「この家にただで住み続けるつもりなら、出て行ってもらいます」――72歳の誕生日の朝、義娘のトミがニヤリと笑いながら、私にそう言った。32年間、亡き夫と二人で守り続けてきたこの家で、孫の育児も家事も全部引き受けて尽くしてきたのに、今の私の居場所は、6畳の和室だけ。トミは私の大事な着物をゴミ袋に捨て、息子の深夜までもが「母さん、もう限界なんだ」と施設行きを迫ってきた。家族から完全に見放され、涙が…

「この家にただで住み続けるつもりなら、出て行ってもらいます」――72歳の誕生日の朝、義娘のトミがニヤリと笑いながら、私にそう言った。32年間、亡き夫と二人で守り続けてきたこの家で、孫の育児も家事も全部引き受けて尽くしてきたのに、今の私の居場所は、6畳の和室だけ。トミは私の大事な着物をゴミ袋に捨て、息子の深夜までもが「母さん、もう限界なんだ」と施設行きを迫ってきた。家族から完全に見放され、涙が...

朝の静寂を破る冷たい声に、私は手にしていた茶碗を落としそうになった。振り返ると、義娘のトミが腕を組んで立っていた。

「お母さん、聞こえなかったんですか?この家にただで住み続けるつもりなら、出て行ってもらいます」

72歳の私、西村里子は息を飲んだ。この家は、亡き夫と二人で立てた思い出の詰まった我が家。32年間、大切に守り続けてきた。まさか、こんな言葉を聞くことになろうとは。

「トミさん、何を言ってるの?」

「もう決めたんです。お母さんがいると、子供の教育にも良くないし、私たちの生活の邪魔なんです。高齢者施設のパンフレットをテーブルに置いておきましたから」

トミはそう言い残すと、リビングへと歩いていった。私はその場に立ち尽くし、震える手で胸を押さえた。息子の深夜はどこにいるのだろう。まさか、彼もこの話を知っているのか?

朝日が差し込むキッチンで、私は深いため息をついた。この家で、私はもう邪魔者になってしまったのだ。

32年前、夫のケイイチと二人でやっと手に入れたマイホーム。毎月の住宅ローンを必死に返済しながら、ここで息子の深夜を育てた。この庭に桜を植えようと言った夫の笑顔が、昨日のことのように思い出される。

15年前、夫が他界してからも、私はこの家を守り続けた。息子が結婚する時も「母さん、一緒に住もう」と深夜が言い、トミも賛成してくれているという言葉を信じて、同居を始めたのだ。

最初の数年は、確かに仲良くやっていた。トミも「お母さん、いつもありがとうございます」と私の手料理を褒めてくれた。孫が生まれてからは、仕事で忙しいトミに変わって、私が育児の大半を引き受けた。

「おばあちゃん、大好き」

そう言って抱きついてくる孫の笑顔が、私の生きがいだった。朝5時に起きて家事をこなし、孫の世話をし、夕食の準備まで。それでも苦ではなかった。家族のためなら、どんなことでも。

しかし、いつの頃からだろうか。トミの態度が変わり始めたのは、孫が小学校に上がった頃から。私への当たりが強くなってきたような気がする。

それから数日後のこと。リビングでテレビを見ていると、トミが大きなダンボール箱を持って入ってきた。

「お母さん、ちょっといいですか?お母さんの部屋を、もっと有効活用したいんです。荷物をこの箱に入れて、整理してもらえませんか?」

「でも、あの部屋は……」

「私の子供の勉強部屋にしたいんです。お母さんは和室で十分でしょう。6畳もあるんですから」

私は言葉を失った。あの部屋は、夫との思い出が詰まった寝室。仏壇も置いてある。

「仏壇は、ケイイチさんの……ああ、それなら和室の隅に置けばいいじゃないですか。そんなに場所取らないでしょう」

トミの言葉は、私の心を深く傷つけた。でも、波風を立てたくない一心で、黙って頷くしかなかった。

翌週、私は狭い和室に押し込められた。大切にしていた着物や、夫との思い出の品々は「こんな古いもの、もう使わないでしょう。断捨離は大事ですよ、お母さん」と、容赦なく処分された。30年前、夫が私の還暦祝いに買ってくれた訪問着も、「こんな派手で古い着物、もう着る機会ないでしょう」と言われ、目の前でゴミ袋に入れられた。

