姉に呼び出されて「私の代わりに彼と結婚して」と言われた時、断ったらまた地獄が待っていると思った。SNSで私を悪女に仕立て上げ、職も住む場所も奪った姉の命令に、私は逆らえなかった。渋々会った相手は、姉が「日雇いバイトの貧乏人」と嘲笑った男。なのに彼は初対面から私にこう言ったんだ。「あなたが本物だって、最初から分かってたよ。」そして彼の家に連れて行かれた私は、その正体を目の当たりにする。姉が捨て…

姉に呼び出されて「私の代わりに彼と結婚して」と言われた時、断ったらまた地獄が待っていると思った。SNSで私を悪女に仕立て上げ、職も住む場所も奪った姉の命令に、私は逆らえなかった。渋々会った相手は、姉が「日雇いバイトの貧乏人」と嘲笑った男。なのに彼は初対面から私にこう言ったんだ。「あなたが本物だって、最初から分かってたよ。」そして彼の家に連れて行かれた私は、その正体を目の当たりにする。姉が捨て...

「生活費のことなんだけど、月3万円は欲しいんだけど、難しいかな。」

隣でハンドルを握る夫・正彦に、私は恐る恐る切り出した。姉に何度もお金を奪われてきた私にとって、お金はとても大切なものだった。昨夜だって、姉に10万円を無心され、泣いたばかりだ。

新婚生活に影を落としたくない一心で、私は自分なりに精一杯控えめな数字を提示したつもりだった。だが正彦は、少し考える素振りを見せた後、けろりと言い放った。

「3万? それだけ?」

「もし厳しいなら、自分でも稼ぐから……」

慌ててフォローしようとする私を制し、彼は投げやりに続けた。

「いや、少なすぎるよ。とりあえず1000万くらいなら好きに使っていい。口座に入れておくから。足りなくなったら、遠慮なく言って。」

私は固まった。思考が完全に停止する。正彦は、まるで1000円の話でもするかのような軽い口調で頷いている。10万円を奪われて絶望していた私に、目の前の夫は1000万円を自由に使えというのだ。

あまりの現実感のなさに、私は夢を見ているような心地で流れる景色を眺めていた。この余裕は一体どこから来るのか。私は隣で穏やかに笑う夫の正体に、まだ気づいていなかった。

私の名前は道満(みちる)。幼い頃から、私には「影」という役割が与えられていた。

姉のレナは、生まれながらにして主役だった。モデル出身の祖母と母は、華やかな顔立ちのレナを我が家のアイドルと呼び、目に入れても痛くないほど可愛がった。誕生日には豪華なプレゼントが並び、発表会があれば家族で応援に行く。レナが笑えば部屋が明るくなり、レナが泣けば全員が駆け寄った。

一方の私は、地味で目立たない子供だった。

「レナはどこに連れて行っても映えるわね。」
「まあ、道満は大人しくていい子だけどね。」

そんな言葉が飛びかう食卓で、私はいつも静かにご飯を食べていた。祖父と父は私に同調してくれていたが、祖母と母には逆らえず、ただ見守るだけだった。

そんな日々の中で、私は初めて自分だけのものを手に入れた。高校生の時、初めて好きな人ができて、恋が始まったのだ。放課後に並んで歩いたり、他愛のない話をしたり。休日には2人で出かけた。それだけで毎日が輝いて見えたし、初めて自分が主役になれる気がしていた。

しかしその幸福は、あっという間に終わりを告げる。当時大学生だったレナが、私の彼氏に目をつけたのだ。

「可愛い子じゃない。今度みんなで遊ぼうよ。」

そう言って彼に近づいたレナは、あっという間に彼の心を奪っていった。私が泣いて訴えても、レナは涼しい顔でこう言った。

「向こうが好きになっちゃったんだから、しょうがないじゃない。」

しかもレナは彼にすぐ飽き、何事もなかったかのように別の男性へと乗り換えていった。その日から、レナは私にとって敵となったのだ。大切なものを無慈悲に奪い、傷だけを残して去っていく存在。そんな姉の影として生きてきた24年間が、私という人間を形作っていた。

