台所で夕食の支度をしていた時、リビングから息子の声が聞こえてきた。「母さんなんていなくなればいい。生きてるだけでコストがかかる」。私はその場に立ち尽くし、持っていた皿を落としそうになった。三年前、夫を亡くした後、私の年金と家事労働で息子夫婦を支えてきた。なのに彼らは、私をただの「無料のサービス」だと思っていたのだ。私は震える手で、引き出しの中から一枚の書類を取り出した。この家の権利書と、夫が…

台所で夕食の支度をしていた時、リビングから息子の声が聞こえてきた。「母さんなんていなくなればいい。生きてるだけでコストがかかる」。私はその場に立ち尽くし、持っていた皿を落としそうになった。三年前、夫を亡くした後、私の年金と家事労働で息子夫婦を支えてきた。なのに彼らは、私をただの「無料のサービス」だと思っていたのだ。私は震える手で、引き出しの中から一枚の書類を取り出した。この家の権利書と、夫が...

静まり返った夜の廊下で、私は最愛の息子の声を聞いてしまった。夫を早くに亡くし、女手一つで息子を育て上げ、この家を守り抜いてきた。定年を過ぎても、共働きの息子夫婦を支えるために家事の一切を引き受け、食費も光熱費も全て私の年金から出していた。それなのに、彼らは私のことを「いなくなればいい」「生きてるだけでコストがかかる」と、そう言っていたのだ。

私は手に持っていたお茶のトレーを落としそうになるのを必死にこらえた。指先が震え、心臓の音が耳元でうるさいほどに打ち鳴らされる。リビングのドアの隙間から漏れ聞こえてくるのは、私を突き離すような冷たい言葉の数々だった。暗い廊下で立ち尽くす私の背中に、得体の知れない悪寒が走る。何かが決定的に壊れた音が、胸の奥で聞こえた。

あの時、彼らは気づいていなかった。自分たちがどれほど愚かな発言をしたのか。そして1週間後に、彼らの平穏な生活が跡形もなく消え去ることになるということを。

私は暗闇の中で静かに決意を固めた。悲しみを超えた、冷徹なまでの怒りを宿して。「お望み通りにしてあげるわ」——声に出さず、ただ唇を噛みしめた。これが私と息子夫婦との、最後にして最大の戦いの始まりだった。

あの夜、私は古びたタンスの奥に隠してある一通の書類を取り出した。この家は私の名義だ。そして亡き夫が残してくれたこの一等地の土地も。彼らは私が家族だからという理由で、死ぬまでこの場所を無償で提供し続けると信じて疑っていないのだろう。その甘えが彼らをどん底に突き落とすことになるとも知らずに、私は机に向かいペンを走らせた。

翌朝、私はいつものように朝食を作り、いつものように笑顔で2人を送り出した。

「お母さん、今日の夕飯はハンバーグがいいな。あ、肉は高いやつにしてよね。ミカが疲れてるからさ」

冷たい言葉を吐いた口で、平然とそんな要求をしてくる。私は短く「ええ、分かったわ」と答えた。それがこの家で交わす最後の日常の会話になるとも、夢にも思っていない彼らの背中を、私はただ静かに見送った。

私の名前は佐藤里子。今年で65歳になる。この家は10年前、建築士だった亡き夫が、私が一生安心して暮らせるようにと情熱を込めて設計し建ててくれたものだ。急行が止まる駅から徒歩圏内という立地で、庭には季節ごとの花が咲き、夫がこだわった木材の床は深い艶を放っている。私にとってこの家は、夫との思い出が詰まった宝箱そのものだった。

3年前、息子の健二が結婚すると言い出した時、私は心から喜んだ。連れてきた美香さんはおっとりとしたお嬢様風の女性で、最初はとても感じが良かった。彼女は言った。「お母様、お一人では広いお家で大変でしょう。私たちと一緒に住みませんか? ケニさんと相談して、お母様を支えたいって決めたんです」

その言葉を信じた私が、どれほど愚かだったか。同居して半年も経つと、2人の本性が剥き出しになってきた。最初は遠慮がちだった家事の依頼が、いつの間にか「やって当然」の命令に変わった。食費、光熱費、果ては固定資産税に至るまで、そのほとんどを私の年金と夫が残してくれた貯金から出していた。健二は「俺たちは将来のために貯金しなきゃいけないんだ。母さんはもう十分持ってるだろう」と言い、家に入れようとはしなかった。

「お母さん、このお出汁、少し薄くないですか? 私の実家ではもっと高級な昆布を使っていたので、口に合わなくて」
「お母さん、明日の朝は早いから、5時に朝飯準備しといて。あ、Yシャツのアイロンも忘れずにな」

そんな言葉に傷つきながらも、私は家族だから、息子が可愛いからと自分を納得させてきた。しかし昨夜聞いたあの言葉は、私が30数年間愛情を注いで育ててきた母親としてのプライドを無惨に踏みにじった。私が身を削って提供してきた食事も、清潔な衣服も、快適な住まいも、彼らにとっては無料のサービスに過ぎず、提供している私はコストでしかなかったのだ。

私はスマートフォンを取り出し、ある番号を呼び出した。それは以前から熱心にこの土地を譲ってほしいと打診してきていた、地元の不動産会社の担当者・田中さんの連絡先だった。

「もしもし、田中さんですか? 佐藤です。ええ、以前お話ししていた件ですが、売却の手続きを進めたいと思いまして。条件は1つ、1週間以内に全ての契約を完了させ、代金の決済まで済ませることです。それが可能なら、今すぐお会いしたいのですが」

電話の向こうで田中さんが息を飲むのが分かった。「え?

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あ、本当ですか? 以前はあんなに固く拒まれていたのに。1週間ですね。承知いたしました。上野と調整し、最高条件の買い手を見つけます。今日これから伺ってもよろしいでしょうか? 」

「お願いします。私は本気です」

電話を切り、私は深く息を吐いた。もう後戻りはできない。でも不思議と体は軽くなっていた。

夕方、田中さんと不動産鑑定士がやってきた。話は私の想像をはるかに超えるスピードで動き始めた。

夕闇が迫る頃、玄関の鍵が開く音がした。「ただいまー。ああ、疲れた。母さん、ハンバーグ焼けてる? 腹減ったんだけど」土足同然の勢いでリビングに入ってきた健二は、カバンをソファに放り投げると、そのままどっかりと座り込んだ。美香さんも、手洗いうがいもそこそこに「ふう。今日も残業で最悪」と独り言のようにこぼしながら、自分の部屋へ着替えに行ってしまった。

私がテーブルにハンバーグを並べると、健二は箸を手に取り一口食べて、露骨に顔をしかめた。「なん?