そんなある日、買い物から帰ると、玄関に見慣れないパンフレットが山積みになっていた。手に取ってみると、全て高齢者施設の案内だった。

「ああ、それ、私が取り寄せたんです」

トミが後ろから声をかけてきた。

「最近のお母さん、物忘れも増えてきたみたいだし、専門の施設の方が安心かなって。物忘れ?私、そんなに…?」

「この前もガスの火を消し忘れてましたよね。危ないんです」

正直、そんな覚えはなかった。でも、トミの断定的な口調に、反論することができなかった。

「それにお母さんがお風呂で転んだりしたら大変でしょう。施設なら24時間見守りがあるから安心ですよ」

「でも、私はまだ元気で……」

「元気なうちに入る方がいいんです。寝たきりになってからじゃ遅いんですから」

日に日に、トミの当たりは強くなっていった。食事の時間になっても呼ばれないことが増え、「お母さんの分、作り忘れちゃった」と、悪びれもなく言われる始末。

「最近、食費もかさむんですよね。お母さんも少しは負担してもらえませんか?月5万円くらい」

年金暮らしの私にとって、5万円は大きな金額だった。それでも、厄介者の身だからと思い、黙って支払った。

ある朝、台所で朝食の準備をしていると、トミが形相を変えて入ってきた。

「お母さん、勝手に台所を使わないでください」

「でも、朝ご飯を……」

「私のキッチンなんです。衛生面も心配だし、お母さんが触ったものを、子供に食べさせたくないんです」

衛生面?私は毎日お風呂に入り、清潔にしているつもりだった。でも、トミの目には、私は汚い老人にしか見えないのだろう。

ある日、孫のユウタが友達を連れて帰ってきた。

「おばあちゃん、お菓子ある?」

「ちょっと待ってね」

私が台所に向かおうとすると、トミが割って入った。

「おばあちゃんを困らせちゃだめよ。おばあちゃんは疲れやすいんだから」

そして、友達の前で信じられない言葉を口にしたのだ。

「ごめんね。うちのおばあちゃん、ちょっと認知症の傾向があって、変なこと言っても気にしないでね」

「トミさん!」

「あら、事実だから怒るんですか?お母さん」

孫の友達の前で、私は何も言い返せなかった。ユウタも、困った顔で私を見ていた。

その夜、私は泣いた。この家で、私はもう家族ではなく、厄介者扱いされているのだと痛感した。

さらに、トミの嫌がらせはエスカレートしていった。私が大切にしていた植木鉢を「邪魔だから」と勝手に処分され、「お母さんの部屋から変な匂いがする」と言いふらされた。

「正直、お母さんと同じ空気を吸うのも嫌なんです」

ある日、トミはそんな言葉まで口にした。近所の人と話していても、トミが割り込んできて「お母さん、また同じ話してる。本当に認知症かもしれませんね」と大声で言うのだ。

数日後、トミはさらに残酷な言葉を投げつけてきた。

「お母さん、正直に言いますけど、あなたがいると子供の教育に悪影響なんです。古い考えを押し付けるし、甘やかすし」

それから、トミは一呼吸置いて、とどめの一言を放った。

「はっきり言って、目障りなんです。この家の雰囲気を暗くしているのは、お母さんなんですよ。家族みんなが迷惑してるんです」

私の存在そのものを否定する言葉だった。この家で32年、家族のために尽くしてきた私の人生を、トミは一瞬で踏みにじった。

その日の夕方、私は思い切って息子の深夜に相談することにした。仕事から帰ってきた深夜を捕まえて、書斎に呼んだ。

「深夜、ちょっと話があるの」

「何?母さん、疲れてるから手短にしてよ」

息子のそっけない態度に胸が痛んだが、勇気を振り絞って切り出した。

「トミさんのことなんだけど、最近、私への当たりがきつくて」

深夜は面倒臭そうに椅子に座り、スマートフォンを見ながら聞いていた。

「トミが何かした?」

「私の部屋を取り上げられて、和室に押し込められたの。それに、認知症扱いされて……」

「ああ、部屋のことね。トミから聞いたよ。子供の勉強部屋が必要だって。それくらい協力してもいいんじゃない?」

私は息子の反応に驚いた。まるで他人事のような口調だった。

「でも、お父さんとの思い出の部屋なのよ」

「母さん、いつまでも過去に縛られちゃだめだよ。前を向かなきゃ」