大人になったレナは、美貌を手に入れるために全身整形を繰り返した。目、鼻、輪郭、唇。パーツを1つずつ作り替えるたびに、レナの顔は別人のように変わっていく。整形を終えるたびに「まだ足りない、もっと綺麗になれる」と言い続け、クリニックへ通うことをやめようとしなかった。

そうして手に入れた美を武器に、レナは客室乗務員の試験を突破する。国内線に乗務する現役CAとして活躍する一方、美容系インフルエンサーとしてSNSでも発信を続け、フォロワーはあっという間に数十万人を超えた。投稿するたびに「綺麗すぎる」「憧れます」というコメントが溢れ、レナはその反響を心から楽しんでいるようだった。

幼い頃から我が家のアイドルだったレナは、大人になっても変わらず中心に立ち続けている。

一方の私は、地元の市役所に就職した。窓口で住民の相談に乗り、書類の手続きを1つ1つ丁寧にサポートする毎日だった。華やかとは無縁の仕事だったが、誰かの役に立てることに、私は静かなやりがいを感じていた。

「道満さんに担当してもらえると、いつも安心するわ。本当にありがとうね。」

そんな言葉をもらえるたびに、胸の奥が温かくなる。姉の影として生きてきた私に、初めて自分だけの居場所ができた気がしていた。地味だけれど、誠実に積み重ねてきた日々。それが私の誇りである。

しかし、その平穏は長くは続かなかった。

ある日、レナから1本の電話がかかってくる。

「道満、ちょっといい? 整形の追加費用が足りなくなっちゃって、50万貸してくれない?」

それは私の給料を優に超える金額だ。これまでも「少しだけ」と頼まれるたびに断りきれずに渡してきたが、さすがに今回は無理だった。

「ごめん、そんな大きな額はさすがに出せないよ。」

そう伝えると、レナは黙って電話を切った。胸騒ぎがした。そして、その嫌な予感は数日後に現実となる。

レナのSNSに、こんな投稿が現れたのだ。

「長年支えて育ててきた妹にお金のことで裏切られました。こんなに悲しいことはありません。」

育てた? 私はレナに育てられた記憶など1度もない。むしろ幼い頃から大切なものを奪われ続けてきたのは、私の方だった。しかし、レナのフォロワーたちにそんな事情は関係ない。数十万人のファンが一斉に動き出し、私への攻撃が始まった。

職場の代表番号には嫌がらせ電話が1日中鳴り止まず、自宅の住所がネット上に晒される。「悪女」「人でなし」「消えろ」。そんな言葉が毎日大量に届き、メールを開くたびに手が震えた。同僚たちは私をかばおうとしてくれたが、被害はどんどん拡大していく一方だった。

職場にこれ以上迷惑をかけることに耐えられなくなった私は、上司に深く頭を下げて市役所を退職した。それからは、引っ越しを繰り返す日々が続く。レナのファンに自宅を特定されるたびに荷物をまとめ、次の住まいを探さなければならなかった。仕事も転々とし、心身共に疲弊しきった頃、ようやく都内の小さな出版社に再就職できた。構成や編集補助の仕事は地味だったが、静かに文字と向き合う時間が少しずつ私の心を落ち着かせてくれる。

あの嵐のような日々から距離を置き、ようやく平穏が戻りつつあった。

そんなある日、またあのレナから連絡が入った。

「ねえ、道満、聞いてよ。すごくいい男に出会ったの。ビジネスクラスの乗客なんだけど、身長もオーラも全然違って。私の美貌のおかげでもう婚約したんだけど、結婚生活楽しみすぎる。」

久しぶりの連絡にしては、随分と浮かれた内容だった。相手の名前は大木正彦。ビジネスクラスに乗っていた点と高級感のある持ち物で上流階級の人間に違いないと判断し、短期間で婚約までこぎつけたのだという。

