私の孫・シ太は、ハワイの最高級ホテルで結婚式を挙げるはずだった。式の数時間前、純白のタキシードに身を包んだ彼の前に、新婦の両親が現れてこう言い放った。「身のほど知れ。お前のような貧乏人の孫に、うちの娘はもったいない」。…

私の孫・シ太は、ハワイの最高級ホテルで結婚式を挙げるはずだった。式の数時間前、純白のタキシードに身を包んだ彼の前に、新婦の両親が現れてこう言い放った。「身のほど知れ。お前のような貧乏人の孫に、うちの娘はもったいない」。...

「身のほど知れ。お前のような貧乏人の孫に、うちの娘はもったいないんだよ」
抜けるような青空が広がるハワイ。穏やかな波の音が聞こえる最高級ホテルのラウンジで、私の耳に飛び込んできたのは、あまりにも残酷な言葉でした。
つい数分前まで、そこには幸せの絶頂にいるはずの風景がありました。純白のタキシードに身を包んだ私の孫のシ太。彼は今日、最愛の女性であるカノンさんと、この美しい島で愛を誓うはずだったのです。
しかし、目の前の現実はあまりにも非情でした。
「どういうことですか?カノンは?カノンはどうしたんですか?」
震える声で問いかけるシ太の前に立ちはだかっているのは、神父の父・マサオ。そして勝ち誇ったような笑みを浮かべる、神父の母・ミツコです。
「カノンなら、もうここにはいないわよ。今頃、もっとふさわしいお相手と別の場所でシャンパンでも開けているんじゃないかしら」
ミツコは高価なブランドバッグを抱え直し、汚いものを見るような目でシ太を見下しました。
私は壁の影で、その光景を呆然と見つめることしかできませんでした。心臓が早鐘を打ち、全身の血が逆流するような怒りと悲しみが込み上げてきます。
数ヶ月前、シ太から「結婚したい人がいるんだ」と紹介された時、私は心から喜びました。若くして両親を事故で亡くし、私一人の手で育ててきたシ太。彼は私の背中を見て育ち、誰よりも優しく真面目な青年に成長してくれました。彼が選んだカノンさんも、最初はとても控えめで可愛らしいお嬢さんに見えたのです。
「おばあ様、シ太さんを大切にします」
そう言って微笑んでいた彼女の姿は、一体どこへ行ってしまったのでしょうか?
「キャンセル料?そんなもの、そっちで全部持ちなさいよ。大体、このハワイ旅行だって、あんたたちが無理して背伸びした結果でしょう。うちみたいなメ下と親戚になれると思って、必死に貯金を叩いたのかしら」
マサオが吐き捨てるように言いました。
彼らは自称・不動産業を営む一族だそうです。シ太が地元の工務店で働く普通の若者だと知るや、顔合わせの時から何かと高圧的な態度を取ってきました。
しかしシ太は耐えていました。「カノンを愛しているから、彼女の両親ともいつか分かり合えるはずだ」と。そう言って彼は泥臭く働き、このハワイでの結婚式のために必死に資金を準備してきたのです。
「もう一度言います。カノンはどこですか?彼女の口から聞かない限り、僕は信じない」
シ太の悲痛な叫びが、豪華なラウンジに虚しく響き渡ります。その姿はあまりにも痛々しく、見ていられませんでした。タキシードの袖をギュッと握りしめ、涙を堪えて立ち尽くすシ太。その肩は小さく震えています。彼の純粋な思いが、土足で踏みにじられた瞬間でした。
「しつこいわね。身のほどを弁えなさい。あんたたちみたいな下層階級が、私たち田中家と関われると思ったのが間違いなのよ。今回のキャンセルは、私たちからの最終宣告。二度と連絡してこないでちょうだい」
マサオはそう言い捨てると、傍らにいたホテルのスタッフに冷たく命じました。
「おい、こいつらをさっさと追い出せ。不快だ」
しかし、ホテルのスタッフは困惑した表情で、私の方をちらりと見ました。
そうです。この時、田中夫妻はまだ何も知らなかったのです。彼らが「貧乏人の老婆」と下げずみ無視し続けていた私、山下セツコの正体を。そして、このハワイの名門ホテルを含め、彼らが取引先として必死に媚を売っている巨大企業グループの頂点に君臨しているのが誰であるかということを。
私はゆっくりと、震える手でスマートフォンを取り出しました。怒りで指先が熱くなっていました。シ太の流した涙の一滴一滴を、「後悔」という名の毒液に変えて、奴らに飲ませてやる。そう決意したのです。
「もしもし。私です。秘書室につないでちょうだい。それと、田中不動産の全取引を、今この瞬間から完全に停止させなさい」
私の声は、自分でも驚くほど静かで、氷のように冷たいものでした。地獄の門が開く音が、私には確かに聞こえました。
でも、物語はまだ始まったばかり。これから彼らが味わう絶望は、こんなものでは済まないのです。

シ太、もういいのよ。立派だったわ。あなたの姿は。
私は愛する孫の肩を抱くために、ゆっくりと歩き出しました。逆転の歯車が、音を立てて回り始めたのです。
果たして、この後、田中家を待ち受ける結末とは。

ハワイの爽やかな風が、かえって残酷に感じられる午後でした。私の隣で、シ太はまだ立ち尽くしていました。真っ白なタキシード。それは彼が何日も残業をし、大好きな趣味も全て我慢して、ようやく手に入れた覚悟の象徴でした。
「おばあちゃん、ごめん。僕のせいで、せっかくのハワイがこんなことになっちゃって」
自分の一番の晴れ舞台を壊されたというのに、この子はまだ私のことを気遣っているのです。私は胸が締めつけられる思いで、彼の冷たくなった手を握りしめました。
「謝ることなんて、何一つないわよ。シ太、あなたは本当に立派にやってきたんだから」
私の頭の中には、これまでの数年間の光景が走馬灯のように駆け巡っていました。
シ太は幼い頃に両親を亡くし、私の手一つで育て上げました。私は彼を甘やかすつもりはありませんでした。自分の力で道を切り開く喜びを知って欲しくて、あえて質素な暮らしを心がけてきたのです。
「おばあちゃん、俺、立派な職人になるよ。自分の腕で誰かを幸せにする家を建てるんだ」
そう言って彼は地元の工務店に就職し、毎日泥にまみれて働いてきました。真っ黒に日焼けした顔で嬉しそうに、その日の仕事ぶりを語るシ太。私は誇りに思っていました。
そんな彼が連れてきたのが、カノンさんでした。
「初めまして。田中カノンです。シ太さんからは、いつもおばあ様のお話を伺っています」
初めて会った時の彼女は、実に穏やかで、育ちの良さを感じさせる女性でした。シ太が「この人しかいないんだ」と目を輝かせて語るのも無理はないと、私も安心していたのです。
しかし、その背後にいる両親・田中マサオとミツコの本性は、顔合わせの席ですぐに露呈しました。
「あら、そのお召し物。失礼ですけど、どちらの百貨店でお買い求めになったのかしら。うちの主人、生地屋にはうるさいものですから。なんだか安っぽい下品な匂いがして不快だわ」
ミツコは私の着ていた着物を一瞥して、鼻で笑いました。それは私が長年大切にしてきた、亡き夫との思い出の品だったのですが、彼女たちに言わせれば「陰謀人の古着」にしか見えなかったのでしょう。
「まあまあ、ミツコ。山下さんは一人で孫を育ててこられたんだ。贅沢なんて言葉とは無縁の生活をしてきたんだろうよ。シ太君も、工務店の職人だったっけ?まあ、肉体労働者にしては言葉遣いだけは丁寧な方かな」
マサオもワイングラスを傾けながら、見下すような視線を隠そうともしませんでした。
それでもシ太は笑って耐えていたのです。
「カノンさんのご両親は、彼女のことを本当に大切に思っていらっしゃるんだ。僕みたいな若造に娘を預けるのが不安なのは当然だよ。だから僕がもっと頑張って、信頼してもらえるようにならないと」
彼は田中家から出された無理難題も全て受け入れました。
「結婚式はハワイの最高級ホテルで。当然、費用は新郎側が全額負担。私たちの親族の宿泊費や祝儀代も全て出しなさい。それがお嬢様を嫁にもらう誠意というものでしょう」
そんなミツコの要求は、若手職人の貯金で賄える額ではありません。それでもシ太は朝から晩まで現場で働き、週末は別のアルバイトまでして、必死に資金を貯めました。
「カノンに最高の景色を見せてあげたいんだ」
そう言って休むことなく働く彼の背中を、私は何度見てきたことか。
一方、私・山下セツコは、彼らにはただの年金暮らしの老婆として接してきました。
実は、私は日本でも指折りの規模を誇る総合企業・山下ホールディングスの創業者であり、名誉会長です。夫と共に裸一貫から立ち上げた会社は、今や建設、不動産、ホテル事業と幅広く展開し、世界にも大きな影響力を持っています。
しかし、私はシ太が成人するまで、自分の地位や財産を彼に詳しく話すことはしませんでした。
「おばあちゃんは、昔からの古い友達がやってる会社の相談役みたいなことをしてるのよ」
そう説明して、私は引退後の静かな生活を楽しんでいました。シ太には、お金の力ではなく自分の力で人生を歩んで欲しかったからです。
ところが、その私の沈黙が、田中家の傲慢さを増長させてしまったようです。

「おい、いつまでそこに突っ立ってるんだ。見苦しいな。おい、ホテルマン。こいつら、宿泊客じゃないんだ。さっさと表へ放り出せと言ってるのが聞こえないのか」
マサオの怒声が、静かなラウンジに再び響きました。
彼は知らないのです。このハワイの最高級ホテルが、山下グループが提携しているグローバルチェーンの一部であり、私が最も信頼している知人がオーナーを務めているということ。そして、田中家が経営している田中不動産が、実は山下グループ傘下の建設会社から回ってくる下請け仕事でかろうじて食いつないでいる、零細企業に過ぎないということを。
「シ太、もう十分よ」
私は愛する孫の震える肩を抱き寄せました。
「おばあちゃん、あなたが今までどれだけ努力してきたか、私は全部知っているわ。だからもう自分を責めるのはやめなさい。これからはおばあちゃんの番」
私はバッグの中から、普段は決して持ち歩かない特別なカードを取り出しました。それは山下グループのトップである証。田中夫妻は、私の手元にあるそのカードの重みを、まだ微塵も理解していませんでした。
「山下さん、何よそのカード。ポイントカードでも見せびらかすつもり?ねえ、ハワイまで来て何も買えずに帰るなんて」
ミツコがゲラゲラと下品な笑い声をあげました。しかし、その笑い声は数分後には絶望の悲鳴へと変わることになるのです。
私はホテルマンに一歩近づきました。彼は私の顔を見るなり、目を見開き、直立不動の姿勢を取りました。
「ま、まさか、あなたは…」
「彼らに少しお話があるの。静かな場所を用意してくれるかしら」
私の声は、南国の太陽の下でも凍りつくように冷たく響きました。