「それだけじゃないの。食事も作ってもらえない時があって、月5万円も請求されて……」

すると、深夜の表情が急に険しくなった。

「母さん、トミも大変なんだよ。仕事しながら家事して子育てして。少しは感謝したらどうなの?」

「感謝?私だって、孫の世話をして、家事も手伝って……」

「手伝うのは当たり前でしょ。同居させてもらってるんだから」

同居させてもらっている?この家は私の家なのに。でも、その言葉を飲み込んだ。

「それに、高齢者施設のパンフレットを渡されて……」

「ああ、それも知ってる。母さんも72歳だし、そろそろ考えた方がいいんじゃない?」

「深夜、私を追い出したいの?」

息子は一瞬、目を開いた。そして、深いため息をつきながら言った。

「母さん、正直に言うよ。俺たちも自分たちの生活があるんだ。いつまでも母さんの面倒を見るわけにはいかない。トミの言うことも一理あるんだよ。母さんがいると、確かに家の雰囲気が重くなる。言うたら、ユウタも最近は友達を家に呼びたがらないし……」

私は耳を疑った。息子の口から、こんな言葉が出てくるなんて。

「私が邪魔だって言うの?」

「邪魔とは言わないけど……でも、トミの気持ちも分かるんだ。毎日顔を合わせるのも、正直きついって」

「深夜、あなたを育てるためにお父さんと必死に働いて、この家を立てたのよ。大学まで行かせて」

「それは感謝してるよ。でも、それとこれとは別の話でしょう」

深夜は立ち上がり、ドアの方へ向かった。

「とにかく、トミとうまくやってよ。俺も板挟みで疲れるんだ」

「待って、深夜。お母さんの話を聞いて」

「もう聞いたでしょ?母さん。いい加減現実を見てよ。ここは俺たち家族の家なんだ。母さんは……」

深夜は言いかけて、口をつぐんだ。でも、その先の言葉は言わなくても分かった。『お前はもう家族じゃない』。そう言いたかったのだろう。

「施設のこと、真剣に考えてみてよ。その方が母さんのためにもなるから」

深夜はそう言い残して、部屋を出ていった。私は一人、書斎に取り残された。涙が止まらなかった。息子にまで裏切られるなんて。あの小さかった深夜が、私を厄介者扱いするなんて。

その夜、食卓でトミが勝ち誇ったような顔で言った。

「お母さん、深夜さんと話したんですって?施設のこと、前向きに考えてくださいね」

深夜は黙って食事を続けていた。私の目を見ようともしない。

「深夜さん、お母さんにはっきり言ってあげたら」

トミに促されて、深夜がようやく口を開いた。

「母さん、来月中には施設を決めてほしい。俺たちも、もう限界なんだ」

限界。息子の口から出た言葉は、私の心に深く突き刺さった。

「金銭的な援助もできないし、母さんの年金で入れるとこ……世話してもらうしかない」

私は箸を置いた。もう何も通りませんでした。その瞬間、私の中で何かが音を立てて崩れ落ちた。もう、この家に私の居場所はないのだと、はっきりと悟った。

その夜、私は一睡もできなかった。息子の裏切りとトミの嘲笑が、頭の中でぐるぐると回り続けていた。

朝方、ふと夫の遺影の写真が目に入った。

「ケイイチさん、私はどうすればいいのでしょう?」

仏壇の前で手を合わせていると、不思議と心が落ち着いてきた。そして、ある考えが頭をよぎった。

「そうね。お望み通りにしてあげましょう」

私は静かに立ち上がった。もう、迷いはなかった。

朝食の時間、トミがいつものように嫌味を言ってきた。

「お母さん、施設のパンフレット、ちゃんと見ましたか?早く決めてくださいね」

「ええ、拝見しました。でも、その必要はありません」

「は?どういう意味ですか?」

私はトミの目をまっすぐ見つめた。

「私も考えたんです。確かに、このままでは皆さんにご迷惑をかけますものね」

トミは勝ち誇ったような笑みを浮かべた。

「やっと分かってくれたんですね。それで、どこの施設に?」

「いいえ。施設には入りません。もっといい方法を思いつきました」

そう言って、私は席を立った。トミの困惑した表情を背に、私は自室へ向かった。

部屋に戻ると、すぐに古い電話帳を取り出した。ここには、以前から付き合いのある不動産業者の連絡先が書かれていた。山田不動産の山田社長は、夫の友人でもある信頼できる人物だ。

