夫にLINEで「お願い、一度だけ助けて」と送ったのは、四十五年間連れ添った相手への最後の賭けだった。プライドも自尊心もかなぐり捨てた私の言葉に、返ってきたのは氷のように冷たい一言。「自分で出て行ったんだろう。今さら戻ってこようなんて思うな」――その画面を見た瞬間、視界が涙で歪んだ。
一円単位まで家計を管理し、私を「寄生虫」と罵り続けてきた夫。熟年離婚をしてようやく手にしたはずの自由。これからは自分らしく生きられる。そう信じて家を出た私は、まさか数ヶ月後に元夫を破滅させることになるとは、この時はまだ知らなかった。
物語の始まりは、どんよりとした冬の朝だった。午前五時半、正確に三回鳴る目覚まし時計の音。四十五年間、一日も欠かさず私の耳に突き刺さってきた音。布団の中で息を潜めていると、隣から夫の重苦しい足音が聞こえる。洗面所で水を流す音、クローゼットを開ける音。すべてが機械のように正確な順序で進んでいく。
私は重い腰を上げてキッチンへ向かい、昨晩のうちに作っておいた味噌汁を温め、納豆と梅干しを並べた。夫は無言で食卓に着く。グレーの作業服に色あせたズボン。運送会社で働く彼は、一円の無駄も許さない徹底した倹約家だった。
「食べなさいよ」と声をかけても返事はない。黙々と箸を動かし、最後の一粒まで米を食べ終えると立ち上がる。玄関で靴を履き、ドアを開ける。「行ってくる」「気をつけてね」――バタンと閉まるドアの音。その瞬間、家の中に苦しい静寂が戻ってきた。
食器を洗いながら、冷蔵庫の横に貼られた大量の紙を眺める。電気代の領収書、ガスの使用量、スーパーのチラシの切り抜き、そして夫が手書きでびっしりと書き込んだ家計簿。そこにはトイレットペーパーの値段から調味料の減り具合まで、異常な細かさで数字が並んでいた。
ここは私の家じゃない。給料もない労働者として、四十五年間、私はこうして生きてきた。テレビをつけると通販番組でキラキラしたネックレスが紹介されていた。「今なら特別価格、分割手数料も無料」。画面の中のモデルは幸せそうに微笑む。私の人生には、そんな輝きは一度もなかった。
おしゃれをして旅行に行くとか、友達と美味しいランチを食べるとか、そんな当たり前のことさえ、夫にとっては「無駄遣い」だった。
午前十一時、一人で夫の食べ残したおかずを並べて昼食を取る。広いリビングに箸の音だけが響く。スマホを手に取ると、高校時代の友人たちのグループチャットに新しい通知が来ていた。開いてみると、そこには眩しいほどの写真が溢れていた。紅葉の並木道、温泉でのセルフィー、美味しそうな海鮮丼。みんな定年を過ぎて、第二の人生を謳歌しているようだった。
「貞子さんも、次は一緒に行こうよ。京都の旅館、予約したから」という友人のメッセージに指が止まった。返信しようとして、すぐにスマホを置いた。なんて言えばいい? ――「夫にお小遣いを管理されていて、一円も出せません」なんて。それとも、「旅行に行きたいなんて言ったら、一週間は口を聞いてもらえません」なんて。胸の奥がぎゅっと締め付けられるように痛んだ。
どうしてみんなはあんなに自由なの? どうして私だけが、こんな場所に閉じ込められているの?
その日の夕方、私はふとYouTubeである動画を見つけた。「六十代から始める世界一周ひとり旅」。私と同世代の女性が大きなリュックを背負ってヨーロッパの街を歩いている。カフェでワインを飲み、知らない国の人と笑い合っている。「六十歳を過ぎて離婚しました。でも、そこから私の本当の人生が始まったんです」
その言葉を聞いた瞬間、私の心臓はドクンと跳ねた。「離婚」――その二文字が頭の中から離れなくなった。
もし私がこの家を出たら、夫の顔色を窺わずに自分の食べたいものを食べて、自分の好きな服を着て、そんな人生が私にも許されるのだろうか。
キッチンの壁にかかっているボロボロのグレーのエプロン。二十年前に夫が安売りで買ってきたもの。何度も洗って薄くなり、油汚れも落ちないそのエプロンが、今の私の姿そのものに見えた。
私は決意した。このまま灰色の人生で終わるのは嫌だ。一度きりの人生、最後くらいは自分の名前で、自分の足で歩きたい。でも、その決断の先にどれほど過酷な現実が待ち構えているか、私はまだ夢にも思っていなかった。
離婚を決意したとはいえ、現実は甘くない。私には自分名義の貯金が一円もなかった。四十五年間、私は夫の所有物として生きてきた。夫はとにかくお金にうるさい男だった。封筒からお札を出し、一枚一枚指に唾をつけて数える姿は、まるで執念の塊のようだった。
「お前、今月はトイレットペーパーの減りが早いんじゃないか」――そんなことまでチェックされるのが日常だった。私に渡される生活費は、食費も雑費も含めて月にわずか三万円。今の物価でどうやってやっていけというのか。勇気を出してそう聞いたこともある。
すると夫は眉間に皺を寄せ、血が凍るような低い声で言った。「お前は外で働いてないだろうが。家で飯を食わせてもらっている自覚はあるのか?」
「でも、これじゃあ栄養のあるものも買えないわ」
「無駄なものを買わなきゃ足りるはずだ。俺が若い頃はもっと安く済ませていた」
彼は自分が稼いできた金はすべて自分のものだと考えていた。私が朝から晩まで掃除をし、洗濯をし、彼の好みに合わせた食事を作る。その労働に対して、彼は一円の価値も認めていなかった。
私は独身時代、食品工場で働いていた。あの頃は自分で稼いだお金で友達と映画に行ったり、可愛いスカーフを買ったりできた。決して裕福ではなかったけれど、心は自由だった。ところが結婚した途端、私の名前は消えた。「正夫の妻」「子供たちの母親」。いつしか、私は自分の名前で呼ばれることさえなくなっていた。
ある日の夕方、スーパーでの出来事。特売の卵を求めて自転車を走らせた。カゴには半額シールが貼られた豚肉とミニ切り野菜を入れた。するとベジの横に、小さなケーキが並んでいた。一つ三百円。本当は甘いものを食べて、少しだけ元気を出したかった。でも、私はそっと目をそらした。
家に戻り、買い物袋を整理していると、仕事から帰ってきた夫がキッチンに現れた。彼は挨拶もせず、テーブルに置かれたレシートを真っ先に手に取った。
「なんだ、このもやしは。昨日も買っただろう」
「傷んでいたから、新しく買ったのよ。十九円だったし」
「十九円だろうが何だろうが、無駄は無駄だ。お前は金に対する緊張感がなさすぎる」
夫はレシートをテーブルに叩きつけた。私は黙ってもやしを冷蔵庫にしまった。言い返しても無駄だ。言い返せば、生活費をさらに削られるか、延々と説教が始まるだけ。私はこの四十五年間、そうやって沈黙を守って耐えてきた。
夜、夫がリビングでテレビを見ている間、私は暗いキッチンでスマホを開き、再びあのYouTubeチャンネルを眺めた。「世界は広い。踏み出す勇気さえあれば、人生はいつからでもやり直せる」――画面の中の女性は真っ赤なワンピースを着て、太陽の下で笑っていた。私にはあんな服を着る勇気も、あんな風に笑う場所もない。
でも、ふと思った。私がいなくなった後、この家計簿を誰がつけるのかしら。夫のパンツを誰が洗い、誰が彼の好みに合わせた薄味の味噌汁を作るのかしら。
「お前、何ニヤニヤしてるんだ。気持ち悪い」
いつの間にか、夫が後ろに立っていた。私は慌ててスマホを隠した。
「何でもないわ。ただ、明日のお天気が気になっただけで」
「ふん。どうせロクなことじゃない。さっさと風呂を沸かせ」
夫は吐き捨てるように言って、寝室へ消えていった。私は彼が脱ぎ捨てた汚れた靴下を拾い上げた。この靴下を洗うのも、もうこれで最後にしよう。
実は、私には夫に隠している唯一の秘密があった。四十五年間、彼に内緒で少しずつ貯めてきたお金。生活費を切り詰め、十円五十円という単位でコツコツと貯めたへそくり。それは古いクッキーの缶に入れて、クローゼットの奥に隠してあった。その重みを確かめるたび、私はかろうじて正気を保ってこれた。
このお金があったら、もしこの家を出て小さなアパートで暮らすことができたら――。
翌日、夫が仕事に出た後、私は思い切って娘の美紀に電話をかけた。美紀は結婚して隣の県に住んでいる。
「お母さん、どうしたの? こんな時間に」
「美紀、あのね……。お母さん、お父さんと別れようと思っているの」
向こうで娘が息を飲むのが分かった。
「え、急にどうしたの? お父さん、また何か言った?」
「ううん。急じゃないの。ずっとずっと考えていたことなの」
私は胸の内に溜まっていた思いを吐き出すように、これまでのことを伝えた。お金のこと、無視され続けてきたこと、自分の人生を取り戻したいということ。美紀は黙って聞いてくれていた。そして最後にこう言った。
「お母さん、正直、お父さんのあの態度は私もずっと嫌だった。でも、離婚してどうするの? お金はあるの? 生活できるの?」