また別の日、レナから電話がかかってきた。しかし電話口のレナの声は、以前とは異なり低く、醒め切っている。

「正彦さんからLINEで写真が送られてきたんだけど、地下足袋履いて軽トラに乗ってるんだよね。ありえない。」

私は何も答えられなかった。

「こいつ絶対日雇いバイトに決まってる。ビジネスクラスに乗れたのも、どうせ女にたかって稼いだお金でしょ。マジ最悪。」

レナの中では、正彦の評価はすでに完全に地に落ちていた。身分や持ち物は全て見えのための借金か、女性を騙して手に入れたものだと決めつけ、これ以上関わる価値はないと判断したのだろう。

実際、レナはすでに次の標的に目をつけていた。若い青年実業家に声をかけられたらしく、正彦のことは邪魔になった存在として処理しようとしていた。

そして、レナは当然のような口調でこう言い放った。

「そうだ。道満、あなたが代わりに彼と結婚してよ。私の代わりよ。あんたの方がお似合いよ。」

「え、そんなの絶対バレるに決まってるよ。何言ってんの?」

「もう婚約しちゃったんだから。あんたが私になりきればいいのよ。いいわね。」

「わかった……」

断れば、また何をされるかわからない。その恐怖が私の喉を硬く締めつける。またSNSでの攻撃や、ファンたちからの執拗な嫌がらせをされるのではないか。あの恐怖だけは、2度と味わいたくなかった。逃げ道なんて、最初から用意されていなかった。

レナの指示で、私は彼女のSNSアカウントを使って正彦にメッセージを送り始める。最初は短い会話と当たり障りのない返事だけだったが、正彦の返信は毎回丁寧で、言葉の1つ1つに誠実さが滲み出ていた。

気づけば、私はレナを演じることを忘れ、自分の言葉で答えるようになっていた。正彦との会話は心地よく、メッセージのやり取りを重ねるたびに、この人は誠実な人間だということが伝わってきた。

それから「何度も会いましょう」と誘いの連絡が入る。その度に「体調不良」や「仕事の都合」を理由に断り続けてきたが、ついに言い訳の在庫が尽き、逃げ場のない約束の日がやってきてしまった。

当日の朝、レナは私の部屋に押しかけてきた。

「これ着て。それから私に似せてメイクもしっかりして、私になり切りなさいよ。絶対バレないから。」

私は必死にレナに似せたメイクをし、話し方もレナに寄せ、レナになりきった。私は重い足取りで待ち合わせ場所へと向かう。道中、ずっと胸の中で何かがざわめき続けていた。メッセージを通じて感じた正彦の誠実さが頭から離れない。この人を騙し続けることが、どうしても正しいとは思えなかった。

しかし意外にも、何事もないかのように自然にデートが進む。初めはバレるのではないかと心配していたが、普通にデートを楽しんでいる自分に気づく。しかし、このままでは彼に申し訳ない。私は意を決して、真実を伝えた。

「あの、本当のことをお伝えしなければなりません。私は中沢レナではなく、妹の道満と申します。姉に頼まれて、なりすましてメッセージを送っていました。本当に申し訳ありません。」

深く頭を下げた私の耳に、正彦の穏やかな声が届く。

「分かっていたよ。途中からメッセージの雰囲気ががらりと変わっただろう。最初と全然違う温かみが出てきて、そっちの君の方に惹かれていたんだ。」

私は言葉を失った。怒られると思っていた。それなのに正彦は、穏やかに微笑んでいる。まさかこんな展開になるとは、自分でも信じられなかった。

それからカフェに場所を移し、気づけば夕暮れ時まで2人で話し続けた。正彦は私の話をじっくりと聞いてくれて、レナのことを責めることもなく、ただ静かに頷き続ける。帰り道、私は久しぶりに心が軽くなっていることに気づいた。

