席に着いた瞬間、夫が放った一言が、結婚二十五周年の記念ディナーの空気を凍らせた。
「あなたには、そんな安物がよく似合うよ。」
目の前には、箱にも入っていない安っぽい花の飾り。そして夫の隣には、会社で働く若い女性、高橋美穂がいた。彼女の薬指には、夫が今しがた贈ったばかりの大きなダイヤの指輪が、場違いなほどに輝いている。
「奥様には、そちらが本当にお似合いですわ」
美穂はワイングラスに口をつけながら、くすっと笑った。夫の健一は、満足そうに頷いている。
「お前は家で留守番ばかりだろう。宝石なんてつけて行く場所もない。それに引き換え、美穂君は会社の顔として外に出る機会が多いからな」
私は怒鳴らなかった。グラスの水を浴びせることも、泣き叫ぶこともなかった。ただ、膝の上で自分のバッグを静かに握りしめた。指先に、ほんの少し力がこもる。二人はまだ知らない。私がバッグの中で握りしめているのが、夫が隠し続けてきた裏切りの証拠が入った封筒だということを。そして、この指輪が、最後のパズルのピースだったということを。
料理の味は、何もしなかった。ナイフとフォークがぶつかる音だけが、静かな個室に響く。夫は美穂にワインを注ぎながら、楽しそうに仕事の話をしていた。私など、最初からこの場に存在しないかのような扱いだった。
「そういえば奥様、毎日お暇でよろしいですわね」
突然、美穂が私に話を振ってきた。
「健一さん、会社では本当に頼りにされているんですよ。毎日遅くまで働いて、大きな契約も取ってきて。奥様は家でテレビを見ているだけで生活できるんですから、感謝しないといけませんね」
「そうね。毎日遅くまで、ご苦労様」
私が短く答えると、美穂はつまらなそうに鼻で笑った。夫が社長の座につけたのは、亡くなった私の父が彼を引き上げたからだ。夫は外では有能な経営者を気取っているが、実際のところ、会社の重要な数字は全て私が裏で管理していた。父が亡くなる間際、私に一つの鍵を託したからだ。夫はそれを知らない。自分が全てを支配していると、本気で信じている。
「美穂君、そんなに妻をいじめてやるな。この女は私がいなければ生きていけないんだ」
夫の言葉に、美穂は高い声で笑った。私は手元の冷めたスープを見つめた。水面が、かすかに揺れていた。怒りよりも、呆れと静かな決意が心の中で膨らんでいく。ここで泣いてすがれば、夫の自尊心は満たされる。怒って席を立てば、美穂は私を「ヒステリックな奥様」と周りに言いふらすだろう。相手に最大の罰を与えるためには、今ここで感情を爆発させてはいけない。ただ、彼らがどれだけ愚かな嘘を重ねるのか、見届ける必要があった。
食事が終わりに近づいた頃、夫がウェイターを呼び、得意げな顔で一枚の黒いクレジットカードを取り出した。それは会社の役員だけが持つことを許される、特別な法人カードだ。
「今日は私が奢ってやる。感謝しろよ」
「健一さん、あの指輪もそのカードで買ってくださったんですか? さすが社長ですね」
「まあな。私の裁量でどうにでもなるんだよ。会社のお金なんて、私の財布と同じだからな」
私はその言葉を聞いて、小さく息を吐いた。夫は本当に何も分かっていない。あの法人カードの引き落とし口座。それは亡き父が会社の万一のために残した特殊な口座で、その管理権限は一ヶ月前に、すでに夫から私へと法的に移行されていた。愛人への指輪など、会社に一切関係のないものを買えば、それは単なる無駄遣いではなく、会社への明確な背信行為となる。私は今日、夫がそのカードを使う瞬間を待っていたのだ。バッグの中の封筒には、夫がこれまで少しずつ会社の資金を横領していた内訳が入っている。しかし、それだけでは言い逃れをされる可能性があった。だからこそ、言い逃れのできない決定的な瞬間を待っていた。
「奥様、そろそろお帰りになったらどうですか? 私たちはこれから仕事の続きがありますの。社長と秘書の、大事な打ち合わせが」
美穂はわざとらしく夫の腕に自分の腕を絡めた。夫はそれを拒むどころか、満足そうに目を細めた。
「そうだな。お前は先に帰っていろ。タクシー代くらい渡してやる」
夫が千円札を一枚、テーブルの上に投げ捨てた。私は静かに立ち上がった。投げ捨てられたお札には触れず、自分のバッグだけをしっかりと抱えた。
「ご馳走様。指輪、とてもよくお似合いですよ」
私が静かにそう言うと、美穂は面白くなさそうな顔をした。私が泣き崩れるのを期待していたのだろう。夫は鼻で笑い、ワインを飲み干した。
「可愛げのない女だ。だから私に飽きられるんだ」
私は背中越しにその言葉を聞きながら、個室の扉を開けた。廊下に出ると、ひんやりとした空気が頬を撫でた。足取りは、不思議なほど軽かった。長年私の心を縛りつけていたものが、今日ようやく切れた音がした。
レストランを出て、夜風に吹かれながらバッグからスマホを取り出すと、一通のメッセージが表示されていた。送り主は、父の代からお世話になっている顧問弁護士の田中先生だ。
「佐藤さん、準備は全て整いました。明日の朝、予定通りに動きます」
私はその文字を見つめ、静かに頷いた。夫も美穂も、今日は最高の夜だと思っているだろう。美しい指輪を眺めながら、勝利の美酒に酔いしれているはずだ。けれど、彼らが笑っていられるのは、今夜が最後だ。翌朝、夫が使っていたあの特別な口座がどうなるのか。そして、美穂の左手で輝いているそのダイヤの指輪が、彼女自身の人生をどれほど深く切り裂くことになるのか。翌朝九時、時計の針が動いた瞬間、美穂の顔から笑顔が完全に消え去る理由を、私はもう知っていた。
タクシーを降りると、静かな住宅街に私の足音だけが響いた。家の中は真っ暗だった。夫はもちろん帰っていない。私は靴を脱ぐと、電気もつけずにまっすぐ奥へと向かった。部屋の奥にある古い仏壇の前に座り、マッチを擦って線香に火をつけた。静かに手を合わせると、香の匂いが胸の奥まで広がる。写真の中で微笑む父の顔が、煙の向こうに揺れていた。
「お父さん、いよいよ明日です」
声に出すと、少しだけ手が震えた。私がこの二十五年間、夫の冷たい態度や外での軽薄な振る舞いに耐え続けてきた理由。それはただ夫を愛していたからではない。父が人生をかけて育てたこの会社と、そこで真面目に働く社員たちを守るためだった。私は仏壇の引き出しを開け、古いノートを取り出した。父の字でびっしりと書かれた、会社の業務記録だ。最後のページには、掠れた字で一言だけ書かれている。
「後は頼む。健一には表の顔だけを任せなさい」
私はその文字を指先で静かに撫でた。冷たかった指先に、少しだけ血が通うのを感じた。このノートこそが、私を今日まで支え続けてくれた唯一のお守りだった。
夫は口がうまく、人当たりがいい男だった。父はそんな夫の営業の才能を買って引き上げた。しかし父は同時に気づいていた。夫には経営者としての堅実さも、社員を守る誠実さもないことに。父が亡くなる直前、会社の重要な実印と特殊な資金口座の管理権は、こっそりと私に託された。夫は社長という肩書きを手に入れ、すっかり有頂天になった。自分一人の力で会社を大きくしたと思い込んだのだ。私はあえて何も言わなかった。夫が外で社長として気持ちよく働いてくれるなら、それでいい。私が裏で数字を管理し、会社が安全に回るなら、妻として裏方に徹しようと決めていた。しかし、夫の傲慢さは年々エスカレートしていった。
リビングのソファには、夫が脱ぎ捨てた高級なシャツが放置されていた。拾い上げると、見慣れた女性物の香水の匂いが鼻をついた。美穂がつけているあの甘ったるい香りだ。私は何の感情も湧かないまま、そのシャツをゴミ箱に捨てた。怒る気力さえ、とうの昔に失われていた。台所で湯を沸かし、お茶を注ぐと白い湯気が立ち上る。この数年、夫は家にお金を入れることをしなくなった。「お前は家で寝ているだけだろう。何にそんなに金がいるんだ」と。生活費を切り詰められ、私はスーパーのパートに出て家計を支えた。会社の本当の通帳には十分な資金があるのを知っていた。しかし、私はそのお金に一切手をつけなかった。あれは父が残した会社と社員のための大切なお金だから。夫とは違い、私は私生活のために使うことなど絶対にできなかった。夫は会社の経費を自分の財布のように使い始めた。最初は小さな経費のごまかしだった。しかし最近では、高級車の購入や、美穂のような愛人への貢ぎ物にまで会社のカードを使うようになっていた。
私は引き出しから、あの封筒を取り出した。中には夫が使い込んだ経費の内訳と、それを証明する領収書のコピーが入っている。長年私に協力してくれた経理の社員が、密かに集めてくれたものだ。長年耐えてきた時間は、決して無駄ではなかった。手元にある証拠は、すでに言い逃れのできない山となって積み重なっていた。これを見るたび、私の心の中には静かな力が湧いてくる。私には、戦うための武器がしっかりと握られている。
時計の針は深夜の二時を回っていた。夫は今頃、美穂と甘い夜を過ごしているはずだ。あの光輝くダイヤの指輪を眺めながら。レストランで夫が放った「あなたにはそんな安物がよく似合う」という言葉が、耳の奥に蘇る。増築の束を前に座らされたあの惨めな時間。見下すような美穂の視線。私は湯呑みを持つ手にぐっと力を込めた。熱いお茶が少しだけ指に跳ねたが、離そうとは思わなかった。私は決して泣き寝入りするつもりはない。ただ耐えて夫の機嫌を伺うだけの妻は、今夜で終わりにする。私の手元には、父の会社を守るための法的な手続き書類が全て揃っている。そして一ヶ月前に完了した、あの法人カードの引き落とし口座の名義変更。夫は、自分が使っているカードの裏側で何が起きているのか、全く知らない。明日、そのカードの引き落とし日を迎える。夫が美穂に贈った数百万円の指輪の代金が、どう処理されるのか。それを考えただけで、胸の奥の重たいものが少しだけ軽くなった。
夜が明け始め、窓の外がうっすらと明るくなってきた。私は一睡もしていなかったが、頭は驚くほど冴え渡っていた。午前六時。あと三時間で銀行の窓口が開く。それと同時に、弁護士の田中先生が動き出す。私は静かに立ち上がり、寝室のクローゼットを開けた。今日着るための、仕立てのいいスーツを取り出す。それは父の葬儀の時に着た、私にとって特別な一着だった。これからは、ただの裏方ではない。父の会社を、そして自分の尊厳を取り戻すための戦いが始まる。鏡の前で静かに背筋を伸ばした、その時だ。静まり返った家の中に、玄関のドアが開く音が響いた。乱暴な音とともに、朝帰りの夫が機嫌よく鼻歌を歌いながら帰ってきた。私は部屋の奥から、そっと息を潜めた。夫の足音は、リビングの入り口でぴたりと止まった。
「おい、なんだこれは?」
夫の低い、苛立った声が廊下に響いた。夫はまだ気づいていない。自分が床に落ちていたある紙切れを踏みつけ、その裏にある真実に触れてしまったことに。私が寝室のドアを静かに開けると、夫は床に落ちていた一枚のはがきを拾い上げていた。それは昨日私が銀行から受け取った、法人口座の手続き完了を知らせる控えだった。テーブルの端に置いていたものが、風で落ちたのだろう。
「口座名義人変更……なんだこれは?」
夫は眉を潜めた。私は心臓が少しだけ早鐘を打つのを感じたが、顔には一切出さない。夫の顔をまっすぐに見つめ、静かに歩み寄った。
「経理の伊藤さんが、古い口座の整理をしているみたいですよ」
私が淡々と答えると、夫は鼻で笑った。
「ふん。伊藤のやつめ、定年が近いからって勝手な真似ばかりしやがって。どうせ大した金額が入っていない口座だろう」
夫ははがきを乱暴にゴミ箱へ投げ捨てた。私は無言のまま、落ちたはがきの行方を見つめた。夫は気づいていない。その無名口座だと見下した口座こそが、彼がいつも自慢に使っている黒いカードの新しい引き落とし先であることに。そして、その口座の管理権が完全に私の手にあることにも。
夫はソファにどっかりと座り込み、私の姿を見て少し驚いた顔をした。
「お前、朝からそんなスーツを着てどこへ行くつもりだ? 今日は俺の親族の法事でもないだろう」
「少し、大事な用事があるんです」