「少しだけ貯金はあるわ。それでどこか安い部屋を探して……」
「お母さん、甘いよ。今の時代、お年寄りに部屋を貸してくれるところなんてなかなかないんだから。それにお父さん、絶対に許さないと思うよ。プライド高いし。お母さんに家事を全部やらせてるんだから」
娘の言葉は正論だった。でも、私の決意は揺らがなかった。むしろ、誰かに「無理だ」と言われれば言われるほど、心の中の炎が燃え上がるのを感じた。
電話を切った後、私は家中の窓を全開にした。冬の冷たい風が、どんよりとした空気と一緒に私の迷いを吹き飛ばしてくれる気がした。
その夜、夫が帰宅した時、私はいつもと違う格好で彼を待ち構えていた。エプロンを外し、数少ないお出かけ用のブラウスを着ていた。食卓には、夫の好きなメニューではなく、私がずっと食べたかったオムライスが並んでいた。
夫は玄関に入るなり異変に気づいたようだった。
「なんだ、この匂いは? それに、その格好は何だ?」
「あなた、座って。大事な話があるの」
私は震える声を必死に抑えながら言った。夫は不機嫌に鼻を鳴らし、どかりと椅子に座った。
「大事な話? また金の無心か。もう一銭も出さんぞ」
「いいえ、そうじゃなくて……」
私はテーブルの上に一枚の紙を置いた。緑色の見慣れない書類――離婚届。夫の目がかっと見開かれた。それは私が四十五年間見た中で最も激しい怒りの色だった。
「お前、自分が何を言っているのか分かっているのか?」
ここから私の人生をかけた戦いが始まった。夫の口から飛び出した信じられないような暴言。そして、私の計画を根底から覆すような衝撃の事実。私を待ち受けていたのは自由への道ではなく、地獄の入り口だった。
「ははははは」
沈黙を破ったのは、夫の乾いた笑い声だった。怒りで怒鳴り散らすかと思いきや、彼はのけぞるようにして笑い始めた。その笑い声は、私の心臓を冷たく撫でるような不気味な響きを持っていた。
「お前、本気で言っているのか? 熟年離婚? バカも休み休み言え。お前みたいな社会の仕組みも知らない世間知らずのババアが、一人で生きていけるわけがないだろう」
夫は嫌そうに鼻を鳴らして立ち上がると、私の目の前に身を乗り出してきた。肺に刺さるタバコと油の匂い。四十五年間嗅ぎ続けてきたこの匂いが、今はただ吐き気を催させるだけだった。
「いいか、貞子。お前が今日まで生きてこられたのは、全部俺のおかげなんだ。誰が雨風をしのぐ家を与えてやった? 誰が毎日三食欠かさず飯を食わせてやった? 誰が電気代やガス代を払ってやったと思ってるんだ?」
「それは私が家を守ってきたからでしょう。あなたが仕事に集中できるように、家事も育児も全部一人で……」
「家事? 掃除や洗濯なんて、機械だってできるだろうが。お前はただ俺が稼いできた金の上でのうのうと生きてきただけの寄生虫だ。寄生虫が、旦那に向かって別れたいなんて、笑わせるな」
夫の言葉は鋭いナイフのように私の自尊心を切り裂いた。寄生虫――四十五年間の献身が、彼にとってはそんな言葉で片付けられる程度のものだった。私は拳を握りしめ、視線を落としたまま耐えた。ここで言い返しても、彼はさらに大きな声で私をねじ伏せるだけだと分かっていた。
夫は鼻で笑うと、キッチンに置かれた電卓を指さした。
「いいか、計算してやろう。お前を四十五年間養うのに、どれだけの金がかかったと思ってる? 食費、住居費、光熱費、衣服代……。お前、俺に借金しているようなもんなんだよ。離婚したいなら、その分を全部返してからにしろ。数千万……いや、一億はくだらないだろうな」
「そんなの、めちゃくちゃだわ。法律では財産分与と言って、結婚してから築いた財産は半分ずつ分ける権利があるのよ」
私が調べておいた知識をぶつけると、夫の顔が一瞬だけ引きつった。しかし、すぐに邪悪な笑みを浮かべた。
「財産分与だと。ほう、知恵だけはつけてきたらしいな。だがな、貞子。お前は大きな勘違いをしている。この家の金は全て俺の口座にある。お前名義の貯金なんて、一円もないだろう?」
「それはそうだけど……半分は私の権利のはずよ」
「権利? お前みたいな寄生虫に、そんな高尚なものがあると思うな。いいか、教えてやるよ。俺は倹約家だ。一円の無駄も許さない。だからな、お前が財産分与なんて言い出すことも、何年も前から想定済みなんだよ」
夫はゆっくりとリビングのソファに腰を下ろすと、リモコンを手に取った。そして、私を見ようともせずに冷たく放った。
「通帳の中身はすでに空っぽだ。全部、別のところへ移した。俺を裏切るような奴に渡す金なんて、一円もありはしない。お前が勝手に出ていくのは自由だ。だがな、一歩でもこの家を出たら、お前はただのホームレスだ。せいぜい公園のベンチで自分の『権利』とやらを抱いて震えてろ」
頭の中が真っ白になった。空っぽ――長年、血を吐くような思いでケチって溜め込んできたはずの数千万円の貯金が、一円も手に入らない。私は足の力が抜け、その場にへたり込みそうになった。私がコツコツ貯めた数万円のへそくりなんて、アパートの敷金にもならない。
「本気なの? 私を道端に放り出すつもりなの?」
「お前が自分から言い出したことだろう。自由が欲しいんだろう? ならくれてやるよ。ただし、一円も持たずにな。明日の朝、お前が土下座して謝るなら、寄生虫として置いてやってもいい。だが、今この瞬間から、お前はもう俺の妻じゃない。ただの蒼老だ」
夫はテレビの音量を上げた。笑い声の響くバラエティ番組。その明るい音が、私の絶望を嘲っているように聞こえた。私は暗いキッチンに戻った。さっきまで自由への第一歩だと思っていたオムライスが、無惨に冷え切っていた。
夫は私が何もできないと踏んでいる。一円も持たず、仕事もできず、社会から見放された老人が、自分なしで生きていけるわけがないと。
暗闇の中で、私はクローゼットの奥にある古い缶のことを思い出した。数万円のへそくり……そして、その缶の底に隠してある、もう一つの秘密。それは、夫が絶対に気づいていない、彼自身の致命的なミスの証拠だった。
私は震える手でその缶を取り出した。夫、あなたは私を寄生虫と呼び、無価値だと言い切った。でも、その油断があなたを破滅させることになる。私は翌朝の土下座なんて絶対にしない。
翌朝、私は夫を起こす前にある場所へ向かった。そこは彼が想像もしなかった意外な人物が待つ場所、そして私の反撃の本当の幕開けとなる場所だった。
夜明け前の薄暗い町を、私は足早に歩いていた。手には長年使い古した地味なハンドバッグ。その中には例のクッキー缶から取り出したあるものが、しっかりと納められていた。
私が向かったのは、駅から少し離れた古いビルの一室。そこには私の唯一の味方になってくれるはずの人物、弁護士の島田先生が待っていた。実は数ヶ月前から、私は夫の目を盗んで無料法律相談に通い詰めていたのだ。
「貞子さん、よく決断されましたね。あんな男の中に、これほどの証拠が眠っていたとは。正夫さんも思わなかったでしょう」
島田先生は私が差し出した数冊の通帳とメモ書きの束を丁寧に広げた。これこそが、夫の致命的なミス。彼は一円単位で金を数える倹約家だったが、その極度の人間不信でもあった。銀行の行員さえ信じられない彼は、あちこちの銀行に分散して口座を作っていた。そして、あろうことか税金逃れのために、私に内緒で私名義の隠し口座をいくつも作っていたのだ。通帳と印鑑さえあれば、そのお金は法的には私のものとして動かすことができる。
夫は昨晩、「空っぽだ」と豪語した。それは、私に開示していた家族の口座の話。自分が私の名前を無断で使って溜め込んでいたこの裏口座の存在を、私が知るはずがないと高をくくっていたのだ。
「これがあれば、私、生きていけますか?」
私の震える問いに、島田先生は力強く頷いた。
「十分です。むしろ、正夫さんがこれまでやってきたことは、贈与税の脱税や資産隠しにあたる可能性があります。話し合いがこじれれば、彼は社会的な地位も名誉も、全て失うことになるでしょう」
私は深く息を吐いた。四十五年間の重りが、ほんの少しだけ軽くなった気がした。
しかし、家に戻ると、そこにはさらに残酷な現実が待っていた。玄関を開けた瞬間、夫の怒鳴り声が飛んできた。
「おい、どこをほっつき歩いていたんだ、このクソババア!」
夫はリビングのソファにふんぞり返り、ビールの空缶を床に転がしていた。まだ朝の九時だというのに。
「ちょっと散歩に行っていただけよ」
「散歩? 嘘をつけ。どうせ美紀のところにでも泣きついて、金を無心しに行こうとしたんだろう。だが無駄だぞ。美紀には俺から釘をさしておいた。あいつに一円でも貸したら、親子の縁を切る、とな」
冷たい汗が背中を伝った。夫は私の逃げ道を全て塞ぐつもりなのだ。彼は立ち上がると、よろよろと私に近づき、私の顎を乱暴に掴み上げた。