ホテルのラウンジは、南国の楽園を象徴するような優雅なBGMが流れています。しかし、私たちの周りだけは、凍りつくような殺伐とした空気に支配されていました。
「おばあちゃん、もう行こう。ここにいても悲しくなるだけだよ」
シ太が私の袖を弱々しく引きました。彼の顔は青白く、愛する人に裏切られた衝撃で今にも崩れ落ちそうです。
しかし、神父の両親である田中夫妻は、そんな彼の様子を嘲笑うかのように眺めていました。
「そうよ。さっさと連れて帰ってちょうだい。タキシードなんて着ちゃって、背伸びしすぎなのよ。鏡を見たことあるのかしら。土足でうちのお嬢様に触れるなんて、そもそもおこがましいのよ」
ミツコが扇子で顔を仰ぎながら吐き捨てるように言いました。彼女の首元には、これ見よがしに大粒の真珠のネックレスが光っています。おそらく、顔合わせの際に「カノンさんのご両親に喜んで欲しいから」と身を削って送った高級品でしょう。それを身につけながら、彼をゴミのように扱うその神経が、私には到底理解できませんでした。
「おばあちゃんの持ってるそのカード、何かの見間違いじゃないの?ホテルのスタッフも、老人をいたわるふりをしてるだけよねえ」
マサオがホテルのスタッフに同意を求めました。しかし、カードを預かったスタッフは顔面蒼白のまま、小刻みに震えています。彼は何度もカードと私の顔を交互に見て、何かを言いかけましたが、喉の奥に言葉が詰まっているようでした。
「どうしたんだ?おい、さっさとその貧乏人を追い出せと言っているんだ」
マサオが苛立ったようにスタッフの肩を突き飛ばしました。
「いい加減にしてください!」
それまで沈黙を守っていたシ太が、ついに声を荒げました。
「僕のことはどう言っても構いません。でも、おばあちゃんまでバカにするのはやめてください。彼女は僕を立派に育ててくれた、大切な家族なんです」
「熱いわねえ。でもね、シ太君。世の中は、情熱や愛情だけでは立っていけるほど甘くないの。カノンもね、最初はあなたの真っ直ぐなところに惹かれたのかもしれないけれど、結局は現実を見たのよ。これから先、工務店の作業員と結婚して一生汗水垂らして節約生活を送るなんて、あの子には耐えられるはずがないじゃない」
ミツコの言葉に、シ太の目から一粒の涙がこぼれ落ちました。
「カノンは…カノンは、本当にそう言ったんですか?僕との生活は耐えられないって」
「ええ、そうよ。今朝、あの子は泣きながら言ったわ。『お父様、お母様、私、やっぱりあんな貧乏な家に行くのは嫌。もっとキラキラした世界で生きたいの』ってね。だから、今のあの子はもう、あなたなんか見ていないわ」
マサオがさらに追い打ちをかけます。
「実はね、今日の結婚式に合わせて、もっとふさわしいお相手をこちらで用意したんだ。都内で有名な病院の御曹司の息子さんだよ。彼は今、カノンと一緒にホテルのスイートルームでシャンパンを楽しんでいるはずだ。君へのキャンセルは、あの子自身の決意でもあるんだよ」
その瞬間、シ太の膝がガクッと折れました。信じていた女性の裏切り。それが一番残酷な形で突きつけられたのです。
私は崩れ落ちそうになる彼を、しっかりと支えました。私の心の中では、これまで感じたことのないほど冷たく鋭い怒りが結晶化していくのが分かりました。
「そうですか。カノンさんも、それを承知の上で」
私はようやく口を開きました。その声は低く、そして静かでした。
「あら、やっと現実を理解したかしら。そうよ。山下さん、あなたたちが一生かかっても手に入らないような富と名誉が、私たちの世界にはあるの。あなたたちみたいな一般人は、身の程にあった生活をしていればいいのよ。いつまでそこにいるつもり?営業妨害で警察を呼んでもいいのよ」
ミツコは勝ち誇ったように笑いました。
しかし、私は彼女の言葉を無視して、まだ震えているホテルのスタッフに視線を戻しました。
「支配人はどこにいますか?」
「わ、はい、ただちに呼んでまいります。申し訳ございません。少々お待ちください」
スタッフはダッとばかりに奥の事務室へと走っていきました。
「わははは、支配人を呼んでどうするんだ?謝罪でも求めるつもりか?貧乏人のプライドっていうのは、本当に見苦しいな」
マサオは腹を抱えて笑っています。
「ミツコ、せっかくだから、この老婆が泣いて許しを乞う姿をビデオに撮っておけよ。あとでカノンに見せてやろう。きっといい酒の肴になる」
「いいわね。それ、最高にスカッとするわ」
二人はスマートフォンを取り出し、私たちにカメラを向けました。
私は何も言いませんでした。ただじっと、彼らの顔を見つめていました。この後、自分たちがどのような地獄に足を踏み入れることになるのか、一秒先のことすら想像できない愚かな人間たちの顔を。
シ太は顔を覆って泣いていました。しかし、彼の涙はこれが最後になるでしょう。

やがて、ホテルの奥から、見るからに高級なスーツに身を包んだ恰幅の良い男性が、走りながら慌ててやってきました。このホテルの総支配人、ヘンリー・スミスです。
「セツコ・ヤマシタ様!これは一体どういうことでしょうか?」
ヘンリーは田中夫妻の前を素通りし、私の前で深々と頭を下げました。その角度は、まさに主君に対する礼儀そのものでした。
田中夫妻の笑い声が、ぴたりと止まりました。
「い、いや、総支配人なんで、このばあさんに頭を下げてるんだ」
マサオの声が裏返りました。
私はヘンリーを見つめ、静かに、しかし厳然として告げました。
「ヘンリー、お久しぶりね。ところで、このホテルのロビーでは、宿泊客でもない人間が大切なゲストを侮辱し、撮影することが許されているのかしら?」
「とんでもございません!山下様、すぐに、すぐに対処いたします」
ヘンリーの額からは、滝のような汗が流れ落ちていました。
田中夫妻の顔が、急速に引きつり始めました。
「山下様…?おい、ミツコ、どういうことだ?この老婆は、ただの『山下』とかいう年金暮らしじゃないのか?」
「わ、私に聞かないでよ。でも、総支配人があんなに怯えるなんて…」
私はヘンリーに預けていたカードを受け取りました。
「この方たちは、私の孫の結婚をキャンセルするとおっしゃったわ。そして、このホテルのスイートルームで別の男性とパーティーをしているとか。ヘンリー、このホテルの規約では、マナーに反する宿泊客を即刻退去させる権利があったはずよね」
「もちろんでございます。山下様のご意向であれば、即刻執行いたします」
ヘンリーはそう言うと、鋭い目つきで田中夫妻を睨みつけました。
「おい待て!私たちはここの上顧客だぞ。田中不動産の社長だ。山下グループの関連会社とも取引があるんだぞ!」
マサオが必死に叫びました。
私は、そんな彼にゆっくりと近づき、耳元で囁きました。
「田中さん、その山下グループの会長が誰か、ご存知かしら?」
マサオの目が、これ以上ないほど大きく見開かれました。彼の顔から、さっきまでの余裕が潮が引くように消えていきました。しかし、それは恐怖というよりも、信じられないものを見た時の拒絶に近い反応でした。
「いや、山下グループの会長だと?バカバカしい。山下グループといえば、日本を代表する巨大企業だぞ。そのトップが、こんな古臭い着物を着たばあさんなわけがないだろう」
マサオは震える指先で私を指差し、必死に自分に言い聞かせるように叫びました。隣にいるミツコも、引きつった笑いを浮かべて同調します。
「そうよ、あなた、騙されないで。きっとそのカードも、どこかの土産物屋で買ったおもちゃか何かなのよ。ほら、見てご覧なさいよ、この貧相な着物を。会長様が、こんな安い工務店の孫を育てるなんてありえないわ。嘘をつくなら、もっとマシな嘘をつきなさい」
彼女たちは、自分たちが信じたい現実を必死に守ろうとしていました。もし、私が本当にその人物であれば、自分たちが今までしてきた蛮行の数々が、取り返しのつかない破滅を招くことを、直感的に理解していたのでしょう。
私は何も言い返さず、ただ静かに二人を見つめていました。その沈黙が、逆に彼らの不安を煽ります。
「黙りなさい!!」
怒鳴ったのは、ホテルの総支配人ヘンリーでした。
「この方は、山下セツコ様。我がホテルグループの最重要株主であり、私が最も尊敬する大家だ。あなた方のような無礼な客に、これ以上神聖なロビーを汚させるわけにはいかない。今すぐ立ち去りなさい」
ヘンリーの厳しい一喝に、ロビーにいた他の観光客たちも何事かと足を止め、こちらに注目し始めました。
「な、なんだと…。本当に本物の会長なのか…」
マサオの膝が、目に見えて震え始めました。彼は不動産業を営む身として、山下グループという存在が、自分たちのような零細企業にとってどれほど巨大で逆らえない神のような存在であるかを、誰よりも熟知しているはずです。
しかし、ここで引き下がれば、自分の敗北を認めることになります。虚栄心だけで生きてきた彼は、さらに見苦しい言葉をシ太に浴びせ始めました。
「おい、シ太!お前、知っていたのか?自分のばあさんがこんな金持ちだってこと。卑怯だぞ!正体を隠して俺たちの娘に近づくなんて、金目当てだったのか。ああ、そうに違いない。山下グループの財産を一人占めにするために、うちのカノンを利用しようとしたんだ!」
あまりにも身勝手な言い分に、私は耳を疑いました。シ太自身も、事態が飲み込めない様子で、私と田中夫妻を交互に見つめています。
「おばあちゃん、本当に?僕は、おばあちゃんが普通の優しいおばあちゃんだとばかり…。それに金目当てなんて、そんなこと一度も思ったことないよ」
「うるさい!貧乏人のふりをして、人の善意を試すような真似。最低だわ!あなたたちが正体を隠していたせいで、私たちは顔に泥を塗られたのよ。どうしてくれるのよ!」
ミツコがキーキーと猿のような声をあげ、私の肩を掴もうと手を伸ばしてきました。
その時です。
「そこまでにしてください」
低く通る声が響きました。
現れたのは、仕立ての良いスーツを着こなした、30代後半ほどの男性でした。彼は、私の秘書として長年仕えてくれている佐藤です。彼は、私の指示を待たずとも、必要な手配を全て済ませて駆けつけてくれたようでした。
「会長、お待たせいたしました。日本との連絡、及び現地当局への確認、全て完了しております」
佐藤は私に一礼すると、冷徹な視線を田中夫妻に向けました。
「田中マサオさん。あなたが経営する田中不動産。現在、山下建設から受注している3つの大型プロジェクトについて、重大な契約違反の疑いがあるとの報告が上がっています」
マサオの顔が、青ざめるを通り越して真っ白になりました。
「契約違反?何のことだ?そんなはずはない!」
「いいえ。本来、山下グループが指定した高品質な資材を使うべきところを、安価な海外製の粗悪品に勝手に変更し、その差額を裏金として着服していたという証拠。今朝方、匿名の方から提供いただきました。現在、弊社の法務部が精査中ですが、ほぼ事実であると断定されています」
マサオの口が、金魚のようにパクパクと動きます。
「それから、ミツコさん。あなたが運営されているというセレクトショップ、あちらで扱っている一部のブランド品について、商標法違反、つまりコピー品の販売の疑いで、税務署と警察が動き出す準備をしているとのことです」
「な、何言ってるのよ!失礼しちゃうわ!」
ミツコは叫びましたが、その瞳は激しく泳いでいて、動揺が丸分かりでした。
「お二人とも、これまで山下グループの名前を虎の威を借るように利用し、甘い汁を吸ってきたようですが、その甘い夢は、強制終了の瞬間を持って終わりです」
佐藤が淡々と事実を突きつけるたびに、田中夫妻のプライドは音を立てて崩れ去っていきました。
しかし、私にとって彼らの会社の倒産など、些細なことに過ぎませんでした。一番許せなかったのは、彼らが「カノンさんは別の男性とスイートルームにいる」と言い放ったことです。シ太の心を最も深く傷つけた、あの言葉。
「佐藤、カノンさんはどこにいるの?」
私は静かに尋ねました。
「はい。現在、こちらのホテルの最上階、インペリアルスイートにいらっしゃいます。ご指摘の通り、都内の総合病院の御曹司、佐藤ケンイチ氏とご一緒です」
佐藤が告げたその名を聞いて、シ太の顔が絶望に染まりました。佐藤ケンイチ。それはシ太も知っている、地元の名家の息子でした。
「そんな…カノン、本当に…」
シ太は崩れ落ちるように膝をつきました。
私は愛する孫の背中に手を置きました。彼の震えが、私の手のひらを通じて伝わってきます。
「シ太、真実を確かめに行きましょう。自分の目で見て、自分の耳で聞かなければ、あなたは一生、この呪縛から逃れられない」
私は顔を上げ、ヘンリーと佐藤に命じました。
「二人をスイートルームまで案内してちょうだい。田中さん夫妻もご一緒に。娘さんの晴れ姿を、特等席で見せてあげましょう」
田中夫妻はもはや言葉を失い、ボロ雑巾のように力なく項垂れていました。
スイートルーム。そこには、さらなる衝撃の事実が待ち受けていることを、まだ誰も知りませんでした。

