エレベーターを降りた瞬間、怒鳴り声が聞こえてきた。取引先の営業マンが、上司に理不尽に叱られているようだった。
「おい、そんなんじゃ100億以上の取引になる長期の案件なんてお前に任せられねえよ」
「相手は1万人も社員を抱える大企業様だぞ。お前の対応で商談がパーになったらどうすんだ?」
声の主は、うちの会社に建材を納めてくれる合憲という会社の営業課長、大西だった。彼に怒鳴られているのは、いつも気持ちのいい笑顔で挨拶してくれる水野君だ。
水野君は日本茶のポットを持っていた。どうやら来客用にお茶を用意していたらしい。だが大西課長は、それが気に入らなかったようだ。
「あの、ちょっと待ってください。その方は来客のことを考えてお茶を用意してくれたんでしょ?」
思わず口を挟んだ。俺は日本茶が好きで、自社の社長室には京都の宇治茶や埼玉の狭山茶などを常備している。水野君もそれをよく知っていて、美味しい日本茶を見つけてはお土産に持ってきてくれていた。
「んだ、あんた。部外者はここに来んなって今言ったよな。なんだよ、その薄汚い服装は」
大西課長が鋭い目つきで俺を睨む。俺はあまりの物言いに言葉を失ってしまった。
「頭にゴミくずつけやがってふざけんな。は大工らしく犬小屋でも立ててろよ。こちらは今から100億、いや、それ以上の取引が待ってんだ」
俺は今日、合憲との正式な取引を結ぶために訪問していた。開発チームで検討した結果、水野君の持ってきてくれた見積もりや品質を評価し、正式に取引を依頼することを決めていたのだ。その相手は、俺だった。
「え?ああ、その相手は俺ですが」
言葉が声になるかならないかのうちに、俺は熱いものを浴びせかけられた。
「ばっシャー」
「うわ、暑い」
ポットに入ったお茶を、頭からかけられたのだ。幸い、水野君が準備してくれたのは玉露だったようで、火傷するほどの温度ではなかった。だが顔がヒリヒリする。
「汚い作業員がうろつくんじゃねえよ。早く帰れ。おい、水野。床を今すぐ拭いて消毒しとけ。あいつらが歩いた汚い床を俺に歩かせるって言うのか」
俺は半狂乱で顔を拭く。頬がお湯の影響で少し赤くなっていた。
「あなた、ネットをかけましたね」
やっとのことで声を絞り出した。
「作業服が少しでも綺麗になったろ」
大西課長はニヤニヤしながら言う。水野君は恐縮しながら頭を下げっぱなしだった。
「随分自分勝手な上司を持って、水野君も気の毒だな。申し訳ないが、100億の契約は破談だと社長に伝えてくれるか?」
俺はそう言って、濡れた髪をそのままにその場を去ろうとした。
「ちょ、ちょっと待ってください」
水野君が俺を引き止めようとする。しかし大西課長が「おい、このフロアに来るこいつらが悪いんだ。早く廊下を掃除しろ」と命令し、水野君は言いなりにならざるを得なかったようだった。
俺は振り返らずにその場を立ち去った。だが、ズブ濡れの俺と原田はエレベーターで1階まで降りた後、再び4階に戻ることになる。合憲の社長、三部さんに捕まったのだ。
「こんな格好では商談もできないし、したくないので一旦帰ります」
そう言ったのだが、「このままお返しすることはできません」と引き止められ、4階にある社長室に通された。
「社長、大西課長の言動が聞こえなかったのでしょうか?」
「ごめんなさい。私は先ほどまで所要で外出していました。取引のお約束のためにもう少し早く帰れるはずだったのに、道路が混んでいて急いで戻ったら、ズブ濡れで顔を赤くした本源本社長がいらっしゃるじゃないですか」
三部社長はのんびりとした口調で俺たちを気遣っていたが、事の顛末を話すと平謝りの繰り返しになった。そして内線電話で水野君と大西課長を社長室へ呼び出す。
「いや、申し訳ないのですが、謝罪を受けたとしても合憲との取引はなしにします。同様のスペックを提示してくれた会社は他にもあるし、今回は水野君の熱意を買って交渉を進めようと思っていたんです」
水野君は営業部のホープで、お客様からもお褒めの言葉をもらう若手だという。水野君と大西課長が社長室へ入ってきた時、水野君は顔を涙と鼻水でぐしゃぐしゃにしていた。対照的に、大西課長はスーツのジャケットとネクタイを変え、髪の毛も整えてきていた。
「こいつらは部外者なのに4階へ入り込んだ連中ですよ。なんで社長室にいるんですか?」
大西課長が意味のわからないことを言い出す。
「ところで、どうして水野君と大西課長は一緒にいたの?」
「ステータスホームズさんとの相談には、課長である私も立ち会う必要があるでしょう」
「大西課長はステータスホームズさんとの相談から外れてもらったわよね。あなたはゴージャス建築さんの案件を専門にお願いしていたでしょう。ステータスホームズさんとは何年も付き合って信頼関係を築いてきた水野君をメインとすべきだわ」
「でも100億が動くんですよ」
「あなたがお茶をかけてしまったから、もうその話はご破算よ」
大西課長が今更ながら俺を何度も凝視する。俺は頭からかぶっていたタオルを外し、それを畳みながら挨拶をした。
「初めまして。私、ステータスホームズの代表取締役社長をしております。本源本清と申します。トラブルに巻き込まれまして、このような格好で申し訳ありません」