「いいか、貞子。お前みたいな賞味期限切れの女に、何の価値があると思ってるんだ。肌はカサカサ、目は濁り、知能は小学生並み。お前が外に出たところで、誰が相手にする? 雇ってくれるところなんて、飛ぶ掃除か死体処理くらいだぞ」
夫の口からは、聞くに堪えない侮辱の言葉が次々と溢れ出した。
「四十五年も置いてやって、飯を食わせてやった俺に感謝しろ。お前はただの動くゴミなんだよ。捨てられるのが怖いなら、今すぐそこで靴を舐めて謝れ。そうすれば、屋根裏部屋くらいは貸してやってもいい」
夫は私の顔に唾を吐きかける勢いで罵り続けた。私はただじっと耐えた。心の中で島田先生の言葉を反芻し、拳を握りしめた。今、この男は、自分こそが私に依存していることに全く気づいていない。
「黙ってないで、何か言ったらどうだ? 自分の無能さが身に染みたか?」
「ああ、正夫さん、あなたは私がいなくなったら、本当に一人でやっていけると思っているの?」
私が静かに問い返すと、夫は一瞬、虚を突かれたような顔をした。そして次の瞬間、お腹を抱えて爆笑した。
「ギャハハハ! 何をほざきやがる。洗濯機を回すボタンくらい、俺だって知ってるよ。飯だって、コンビニに行けばいくらでも売ってる。お前がやっていたことなんて、その程度の、誰にでもできる雑用なんだよ」
夫は私の肩を乱暴に突き飛ばした。私は壁に背中を打ちつけたが、痛みは感じなかった。ただ、この男に対する最後の一かけらの情けが、音を立てて消えていくのを感じただけだった。
「分かったわ。そこまで言うなら、私は今すぐこの家を出ます。あなたの言う通り。私は生きたゴミですから。ゴミはゴミらしく、自分で去ることにするわ」
「おう、勝手にしろ。明日の今頃には、腹を空かせながらインターホンを押すことになるだろうがな。その時は玄関マットの代わりに踏みつけてやるから、楽しみにしてろよ」
夫の嘲るような笑い声を背に、私は二度と戻らない決意で、自分のわずかな荷物をまとめたボストンバッグを手に取った。
私が玄関の扉を開けようとした、その時だった。郵便受けに、一通の封筒が落ちる音がした。それは裁判所からの通知。私が島田先生を通じて準備していた財産保全と婚姻費用分担の申し立て書類の写しだった。夫はまだ気づいていない。自分は空っぽだと信じている口座が、実は私によって凍結され、逆に私が私名義の隠し口座の存在を掌握したことを。
「早く出て行け! 貧乏神がいなくなって、今日は最高の日だ!」
リビングから聞こえる夫の勝利宣言。でも、扉の外には、私を待つ意外な人物の車が停まっていた。それは娘の美紀ではなかった。夫が最も顔を合わせたくなかったあの男――夫の本当の絶望は、ここから加速していく。
「貞子さん、お疲れ様でした。よくあそこから抜け出せましたね」
車の運転席で私を待っていたのは、夫の弟の健二さんだった。健二さんは夫とは正反対の穏やかな性格だが、数年前、夫に多額の借金をさせられそうになり、絶縁状態にあった。実は、夫が自分の隠し口座を私の名前で作っていたという決定的な証拠を掴めたのは、健二さんの協力があったからだ。かつて夫が健二さんに「名義を貸せ」と持ちかけた時の記録を、健二さんがずっと保管してくれていたのだ。
「健二さん、本当にありがとうございます。でも、これから本当に私一人でやっていけるのかしら?」
「大丈夫ですよ。まずは、このレジデンスに向かいましょう。しばらくは正夫の目につかない場所で、心を休めてください」
私が案内されたのは、都内の新しくて綺麗なレジデンス型のオフィス。家具も揃っていて、ホテルのような快適さだった。私はボストンバッグを床に置き、真っ白なベッドに深く腰かけた。四十五年間の苦しい沈黙から解放されたはずなのに、心にはぽっかりと大きな穴が開いたような、言いようのない不安が押し寄せてきた。自由――それは思っていたよりもずっと重たくて、冷たいものだった。
翌日から、私の戦いは現実的な壁となって立ちはだかった。島田先生の尽力で夫の主要な口座は一時的に凍結されたが、生活を始めるには想像以上のお金がかかった。コンビニで一つのおにぎりを買うにしても、値札を見るたびに夫の「無駄遣いするな」という怒鳴り声が耳に蘇り、手が震える。レジの店員に「袋いりますか」と聞かれただけで、自分が何か悪いことをしているような罪悪感に襲われるのだ。
さらに、夫からの執拗な嫌がらせが始まった。スマホには、昼夜を問わず罵詈雑言のメッセージが届く。
「おい、ゴミ女。今日のランチは何だ? コンビニの廃棄弁当か? お前がいなくなってから、家の中がどれだけ清潔になったか。もう二度とその汚い顔を見せるなよ。あ、言い忘れたが、お前の服や着物は全部、庭で燃やしてやった。返して欲しければ、灰でも拾いに来い」
そのメッセージを読み、私はレジデンスの冷たい床で膝を抱えて震えた。四十五年間、私の人格を否定し続けてきた言葉は、離れて暮らしてもなお、呪いのように私の心に突き刺さった。
「やっぱり私には無理だったのかもしれない」――そんな弱音が漏れた時、スマホが震えた。夫からの着信。私は恐怖で心臓がバクバクしながらも、なぜか指が勝手に通話ボタンを押してしまった。
「もしもし……」
「ゲッ、出やがったな。負け犬が。どうだ? 貞子。ホームレス生活は楽しいか? 今日の雨は冷たいぞ。公園のブルーシートじゃ、風邪を引くかもな」
「私はちゃんと屋根のある場所にいるわ」
「嘘をつけ。お前みたいな金も脳みそもないババアを、誰が助けるってんだ。おい、今すぐ戻ってこい。まだチャンスをやるぞ。お前が俺の足を舐めて謝れば、玄関の隅まで寝かせてやってもいい。今夜の夕食は、俺が買ってきた高級寿司のあまり物だ。食べたいだろう?」
電話の向こうから聞こえる夫の傲慢な笑い声。私は唇を噛みしめた。やっぱりこの男は変わらない。私を人間として見ていない。
「お寿司は自分で食べてちょうだい。私は自分の力で生きていくって決めたの」
「ああ? 強がるのも大概にしろよ、この寄生虫が。お前、一週間後にはガリガリに痩せて、俺の靴を磨きに来ることになるぞ。いいか。お前は俺なしじゃ、ただの死体と同じなんだよ」
夫は最後に特大の罵声を吐き捨てて、電話を切った。私は真っ暗な部屋で一人、涙を流した。お金は健二さんのおかげでなんとかなるかもしれない。でも、長年植えつけられた「自分は無価値だ」という意識が、どうしても私を苦しめるのだ。
そんな時、部屋のチャイムが鳴った。
「貞子さん、島田です。急ぎでお伝えしたいことがありまして」
扉の向こうにいた弁護士の島田先生の顔は、かつてないほど険しいものだった。
「貞子さん、正夫さんの暴挙は私たちの想像を超えていました。彼は、あろうことかあなたの秘密を暴露したようです。ええ、秘密というのは、あなたが一番隠しておきたかったこと。それを彼は、家族や親戚一同に、歪めた形でばらまきました」
私の目の前が真っ暗になった。夫が最後に取った最悪の手段。それは私の心を修復不能なまでに破壊するための、あまりにも残酷な一手だった。
島田先生から差し出されたスマホの画面。そこには、親族たちのグループチャットやSNSに投稿された、信じられない言葉の数々が並んでいた。
「貞子が家のお金を持って逃げた。それも若い男と浮気して。あいつは四十五年間、俺を騙し続けていた詐欺師だ。みんな騙されないでくれ」
「あの女は精神を病んでいる。勝手に家のお金を引き出して、ギャンブルに注ぎ込んでいたんだ」
夫がばらまいた秘密。それは真っ赤な嘘を塗り固めた偽りの正体だった。娘の美紀からも、泣き叫ぶようなボイスメッセージが届いていた。
「お母さん、信じられない。お父さんが言ってること、本当なの? お金を持って逃げたって……健二さんとできてるって、本当なの? 最低だよ、お母さん」
私はスマホを握りしめたまま、ただ沈黙した。自分の娘にさえ信じてもらえない。四十五年間の献身は、夫のたった一晩の嘘によって、無惨に踏みにじられた。
「正夫さんは、私が一番嫌がることを分かっているんですね。私の尊厳を奪うことが、一番の復讐になると……」
私の声は、自分でも驚くほど冷えていた。島田先生は静かに眼鏡を拭き、私をまっすぐに見つめた。
「貞子さん、彼はあなたの過去についても触れています。あなたが結婚前に働いていた工場の話。『あんなのは嘘で、実は不潔な仕事をしていたんだろう』と親戚中に言いふらしています」
私は思わず小さく笑ってしまった。笑い事ではないのに、あまりの馬鹿馬鹿しさに乾いた笑いが込み上げてきた。
「正夫さんは、本当に何も分かっていないんですね。島田先生、そろそろ、本当の『秘密』、教えてあげてもいいでしょうか?」
「ええ、準備は整っています」