私が短く答えると、夫は興味なさそうに視線を外した。
「ふん。パート先の集まりか何かか。どうでもいいが、俺の朝飯はできているんだろうな。二日酔いで胃が痛いんだ」
私は台所へ向かい、冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出した。グラスに注いで夫の前に置くと、夫は不満そうに舌打ちをした。
「温かい味噌汁くらい作れないのか。気が効かない女だ。昨日の美穂の足元にも及ばないな」
夫はまたしても美穂の名前を出しては、私を見下した。
「あの指輪、美穂は本当に喜んでいたよ。お前も少しは女を磨けば、安いバッグくらいは買ってやるのにな」
私はグラスの横に、夫の頭痛薬を静かに置いた。
「お薬、飲んでおいた方がいいですよ。今日は大切な会議があるのでしょう」
私の冷たく落ち着いた声に、夫は一瞬だけ口を噤んだ。私が泣いて怒るのを期待していたのに、肩透かしを食らったような顔だ。その表情を見て、私の心の中に静かな満足感が広がった。相手の挑発に乗らないこと。それが、今の私にできる最も効果的な反撃だった。
夫が薬を飲んでシャワーに向かった後、私はダイニングの椅子に座り、封筒から一枚の古い決算報告書を取り出した。そこには、この数年間で少しずつ消えていった会社の資金の流れが記されている。三年前に購入された五百万円の高級車。一昨年に経費として処理された高級時計。そして毎月のように続く、高級レストランやホテルでの謎の接待費。その全てが、夫と美穂の個人的な楽しみに使われていた。父が一代で築き上げた会社は、決して大きな企業ではない。社員一人ひとりが汗を流して働き、少しずつ積み上げてきた利益だ。それを夫は、自分自身の欲望のためだけに食い潰してきた。経理の伊藤さんは何度も夫に苦言を呈したそうだ。しかしその度に、夫は「俺が社長だ」と鳴り散らし、伊藤さんを窓際部署へ追いやった。私は伊藤さんからこっそりと渡された資料を、毎晩、歯を食いしばって整理していた。父の会社が少しずつ壊されていく。その痛みに耐えながら、私はこの日を待っていた。
シャワールームから水音が聞こえてくる。私は時計を見上げた。午前七時。銀行が開くまで、あと二時間だ。私は夫が脱ぎ捨てたスーツの上着を手に取り、ハンガーにかけようとした。その時、内ポケットから何かが床に落ちた。拾い上げると、それは不動産屋の名刺だった。名刺の裏には、手書きのメモが残されている。
「タワーマンション 手付金 一千万円」
期日は、今月末。私はその文字を見た瞬間、息を飲んだ。一千万円。そんな大金が、今の夫の個人の貯金にあるはずがない。まさか夫は、会社の運転資金にまで手を出そうとしているのか? もしそれが本当なら、会社は完全に倒産してしまう。私の背筋に冷たい汗が流れた。夫は美穂に指輪を買うだけでは満足していなかったのだ。会社の金を使って、愛人と住むための豪華な部屋まで買おうとしている。私は名刺を強く握りしめた。怒りで、手が小刻みに震える。しかし同時に、一つの疑問が浮かんだ。夫は一体どこから、その一千万円を引き出すつもりなのか。会社のメイン口座はすでに私の監視下にある。夫が勝手に資金を動かせば、すぐに私に通知が来るはずだ。その時、私はあることに気がついた。夫の書斎だ。夫は家では絶対に仕事の話をせず、書斎にも私を入れたがらなかった。鍵はかかっていないが、掃除はしなくていいと固く禁じられている部屋だ。私は名刺をポケットにしまい、静かに書斎のドアに手をかけた。シャワーの水音は、まだ続いている。ドアを押し開けると、カーテンの閉まった薄暗い部屋に、古い紙の匂いが漂っていた。私は足音を忍ばせて机に近づき、一番下の大きな引き出しに目を向けた。いつもは少しの隙間もなく閉まっているその引き出しが、今日はほんの少しだけ半開きになっていた。私は震える指で、その引き出しに手を伸ばした。中に入っていたものを見た瞬間、私は自分の目を疑った。そこには、私が全く知らない事実が隠されていたのだ。
引き出しの奥に隠されていたのは、一冊の古びた通帳だった。表紙には、私が一度も見たことのない地方銀行の名前が記されている。それを見た瞬間、私の手は小刻みに震え始めた。夫は私に、家の貯金や自分の口座は全て管理させていると言っていた。しかしそれは、真っ赤な嘘だった。私は息を殺し、震える指でその通帳を開いた。印字された文字を追う私の目に、信じられない数字が飛び込んできた。三日前の日付で、千五百万円という金額が振り込まれていたのだ。振り込み元の名前は、見知らぬ不動産金融の会社だった。会社の売上ではない。夫個人の名義で、どこかの業者から借金をしたのだ。しかし、これほどの額を無担保で借りられるはずがない。私は通帳の下に敷かれていた一枚の分厚い書類に目を落とした。それは、不動産担保ローンの契約書の控えだった。担保として記載されていた住所を見た瞬間、私の目の前が真っ暗になった。そこには、今私たちが住んでいるこの家の住所が書かれていた。この家は、亡き父が私に残してくれた大切な実家だ。庭には、私が子供の頃に父と一緒に植えた小さな桜の木がある。父は「この桜は、お前と同じようにたくましく育つ」と笑っていた。そんな父の思い出が詰まった、かけがえのない場所。名義は私と夫の共有になっているが、実質的には父が身を粉にして働いて建てた財産だった。夫は私の実印を勝手に持ち出し、偽造した印鑑を使ってこの家を担保に借金をしたのだ。あのタワーマンションの手付金一千万円は、ここから出すつもりだったのだろう。愛人との新しい生活のために、私の父が残した家を売り渡そうとしている。怒りで、歯の根がガチガチと鳴った。ただの経費の横領ではない。これは家族に対する完全な裏切りであり、許されない犯罪だ。
その時だ。シャワーの水音が、ぴたりと止まった。
「おい、タオルがないぞ」
浴室から、夫の不機嫌な声が響いた。肩が跳ねる。急いで通帳と契約書を元に戻そうとした。しかし、私は手を止めた。心臓の音が自分でも聞こえるほど激しくなっている。もしここに戻せば、夫は今日にでも不動産屋へ向かい、手付金を振り込んでしまうかもしれない。そうすれば、もう家を取り戻すことはできなくなる。私は深く息を吸い込み、覚悟を決めた。通帳と契約書を自分のバッグの底に深く仕込み、その上にハンカチを被せた。そして引き出しを静かに閉め、何事もなかったかのように立ち上がった。
「今、持っていきます」
私は声を張り上げ、急いで洗面所へ向かった。新しいバスタオルを渡すと、夫は濡れた髪を拭きながら私を睨みつけた。
「遅い。もっと早く準備しておけ」
夫の顔には、一片の罪悪感もない。自分の妻の実家を担保に入れ、その金で愛人に貢ごうとしている男の顔。私はその顔を、しっかりと目に焼きつけた。
「申し訳ありません」
私は短く頭を下げた。今はまだ、騒ぐ時ではない。
一時間後、夫は上機嫌で家を出て行った。「今日は社長室で大事な打ち合わせがある。夜は遅くなるから夕飯はいらない」と言い残す夫の背中からは、昨日と同じ甘い香水の匂いがした。打ち合わせというのは、美穂と会うことだろう。私は玄関の鍵を閉めると、深く深呼吸をした。足の震えは、もう止まっていた。バッグの重みが、今の私にとって唯一の支えだ。私はすぐに家を出て、タクシーを拾った。向かったのは、町の中心部にある古いビル。その三階に、弁護士の田中先生の事務所がある。田中先生は父の代から会社の顧問を務めてくれている、温厚で口の硬い初老の男性だ。事務所のドアを叩くと、先生はすでに私を待っていた。
「佐藤さん、おはようございます。よく眠れませんでしたか」
私の顔色を見て、先生は静かにお茶を出してくれた。その温かいお茶を一口飲んだ瞬間、私は少しだけ泣きそうになった。しかし涙をこらえて、バッグから通帳と契約書を取り出した。
「先生、今朝、夫の書斎でこれを見つけました」
私が書類を机に置くと、田中先生の表情が変わった。先生は老眼鏡をかけ、書類の隅々まで丁寧に目を通した。部屋の中には、時計の針の音だけが響いている。長い沈黙の後、先生は重いため息をついた。
「佐藤さん、これは非常に危険な状態でしたね。よくこれを見つけて、持ち出してくれました」
先生の言葉に、私は少しだけ救われた気がした。
「夫は私の実印を勝手に使ったようです。これで愛人とのマンションを買うつもりだと」
私が言葉を絞り出すと、先生は静かに頷いた。
「有印私文書偽造、そして詐欺罪に問える可能性があります。健一さんの暴走は、もはや会社の経費の使い込みというレベルを超えました」
先生は通帳の口座番号をメモしながら、鋭い目を向けた。
「しかし、一つだけ不思議なことがあります」
先生は一枚の資料を私の前に置いた。それは先生が独自に調べてくれていた、愛人の高橋美穂の身上調査報告書だった。私はその報告書に目を落とした。そこには美穂の写真と、簡単な経歴が書かれている。
「高橋美穂さんは確かに健一さんの部下として優秀な成績を出しています。しかし、彼女の経歴には少し不自然な点があるのです。彼女は過去に、資産のある年配の男性と何度も金銭トラブルを起こしています。その手口はいつも同じ。相手に自分を大きく見せさせ、最終的に多額の借金を背負わせるのです」
先生は報告書の最後の一行を指差した。
「彼女の前の職場。それはこの不動産金融の会社と同じ系列の企業ですよ」
私は息を飲んだ。ただの偶然とは思えない。
「つまり……美穂さんは最初から、このローンを組ませるために夫に近づいたということですか?」
私の声は、ひどく掠れていた。先生は静かに頷いた。
「まだ確証はありません。しかし、彼女が健一さんにタワーマンションの購入を進め、自分の知っている金融業者を紹介した可能性は非常に高い。健一さんは若い愛人にいい顔をしたい一心で、彼女の筋書き通りに動かされているのでしょう」
夫は自分では支配しているつもりだった。社長としての権力と会社の金を使って、若い女を自分のものにしたと。しかし現実は、美穂の方が一枚も二枚も上手だった。
「彼女は、健一さんが実質的な経営権を持っていないことを知らないのでしょう。だから実家を担保にさせてまで、金を引き出そうとしている」
私は静かにそう呟いた。夫の愚かさに、心底呆れ果てた。同時に、美穂という女性の底知れぬ欲深さに、冷たい恐怖を感じた。
「今日、法人口座の引き落としがかかります。健一さんが昨日使ったあの黒いカードの支払いが、あなたの管理する新しい口座に回ってきます。当然、そこには会社の運転資金しかありません。個人の贅沢品の引き落としは、システム上でエラーとなります」
先生の声は静かだが、力強いものだった。
「銀行からは、会社ではなく健一さんの携帯に直接連絡が行くように手配してあります。昼頃には、彼も自分の立場に気づくはずです。今日のお昼、健一さんが美穂さんとランチを食べている最中に、その電話はなるはずです。自分が使っていた無人の財布が、突如として空っぽになったことを知る瞬間」
私は手元の冷めたお茶を見つめた。
「先生、この通帳と契約書は、とりあえず先生にお預けします。これ以上、夫に勝手な真似はさせません」
「わかりました。法的な差し押さえの準備も、急いで進めましょう」
これで私の反撃の準備は、全て整った。私は立ち上がり、深くお辞儀をして事務所を後にした。外に出ると、眩しい朝の光が私を包んだ。長い間夫の影に隠れて生きてきた私にとって、こんなに空が青く見えたのは久しぶりのことだ。しかし私はまだ知らなかった。夫の嘘が、私のお金や家だけではなく、もっと深い部分にまで及んでいたことを。その日の午後、私の携帯電話に夫ではなく、全く予想もしなかった人物から着信があった。画面に表示されたその名前を見た瞬間、私は思わず立ち止まった。スマホの画面に表示されていたのは、「義母」という文字だった。夫の母親である彼女とは、もう半年以上も顔を合わせていない。義母は現在、隣町にある高級なシニア向けマンションで暮らしている。その高額な入居費用も、毎月十万円以上かかる管理費も、全て夫が会社の経費から「役員報酬」という名目で不正に引き出していたものだ。私は小さく息を吸い込み、通話ボタンを押した。
