴はフミの横顔を見た。フミの目は公園の先の暗い空を向いていた。「それから少しずつ知恵がついてきた。どこに行けば温かい食事がもらえるか、どこで雨をしのげるか、どこに相談すれば次の手が見えてくるか。全部、やりながら覚えた。最初から知っていた人間はいない。みんなそうやって覚えていく」
「私には…」千鶴は言いかけた。「私には、そういうことを聞ける人が誰もいなくて」
「知ってる」フミは千鶴の方を見た。「だから、私がいる」
千鶴はフミの目を見た。フミの目は穏やかだったが、その奥には長い時間をかけて磨かれてきた静かな強さのようなものがあった。それは千鶴が今まで見てきたどんな目とも違った。フミはダンボールの中から折りたたまれた紙を取り出した。手書きのメモで、いくつかの住所と電話番号が書かれていた。「これは無料の食事を配っているところ。曜日と時間が決まってるから、それに合わせていく。こっちは生活保護の申請ができる場所。役所に行っても追い返されることがあるから、ここのスタッフに同行してもらうと通りやすい」
千鶴はメモを受け取り、暗い中で文字を読もうとした。フミがスマートフォンのライトを向けた。電気のない家に住んでいる千鶴より、フミの方が実用的な道具を持っていた。「生活保護というのは、私でも申請できるんですか?」千鶴は尋ねた。
「できる。66歳、資産なし、年金だけでは最低生活費を下回っていれば、条件は満たしてる。ただ、申請してもすぐには降りないし、審査の間が一番しんどい。だから、とにかく早く動くことだ」フミはそう言い、役所で断られても諦めるなと付け加えた。
千鶴はメモをコートのポケットにしまった。こういう情報がどこにあるのか、千鶴は知らなかった。役所の窓口でパンフレットをもらうことはできたかもしれないが、窓口に並んでいる間に何度も心が折れかけた。フミのように実際に経験した人間から直接教えてもらうことと、書類を読むこととは、全く別の重みがあった。公園はすっかり暗くなっていた。街灯の光が地面に丸く落ちていた。千鶴とフミは、ダンボールの上に座っていた。しばらく2人は黙っていた。
「怖いか」フミが訪ねた。
千鶴は少し考えてから答えた。「怖いかどうか、よくわからないんです。情けないとか惨めだとかいう気持ちも、あまり出てこなくて。ただ、これから何をすればいいのか、何から手をつけて良いか。それだけがぼんやりとして」
フミは頷いた。「それでいい。怖いと思う余裕もないほど切羽詰まってる時は、案外落ち着いているものだ。怖くなるのは、少し余裕ができてからだ」
千鶴はその言葉を聞きながら、自分がどういう状態にあるのかを改めて考えた。夫に去られ、家を追われ、持っているものがほとんどない。それでも今この瞬間は泣いていなかった。感情が動いていないわけではなかった。ただ、感情よりも先に次に何をするかという計算が頭の中を占めていた。それが冷静なのか麻痺しているのか、千鶴には分からなかった。
「41年働いたんですよ」千鶴はぽつりと言った。「それだけがずっと自分の誇りだった。遅刻も休みもしなかった。でも、退職した日からこういうことになって」
フミは何も言わなかった。答えを求めているわけでも、慰めを求めているわけでもないことが、フミには分かっているようだった。
「こんなになるって分かってたら、どうしただろうって考えることがあります。でも、分かってたとしても、他のやりようもなかったと思う。結局、同じだったと思う」
「そうだ」フミが短く言った。「みんなそうだ。だから、これからのことだけ考えればいい」
夜風が公園の木々の間を通り抜けていった。千鶴はコートの襟元を合わせた。ダンボールの上に座ったまま、千鶴は自分の手を見た。41年間、毎日何かを洗い、拭き、磨いてきた手。今夜、この手は何も持っていなかった。仕事道具もなく、財布も薄く、帰る家も残り少ない。それでも、この手は今日もここにあった。フミが立ち上がり、少し離れた植え込みの近くに移動した。夜になってからも、缶の見回りをするらしかった。千鶴はその背中を見ていた。70歳になっても一人でここに立っているフミの後ろ姿が、千鶴の目に焼きついた。かっこいいとか、哀れだとか、そういう言葉では言い表せない何かがあった。千鶴はダンボールの上に座ったまま、しばらくの間空を見上げた。雲が出ており、星はほとんど見えなかった。遠くから電車の音が聞こえた。誰かが今も電車に乗り、どこかへ向かっている。千鶴の知らない生活が、この町のあちこちで続いていた。ポケットの中のフミのメモが手のひらに触れた。千鶴はそれをしっかりと握った。来週、家を出なければならない。行き先はまだない。持っているものはほとんどない。それでも今夜、千鶴の隣にはフミの言葉と一枚のメモがあった。それが今の千鶴に与えられた全てだった。しかし千鶴はそのメモを、ポケットの中でしっかりと持ち続けた。明日、また一日が始まる。今夜が終われば、また朝が来る。それだけのことが、今の千鶴の中で小さく、しかし確かに息づいていた。