「もしもし、山田社長でしょうか?西村里子です」

「おお、佐子さん、お久しぶりです。お元気でしたか?」

「ええ、おかげ様で。実はご相談があって……」

私は深呼吸をしてから、切り出した。

「家を売却したいんです」

電話の向こうで、山田社長が驚いたような声を上げた。

「え?あの、思い出の家を?何か事情が?」

「ええ、まあ、事情がありまして。できるだけ早く売却したいんです」

「分かりました。では、明日にでも査定に伺いましょうか?」

「いえ、今日来ていただけませんか?急いでいるんです」

山田社長は私の真剣な様子を察したのか、すぐに了承してくれた。

午後2時、山田社長が査定にやってきた。トミは買い物に出かけていて、深夜は仕事。絶好のタイミングだった。

「佐子さん、この家は立地もいいし、手入れも行き届いている。かなりの高値で売れますよ」

「そうですか。それは良かった」

「でも、本当にいいんですか?ケイイチさんとの思い出が詰まった家でしょう」

私は静かに微笑んだ。

「思い出は心の中にあります。家は、もう必要ありません」

山田社長は私の決意を感じ取ったようだった。

「分かりました。買い手はすぐに見つかるでしょう。ところで、息子さんはこの件を……」

「いいえ。でも問題ありません」

私は土地の権利書を取り出した。そこには、はっきりと私の名前だけが記されていた。この家の名義は、私一人。夫が亡くなった時、全て私が相続した。息子の同意は必要ない。

山田社長は書類を確認し、頷いた。

「確かに、佐子さんの単独所有ですね。法的に何の問題もありません」

「では、お願いします。できるだけ早く」

「分かりました。最短で1ヶ月後には引き渡しできるよう、手配します」

山田社長が帰った後、私は持ち物の整理を始めた。本当に必要なものだけを選別し、新しい生活の準備を進めた。

夕方、仏壇の前で手を合わせた。

「ケイイチさん、ごめんなさい。でも、もうこの家には私の居場所はないんです」

不思議と悲しみはなかった。むしろ、清々しい気持ちだった。

その夜、私は何事もなかったかのように夕食の準備をした。トミも深夜も、まさか私がこんな行動に出るとは夢にも思っていないだろう。

「お母さん、明日も施設見学に行きましょうか?」

トミが余裕の笑みを浮かべながら言った。

「そうですね。でも、もう少し待ってください。来月には、きっといい報告ができますから」

「あら、やっと決心がついたんですね」

「ええ、決心はつきました。でも、それはあなたたちが望んでいるものとは、全く違うものですけどね」

私は心の中で毒づきながら、静かに微笑んだ。復讐の準備は、着々と進んでいるのだ。

1ヶ月後の夕食時、私は静かに箸を置いた。トミと深夜は、いつものように私を無視して会話を続けている。

「そういえば、来月のユウタの塾代、ちょっと高くなるのよね」

「仕方ないだろ。高校に入れたいんだから」

私は深呼吸をしてから、口を開いた。

「あの、大切なお話があります」

二人は面倒臭そうに私を見た。

「来月の15日に、この家を売却することになりました」

一瞬、食卓に静寂が訪れた。トミが最初に反応した。

「は?何を言ってるんですか?」

「聞こえませんでしたか?この家を売却します。もう契約も済んでいます」

深夜が箸を落とした。カチャンという音が、静かな食卓に響いた。

「母さん、何をバカなことを?」

「バカなこと?私は深夜をまっすぐ見つめた。あなたたちが望んだことでしょう。私に出ていけと言ったのは」

トミが形相を変えて立ち上がった。

「そんなつもりじゃ……施設に入っていただくだけで……」

「あら、『邪魔者はいなくなれ』って言ったのは、トミさんでしょう。お望み通り、私はこの家から出ていきます」

「母さん、落ち着いて。この家は俺たちも住んでるんだ」

「そうですね。でも、この家の名義は私です。売却に、あなたたちの許可は必要ありません」

私は売買契約書を取り出し、テーブルに置いた。

「これが契約書です。来月15日が引き渡し日。それまでに荷物をまとめて出ていってください」

トミが震える手で契約書を確認している。

「こ、これ、本物……」