「もしもし。姑さんですか?」
私が落ち着いた声で出ると、電話の向こうから鼻で笑うような声が聞こえた。
「由美さん、あんた今日も家でゴロゴロしているんでしょう。今すぐ私の部屋に来なさいよ」
相変わらず、人を見下したような冷たい声だ。
「何か急用でしょうか? 今、少し外に出ているのですが」
私が答えると、義母は苛立ったように声を荒げた。
「用事に決まってるでしょう。健一から聞いたわよ。あんたたち、今の家を売って新しいマンションに引っ越すんですってね」
その言葉に、私はぴたりと足を止めた。心臓がどくんと大きく跳ね、背中に冷たい汗が流れた。夫は私には内緒で実家を担保に入れ、一千万円もの借金をしようとしていた。それなのに、義母にはすでに家の売却と引っ越しの話をしているというのか。
「新しいマンションですか?」
私が探るように聞き返すと、義母は電話の向こうで得意げに笑った。
「そうよ。健一が私のために、タワーマンションの最上階を買ってくれるのよ。あんたみたいな気の利かない嫁じゃなくて、優秀な家政婦さんも雇ってくれるって。だから、今の家の荷物を整理する手伝いに来なさいって言ってるの」
私は頭の中が冷たく澄んでいくのを感じた。夫は義母に、自分と一緒にタワーマンションに住むと嘘をついているのだ。あのマンションは、美穂のための愛の巣のはずだ。義母は息子が自分を引き取って贅沢をさせてくれるのだと、完全に信じ込んでいるようだった。
「わかりました。すぐに向かいます」
私は短く電話を切り、すぐにタクシーを止めた。夫の嘘は私が想像していたよりもずっと深く、そして残酷なほどにあちこちへと広がっていた。自分の母親にまで嘘をつき、その機嫌を取っているのだ。
三十分後、私は義母が住むシニア向けマンションのロビーに到着した。ホテルのような豪華なエントランスには、美しい花が飾られている。これら全てが亡き父の会社から搾取されたお金で維持されていると思うと、胸の奥がちくりと痛んだ。エレベーターで五階へと上がり、義母の部屋のチャイムを鳴らす。すぐに、鍵が開く音がした。
「遅いわね。タクシー代くらい、健一の稼ぎから出ているんでしょうから、もっと早くなさい」
ドアを開けた義母は、私を見るなり不満げに嫌味を言った。私は何も言い返さず、静かに頭を下げて靴を脱いだ。部屋に入った瞬間、私の鼻をある強い匂いが突いた。甘ったるく、どこかツンとするような独特な香水の匂い。それは間違いなく、昨夜のレストランで美穂がつけていたのと同じ香りだった。義母のような八十代の女性が好むような、上品な香りではない。私は部屋の中を静かに見渡した。高級そうなテーブルの上には、二つのティーカップが置かれている。つい先ほどまで、誰かがここで一緒にお茶を飲んでいたのは明らかだった。
「姑さん、どなたかお客様がいらしていたのですか?」
私が尋ねると、義母は満足そうにソファへ深く腰を下ろした。
「ええ、そうよ。健一の会社で秘書をしている高橋さんって言う、可愛らしいお嬢さんが来てくれたの」
義母の口から「高橋」という名前が出た瞬間、私は手元のバッグを強く握りしめた。美穂はすでに、義母にまで接触していたのだ。
「健一から頼まれて、新しいマンションのパンフレットを届けてくれたのよ。本当に気が利く、可愛らしいお嬢さんだったわ。あんたとは大違いね」
義母はテーブルの上にあった分厚いパンフレットを、私に見せつけるように置いた。表紙には、あの不動産屋の名刺に書かれていたのと同じタワーマンションの名前が、金色の文字で輝いている。
「高橋さんが言っていたわ。社長は毎日お忙しいのに、奥様は全く会社の手伝いをなさらないって。健一もかわいそうにね。あんたみたいな無能な嫁をもらって、ずっと苦労してきたのよ」
姑の冷たい言葉が、静かな部屋に響いた。以前の私なら、この言葉に深く傷つき、下を向いて涙をこらえていただろう。自分が至らないからだと、自分を責めていたかもしれない。しかし今の私は、全く別の感情を抱いていた。美穂は夫の母親を騙し、自分に都合のいいように丸め込んでいるのだ。
「高橋さんは本当に健一のことをよくわかっているわ。私にこんな素敵なプレゼントまで持ってきてくれたのよ」
義母は嬉しそうに、テーブルの上にあった小さな紙袋を指差した。中から取り出されたのは、派手な花柄のスカーフだった。それは若い女性向けの安価なブランドのもので、義母の年齢には到底似合わない品物だった。生地も薄く、手触りも決して良くない。しかし義母はそれを、何よりも大切そうに胸に当てている。
「あんたなんか、母の日にも安いお茶くらいしか送ってこないじゃない。それに引き換え、高橋さんは自分のポケットマネーでこれを買ってくれた。そう、健一には内緒でね」
私はそのスカーフを見て、静かに息を吐いた。夫が会社のカードで美穂に買った数百万円の大きなダイヤの指輪。それに比べれば、このスカーフなど数千円程度の安物だ。美穂は夫の金で貢がせながら、ほんの少しの小銭と甘い言葉だけで義母を手なずけ、私をこの家から完全に追い出すための外堀りを埋めていたのだ。なんと恐ろしく、そして狡猾な計画だろうか。私は湯呑みに注がれたお茶を見つめながら、静かに口を開いた。
「姑さん、そのタワーマンションに姑さんも一緒に住むと、夫から直接聞いたのですが」
私の真っすぐな視線に、義母は一瞬だけひるんだように見えた。
「な、何よ。当たり前じゃない。健一が私をこんなマンションにいつまでも一人にしておくわけないでしょう」
「そうですか。では、そのパンフレットの間取り図を見てください。ご高齢の義母さんが安全に住むための部屋は、どこにあるのでしょうか?」
義母は眉を潜め、パンフレットを乱暴に開いた。そこには広々としたリビングと夫婦のための寝室、そして巨大なウォークインクローゼットがあるだけだ。段差のないバリアフリーの作りでもなければ、手すりのある浴室でもない。完全に、若い二人のための贅沢な空間だった。義母の顔から、少しずつ余裕が消えていくのが分かった。パンフレットを持つ手が、かすかに震えている。
「こ、これはきっと、これから設計を変えるのよ。健一は社長なんだから、いくらでも融通が効くはずだわ」
義母は必死に自分を納得させようとしていた。私はそれ以上何も言わなかった。今ここで残酷な真実を全て突きつけても、義母は私を憎むだけで、何も解決しないからだ。それに、義母のプライドを粉々に砕くのは、私の役目ではない。
「姑さん、私は家の片付けがありますので、今日はこれで失礼します」
私が静かに立ち上がると、義母は苛立ったように高い声をあげた。
「ちょっと、まだ話は終わってないわよ。あんた、健一に捨てられるのが悔しくて、私に当たっているんでしょう」
義母の冷たい罵声が背中に投げつけられたが、私は振り返らなかった。玄関で靴を履きながら、部屋の奥を見つめた。あの甘ったるい香水の匂いが、まるで毒のように部屋中に充満している。義母もまた、夫と美穂の欲の犠牲者の一人なのだと気づいた。しかし、同情する気にはなれない。義母はこれまでずっと私を軽蔑し、夫の傲慢さを肯定し続けてきたのだから。これから起きる現実は、義母自身が受け止めなければならない罰なのだ。
マンションの外に出ると、夏の強い日差しが私を包み込んだ。見上げた空は青く、風が少しだけ心地よく感じられた。腕時計を見ると、ちょうど正午を回ったところだった。お昼休み。銀行のシステムが更新され、全ての決済処理が行われる時間だ。私はバッグの中のスマホを取り出し、画面をじっと見つめた。弁護士の田中先生の言っていた通りなら、そろそろ夫の周りに最初の異変が起きるはずだ。あの黒いカードで買おうとした高額な商品の決済が、どうなるのか。その時だ。私の手の中で、スマホが短く振動した。画面には、見知らぬ番号からの着信が表示されている。いや、見知らぬ番号ではなかった。それは以前、私が経理の伊藤さんからこっそりと教えられていた、美穂の携帯番号だった。なぜ彼女が、私に直接電話をかけてくるのだろうか。私は大きく深呼吸をし、通話ボタンを押して静かに耳に当てた。
「もしもし」
私が名乗る前に、電話の向こうからヒステリックな高い声が響いた。
「ちょっと、あなた健一さんの奥さんよね。一体どういうことなの?」
昨夜のレストランでのあの余裕に満ちた甘い声とはまるで違い、ひどく取り乱した声だった。周囲の雑音が聞こえることから、彼女はどこかの外出先にいるようだ。私の口元に、ほんの少しだけ冷たい笑みが浮かんだ。ついに、私が仕掛けた小さな罠が、彼らの足元を崩し始めたのだ。
「どちら様でしょうか? 私は存じ上げないのですが」
わざと落ち着いた声で返すと、美穂はさらにヒステリックに叫んだ。
「とぼけないで! 高橋よ、高橋美穂! あなた、健一さんのカードに何をしたの?」
背景からは静かなクラシック音楽と、店員らしき人の戸惑う声が聞こえた。どうやら彼女は、どこかの高級ブティックにいるようだ。
「健一さんが私に、買い物をしてもいいってカードを渡してくれたのよ。それなのに、レジで決済ができないって言われたわ。店員に冷たい目で見られて、私がどれだけ恥をかいたと思ってるの?」
美穂は私が嫌がらせでカードを止めたと思い込んでいるようだ。
「奥さんだからって、勝手に家族カードを止めるなんて最低ね。健一さんに言いつけてやるんだから」
私は彼女の滑稽な勘違いに、思わず小さく息を吐いた。
「高橋さん、あなたが使おうとしたのは、家族カードではありませんよ」
私の冷たい声に、美穂は言葉に詰まった。
「あれは亡き父が残した会社の法人カードです。役員の業務のためにだけ使用が許可されているものです。個人的な買い物でエラーが出たのなら、それは銀行のシステムが不正利用と判断したからです」
「ふ、不正利用って……健一さんは社長よ! 社長が使っていいって言ったのよ!」
「社長であっても、会社の資金を愛人への貢ぎ物に使えば、業務横領という犯罪になります。銀行は、その異常な出金を見逃さなかっただけです」
電話の向こうで、美穂が息を飲む音が聞こえた。
「それと高橋さん、私に直接電話をしてくるのは、これが最初で最後にしてください。次にあなたと話す時は、弁護士を通した法的な場になりますから」
私はそれだけ言うと、美穂が何かを叫ぶ前に、静かに通話を切った。画面が真っ暗になったスマホを見つめながら、私は冷たく笑った。夫が社長の権力で何でもできると信じ込んでいる愚かな女。彼女の足元が、今、ガラガラと崩れ始めたのだ。店員の前でカードが使えず、不正利用を疑われた彼女の屈辱は、どれほどのものだっただろう。少しだけ、胸の奥がすっと軽くなった。
午後三時、私は銀行の近くにある静かな喫茶店に入った。奥の席で待っていたのは、弁護士の田中先生と、会社の経理を担当している伊藤さんだった。伊藤さんは長年父の代から会社を支えてくれた人物だ。夫に疎まれ、窓際部署に追いやられながらも、密かに会社の数字を守り続けてくれていた。
「佐藤さん、お疲れ様です」
伊藤さんが、温かいコーヒーを進めてくれた。
「伊藤さん、先ほどはご苦労様でした。カードの件、うまくいきましたね」
私が言うと、伊藤さんは少しだけ口元を緩めた。
「ええ、健一社長が使っていた法人カードは、先ほど完全に凍結されました。お昼休みに、社長が血相を変えて経理部に飛び込んできましたよ」
伊藤さんの話によると、夫はひどく狼狽していたそうだ。「おい、俺のカードが使えないと店から連絡があった。どういうことだ?」と、社員たちの前で怒鳴り散らしたらしい。しかし、伊藤さんは冷静にこう答えたという。
「社長、あのカードの引き落とし口座は、昨日付けで名義変更が完了しております。新しい管理者である佐藤由美様の承認がなければ、規定額以上の決済は下りないシステムに変更されました」
その言葉を聞いた瞬間、夫の顔から血の気が引いたそうだ。自分が無尽蔵に使えると思っていた魔法の財布が、実は妻の管理下にあったと知ったのだから。