実は、私には夫が死んでも気づかない大きな秘密があった。彼は私がただの食品工場の従業員だと思い込んでいた。確かに結婚前はそうだった。でも、私は結婚してからの四十五年間、ただ掃除をしていただけではなかった。夫が仕事で家を開けている間、そして彼が寝静まった深夜。私は独身時代のコネを頼って、在宅である専門的な仕事をずっと続けていたのだ。
それは着物の修繕と、品定めの鑑定。非常に高い技術を要する仕事で、私は夫に隠れて、業界では名の知れた職人として活動していた。彼に渡された月三万円の生活費では、子供たちに十分な教育を受けさせることも、少しの贅沢をさせてあげることもできなかった。だから私は、夫に一円も頼らず、自分の腕一本で、美紀の大学費用も密かに積み立てていたのだ。
夫が「自分の隠し口座だ」と思い込んでいたもののうち、いくつかは、実は私が自分の報酬をコツコツと貯めていた、私自身の正当な財産だった。彼は私が銀行に詳しくないと思い込み、勝手に私の名義を使って口座を作った。でも、その時彼は、私が職人としての屋号が含まれた通帳の存在に気づかなかった。
「正夫さんは、私が世間知らずのバカだと言いました。でも、本当に世間を知らないのは、彼の方です」
私はバッグの中から一冊の古いノートを取り出した。そこには、四十五年間に渡る私の仕事の記録と、夫の横領行為の全記録が、一分一秒の狂いもなく書き留められていた。
「島田先生、正夫さんは今、私が浮気をして逃げた詐欺師だと言いふらしていますね。でも、このノートの内容を公開したら、どうなるでしょうか?」
「間違いなく、彼の社会的生命は終わりますね。特に、彼が会社の経費を私的に流用していた疑い。あなたが記録していた不自然な領収書の数々。これは警察が動くレベルです」
私はレジデンスの窓から見える夜景を眺めた。夫は今頃、広い家で一人、自分が仕掛けた嘘の網に満足していることでしょう。「あいつはもう戻ってこれない。俺の勝ちだ」と。でも、彼が一番恐れているのは、お金を失うことでも家を失うことでもない。自分が誰かにバカにされること、そして、自分が支配していたはずの弱者に反撃されること。それが彼にとっての最大の恐怖なのだ。
その時、レジデンスのインターホンが激しく鳴った。モニターを見ると、そこには顔を真っ赤にして、警察官を連れた夫が立っていた。
「開けろ、貞子! お前が盗んだ金を返せ! 警察も来ているんだぞ! この泥棒!」
夫の叫び声が廊下に響き渡る。彼はついに実力行使に出たのだ。警察を使って、私を犯罪者として引きずり戻そうとしている。私は島田先生と顔を見合わせた。
「行きましょうか、貞子さん」
「はい」
私はあえて、ゆっくりと扉を開けた。そこには、勝ち誇ったような顔をした夫が、私を指さして立っていた。
「警察官さん、こいつです! こいつが俺の口座から数千万円を盗んで、この男と浮気しているんです!」
夫は健二さんを指さして罵声を浴びせた。警官たちが困惑した表情で私を見る。私は一言も発さず、ただ警官にあるものを差し出した。それは、夫の顔から一瞬で血の気が引くような、衝撃の書類だった。
「正夫さん、あなたが今、警察を呼んだこと、全て後悔することになりますよ」
私の静かな一言に、夫の口が金魚のようにパクパクと動き始めた。
「警察官さん、早くその女に手錠をかけてください! 俺の金、数千万円を勝手に引き出して、逃げ回っているんです! 共犯者は、あそこにいる俺の弟です!」
夫は勝利を確信したような顔で叫び続けた。警官たちは困惑した表情で、私と隣に立つ島田先生を交互に見ている。私は何も言わずに、一通のファイルを差し出した。それは島田先生が昨晩のうちにまとめてくれた、裏口座の解約履歴と、夫が私の名前を無断で使用して作成した委任状のコピーだった。
警官がその書類に目を通した瞬間、廊下の空気が一転した。
「正夫さん、あなたが盗まれたと言っている口座。これ、名義は貞子さんになっていますが、届出の筆跡は全てあなたのものですね」
警官の鋭い問いに、夫は一瞬だけ言葉に詰まった。しかし、彼はすぐに顔を真っ赤にして怒鳴り散らした。
「そ、そうだ! それがどうした! 夫婦なんだから、俺が代わりに書いたって不思議じゃないだろう! そもそも、元手は全部俺が稼いだ金だ! 名義が誰だろうと、俺の許可なく動かすのは窃盗だ!」
「正夫さん、あなたは大きな勘違いをしています」
島田先生が静かに一歩前に出た。
「これは窃盗事件ではありません。むしろ、あなたが貞子さんの名義を勝手に使い、さらに貞子さんの職人としての正当な報酬を自分の口座に流用していた、横領及び有資産処分の疑いがあります」
「横領? 何をほざきやがる! こいつはただの主婦だぞ! 職人? 笑わせるな! 内職で小銭を稼いでいたくらいで、格好をつけるのも大概にしろ!」
夫は警官の目の前で私を指さし、鼻で笑った。
「警察官さん、騙されないでください。こいつは家で掃除と洗濯しかできない無能なババアなんです! 職人なんて、見栄を張っているだけだ!」
その時、廊下の向こうから、もう一人意外な人物が姿を現した。それは、夫が務めている運送会社の社長、大山さんだった。
「正夫、そこまでにしておけ」
社長の声に、夫は飛び上がるほど驚いた。
「社、社長?! どうしてここに……」
「貞子さんから連絡をもらったんだよ。お前が会社の名義でガソリン代を水増し請求し、その浮いた金を貞子さんの名義の口座に隠していたという証拠、全てこの目で見させてもらった」
夫の顔から一気に血の気が引いていった。真っ白を通り越して、土色に変わった。彼の手が小刻みに震え始める。
「な、何かの間違いです! 俺がそんなことするはずがない! 貞子が俺を落とし入れるために嘘をついているんです!」
「嘘かどうかは、これから会社の監査が入ればはっきりする。だがな、正夫。お前が家で奥さんにこれほどまでの暴言を繰り返していたこと。そして、彼女が業界でも有名な着物修繕の名工であることを、お前だけが知らなかったというのは、あまりにも滑稽だな」
大山社長は、夫を軽蔑の目差しで見つめた。実は、大山社長の奥様も、私の大切な客の一人だった。夫は、自分の妻が社長夫人の信頼を得るほどの腕を持っていることなど、夢にも思っていなかったのだ。
「正夫さん、あなたが無能だと切り捨てた私は、あなたの会社の信頼さえ、その手の中に握っていたのよ」
私が静かに告げると、夫は獣のような声を上げて私に飛びかかろうとした。
「この野郎! 俺を裏切りやがって! 殺してやる!」
しかし、すぐに警官たちに取り押さえられた。
「やめなさい! 落ち着け!」
床に押さえつけられた夫は、歪んだ顔でなおも私を呪うように睨みつけた。
「貞子! お前、ただで済むと思うなよ! 親戚中にお前の恥ずかしい過去をばらまいてやる! 娘の美紀だって俺の味方だ! お前は一生、誰にも愛されずに一人でのたれ死ぬんだ!」
夫の叫び声が冷たい廊下に虚しく響いた。でも、私は知っていた。美紀が今、どこにいるのかを。夫は、自分が仕掛けた嘘が、すでに身内に牙を向き始めていることに気づいていなかった。
「警察官さん、あとは法律の専門家に任せます」
私は島田先生と健二さんに付き添われ、その場を後にした。背後で夫が喚き散らす声がずっと聞こえていたが、私にはもう、遠い国の騒音にしか聞こえなかった。
ところが、その日の午後、レジデンスに戻った私を、さらに衝撃的なニュースが襲った。夫が私の名前を使っていたある契約。それは借金や横領といったレベルをはるかに超える、この家計を根底から破壊するほどの恐ろしい切り札だった。
「貞子さん、これを見てください。正夫さんは正気ではありませんでした」
健二さんが持ってきた一通の契約書。それを見た瞬間、私は膝から崩れ落ちた。夫の欲望は、すでに私の人生を奪うだけでは収まっていなかった。
「嘘でしょう? 何これ? どういうことなの?」
健二さんが私の前に差し出した数枚の薄い書類。そこには私の名前、私の印鑑、そして私の職人としての屋号が、あまりにも無惨な形で記されていた。
「貞子さん、兄さんはあなたの知らないところで、五千万円もの連帯保証人のサインを勝手にしていたんです」
健二さんの声が怒りで震えていた。契約書の内容は、あまりにも身勝手で吐き気がするようなものだった。夫は、私が密かに続けていた着物修繕の仕事が、実はかなりの利益を産んでいることをどこかで嗅ぎつけていたのだ。彼は私を「無能なババア」と罵りながら、その一方で、私が築き上げた信用を勝手に利用していた。
地方に将来値上がりすると騙されて買ったゴミ同然の土地、いわゆる原野商法の被害に合い、その支払いに詰まった夫は、私の屋号をお担保に、闇金に近い金融業者から多額の借金をしていたのだ。
「あの人は、私をバカにしながら、私の腕をお担保にしていたのね」