「もちろんです。山田不動産の山田社長に、適正価格で売却しました」

深夜が青ざめた顔で叫んだ。

「母さん、俺たちはどこに住めばいいんだ?」

「それは私の知ったことではありません。自分たちの生活があるとおっしゃったでしょう。どうぞ、ご自分たちで何とかしてください」

トミが突然、態度を変えた。

「お、お母さん、ごめんなさい。私が悪かったです。撤回してください」

「撤回?もう契約は成立しています。法的に撤回はできません」

トミは膝から崩れ落ちた。

「お願いします。子供もいるんです。ユウタの学校もあるし……」

「ユウタの教育に、私は悪影響なんでしょう。これで良かったじゃないですか」

深夜も必死になった。

「母さん、頼む。考え直してくれ。俺が悪かった」

「何が悪かったんですか?」

「全部だ。母さんを邪魔者扱いしたことも、トミの肩を持ったことも……」

私は冷たく微笑んだ。

「今更ですね。あなたは『もう限界だ』と言いました。なら、もう私に頼らないでください」

トミが土下座した。

「お母さん、本当にごめんなさい。私が間違っていました」

「邪魔者にお願いすることなんて、ないでしょう。私はトミが以前言った言葉をそのまま返した。それに、『金がないなら出ていけ』とおっしゃいましたよね。あなたたちこそ、この家を買うお金はあるんですか?」

二人は言葉を失った。

翌日から、息子夫婦の態度は一変した。

「母さん、朝ご飯作りました」

「お母さん、肩でも揉みましょうか?」

必死の手のひら返しだったが、私の決意は変わらない。

「もう遅いです。新しい買い主さんも決まっていますから」

日に日に、引き渡し日は近づいてきた。深夜は不動産屋を回り始めたが、この辺りの家賃の高さに絶望していた。

「母さん、お願いだ。せめて頭金だけでも援助してくれないか?」

「お金?私はお荷物でしたよね。お荷物には、お金なんてありません」

トミも必死だった。

「お母さん、一緒に住みましょう。私たちがアパートを借りて、お母さんも……」

「私を邪魔者扱いする人たちと、また一緒に住むなんて考えられません」

ある日、トミの両親が現れた。

「佐子さん、娘が大変失礼なことをしたと聞きました。どうか、許してやってください」

トミの母親が頭を下げた。

「申し訳ありませんが、もう決めたことです。トミさんがおっしゃった通り、私は邪魔者ですから、消えることにしました」

「でも、ことを考えて……」

「トミさんは、私が孫の教育に悪影響だとおっしゃいました。これでいいんです」

引き渡しの3日前、深夜が最後の説得に来た。

「母さん、俺は母さんの息子だろ?血のつながった家族だろ?」

「あら、もう家族じゃないという態度だったじゃないですか」

「違う。俺は……」

「深夜、あなたは私に何と言いましたか?邪魔者扱いしたのは、あなたたちです」

私は立ち上がり、窓の外を見た。この家での32年間、私は家族のために生きてきた。でも、もう終わりだ。

トミが泣きながら言った。

「ユウタのためにお願いします」

「ユウタさんのことは心配していません。あなたたちが自分たちの生活の中で、しっかり育ててください」

深夜が最後の手段に出た。

「母さん、親不孝者の息子を許してくれ。これからは母さんを大切にする」

「信じられません。あなたはトミさんの味方でしょう。私の話も聞かずに……」

「本当に反省してるんだ」

「反省は、アパートでゆっくりなさってください」

ついに、引き渡し当日がやってきた。引っ越し業者のトラックが到着し、息子夫婦の荷物が運び出されていく。

「母さん、本当にこれでいいのか?」

深夜の目には涙が浮かんでいた。今更、親子の情に訴えても遅い。

「ええ、これでいいんです。お互い、新しい生活を始めましょう」

最後に、トミが言った。

「お母さん、私たち、これからどうすればいいんですか?」

「トミさん、あなたは賢い方でしょう。きっと素敵なお住まいが見つかりますよ」

私は鍵を新しい持ち主に渡し、この家を後にした。振り返ると、狭い軽トラックに荷物を詰め込む息子夫婦の姿が見えた。あんなに偉そうだった二人が、今は途方に暮れている。これが私の仕返し。完璧な、そして合法的な復讐だった。