「健一社長は脂汗を浮かべて、社長室に逃げ帰りましたよ。きっと今頃、どうやって言い訳をするか必死に考えているでしょう」
伊藤さんの言葉に、私は静かに頷いた。田中先生が鞄から、分厚いファイルを取り出した。
「さて、佐藤さん。いよいよ次の段階です。健一さんは今、一千万円のマンション手付金を支払うために、必死で資金を掻き集めようとするはずです」
先生は一枚の古い書類をテーブルに置いた。それは父が亡くなる前に残した、会社の株主名簿だった。
「健一さんは自分が社長だから会社は自分のものだと思い込んでいます。しかし、お父様は会社の株式の八割を、娘であるあなたに相続させていた。健一さんが持っているのは、わずか一割に過ぎません」
私はその古い紙を、そっと指先で撫でた。父の不器用で力強い筆跡が残っている。父は夫の危うさを最初から見抜いていた。だからこそ、いざという時に会社を守れるよう、本当の権力を私に託してくれていたのだ。
「つまり佐藤さん、あなたは筆頭株主としていつでも、健一さんを社長の座から引きずり下ろす権利を持っています。次回の役員会議で彼の横領の証拠を突きつければ、即座に解任が可能です」
田中先生の静かな声が、喫茶店に響いた。
「役員会議は、明後日です。その場で、全てを終わらせます。父の会社を、これ以上あの人に汚させるわけにはいきません」
私はコーヒーカップを両手で包み込みながら、はっきりと答えた。
「わかりました。我々も万全の準備を整えて、会議に同席します」
田中先生と伊藤さんが、力強く頷いてくれた。私には、こんなにも心強い味方がいるのだ。夫と美穂が陰でこそこそと嘘を重ねている間に、私は合法的に彼らを追い詰める準備を完了していた。
夕方、私は自宅に戻った。玄関の鍵を開けると、家の中はひっそりと静まり返っていた。私は自分の寝室に向かい、少しずつ荷物の整理を始めた。明後日の役員会議が終われば、私はこの家で夫と一緒に住むことはない。離婚届も、すでに私の署名と拇印を済ませて、バッグの中に入っている。あとは、夫に現実を突きつけ、サインさせるだけだ。午後八時を過ぎた頃、玄関のドアが開く音がした。いつもより、ずっと早い帰宅だ。私は手を止め、静かに息を潜めた。廊下を歩いてくる夫の足音は、いつものような偉そうな響きではなかった。どこか、じれったいような、すり足のような音だ。リビングに入ってきた夫の顔を見て、私は思わず目を疑った。昨夜のレストランで見せたあの自信に満ちた傲慢な表情は、どこにもない。ネクタイは曲がり、顔色は青ざめ、目の下にはくっきりと隈ができていた。カードが凍結され、愛人に恥をかかせ、手付金の支払い期限が迫っている。その全ての圧力が、一日で彼をここまで憔悴させたのだろう。しかし夫は私と目が合うと、無理に口角を上げて笑いを作った。
「やあ、由美。起きていたのか」
その声は、驚くほど優しく、そして不気味なほどの含みを含んでいた。
「今日は、随分早いですね」
私が淡々と答えると、夫はもじもじと手をこすり合わせながら、私の向かいのソファに座った。
「いや、たまには早く帰って、お前の顔を見ようと思ってな。いつも一人にして悪かったな」
長年連れ添ってきましたが、これほど見え透いた嘘をつく夫を見たのは初めてだった。カードの凍結について怒鳴り込んでくるかと思いきや、夫は全く違う態度に出たのだ。私は湯呑みにお茶を注ぎ、無言で夫の前に置いた。夫はそれを一口飲むと、震える声で本題を切り出した。
「ゆ、ゆみ。実は、お願いがあるんだ。お前の実印と、この家の権利書。ちょっと貸してくれないか」
その言葉を聞いた瞬間、私の心の中で夫に対する最後の一片の情も、完全に冷めきって消え去った。夫はまだ、家を担保にする計画を諦めていなかったのだ。カードが使えなくなった。今、どうにかして現金を作るために、私から直接実印を奪おうとしている。私は自分のバッグに視線を落とした。その中には、夫が探している通帳と契約書が、すでに隠されている。私は静かに顔を上げ、夫の目を見つめた。この時の夫はまだ、自分が踏み込んではならない恐ろしい地雷を、力いっぱい踏み抜いてしまったことに気づいていなかった。
「実印と、この家の権利書ですか?」
私は夫の顔をまっすぐに見つめ返した。声のトーンは一切変えず、ただ静かに問いかける。夫は一瞬だけ視線を泳がせたが、すぐに大げさな笑顔を作った。
「ああ、そうだ。実はな、会社で少し大きな投資の話があってな」
夫は不自然な間を置きながら、いかにも自信ありげに語り始めた。
「お前も知っているだろう。今の時代、守りに入っていては会社は潰れてしまう。社長である私がリスクを取って、新規事業を立ち上げるんだ。お前の父親が作った小さな会社を、俺がもっと立派な企業に育て上げてやる。だから、そのための運転資金として、一時的にこの家を担保に入れて融資を受けたいんだよ」
夫の言葉は、とても滑らかだった。外で取引先を相手にする時の、あの営業スマイルだ。
「すぐに倍にして返すから、心配は要らない。これも全て、俺たちの老後資金を豊かにするためだ。お前には苦労をかけたから、老後は楽をさせてやりたいんだよ」
新規事業。運転資金。老後のため。口から出る言葉はどれも立派だが、全てが嘘だ。本当の目的は、美穂という若い愛人と住むためのタワーマンションの手付金。自分の欲望と見栄を満たすために、父が残した会社も、この大切な家も、全てを食い潰そうとしている。
「銀行の融資なら、会社のメインバンクがあるでしょう。わざわざ個人の家を担保にする必要があるのですか?」
私が冷静に指摘すると、夫の顔から少しだけ笑顔が消えた。
「女のお前には、難しい経営のことは分からないんだよ」
夫は少し苛立ったように、声を低くした。
「銀行の手続きには時間がかかるんだ。それに役員会議を通すのも面倒だ。社長の俺の裁量で、今すぐ動かせる現金が必要なんだよ」
焦りからか、夫の貧乏ゆすりが始まった。今日、法人カードが凍結されたことで、夫の手元にはもう自由に使えるお金がない。明日にでもマンションの手付金を払わなければ、美穂にいい顔ができないのだろう。切羽詰まった状況が、手に取るように分かる。
「お前は昔からそうだ。俺のやることに、いつも細かく口出しをして。俺がどれだけ外で苦労してお前を養ってやっていると思っているんだ。たまには、つまらない協力をしたらどうだ?」
夫は最後には必ず、私を見下し、罪悪感を植えつけようとする。以前の私なら、この言葉に押し切られていたかもしれない。しかし今の私には、夫の焦りが残酷なほどよく見えた。
「姑さんも、その投資のお話をご存知なのですか?」
私がわざと義母の話を出すと、夫はびくっと肩を揺らした。
「は? なんでここで母さんの話が出るんだ?」
「いえ、もし万が一、投資が失敗するようなことがあれば、姑さんにもご迷惑がかかるかもしれないと思って」
私の言葉に、夫は露骨に目をそらした。
「大丈夫だ。母さんには、もっといい暮らしをさせてやるつもりだからな」
夫は顔を背けながら、ぼそりと答えた。義母には一緒にタワーマンションに住むと嘘をついている手前、辻褄を合わせるのに必死なのだろう。自分の見栄のために、妻も母親も愛人も、全てを都合よく操り続けている。その歪んだ姿が、あまりにも哀れで、そして見苦しく見えた。夫は自分を守るためなら、息を吐くように嘘をつける人間なのだ。私は小さく息を吸い込み、はっきりと告げた。
「申し訳ありませんが、実印と権利書は、ここにはありません」
私が静かにそう言うと、夫は目を見開いた。
「ない? どういうことだ?」
「大切なものですから、銀行の貸金庫に預けてあります。私一人では、すぐには引き出せません」
もちろん、嘘だ。実印も権利書も、夫が隠していたあの通帳と一緒に、すでに田中先生の事務所の金庫に厳重に保管されている。しかし、夫は私の言葉を完全に信じ込んだようだった。
「ちっ、なんでそんな勝手なことをするんだ! 肝心な時に役に立たない女だ! すぐに明日、銀行に行って出してこい!」
夫は舌打ちをし、ソファのクッションを激しく殴りつけた。先ほどまでの優しい猫撫で声は、完全に消え去っていた。これがこの男の本当の姿だ。自分の思い通りにならないと分かった瞬間、相手を激しく見下し、攻撃する。私は無言のまま、夫の怒りが収まるのを静かに見つめていた。明日銀行に行ったところで、私が実印を渡すことなど、絶対にない。明後日の役員会議まで、夫はどう足掻いても手付金を用意できないのだ。
「くそ。どうすればいいんだ」
夫は頭を抱え、ぶつぶつと文句を言い始めた。その時だ。テーブルの上に置いてあった夫のスマホが、短く振動した。画面が明るくなり、新着メッセージのポップアップが表示される。夫は舌打ちをして立ち上がり、「少し電話してくる」と足早にトイレへ向かった。焦っていたためか、スマホをテーブルに置いたままにしてしまったのだ。いつもなら、風呂場にまでスマホを持ち込むほど警戒しているのに。私は音を立てずに立ち上がり、テーブルの上の画面を静かに覗き込んだ。送り主は、美穂だった。メッセージの一部が、画面に表示されている。そこには、背筋が凍るような恐ろしい言葉が並んでいた。
「家の権利書まだ取れないの? 手付金、明日までだよ。奥さん騙してさっさと実印奪ってきてよ。他に当てがないなら、私会社辞めるからね」
そして、最後に続く一文を見た瞬間、私の手は怒りで小刻みに震えた。
「それに、義母さんには適当な安い老人ホーム探しておいてよね。一緒に住むなんて絶対に無理だから」
美穂は知っていたのだ。夫が実家を担保にして金を作ろうとしていることも、義母に嘘をついていることも。そして、夫を操って金だけを絞り取ろうとしていることも。夫は自分が若くて美しい愛人を支配しているつもりでいた。しかし、現実は美穂という毒蜘蛛の巣に絡め取られ、身ぐるみ剥がされようとしている哀れな獲物に過ぎなかった。私はスマホから視線を外し、元の席に静かに座り直した。トイレからは、夫のくぐもった声が聞こえてくる。必死に言い訳をしているのだろう。私の心の中で燃えさかっていた怒りが、やがて冷たく静かな氷へと変わっていくのを感じた。夫の情けは、もう一切残っていない。明後日の役員会議。そこで私は、この愚かな夫と、欲にまみれた愛人を、完全に社会から引きずり下ろす。そして、父が愛した会社を、必ず私の手に取り戻す。私は冷めきったお茶を一口飲み、静かにその時を待った。
トイレから戻ってきた夫の顔は、ひどく引きつっていた。よほど美穂から電話で厳しく詰め寄られたのだろう。額にはじっとりと汗が浮かび、目は充血している。夫は私の前に立つと、これまでにないほど低い、懇願するような声で言った。
「ゆみ、明日、必ず銀行に行って、実印と権利書を取ってこい」
私は静かに夫を見上げた。
「もし、断ったらどうなりますか?」
その問いに、夫は狡猾な笑みを浮かべた。
「もし明日までに用意できなければ、お前とは離婚する。この家から追い出して、一銭も渡さない。お前みたいな年を取っただけの女が、一人で生きていけるわけがないだろう」
夫は私を完全に追い詰めたつもりでいた。専業主婦として生きてきた私が、経済的な不安をちらつかされれば、泣いてすがると思ったのだろう。それが、彼にとっての最大の武器だった。しかし、私の心は少しも揺れなかった。
「わかりました。明日、準備をします。その代わり、明日の夜は家でご飯を食べてください。最後になるかもしれない話し合いをしましょう」
私が俯き加減でそう答えると、夫は満足そうに鼻を鳴らした。
「ふん。やっと自分の立場が分かったか。明後日は俺の会社で、月に一度の重要な役員会議がある。明日はまっすぐ帰ってきてやる」
夫はそう言い残し、足音を荒立てて寝室へと消えていった。
翌日、私は朝からスーパーへ行き、買い物をした。和牛の薄切り肉、焼き豆腐、長ねぎ、春菊。今夜の夕食は、夫が一番好きなすき焼きだ。これが、私がこの家で夫のために作る、最後の晩餐になる。スーパーの帰り道、私は公衆電話から弁護士の田中先生に連絡を入れた。
「佐藤さん、明日の役員会議の準備は、全て整いました。午後二時、私も会議室へ向かいます」