ソース。デミグラスじゃないの? 照り焼きって気分じゃないんだけど」

「ごめんなさい、健二。今日はデミグラスの材料が足りなくて」
「足りないなら買ってくればいいだろう。専業主婦なんだから時間は腐るほどあるんだし。ミカも楽しみにしてたんだぞ」

美香さんも席につくなり、ハンバーグをツンツンと突き刺しながらため息をついた。「お母さん、私、昨日も言いましたよね。夜は炭水化物を控えてるから、付け合わせはポテトじゃなくてブロッコリーにして欲しいって。また太っちゃうじゃないですか」

私は何も言い返さず、ただ黙って自分の分の粗末な食事を口に運んだ。以前の私なら「ごめんね、次は気をつけるわね」と平身低頭に謝っていただろう。でも今の私には、彼らの言葉が遠い世界の雑音のようにしか聞こえなかった。

「ねえ、聞いてるの? お母さんって最近時々ぼーっとしてますよね。やっぱり年齢的なものかしら。ケニさん、今のうちに真剣に考えた方がいいんじゃない? 」

美香さんが健二に目くばせをした。その視線の先にある意味を、私は痛いほど理解していた。
「あ、母さん、明日から少し片付けを始めてくれないか?

2階の奥の部屋、あそこをミカの趣味の部屋にしたいんだ。母さんの荷物、もう何年も使ってないものばかりだろう。全部捨てていいからさ」

「あそこはお父さんの書斎だった場所よ。まだ整理が終わっていなくて」と私が静かに答えると、健二は鼻で笑った。
「親父はもう死んで10年だぞ。死んだ人間の部屋をいつまでも取っておいてどうするんだよ。土地の無駄、スペースの無駄だ。俺たちがこの家をもっと有効活用してやるって言ってるんだから、ありがたく思えよ」

「そうですよ、お母さん。私たちは将来この家をリフォームして子供部屋も作りたいんです。お義母さんが一人で広い部屋を占領しているのは、正直言って効率が悪いわ。あ、もしかして、どこか別の場所を探し始めた方がいいのかしら。老人ホームとか、最近は手頃なところも多いみたいですし」

美香さんの言葉は刃物のように鋭く私を切り裂いた。まるで私がこの家にいること自体が、彼らの明るい未来を邪魔している邪魔者であるかのような口ぶりだ。私はただ「分かったわ。部屋の片付けね。進めておくわ」と言った。その従順な態度に、健二は満足そうに頷いた。

「そうそう。最初からそう言えばいいんだよ。母さんは黙って俺たちの言うことを聞いてればいいんだ。食事も掃除も洗濯も、それが母さんの役割なんだからさ。余計な意見はいらないんだよ」

私は黙って席を立ち、キッチンの奥で洗い物を始めた。水の音に紛れて、2人の笑い声が聞こえてくる。彼らは私がどんな気持ちでこの家を守り、どんな気持ちで彼らを支えてきたのか、一瞬たりとも考えたことはないのだろう。

翌日、私は不動産屋の田中さんから連絡を受けた。すぐにでもキャッシュで買い取りたいという個人投資家の方がいるという。私はその場で契約書に判を押す準備をしていた。ただし、田中さんには1週間後の午前中までは、誰にも内緒にしてほしいと強く頼んでおいた。

その夜は、土砂降りの雨だった。私は窓の外を見つめながら、自分がこの家を出る準備を静かに進めていた。彼らが旅行に行っている間に、全てを終わらせる。

翌朝、私はいつもより1時間早く起き、家中の空気を入れ替えるために窓を全開にした。この家に染みついた息子夫婦の傲慢な気配を全て追い出したかった。台所に立ち、彼らの朝食を作り始める。これが私がこの家で作る最後のまともな朝食になるだろう。

「ちょっとお母さん、寒いじゃないですか。何考えてるのよ」2階から降りてきた美香さんが、肩をすくめながら叫んだ。彼女は厚手のカーディガンを羽織り、不機嫌そうに窓を乱暴に閉めた。

「空気を入れ替えようと思って。ごめんなさいね」
「そんなの、私たちが起きてくる前に済ませておいてくださいよ。冷えは美容の敵だって、何度も言ってるじゃないですか」

美香さんはテーブルにつくなり、並べられた朝食を見て鼻を鳴らした。「またパン。たまにはエッグベネディクトとかおしゃれなもの作れないんですか? ケニさんの稼ぎで食べてるんだから、もう少し奮発してもいいと思うんですけど。あ、もしかして、レシピも覚えられないくらいボケが進んじゃった? 」と意地悪く笑う。

そこへ、あくびをしながら健二が降りてきた。美香さんが「そういえばケニさん、お母さんの部屋の荷物、業者に頼んで持って行ってもらってもいいわよね。整理なんて待ってたら、いつまで経っても私の趣味の部屋ができないわ」と言うと、健二は「ああ、いいよ。どうせガラクタばっかりだろ。母さん、今中に必要なものだけまとめておけよ。後の古いアルバムとか親父の遺品とか全部捨てていいから。あんなの持ってても一文にもならないし、ただのゴミの巣だろう」と言った。

自分の父親が残したものをガラクタと切り捨てた息子の言葉に、私は一瞬、握っていた皿を強く握りしめた。しかし、私は何も言わなかった。「分かったわ。必要なものは自分で片付けるわ」と、絞り出すような声で答えた。

すると突然、美香さんが思い出したように言った。「あ、ケニさん、週末の温泉旅行。もう1ランク上の部屋にアップグレードしない? さっきお母さんの部屋の引き出しを掃除してたら、古い封筒に結構な額の現金が入ってたのを見つけたの」

私の心臓がドクンと跳ねた。それはいざという時のために、そして夫の法事のためにコツコツと貯めていた現金だった。

「え、マジで?