静まり返ったエレベーターの中で、階数を示す数字だけが無機質に上がっていきます。最上階、インペリアルスイート。そこは、このホテルで最も格式が高く、一晩の宿泊料だけで一般的なサラリーマンの年収が吹き飛ぶような、選ばれた者しか立つことのできない聖域です。
「ありえない…何かの間違いよ…」
ミツコが震える声で何度も呟いていました。彼女の目は血走り、完璧に整えられていたはずの夜巻きの髪が、少しずつ乱れ始めています。
「黙れ、ミツコ!山下さん…いや、山下会長!これはその、単なる行き違いでして!娘も、きっと何か事情があって…」
マサオは、さっきまでの傲慢な態度をどこへやら、私にすり寄ろうとしてきました。しかし、秘書の佐藤が鋼のような冷たさでそれを遮ります。
「お控えください。会長にこれ以上近づくことは許されません」
「チン」という電子音と共に扉が開きました。目の前に広がるのは、限りない青い海と空が溶け合う絶景のビューを誇る、豪華なリビングルーム。最高級のシャンパンの香りが、かすかに漂ってきました。
「あら、お父様、お母様。どうしたの?そんなに大勢連れて」
部屋の奥から現れたのは、真っ白なシルクのドレスをまとったカノンさんでした。彼女の手にはクリスタルグラスが握られています。そして、その傍らには、いかにも高級そうなスーツを着崩した若い男が、ソファに深く身を沈めていました。
「カノン…」
シ太が絞り出すような声で、彼女の名前を呼びました。
カノンさんは、タキシード姿のシ太を一瞥すると、露骨に嫌そうな顔をして鼻を鳴らしました。
「何よ、シ太さん?まだいたの。キャンセルの話、お父様から聞いたでしょう。もう終わったのよ。私たち。わざわざここまで追いかけてくるなんて、本当に未練がましいわね」
彼女の口から出たのは、かつての清楚でお淑やかな面影を微塵も感じさせない、冷酷な言葉でした。
「どうして…昨日まで、あんなに仲良く準備してたじゃないか。ハワイに来るの、あんなに楽しみにして…」
「あはは。演技に決まってるじゃない。あなたみたいなただの職人と結婚して、一生汚い作業着を着て過ごすなんて、冗談じゃないわ。私はね、もっと高い場所にふさわしい人間なの」
彼女はそう言うと、隣に座る男の方に手を置きました。
「紹介するわ。こちらは佐藤ケンイチさん。都内にいくつも大きな病院を持つ、佐藤総合病院の御曹司よ。あなたみたいに、いつ怪我をして働けなくなるかわからない職人とは、住む世界が違うの」
ケンイチと呼ばれた男は、下卑た笑みを浮かべながら、シ太を足の先から頭のてっぺんまで眺め回しました。
「へえ…。君がその職人君か。カノンから聞いてたよ。いいカモだったってね。ハワイまでの旅費も宿泊費も、全部出してくれたんだって。おかげで俺たちは一文も払わずにバカンスを楽しめてるわけだ。感謝するよ」
「なんだって…」
シ太の顔から血の気が引いていきます。
「本当なの、カノン…?君が僕と結婚しようとしたのは、この男とハワイに来るための資金調達のためだったのか…」
「気づくのが遅いのよ。あなた、真面目だけが取り柄だものね。少し優しくしてあげれば、必死に働いてお金を貢いでくれる。本当にちょろかったわ」
カノンさんはシャンパンを一口煽ると、残りを床にぶちまけました。
「ほら、足元が汚れちゃった。職人さんなら、掃除の仕方も詳しいんでしょう。ついでに、ここを綺麗にしていってちょうだい」
その光景を見て、田中夫妻は青ざめていました。彼らは知っているのです。この部屋に、自分たちが到底逆らえない本物の怪物がいることを。
「カノン!やめなさい!謝るんだ!今すぐ!」
マサオが悲鳴のような声をあげましたが、カノンさんは首をかしげるだけでした。
「お父様、何を言ってるの?怖い顔して。あ、分かったわ。この貧乏人の老婆が邪魔なのね。安心して、ホテルのセキュリティを呼んで…黙れ、この愚か者が!」
マサオはカノンさんの頬を、力いっぱい殴りつけました。乾いた音が、室内に響き渡ります。
「お父様!なんで…!いいから、山下会長に謝れ!土下座してでも許しを乞うんだ!」
カノンさんは叩かれた頬を押さえながら、信じられないものを見る目で父親を見ました。
「何を言ってるの?お父様。この人は、ただのシ太さんのおばあちゃ…」
「黙りなさい」
私は一歩前に出ました。私の沈黙が、部屋の温度を数度下げたかのような錯覚を与えます。私は床にぶちまけられたシャンパンの跡を見つめ、それからカノンさんとケンイチ、そして震える田中夫妻を順番に見据えました。
「カノンさん。あなたは、シ太の心を、そして彼の流した汗と涙を、このシャンパンと同じように床に捨てたのね」
「な、何を…!おばあさん、誰に向かって口を聞いてるの!ケンイチさん、何とか言ってやって!」
助けを求められたケンイチでしたが、彼は私と目があった瞬間、持っていたグラスを床に落として粉砕させました。
「や…山下…名誉会長…!」
ケンイチの声は、生まれたての子羊のように細く震えていました。
「ケンイチさん、どうしたの?」
「お、お前…!この方がどなたか、分かっているのか!山下グループの…我々、佐藤病院が融資から経営アドバイザーまで、全てを依存している…山下ホールディングスの創業者だぞ!」
ケンイチはソファから転げ落ちるようにして、床に膝まづきました。
「もうっ、申し訳ございません!私は、この女性が山下家と親戚になると聞いて、コネクション作りのために近づいただけなんです!結婚式の費用をシ太という男に出させているなんて、私は知らなかったんです!」
「ケンイチさん、何を言ってるの?あなた、私を愛してるって…」
「うるさい!この期に及んで、山下会長に逆らうような女だと知っていたら、最初から関わらなかった!」
愛を誓い合っていたはずの二人が、見苦しい争いを始めました。私はその様子を、ただ冷たく見つめていました。
「シ太、見ていなさい。これが、あなたが守ろうとしたものの正体よ」
シ太は何も言いませんでした。ただ、拳を爪が食い込むほど固く握りしめ、静かに、本当に静かに、その光景を瞳に焼きつけていました。
「さて、田中さん。そして佐藤さん。私は静かに口を開きました。一族全員、覚悟はできているかしら?」

インペリアルスイートの豪華な内装が、今はまるで舞台のセットのように虚しく見えました。床に散らばったシャンパンとグラスの破片。それは、シ太が必死に積み上げてきた誠実さが、この傲慢な一家によって無惨に砕かれた象徴のようでした。
「あ、あの、山下会長!これは本当に、その、誤解なんです!」
田中マサオが這いつくばるようにして、私の足元に寄ってきました。
「カノンはまだ若いんです!佐藤さんの息子さんに誑かされて、ちょっと魔が差しただけで…!私は、私はずっとシ太君のことを、本当の息子のように思っていたんですよ!」
つい数分前まで「下層階級」と見下していた口が、今は驚くほど滑らかに嘘をつき出します。その醜さに、私はただ黙って視線を落としました。
「嘘をおっしゃい!お父様だって、佐藤病院の御曹司と結婚した方が商売に有利だって、あんなに喜んでいたじゃない!」
カノンさんが叫びました。窮地に陥った親子が、今度は互いに責任をなすりつけ始めます。
「黙りなさい、カノン!会長、お聞きください。全てはこの娘が勝手にやったことで、私どもは必死に止めたのですが、どうしても聞かなくて…。どうか、田中不動産への制裁だけは、ご勘弁いただけないでしょうか?」
マサオの言葉に、私は深く落胆しました。自分の保身のために、実の娘さえも切り捨てる。これが、シ太が家族になろうとした人々の本性だったのです。
私は彼らの謝罪や言い訳に耳を貸すつもりはありませんでした。私の視線は、ただ一点、静かに立ち尽くしているシ太に向けられていました。
「シ太、あなたはどうしたい?」
私は努めて穏やかな声で、孫に尋ねました。
シ太はゆっくりと顔を上げました。その瞳は赤く晴れ、深い悲しみに沈んでいましたが、そこには確かな決意の光が宿り始めていました。
「おばあちゃん。僕はずっと、自分の腕一本で誰かを幸せにできる人間になりたいと思って、今日まで働いてきた」
「ええ、知っているわ。あなたは、素晴らしい職人よ」
「でも、僕が信じていたものは…僕が愛そうとした人たちは、僕の努力なんて、これっぽっちも見てくれていなかったんだね。僕が流した汗も、おばあちゃんを喜ばせたくて必死に貯めたお金も、彼らにとっては、ただの便利な道具でしかなかったんだ」
シ太の声は震えていましたが、言葉の一つ一つが、スイートルームの静寂を切り裂いていきました。
「おばあちゃん、ごめん。おばあちゃんが僕に教えてくれた、誠実に生きるということの意味が、今、ようやく分かった気がする。誠実さは、それを理解できる相手にしか届かないんだ」
彼はそう言うと、右手の薬指にはめていた、カノンさんとお揃いで買ったはずのプラチナの指輪を静かに外しました。そして、それを足元のシャンパンの残骸の中に、迷いなく落としました。
「田中さん、カノンさん。僕たちの関係は、今この瞬間、完全に終わりました。もう、あなたたちの顔を見るのも、声を聞くのも、これ以上は耐えられません」
シ太の言葉に、カノンさんが引きつった声をあげました。
「な、何よ!生意気言わないでよ!あんたみたいな貧乏人、こっちから願い下げなのよ!おばあ様が会長だからって、あんた自身は何者でもないじゃない。ただの泥臭い職人でしょう!」
彼女は、まだ事の重大さが分かっていないようでした。自分たちの足元が、すでに音を立てて崩れ去っていることに。
私は秘書の佐藤に目配せをしました。
「承知いたしました。会長」
佐藤がタブレットを取り出し、いくつかの操作を行いました。
「田中マサオさん。先ほど申し上げた契約違反及び背任の件ですが、すでに現地の協力会社及び日本の警察当局への通報を完了しました。今頃、日本にあるあなたの会社には、捜査員が到着しているはずです。さらに、田中不動産が抱えている全ての負債について、メインバンクが一斉に債権回収に動くよう手配済みです。あなたの会社の資産は、本日中に全て凍結されます」
マサオは白目を向いて、その場に崩れ落ちました。
「それから、佐藤ケンイチさん」
呼ばれたケンイチが、ビクッと肩を震わせました。
「あなたの父親である佐藤病院の理事長には、すでに私から直接連絡を入れました。今回のハワイでの醜態及び、高額な女性への貢ぎ物についてお伝えしたところ、理事長は激怒され、あなたを直ちに親族から除籍し、理事の席も引きずり下ろすと明言されました」
「そ、そんな…!親父!待ってくれ!」
ケンイチは狂ったようにスマートフォンを操作し始めましたが、彼の電話が繋がることは二度とないでしょう。
「最後に、カノンさん」
私は、真っ白なドレスを着た、かつての婚約者を冷たく見据えました。
「あなたが今日、シ太から奪ったものは、単なる時間やお金ではありません。あなたは一人の人間の純粋な心を、最も醜い形で踏みにじった。その対価は、あまりにも重いわよ」
「な、何よ!警察?破産?そんなの、私には関係ないわ!私はもっといい男を見つけて、ハワイで優雅に暮らすんだから!」
彼女が悪態をついて叫んだ、その時でした。ホテルのスタッフ数名が部屋に現れました。
「失礼いたします。当ホテルの総支配人より通達がございます。田中様、佐藤様、お客様の宿泊予約は、先ほどを持って全て強制キャンセルとなりました。今すぐ、荷物をまとめて退去していただきます」
「なんですって!?私たちは客よ!追い出すなんて許されないわ!」
「規約に基づき、他のお客様への著しい迷惑行為及び、不正な宿泊手続きが認められました。もしも退去の要請に応じられない場合は、現地の警察に不法侵入として処置させていただきます」
スタッフの厳格な通告に、カノンさんの顔が恐怖で歪みました。
「あ、ちょっと待って!私の荷物は!私が買ったブランド品は!」
「それらについては、すでに債権回収のための差し押さえ対象として、当局が管理しております」
逃げ場は、どこにもありませんでした。田中夫妻、そしてカノンさんとケンイチは、まるでゴミのようにスイートルームから引きずり出されていきました。廊下に響き渡る、彼らの見苦しい絶叫が遠ざかっていく。
部屋に残されたのは、私とシ太。そして、沈黙だけでした。