「よろしくお願いします。それと、高橋美穂さんは会議に同席するのでしょうか?」
私が尋ねると、田中先生は力強く答えた。
「ええ。彼女は社長秘書として、会議の記録を取るために必ず出席します。全ての役者が、その場に揃うことになります」
「わかりました。逃げ道は、完全に塞いでください」
電話を切り、私は青空を見上げた。
夕方、玄関のドアが開き、夫が帰宅した。リビングに漂う甘辛い醤油の匂いを嗅ぐと、夫の顔に緩んだ笑みが浮かんだ。
「すき焼きか。お前もようやく、俺を敬う気持ちを思い出したようだな」
夫は上機嫌でネクタイを外し、テーブルの前に座った。昨日までの焦った様子は、嘘のようだ。おそらく、私が実印を用意したと完全に信じ込み、美穂にも「明日は金が手に入る」と報告したのだろう。私は無言で鍋に肉を入れた。じゅっと音を立てて肉が焼ける、香ばしい匂いが広がる。夫はビールを飲み干し、肉を頬張った。
「うまいな。お前の料理だけは、昔から評価してやっているんだぞ」
夫はまるで、偉大な王様のように振る舞っていた。
「ところで、実印と権利書は、出してきたんだろうな」
肉を噛みちぎりながら、夫が鋭い目を向けた。
「ええ、準備はしてあります。明日の役員会議が終わったら、全てお渡します」
私が静かに答えると、夫は満足そうに深く頷いた。
「それでいい。俺が新しい事業を成功させれば、お前にも少しは小遣いをやって、面倒を見てやる。離婚の話は、少し待ってやってからにしてもいいぞ」
夫は自分が勝者であると、微塵も疑っていない。私を支配し、自分の思い通りに動かしているという全能感に、酔いしれていた。私は鍋の中で煮える野菜を見つめながら、静かに問いかけた。
「あなたにとって、この家はどういう場所でしたか?」
夫は箸を止め、不思議そうな顔をした。
「なんだ、急に。ただの古い家だろう。俺のような社長には、もうふさわしくない場所だ。もっと見晴らしのいいタワーマンションの最上階こそが、俺の居場所だ」
父が建てたこの家を、「ただの古い家」と言い捨てる夫。その言葉を聞いて、私の中の最後の迷いが、完全に消え去った。
「そうですか。たくさん召し上がってくださいね。これが、最後ですから」
「うん。ああ、そうだな。こんな古い家で飯を食うのも、もう少しで最後になるからな」
夫は私の言葉の意味を取り違え、上機嫌で鍋を突いた。
食事が終わり、夫はいびきをかいて眠りに着いた。私は台所を丁寧に片付け、洗い物を全て済ませた。二十五年間、毎日身につけていたエプロンを外し、綺麗に折りたたんで引き出しの奥にしまった。もう、私がこのキッチンに立つことはないだろう。寝室へ戻り、自分のボストンバッグを確認した。中には数日分の着替えと、田中先生から預かった証拠のファイル、そして私の署名と拇印が押された離婚届が入っている。夫は私を追い出すつもりでいたが、私は自分の足でここから出ていくのだ。全ては、明日の午後二時。父の会社にある、あの広い役員会議室で終わる。バッグのチャックを閉めた時、私のスマホが静かに光った。画面を見ると、義母からの短いメッセージだった。
「明日、健一が新しいタワーマンションの契約をしてくれるそうね。あんたは早く荷物をまとめて、家から出ていきなさい」
義母もまた、夫の嘘を信じ切り、勝ったつもりでいるようだ。私はそのメッセージに返信をしなかった。ただ、画面を静かに閉じた。明日の午後、夫がどんな顔をして崩れ落ちるのか。そして、全てを失った夫から報告を受けた時、義母がどんな悲鳴をあげるのか。静かな夜の闇の中で、私は深く息を吸い込んだ。父が残した会社を取り戻すための、長い長い夜が明けようとしている。
翌朝、夫は私に「実印の準備をしておけよ」と偉そうに言い残し、お気に入りのスーツを着て会社へ向かった。しかし、この時の夫はまだ知らなかった。自分が向かっているその会議室が、社長としての輝かしい未来ではなく、決して逃げられない公開処刑の舞台であることを。時計の針を、少しだけ戻す。昨夜、夫がいびきをかいて眠りに着いた後のことだ。私のスマホに、弁護士の田中先生から一本の電話があった。
「佐藤さん、夜分に申し訳ありません。裏付けが取れました」
先生の声は静かだが、確かな緊張を含んでいた。
「高橋美穂さんの件ですね」
「ええ。彼女が健一さんに紹介したという、あの不動産金融の会社。そこの代表者の名前が判明しました」
先生が告げた名前を聞いても、私にはピンと来なかった。しかし、次に続く言葉で、全ての点と線が一本に繋がった。
「その代表者は、過去に高橋美穂と婚姻関係にあった男です。二人は以前から、同じ手口で複数の高齢男性から金を騙し取っています」
私は暗い廊下で、息を飲んだ。
「では、あのタワーマンションの最上階というのは、架空の話ということですか?」
「パンフレットは本物でも、健一さんが契約しようとしている部屋など、最初から存在しません。手付金の一千万円は、そのまま二人の口座に消える手はずでした」
全身に、冷たい鳥肌が立った。夫は自分の社長としての権力や男としての魅力で、若い美穂を惹きつけたと思い込んでいた。しかし、現実はただの都合のいいカモだったのだ。会社の金を引き出せるだけ引き出させ、最後は実家を担保に借金を背負わせる。そして、現金が振り込まれた瞬間に、美穂は夫の前から姿を消すつもりだったのだろう。
「美穂は、健一さんが実質的な株主ではないと知らなかった。だから、もっと金が絞れると思っていたのでしょう」
田中先生の言葉に、私は深く頷いた。私がなぜ、ここまで長い間夫の裏切りに耐えて黙ってきたのか。愛人の影に気づいた時、すぐに問い詰めて泣き叫ぶことは簡単だった。しかし、それではただの夫婦喧嘩で終わってしまう。夫は口が達者だ。私が中途半端な証拠で問い詰めれば、適当な嘘で誤魔化し、逆に私を「被害妄想の激しい妻」だと攻め立てただろう。そして、私の目を盗んで、さらに巧妙に会社の金を使い込んでいたはずだ。父が人生をかけて育てた会社と、そこで真面目に働く社員たちを守るためには、夫を完全に経営から排除しなければならない。そのためには、言い逃れのできない決定的な犯罪の証拠が必要だった。法人カードの不正利用。そして、私の実印を使った有印私文書偽造。夫を確実に引きずり下ろすための証拠が、昨夜の時点で全て完璧に揃った。私が黙って耐えてきた時間は、決して無駄ではなかったのだ。暗闇の中で、私は強く拳を握りしめた。
そして現在。午後一時半。私は父が残した会社のビルの前に立っていた。レンガ作りの、少し古いけれど手入れの行き届いた五階建てのビルだ。私がここに来るのは、父の葬儀の時以来だった。隣には、田中先生が静かに寄り添ってくれている。
「行きましょうか、佐藤さん」
「はい」
自動ドアを抜けると、一階の受付にいた年配の警備員が、ふと顔を上げた。彼は私の顔を見るなり、驚いたように目を見開き、そして深く丁寧にお辞儀をした。
「お嬢様、お久しぶりでございます」
「ご苦労様です。父の代からずっと、このビルを守ってくださって、ありがとうございます」
私が静かに頭を下げると、警備員の目にはうっすらと涙が浮かんでいた。夫は昔からの社員を次々と左遷し、自分の言うことを聞く者だけを周りに置いてきた。しかし、この会社を本当に支え、愛しているのは、彼らのような誠実な人たちなのだ。私は改めて、今日ここで夫を止める決意を固めた。エレベーターで、役員会議室のある五階へと上がる。扉が開くと、絨毯の敷かれた静かな廊下が続いていた。経理の伊藤さんが、廊下の隅で私たちを待っていた。
「佐藤さん、田中先生。会議は、すでに始まっています」
伊藤さんは少し緊張した面持ちで、ファイルを手渡してくれた。
「社長は今、とても上機嫌です。おそらく、佐藤さんが実印を持って銀行へ行っていると信じているのでしょう。先ほどから、新しい事業の話を高らかに語っていますよ」
私は会議室の分厚いすりガラスのドアを見つめた。中から、夫の偉そうな声が漏れ聞こえてくる。
「これからの時代、我々はもっとアグレッシブに攻めなければならない。過去のやり方に固執していては、会社は成長しないのだ」
まるで自分が世界を動かす一流の経営者であるかのような口ぶりだ。そして、その傍らには、きっと美穂が座っているのだろう。社長秘書という名目で会議の記録を取りながら、心の中で夫を嘲っているはずだ。あのバカな男、早く手付金を持ってこないかしら、と。
「佐藤さん、準備はよろしいですか?」
田中先生が、私の顔を覗き込んだ。私はバッグの中に入っている、重い書類の束を確認した。夫が使い込んだ経費の内訳。美穂に買い与えたダイヤの指輪の領収書。偽造された借金の契約書。そして、私が会社の株式の八割を保有していることを証明する株主名簿。全てが、この手の中にある。
「ええ、問題ありません」
私は小さく深呼吸をした。胸の奥にあった不安や恐れは、不思議なほど消え去っていた。残っているのは、父の会社を守るという、静かで冷たい使命感だけだ。
「では、入りましょう」
田中先生が、ドアノブに手をかけた。会議室の中では、夫がさらに声を張り上げていた。
「この新規事業のために、私は社長として大きな決断を下した。皆も、私についてこい!」
その勝ち誇った言葉が響き渡った瞬間、田中先生が重いドアをゆっくりと開けた。ガチャリというドアの開く音が、夫の演説を遮った。部屋の中にいた全員の視線が、一斉に入り口へと向かう。広い会議室の大きなテーブル。その一番奥の席に座っている夫と、目が合った。夫の顔に浮かんでいた得意げな笑顔が、まるで凍りついたようにぴたりと止まった。隣に座っていた美穂も、ペンを持ったまま目を見開いている。私は、一歩だけ部屋の中に足を踏み入れた。冷たい静寂が、会議室全体を包み込んだ。夫の喉が、ごくりと上下に動くのが見えた。この時の夫はまだ、自分がどんな状況に置かれているのか、全く理解できていなかった。ただ、絶対にここに来るはずのない「無能な妻」が、弁護士を連れて立っているというような、理解不能な光景に言葉を失っていたのだ。私は静かに、夫に向かって言った。
「会議の途中ですが、少しよろしいでしょうか?」
その声は、私自身でも驚くほど、低く澄んでいた。父が残した見えない鎖が、今、音を立てて夫の首に巻きつこうとしている。点と線が完全に繋がり、いよいよ反撃の幕が上がった。
静まり返った会議室で、最初に沈黙を破ったのは夫だった。
「ゆ、ゆみ!? お前、ここで何をしている!」
夫は勢いよく立ち上がり、テーブルを両手で叩いた。予想外の私の登場に、夫の目には一瞬だけ明らかな動揺が走った。しかし、夫はすぐにそれを隠し、いつもの偉そうな社長の顔を作った。ネクタイを少しだけ直し、顎を高く上げる。
「ここは神聖な役員会議の場だぞ。部外者が勝手に入ってくるな!」
夫の怒鳴り声が、広い部屋に響き渡った。周囲に座っている役員たちは、困惑したように顔を見合わせている。彼らは皆、父の代からこの会社を支えてきた古い社員たちだ。私が会議室に足を踏み入れたことの重大さを、彼らは本能的に感じ取っているようだった。その時、夫の隣に座っていた美穂が、くすっと小さな声で笑った。
「健一さん、きっと奥様、一人で銀行に行くのが不安だったんですよ」
美穂は記録用のペンをテーブルに置き、私を小ばかにしたような目で見つめた。
「奥様、ご苦労様です。わざわざ会社まで、実印と権利書を届けてくださったんですね。でも、ここは大事な仕事の場ですから、早く健一さんに渡して、お帰りになった方がよろしいですよ」
美穂は完全に、自分がこの場の女主人であるかのように振る舞っていた。役員たちの前で、正妻である私を「気の利かない下女」扱いすることで、自分の優位性を見せつけようとしたのだ。夫は美穂の言葉に機嫌を良くし、大きく頷いた。
「か、かわって。わざわざ持ってきたのなら、さっさとここへ出せ。俺は今、会社の未来を決める重要な話をしているんだ」