私は乾いた笑い声を上げた。夫は私が大切に守ってきた職人のプライドを「一円の価値もないゴミ」と言い切りながら、その身を金に変えるための道具として利用していた。これ以上の侮辱があるだろうか。
「それだけじゃありません。兄さんは、親戚たちの名前も『紹介した』と言って、勝手に連絡先を業者に売っていたようです。今頃、親戚中のところに、業者からの督促の電話がかかっているはずです」
「だから、親戚たちはあんなに怒っていたのか……」
夫は、自分が破滅しそうになった時、私と、そして自分を持ち上げていたはずの親族全員を道連れにしようとしたのだ。
その時、私のスマホが激しく震えた。娘の美紀からのビデオ通話だった。画面に映った美紀は、泣きすぎて真っ赤に腫れ上がっていた。
「お母さん、ごめんなさい! お父さんが言ってたこと、全部全部嘘だったんだね! 今、私のところにも怖い人から電話がかかってきて……。お父さんが、『貞子は不倫相手と共謀して、娘の教育資金をギャンブルに注ぎ込んで逃げた』って言ってたから、私、信じちゃった……」
美紀の声は嗚咽で途切れ途切れだった。彼女の背後には、美紀の旦那さんも映っていた。彼もまた、戸惑いと怒りが混ざった表情をしていた。
「美紀、大丈夫よ。怖がらなくていいわ。その電話には出なくていいから」
「ごめんなさい、お母さん。私、お母さんが夜中にずっとミシンを踏んでたの、知ってたのに。お父さんにバレないように、暗い部屋で一人で仕事してたの、見てたの。なのになんで、お父さんの言うことを信じちゃったんだろう……」
美紀は画面の向こうで崩れ落ちるように泣き続けた。四十五年間、夫がこの家に植えつけた恐怖と洗脳は、実の娘の心さえも一時的に歪めてしまっていたのだ。
私は美紀の涙を見て、自分の中の迷いが完全に消えるのを感じた。今までは、ただ逃げたい、自由になりたいだけだった。でも今は違う。あの男を徹底的に叩きつぶさなければならない。私と、私の周りの大切な人々を守るために。
「島田先生、この契約書、法的にはどうなりますか?」
隣で黙って聞いていた島田先生が、眼鏡の縁を押し上げた。
「有印私文書偽造及び同行使。さらに、本人の同意のない保証人契約は当然無効です。業者の方も、まともな審査を通していない闇に近い存在ですから、警察の組織犯罪対策課と連携して潰せます」
島田先生の言葉は冷徹で、そして頼もしかった。
「正夫さんは今警察にいますが、この件が加われば、もう一生、日の光を浴びることはないかもしれませんね。会社の横領に、身内への詐欺。許される余地は一ミリもありません」
私は深く、深く息を吐いた。レジデンスの窓の外は、いつの間にか綺麗な夕焼けに染まっていた。
「でも、それだけじゃ足りないわ。島田先生、健二さん。あの人が一番大切にしていたものを、奪いたいんです」
「一番大切にしていたもの?」
健二さんが不思議そうに聞き返した。私は冷たい微笑みを浮かべた。
「あの人が本当に愛していたのは、お金じゃない。自分を立派に見せるための体裁よ。自分が誰よりも偉くて、誰よりも正しくて、周囲を支配しているという、あの傲慢なプライド」
私はバッグの中から、もう一冊の小さな手帳を取り出した。それは夫が家計を管理するために使っていた支出表ではない。私が四十五年間、夫のある行動を記録し続けていた、いわば夫の「悪事の記録帳」だった。
「これを、親族一同が集まる親族会議で公開しましょう。美紀、あなたも来なさい。お父さんの本当の正体を、みんなで共有するのよ」
夫は私がいなければ何もできない男だった。靴下一つ選べず、一円の計算も、私が裏で帳尻を合わせていたからこそ成立していた見せかけの体面。私の反撃は、ここから真の頂点へと向かって加速していく。警官の前で見せた動揺など、まだ序の口に過ぎない。
翌週、夫の弁護士から示談を求める連絡が来た。「一刻も早く外に出たい。反省している」と。私は島田先生を通じて、一つの条件を突きつけた。
「示談の場は警察署の面会室ではない。親戚一同の前で、あなたの罪を全て告白しなさい」
夫は、自分のプライドが粉々になるその瞬間を、自ら選ばざるを得なくなった。なぜなら、そうしなければ彼に残された最後の逃げ道すらも、私がすでに塞いでいたからだ。
いよいよ幕を開ける、親族一同の前での公開処刑。夫はそこで、自分に突きつけられる最大の真実に、泡を吹いて倒れることになる。
「示談だと? あの貞子が、そんな条件を言ってきたのか?」
警察署の面会室。アクリル板の向こう側で、夫は今にも掴みかからんばかりの勢いで身を乗り出した。数日間の留置生活で、あんなに自慢だった白髪混じりの髪はボサボサになり、顔色は土色だった。それでも、その傲慢さはまだ、ギラギラとした濁った光を放っていた。
夫の弁護士である加藤先生は、困ったようにため息をつき、書類を広げた。
「ええ、そうです。貞子さん側は、親族一同の前であなたの言った全ての罪を認め、謝罪することを示談の絶対条件として提示しています。正夫さん、正直に申し上げますが、今のあなたの状況は絶望的です。会社の横領に加え、奥様の名義を勝手に使った多額の借金。これが全て裁判になれば、実刑は免れませんよ」
「あのババア、調子に乗りやがって! 俺が謝る? 親戚の前で? 笑わせるな! 誰があんなゴミに頭を下げるか!」
夫は机を激しく叩いた。立ち会っていた警官から「静かにしなさい」と一括されるが、彼の怒りは収まらない。
「いいか、加藤先生。貞子はな、俺がいないと生きていけないんだ。今頃、レジデンスとかいう贅沢な場所で、俺の金を使って優雅に暮らしているんだろうが、それも長くは続かない。あいつは世間知らずなんだ。俺がちょっと優しくしてやれば、すぐに泣いて戻ってくる。あいつは、そういう安い女なんだよ」
加藤弁護士は、冷めた目で夫を見つめた。
「正夫さん、あなたはまだ何も分かっていないようですね。貞子さんは今、自分の仕事、着物修繕の依頼で数ヶ月先まで予約がいっぱいだそうです。あなたが『ゴミ』と呼んだ彼女の技術は、国宝級だと評価されているんですよ。むしろ、世間を知らなかったのは、あなたの方ではありませんか?」
「なんだと?」
夫の顔から一瞬だけ表情が消えた。自分が支配して、ただ震えて家事をしていたはずの無能な妻。が、自分の知らない場所で高く評価されている。その事実が、彼のちっぽけなプライドを根底から揺さぶり始めた。
「それに、今回の連帯保証人。あれは悪質です。闇金まがいの業者もすでに摘発されました。彼らはこう供述していますよ。『正夫から、嫁は有名な職人だからいくらでも金が取れる』と言われた、とね。正夫さん。これは、奥様に対する法的な殺人行為に等しいですよ」
夫の唇が小刻みに震え始めた。彼は必死に頭を回転させていた。どうすればこの場を切り抜けられるか、どうすれば再び貞子を自分の支配下に置けるか。
「分かった。謝ればいいんだろう? 謝れば。親戚の前でちょろっと頭を下げて、『悪かった。勘違いだった』と言ってやるよ。それで示談に応じるんだろう?」
夫は下卑た笑みを浮かべた。心の中では、謝罪の場さえも利用して、親戚たちの前で再び私を「頭がおかしくなった女」にしてやる算段を立てていた。『俺は無理やり謝らされている。あいつは陥れて俺を落とし入れた』――そんな嘘をまた並べるつもりだった。
しかし、加藤弁護士は無慈悲に宣告した。
「残念ながら、奥様側はあなたが嘘をつけない仕掛けをすでに用意しているようです。正夫さん、貞子さんは、あなたが家の中でこそこそと言っていた、全ての記録を握っているんですよ。隠し撮りされた音声。あなたがゴミ箱に捨てた領収書の復元。四十五年分の、あなたの暴言記録です」
夫の心臓がドクンと音を立てて跳ね上がった。
「全ての記録? まさか、あの物置きの奥に隠していた……愛人との密会写真や、自分が生活費を散財して高級クラブに通っていた頃の家計簿まで……」
「貞子、あいつ、いつから……」
夫の背中に嫌な汗が流れ落ちた。自分が完璧に管理し、支配していると思っていた妻。その妻が、実はずっと前から自分を観察し、裁くための証拠を積み上げていた。その恐怖が、ゆっくりと毒のように彼の身体を蝕んでいった。
「示談に応じますか? それとも、刑務所で歳を過ごしますか?」
加藤弁護士の冷たい問いに、夫は膝をガクガクと震わせながら、かれた声で答えた。
「応じる……応じればいいんだろう!」
でも、彼はまだ気づいていなかった。その謝罪の場が、彼にとって本当の地獄の始まりになることを。私が用意した真実は、ただ謝罪で済むような甘いものではなかった。
一方、レジデンスで親族会議の準備を進めていた私は、窓の外を眺めながら静かに誓っていた。正夫さん、あなたが一番大切にしていたその顔が、剥がれ落ちる音を楽しみにしていてちょうだいね。