「シ太、怖かったでしょう。辛かったわね」
私は愛する孫の肩に手を置きました。シ太は私の手の上に自分の手を重ね、深いため息をつきました。
「おばあちゃん、ありがとう。でも、これで終わりじゃないよね」
シ太の言葉に、私は頷きました。
「ええ。彼らには、まだ本当の地獄が待っているわ。彼らが誇りに思っていた家柄も名誉も、全てが砂上の楼閣だったこと。身を持って知ることになるのよ」
しかし、私の心にはまだ一つの懸念がありました。それは、田中家が隠し続けていた、さらなる最悪の計画の存在でした。

静寂が戻ったインペリアルスイート。窓の外には、皮肉なほどに美しいハワイの夕焼けが広がっていました。オレンジ色に染まる海を見つめながら、シ太は力なくソファに腰を下ろしました。
「おばあちゃん、僕はどうして、あんな人たちのことを信じてしまったんだろう」
彼の言葉には、裏切られた怒りよりも、自分自身の不甲斐なさを責めるような深い悲しみが混じっていました。
私は彼の隣に座り、その大きな節くれだった職人の手をそっと握りました。
「シ太、あなたは人を信じるという、一番尊い心を持っていただけよ。悪いのは、その心を食い物にしたあの一族」
その時、佐藤が静かに近づいてきました。
「会長、シ太様。実は、田中家が企てていたのは、単なる結婚詐欺や旅費の搾取だけではありませんでした」
佐藤がテーブルに広げたのは、数枚の内部告発資料と、田中不動産の裏帳簿のコピーでした。
「どういうことだ?」
シ太が資料を覗き込みます。そこには、目を疑うような内容が記されていました。
「田中マサオは、山下建設から請け負ったマンション建設において、意図的に強度不足の資材を使用させていました。そして、その責任を全て、現場責任者であるシ太様に押し付ける準備を進めていたのです」
「僕に…責任を?」
シ太の顔が驚愕で歪みました。
「はい。彼らは、シ太様が書いたとされる虚偽の工事報告書を偽造していました。もし、このまま結婚が進んでいたら、最終的にその不正を明るみに出し、シ太様を”濡れ衣の尻尾切り”として告発。山下グループからの損害賠償請求を、全てシ太様に被せるつもりだったようです」
あまりの悪辣さに、私の体中に冷たい怒りが走りました。彼らはシ太からお金を奪うだけでなく、彼の職人としての生命、そして人生そのものを生贄にするつもりだったのです。
「なんてことを…。家族になるはずの相手を、犯罪者に仕立て上げようとしていたなんて」
さらに、カノンさんについても、驚くべき事実が判明しました。
「彼女は、シ太様から結婚資金として預かっていた数百万円を、全て佐藤ケンイチとの遊興費に使っていました。それだけではありません。彼女は『山下グループの会長の孫と結婚する』という偽の情報を流し、それを担保に、複数の闇金業者から多額の借金を重ねていたのです」
「おばあちゃん…。僕、隠していた貯金も、カノンに渡してたんだ。結婚後の生活費にって…」
シ太は顔を覆いました。彼が汗水垂らして、それこそ指にタコを作り、腰を痛めながら稼いだ尊いお金が、あのような下劣な男との遊びに使われていた。
「この田中一族…!」
私は拳を強く握りしめました。彼らは、私の大切な宝物を、文字通り徹底的に踏みにじったのです。
その時、部屋のチャイムが鳴りました。
「どなたかしら?もう誰も入れるなと言ったはずよ」
ヘンリーが申し訳なさそうに顔を出し、一人の女性を伴って入ってきました。
「会長、失礼いたします。どうしても会長にお伝えしたいことがあるという女性が…。彼女は日本から、田中家を追ってここまで来たそうです」
現れたのは、質素なスーツを着た、疲れ果てた様子の若い女性でした。
「初めまして。私は田中不動産で事務をしていた、川田ユイと申します」
彼女は私とシ太の前に出ると、深く、深く頭を下げました。
「山下様、シ太さん。本当に申し訳ございませんでした。私は、社長たちがシ太さんを罠に落とし入れようとしているのを知っていました。でも、声をあげたら首にすると脅されて…。でも、もう耐えられません。これ、私が社長の部屋から持ち出した、本当の工事記録です」
彼女が差し出したのは、偽造される前の真実の記録でした。そこには、シ太がいかに真面目に、几帳面に現場を管理していたかが克明に記されていました。
「川田さん…。君が、どうして?」
シ太が驚いて立ち上がりました。
「シ太さんが現場で、職人さんたちに優しく接している姿を、ずっと見ていました。あなたがどれだけ一生懸命だったか、私だけは知っています。あんな悪党たちに、あなたの人生を壊されたくなかったんです」
川田さんの目から、涙がこぼれ落ちました。彼女もまた、田中家の横暴に苦しめられていた被害者の一人だったのです。
「ありがとう、川田さん。あなたの勇気が、最後のパズルのピースを埋めてくれたわ」
私は彼女の手を取り、感謝を伝えました。
これで、全ての証拠が揃いました。田中マサオの業務上横領と背任、田中ミツコの商標法違反と詐欺、田中カノンの結婚詐欺と多額の借金トラブル。そして、彼らが隠し続けていた最大の事実が、もうすぐ白日のもとにさらされようとしています。
「佐藤。手配していた特別チームを日本へ。田中家の自宅、店舗、及び関連する全ての隠し口座の差し押さえを開始しなさい」
「承知いたしました」
「それから、カノンさんが借りていた闇金業者たちにも、山下グループの法務部が接触したことを伝えなさい。『田中家はもう一文も持っていない。回収したいなら、今すぐハワイにいる本人たちのところへ行け』とな」
私の冷徹な命令に、シ太が少しだけ目を見開きました。
「おばあちゃん、それって…」
「シ太。慈悲をかける相手を間違えてはいけないわ。彼らがあなたにしようとしたことは、殺人にも等しい行為よ。私は彼らに、”奪う側から奪われる側”の恐怖を、骨の髄まで教えてあげるつもり」
ハワイの夜空に、パトカーのサイレンの音がかすかに響き始めました。ホテルを追い出された田中一族が、今どこで何をしていようと、彼らに安住の場所など、地球上のどこにも存在しないのです。
しかし、この時、私はまだ知らなかった。絶望の淵に立たされた田中マサオが、最後に取った狂気とも言える行動が、私たちを再び窮地に追い込むことになることを。

ハワイの夜は、昼間の喧騒が嘘のように静まり返っていました。しかし、私たちの滞在するインペリアルスイートの扉の外では、何やら騒がしい怒鳴り声が響いていました。
「話せ!私は山下会長に大事な話があるんだ!これをバラされたくなければ、今すぐ通せと言っているだろう!」
その声の主は、先ほどスタッフによってつまみ出されたはずの田中マサオでした。どうやら警備の隙をついて、再び最上階まで舞い戻ってきたようです。
「会長、いかがなさいますか?セキュリティに命じて、力づくで排除させますが」
佐藤が声を潜めて尋ねました。私は少し考え、静かに頷きました。
「いいわ、入れてあげなさい。逃げ場を失ったネズミが、最後にどんな顔をして泣くのか、見ておくのも一興だわ」
扉が開くと、そこには見るも無惨な姿のマサオが立っていました。高級だったはずのスーツはもみくちゃになり、ネクタイは曲がり、髪は乱れ放題。かつての不動産会社の社長としての威厳など、微塵も残っていませんでした。
「山下会長…いや、クソババア!よくもやってくれたな!私の会社を、私の人生を、めちゃくちゃにしやがって!」
マサオは部屋に転がり込むなり、私を指差して叫びました。彼の背後には、同じようにボロボロになったミツコと、頬を腫らして泣きじゃくるカノンが立ち尽くしています。
「あら、ご挨拶。自分の犯した罪を棚に上げて、他人のせいにするなんて。それでこそ、田中マサオさんだわ」
私は優雅にソファに腰掛けたまま、穏やかに彼を見下しました。
「ふん!強気でいられるのも今のうちだ!見ろ、これを!」
マサオが震える手で突き出してきたのは、一台のスマートフォンでした。その画面には、何かの音声ファイルが表示されています。
「これは、シ太とカノンが付き合い始めた当初の、私の事務所での会話だ!『シ太、お前、あの時言ったよな。僕は山下グループのことは何も知らない。おばあちゃんはただの年寄りだ』って。で、それを聞いた私が、いかにお前を馬鹿にし、騙して金を引き出す計画を立てていたか。その一部始終が、この録音に入っているんだ!」
「それが、どうしたんですか?」
シ太が静かな声で問い返しました。
「どうしたもこうしたもあるか!これを世間に公表してみろ!山下グループの会長の孫が、こんな簡単に騙される愚か者だったと知れたら、株価はどうなる?お前の無能さが原因で、このババアが築き上げた帝国に泥を塗ることになるんだぞ!」
マサオは勝ち誇ったように、引きつった笑いを浮かべました。
「この録音データを消して欲しければ、今すぐ会社への差し押さえを解け。それと、一億円。いや、三億円の解決金を、今すぐ用意しろ!さもなければ、これをマスコミにバラしてやる!」
あまりにも短絡的で、あまりにも醜い脅迫。ミツコも、マサオの背後から必死に声を張り上げました。
「そうよ!私たちは、ただでは起きないわよ!カノンだって、シ太さんの子供を妊娠しているかもしれないって言えば、世間はどっちの味方をするか…!泥沼の裁判にして、山下の名前を徹底的に汚してやるわ!」
その言葉を聞いた瞬間、シ太の顔から完全に感情が消えました。それは、怒りを超越した、深い無の境地でした。
「そうですか…。子供ですか…」
シ太は一歩、また一歩と、田中夫妻に近づいていきました。
「な、なんだよ!暴力か!殴るのか!ほら、殴ってみろ!それも全部録画してやるからな!」
マサオがスマートフォンを構えましたが、シ太は殴るどころか、その場に立ち止まって静かに語りかけました。
「田中さん。僕は、あなたたちを心から家族だと思おうとしていました。カノンを愛し、あなたたちを尊敬しようと努力してきた。でも、今、その録音があると言って喜んでいる、あなたの姿を見て、心底がっかりしました」
シ太は、マサオの手にあるスマートフォンを、悲しげな目で見つめました。
「その録音には、僕があなたたちを信じていた証拠が入っているんでしょう。僕があなたたちを疑わず、純粋に接していた声が入っているんでしょう。それを、自分たちを守るための武器に使うなんて…。あなたたちには、人の心というものがないんですか?」
「心だ?そんなもので腹が膨れるか!金だ!金が全てなんだよ!」
マサオが吐き捨てるように言いました。
「分かりました。おばあちゃん、もういいよ」
シ太は私の方を振り返りました。
「この人たちに、これ以上言葉をかけるのは時間の無駄だ。僕の負けでいい。僕が愚かだったことも、騙されたことも、全部世間に公表すればいい。山下グループの株価が下がるなら、僕は一生かかってその償いをします。でも」
シ太は再び、鋭い視線をマサオに向けました。
「不当な脅迫に屈して、あなたたちにお金を払うことだけは、絶対にしません。どうぞ、その録音をどこへでも持っていってください」
シ太の毅然とした態度に、マサオの顔が引きつりました。
「な、本気か?本当にいいんだな!お前のせいで、このババアは全てを失うんだぞ!」
「失うものなど、何もありませんよ」
私は立ち上がり、静かに口を開きました。
「田中さん。あなたが持っているそのデータ、実は私も持っているの。それも、もっと高音質で、あなたの計画の全容が記録されたものをね」
「な、何を言っている?」
「川田さんが届けてくれたのは、書類だけではないのよ。あなたの事務所に、彼女が以前から仕掛けていたボイスレコーダーのデータよ。あなたがどうやって資材を横領したか、どうやってシ太を罠にはめようとしたか。そして、今この部屋で私を脅迫している、今の音声も、リアルタイムで警察に送信されているわ」
マサオの顔から、一気に血の気が引いていきました。
「け、警察…!」
その時、ホテルの廊下から、重厚な靴音が近づいてくるのが聞こえました。
「ハワイ州警察です。田中マサオ及びミツコ、脅迫及び詐欺の疑いで同行を求めます!」
青い制服を着た大柄な警察官たちが、部屋になだれ込んできました。
「待て!話せ!私は被害者だ!このババアにはめられたんだ!」
マサオの叫びは、無常にも手錠の音にかき消されました。ミツコもカノンも、パニック状態で泣き叫びながら連行されていきます。
「お父様!お母様!助けて!いやよ、こんなの!」
カノンさんのドレスは、もはや見る影もなく汚れ、彼女の虚栄心と共に引き裂かれていました。