いくらあったんだ? 」
「数えたら、15万もあったわよ。お母さん、こんなに隠し持ってたなんてずるいですよね。どうせ使い道なんてないんだから、私たちが有効に使ってあげた方がいいわ。ねえ、お母さん、これ、私たちの結婚記念日のプレゼントとしてもらってあげる。いいわよね」

美香さんは私の顔も見ずに平然と言い放った。それはお願いではなく、決定事項としての通告だった。

「それはお父さんの法事のための大切なお金なの。返してちょうだい」と、私が珍しく語気を強めると、健二がテーブルをドンと叩いた。

「うるさいな。法事なんて坊主に金を払うだけの無駄遣いだろう。親父だって死んだ後まで金がかかるなんて思ってないよ。それより今生きてる俺たちが楽しく過ごす方がよっぽど供養になるんだ。分かったらガタガタ言うな。これは俺たちが預かっておく」

健二は美香さんからその封筒を受け取り、自分のポケットにねじ込んだ。私の目の前で、白昼堂々と行われた盗み。実の息子とその嫁による、情け容赦ない略奪だった。それでも私はこれ以上言葉を重ねるのをやめた。何を言っても彼らには届かない。私はただ静かに目を伏せ、嵐が過ぎ去るのを待つように立ち尽くしていた。

「じゃあ行ってくるわ。母さん、帰るまでに部屋を空っぽにしておけよ。もし残ってたら、全部ゴミ袋に突っ込んで庭に放り出すからな」健二はそう言い捨てて、美香さんと連れ立って出勤していった。

バタンと玄関のドアが閉まる音が、この家との決別の合図のように聞こえた。私は誰もいなくなったリビングで、深く息を吐いた。目から涙が伝ったが、それは悲しみの涙ではなかった。あまりの仕打ちに心が完全に冷え切ってしまった証だった。

その後、私は田中さんに連絡を入れ、荷物の搬出を始めた。夕方、大きなトラックが家の前に止まった。作業員たちがテキパキと私の荷物を運び出していく。健二が「全部捨てろ」と言ったものは、私の手で大切に別の場所へと移された。

夜、仕事から帰ってきた健二と美香さんは、家の中の様子が少し変わっていることに気づいたが、あまり気に留めなかった。「へえ、言った通り片付けたんだ。意外と聞き分けがいいじゃない」と、健二は空っぽになった2階の部屋を見て鼻で笑った。

「これでやっと私の部屋ができるわ。お母さん、お疲れ様。明日は私たち朝から旅行に行くから、朝食はいらないわよ。その代わり、私たちが帰ってくるまでに家中ピカピカにしておいてね。あ、冷蔵庫の残りは勝手に食べていいから」

美香さんは、まるで使い走りのメイドに命じるような口調で言った。私は「ええ、分かったわ。ゆっくり楽しんできてね」と、自分でも驚くほど穏やかな笑顔で答えた。

結婚記念日の旅行当日。朝の5時だというのに、家の中は騒がしい物音で溢れていた。美香さんの金切り声が、まだ眠りの中にいた私の耳を突き刺す。「ちょっと、私の水色のワンピースどこにやったのよ。ちゃんとクリーニングに出しておいてって言ったじゃない」

私は弾かれるようにして部屋を出た。「それは昨日、クローゼットの右側にかけておいたわよ」と答えると、美香さんは顔を真っ赤にして私を睨みつけた。「右側って言ったって、見当たらないから言ってるのよ。もう、これだから年寄りは自分の都合のいいようにしか言わないんだから。ケニさん、ちょっとお母さんに言ってよ。せっかくの旅行なのに朝から台無しだわ」

健二も寝癖のついた頭で部屋から出てくると、私を睨むような目で見下ろした。「母さん、朝からミカをイライラさせるなよ。お前の仕事は、俺たちが気持ちよく過ごせるようにサポートすることだろう。それすらできないなら、本当にこの家にいる資格ないぞ」

昨夜、重い荷物を一人で運び出し、慣れない手続きのために何枚もの書類を書いたせいで、体は鉛のように重く節々が悲鳴をあげている。微熱があるのか、視界が少しふわふわとしていた。でも、そんな私の体調を気遣う言葉など、この2人からかけられたことは一度もなかった。

「ごめんなさい。今探してくるわ」私はフラフラする足取りで美香さんのクローゼットへ向かった。言った通り、ワンピースは一番目立つ場所にかかっていた。彼女はただ自分の不注意で見落としていただけなのだ。「あったわよ。これでしょう」

差し出した私に対し、美香さんはお礼を言うどころか、ひったくるようにしてそれを受け取った。「紛らわしいところにかけないでよね。嫌がらせのつもり? 性格悪いわね、本当」

朝食を食べる間も、2人の罵詈雑言は止まらなかった。すると美香さんが当然のような顔で言った。「ケニさん、お母さんの年金、今月分はもう入ってるわよね。旅行先でちょっとバッグ見つけたら買いたいから、カード貸しておいてよ」

「ああ、いいよ。母さん、あの引き出しにあるカード貸せよ。どうせお前は買い物なんていかないだろう。家でじっとしてるんだから、金なんて必要ないはずだ」

「それは生活費や家の修繕費のために貯めているもので… 」
「修繕なんて後回しでいいんだよ。今は俺たちの人生の方が大事なんだ。グズグズ言うなよ。早く持ってこい」

健二は私の言葉を振り切り、勝手に私の財布からクレジットカードを抜き取った。それは私が将来病気になった時のために、そして夫との思い出の品を整理するための資金としてコツコツと貯めてきた口座に紐づいたカードだった。

「よし、準備万端。1週間、最高の贅沢をしてくるからさ。母さんはせいぜい、この古臭い家の掃除でもして待ってろよ」健二が重いスーツケースを玄関まで運び、私に命じた。「おい、これ、車まで運べよ。腰が痛いんだ」

「私も今日は少し体調が悪くて…


「はあ。甘えるなよ。毎日家でゴロゴロしてるくせに、何が体調不良だ。ほら、早くしろ。時間が遅れるだろう」

私は震える手で、2人分の重いスーツケースを玄関の外まで運んだ。初秋の朝の空気は、私のほてった体に冷たくしみた。車に荷物を積み込み、2人は後部座席にふんぞり返るように座った。

「じゃあね、お母さん。帰ってきた時に家が汚かったら、本当に追い出すからね。覚悟しておいてよ」美香さんが窓を下げて、勝ち誇ったような笑みを浮かべた。

「あ、母さん、最後にもう一度言っておくけどさ」健二がニヤリと笑った。「お前がこの家にいられるのは、俺たちが許してやってるからだってことを忘れるなよ。もし俺たちが『いらない』って言ったら、お前には行く場所なんてどこにもないんだからな。まあ、1週間、俺がいない解放感を味わっておけよ。どうせ戻ってきたら、またコキ使うだろうからさ」

車のエンジン音が響き、2人は砂埃りを上げて去っていった。彼らを乗せた車が角を曲がり、完全に見えなくなるまで、私は門の前に立ち尽くしていた。心の中にはもう怒りも悲しみも残っていなかった。ただ、深い深い虚無感だけが広がっていた。