そして数週間後、正彦は私に正式にプロポーズしてくれた。

「道満さんと一緒にいたい。結婚してください。」

私は涙をこぼしながら、小さく頷く。人生で初めて、自分が選ばれたと感じた瞬間だった。

結婚が決まったとレナに伝えると、彼女はすぐに詰め寄ってきた。

「式はどこでやるの? でも、あんな貧乏人じゃお金なくてできないでしょ。かわいそう。」

正彦が「仕事の都合」を理由に式を延期すると決めると、レナはさらに畳みかけてくる。

「式もあげられない貧乏人と結婚するなんて、本当に馬鹿らしいわね。」

その言葉を聞いても、私はもう以前ほど傷つかなかった。正彦という存在が、私の心に静かな強さを与えてくれていたからだ。

しかし、レナの嫌がらせはそこで終わらない。とつぜん、レナは突然私の部屋を訪ねてきた。部屋に上がるなり、レナは当然のような顔で言った。

「次の青年実業家の彼を落とすための、整形のメンテナンス費用が必要なの。10万円出して。」

「え……」

金の無心は何度目だろうか。しかし、断れば何をされるかわからない。私は黙って財布を開き、震える手で10万円を取り出した。レナは礼も言わずにそれを受け取り、足早に去っていく。明日から始まる新しい生活だけを心の支えにして、泣きながらもその夜をやり過ごした。

翌朝、正彦が迎えに来た。その笑顔を見た瞬間、昨夜こらえていたものがすっと消えていく。荷物を積み込んで助手席に乗り込んだ時、私の胸には不思議な感覚が広がっていた。これまでの人生で、誰かに迎えに来てもらったことなどほとんどなかったからだ。レナに10万円を奪われ、1人で泣きながら過ごした夜が、まるで嘘のように思えた。

「荷物、重たかっただろう。大丈夫だった?」

正彦は私の荷物を丁寧にトランクに積みながら、声をかけてくれた。その一言だけで、沈んだ気持ちが少しずつほぐれていく気がする。

車が走り出してしばらくすると、私は思い切って切り出した。

「あの、正彦さん、生活費について話したいんだけど……」

レナからは「貯金なんて一銭もない日雇いバイト」だと聞かされていた。相手を傷つけたくないという思いと、最低限の生活を守らなきゃいけないという現実の狭間で、恐る恐る聞いてみた。

「生活費のことなんだけど、月3万円は欲しいの。私も出版社の仕事を続けるつもりだけど、あなたにあまり負担をかけたくなくて……」

割り切れない。小さな金額だとは思ったが、お金のことはきちんと話し合っておきたかった。姉に何度もお金を奪われてきた経験が、金銭感覚を一倍慎重にさせていたのかもしれない。

正彦はハンドルを握ったまま、少し考える素振りを見せた。

「3万?」

「あ、もし厳しいなら自分でも稼ぐから、そこは心配しないで……」

「いや、少なすぎるよ。とりあえず1000万くらいなら好きに使っていいよ。口座に入れておくから。足りなくなったら、遠慮なく言って。」

私は固まった。今、正彦は何と言ったのだろうか。

「い、1000万? それってどういう……」

「そのままの意味だよ。不自由させたくないから。」

まるで3万円と変わらないような口調で、正彦はそう言ってのけた。昨夜、10万円を奪われて泣いていた自分が、今では1000万円を自由に使っていいと言われている。あまりにも現実感がなくて、夢を見ているような気分で頭の中が真っ白になった。

一体、この人は何者なのだろう。

やがて車は住宅街を抜け、視界が大きく開けた。その瞬間、私は思わず息を飲んだ。遠くからでも圧倒的な存在感を放つ、巨大な豪邸が目の前に現れたのだ。重厚な天然石で作られた門扉から続く長いアプローチの両側には、丁寧に選定された樹木が整然と並んでいる。庭の広さだけでも、私が住んでいたアパートの軽く10倍はある。

広大な庭には季節折々の樹木が植えられ、どれも丁寧に手入れされている。敷地の奥には、複数の重機が収まった大きな倉庫まである。ここが単なる住まいではなく、現役の作業拠点でもあることが伝わってきた。

「ここが正彦さんの家?」

「と、少し広すぎるかもしれないけど、慣れたら住みやすいと思うよ。」

「少し広すぎる」という表現が、私の感覚とはまるで違っていた。呆然としたまま案内されるがままに玄関をくぐると、吹き抜けの広い廊下が奥まで続いていた。リビングは天井が高く解放的で、大きな窓の向こうには手入れの行き届いた日本庭園が広がっている。キッチンは業務用かと見紛うほどの広さで、設備は一流のものが揃っていた。