夫は私に向かって、当然のように手を差し出した。彼らは本当に、私が実印を持って夫の機嫌を取るためにここへ来たと思い込んでいるのだ。社長という肩書きと、若くて従順な愛人。自分は全てを手に入れた絶対的な勝者であると、疑うことすらしていない。私は怒ることもなく、悲しむこともなく、ただ静かに夫を見つめた。その見透かすような私の視線に、夫は少しだけ苛立ちを見せた。
「なんだ、その目は? 早くしろ! お前がグズグズしているせいで、新しい投資の契約が遅れるだろうが」
夫は役員たちの前で、堂々と嘘をついた。タワーマンションの手付金を「新しい投資」と言い換えて、自分が有能な経営者であるように見せかけているのだ。私はまっすぐに夫の目を見て、静かに口を開いた。
「実印も、権利書も、ここにはありません」
私の短い言葉に、夫の顔がさっと赤く染まった。差し出していた手が、怒りでぴくっと震える。
「んだと? お前、俺をからかっているのか?」
「からかっているのは、あなたの方です。父が残した大切な実家を、自分の不倫相手と住むために売り払う。そんな身勝手な理由で、私が黙って実印を渡すと思いましたか?」
私の言葉が落ちた瞬間、会議室の空気がピリッと凍りついた。役員たちが、一斉に夫と美穂に鋭い視線を向ける。
「ふ、不倫だと? 何をバカなことを言っている!」
夫は焦ったように、声を裏返した。
「お前のようなヒステリックな女の暴言など、誰も信じないぞ! 俺がこの会社をどれだけ大きくしたか、ここにいる全員が知っているんだ!」
夫は自分の権力を誇示するように、大きく胸を張った。そして、スーツの内ポケットからあらかじめ用意していた一枚の紙を取り出し、テーブルの上に乱暴に叩きつけた。
「お前がそこまで俺に逆らうなら、もう容赦はしない。離婚だ! 今すぐ、この離婚届にサインしろ!」
夫は私を完全に追い詰めたつもりだった。長年、専業主婦として生きてきた私に経済的な制裁を突きつければ、恐怖で泣いてすがると思ったのだろう。美穂もまた、勝利を確信したような意地悪な笑みを浮かべていた。
「奥様、残念ですね。健一さんはもう、あなたのような古い女性にはうんざりしているんです。素直に身を引いた方が、世間体も悪くならないと思いますよ。慰謝料なんて、期待しないでくださいね」
二人の言葉は、どこまでも残酷で、そして滑稽だった。彼らは自分たちが高い頂の上に立っていると信じ込んでいる。しかし、現実は自ら掘った深い落とし穴の底で、泥まみれになりながら滑稽なダンスを踊っているだけなのだ。私は夫が叩きつけた離婚届を、冷たい目で見下ろした。
「離婚の件は、承知しました。私も、すでに自分の署名と拇印を済ませたものを用意しています。あなたの言う通り、私ももう、あなたにはうんざりしていますから」
私が静かにそう言うと、夫は一瞬だけ、間抜けな顔をした。
「そうか。やっと自分の無力さを受け入れたか。なら、話は早い。この家から、すぐに出ていけ。退職金も、老後資金も、お前には一銭も渡さないからな」
夫が勝ち誇ったように笑った、その瞬間だ。私の隣に立っていた田中先生が、静かに一歩前に出た。そして、持っていた分厚いファイルを開き、いくつかの書類をテーブルの上に並べ始めた。
「健一社長、奥様を家から追い出す前に、いくつか確認させていただきたい法的な事実がございます」
田中先生の低く落ち着いた声が、会議室に響いた。夫は田中先生を、ただの付き添いだと思っていたのだろう。不審そうに眉を潜め、声を荒げた。
「なんだ、あんたは? 妻が雇った三流の弁護士か? ここは会社の重要な会議室だぞ。家庭の揉め事を持ち込むな。おい、誰か、警備員を呼んでこの男をつまみ出せ!」
夫が叫んだが、周囲の役員たちは誰一人として動かない。田中先生は全く動じることなく、静かに名刺を差し出した。
「私は先代の社長、つまり佐藤由美様のお父様の代から、この会社の顧問弁護士を務めております。田中と申します」
その名前を聞いた瞬間、役員たちの顔色が変わりました。夫もまた、「顧問弁護士」という言葉に一瞬だけひるんだように見えた。しかし、すぐに強がりの笑みを浮かべる。
「顧問弁護士がなんだ? 過去は過去だ。今の社長は、この俺だぞ。俺の許可なく、勝手な真似は許さん」
「社長であるあなたの許可は、一切必要ありません」
私が静かに、そしてはっきりと告げた。夫は私の言葉の意味が理解できないというように、目をしばたかせた。
「何をバカなことを言っている。俺が社長だ。俺がこの会社の全てを決める権利を持っているんだぞ。俺の稼ぎで飯を食ってきたくせに、偉そうな口を叩くな!」
「いいえ。あなたは何も持っていません。ただ、父が作った椅子に座らせてもらっていただけです」
私は田中先生が並べた書類の中から、一枚の古い紙を手に取りました。それは、父の力強い字で書かれた、会社の株主名簿だ。私はその紙を、夫の目の前に静かに滑らせた。
「あなたが持っているのは、ただの飾りの肩書きだけです。この会社の本当の所有者が誰なのか。父が残したこの紙を見れば、あなたにも理解できるはずです」
夫は立ち上がったまま、その紙に目を落とした。美穂も、不思議そうに横から覗き込む。すると、会議室のドアの前に立っていた経理の伊藤さんが、静かに内側から鍵をかけた。ガチャリという冷たい音が、部屋の中に響いた。それは、彼らが二度とこの部屋から逃げられないことを知らせる、終わりの合図だった。夫が勝ったつもりでいたその薄っぺらい世界が、音を立てて崩れようとしている。この時の夫はまだ、紙の上の数字を信じられないという目で、ただ見つめていた。自分が持っている株式がわずか一割で、目の前にいる妻が八割を握る絶対的な権力者であるという事実。数秒後、その意味を完全に理解した瞬間、夫の顔から全ての血の気が引いていくのを、私は静かに見届けていた。
「嘘だ……。こんなものは、何かの間違いだ」
静寂に包まれた会議室に、夫のか細い叫び声が響き渡った。夫の手は、テーブルに置かれた株主名簿を持ったまま、激しく震えている。紙がカサカサと音を立て、彼がどれほど動揺しているかを周囲に伝えていた。
「俺が社長なんだぞ! 株式の八割が、この女のものだなんて……。そんな話、今まで一度も聞いたことがない!」
夫は信じたくない現実を前にして、子供のように喚き散らした。田中先生は動じることなく、静かに眼鏡の位置を直した。
「聞いていないのではありません。お父様が亡くなられた時の遺言書と、株式譲渡の契約書に、あなたは確かにサインをしています」
先生の声は、冷たく事務的だった。
「当時、あなたは社長という肩書きを手に入れることだけに夢中で、細かい契約内容を読もうともしなかった。お父様は、あなたのその軽薄さを見抜いていたのです。だからこそ、会社の実権は全て、信頼できる一人娘である佐藤さんに託したのです」
夫は息を飲み、私を信じられないという目で見つめた。
「ず、ずっと知っていたのか? 俺が社長として死に物狂いで働いている間、お前は俺を手のひらの上で転がしていたというのか?」
夫の顔は怒りと屈辱で真っ赤に染まり、額には大粒の汗が浮かんでいた。私は静かに首を横に振った。
「転がしていません。あなたが真面目に会社のために働いてくれるなら、私はずっと裏方でいるつもりでした。父の会社を、あなたと一緒に守りたかったからです」
私の言葉に、夫は言葉を失った。その時、空気を読めない美穂が、苛立ったように口を開いた。
「ちょっと、さっきから何をごちゃごちゃ言ってるんですか?」
美穂は腕を組み、私と田中先生を交互に睨みつけた。
「株が何パーセントだか知りませんけど、今の社長は健一さんですよ。社長の決定が、この会社では絶対なんです。あなたたちみたいに現場を知らない古い人間が、口出ししないでください」
美穂は自分が正しいと信じきった顔で、夫の腕にすがりついた。
「ねえ、健一さん。こんな人たち、早く追い出してくださいよ。私たちの新しい事業の話が、台無しになっちゃうじゃないですか」
美穂の言葉を聞いて、田中先生は深くため息をついた。そして、哀れなものを見るような目で、彼女を見つめた。
「高橋さん。あなたは、株式会社という組織の仕組みを全く理解されていないようだ」
「はあ? 何よ、それ。偉そうに」
美穂が顔をしかめると、先生ははっきりと告げた。
「株式会社の本当の所有者は、社長ではなく株主です。そして、過半数の株式を持つ佐藤さんは、今この場で役員の解任を提案し、可決させることができます。つまり、佐藤さんの一声で、健一さんは今この瞬間から、ただの無職になるということです」
その言葉が落ちた瞬間、美穂の顔からさっと血の気が引いた。
「む、無職……? 嘘でしょう。だって、健一さんは社長なんでしょ?」
美穂の顔を見上げた。しかし、夫は美穂の視線から逃げるように目を伏せ、唇を噛みしめていた。自分が絶対的な権力者ではないことを、一番よく理解したのは、夫自身だったのだ。美穂の手が、ゆっくりと夫の腕から離れた。彼女にとって、社長という肩書きのない夫など、ただの初老の男性でしかない。お金を引き出すための財布が、実は空っぽだったと気づき始めたのだ。
会議室の空気が、完全に変わった。それまで黙って様子を見ていた役員の一人である山田さんが、静かに立ち上がった。
「健一社長……いや、健一君」
山田さんの声には、深い怒りと悲しみが混じっていた。
「私たちは、先代の社長に恩があるからこそ、あなたの下でこれまで耐えてきました。あなたが会社の経費で贅沢をしていることも、若い愛人を連れ回していることも、全て知っていましたよ」
山田さんの言葉に、他の役員たちも深く頷いた。
「それでも、あなたが少しでも会社を良くしてくれると信じて、目をつぶってきた。しかし、あなたは会社の資金を私物化し、あろうことか先代の残した家まで担保にしようとした」
山田さんは私の方を向き、深く頭を下げた。
「佐藤さん。今まで、お嬢様を一人で苦しませてしまい、本当に申し訳ありませんでした。私たちは、全員、佐藤さんの決定に従います」
役員たちが次々と頭を下げる姿を見て、私は胸が熱くなった。父が育てた社員たちは、決して腐ってはいなかったのだ。夫が偉そうにしていられたのは、彼らが我慢してくれていたからに過ぎない。夫は完全に孤立した。誰も自分を助けてくれないと悟り、椅子に座ったまま、ぶるぶると震えている。
「お、お前ら……俺を裏切るのか? 俺がこの会社を……」
夫の小さな呟きは、誰の心にも届かなかった。ドアの前に立っていた経理の伊藤さんが、ファイルを開いて前へ出た。
「健一さん。裏切ったのは、あなたの方です。これが、あなたがこの数年間で使い込んだ会社の経費の全内訳です」
伊藤さんは分厚い資料を、テーブルの中央に置いた。そこには、高級レストラン、ホテル、ブランド品。そして昨日購入された、ダイヤの指輪の内訳まで、全てが記録されている。
「昨日、あなたが使おうとした法人カードは、すでに佐藤由美様の手続きにより凍結されました。会社の資金を個人の贅沢に使うことは、もはや一切できません」
伊藤さんの言葉に、美穂がびくっと肩を揺らした。昨日、ブティックで自分が恥をかいた理由が、今ここで完全に繋がったからだ。あのカードが使えなくなったのは、奥さんが止めたからじゃなくて、本当に不正利用だったのか。美穂は青ざめた顔で、テーブルの上の内訳を見つめた。そこには、自分へのプレゼントの数々が、会社の金から支払われていたことが明確に記されている。
「け、健一さん……。あなた、自分のお金じゃなかったの?」
美穂の声は、震えていた。彼女は大金持ちの社長を捕まえたつもりが、ただの横領犯に加担させられていたと気づいたのだ。
「違う! これは社長としての正当な経費だ!」
夫は必死に叫んだが、その声はひどく掠れていた。田中先生が、冷淡に落ち着いた声で、その言い訳を切り捨てた。
「いいえ。これは明らかな業務横領です。被害者である会社、つまり筆頭株主である佐藤さんが警察に被害届を出せば、あなたは逮捕される可能性があります」
「逮捕」という言葉に、夫はがたっと音を立てて、椅子から崩れ落ちそうになった。両手でテーブルにしがみつき、必死に体を支えている。美穂も、犯罪に巻き込まれるかもしれないという恐怖で、パニックになりかけていた。