私はふらつく足で家の中に戻った。静まり返ったリビング。私は電話機を手に取り、田中さんに最後の連絡を入れた。「ええ、今2人とも出発しました。はい、よろしくお願いします」

電話を切り、私は自分の寝室へと戻った。そこには小さなボストンバッグ一つだけが残されていた。中身は数日の着替えと夫の遺影、そして一通の手紙。他には何もいらない。この家にある高価な家具も家電も、全てはあの2人への置き土産としていくことにした。それが、どうせ数日後にはゴミ同然になる運命だとしても。

私は家の鍵を閉め、玄関のドアの木をそっと撫でた。「周平さん、今まで守ってくれてありがとう。さようなら」私は一度も振り返ることなく家の門を出た。そして、あらかじめ呼んでおいたタクシーに乗り込み、駅へと向かった。

タクシーが到着したのは、都心から1時間半ほど離れた、海を見下ろす高台に立つ洋館の前だった。ここは夫の周平が生前、私に内緒で設計し残してくれた別荘だった。「理子、いつか仕事に疲れたら、ここで二人で波の音を聞いて暮らそう」そう笑っていた夫の顔が、昨日のことのように思い出される。

玄関の中から、一人の初老の男性が出てきた。「理子さん、お待ちしておりました。ようやくここを使う決心をされたのですね」白髪の混じった髪を綺麗に整え、仕立ての良いスーツを着たその男性は、鍛原さん。周平さんの親友であり、私たちの会社の顧問弁護士を長年務めてくれた人だった。

「鍛原さん、お久しぶりです。急なお願いをしてしまって申し訳ありません」
「何を言っているんですか? 周平が亡くなってから10年。あなたはずっとあの子たちのために自分を押し殺して生きてきた。私はいつあなたがここへ来ると言ってくれるか、首を長くして待っていたんですよ」

鍛原さんは優しく微笑み、私のボストンバッグを受け取ってくれた。リビングに入ると、そこは周平さんのこだわりが詰まった、木のぬくもりに溢れる空間が広がっていた。大きな窓からは、青く輝く海が一望できる。あの息苦しい家とは正反対の世界。

彼らは私のことを、何も知らない価値のない老人だと思い込んでいる。「中卒の世間知らず」「生きてるだけでコストがかかる」と好き勝手なことを言ってくれた。でも彼らは、本当の私を何も知らない。実は私は周平さんと一緒に建築事務所を立ち上げ、その経営の全てを支えてきた元営業のプロだった。周平さんは設計に没頭する天才肌だったが、数字や法律には滅法弱かった。営業交渉、資金繰り、契約書の作成。事務所が業界でも有数の成功を納めたのは、私の徹底した管理があったからこそだと、周平さんはいつも私を「最高のパートナー」と呼んで感謝してくれていた。

健二が生まれた時、私は仕事を辞め、彼にはただの主婦として接してきた。息子には仕事の殺伐とした空気を感じさせたくなかった。穏やかで優しい母親として育てたかった。でも、その私の配慮が、健二を傲慢で無知な怪物に変えてしまったのかもしれない。

「理子さん、準備は整っています。あの家の売却手続き、そして健二君夫婦に対する法的措置、全て私の方で引き受けました」鍛原さんがテーブルの上に書類の束を置いた。そこには、健二と美香さんがこの3年間で私の口座から勝手に引き出した金の明細や、私に浴びせてきた暴言の記録、そして近所の人たちの陳述書が揃っていた。実は私は耐えながらも、全てを記録していたのだ。

「鍛原さん、私はもう『母親』であることをやめました」私は静かに、でもはっきりとした声で言った。「あの子たちが望んだ私のいない世界を、完璧な形で提供してあげたいんです。一切の援助を断ち切り、自分たちの足で立つことがどれほど過酷なことか、骨身に染みて理解してもらうために」

その時、私のスマートフォンが激しく震えた。画面を見ると、健二からの着信だ。私はそれを無視し、電源を切ろうとした。しかし、続いて入ってきたメッセージの通知が目に入った。「おい、ふざけるなよ。カードが止まってるぞ。ホテルのチェックアウトで支払いを拒否されたじゃないか。今すぐ使えるようにしろ。それと、さっき警察から連絡があった。お前、俺たちのお金を盗んだって通報したのか」

私は思わず、冷たい笑みを漏らした。私が止めたのは、私の名義のカードだ。そして通報したのは私ではない。不動産会社が家の明け渡し準備のために立ち入った際、隠し金庫がこじ開けられているのを発見し、警察に届けたのだ。もちろん、その金庫をこじ開けたのは、旅行前に私の法事用の金を盗んだ健二と美香さんだ。自業自得ね。

私はスマートフォンの電源を切り、画面を真っ暗にした。これから1週間、彼らがどれほど怒り、焦り、そして絶望するか。それはこれまで私が受けてきた侮辱に比べれば、あまりに小さな報いでしかない。

翌朝、鍛原さんと共に、私は一人の男性を迎えていた。それは40代半ばの、感じの良い女性、一之瀬君だった。彼女はかつて周平さんの事務所で一番弟子として働いていた、非常に優秀な建築家だ。しかし数年前に健二と確執を起こし、事務所を去っていた。一之瀬君は、健二が最も嫉妬し敵対していた人物だった。健二は自分の才能のなさを棚に上げ、「一之瀬は親父に媚を売って技術を盗んだ泥棒だ」と、執拗な手段を使って彼女を追い出したのだ。その一之瀬君が、自分たちの住んでいた家の新しい住人になる。それがどれほど健二のプライドを粉砕するか、想像に難くない。

一之瀬君は言った。「先生、あの家は私にとっても聖地のような場所です。本当に私に譲ってくださるのですか? 」

「ええ。健二たちにあそこを汚されるくらいなら、周平さんの意志を受け継いでくれるあなたに住んでほしいの。あの家をベースに、新しい建築の形を発信していってちょうだい」

1週間という時間は、残酷なほどに過ぎていった。警察から解放された健二と美香さんは、無一文に近い状態でなんとかレンタカーを借りて家に着いた。しかし、彼らが帰るべき家は、すでに他人の手に渡っていた。

家の前には大きな「売却済み」の看板。そして玄関前で忙しそうに指示を出しているのは、健二が最も嫌っていた一之瀬君だった。

「な、なんだよこれ。何なんだよこれは! 」健二が震える指で看板を差す。「一之瀬!

お前、なんでここにいる? ここは俺の家だぞ。勝手に入って何をしてるんだ? 」

一之瀬君は作業の手を止め、ゆっくりとこちらを振り返った。「佐藤さん、お久しぶりですね。ここはあなたの家? 何をおっしゃっているんですか?