売却から3ヶ月が経った。私は今、湘南の海が一望できる高層マンションの最上階で、朝のコーヒーを楽しんでいる。

「今日もいい天気ね」

大きな窓から差し込む朝日が、リビング全体を優しく照らしている。あの狭い和室での窮屈な生活が、まるで悪い夢だったかのようだ。

家の売却金は、予想以上の金額だった。山田社長の尽力もあり、相場より2割も高い値段で売れたのだ。そのお金で、私はこの素敵なマンションを購入し、残りは老後の生活資金として大切に管理している。

「佐子さん、今日も絵画教室にいらっしゃるの?」

同じマンションに住む友人の佐藤さんが、エレベーターで声をかけてくれた。

「ええ、今日は水彩画の日なの。海の絵を描こうと思って」

「素敵ね。佐子さんの絵、本当に上達したわ」

新しい生活を始めてから、私は長年の夢だった絵画を習い始めた。若い頃は家族のために諦めていた趣味を、今になってようやく楽しめるようになったのだ。

「実は、来月、個展を開くことになったの」

「まあ、おめでとうございます!」

午後は、近所のカフェで読書会に参加した。同年代の女性たちと文学について語り合う時間は、知的な刺激に満ちている。

「佐子さんの感想、いつも的確で関心するわ」

「ありがとう。教師をしていた経験が生きているのかもしれません」

「そういえば、佐子さんが引っ越してきてから、この読書会も活気づいたわよね」

仲間たちの温かい言葉に、心が満たされる。誰にも邪魔されない、自分だけの時間。これほど贅沢なことはない。

夕方、海辺を散歩していると、携帯電話が鳴った。画面を見ると、深夜からだった。この3ヶ月で、もう50回は着信があっただろうか?でも、私は一度も出ていない。

留守番電話にメッセージが残された。

「母さん、深夜です。お願いだから連絡をください。トミも反省しています。ユウタもおばあちゃんに会いたがっています。俺たち、本当に困っています。アパートは狭くて、ユウタの勉強部屋もありません」

ユウタのことを思うと、少し心が痛む。でも、私の決意は変わらない。あの子の両親が、私を邪魔者扱いしたのだから。

「お金がなくて、ユウタの塾もやめさせました。母さん、助けてください。助けて……」

今更、何を言っているのだろう?『金がないなら出ていけ』と言ったのは、あなたたちではありませんか。

後日、山田社長から連絡があった。

「佐子さん、実は、息子さんが私のところに来ましてね」

「そうですか」

「新しい家を探しているようですが、なかなか条件に合う物件が見つからないようで。今は郊外の古いアパートに住んでいるそうです」

「それは大変ですね」

私のそっけない返事に、山田社長は察したようだった。

「佐子さんの気持ち、よく分かります。私も詳しい事情を聞いて、驚きました。息子さん夫婦は、相当後悔しているようです」

「後悔は自由です。でも、もう遅いんです」

山田社長によると、息子夫婦は郊外の古い2DKのアパートに引っ越したそうだ。家賃を払うのがやっとで、ユウタの塾もやめざるを得なかったとか。トミも仕事を増やし、朝から晩まで働いているそうだ。