嵐が去った後のような静寂が、再び部屋を包み込みました。
「シ太、よく言ったわね。自分の弱さを認めることは、本当の強さよ」
私は、疲れきったシ太の肩を抱きました。しかし、彼の表情はまだ晴れません。
「おばあちゃん、これで、全部終わったのかな?」
「いいえ、まだよ。彼らが犯した罪の報いは、ここからが本番なの。そして、あなたには、これから本当の最高の結婚式をプロデュースしてもらうわよ」
私の言葉に、シ太が不思議そうに顔を上げました。

ハワイ州警察の留置施設。そこは、数時間前まで最高級ホテルのスイートルームでシャンパンを傾けていた彼らにとって、あまりにも残酷な現実の場所でした。
鉄格子に囲まれた冷たいベンチに、田中マサオ、ミツコ、そしてカノンの三人は、力なく座り込んでいました。先ほどまでの傲慢な態度は見る影もなく、ただ互いの顔を見ては、醜い罵り合いを繰り返すばかりです。
「あんたのせいよ!あんたが無理に、あの工務店のガキを嵌めようなんて計画を立てるから、こんなことになったんじゃないの!」
ミツコが乱れた髪を振り乱しながら、夫に詰め寄りました。
「何を言うか!お前だって、あの老婆の持ち物を安物だと決めつけて、徹底的にバカにしていたじゃないか!そもそも、山下グループの会長だと気づかなかったのは、お前の目が節穴だからだ!」
「ですって!私は、カノンがあのガキを上手く手なずけているって言うから信じたのよ!カノン、あんた、あんなにちょろいって言ってたじゃないの!」
矛先を向けられたカノンは、膝を抱えてガタガタと震えていました。
「私だって知らなかったわよ!まさか、あんな作業着が似合いそうな地味な男の家が、日本有数の財閥だなんて!それに、ケンイチさんがあんなに早く私を捨てるなんて、思わなかったのよ!」
「あのバカ息子が!結局、金とだけの付き合いだったということだ。あんな男に熱を上げて、本物のダイヤをドブに捨てるとは…!」
マサオが壁を殴りつけました。しかし、彼らが後悔しているのは、自分の行いではなく、「もっと上手く騙せばよかった」という歪んだ欲望の失敗に対してだけでした。
そこへ、一人の男性が面会室に現れました。
「静かにしてください。見苦しいですよ、田中さん」
現れたのは、秘書の佐藤でした。その手には、分厚い書類の束が握られています。
「佐藤さん!あ、助けに来てくれたのか!頼む!山下会長に伝えてくれ!私たちは深く反省している!すぐにでも日本に帰って全額弁済するから、この告訴を取り下げるように言ってくれ!」
マサオが鉄格子にへばりつくようにして叫びました。
しかし、佐藤の表情は、微動だにしません。
「勘違いしないでください。私は助けに来たのではありません。皆さんに、現在の状況を正確にお伝えしに来たのです」
佐藤は静かに、しかし容赦なく告げました。
「まず、田中マサオさん。あなたが経営する田中不動産ですが、先ほど正式に破産手続きが開始されました。負債総額は、私たちが把握しているだけで十五億円を超えています。山下建設への損害賠償、資材着服に伴う追徴金、そして無理な経営で積み重なった借入金。全てが一斉に火を吹きました。今、日本にあるあなたの自宅、別荘、高級車は全て差し押さえられ、従業員も全員解雇。あなたの会社は、この瞬間、地図から消えました」
マサオの口が、金魚のようにパクパクと動きます。
「次に、ミツコさん。あなたが運営していたセレクトショップですが、こちらも偽ブランド品販売の容疑で、家宅捜索が入りました。あなたが本物だと言って顧客に売り付けていたバッグや時計の多くが、巧妙なコピー品であることが判明しています。被害者たちが、集団訴訟の準備を始めていますよ」
「そ、そんな…!私、あれでお友達に自慢してたのに…!」
「そして、カノンさん」
佐藤の冷徹な視線が、震えるカノンを射抜きました。
「あなたがシ太様から騙し取った結婚資金及び個人的な借用。これらは全て、刑法に反する詐欺行為と見なされ、返還請求が出されました。あなたが今着ているそのドレス、身につけている装飾品。それらも全て、シ太様のお金で購入されたものです。先ほど、ホテルのスタッフが全て回収に向かいましたが、すでに差し押さえのタグが貼られています」
「な、じゃあ、私はこれから何を着ればいいのよ!下着一枚で放り出すつもり!」
「それは、あなたの知ったことではありません。ああ、それから、皆さんが最も気にしていた、佐藤ケンイチさんとの件ですが」
佐藤は書類の一枚をめくりました。
「彼もまた、父親から完全に縁を切られました。それだけでなく、彼が病院の資金を横領して、あなたとのハワイ旅行に当てていたことが発覚し、彼自身も背任罪で訴えられる予定です。お互いに相手に金があると思い込んで騙し合っていたわけですから、ある意味、お似合いの二人でしたね」
佐藤の皮肉に、カノンは絶叫をあげました。
「いやあ!私はまだ若いのよ!これから最高の人生を送るはずだったのよ!」
「最高の人生…。それを、シ太様はあなたに与えようとしていたのですよ。彼は自分の資産を一切頼らず、自分の腕一本であなたを幸せにしようと、血の滲むような努力をしていた。あなたはその本物の愛を、偽物のダイヤと引き換えに捨てたのです」
佐藤の声には、シ太を近くで見守ってきた者としての、静かな怒りが込められていました。
「さて、これで田中一族は、文字通り全員路頭に迷うこととなりました。社会的地位、財産、友人、そして自由。全てを失った皆さんに、これからどのような生活が待っているか、想像するのは容易いでしょう」
佐藤はそう言い捨てると、一度も振り返ることなく、面会室を後にしました。
「待って!佐藤さん!待ってくれ!」
マサオの叫びが、留置場に虚しく響き渡ります。

一方、その頃。ホテルのラウンジで、私はシ太と向かい合っていました。シ太は、以前よりもどこか綺麗に澄んだ表情をしていました。
「おばあちゃん、僕、決めたよ」
「何をかしら」
「ハワイでの結婚式は、もういいんだ。でも、このまま日本に帰って、悲しい思い出のまま終わりたくない。僕、もう一度、一からやり直したい。山下グループの力じゃなくて、自分の腕で、本当の信頼を築ける職人になりたいんだ」
私は、微笑みながら彼の言葉を待ちました。
「だから、おばあちゃん。あの方たちを、僕に会わせてくれないかな?」
シ太が指差したのは、ホテルのロビーの片隅で、申し訳なさそうに身を縮めている、現地の人々でした。これは、今回の結婚式のためにシ太が日本から呼び寄せた、彼の工務店の仲間たちや、かつての恩師たちでした。田中家によって「品がない」と罵られ、列席を拒否されていた、シ太の本当の大切な人々。
「彼らに、謝りたいんだ。そして、もし許してもらえるなら」
シ太の瞳に、新たな希望の光が宿りました。
しかし、この温かな空気を切り裂くように、秘書の佐藤が駆け足で戻ってきました。
「会長!大変です!日本の山下建設本部から、緊急の連絡が!」
「どうしたの?落ち着きなさい」
「田中マサオが逮捕される直前に放った、最後の一手が、とんでもない事態を引き起こしています!彼が、自分が倒れる道連れに、山下建設が現在手掛けている国立病院の建設プロジェクトの設計図を、海外の競合他社に売り渡した疑いがあります!」
「なんですって…!」
田中の悪意は、まだ終わっていなかったのです。一族の崩壊は、さらなる巨大な嵐の始まりに過ぎませんでした。
設計図が流出したとなれば、山下建設の信頼は失墜し、国家規模のスキャンダルになります。
「会長、どうされますか?」
私は、拳を強く握りしめました。
「シ太、どうやら、ゆっくりしている暇はなさそうね。あなたの職人としての誇り、ここで試されることになるわよ」
逆転の舞台は、ハワイから日本へ。そして、誰も予想しなかった、真実の黒幕が姿を表そうとしていました。