この家は先ほど正式に私の所有物となりました。登記も完了しています」

「嘘をつけ! 母さんがそんなことするはずがない。認知症なんだよ。母さんはボケてるんだ。老人が勝手に結んだ契約なんて無効だ」健二が狂ったように叫ぶ。美香さんも顔を真っ赤にして「そうよ! 泥棒建築士がお母さんを騙して反抗をさせたんでしょう! 警察を呼ぶわよ!

今すぐここから出ていきなさい! 」とわめき散らした。

2人がわめき散らしていると、一台の高級セダンが静かに家の前に止まった。後部座席から降りてきたのは、背筋をピンと伸ばし、1週間前とはまるで別人のような風格を纏った私だった。安物のエプロンを脱ぎ捨て、周平さんが私の還暦祝いに送ってくれた上質なスーツを身にまとった私の姿に、2人は一瞬言葉を失った。

「母さん… 」健二が呆然とつぶやいた。「お母様、どういうこと? 冗談はやめてよ。早く鍵を返しなさいよ」美香さんが私に掴みかかろうとした瞬間、運転席から降りてきた鍛原さんがその手を遮った。

「これ以上の狼藉はやめていただきたい。私は佐藤理子様の代理人を務める弁護士の鍛原です」

「弁護士?

何だよそれ。大げさな… 母さん、いい加減にしろよ。俺たちをこんな目に合わせて、後でどうなるか分かってるのか? 今すぐ契約を白紙に戻せ。そうすれば、今回だけは許してやるからさ」

健二はまだ、自分が優位に立っていると信じ込んでいるようだった。「許す? 健二、あなた今なんて言ったの?

」私は一歩前へ出て、息子の目をまっすぐに見つめた。その瞳の奥にある冷ややかな光に、健二はたじろいだ。「あなたたちは私に言ったわね。『母さんなんていなくなればいい。生きてるだけでコストがかかる』って。私はその望みを叶えてあげたのよ。コストである私が消え、コストがかかっていたこの家も手放した。これであなたたちは、私の年金や私の労働という縛りから解放されたわけ。喜ばしいことじゃない」

「それは… あれは… 」健二が口ごもる。
「あれはその場の言葉だった? いいえ、あなたは確信を持って言っていたわ。私があなたに従うだけの意思のない道具だと思い込んでいたから」

美香さんが震える声で尋ねてきた。「じゃ、じゃあ、私たちの荷物はどうなるの?

明日からどこに住めばいいのよ」

「荷物は、美香さんの実家着払いで送っておいた。もう届いたはずよ。それと住む場所については、あなたたちの稼ぎでどこなりと借りればいいじゃない。エリート夫婦なんだもの。簡単でしょう」

私の言葉に、美香さんの顔から血の気が完全に引いた。「実家? 嘘でしょ。そこは今… 」

「美香さんが言いかけた言葉を、私は遮りました。彼女の実家が借金まみれで、娘からの仕送りを当てにしていたことは百も承知だ。その仕送りも、元をたどれば私の貯金から出ていたのだから。」

「さあ、一之瀬さんの作業の邪魔になるわ。早く立ち去ってちょうだい。これ以上ここに止まるなら、不法侵入として通報します」鍛原さんがスマートフォンを取り出した。

「待ってくれ! 母さん、頼むよ!

俺は会社も首になりそうなんだ。この家まで失ったら、本当に路頭に迷うんだよ」健二が地面に膝をつき、必死の形相で私の靴にすがろうとした。

「おかしいわね。優秀なあなたがそんなことになるなんて」私は冷たく突き放した。「あなたがこれまで私のコネクションを利用して取ってきた仕事も、不透明な経理処理も、全て会社側に報告済みよ。あ、そうそう。警察の方からも連絡が来るはずだから、金庫のお金についてもしっかり説明してきてね」

健二の口から、魂が抜けたような声が漏れた。私は振り返らずに車へと戻った。バックミラー越しに見える2人の姿は、あまりにも小さく、そしてみっともなく歪んで見えた。泣き叫ぶ美香さんと、地面を叩いて悔しがる健二。それが私に注いできた悪意に対する、最初の報いだった。

車が走り出すと、鍛原さんが口を開いた。「理子さん、本当にこれを告発するおつもりですか? 」彼は一通の古い茶封筒を見つめていた。中には10年前、夫の周平さんが亡くなった日の救急搬送記録と、健二の当時の銀行口座の振り込み履歴が入っていた。

「ええ。健二は私をコストだと言った。でも、あの子こそが周平さんの命をコストに変換えたのよ。その罪だけは、墓場まで持って行かせるわけにはいかないわ」

10年前、周平さんは自宅の書斎で急性心筋梗塞を起こした。当時、健二は大学を卒業したばかりで、借金を作って苦しんでいた。発見したのは健二だった。当時の記録によれば、周平さんが倒れてから救急車が呼ばれるまで、実に4時間の空白がある。その4時間の間に、健二は何をしていたのか。この振り込み履歴が全てを物語っていた。倒れている父親を放置し、周平さんのパソコンから暗証番号を割り出し、事務所の運転資金を自分の口座に移し替えていたのだ。

鍛原さんは私を見つめ、静かに言った。「健二君は、この事実をあなたが知っているとは夢にも思っていないでしょうね」

「いえ。だからこそ、一番残酷なタイミングで突きつけてあげるわ。それが周平さんの、せめてもの供養になる」

別荘に戻ると、一之瀬君からメールが届いていた。「先生、例のものを発見しました。書斎の壁の裏に、健二さんが必死に隠そうとしていた痕跡がありました。これはあまりにひどすぎます」

私はメールに添付された写真を見て、思わず口を覆った。そこには健二が隠していた、さらなる罪の証拠が映し出されていたのだ。

「鍛原さん、計画を変更しましょう。明日、あの子たちを一度だけこの別荘に呼び出してください」
「呼び出すのですか? せっかく切り捨てたのに」
「ええ。彼らに最後の希望を見せてあげるの。そして、その希望が自分たちの手で粉々に砕かれる瞬間を味わってもらうために」

翌朝、借金取りの山田たちに追い詰められ、一晩中町を逃げ回った健二と美香さんは、私の送った迎えの車にすがりつくような勢いで乗り込んできた。2人の姿は、もはや見る影もなかった。健二の高級スーツは泥に汚れ、美香さんの自慢の巻き髪はボサボサに乱れている。

車が海沿いの別荘に到着すると、2人はその豪華な佇まいに息を飲んだ。「何よこれ? お母さん、こんな隠し財産を持ってたの?