「因果応報ですね」

私がそう言うと、山田社長も頷いた。

「人を大切にしないものは、いずれ自分に帰ってくる。佐子さんの選択は、正しかったと思います」

ある日、絵画教室の先生から提案があった。

「佐子さん、今度の市民文化祭に、作品を出品してみませんか?」

「私なんかの絵が……」

「いやいや、とても味わいがあって素敵ですよ。特に、この『解放の海』という作品は傑作です」

生まれて初めての作品展示。胸が高鳴った。これも、自由な時間があるからこそできることだ。

文化祭当日。私の絵の前で、足を止める人が大勢いた。

「この海の絵、心が現れるようね」

「描いた方の優しさが伝わってくるわ」

「でも、どこか強い意志も感じるわね」

嬉しい言葉をたくさんいただいた。その中に、見覚えのある顔があった。

「お母さん……」

トミだった。やつれた顔で、私の前に立っていた。以前の派手な服装とは違い、質素な格好をしている。

「どうしてここに……」

「山田社長から聞いて。お母さんの絵を見に来ました」

トミの隣には、深夜とユウタもいた。三人とも、3ヶ月前とは別人のようにやつれている。

「おばあちゃん!」

ユウタが駆け寄ってきたが、トミが止めた。

「ユウタ、勝手なことしちゃだめ」

その光景を見て、私は静かに言った。

「もう、他人でしょう。知らない人に話しかけられても、困ります」

深夜が前に出た。目に涙を浮かべている。

「母さん、3ヶ月考えた。俺たちが完全に間違っていた」

「そうですか」

「本当に後悔している。どうか、もう一度だけチャンスをください」

「チャンス?あなたたちは、私にチャンスをくれましたか?」

トミが膝をついて土下座した。

「お母さん、本当にごめんなさい。私が愚かでした。お母さんの大切さが、いなくなってから分かりました」

「トミさん、あなたは『お母さんの顔も見たくない』と言いましたね。お望み通り、もう会う必要はないでしょう」

「違います。あの時の私は、本当にバカでした」

ユウタが泣き始めた。

「おばあちゃん、僕、おばあちゃんに会いたかった……」

胸が締めつけられる。でも、私は心を鬼にした。

「ユウタ君、おばあちゃんは君の教育に悪影響なんでしょう。お母さんがそう言っていました」

トミが顔を覆った。

「私が間違っていました。ユウタは毎日おばあちゃんの話をします。優しかったおばあちゃんが大好きだって」

深夜が必死に訴える。

「母さん、俺たちのアパートは本当に狭いんだ。でも、それでも一緒に住んでくれないか?」

「今更ですね。私には、もう快適な住まいがあります」

「金の問題じゃないんだ。家族として、もう一度やり直したい」

私は冷たく微笑んだ。

「家族?あなたは、私を家族じゃないと言いましたね。他人だと」

深夜は何も言い返せなかった。

その時、ユウタが小さな絵を差し出した。

「おばあちゃん、これ、僕が書いたの」

それは、私とユウタが一緒に遊んでいる絵だった。拙い絵だったが、愛情が込められているのが分かった。

「上手ね。でも、もう受け取れません」

私は背を向け、会場を後にした。振り返ることはしなかった。背後から、トミの鳴き声が聞こえた。

その夜、マンションのバルコニーで夜景を眺めながら、私は亡き夫に語りかけた。

「ケイイチさん、私は冷たい人間になってしまったでしょうか?」

でも、心の中で夫の声が聞こえたような気がした。

『佐子、よく頑張ったね。もう、自分のために生きていいんだよ。君は十分に尽くした』

涙が頬を伝った。でも、それは悲しみの涙ではない。解放の涙だった。

翌朝、いつものように海を眺めていると、新しい一日が始まったことを実感した。今日は絵画教室の日。来週は温泉旅行も計画している。今、私には素晴らしい友人たちがいる。趣味の絵画がある。読書会がある。何より、誰にも邪魔されない自由がある。

人生、70年を過ぎて、ようやく本当の幸せを見つけた。私は微笑みながら、そうつぶやいた。

佐子さんの選択は、理不尽な扱いに屈しない強さの象徴だった。家族だからと言って、何をされても我慢しなければならないわけではない。自分の尊厳を守り、正当な権利を行使することは、決して悪いことではないのだ。

時に、大切なのは血のつながりではなく、互いを尊重し合える関係性なのかもしれない。佐子さんは自分を否定する人々から離れ、自分を大切にしてくれる新しい仲間たちと出会った。邪魔者扱いした報いは、必ず帰ってくるものだ。佐子さんの息子夫婦は、今、身を持ってそれを実感しているだろう。

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