ハワイの美しい夜景が、今はまるで燃え盛る戦場のように見えました。秘書の佐藤が持ってきた知らせは、山下グループのみならず、日本の建設業界全体を揺るがしかねない、大スキャンダルの種でした。
「田中マサオが、国立病院の設計図を海外の競合他社に流した。佐藤、それは確かなの?」
私の問いに、佐藤は苦渋に満ちた表情で頷きました。
「はい。先ほど、日本の法務部から連絡がありました。田中は逮捕の数時間前、自身のパソコンから暗号化された通信を使い、シンガポールに拠点を置く『グローバル・メガテック』にデータを送信しています。この会社は、以前から我がグループのプロジェクトを妨害してきた、いわば天敵とも言える存在です」
「あいつ…どこまで腐っているんだ?」
シ太が絞り出すような声で言いました。彼の拳は、怒りで白く震えています。
「国立病院は、多くの人々の命を救うための場所だ。それを、自分の保身のために…いや、自分を追い詰めたことへの腹いせに、海外に売り飛ばすなんて!」
私は一度、深く目を閉じ、呼吸を整えました。こういう時こそ、トップとしての冷静さが試される。私は静かに沈黙を守り、佐藤が持ってきたタブレットのログを、じっくりと見つめました。
「会長、一刻も早く事態を収拾しなければなりません。メガテックが、この図面をもとに、日本政府へ『山下建設の設計には致命的な欠陥がある』と虚偽の告発を行う可能性があります。そうなれば、建設の認可は取り消され、数千億円規模の損失が出るでしょう」
佐藤の言葉には、焦りの色が濃厚に滲んでいました。
しかし、私はある一点のデータに目が止まり、ふっと唇の端を上げた。
「焦らなくていいわ。佐藤、田中マサオは、墓穴を掘ったようね」
「ええ?どういうことでしょうか?」
「シ太、あなた、この流出したデータのファイル名を見て、何か気づかない?」
私はタブレットをシ太の方へ向けました。シ太は険しい顔をしながら画面を覗き込みましたが、すぐに目を見開き、息を飲んだ。
「まさか…!そうか!これは、田中があなたを罠に落とし入れるために、わざと強度不足の資材を使うように改ざんさせた、あの”欠陥だらけ”の設計図じゃないか!」
シ太は狂ったように画面をスクロールさせ、図面の詳細を確認し始めました。彼の職人としての鋭い目が、瞬時に真実を見抜きました。
「本当だ、おばあちゃん!これは、本物の最終決定版じゃない!田中が僕に責任をなすりつけるために作った、嘘の設計図だ!柱の数も、鉄筋の密度も、本来の基準を大幅に下回っている。これをそのまま建てたら、大きな地震が来たらひとたまりもないような、欠陥建築になる!」
佐藤が、呆然とした声をあげました。
「ということは、田中は自分が盗んだものが本物だと思い込んでいたけれど、実は、自分で作ったゴミを、高値でメガテックに売り飛ばしたということですか?」
「その通りよ。滑稽なものね。気の毒なのは、穴が二つ。彼は、シ太の人生を壊そうとして偽物の設計図を作った。そして、最後の足掻きのつもりでその偽物を売り、自らその罪の証拠を、世界中にばらまいてしまったのよ」
私はようやく、椅子に深く背を預けました。もし、田中が本物の設計図を盗み出していたら、事態はもっと深刻だったでしょう。しかし、彼はあまりにもシ太を罠にかけることに執着しすぎていました。自分が改ざんしたデータこそが、山下建設の致命傷になると信じて疑わなかったのです。
「メガテックも愚かね。目先の利益に目がくらんで、まともな図面の精査もせずに飛びついたのでしょう。佐藤、すぐに日本の広報と法務に連絡してちょうだい。”田中が流出させたのは、捏造された偽データであること。そして、その偽データを作成したプロセスこそが、田中の背任行為の証拠であること”を、プレスリリースとして準備させなさい」
「承知いたしました。これで、メガテックからの攻撃も、逆に彼らの信頼を失墜させるカウンターになりますね」
佐藤は顔を輝かせ、すぐさま電話を手に取りました。
しかし、シ太だけはまだ、険しい表情を崩していませんでした。
「おばあちゃん。でも、これだけじゃない気がするんだ。田中さん一人で、あんな巧妙な偽のサーバーや暗号通信なんて、扱えるはずがない。彼を裏で操っていた、あるいは協力していた、誰かがいるはずだ」
シ太の言葉に、私はハッとさせられました。確かにそうです。田中マサオは、ああ見えて頭は切れません。ITや国際的なスパイ行為に精通している男でもありません。
その時でした。ホテルの部屋のドアが、ノックもなしに、静かに開きました。
「その通りですよ。お若いのになかなかの洞察力だ」
そこに立っていたのは、意外すぎる人物でした。
「あなたは…!」
シ太が驚きの声をあげました。現れたのは、今回の結婚式にシ太が招待していた数少ない友人の一人、村上ケンジでした。彼はシ太の高校時代の同級生で、今は若手ながらも優秀な弁護士として活躍していると聞いていました。しかし、今の彼の雰囲気は、先ほどまでロビーで心配そうにしていた友人のものとは、明らかに違っていました。
「村上君、どうしてここに…?」
シ太の問いに、村上は静かに笑い、懐から一つのデバイスを取り出しました。
「シ太、すまない。君を騙すつもりはなかったんだが、私は山下名誉会長から、個人的に依頼を受けていたんだ。『孫の周りに不審な動きがないか、徹底的に調査してほしい』とな」
「ええ?おばあちゃん!」
シ太が驚いて私を見ました。私は静かに頷きました。
「そうよ、シ太。田中があなたに近づいた最初から、私は違和感を感じていたの。だから、彼には友人としてあなたの側にいてもらいながら、裏で動向を探ってもらっていたのよ」
村上が一歩前に出ました。
「田中マサオを、そしてメガテックにつなげたのは、ある特定の人物です。その人物は、現在、このホテルの一階のカフェで、優雅にコーヒーを飲んでいますよ。自分が勝利したと思い込んでね」
「誰なんだ、その黒幕は?」
シ太が詰め寄ります。村上は私の顔を一度見ると、重々しくその名を口にしました。
「あなたの叔父、つまり山下会長の次男にあたる、山下ヒデオ氏です」
その名を聞いた瞬間、私は手元にあったティーカップを、思わず落としそうになりました。
「ヒデオ…。私の実の息子であり、数年前にグループの経営方針を巡って私と対立し、会社を追われた男…。まさか、彼が田中家を操り、自分の甥であるシ太や、自分の母親が築き上げた会社を、地の底に突き落とそうとしていたなんて…」
「会長、確かにヒデオ氏は、田中を利用し会社を混乱させた隙に株を買い占め、経営権を奪い返そうと画策していました。メガテックとの橋渡しも、全て彼が仕組んだことです」
村上の言葉に、部屋の中に重苦しい沈黙が流れました。家族の裏切り。それが、今回の事件の最も深い闇だったのです。
「おばあちゃん…」
シ太が、私の震える手を両手で包み込んでくれました。
「大丈夫だよ。僕が、僕が、その山下ヒデオって人を絶対に許さない。家族を傷つけて、みんなを不幸にしようとする人を、僕は絶対に認めない」
シ太の瞳には、かつての弱々しさは微塵もありませんでした。彼は今、山下の後継ぎとして、そして一人の誇り高き男として、立ち上がろうとしていました。
「行きましょう、おばあちゃん。その”おじさん”って人に、決着をつけに」
逆転の連鎖は、まだ終わっていません。真の黒幕との直接対決。ハワイの夜が明ける前に、全ての決着をつける。私はシ太の力強い手に引かれ、ゆっくりと立ち上がりました。

ホテルのラウンジを一望できる、解放的なオープンカフェ。まだ夜が明け切らない薄明かりの中、一人の男が優雅にエスプレッソを口にしていました。仕立ての良いイタリア製のスーツを完璧に着こなし、高価な腕時計を光らせながら、タブレット端末を眺めては、ほくそ笑んでいます。
山下ヒデオ。私の次男であり、かつて山下グループの副社長まで務めた、その強欲さと独裁的な経営が原因で、私が自ら追放した息子です。
「おはよう、ヒデオ。こんなところで、何をしているのかしら?」
私の声に、ヒデオはゆっくりと顔を上げました。そこには、反省の色など微塵もありません。あるのは、母親を”古臭い障害物”としか見ていない、冷酷な野心の目だけでした。
「お袋…。それに、そっちの小汚いのは、確か死んだ兄貴の息子だったかな。職人ごっこは楽しいか?いいよな、泥にまみれて数万円を稼ぐ生活なんて、僕には想像もできないよ」
ヒデオはシ太を一瞥して、鼻で笑いました。
「おじさん。あなたが、田中さんを裏で操っていたんですか?僕の結婚式をぶち壊して、会社を危機に陥れて。そこまでして、何が欲しいんですか?」
シ太の悲痛な訴えに、ヒデオは声を上げて笑いました。
「欲しいもの?決まっているだろう。正当な権利だよ。この山下グループは、本来僕が継ぐべきものだったんだ。それを、この歳のせいで老け込んだ母親が、僕を追い出して隠居生活を楽しんでいる。挙句の果てには、こんな現場仕事しかできない無能な孫を後継ぎにしようと考えているんだろう?吐き気がするね」
ヒデオは立ち上がり、私に一歩近づきました。
「お袋、もう諦めろよ。田中という男は、実におめでたい間抜けだったが、利用価値はあった。彼が流したデータのおかげで、今頃日本のマーケットは大騒ぎだ。山下建設の株価は暴落し、政府も調査に乗り出す。混乱に乗じて、僕はすでに過半数の株を確保する手はずを整えた」
「それで、勝ったつもりなの?」
私は静かに彼を見つめました。
「ああ、勝ったさ。お袋は時代遅れなんだよ。誠実だの、情けだの。そんな綺麗事でビジネスができると思っているのか?世の中は、数字と策略だ。お前のように耄碌した老人に、これ以上の采配は無理なんだよ。さっさとその椅子を僕に譲って、ハワイで静かに余生を過ごせばいい」
ヒデオの言葉は、鋭いナイフのように私を突き刺そうとします。しかし、私は一歩も引きませんでした。
「ヒデオ。あなたは、自分の息子がどれほど立派な職人に成長したかも知らずに、ただ”無能”だと決めつけるのね。自分の血を分けた家族を、ただの駒としてしか見ていない。それが、あなたの最大の敗因よ」
「負け惜しみか。おい、村上。そこにいるなら、さっさと今の会話を録音して、メガテックに送りなさい。”会長が動揺して、経営権の譲渡を口にした”と」
ヒデオは、私の後ろに立っていた村上弁護士に命じました。どうやらヒデオは、村上までもが自分のスパイだと思い込んでいたようです。
しかし、村上は一歩も動きませんでした。ただ、冷ややかな視線をヒデオに向けているだけです。
「ヒデオさん。残念ですが、メガテック社からの連絡は、もう二度とあなたには届きませんよ」
「何を言っている?僕は彼らと密約を交わしているんだ。僕が経営権を握れば、彼らに日本の市場を明け渡すと」
「その密約の相手ですが」
村上がタブレットを操作し、一つのビデオ通話画面を表示させました。
「ミスター・ヤマシタ。残念ながら、我々はあなたとの取引を白紙に戻すことにした」
画面に映し出されたのは、シンガポールの巨大企業・メガテック社のCEOでした。
「な、どういうことだ!私は君たちに、山下建設の致命的な弱点を渡したはずだぞ!」
「弱点だと?笑わせないでくれ。君が寄越したあの設計図は、素人が見ても分かるような、出鱈目な捏造品だった。我々がそれを信じて動けば、逆にこちらの信用が地に落ちるところだった。君のような、身内の足を引っ張ることしか考えない男とは、組む価値がない」
画面がプツンと切れました。ヒデオの顔が、見る見るうちに土気色に変わっていきます。
「ば、バカな…!田中が!あのネズミ男が、僕を裏切って偽物を渡したのか!」
「いいえ。ヒデオおじさん。それは違います」
シ太が、ヒデオの前に立ちはだかりました。その背中は、私が見てきた誰よりも大きく、頼もしいものでした。
「田中さんが盗み出したのは、確かに僕のデスクにあったデータです。でも、僕は最初から気づいていました。田中さんが僕のパソコンを覗き見ていることも、僕を罠に落とし入れようとしていたことも」
「なんだと?」
「僕は職人です。現場で図面を見るのが仕事です。だから、大切なデータをどう守るべきかも、現場の親方から教わりました。僕はあの日、田中さんが盗める場所に、わざと未完成の、欠陥だらけのダミーデータを置いておいたんです」
ヒデオは絶望しました。自分が”無能な作業員”と見下していたシ太が、実は全てを見抜き、逆に罠を仕掛けていたのです。
「お前、そんなことができるはずがない!お前は、ただの中卒の現場上がりのガキだろうが!」
ヒデオが理性を失って叫びました。
「学歴や肩書きが、人間の知恵を決めるわけじゃない。おじさん、あなたは人をバカにしすぎたんだ。おばあちゃん、もう、警察が外に来ているよ」
シ太の言葉通り、カフェの入り口には、現地の警察官と、日本から同行してきた特別捜査チームが控えていました。
「山下ヒデオさん。詐欺、脅迫未遂、及び産業スパイ防止法違反の疑いで、任意同行をお願いします」
ヒデオは、まるで糸の切れた人形のように、その場に崩れ落ちました。
「待て!嘘だ!僕は、山下グループの王になる男だぞ!お、お袋!冗談だよ!全部、冗談だったんだ!」
見苦しく叫びながら、ヒデオは警察官に抱えられていきました。
私は、その背中を見送りながら、深く、深くため息をついた。
「終わったわね、シ太」
「うん。おばあちゃん、大丈夫?」
「ええ。悲しいけれど、これでようやく、山下の中に溜まっていた毒を、出し切ることができたわ」
私はシ太の手を、強く握りしめました。
しかし、逆転の物語は、ここで終わりではありませんでした。ヒデオが連行された後、村上弁護士が、ある一通の封筒を私に手渡したのです。
「会長。実は、田中マサオを調べている過程で、もう一つ、信じられない事実が見つかりました。これは、カノンさんの出生に関わる秘密です」
その封筒の中身を見た瞬間、私は今度こそ、言葉を失って立ち尽くしてしまいました。
「これ…本当なの?」
シ太が横から覗き込み、驚愕の声を上げました。そこには、この地獄のような騒動の全てを根底から覆すような、最大の事実が記されていたのです。