「わ、私には関係ありません! 私はただ、健一さんに誘われただけで……。社長だって言うから、信じただけなんです!」
つい先ほどまで、夫の隣で偉そうに私を嘲笑っていた女性の姿は、もうどこにもない。自分を守るために、あっさりと夫を切り捨てようとしていた。夫は絶望的な目で、美穂を見つめた。愛し合っていると信じていた若い愛人に、最も惨めな瞬間に背を向けられたのだ。しかし、私はまだ終わりにするつもりはなかった。彼女が、ただ騙された被害者として逃げ出すことなど、絶対に許さない。私はバッグから、もう一つのファイルを取り出した。それは田中先生が昨夜調べてくれた、美穂の過去に関する調査報告書だ。
「高橋さん。あなたがただ騙されただけだと言うなら、一つ教えていただけますか?」
私が静かに問いかけると、美穂は怯えたように私を見た。私は彼女の目をまっすぐに見つめながら、静かに、そしてはっきりと告げた。
「あなたが健一に契約させようとしていた一千万円のタワーマンション。その不動産会社の代表者が、なぜあなたの元夫なのですか?」
その言葉が会議室に響いた瞬間、美穂の顔から人間らしい表情が完全に消え去った。まるで見えないハンマーで頭を殴られたかのように、彼女は言葉を失い、その場に立ち尽くした。
「も、元夫?」
夫は、間の抜けた声を出した。私の言葉の意味が、すぐには理解できなかったのだろう。しかし、高橋美穂の反応は、全く違った。彼女の大きな目は見開かれ、顔からはさっと血の気が引いている。唇はわななと震え、手元にあったはずの資料を、床に落としてしまった。
「な、何のことですか? 私、そんな人、知りません」
必死に取り繕おうとする声は、不自然に裏返っていた。田中先生が、静かに鞄から数枚の書類を取り出し、テーブルの中央に並べた。
「高橋さん、言い逃れはできませんよ。これはあなたの過去の戸籍抄本と、例の不動産金融会社の登記簿です。代表者の名前が、あなたが過去に婚姻関係にあった男性の名前と、完全に一致しています」
田中先生の言葉に、美穂は後ずさりした。ヒールの足音が、静かな会議室に虚しく響く。
「さらに、我々は独自の調査を行いました。あなたとこの代表者は、過去にも同じ手口で、複数の高齢男性からお金を騙し取っていますね。相手に自分を大きく見せさせ、見栄を張らせて借金を背負わせる。そして、タワーマンションなどの架空の契約を持ち上げ、手付金が振り込まれた瞬間に姿を消す」
田中先生は、冷淡なまでに淡々と、事実を突きつけた。美穂はテーブルの端に手をかけて、どうにか立っている状態だった。先ほどまで「古い女」と嘲笑っていたあの余裕は、完全に消え去っている。
「ち、違います……。私はただ、健一さんが家を買ってくれるって言うから……」
苦しい言い訳をする美穂の姿は、ひどく惨めだった。夫は、ゆっくりと美穂の方を向いた。
「お前……俺を騙していたのか?」
夫の声は、怒りよりも深いショックで震えていた。自分が若くて美しい愛人を完全に支配していると信じていた。社長としての魅力と財力で、彼女が自分に惚れ込んでいると信じ込んでいた。全ては、自分からお金を絞り取るための罠だったのだ。
「タワーマンションの最上階なんて、最初から存在しなかったのか。お前は、俺から一千万円の手付金を騙し取って、その男と逃げるつもりだったのか」
夫は激昂し、美穂の腕を掴もうと手を伸ばした。しかし、美穂はその手を、汚いものでも見るかのように強く払いのけた。パチンという鋭い音が、会議室に響いた。
「触らないでよ! 騙される方がバカなのよ! 自分は偉大な社長だなんてほざいていたくせに、実は奥さんに全部握られてる。ただの雇われ店長みたいなものじゃない!」
美穂はこれまでの従順な態度を完全に捨て去り、夫を激しく罵倒し始めた。
「貧乏人のくせに、見栄ばっかり張って! 会社のカードが止まったって聞いた時、背筋が凍ったわ。あんたなんて、ただの初老のおじさんよ。お金がないなら、何の価値もないわ!」
美穂の残酷な言葉は、夫の薄っぺらいプライドを、粉々に打ち砕いた。夫はショックのあまり言葉を失い、ふらふらと数歩後ずさった。つい昨日まで、高級レストランで甘い言葉を囁き合っていた二人が、今では見苦しく罵り合っている。私はその光景を、ただ静かに、冷やかな目で見つめていた。怒りすら湧いてこない。ただ、人間の底知れぬ欲と愚かさを見ているようで、哀れに感じた。
「お二人の血祭りは、そのくらいにしていただきましょうか?」
田中先生が、冷たく言い放った。
「健一さん。あなたには、美穂さんを責める資格などありません。なぜなら、あなたが手付金として用意しようとしたお金は、ご自身で稼いだものではないからです」
先生は、鞄からあの通帳と、不動産担保ローンの契約書の束を取り出した。それを見た瞬間、夫の顔が再びさっと青ざめた。
「お、お前……。なぜ、それを……?」
「今朝、あなたの書斎で見つけました。そして、すぐに田中先生にお預けしたのです」
私が静かに答えると、夫はがっくりと肩を落とした。
「あなたは、私の実印を勝手に持ち出し、偽造した印鑑を使って、私の父が残した実家を担保に入れました。そして、千五百万円という融資を、自分の隠し口座に振り込ませた」
周囲の役員たちから、信じられないというようなため息が漏れた。山田さんが、軽蔑の眼差しで夫を睨みつけている。
「健一君……。お前は、そこまで落ちぶれていたのか。会社の金を使い込むだけでなく、奥様のご実家まで騙し取ろうとするとは」
「ち、違う! これは一時的に借りただけですぐに返すつもりだったんだ!」
夫は必死に弁解するが、その言葉は誰の心にも響かない。
「どうやって返すつもりだったのですか?」
私が静かに問い詰めた。
「会社の法人カードは凍結されました。あなたが自由に使えるお金は、もう一円もありません。そして、この千五百万円の借金は、全てあなた個人の名義になっています」
田中先生が、契約書を指差しながら言葉を続けた。
「健一さん。奥様からお預かりしたこの書類をもとに、先ほど金融機関へ有印私文書偽造の通報を行いました。奥様の同意がない契約は無効となります。しかし、あなたが業者から個人的に借り入れた千五百万円という債務の事実は、消えません」
先生は容赦なく、事実を突きつける。
「この通帳と銀行は、証拠として我々が警察に提出します。つまり、あなたはこの口座から一円も引き出すことができません。美穂さんに手付金を払うこともできなければ、借金を一括で返すこともできないのです」
夫はついに、膝から崩れ落ちた。どすんという重い音がして、会議室の床にうずくまる。もはや、立ち上がる力も残っていないようだった。社長としての地位、会社の無尽蔵のお金、若くて美しい愛人。全てを手に入れたと思っていた夫の手には、何も残っていなかった。残されたのは、自分個人で背負った巨額の借金と、犯罪の事実だけだ。
「許してくれ……。俺がバカだった」
床に這いつくばったまま、夫が小さな声で命乞いを始めた。過剰な泣き叫びではない。ただ、全ての気力を失い、魂が抜けたように言葉を絞り出している。完全な敗北の姿だった。私はその姿を見下ろしながら、少しの同情も感じなかった。許すことはない。あなたが私と、父の会社にしてきたことは、決して消えないのだから。私が冷たく言い放った、その時だ。会議室のドアを、激しく叩く音が聞こえた。トントントントンと、切羽詰まったような音だ。伊藤さんが急いで鍵を開けると、一人の若い社員が、慌てた様子で飛び込んできた。
「社長! 下の受付に、警察の方がいらっしゃっています!」
その一言が、会議室の空気をさらに一段階、冷たく凍らせた。夫の体が、びくっと大きく跳ね上がった。しかし、私の心臓は全く別の理由で、早鐘を打っていた。なぜなら、私と田中先生は、まだ警察を呼んでいなかったからだ。では、一体誰が警察を呼んだのか?
「警察? 一体誰が……?」
私は驚きのあまり、田中先生の顔を見た。先生も小さく首を横に振り、私と同じように戸惑いの表情を浮かべていた。私たちは、今日、この会議室で夫を社長の座から解任し、その後に法的な手続きを進める予定だった。警察へ通報するのは、全ての証拠を整理した後の、明日の朝にするつもりだったのだ。会議室の空気が、ぴんと張り詰めた。その静寂を破るように、ゆっくりと一歩前に出た人物がいた。経理の、伊藤さんだ。伊藤さんは、いつもかけている銀縁の眼鏡を静かに押し上げ、私と田中先生に向かって、深く頭を下げた。
「佐藤さん、田中先生。独断で動いてしまい、申し訳ありません」
伊藤さんの声は、少しも震えていなかった。
「私が、今朝、出社前に警察へ立ち寄り、通報いたしました」
「伊藤さん……」
私が驚いて問い返すと、伊藤さんは静かに頷いた。
「はい。私はこの数年間、健一社長が会社の資金を不正に引き出している証拠を、全てコピーして個人的に保管していました。そして、半年ほど前から、警察の知能犯係に、密かに相談を持ちかけていたのです」
伊藤さんの言葉に、床にいた夫が、びくっと体を震わせた。
「い、いいい……。お前、俺を裏切っていたのか?」
夫の弱々しい恨み言に、伊藤さんは冷やかな視線を落とした。
「健一さん。私が忠誠を誓っているのは、あなたではありません。この会社を、血のにじむような思いで立ち上げた、先代の社長です」
伊藤さんの言葉には、長年溜め込んでいた静かな怒りが込められていた。
「警察からは、社長という立場を利用した経費の着服は、明確な証拠がないと立件が難しいと言われていました。しかし、昨日。あなたが自分の愛人に数百万円のダイヤの指輪を、会社のカードで買い与えた。その内訳が上がってきた瞬間、私はこれが決定的な証拠になると確信したのです」
伊藤さんは、手に持っていたファイルを、強く握りしめた。
「会社の業務に一切関係のない、愛人への高額なプレゼント。これはもう、言い逃れのできない完全な業務横領です。警察もこの証拠を見て、すぐに動いてくれました」
伊藤さんが全てを語り終えた時、会議室のドアが、外から静かに開かれた。グレーのスーツを着た、体格の良い二人の男性が、足を踏み入れてくる。彼らの鋭い視線が、会議室の中をぐるりと見渡した。
「佐藤健一さん、並びに高橋美穂さんですね。警察署の者です」
一人の刑事が、静かに警察手帳を提示した。その瞬間、夫は「ひっ」と小さな悲鳴をあげ、後ずさって壁に背中を打ち付けた。美穂もまた、顔面を蒼白にして、ぶるぶると震え始めた。つい先ほどまで、社長と社長秘書として偉そうに振る舞っていた二人が、今は怯えた小動物のように縮こまっている。
「会社の資金を不正に流用した業務上横領の疑い、及び、他人を担保にした有印私文書偽造の疑いで、お二人からお話を伺いたい。取調べのため、ご同行をお願いします」
刑事の声は、感情を交えない淡々としたものだった。夫は壁に張り付いたまま、必死に首を横に振った。
「ち、違います! 私は社長です! 会社の金を使っただけで、犯罪なんて大げさだ! 由美、お前からも言ってくれ! これはただの夫婦喧嘩だ。警察が介入するようなことじゃない!」
夫は私に向かって、見苦しく叫んだ。私は静かに、夫の目の前まで歩み寄った。夫の額からは汗が滝のように流れ落ち、目は恐怖で見開かれている。
「夫婦喧嘩? あなたはまだ、そんな寝言を言っているのですか?」
私の冷たい声に、夫は息を飲んだ。
「あなたがやったことは、家族への裏切りではありません。会社への、そして社会への重大な犯罪です。私はあなたの妻である前に、この会社の筆頭株主です。あなたをかばう理由など、どこにもありません」
私は、きっぱりと最後通告を突きつけた。夫は絶望したように目を閉じ、そのまま、ずるずると床に崩れ落ちた。もう、彼には言い訳をする気力さえ残っていなかった。
その時、横に立っていた美穂が、急に高い声をあげた。
「わ、私には関係ありません! 私はただ、この人に騙されて、無理やり指輪を押し付けられただけなんです! 私は被害者です!」