いくつあるか数えきれないほどの部屋を案内され、私はただ口を開けて歩くだけだった。レナが「式もあげられない貧乏人」と嘲ったあの言葉が、頭の中でこだまする。この光景をレナが見たら、どう思うだろうか。

「正彦さん、お仕事って、何をしているの?」

ようやく絞り出した質問に、正彦は照れ臭そうに笑いながら、ダイニングに腰を下ろした。

「そらしだよ。木を切る仕事。」

「そらし?」

聞き慣れない言葉に首をかしげると、正彦はゆっくりと説明を始めた。

「トビとは、クレーンや重機が入れない場所にある危険な木を、人間の手だけで処理する特殊伐採の職人のことだ。電線に絡みかけた木、住宅が密集するエリアに立つ巨木、神社仏閣の境内にそびえるご神木。そういった機械では対処できない木を相手にする、命がけの仕事である。」

高さ30m、40mもの木に、命綱1本で登り、梢まで登ったところで体を固定する。チェーンソーを取り出し、周囲に当たらないよう精密に角度を計算しながら、枝を1本ずつ丁寧に切り落としていく。地上の仲間と連携を取りながらロープで枝を誘導し、安全に下ろす。その全てが、高さ数十メートルの空中で行われるのだ。

「一歩間違えたら終わりだよ。だからこそ、誰にでもできる仕事じゃない。」

正彦は淡々と、しかし確かな誇りを持ってそう言った。その言葉には、長年命がけで仕事に向き合ってきた人間だけが持つ、静かな重みがあった。

正彦の技術は全国でも指折りの水準で、自治体や企業から「正彦でなければ解決できない」と指名を受け続けているのだという。1つの現場をこなすだけで報酬が数百万円に達することも珍しくなく、正彦は同じ志を持つ職人仲間を集めた技術者集団のリーダーとして、全国を飛び回っていた。

レナが「ただの日雇いバイト」と切り捨てたあの姿は、命がけの現場へと向かう職人の姿だったのだ。ビジネスクラスは、全国の自治体や企業との商談や講演のための移動に使うもの。地下足袋に軽トラという姿は、どんな現場にも分け隔てなく向き合う正彦の流儀だったのだ。

その真実を知った時、私はレナの浅はかさを改めて思い知った。見た目だけで人を誹謗中傷し、自分の都合で切り捨てるレナがしてきたことの愚かさが、今になってはっきりと見えた。

しばらくして、正彦は少し遠い目をしながら言った。

「君は、僕が汚い身なりをしていても、お姉さんと違って気にしないんだね。だから、信頼できるよ。」

「身なりで人の価値は決まらないから。それに、正彦さんのメッセージを読んでいれば、どんな人かは分かるよ。」

正彦は少し驚いたような顔をしてから、静かに微笑んだ。

「そういうことを自然に言える人間が、世の中にはなかなかいないんだよ。」

その言葉が、じんわりと胸の奥に染み込んでいく。レナは地下足袋と軽トラだけを見て正彦を切り捨てた。しかし私には、身なりよりも、メッセージの一言一言から伝わってくる誠実さの方がずっと大切に思えた。正彦はそれを分かってくれていたのだ。

窓の外に広がる庭を眺めながら、私は静かに思った。レナの影として生きてきた長い年月があったからこそ、人の外側ではなく内側を見る目が育ったのかもしれない。そして、その目が正彦という人間の本質を見抜いていた。そう気づいた瞬間、長い間心のどこかに引っかかっていたものが、すっと消えていった。

これから、ここが私の家になるのだ。その事実が、ようやく少しだけ現実として感じられた。

結婚から半年が経った秋のことだ。全国ネットの人気ドキュメンタリー番組から、正彦に密着取材の依頼が入った。タイトルは「命がけの職人、そらし。日本の都市を守る木の名人たち」。30分の特集として全国放送されたその番組は、放送直後からSNS上で大きな話題となる。