ずるいわよ」美香さんの目に、一瞬で下卑た強欲な光が戻った。「ケニさん、見た! ここを売れば、借金どころかまた贅沢ができるわよ。やっぱりお母さんは、最後は私たちに頼るしかないのよ」

リビングで彼らを待っていたのは、私と鍛原さん、そして険しい表情をした一之瀬君だった。「母さん、遅いよ! 心配したんだからな。ほら、早くあの山田って連中に金を払ってやってくれ。俺たち、ひどい目にあったんだぞ」健二が、以前と変わらぬ傲慢な口調で私に詰め寄ってきた。美香さんに至っては、すでに自分の家であるかのようにソファにふんぞり返っている。

私はゆっくりと手元のティーカップをソーサーに置いた。「借金を片付ける条件は、伝えてあるはずよ。健二、美香さん」
「ああ、分かってるよ。何でも言う通りにするからさ。書類にサインすればいいんだろう? 早くしてくれよ」

「その前に、あなたたちに見せたいものがあるの」私は一之瀬君に目くばせをした。一之瀬君は重苦しい足取りでテーブルの上に、一つの古い木箱を置いた。「佐藤さん、昨日、あの家の書斎、周平先生が一番大切にしていた壁の裏から、これが見つかりました」

一之瀬君が箱の中から取り出したのは、周平さんの直筆の日記と一通の封筒だった。「これは周平先生が亡くなる直前まで書いていた日記です。そこには信じられない事実が記されていました。佐藤さん、あなたは10年前、先生が倒れているのを見つけた後、何をしましたか?

健二の顔が一瞬にして土色に変わった。「な、何だよ! 救急車を呼んだに決まってるだろ! 」
「嘘をつくな」一之瀬君の声がリビングに響き渡った。「日記にはこう書いてある。『健二が私のパソコンを操作している。私が苦しんでいるのを目の前で見ながら、あいつは会社の口座から金を移している。ああ。これが私の育てた息子の正体か。もう意識が… 』」

「それは親父の被害妄想だ!

倒れて意識が混濁してたんだろう! 」
「いいえ。証拠はそれだけじゃないわ」私は鍛原さんから渡された別の書類を健二の前に叩きつけた。「あなたが移し替えた金額と、その直後にあなたの借金が完済された記録。そして、一之瀬君が壁の裏で見つけた、周平さんの真実の遺言書よ」

健二の目が、その遺言書に釘付けになった。そこには周平さんの震える文字で、はっきりとこう記されていた。「全財産は妻・理子に譲る。息子の健二には一切の相続権も与えない。彼は私を見殺しにし、自らの欲望のためだけに親を捨てた。彼を佐藤家から排除する」

「そんなの認められるわけないだろう! 俺は息子なんだぞ! 」
「いいえ、認められます」鍛原さんが冷徹に告げた。「民法では、被相続人を殺害しようとしたり、見殺しにして刑に処せられたりした者は、相続欠格あるいは排除の対象となります。この日記と当時の救急搬送の遅延の証拠があれば、理子様があなたを相続人から排除することは十分に可能です。というか、すでに手続きは完了しています」

「嘘だ!

嘘だろ! 」健二はその場に崩れ落ちた。美香さんは事の重大さをようやく理解したのか、ガタガタと震えながら健二から距離を置こうとしている。「ちょっとケニさん、あなた、お義父さんを見殺しにしたの? 最低! 最低だわ!

私、そんなの知らないわよ! 全部この人が勝手にやったことなんです! お義母さん、私は被害者なんです! 」

「被害者?

よくそんな言葉が言えるわね、美香さん」私は冷たく見抜いた。「あなたは健二が実の父親を犠牲にして手に入れたお金で、贅沢三昧を繰り返していたのよ。知らなかったでは済まされない。それに、あなたのご実家の借金を、健二が会社の金を横領して補填していたのも、あなたが指示したことだという証拠メールも、全て抑えてあるわ」

「お母さん、頼む! 悪かった! 本当に悪かったよ! だから助けてくれ!

あの山田たちが外で待ってるんだ! このままじゃ俺、殺される! 」健二が私の足元にすがりつき、涙を流して叫んだ。1週間前、「コストがかかる」と私を罵った男と同一人物だとは、到底思えなかった。

私はすがりつく健二の手を、ゆっくりと、でも力強く振り払った。「助けてあげるわよ。条件通り、借金は片付けてあげる」私の言葉に、健二の顔にパッと希望の色が差した。「本当か? ありがとう、母さん!

やっぱり母さんは優しいな! 」

「ただし」私は冷徹な笑みを浮かべた。「私が支払うのはあくまで『立て替え』よ。あなたはこれから、私の関連会社が運営する過疎地の労働施設で、死ぬまで働いて返してもらうわ。一切の贅沢は許されない。自由もプライドも、名前すらも捨てて。それが、周平さんの命を奪ったことへの、せめてもの贖罪」

健二の顔が恐怖で引きつった。「労働施設? 何だよそれ。ただの奴隷じゃないか。そんなの嫌だ! 」
「選ばせてあげるわ。今すぐ外にいる山田たちのところへ戻るか、それとも私の用意した地獄へ行くか、どちらにする?

その時、別荘の玄関のチャイムが、地獄の鐘の音のように鳴り響いた。外には、しびれを切らした山田たちが、鉄パイプを弄びながら待ち構えていた。チャイムの音が鳴り響く度、健二と美香さんはビクッと肩を震わせ、玄関のドアの方を怯えた目で見つめていた。

「ひっ… 嫌だ。助けて。殺される! 本当に殺されるわ! 」美香さんは床に這いつくばり、ぽろぽろと爪を噛みながら震えている。「母さん、お願いだ!

金だ! 金を払ってくれ! 山田たちは待ってくれないんだよ! 」健二が私の足元にすがりつき、涙と鼻水で顔をぐちゃぐちゃにしながら叫んだ。

私はそんな息子の姿を、冷めた目で見下ろしていた。1週間前、この男は私を「コスト」と呼び、「いなくなればいい」と言い放った。その時の傲慢な顔は、どこへ行ったのだろうか。今目の前にいるのは、ただ自分の身を守るためだけに親に泣きつく、情けない塊でしかない。

「健二、あなたは勘違いしているわね。私があなたを助けるのは、母親としての情けからじゃないわ。周平さんの命を奪い、その遺産を貪り尽くしたあなたに、相応の地獄を味わせるためよ」

「地獄…

労働施設って何なんだよ。どこへ連れて行くつもりだ? 」
「私が長年建築事務所の専務として築いてきた人脈は、あなたたちが想像しているよりずっと広いの。四国の山奥に、限界集落を再生するための開拓地があるわ。そこを運営しているのは、かつて周平さんに命を救われた元自衛官の男性よ。非常に規律に厳しく、驕りは一切許されない場所。そこで、あなたは借金が完済されるまで、朝から晩まで泥にまみれて働くのよ」

「山奥の開拓… 嘘だろ? 俺は大手の会社員なんだぞ!