「同じく、ステータスホームズの営業本部長代理をしております。原田です」
水野君が泣きながら懇願する。
「あの、申し訳ありません。今一度ご商談のチャンスをいただけないでしょうか?」
「水野君、ごめんな。水野君とだったらいい仕事ができたと思うんだけど、話も聞かずに茶をかけたり、君を理不尽に怒鳴りつけるような上司がいる会社とは取引はできないよ。俺は大事な部下をここで怪我させてしまったしね」
水野君の顔から血の気が引いた。
「怪我って、ちょっとお湯を浴びただけなので怪我のうちに入りませんよ」
「いいや。うちの会社は労災事故には人一倍気を使ってるんだよ。原田君の顔が赤くなっている。俺の顔もヒリヒリしているので、おそらく火傷を負った。だからこれから一刻も早く病院に行かなきゃならないんだよ」
「そんな火傷にもならない肌の赤みなんて、労災にならんだろう」
「そうですね。労災にはならないでしょう。だが、病院や労基が聞き取りを行った場合、俺と原田は全て包み隠さず答えますよ。そうしたら労災事故どころか傷害事件に発展するでしょうね」
水野君はさらに泣き崩れた。彼は若いだけあって、こういったトラブルは初めての経験のようだった。
「助かったのは、水野君が私のために玉露を準備してくれていたところだよ。温度が低めのお湯を準備してくれたからな。だから大怪我には繋がらなかった。ポットの中身が大西課長のご自慢のコーヒーだったらと思うとゾっとするよ」
「だって、作業服が汚れててゴミがついてて、業界第1位の我が社にそんな格好で来るなんて不潔じゃないですか」
「本社長は仕事人間で有名なのよ。現場で自ら仕事をして品質を保ってるの。それが分かっていないからあなたを商談から外したのよ。それに今回も水野君から手柄を横取りするつもりだったんでしょ?」
「こいつにはまだ荷が重いでしょ。だから私が代わりに責任者になろうと」
「あなたがそうやって若手から手柄を奪った商談は全て失敗してきたでしょ。そうやって部長から課長へ減給のまま上がってこなかったから、分からないの?」
三部社長の指摘に、大西課長は言葉を失っている。
「それに、俺がお茶をかけたっていう証拠なんてないですよ」
「証拠ならありますよ」
水野君が涙を拭いて、震える声で言った。
「一部始終をICレコーダーで音声録音していました。大西課長の理不尽なパワハラを訴える準備をしてましたから。僕だけではなく、営業部のメンバーの集団訴訟です。他の社員もみんなレコーダーを持ち歩き、あなたの理不尽な要求や暴言を録音していました」
沈黙が部屋を支配した。その時、スマホの通知音が一斉に鳴った。俺だけでなく、三部社長や水野君のスマホも同時に通知音を発した。ネットニュースの速報のようだ。
俺がニュースの見出しを読み上げた瞬間、三部社長が悲鳴をあげた。
「低価格住宅大手、ゴージャス建築が破産。負債1296億円」
「社長、これって8割以上がうちの未収の売掛金よ」
大西課長が顔を真っ青にしている。
「大西課長、あなた、ゴージャス建築さんの売掛金回収はどうなっていたのよ。言えませんよね。接待ゴルフや営業さんからの飲み会の誘いで回収をうやむやにしてきましたって」
同業者の間では、ゴージャス建築の経営が傾いているという話はかなり前から噂されていた。一部の資材会社が接待を受けて資材購入代金の未払い分を焦げつかせようとしていたという話も囁かれていたほどだ。大西課長が無気力の状態で床に座り込んだので、噂は真実だったことを悟った。
「では、そういうことなので帰りますね」
俺はそう言って立ち上がった。ニュースを見た管理職たちが慌ただしく動き始める中、俺と原田は巻き込まれる前に合憲から脱出することに成功した。合憲の連鎖倒産は確定だろう。
「じゃあ、次の会社さんに問い合わせしますか」
「それよりも、契約前で良かったですね」
「水野君には悪いが、商談や契約に発展する前で良かったよ」
俺は会社に戻る前に、原田と皮膚科に行って診断書をもらってきた。大西課長の行為は見逃せなかったからだ。そして、人事部に合憲に勤務する水野君をヘッドハンティングしてくれないかと依頼した。彼だけはなんとか助け出したいと思ったのだ。
商談をまとめ上げることはできなかったが、水野君を救い出すことはできる。君には建材の知識を生かした仕事についてもらいたかった。
ステータスホームズで検討してきた品質と低価格を両立させた注文住宅は、ようやくモデルルームを公開し、顧客からの申し込みが着実に増えていった。水野君には我が社の工法と商品開発に携わってもらっている。合憲は、やはりゴージャス建築からの負債額が大きかったのと、大西課長が商談をぶち壊しにした複数者の契約撤回が原因となり、破産申請を行うことになった。
「よかったな、水野君。合憲さんが破産する前に退職していて」
「そうですね。この会社で働くことになって本当に良かったです。自信がつきました」
その後の大西課長がどうなったのかは分からないが、まあ、取り調べを受けていることは間違いないだろう。
俺たちは大手他者の倒産の煽りに負けない会社作りをするまでだ。売上日本一を目指して頑張ろう。