美穂は罪から逃れるために、必死で嘘をつき始めた。しかし、もう一人の刑事が、冷たい目で美穂を見下ろした。
「高橋美穂さん。あなたには、今回の横領の共犯としての容疑だけではありません」
刑事は、手に持っていたバインダーを開いた。
「あなたが過去に関与した、高齢男性を狙った複数の不動産詐欺事件。我々はすでに、あなたの元夫を別件で取り調べています。彼から、あなたの手口についての供述も取れています。タワーマンションの手付金を騙し取る計画、全て把握していますよ」
その言葉を聞いた瞬間、美穂の足から力が抜けた。彼女はテーブルにすがりつこうとしたが、手が滑り、派手に床へ転がった。
「う、嘘……。そんな……」
美穂の口から、掠れた声が漏れた。
「さて、同行してもらえますね」
刑事が近づくと、美穂は突然、狂ったように自分の左手を隠そうとした。彼女の薬指には、昨日、夫が会社の金で買った、あの大きなダイヤの指輪が光っている。
「高橋さん、その指輪も、横領によって購入された重要な証拠品です。今、外して、提出していただきます」
刑事の言葉に、美穂は「これは私のものよ!」と叫んだ。しかし、その声は虚しく、会議室に響くだけだった。彼女の欲望の象徴だったあの指輪が、今や彼女自身を犯罪者として縛りつける手錠と化したのだ。夫と美穂は、刑事たちに両脇を抱えられるようにして、立ち上がらされた。二人は互いに目を合わせることもなく、俯いたまま、足を引きずるようにしてドアへ向かう。昨日、あのレストランで私を嘲笑っていた二人の姿は、そこにはなかった。私はただ静かに、その背中を見送った。ドアを出る直前、夫が一度だけ立ち止まり、私を振り返った。その目には、後悔の涙が浮かんでいた。
「ゆ、由美……。俺は、本当は……」
夫は何かを言いかけたが、私は無言のまま、冷たく視線を外した。もう、彼の言葉を聞く必要はない。刑事たちに促され、夫は静かに廊下へと消えていった。ガチャリと、会議室のドアが閉まる音が、一つの時代の終わりを告げていた。
部屋の中に残されたのは、私と田中先生、伊藤さん、そして役員たちだけだ。静寂が戻った会議室で、山田さんが深く息を吐いた。
「終わりましたね。佐藤さん、本当にお疲れ様でした」
山田さんの言葉に、私は静かに頷いた。長年、私の心を縛りつけていたものが、今、完全に解き放たれたのを感じた。
「佐藤さん、よく耐え抜きましたね。お父様も、きっと安心されているはずです」
田中先生が、優しく声をかけてくれた。私はバッグの中から、一枚の古い写真を取り出した。それは私が子供の頃、父と一緒にこの会社の入り口で撮った写真だ。写真の中の父は、誇らしげに微笑んでいた。私はその写真を両手で包み込み、そっと目を閉じた。心の奥底から、温かいものが込み上げてくる。
しかし、私の戦いは、これで終わりではなかった。夫が逮捕され、会社の問題は解決に向かう。しかし、私にはまだ終わらせなければならない、もう一つの問題が残っていた。それは、夫の嘘を信じ切り、タワーマンションで贅沢な暮らしができると浮かれている、義母の存在だ。夫が逮捕されたという事実を、彼女はどう受け止めるのか。そして、私に対してどんな態度に出るのか。
午後四時。私のスマホが、再び短く振動した。画面に表示されたのは、またしても義母からの着信だった。おそらく、夫と連絡が取れないことに腹を立て、私に文句を言うつもりなのだろう。私は小さく深呼吸をし、通話ボタンを押した。
「もしもし、姑さん」
私の静かな声に対し、電話の向こうからは予想通り、ヒステリックな声が響いてきた。
「もしもし! あんた、健一はどこにいるの? 何度電話しても、繋がらないじゃないの! 今日、タワーマンションの契約書を持ってきてくれる約束だったのに。あんた、まさか健一の邪魔をしているんじゃないでしょうね」
義母はまだ、夫の描いた嘘の世界の中に、どっぷりと浸かっていた。自分が最上階の豪華な部屋に住み、優秀な家政婦に囲まれて老後を送る。その夢が実現するまであと一歩だと、信じて疑わない。私は窓の外の青空を見つめながら、静かに答えた。
「姑さん、健一さんは、今日はもうそちらには行けませんよ」
「行けない? なぜよ? 社長なんだから、いくらでも時間は作れるはずじゃない。あんたが、余計なことを言って引き止めているんでしょう。いいから、早く健一に電話を変わりなさい」
姑の傲慢な態度は、どこまでも変わらない。自分が常に正しく、嫁である私は絶対に従うべき存在だという思い込み。私は、冷たく澄んだ声で、はっきりと真実を告げた。
「健一さんは、今、警察署で取り調べを受けています。業務横領、有印私文書偽造の容疑で、逮捕されました」
電話の向こうで、姑の声が止まった。息を飲むような小さな音が聞こえた後、重い沈黙が流れた。
「逮……捕? 横領? 何をバカなことを言っているの? 健一が犯罪者になるわけがないじゃない。あの子は社長なのよ。立派に会社を経営しているのよ」
義母は必死に否定しようとしたが、その声には明らかな動揺が混じっていた。
「姑さん。健一さんは、父が残した会社の資金を長年不正に引き出し、自分の愛人に貢いでいたのです。さらに、私たちの実家を勝手に担保に入れ、千五百万円の借金をしようとしていました」
私は残酷な事実を、一つずつ、静かに積み上げていった。
「あなたが楽しみにしていた、あのタワーマンションも、全ては嘘です。あのパンフレットを持ってきた高橋美穂という女性は、健一さんから手付金を騙し取ろうとしていた詐欺師でした。彼女も、共犯として、今、一緒に逮捕されています」
「う、嘘よ……。女の嘘よ! 健一が私に嘘をつくはずがないわ!」
義母は泣き叫ぶように叫んだが、その声はひどく虚ろだった。
「高橋さんは、本当に私に親切にしてくれて、スカーフまでプレゼントしてくれたのに……」
「そのスカーフは、あなたを騙すための、ほんの数千円の道具に過ぎません。健一さんが彼女に買い与えていたのは、会社の金で買った、数百万円のダイヤの指輪です」
私の言葉が胸に突き刺さったのか。義母は「うっ」と短い悲鳴をあげた。
「それに、姑さん。もう一つ、大切なお知らせがあります」
私は感情を一切交えずに、続けた。
「健一さんが逮捕されたことで、会社の口座は全て凍結されました。あなたが現在住んでいる、あの高級シニアマンションの家賃と管理費。あれは毎月、健一さんが会社の経費から不正に支払っていたものです。つまり、来月からの家賃は、姑さんご自身でお支払いいただくことになります。毎月二十五万円です。ご自身の年金で払えますか?」
電話の向こうから、ガチャンという音がした。義母が、受話器を取り落としたのだろう。
「ど、どうしよう。そんなお金、私にはないわ……」
遠くから、義母の小さな泣き声が聞こえてきた。今まで私を見下し、息子である健一の稼ぎに寄生して贅沢をしてきた義母。彼女のプライドと生活の基盤が、音を立てて崩れ落ちた瞬間だった。
「今すぐ、荷物をまとめて退去の準備をされた方がいいと思いますよ。では、これで失礼します」
私は、義母が何かを言い返す前に、静かに電話を切った。スマホをバッグにしまい、私は深く息を吐いた。これで、本当に全てが終わった。私を苦しめていた夫も、狡猾な愛人も、そして傲慢な義母も。それぞれが、自らがついた嘘の代償を払うことになる。私は会議室の中を見渡した。田中先生、伊藤さん、そして役員たちが、静かに私を見守ってくれていた。
「佐藤さん。健一さんの今後の手続きについては、全て私が引き受けます。佐藤さんは、ご自身の新しい生活のことだけを考えてください」
田中先生が、温かい声で言ってくれた。
「ありがとうございます。皆様には、本当に感謝しています」
私は、深く頭を下げた。
その日の夕方、私はタクシーで自宅に戻った。玄関の鍵を開けると、家の中はひっそりと静まり返っていた。もう、あの傲慢な足音や怒鳴り声が響くことはない。私はリビングの窓を開け、夕方の風を部屋の中に入れた。庭の桜の木が、風に揺れて、サラサラと音を立てている。
「お父さん。会社は、私が守りましたよ」
私は静かに、そうつぶやいた。テーブルの上には、昨夜、夫が食べるはずだったすき焼きの鍋が、綺麗に洗われて伏せられている。私は自分のボストンバッグを手に取り、家の中をゆっくりと歩き回った。二十五年間、私が耐え忍んできた場所。喜びよりも、悲しみと我慢の方がずっと多かった日々。けれど、もう後悔はない。私は自分の足で立ち、自分の人生を取り戻したのだから。私は玄関で靴を履き、最後に一度だけ振り返った。家の中は、不思議なほど明るく見えた。重いドアを開けて外に出ると、夕日が街をオレンジ色に染めていた。私の足取りは軽く、心はこれまでにないほど澄んでいた。明日から、私の新しい人生が始まる。それは誰に依存するでもなく、私自身が切り開く、静かで力強い道だ。私は前を向き、一歩、歩き出した。
夫の逮捕から、三ヶ月が過ぎた。秋の風が、少し冷たく感じられるようになった朝。私は父が残した会社の、社長室にいた。大きなデスクには、新しい決算書と、いくつかの事業計画書が積まれている。私は今、この会社の正式な代表取締役として、日々の業務に追われている。長年、裏方として数字を管理してきた経験が、ここに来て大きな力となっていた。コンコンとドアを叩く音がして、経理の伊藤さんが入ってきた。
「社長、おはようございます。先月の売上報告と、今期の予算案です」
伊藤さんは、以前のような疲れきった表情ではなく、生き生きとした顔つきだった。
「ありがとうございます、伊藤さん。売上も、少しずつ回復してきていますね」
「ええ。社員たちも、社長の下で働けることに安心し、活気を取り戻しています」
私は、静かに微笑んだ。夫が会社の金を食い潰していた傷は深く、再建には時間がかかる。しかし、社員たちが一丸となって協力してくれるおかげで、会社は確実に息を吹き返していた。
夫の健一は、業務横領と有印私文書偽造の罪で実刑判決を受け、現在、服役している。彼が個人的に借り入れた千五百万円の借金は、全て自己破産という形で処理された。もちろん、私との離婚も成立している。夫は裁判の間、何度も私に手紙を送り、「やり直したい」と訴えてきた。しかし、私は一度も返事を書かなかった。彼が本当に失ったものの大きさに気づくには、冷たい壁の中での時間が必要だろう。高橋美穂もまた、複数の事件への関与が認められた。彼女が法廷で泣き崩れ、「私は被害者だ」と叫ぶ姿を、私はニュースで一度だけ見た。他人の欲を利用して甘い汁を吸おうとした結果、全てを失った彼女の姿に、私は哀れみすら感じなかった。
義母は、予想通り、あの高級マンションを追い出された。今は、遠く離れた場所にある、質素なケアハウスで暮らしている。自慢の息子が犯罪者となり、見栄を張る相手もいなくなった彼女は、すっかりやつれてしまったと、親族から聞いた。全ては、彼ら自身が選んだ道の結末だ。私はデスクの引き出しを開け、一枚の古い写真を取り出した。それは、子供の頃の私と父が、この会社の玄関で笑っている写真だ。
「お父さん。なんとか、会社を立て直せそうです」
私は写真に向かって、静かに語りかけた。写真の中の父は、相変わらず力強く微笑んでいる。私が長年、じっと耐えてきたのは、決して無駄ではなかった。あの苦しい日々があったからこそ、私は本当に大切なものを守り抜く強さを、手に入れることができたのだ。
「社長、そろそろ次の会議の時間です」
伊藤さんの声に、私は写真をしまい、立ち上がった。
「わかりました。すぐに行きます」
私は自分の着ている、仕立てのいいスーツを軽く整えた。もう、誰の顔色を伺う必要もない。自分の判断で、自分の足で、しっかりと歩いていける。社長室のドアを開けると、オフィスの明るい光が、私を包み込んだ。社員たちの活気ある声が聞こえてくる。私の心の中に、長年燻っていたようなものは、もう何も残っていない。あるのは、これからの未来への静かな希望と、確かな自信だけだ。私は前を向き、力強い足取りで、廊下を歩き出した。私の人生は、ここからまた、新しく始まっていくのだ。