そんなどこかみたいな真似ができるか! 」
「できるかできないかじゃない。やるのよ。それとも、今すぐあの山田たちの車に乗る? 」

外からは「おい、佐藤! 出てこいよ!

」という怒鳴り声と、ドアを蹴る鈍い音が聞こえてくる。健二は言葉を失った。そこへ、これまで沈黙を守っていた美香さんが、すがるような声で私に話しかけてきた。「お義母さん、私は関係ないわよね。ケニさんが勝手にやったことだもの。私は実家に帰るわ。だから、私の分だけでも、少しだけお金を… 」

美香さんは自分のことだけを考えて、健二を切り捨てようとした。その浅ましさに、隣で膝をついていた健二が驚愕の表情で彼女を見上げた。「お、お前、何を言ってるんだ? お前の実家の借金のために、俺は横領までしたんだぞ! 」
「うるさいわね!

あなたが勝手にやったことでしょう! 私はそんなこと頼んでないわよ! 」

2人の見苦しい言い争いが始まった。私はその光景を、ただ黙って見つめていた。これが私を尊敬し、追い出した2人の慣れの果て。愛も信頼も、最初からそこにはなかったのだ。

「美香さん、実家に帰るなんて無理よ。あなた、まだ気づいていないの? 」私は鞄からもう一通の書類を取り出した。「あなたの実家が経営していた建設会社は、多額の負債を抱えて倒産寸前だったわね。昨日の午前中、ある投資会社が全ての債権を買い取って、完全に買収したわよ。そして、その投資会社の筆頭株主は…

私」

美香さんの動きがピタリと止まった。「あなたはいつも、自分の実家が高級な昆布を使っているとか、お嬢様だとか自慢していたけれど、これからはその実家も私の管理下に入るの。あなたのご両親は、私の指示通り、地方の清掃工場での仕事を斡旋してもらったわ。もちろん、贅沢なんて二度とできない生活よ。あなたに帰る場所なんて、もうどこにもないの」

美香さんの顔から色が消えた。彼女が守りたかったプライドも、虚栄も、全て私が買い取ったのだ。

「そんな… 嘘よ! 」
「嘘だと思うなら、お父様に電話してみたら? おそらく今は工場の宿舎へ移動している最中で、繋がらないでしょうけど」

リビングに、美香さんの絶望的な叫びが響き渡った。床を叩き、泣き叫ぶが、誰も彼女に手を差し伸べる者はいない。

「母さん、どうして…

どうしてこんな残酷なことができるんだ? お前は俺の母親だろう! 」健二が恨みがましい声をあげた。
「母親? そうね。私はあなたを愛していたわ。でも、あなたは私の愛をただの無料のサービスだと思い込んだ。そして、周平さんの命まで奪った。母親としての私は、あの日、あなたが周平さんを見捨てた瞬間に死んだのよ」

私は立ち上がり、玄関の方へ向かった。「さあ、決断の時よ。鍛原さん、警察に通報を」その時、再びチャイムが鳴った。今度は山田たちの乱暴な鳴らし方ではない。どこか落ち着いた、規則正しい音。私がドアを開けると、そこには数人の警察官と、一人の渋い風格の男性が立っていた。その男性の顔を見た瞬間、健二が今日一番の絶叫をあげた。

「あ、あなた…

どうしてここに? 」
そこに立っていたのは、健二の務める大手メーカーの社長だった。「佐藤君、話がある。いや、話はもう、警察の方でするんだったね」

社長の言葉に、健二は完全に腰を抜かした。彼が必死に隠してきた会社でのさらなる不正。それは単なる横領だけでは済まされない、大規模な企業犯罪事件にまで発展していたのだ。

「お義母さん、助けて! ケニさんが悪いの! 私は何もしてない!

」美香さんが私のスカートにすがりつこうとしたが、私はそれを冷たく避けた。「美香さん、あなたにも聞きたいことがあるの。あなたが亡くなった周平さんの生命保険金の受け取り人を、勝手に書き換えようとした件についてね」

社長が深いため息をつき、私の方を向いて深々と頭を下げた。「理子先生、この度は弊社の社員が多大なるご迷惑をおかけし、誠に申し訳ございません」
「理子… 先生? 」健二が呆けたような声を漏らした。「社長、どういうことだよ。俺の母さんはただの主婦で… あんた、母さんの知り合いなのか?

「失礼なことを言うな。佐藤理子先生は、我が社の創業期において、亡き周平先生と共に技術の基盤を築いてくださった、雲の上の存在だ。現在も我が社が保有する主要特許のいくつかは、理子先生の名義になっている。君が今、営業で使っているあの看板製品も、理子先生の助言がなければ完成しなかったものだ」

健二の顔が驚愕で引きつった。「お母さんが… 特許? 嘘だ! そんなの聞いたことない!


「当然だ。理子先生は、息子には自分の力で歩んでほしい。私の影は隠しておいてくれと、強く希望されていたからね。だが、まさかその恩に泥を塗るどころか、会社の金を横領し、さらに御恩人である母親を虐げていたとは。君という人間を信じて採用したことが、私の人生最大の汚点だ」

社長の冷徹な言葉が、健二のプライドを粉々に砕いた。そして、鍛原さんが美香さんに向かって言った。「美香さん、あなたについても重大な報告があります。あなたが健二さんのパソコンを使い、理子様の生命保険の受け取り人を自分に変更しようとした形跡が見つかりました。さらに、理子様の署名を偽造し、この別荘までも自分たちの名義に書き換えようとする文書を作成していましたね」

「そ、それは… 私はただ、将来の管理をスムーズにしようと思っただけ… 」
「窃盗と詐欺罪です。この文書に使われた印鑑は、理子様が大切にされていた周平先生の遺品の印を、勝手に持ち出したものでしょう。すでに筆跡鑑定と指紋調査の結果が出ています。逃げ道はありませんよ」

美香さんは、もはや言葉も出ないようで、魚のように口をパクパクとさせていた。彼女が夜な夜な私の部屋を徘徊していたのは、単なる嫌がらせではなく、私の財産を根こそぎ奪うための下調べだったのだ。

「健二、美香さん。あなたたちが触れてはならなかったのは、お金や家だけじゃないわ」私はテーブルの中央に置かれた小さな箱を指差した。一之瀬君が静かにその箱を開けた。中に入っていたのは、数枚のSDカードと、周平さんの直筆の手紙だった。

「これは周平先生が設計したこの家と、あの本宅に組み込まれていた『見守りシステム』のバックアップデータです。先生は建築士として、常に家族の安全を考えていた。だからこそ、最新の防犯センサーと記録装置を、誰にも分からない場所に設置していたんです」

一之瀬君がタブレットを操作し、動画を再生した。そこには10年前のあの日、リビングで苦しそうに胸を押さえて倒れ込む周平さんの姿が映し出されていた。そして、数分後帰宅した健二が、その場に立ち尽くす姿も。

「親父! 親父、大丈夫か?