そしていよいよ、親族会議の日。会場となる夫の家、私が四十五年間住んだあの家には、怒りと困惑を抱えた親戚一同、そして警察の監視を伴った夫が姿を現した。そこで明かされる、夫が隠し続けていた最大の禁忌。彼の崩壊は、もはや止めることはできなかった。
親族会議当日。四十五年間、私が夫に尽くし続けてきたあの家は、かつてないほどの異様な熱気に包まれていた。
「正夫、どういうことか説明しろ! なぜ俺の名前が借金の保証人になっているんだ!」
「私のところにも督促状が来たわよ! どうしてくれるのよ!」
リビングには、夫の叔父である親族一同の長老、心臓さんを始め、従兄弟や親戚たちが総勢十名ほど集まっていた。皆、怒りに肩を震わせ、今にも夫に掴みかからんばかりの見幕だ。そこへ、弁護士と警官に付き添われた夫が姿を現した。彼は入ってくるなり、弱々しい足取りで床に膝をついた。
「申し訳ありません……全て、私の……私の不徳の致すところです……」
震える声で頭を下げる夫。その姿を見た親戚たちは、一瞬、虚を突かれたような顔をした。しかし、夫の目は床を見つめながらも、ギラリと光っていた。『これでいい。こうやって下手に出ておけば、あいつらは同情する。後で、貞子の頭がおかしくなったんだと吹き込めばいいんだ』――夫はまだ、この場を謝罪のパフォーマンスで乗り切れると信じて疑っていなかった。
「正夫さん。顔を上げてください」
私が静かに声をかけると、夫は『待ってました』と言わんばかりの、わざとらしい悲劇のヒーローのような顔を作った。
「貞子……本当にすまなかった。俺は、ただ老後の蓄えを増やそうと焦って……。お前の名前を勝手に使ったのは、お前を愛していたからなんだ。お前の将来を心配して……」
「白々しい嘘は、もうやめなさい」
私の言葉に、リビングの空気が凍りついた。私はテーブルの上に、一冊の分厚いファイルと、数本のボイスレコーダーを並べた。
「心臓さん、親戚の皆様。正夫さんは『老後のため』と言いましたが、事実は全く違います。彼が金融業者に私の名前を差し出し、皆様の連絡先を売った本当の理由。それは、皆様が思っているような投資の失敗などではありません」
私はレコーダーの再生ボタンを押した。そこから流れてきたのは、夫が家の中で一人、誰かと電話で話している生々しい声だった。
「えへへ、大丈夫だよ、美加ちゃん。金ならいくらでもあるさ。あのババアはバカだから、俺が家計が苦しいって言えば、生活費を削ってでも溜め込んでる保証人だ。あの女の屋号を使えば一発だよ。あいつ、自分の腕がどれだけ金になるかさえ知らない世間知らずだからな。あと、親戚連中? あんなのただの飾りだよ。いざとなったら、『適当に名前を貸してやってる』って言えばいい。あいつらは俺を立派な長男だと思い込んでるからな。あ、早くあのゴミ箱みたいな家から抜け出して、君と遊びたいよな」
夫の顔が一瞬で土色に変わった。
「な、なんだこれは! 捏造だ! 貞子が機械を使って作った嘘だ!」
夫が立ち上がり、レコーダーに飛びかかろうとした。しかし、健二さんに強く抑え込まれる。
「まだありますよ、正夫さん」
私はファイルをめくり、裏帳簿を親戚たちに見せた。そこには、夫が私に渡していた月三万円の生活費の裏で、彼が「美加」という若い女性に貢ぎ続けていた、総額三千万円以上に登る送金記録。そして、彼が会社の経費を私的に流用していた詳細な証拠が、一円の狂いもなく記されていた。
「心臓さん、この家、そして皆様の信頼。全てをお担保にして、彼は自分だけの快楽を買っていたんです。私を『寄生虫』と呼びながら、実は私の稼ぎを吸い取っていたのは、彼の方でした」
親戚一同から、血が凍るようなどよめきが上がった。
「正夫、お前、自分さえよければ、一族全員を路頭に迷わせるつもりだったのか!」
「貞子さんに苦労させて、自分は女遊びだって?! この恥知らずめ!」
心臓さんの杖が床を激しく叩いた。夫は、先ほどまでのかわいそうな夫の仮面が剥がれ落ち、ただガタガタと震えながら、周囲の冷たい視線にさらされていた。しかし、私が用意した最大の真実は、まだこれからだった。
「正夫さん、あなたが一番自信満々に言っていたことがありましたよね。『この家は、俺が稼いだ金で買った、俺の城だ』って」
夫は脂汗を流しながら、私を睨みつけた。
「あ、当たり前だ! 俺が四十五年、汗水たらして働いた金で!」
「いいえ、違います」
私は不動産登記の写しと、四十五年前の購入資金の出資書類を突きつけた。そこには、夫のプライドを粉々に破壊する、衝撃の事実が記されていた。
「正夫さん、あなたが自分の金だと言い張っていたこの家。本当の購入資金を出したのは、誰だったか覚えていますか?」
夫の口がパクパクと開いた。四十五年前、彼が「俺が買った」と豪語し、私を支配し続けるための武器にしてきたこの家の本当の持ち主。それは、彼が一生勝てないと思っていた、意外な人物だった。
「何をバカなことを! この家は俺が買ったんだ! 俺の城なんだよ!」
夫の声は裏返っていた。必死に体裁を繕おうとしているが、その顔は見る見るうちに土色に変わっていく。リビングに集まった親戚たちも、ざわざわと顔を見合わせた。
「おい、正夫。どういうことだ? お前、ずっと自分の稼ぎで一括で買ったと言っていたじゃないか」
「そうよ。だから、貞子さんに住ませてやってるんだから、感謝しろって言ったんでしょ?」
私はバッグの中から、黄ばんだ一冊の古い預金通帳と、公証書の写しを取り出した。四十五年前、この家を建てる際に交わされた、ある契約の記録。
「正夫さん、あなたは忘れてしまったのかしら。四十五年前、この土地を買い、家を建てるための頭金。当時の金額で千五百万円。そのお金を出したのは、私の父です」
私の言葉に、リビングが静まり返った。夫の口が金魚のようにパクパクと動く。
「な、何を! あの時、義父さんは『正夫君に任せる』と言って、俺に金を渡したんだ! つまり、それはお礼のようなものよ! 俺の金になったんだ!」
「いいえ。父はあなたを信じていましたが、バカではありませんでした。父は私に、万が一のことがあった時のために、『この資金は貞子の特有財産であり、住宅の持ち分もそれに準ずる』という一筆を、公証書で残していたんです。そして、その後のローンの支払い。あなたは『俺が払った』と言っていましたが、実際には、私が独身時代の貯金と、結婚後に内緒で働いた職人としての報酬を、あなたの口座に補填し続けていたんです」
私は四十五年分の入金記録を、親戚たちに回した。そこには、夫の給料日とは別の日、定期的に、私の旧姓義名義から振り込まれている住宅ローン補填の記録が、克明に記されていた。夫は自分の給料を、全て自分の遊びや見栄に使っていた。私は、彼が『家計が苦しい。俺の稼ぎだけじゃ足りない』と嘘をついて私を責める裏で、彼に知られないよう、自分の稼ぎを彼の口座に入れることで、必死に家計を支えてきたのだ。
「つまり、正夫。お前は、自分の金で家を買ったところか、奥さんの実家と奥さんの稼ぎに、四十五年もただ乗りしていたということか」
心臓さんが、氷のような冷たい声で夫を問い詰めた。杖が床を鳴らす音が、夫の心臓に突き刺さるように響く。
「ち、違う! 俺は働いていた! 毎日毎日、泥にまみれて! 貞子は家で遊んでいたんだ! 俺の金を盗んで、機械で証拠を偽造したんだよ! 加藤弁護士、何とか言え! こいつを詐欺で訴えろ!」
夫は自分の弁護士にすがりついた。しかし、加藤弁護士は、夫の汚れた手を冷たく払いのけた。
「正夫さん。先ほどから拝見していますが、この書類は全て本物です。役所の印鑑も、公証書の番号も、間違いない。残念ながら、法的に、この家の持ち分の八割以上は、貞子さんのものです。あなたが『俺の城』と呼んでいたこの場所で、本当に寄生虫だったのは、あなたの方ですね」
加藤弁護士の言葉は、夫のちっぽけなプライドに止めを刺した。夫はガクガクと膝を震わせ、そのままフローリングに崩れ落ちた。
「あああああ……」
口からは、言葉にならない悲鳴が漏れる。周囲の親戚たちの目は、もはや怒りを超えて、哀れみと困惑に満ちていた。四十五年間、彼らが立派な親族の代表だと信じてきた男。その正体は、妻の稼ぎを吸い取り、体裁を張って、身内さえも売ろうとした、寄生虫そのものだった。
「正夫。お前は、もうこの一族の恥だ。二度と俺たちの前に顔を出すな」
心臓さんが吐き捨てるように言うと、親戚たちは一人、また一人と、夫に背を向けて立ち上がった。
「貞子さん、今まで本当に申し訳なかった。こんな男に騙されて、あなたに冷たくしてしまったこと、恥ずかしい限りだ」
親戚たちが次々と私に頭を下げる。私はただ、静かに頷いた。夫は、床にうつ伏せたまま、去っていく親戚たちの足音を、ただ聞いていた。自分が支配していたはずの世界が、音を立てて崩れ去っていく。自分が誰よりも偉いと信じていた場所が、自分を拒絶する地獄へと変わっていく。