正彦は取材の話を最初は乗り気ではなかったが、「そらしという仕事を多くの人に知ってほしい」という制作側の熱意に心を動かされる形で引き受けたのだという。

画面には、地上40mを超える巨木に命綱1本で登る正彦の姿が映し出されていた。梢まで一心に登り、精密な角度でチェンソーを入れながら枝を1本ずつ丁寧に落としていく。その冷静さと圧倒的な技術の高さに、スタジオのコメンテーターたちが言葉を失う場面もあった。

「こんな仕事をする人間が日本にいたのか」という驚きの声がSNS上に溢れ、正彦への賞賛が広がっていく。

番組の後半には、「イケメンそらしを支える妻」という形で、私も短く紹介された。毎朝早起きして作るお弁当、現場に差し入れるお結びと豚汁が画面に映し出される。仕事仲間の職人さんたちが「道満さんの飯がなきゃ現場に来られないっすよ」と笑いながら話してくれた場面では、正彦が照れ臭そうに頭を掻いていた。

私はテレビの前でその場面を見ながら、胸が温かくなるのを感じていた。半年前まで、レナの影として息を潜めるように生きていた私が、今は全国放送のテレビに映っている。人生とは本当に分からないものだ。

放送が終わった後、近所の方々や正彦の仕事仲間から温かいメッセージが次々と届く。穏やかで幸せな夜だった。

しかし、その翌朝、事態は急変する。

朝食の片付けをしていると、インターホンが鳴った。モニターを確認した瞬間、私は手に持っていた食器を危うく落としそうになる。画面に映っていたのは、レナだった。

ハイブランドのコートに身を包み、完璧なメイクを施している。しかしその目の奥には、これまで見たことのないほどの激しい感情が渦巻いていた。

深呼吸をしてから玄関を開けると、レナは挨拶もなく口を開いた。

「道満、正彦さんを私に返しなさい。最初に出会ったのは私なんだから、あなたが横取りしたんでしょ。」

あまりにも堂々とした物言いに、一瞬頭の中が真っ白になる。私が言葉を探していると、レナはさらに畳みかけてきた。

「返してくれれば、これ以上何もしない。でも、返してくれなければ、分かってるでしょ。」

その言葉が終わらないうちに、奥から正彦が現れた。やり取りを全て聞いていた正彦は、静かに、しかし一切の迷いなく言い放った。

「レナさん、お帰りください。私の妻は道満です。それは、これからも変わりません。」

レナの表情が凍りついた。口元が小刻みに震え、それから見る見るうちに怒りの色に染まっていく。一言も発せずにヒールを返し、足早に去っていくレナの背中を、私は無言で見送った。

その後ろ姿を眺めながら、私は奇妙なほど冷静だった。過去の自分なら、恐怖で体が震えていたはずなのに。今は、正彦が隣にいるというだけで、揺らぐことなく立っていられる。

しかし、レナが大人しく引き下がるはずもなかった。

数日後、またあのSNSに投稿が現れる。

「妹に婚約者を奪われました。信じていたのに、裏切られた気持ちです。」

かつてと同じ手口だ。事実を歪めた虚偽の内容を、感情的な言葉で綴り拡散させる。熱狂的なファンたちがたちまち反応し、私たちの住む地域へ押しかけようとするコメントが溢れ始めた。

以前なら、この光景だけで体が震え、頭が真っ白になっていただろう。しかし、今回は違う。

正彦は、地域の人々から本当の意味で信頼されていた。何年もかけて地元の山林を管理し、自治体の依頼に誠実に答え、台風被害の後には無償で倒木処理に駆けつけたこともある。そんな正彦の人柄と仕事ぶりを、地域の人たちはよく知っていたのだ。そして、正彦を支える私も、温かく迎えられていた。

レナのSNS投稿が拡散し始めると、地元の自治会が素早く動いた。レナが私に行った嫌がらせや恐喝の経緯が、住民たちの口から次々と語られるようになる。

さらに、レナが過去に行ったSNS上の虚偽告発の証拠も掘り起こされ、マスコミがその悪質な手口を大きく取り上げた。レナにまつわる悪評はSNS上で燃え広がり、それまで熱狂的に支持していたフォロワーたちも一斉に離れ始める。