ヒデオが連行され、静まり返ったカフェ。村上弁護士が差し出した一通の封筒を、私は震える指先で受け取りました。中には、色あせた戸籍謄本の写しと、数枚の古い写真、そして鑑定書が入っていました。
「会長。これを、田中マサオたちが隠し続け、今回の計画の柱に据えていた真実です」
書類に目を通した瞬間、私の心臓は早鐘を打ち、視界が歪みました。そこには、信じられない名前が記されていたからです。
「カノンさんは、田中マサオ夫妻の実の娘ではありません。彼女の本当の母親の名は、山下ハルコ。会長の、亡くなった長男の妻。つまり、シ太様の実の母親である女性の妹にあたる人物です」
「じゃあ、カノンは…」
「シ太が立ち上がった。そうです。カノンさんは、シ太様の従妹にあたります」
「しかし、話はそれだけではありません。カノンさんの実の両親は、彼女が幼い頃に事故で亡くなっています。その際、彼女に残された莫大な遺産と、山下家との縁を利用しようと画策したのが、当時、遠縁だった田中マサオ夫妻だったのです」
村上の説明を聞きながら、私はかつての記憶を必死に手繰り寄せました。長男の妻だったハルコさんの妹、アイコさん。彼女は若くして夫の事故で亡くなり、その後に残された幼い娘が、行方不明になったという噂を聞いていました。
「まさか…。あの田中夫妻が、身分を偽り、彼女を自分の娘として育て上げ、あろうことか、山下家を乗っ取るための道具として利用していたなんて…!」
「彼らは、カノンさんに本当の出自を教えず、ただ『お前は選ばれた特別な存在だ。山下の財産を手に入れるのがお前の使命だ』と刷り込んで、育ててきました。彼女のあの歪んだ性格は、田中夫妻によって、長年かけて作り上げられたものだったのです」
私は、怒りで全身が震えました。彼らは、一人の少女の人生を歪め、親の愛も、真実も奪い、自分たちの欲望を満たすための”トロイの木馬”として、シ太に近づけたのです。
「なんてことを…。実の親を亡くした子を、あんな風に扱うなんて…。田中マサオ、あの男は、人間じゃないわ!」
さらに、驚くべきことに、田中マサオの一族。今回、シ太様の結婚を機に、グループの関連企業に次々と潜り込んでいた連中は、全員がこの事実を知った上での共犯者でした。彼らは、「田中家」という偽りの名門の看板を借り、山下という巨大な木に群がる、寄生虫のような集団だったのです。
私は、手元にある資料を強く握りしめました。彼らが誇っていた”名門の一族”。それは全て、一人の子どもから奪った名前と遺産の上に築かれた、虚構の廊下に過ぎなかったのです。そして、彼らは、その当の本人であるカノンさんを使って、今度は本家である山下家そのものを飲み込もうとしていたのです。
「おばあちゃん…。じゃあ、カノンは…。あの子も、被害者だったっていうことなの?」
シ太の声は、複雑な感情に揺れていました。裏切られた怒り、踏みにじられた愛。そして、今、明らかにされた残酷すぎる真実。
「…被害者かどうかは、分からないわね。でも、シ太。彼女があなたに向けた、あなたを馬鹿にし、踏みにじった言葉の数々は、たとえ親に教えられたものであっても、彼女自身が選んで放ったものよ。それは消えない事実だわ」
私は、心を鬼にして言いました。悲しいけれど、カノンさんもまた、田中夫妻の毒に深く侵され、取り返しのつかない怪物になってしまっていたのです。
「村上さん。この事実、警察や当局には?」
「はい、すでに提出済みです。田中マサオには、未成年者略取及び遺産横領の疑いも追加されました。そして、彼らが一族として山下グループから得ていた、全ての役職、報酬、地位について、法的に遡って無効とする手続きを始めています」
私は立ち上がり、窓の外の夜明けを見つめました。空が白み始め、暗闇が少しずつ晴れていく。それと同じように、山下を覆っていた霧も、今、完全に取り払われようとしていました。
「佐藤、手配を。ハワイに滞在している田中一族の全員を、今すぐこのホテルの大広間に集めなさい。そして、日本にいる彼らの親族も、一人残らず、ビデオ回線でつなぎなさい」
「会長、ついに、ですね」
「ええ。彼らが”山下の親戚”として夢見ていた華やかな生活。それが、どれほど脆く、虚ろな嘘の上に成り立っていたか。その最後を見届けてあげるのが、私の、そしてシ太の、最後のけじめよ」
私は、タキシード姿のまま立ち尽くしているシ太の元へ歩み寄りました。
「シ太。あなたは今日、全てを失ったように感じているかもしれない。でも、違うわ。あなたは今日から、本当の山下の長男として、そして一人の人間として、新しく生まれ変わるのよ」
「おばあちゃん、行きましょう。偽物たちが踊り続けた、この無惨な宴を終わらせるために」
私の声には、もはや一片の迷いもありませんでした。

ホテルの大広間。本来であれば、シ太とカノンさんの華やかな披露宴が行われ、日米の政財界から名だたる賓客が訪れるはずだった場所です。そこには今、田中マサオの親族や、彼が田中不動産の役員として送り込んでいた親戚連中、総勢三十名ほどが集められていました。
彼らはまだ、事の重大さを正確には把握していません。ただ、マサオが警察に連行されたという断片的な情報に動揺しながらも、どこかで「山下から多額の口止め料が取れるのではないか」という、浅ましい期待を抱いているようでした。
「おい、山下会長!一体、どういうことだ?うちのマサオを、警察に突き出すなんて!カノンは傷ついて、スイートルームで泣いているんだぞ!」
マサオの弟で、関連会社の専務を名乗っていた田中トシオが、真っ赤な顔で私に詰め寄ってきました。
「そうだ、そうだ!そもそも、あんたの孫が正体を隠してカノンに近づいたのが原因じゃないか!詐欺師はそっちだろう!慰謝料として、山下グループの株をいくらか譲ってもらわないと、収まりがつかないぞ!」
親族たちは、口に醜い欲望を剥き出しにして叫びました。彼らの目は、シ太を人間としてではなく、ただの金のなる木としてしか見ていませんでした。
私は壇上に立ち、一言も発せずに、彼らを見下しました。私の沈黙が続くと、会場の温度がじわじわと下がるような、奇妙な圧迫感が広がっていきました。
「黙りなさい」
私の静かな、しかし芯の通った声が、マイクを通して響き渡りました。その一言で、騒いでいた親族たちが一斉に口を閉じました。
「田中トシオさん。そして、そこにいる親族の皆さん。あなた方は、自分たちが何の上に立っているか、まだ理解していないようね」
私は、傍らに立つ村上弁護士に合図を送りました。
「発表してください」
村上が一歩前に出ました。
「まず、こちらに集まった田中一族の皆様に、現時点での状況をご報告します。本日未明、田中不動産及び関連会社に対し、裁判所から資産の仮差し押さえ命令が下されました。また、皆様が役員として受け取っていた報酬の出所を調査したところ、山下建設からの不当な中抜き、及び架空請求による高額な横領の疑いが濃厚となりました」
会場に、動揺の波が広がりました。
「さらに、重大な事実をお伝えします。皆様が信奉されていた『明治時代からの地主の家系』というプロフィールは、全て捏造であることが判明しました。田中マサオが二十年前に、他人の戸籍を不正に取得し、資産家の名義を乗っ取ったことが、法務局の調査で確定しました」
「な、何を言っているんだ!嘘だ!出鱈目を言うな!」
トシオが叫びましたが、村上は淡々と続けます。
「証拠は全て揃っています。あなた方は、一族揃って他人の人生と財産を盗み、それを隠れ蓑にして、山下グループに寄生してきた偽物です。よって、山下名誉会長のご決断をお伝えします」
私は、一歩前に出て、絶望に染まり始めた彼らの顔を、一人ずつ見据えました。
「田中一族、全員、首よ。私の名において」
会場は、水を打ったような静寂に包まれました。
「首…?会長、何をおっしゃっている?私たちは、正当なビジネスパートナーとして…!」
「ビジネスパートナー?笑わせないで。あなたたちは、私の大切な孫を傷つけ、私の会社を食い物にしようとした害虫よ。今この瞬間を持って、山下グループ、及び提携している全世界の企業は、田中一族、及びそれに関連する全ての人間との取引を、永久に、かつ完全に遮断します」
私が右手を一振りすると、大広間の巨大なスクリーンに、日本での執行状況が映し出されました。彼らが暮らしていた豪邸に、次々と差し押さえの貼り紙が貼られていく様子。彼らの銀行口座が、次々と凍結されていくグラフ。そして、彼らが隠し続けていた裏帳簿の数々。
「ああ…!」
親族の一人が、膝から崩れ落ちました。
「あなたたちが今日まで享受してきた贅沢は、全て、誰かから奪ったものでした。今日からは、その全てを返してもらうわ。損害賠償請求の総額は、田中一族全員の資産を合わせても、足りないでしょうね。あなたたちの子供や孫の代まで、その罪と負債を背負って生きていくことになるわ」
「そ、そんな!助けてくれ!私は何も知らなかったんだ!兄貴に言われるがままに…!」
トシオが壇下まで這いつくばってきましたが、私は視線を合わせることすら拒絶しました。
「知らなかった?嘘をおっしゃい。あなたたちは、シ太が汗水垂らして働く姿を見て、影でゲラゲラと笑いながら、彼のお金を使い込んでいた。その傲慢さが、自分たちの身を滅ぼしたのよ」
シ太は、私の横で静かに、その光景を見ていました。彼の目には、もう、迷いも未練もありませんでした。
「おばあちゃん、ありがとう。シ太が私の耳元で囁いた。これで、僕の長い一日が終わる気がするよ」
「いえ、でも、最後にもう一人、落とし前をつけなければならない人がいるわね」
私は、会場の隅でガタガタと震え、自慢のドレスをボロボロに汚して立ち尽くしている、カノンさんに目を向けました。彼女は、自分の一族が崩壊していく様を、信じられないものを見るような目で見つめていました。彼女にとっての”完璧な世界”が、音を立てて砕け散ったのです。
「カノンさん。あなたにも、特別なプレゼントを用意しているわ」
私の言葉に、カノンさんがビクッと肩を揺らしました。

大広間に充満する、絶望と後悔の匂い。かつて”名門”を気取っていた田中一族は、今や地面を這いつくばる虫のように、醜く命乞いをしていました。私はゆっくりと壇上から降りて行きました。カツン、カツンと響く靴音が、彼らにとっては処刑台へ向かう足音のように聞こえたことでしょう。
私の視線の先には、純白のドレスを泥と涙で汚したカノンさんがいました。彼女は震える手で、必死に自分の腕を抱きしめています。
「カノンさん。先ほど、私はあなたに特別なプレゼントがあると言ったわね」
私は、秘書の佐藤から手渡された一通の青い封筒を、彼女の足元に静かに置いた。
「な、何よ?これ以上、私をどうするつもりなのよ!もう、家もお金も婚約者も、全部なくなったじゃない!これ以上、私から何を奪えば気が済むの!」
彼女は狂ったように叫びました。しかし、封筒の中身を見た瞬間、彼女の叫びは凍りつきました。
「これは…」
「それは、あなたの自由を証明する書類よ」
私は、淡々と告げた。
「中身は、田中マサオ夫妻との養子縁組の無効申立書、及び、あなたの実の両親から盗まれた遺産の返還請求に関する書類。あなたは今この瞬間から、あの醜い”田中”という名前から解き放たれるわ」
カノンさんの目が、大きく見開かれました。
「解き放たれる…?じゃあ、私は…」
「ええ。あなたはもう、彼らの道具ではない。でもね、カノンさん。勘違いしないで。これは、許しではないのよ。名前が変わっても、あなたがシ太に対して言ってきた数々の侮辱、裏切り、そして詐欺行為の責任は、全てあなた自身が負わなければならない。田中マサオという盾を失ったあなたは、これから一人で、数億円に登る損害賠償と、世間の冷たい視線にさらされることになるのよ」
「そ、そんな…!私、一人じゃ無理!おばあ様、お願い!私、本当はあんなこと言いたくなかったの!全部、あの親たちに言わされて…!」
カノンさんは、私の足元にすがりつこうとしました。しかし、それを遮ったのは、今までずっと沈黙を守っていたシ太でした。
「触るな」
シ太の声は低く、そして、血が凍るような冷たさを持っていました。カノンさんは、その声の迫力に圧倒され、動きを止めました。
「シ太さん…。お願い。あなただけは、信じて。私、あなたのこと、本当は…」
「本当は?なんだ?便利なATMだと思ってたんだろう。自分の贅沢のために、僕が毎日泥だらけになって働いて稼いだお金を、笑いながら使ってたんだろう」
シ太は一歩前に出ました。タキシード姿の彼は、崩れ落ちたカノンさんを、まるで道端に落ちているゴミを見るような目で見下しました。
「さっき、ヒデオおじさんが、僕のことを”中卒の現場上がりのガキ”って言った時、君は隣で笑ってたよね。僕はね、あの時、君との思い出が、全部、泥水に変わったのを感じたよ」
「それは…」
「君がどんなに不遇な環境で育ったとしても、それは、僕を裏切っていい理由にはならない。僕は君を愛してた。君との未来のために、自分の人生の全てをかけてた。でも、君が愛していたのは、僕じゃなく、僕の背後にあるはずの金だったんだ。いや、金すら持っていないと分かった瞬間に、君は僕を、ゴミのように捨てた」
シ太は静かに深呼吸をしました。その表情には、もう、怒りすら残っていませんでした。
「カノンさん、さよなら。君に送る最後の言葉は、これだけだ。シ太は、はっきりと、そして残酷なほどに清々しい笑顔で言いました。君がこれから送る、底辺の生活を、心からお祝いするよ。僕が現場で流してきた汗の重さを、今度は君が、その身を持って知ればいい」
その瞬間、会場にいた全員が、シ太の言葉の重みに息を飲みました。
「いやあ!行かないで!シ太さん、助けて!私はお嬢様なのよ!こんな汚い場所で終わる人間じゃないの!」
カノンさんの絶叫が響き渡る中、ホテルのセキュリティと現地警察が、再び現れました。
「田中一族の皆様、全員、同行をお願いします。日本からの国際手配に基づき、身柄を確保します」
泣き叫ぶ親族たち。「私は関係ない」と喚き散らす男たち。そして、髪を振り乱して床を掻きむしるカノンさん。彼らは一人残らず、大広間から引きずり出されていきました。
その無残な姿は、ホテルの宿泊客やスタッフたちのカメラに収められ、またたく間に世界中に拡散されていきました。彼らが何よりも大切にしていた”名誉”と”プライド”が、文字通り世界中で、粉々に打ち砕かれた瞬間でした。