しかし、私の復讐はこれで終わりではなかった。絶望に打ちひしがれる夫に向かって、私は最後の一撃を放った。
「正夫さん。あなたが一番大切にしていた、お金の話も、まだ終わっていないのよ」
夫は、虚ろな目で私を見上げた。
「なんだ、まだ何かあるのか? 俺から何を奪うつもりだ?」
「奪う? 違うわ。私はただ、あなたが私に押し付けようとしたものを、あるべき場所へお返しするだけよ」
私はバッグから、最後の一枚の書類――夫の本当の負債に関する通知を取り出した。それは、夫が私に隠して進めていた、さらに恐ろしい切り札の全貌を暴くものだった。夫が私の名前を無断で使って契約していた五千万円の保証人。実は、それだけではなかったのだ。
夫の顔が恐怖で引きつった。彼が一番触れられたくない最大の秘密。それが今、親族監視の中で暴かれてようとしていた。
「や、やめろ、貞子! それだけは、みんなの前で言わないでくれ!」
夫が這いずりながら、私の足元にすがってきた。でも、私はその手を冷たく振り払った。
「四十五年、あなたが私にしてきたことに比べれば、これでもまだ生ぬるいくらいよ。さあ、正夫さん。あなたが一番恐れていた、本当の正体の時間です」
「やめろ! 貞子! 頼む! それだけは! それだけは勘弁してくれ!」
床を這いずり、私の足元にしがみつく夫。その姿には、かつての威張り散らした面影など、微塵もなかった。脂汗で顔は水を垂らしながら、必死に私の慈悲を乞う姿は、ただただ滑稽だった。
親戚たちは足を止め、嘲笑うように夫を見下ろした。
「おい、正夫。何をそんなに怯えているんだ? 借金や横領の他にも、まだ何か隠しているのか?」
私は最後の一枚の書類を、リビングのテーブルに叩きつけるように置いた。そこには、ある病院の名前と、膨大な治療費の請求明細が記されていた。
「正夫さん。あなたが親戚の皆様から投資資金として集めていたお金。そして私の屋号をお担保に、闇金から借りたお金。その使い道は、女遊びだけではありませんでしたよね」
リビングに緊張が走った。夫は顔を伏せ、獣のような悲鳴を上げていた。
「皆様、正夫さんは、自分のプライドを守るために、とんでもない嘘をつき続けていました。彼は五年前から、ある不治の病を患っています。でも、彼はそれを認めようとしなかった。病気で衰えていく自分、働けなくなる自分、周囲に同情される自分。それが、彼の肥大化したプライドには耐えられなかったんです」
「不治の病? 正夫が病気だなんて、聞いていないぞ」
心臓さんが驚いて口を挟んだ。
「彼は、最高の医療をこっそり受けるために、莫大なお金を注ぎ込んでいました。海外の未承認薬や、超高級な自由診療のクリニック。それも全て、自分を強く見せ続けるために。そして、その費用を捻出するために、彼は会社の経費を横領し、身内を騙し、私を道具にしたんです。自分が病気であることを隠すために、健康そのものの私を『精神を病んだ女』にして、周囲から孤立させた。それが、あなたの本当の狙いだったんでしょう」
夫は震える手で顔を覆い、嗚咽を漏らした。
「俺は……俺は負けたくなかったんだ! 誰にも、お前にも、会社にも、親戚連中にも! 俺は、いつでも完璧で、強くて、みんなを引っ張る男でなきゃいけなかったんだ!」
「その『完璧さ』のために、あなたは周りを全て破壊したのよ。娘の将来も、親戚の信頼も、私の四十五年も」
私は夫の前に、医療ローンの残債通知を突きつけた。その額、およそ二千万円。さらに、闇金からの借金、会社への損害賠償。総額は、優に一億円を超えていた。
「この負債。あなたは、私が連帯保証人になっているから、離婚しても私から取り立てればいいと思っていたんでしょう。だから、私を『無能なババア』扱いして、自尊心を失わせ、家の中に閉じ込めておきたかった」
「うっ……」
「あ、でも、残念でした。あなたが契約したその医療ローンも、保証人契約も、全て無効です。なぜなら、あなたが診断書を偽造し、私の名前を勝手に使ったことは、すでに島田先生が病院側の内部調査と連携して、証拠を掴んでいます。病院側も、あなたの脅迫的な態度に困り果てていたようですよ」
夫の逃げ道は、完全に、そして永久に塞がれた。彼は、自分が一生かかっても返せないほどの莫大な借金。そして、治療を続けなければ命に関わるという残酷な現実。さらには、誰一人として味方がいないという究極の孤独。その中に、一人取り残された。
「お前という人間は……」
心臓さんは、もはや怒る気力さえ失ったようで、深くため息をついた。
「連れて行ってください」
私の合図で、控えていた警官たちが、夫の両脇を抱えた。
「話せ! 話してくれ! 俺は病気なんだぞ! 治療が必要なんだ! 貞子! お前が払え! 夫婦だろう! 助けるのが当たり前だろうが!」
連行される間際まで、夫は自分勝手な理屈を喚いていた。しかし、その声に耳を貸す者は、もう誰もいなかった。
夫が警察車両に乗せられ、家の前から消えていった後、静まり返ったリビングで、私は一人、深く、深く深呼吸をした。四十五年。灰色のエプロン。一円単位の支出表。罵声。無視。それらがようやく、本当の意味で終わったのだと感じた。
娘の美紀が、私の隣に来て、そっと手を握ってくれた。
「お母さん、本当にごめん。今まで、お母さんが一人でこんなものと戦っていたなんて、知らなくて……」
「いいのよ、美紀。これからは、もう大丈夫」
私は美紀の肩を抱き寄せた。でも、逆転劇の最高潮は、ここからだった。夫がいなくなった後のこの家。そして、私が四十五年間隠し続けてきた、もう一つの大きな収穫。夫が私の名前を無断で使って貯めていたあの隠し口座。実は、その中には、夫さえも把握しきれていなかった、驚愕の金額が眠っていたのだ。それは、彼がケチってケチって、私の人生を削って溜め込んだ、ある意味では、私の四十五年分の慰謝料とも言える財産だった。
夫が刑務所の冷たい床で知ることになる、自分の一番の愚策。それが、まもなく明かされる。
夫が警察に連行されてから数日後、私は島田先生の事務所で、改めて自分の財産の全貌を確認していた。テーブルの上に並べられたのは、夫が私の名前を無断で使用して作っていたあの隠し口座の数々。彼はこれらを『自分の逃げ金』だと思っていた。税務署の目を欺き、会社からの横領金を隠すための避難先。彼は、私が通帳の存在を知らないことをいいことに、長年ここにお金を注ぎ込んできた。
「貞子さん、驚くべき結果が出ました」
島田先生が眼鏡の位置を指で押し上げながら、一通の報告書を差し出した。
「正夫さんがあなたの名義で溜め込んでいた金額。そして、彼が忘れていた古い投資信託の評価額。さらに、そこに、あなたが四十五年間、職人として稼ぎ、密かに同じ名義で積み立ててきた報酬。これらを全て合算すると、総額は一億二千万円を超えています」
私はその数字を見て、一瞬、呼吸を忘れそうになった。一億二千万円。法廷的には、名義が私である以上、これらは全て私の特有財産、あるいは分与されるべき財産となる。夫はこれを自分のものだと思うが、それを認めれば、彼は自分がやってきた脱税と横領を自白することになる。彼は、法廷的に手出しができない袋小路に、自分を追い込んだのだ。
私は窓の外を眺めた。四十五年前、一円、五円を惜しんで夫の機嫌を窺いながら生きてきた日々。「お前は寄生虫だ。俺の金で生かしてやってるんだ」――その言葉を浴びせられ、灰色のエプロンを着て、暗いキッチンで俯いていた私の姿。あの時の私が、今のこの数字を見たら、一体何と思うだろうか。
「正夫さんは、今、何を考えているかしら。おそらく、まだ『自分には隠し財産があるから、出所すればなんとかなる』と信じているはずです」
「加藤弁護士から、彼が面会室でそう豪語していたと聞きました」
私は冷たい微笑みを浮かべた。夫はまだ知らない。彼が『俺の城』と呼んでいたあの家が、すでに私の父からの援助と、私のローンの肩代わりによって、私の持ち物になっていることも。そして、彼が『俺の金』と信じて疑わない口座が、一円残らず私の支配下にあることも。
夫が一番恐れていたのは、お金を失うことではない。自分がバカにされること。自分が支配していた相手に逆転されること。だから、私は彼に、最高の絶望を味わってもらうことにした。
一週間後、私は島田先生を通じて、夫に一通の手紙とある書類を送った。それは、離婚届の受理証明書と、夫が最も知りたくなかった真実の家計簿だった。ここには、夫が私を罵倒し続けていた四十五年間の裏で、私がどれほどの金額を稼ぎ、どれほど彼を経済的に養ってきたかが、一秒の狂いもなく記されていた。
拘置所の面会室で、夫はその書類を読み、泡を吹いて倒れたそうだ。