そして同じ時期、週刊誌がある記事を掲載した。レナが正彦を捨てて乗り換えようとしていた青年実業家は、実は結婚詐欺師だったというのだ。レナは交際の末に貯金を全額持ち逃げされ、さらには高額の借金の保証人にまでさせられていたことが暴露される。

華やかな生活を手に入れるために人を踏み台にし続けてきたレナが、同じ手口で自分が踏み台にされたのだ。

正彦はその記事を静かに読み終えてから、私に向き直った。

「道満、このまま終わりにしなくていいと思う。ずっと記録してきただろう、日記に。」

「うん。レナにお金を要求された日付も金額も、全部書いてある。」

正彦はゆっくりと頷いてから、続けた。

「それを証拠にして、法的に動こう。君はもう、十分すぎるほど我慢してきた。」

その言葉が、長年凍りついていた何かを溶かしてくれた気がする。

正彦が手配してくれた弁護士は、業界でも名の知れた辣腕の人物だ。弁護士は日記と保存していたLINEのやり取り、振り込み明細を丁寧に精査した上で、過去の恐喝金の返還と損害賠償を求める訴訟を起こすことができると断言した。

裁判の準備が始まると、かつて私が働いていた市役所の同僚たちが立ち上がってくれた。

「道満さんが悪いわけがない。あの窓口での姿を、私たちはずっと見てきたから。」

長年お世話になった地域の住民たちも、次々と私を擁護する声をあげてくれる。私を孤立無縁に追い込んだレナが、今度は完全な四面楚歌の中に立っていた。

そして、レナを雇用していた航空会社も、相次ぐ炎上と社会的信用の失墜を重く見て、レナを即刻解雇した。華やかなCAとしての肩書きも、数十万人のフォロワーも、次の金づるとして目をつけていた男も、全てが1度に消えていく。大切なものを奪い続けてきたレナは、自分自身のやり方によって、全てを失ったのだ。

全てを失ったレナに、手を差し伸べる男性は1人もいなかった。繰り返した整形の副作用が長期に及ぶストレスと重なって、じわじわと顔に現れ始める。たるみ、歪み、引きつり。以前の美貌とはかけ離れた変化が、少しずつレナの顔を侵食していった。

SNSの更新はぱったりと止まり、数十万人いたフォロワーは見る間に消えていく。レナはボロアパートに引っ越し、借金の返済のために毎日過酷な日雇い労働に出かける日々を送っているという。近所の子供たちは、レナの顔を見るたびに「怖い」と怯え、足早に逃げていくらしい。

自身の美貌と発信力で人々を熱狂させていた女性の末路とは、到底思えない姿だった。

その話を人から聞いた時、私の胸には不思議なほど何も生まれなかった。怒りも、哀れみも、溜飲が下がる感覚も。ただ、長かった何かが静かに終わったという実感だけが、胸の奥にストンと落ちてきた。

今、私の毎朝は早起きから始まる。正彦は夜が開けると同時に支度を整え、現場へと向かっていく。命綱を確認し、地下足袋の紐をキュッと締め、軽トラに道具を積み込む。その背中に向かって「行ってらっしゃい」と声をかけながら、私はお弁当の包みを手渡す。

正彦1人分だけではなく、一緒に働く職人仲間たちの分も、一緒に。

「道満さんのご飯を食べると、どんな現場でも頑張れる気がするんですよ。」

そう言って破顔する職人さんたちの顔が、私の毎朝の活力になっていた。

「道満のご飯を食べると、不思議と怖くないんだよな。どんな高い木でも。」

その言葉を聞くたびに、私は胸の奥が温かくなるのを感じる。命がけの仕事に向かう人間の背中を、食事で支えられているとしたら、こんなに誇らしいことはない。

出版社の仕事も続けている。誰かの言葉を丁寧に読み、より伝わる形に整えていく作業が、静かに好きになっていた。

姉の影として生きてきた長い年月の中で、私はずっと自分の居場所を探し続けてきた。それがまさか、命がけで木に登る職人の隣にあるとは、あの頃の私には想像もできなかっただろう。

道満として生きる今が、私にとっての本当の人生の始まりだ。

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