」画面の中の若い健二は、一度はスマートフォンを手に取る。しかし、彼の視線はテーブルの上に置かれた周平さんの銀行の通帳と、開かれたままの通帳に釘付けになった。健二は苦しむ父親の横で、震える手でパソコンを立ち上げた。画面に映る数字を凝視し、自分の口座への送金手続きを始めたのだ。周平さんが「健二… 助けてくれ」とかすれた声で右手を伸ばしたその時、健二はその手を冷たく振り払った。

「悪いな、親父。あんたが死んだら、この金も家も全部俺のものなんだ。死ぬなら今死んでくれよ」

動画の音声が、静かなリビングに響き渡った。健二は、自分が放った10年前の冷徹な言葉を、再び耳にすることになったのだ。「ああ…ああ…やめろ! 消せ! 今すぐ消せ!

それは捏造だ! 俺じゃない! 」

「捏造なものですか。これがあなたの真実よ」私は震える声を必死に抑えて告げた。「私は周平さんが、あなたを最後まで信じようとしていたことを知っていた。だからこそ、この映像を見るまでは、あなたの4時間の空白を『ショックで動けなかった』のだと思い込もうとしていた。でも、現実は違った。あなたは自分の借金を清算するために、実の父親を見殺しにしたのよ」

「化け物… あなた、本当に化け物だわ!

」美香さんが戦慄し、這うようにして健二から離れた。「お前に言われたくない! お前だって、この金で宝石やバッグを買って喜んでただろうが! 」2人は、どん底の状況でなお互いを罵り合い、責任をなすりつけ合った。

「佐藤君には刑事罰を受けてもらう。会社としても告発状を提出した」社長が冷たく言い放った。「そして美香さん、あなたのご実家の負債についても、理子先生から全額一括返済の通知が届くはずだ。返せなければ、あちらの会社も資産も全て差し押さえられる。あなたたちには、もう一切の猶予もない」

「そんな… お母さん、嘘でしょ!

私たちを路頭に迷わせるつもり!? 親なら、最後は助けてくれるのが普通じゃない! 」美香さんの情けない叫びに、私は静かに立ち上がった。「普通?

ええ、普通ならそうね。でも、あなたたちは私を『いなくなればいいコスト』だと言ったわ。だから私は、あなたの望み通り、この世から優しい『母親』という存在を消したの。今ここにいるのは、あなたたちに正当な報いを与える、一人の債権者であり、被害者の妻よ」

外では、山田たちが待ち構える車のエンジン音が不気味に響いている。一方で、別荘の敷地内には、警察の赤色灯が近づいてくるのが見えた。私は周平さんの写真を胸に抱き、彼らを冷たく見つめた。「借金取りに捕まるか、警察に捕まるか、あるいは私が用意した極寒の開拓地で死ぬまで働くか。さあ、選びなさい。どれを選んでも、あなたたちが夢見ていた華やかな生活は、今この瞬間に完全に終わったのよ」

2人の顔は恐怖と絶望で土色に染まり、もはや言葉を紡ぐこともできなくなっていた。

この日、私は息子夫婦を完全に断絶した。私は一人、静かに夜の海を見つめた。彼らの絶望的な叫び声が、波の音に消えていく。私はもう、あの時泣いたことはない。あの日、息子の言葉で枯れ果てた涙は、もう二度と流れない。そう思っていた。

それから時は流れ、3年が経った。私はあの海辺の別荘で、穏やかな日々を送っていた。庭にハーブを植え、絵を描き、時には一之瀬君の仕事を手伝う。コミュニティハウスを建て、親を亡くした子供たちに料理を教える日々。

そんなある日、一通の手紙が届いた。差出人は、健二。四国の開拓地にある更生施設からだった。

「母さんへ。元気ですか。ここに来て3年が経ちました。最初は母さんを恨んでばかりいました。でも、毎日泥にまみれて働くうちに、少しずつ分かってきたんです。『生きてるだけでコストがかかる』と言った母さんの手は、いつもこんな風に荒れていた。冬でも水仕事をして、俺のために温かい食事を作り、俺が脱ぎ散らかした服を洗濯してくれていた母さんの愛を、俺は無料のサービスだと思い込んでいた。この施設で、自分の服を自分で洗い、自分の食べる野菜を一から育てるようになって、ようやく分かりました。母さん、ごめんなさい。俺は最低の息子でした。親父を見捨てたあの日のことも、思い出すたびに足が震えます。今更許してくれなんて、言えません。俺はここで、自分の命が終わるまで、自分の犯した罪を償い続けます。母さんは俺のことなんて忘れて、どうか自分のために生きてください。最後にお願いがあります。もし親父の墓参りに行くことがあれば、俺の代わりに一度だけ手を合わせてもらえませんか。本当にすみませんでした。健二より」

手紙を読み終えた時、私はなぜか、温かい涙を流していた。それは、悲しみの涙ではなかった。あの子が、ようやく一人の人間として、自分の罪と向き合い始めた。そのことが、何よりも救いだった。私は返事を書かなかった。それが、彼に対する今の私なりの誠実な答えだった。

私は、夕日が沈む海を眺めながら、心の中で夫に語りかけた。「周平さん、あの子、ようやく自分の間違いに気づいたみたいよ。あなたのおかげね。あなたが残してくれた勇気と愛が、私を救い、そして最後には、あの子の心をも救ってくれたのね」

私はもう、あの日のように壊れてはいない。失ったものは大きかったけれど、手に入れたものはそれ以上に尊いものだった。新しい家族。新しい人生。私はこれからも、自分のために、そして周平さんが愛したこの世界のために、一歩ずつ歩んでいこう。