「嘘だ……嘘だ! あのババアが、俺よりも稼いでいただと?! 俺が! 俺が養われていたというのか!」
夫の叫び声は、コンクリートの壁に虚しく響いていたという。そして、逆転は、いよいよカタルシスの頂点へと向かう。家を失い、財産を失い、家族を失った夫。彼に最後に残されたのは、自分が一番嫌っていたあの場所――刑務所での生活だった。一方で、私は美紀と一緒に、ある夢を実現させるための準備を始めていた。
夫の裁判は、親戚中、そして彼の会社の関係者が傍聴席を埋め尽くす中で行われた。被告席に座る夫は、以前の面影が全くないほど痩せ、何度も力なく首を振っていた。
判決は、懲役三年の実刑判決。会社の横領、私文書偽造、そして身内を巻き込んだ詐欺行為。酌量の余地は、一ミリもなかった。
「被告人は、長年に渡り配偶者の人格を否定し、その経済的基盤を搾取し続けてきた。その態度は卑劣であり、反省の色も見られない」
裁判官の厳しい言葉が法廷に響き渡った瞬間、傍聴席からは、小さなだが確かな拍手が起こった。夫はその拍手に怯えるように背中を丸め、ずるずると椅子から崩れ落ちた。
閉廷後、私は島田先生と共に、刑務所への移送を待つ夫と、最後の面会を行った。アクリル板越しに座った夫は、震える手で何度も顔を拭い、私を睨みつけた。
「貞子……お前、満足か? 俺をこんな場所に入れて、家も金も全部奪って。お前さえ、お前さえ黙って俺に従っていれば、こんなことにはならなかったんだ!」
夫はまだ、自分の罪を認めようとはしなかった。自分こそが被害者だ。裏切られたのは自分だ――と言わんばかりの様相だった。私はバッグから、一冊の通帳と、あるパンフレットを取り出した。
「正夫さん。あなたが一番知りたかった、『この家の行方』を教えてあげるわ」
「い、いえ? 俺の家をどうしたんだ? まさか、勝手に売り払ったのか?」
「いいえ、売ってないわ。あの家は、来月から、DVやモラハラで苦しむ女性たちのためのシェルターとして解放することにしたの。あなたの会社の社長さんや、心臓さんも協力してくださってね」
夫の顔が、怒りと驚愕で真っ赤に茹で上がった。
「なんだと?! 俺の城を、そんな出来損ないの女どものたまり場にするだと?! ふざけるな! 汚れるだろうが、俺の家が!」
「汚しているのは、あなたの方だったのよ。それとね、正夫さん。あなたが『俺の隠し口座』だと信じていたあのお金。裁判所の命令で、全額、被害にあった親戚たちへの返済と、あなたが横領した会社への賠償金に当てられることになったわ」
「そ、そんな! あれは俺の金だ! 俺がケチって貯めた金だぞ!」
「いいえ。名義は私のもの。そして、元手があなたの不正蓄財である以上、それは没収されるのが当然なのよ。結局ね、正夫さん。あなたは、四十五年間、誰一人として自分の力で幸せにできなかったばかりか、自分の逃げ道さえも、自分の悪業で塞いでしまったのよ」
私はアクリル板に、そっと手を添えた。
「四十五年前、私はあなたと一緒に、幸せな家庭を築きたかった。だから、あなたの暴言にも耐え、あなたの借金も、内緒で肩代わりしてきた。でも、あなたはそれを『俺の力』だと勘違いし、私を『寄生虫』と呼び続けた。本当に寄生虫だったのは、どっちだったのかしらね」
夫は何も言い返せず、ただ口をパクパクと動かした。自分のプライドの象徴だった家が、自分が最も軽蔑していた女たちの救いの場になる。自分の金が、自分が騙した親戚たちの懐に帰っていく。そのアイロニーこそが、彼にとって最大の刑罰だった。
「正夫さん。あなたはこれから、一生かかっても返しきれない負債を背負って生きていくことになる。でも、心配しないで。刑務所の中なら、一円の無駄遣いもしなくて済むわよ。あなたが一番望んでいた生活じゃないかしら」
「貞子! 貞子ーー!」
夫の絶叫が面会室に響き渡った。彼は刑務官に引きずられるようにして連れて行かれた。その背中は小さく、惨めで、かつて私を支配していた面影は、もうどこにもなかった。
私は島田先生と共に、警察署の外へ出た。外は、抜けるような青空が広がっていた。私は、四十五年間ずっと、空を眺めることさえ忘れていたことに、今更ながら気づいた。
「貞子さん、本当にお疲れ様でした」
島田先生の言葉に、私は深くお辞儀をした。
「先生、ありがとうございました。私、これからは、自分の名前で、自分の足で歩いていけそうです」
その日の夕方、私は美紀と一緒に、新しい工房の物件を見に行った。そこは、あのどんよりとした家とは違う、明るい光が差し込む、小さな、でも温かな空間。私の本当の人生は、ここから鮮やかに色づき始める。
夫が刑務所へ入ってから、一年が過ぎた。私の生活は、あの日々が嘘だったかのように、穏やかで光に満ちたものに変わった。新しく構えた小さな工房には、毎日、全国各地から大切な着物を直してほしいという依頼が届く。中には、代々受け継がれてきた思い出の詰まった振袖や、亡くなったお母様の形見という古い羽織りもある。一枚一枚、心を込めて針を通すたび、私は自分の人生もまた、こうして少しずつ縫い直されているような、そんな気がしている。
「お母さん、お茶が入ったわよ。少し休みましょう」
工房の奥から、美紀の声が響く。美紀は今、私の仕事を手伝いながら、伝統的な修繕の技術を学び始めている。かつて夫の嘘に惑わされ、一度は私を拒絶した美紀でも、今は誰よりも私の良き理解者であり、相棒だ。
「ありがとう、美紀。ふう、今回は手ごわかったけれど、ようやく息を吹き返したわ」
私が手掛けた着物は、窓から差し込む午後の光を浴びて、しなやかな輝きを放っていた。かつて私が着ていた、あの汚れの落ちないグレーのエプロンとは正反対の、鮮やかな色。
「お母さん、本当にかっこいいわ。私、お父さんの顔色を窺って、お母さんが苦しんでいるのを見て見ぬふりしていたこと、一生忘れない。だから、これからはお母さんの背中を見て、私も強くなるわ」
美紀の言葉に、私は静かに微笑んだ。過去を悔むのではなく、その痛みを抱えたまま前を向いて歩く。それが、私たち親子が出した答えだった。
一方、あの正夫さんの城だった家は、今、新しい名前で呼ばれている――「陽の家」。そこには、かつての私のように、経済的、精神的な支配に苦しんでいた女性たちが、一時の安らぎを求めて身を寄せている。私は月に一度、その場所を訪れる。そこで、彼女たちと一緒にご飯を作り、取り止めのない話をする。
「一円をケチるよりも、一言の『ありがとう』の方が、ずっと人生を豊かにするのよ」
私のそんな言葉に、彼女たちは涙を流しながら頷いてくれる。夫が守ろうとした体裁や壁を全て取り払ったその家には、今、温かな笑い声が絶えない。
さて、夫は今、どうしているだろうか。島田先生から届く報告によると、彼は獄中で、相変わらず一円の誤差にこだわっているそうだ。配給される食事の量を隣の囚人と比べたり、支給される費用品の数を数えたりしているらしい。自分の人生を破滅させた元凶が、他でもない自分の心の貧しさであったことに、彼はまだ気づいていないのかもしれない。でも、皮肉なことに、彼は今、人生で一番望んでいた場所にいる。一円の無駄遣いも許されず、厳格なスケジュールで管理され、他人を自分の思い通りに動かすこともできない、徹底的に無駄のない世界。そこには、彼の好んでいた贅沢も、見栄を張る相手も、そして何より、彼を無償の愛で支えていた妻の姿もない。それが、四十五年間の献身を恥と切り捨てた男に、神様が与えた最後の答えなのだと思う。
夕暮れ、私は工房の仕事を切り上げ、一人で海辺の公園を散歩するのが日課になった。潮風が頬を撫で、空が金色から深い色へと変わっていく。四十五年間、私はこの空がこんなにも広いことを知らなかった。
明日、何を食べようか。どんな色の着物を縫おうか。どこへ旅に出ようか。そんな当たり前の自由が、これほどまでに愛しいものだとは思わなかった。
「貞子さん、こんにちは。今日もお散歩ですか?」
近所の奥様たちが、笑顔で声をかけてくれる。
「はい。いいお天気ですから」
私は笑顔で答えた。今の私は、夫の妻でも、誰かの影でもない。着物修繕の名工、貞子として。一人の人間として、ここに立っている。人生は何歳からでもやり直せる。どんなに深い傷を負っても、一針一針、丁寧に縫っていけば、必ず新しい模様を描き出すことができる。
もし今、この物語を聞いている人の中に、自分を無価値だと思い込んでいる人がいたら、伝えたい。あなたを縛っている鎖の鍵は、実は、あなた自身の手の中にある。勇気を出して、一歩踏み出してみて。その先には、あなたが想像もしなかったような、美しく輝く世界が待っているはずだから。
私は、もう二度と、あのグレーのエプロンを着ることはない。これからは、自分自身で選んだ、一番好きな色の糸で、私の人生を紡いでいこうと思う。