静寂が戻った大広間。シャンデリアの光だけが、虚しく床を照らしていました。私は、シ太の肩を抱きました。彼の体は、かすかに震えていました。それは、悲しみではなく、あまりにも重い呪縛から解き放たれた、解放の震えでした。
「おばあちゃん、僕、これで、良かったんだよね」
「ええ。あなたは、自分の誇りを守り抜いた。これ以上ないほど、立派だったわ」
私は、孫の成長を、心から誇りに思いました。
しかし、この物語には、まだ続きがありました。田中一族を完全に駆逐した、私とシ太の前に、一人の老紳士が歩み寄ってきたのです。
「山下会長。そして、シ太君。素晴らしい決断だった」
現れたのは、このホテルのオーナーであり、ハワイ政財界の重鎮である、アーサー・マクスウェル氏でした。
「会長。あなたのお孫さんに、是非、提案したいことがある。君、君のような、魂のこもった職人にこそ、我々が今計画している、ハワイ最大の伝統建築再生プロジェクトのリーダーを務めて欲しいんだ」
驚愕の提案に、シ太の目が大きく見開かれました。
「僕が…リーダー?」
「ああ。君の図面に対する真摯な姿勢。そして、ダミーデータに仕掛けた知略。何より、人を思いやる心を持ちながら、悪を断つ強さ。君こそ、次世代を担うリーダーにふさわしい」
どん底からの、衝撃の逆転劇。シ太の人生は、ここから、全く予想もしなかった最高の方向へと、加速していくことになります。

ハワイの空が、燃えるような赤色から、深い群青へと溶け込んでいく。波の音はどこまでも穏やかで、数時間前までの喧騒が嘘のように、世界は静寂に包まれていました。ホテルのテラスで、海を見つめるシ太の背中。それは、朝方の、あの痛々しいほど小さな姿とは、別人のように逞しく見えました。
「おばあちゃん、見て。星が出てきたよ。あんなに荒れた一日だったのに、夜はこんなに静かなんだね」
シ太が、穏やかに微笑みました。その瞳には、もう、涙の跡はありませんでした。
「そうね。嵐の後には、いつもより綺麗な星が見えるものよ」
私は彼の隣に立ち、秘書の佐藤から受け取った最終報告書を、一度だけ見返しました。
田中マサオ、ミツコの両名は、余罪のため、日本への強制送還後、長期の服役が確実視されています。彼らが隠し持っていたわずかな財産も、全て被害者への賠償に当てられました。そして、カノンさん。彼女は、盗まれた名前を捨て、今は本名の”アイコ”として、かつての贅沢三昧とは正反対の生活を送っています。彼女に課せられた賠償金の額は、彼女が一生かかっても返しきれないほどのものでした。かつての”お嬢様”を気取っていた彼女に用意されたのは、朝から晩まで小さな工場で働き、差し押さえを免れた安アパートで震える毎日。かつての友人や、婚約者候補たちは、彼女が破滅したと知るや、誰一人として連絡を寄越すことはなかったそうです。
一方、都内の病院を追放された佐藤ケンイチも、自らが横領した資金の返済のために、今は名前も知らない異国の地で、肉体労働に従事していると聞きました。
「おばあちゃん、田中さんたちのことは、もう考えないことにしたんだ。彼らを憎むことに時間を使うより、僕を信じてくれた人たちのために、この手を使いたい」
シ太は、自分の大きな手のひらを見つめました。その手には、これまで彼が積み上げてきた努力の証である、硬いタコがいくつもありました。
「ああ、マクスウェル氏のプロジェクトを受けることに決めたよ。ハワイの古い建物を守り、そこに新しい命を吹き込む。それは、僕が日本でやってきたことと同じ。いや、もっと大きな夢なんだ。ここで修行して、いつか日本に戻った時、おばあちゃんに、本物の家をプレゼントするよ」
「楽しみにしてるわ。でも、無理はしちゃだめよ。あなたは、もう十分すぎるほど頑張ってきたんだから」
その時、テラスの奥から、賑やかな声が聞こえてきました。
「シ太!何をカッコつけてんだ!パーティーはこれからだぞ!」
現れたのは、日本から駆けつけた、工務店の親方や仲間たちでした。田中一族に「品がない」と罵られ、ホテルの隅で身を縮めていた彼らを、私は改めて、山下の賓客として、このテラスに招待したのです。
「親方、すみません。色々とご迷惑をかけて…」
「バカ野郎!水臭えこと言うな!お前の根性は、この親方が一番よく分かってる。お前がハワイでリーダーをやるってんなら、俺たちも日本から応援するぜ。たまには、ドタン場の手入れの仕方、教えに来いよ」
男たちは笑い合い、シ太の肩をポンポンと叩きました。豪華なシャンパンではなく、現地で愛されるビールで乾杯する彼らの姿は、どんな着飾ったセレブたちよりも、眩しく、気高いものに見えました。
私は、その光景を眺めながら、亡き夫の写真をそっと撫でました。
「おじいさん、見てる?あなたの孫は、お金や肩書きよりも、大切な人との絆という財産を、自分の力で見つけたわよ」
私たちが田中一族を追い詰めたのは、単なる復讐ではありませんでした。それは、誠実に生きるものが報われ、嘘と欲にまみれたものが自滅するという、この世の摂理を示したに過ぎません。本当の富とは、銀行の残高にあるのではなく、苦しい時に隣にいてくれる人の数。そして、自分の仕事に誇りを持てる、心の強さにある。シ太は、過酷な一日を通じて、その真理を、誰よりも深く刻み込んだはずです。
「おばあちゃん、これ、僕からの、本当のプレゼント」
シ太が私に手渡したのは、小さな木彫りのブローチでした。それは、彼がハワイに到着してから、ほんの少しの隙間時間を見つけては、私のために、自作していたものでした。ハワイの守り神であるホヌを形取った、世界に一つだけの贈り物。
「ありがとう、シ太。どんな宝石よりも、これが一番嬉しいわ」
私は、そのブローチを胸に飾り、孫と共に、夜の海を眺めました。遠くで打ち寄せる波の音が、新しい時代の幕開けを告げているようでした。田中一族が夢見ていた偽りの王国は消え去り、そこには、一人の若き職人が歩み出す、輝かしい未来の道が、まっすぐに伸びていました。
「よし、おばあちゃん、行こう。みんなが待ってる」
シ太の手が、私の手を取ります。そのぬくもりは、何があっても揺がない、真実の家族の絆でした。ハワイの夜風が、私たちの頬を優しく撫でて通り過ぎていきました。空には満点の星。それは、誠実に生きてきた者だけが見ることのできる、最高の祝福の光でした。

ハワイの眩しい日差しが、エメラルドグリーンの海を宝石のように輝かせています。あの一件から三年。私は再び、あの思い出のホテルのテラスに立っていました。しかし、三年前とは、流れる空気が全く違います。今の私を包んでいるのは、心からの平穏と、誇らしい気持ちでした。
「おばあちゃん、準備はいい?そろそろ始まるよ」
声をかけてきたのは、以前よりも一回りも二回りも逞しくなったシ太でした。彼は今、アーサー氏とのプロジェクトを大成功させ、”ハワイの伝統建築と現代建築を融合させる天才建築家”として、世界中から注目される存在になっていました。
今日のシ太は、再び純白のタキシードを身にまとっています。しかし、三年前のように、震えてはいません。その隣には、彼を優しく支える、美しい女性、ユイさんの姿がありました。
そうです。あの一件で、田中家の不正を暴き、証拠を届けてくれた、元事務員の川田ユイさん。彼女はその後、シ太の仕事に対する情熱と誠実さに惹かれ、彼がハワイで苦労していた時期も、日本からずっと支え続けてくれたのです。
「ユイさん、本当に綺麗よ。シ太を、これからもよろしくね」
「はい。おばあ様、シ太さんと一緒に、温かい家庭を築いていきます」
ユイさんの言葉には、かつてのカノンさんのような気取りは、微塵もありません。あるのは、ただ、真っ直ぐな愛と信頼だけでした。
その時、ホテルの裏口付近で、清掃員の制服を着た一人の女性が、こちらを呆然と見つめているのが目に入りました。
「嘘…。なんで、シ太さんが、あんなに立派に…?」
それは、かつてのカノン。今は、本名のアイコと名乗っている彼女でした。彼女は、賠償金の支払いのためにいくつもの仕事を掛け持ちし、今は現地の清掃会社に雇われて、このホテルの庭園掃除をしていたのです。乱れた髪、荒れた肌、そして、以前の傲慢さが消え去った、疲れ果てた表情。かつて高級ブランドで身を固めていた面影は、どこにもありませんでした。
アイコは、こちらへ駆け寄ろうとしました。
「シ太さん!待って!シ太さん!私よ、カノンよ!ずっと探していたの!」
しかし、彼女がシ太に触れる前に、警備員が静かに、しかし力強く、彼女を静止しました。
「離して!私は、その人の婚約者だったのよ!私は、こんな場所で掃除なんかしてる人間じゃないの!私を、スイートルームへ戻してよ!」
アイコの悲痛な叫びが響きますが、シ太は一度だけ、彼女の方を向き、そして、静かに視線をそらしました。
「人違いですよ。僕の知っているカノンという女性は、三年前に、ハワイの海に消えました。今の僕の隣にいるのは、僕の人生で最も大切な、妻になる人だけです」
シ太の声は、冷酷ではなく、ただ、過去を断ち切った者の、静寂に満ちていました。
「いやあ!待って!謝るから!何でもするから!おばあ様、助けて!私、あんな親たちに騙されていただけなのよ!」
アイコは、私に向かって手を伸ばしましたが、私は一歩も動きませんでした。
「アイコさん。あなたは、自分の足で立ち、自分の手で汗を流して働くことの意味を、ようやく学び始めたところでしょう。その苦しみこそが、あなたがシ太から奪った時間の重さなの。しっかり働きなさい。それが、あなたの唯一の贖罪よ」
私の言葉に、アイコは力なく、その場に崩れ落ちました。
一方、日本にいる田中マサオは、服役中も互いに責任をなすりつけ合い、一族の絆は完全に崩壊したと聞いています。彼らが誇っていた”田中家”という名前は、今や”詐欺と横領の代名詞”として、ネット上のアーカイブに永遠に刻まれています。叔父のヒデオも、全財産を失い、親族から絶縁され、今は孤独な生活の中で、かつての栄光を追い求めるだけの抜け殻のようになっているそうです。
「おばあちゃん、行こう。みんなが待っている」
シ太が、ユイさんの手を引いて歩き出しました。チャペルの扉が開くと、そこには、親方や仲間たち、そしてアーサー氏といった、シ太の真実の価値を理解してくれた人々が、最高の笑顔で待ち受けていました。パイプオルガンの音が、青い海と空に溶け込んでいきます。かつて涙で濡れたタキシード姿の孫が、今、一番の輝きを放っていました。
私は、胸元のブローチに手を当て、そっと呟きました。
「誠実であることが、人生で一番強い武器なのね」
降り注ぐ光は、汚れを洗い流し、新しい生命を育むように、シ太とユイさんを、優しく包み込んでいました。雲一つないハワイの空の下、私たちの、本当の物語が、今、ここから始まったのです。

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