温泉旅行のチケットを差し出した夫の顔は、三十年間で初めて見せるような照れくさそうな笑顔だった。
「たまにはゆっくりしな。一泊二日の温泉旅行だ。羽を伸ばして来いよ」
夕食の片付けをしていた私は、その言葉を信じた。結婚して三十年。家事を手伝ったことなど一度もなく、私の誕生日すら覚えていない夫が、初めて見せた優しさ。私は胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。
「どうしたの?急に」
「お前ももうすぐ還暦だろ。これまで苦労をかけたと思ってな」
そう言って目をそらす夫の姿に、私は不器用な夫なりの感謝の気持ちだと素直に受け止めた。だが、この時はまだ気づいていなかった。彼の笑顔の裏に、身の毛もよだつような計画が隠されているなんて。
数日後、私は夫に見送られ、期待と少しの不安を抱えて家を出た。駅の改札で見せた彼の穏やかな笑顔が、夫として私に向けられた最後の顔になるとは、夢にも思わなかった。
電車に揺られ、熱海を過ぎたあたりで重大なことに気づいた。鞄の中に、血圧の薬と、長年肌身離さず持っていた日記を忘れてきたのだ。まだ家を出て一時間も経っていない。今戻れば、次の電車で旅館に向かっても夕食には間に合う。私は予定を変更して家に戻ることにした。
自宅の最寄り駅を降り、足早に家へ向かう。夫はきっと驚くだろう。「忘れ物しちゃって」と笑いながら玄関を開ける。そんな光景を想像していた。
しかし、門扉をくぐろうとした時、異変に気づいた。ガレージに見慣れない派手な赤い軽自動車が止まっている。そして、二階の寝室の窓から、聞き慣れない女性の高い笑い声が漏れてくる。
心臓の鼓動が一気に早くなる。嫌な汗が背中を伝った。私は音を立てないように玄関の鍵を開けた。
廊下には、脱ぎ捨てられた見知らぬ赤いハイヒール。そしてリビングから聞こえてきたのは、夫の声だった。
「わはは、今頃はのん気に湯舟に浸かってるぜ。まさか自分が捨てられる準備をされてるなんて、これっぽっちも思ってないだろうな」
その言葉を聞いた瞬間、私の世界は音を立てて崩れ落ちた。三十年の歳月を粉々に砕く、残酷な裏切りの言葉。
私は震える手でスマートフォンの録音ボタンを押し、一歩ずつリビングへ近づいた。
リビングのドアを数センチだけ開け、中を覗き込む。そこには、夫と、私の娘ほども年の離れた派手な女がいた。女は私のエプロンを身につけ、我が者顔でキッチンに立ち、夫のために酒の肴を作っている。夫は、私には一度も見せたことのないような蕩けるような笑顔で、その女を見つめていた。
「ケンジさん、本当に大丈夫なの?奥さん、明日には帰ってきちゃうんでしょう」
女が甘ったるい声で尋ねると、夫は鼻で笑った。
「大丈夫だって。あの鈍感な女が気づくはずがない。今頃はのん気に温泉に浸かって、高い料理でも食ってるさ。それが人生最後の贅沢になるとは知らずにな」
人生最後の贅沢。その不穏な響きに、私は目眩を覚えた。
私は長年、この男のために尽くしてきた。家事はすべて私の仕事。彼は「誰のおかげで飯が食えてると思ってるんだ」が口癖で、私は常に彼の顔色を伺って生きてきた。子供たちが独立した後も、義両親の介護も一人で引き受けた。義母を見取ったのは、わずか一年前のことだ。
「やっとお袋の介護も終わって、俺も自由になれると思ったんだ。なのに、あいつと来たら、次は自分の老後の心配ばかりしやがって。見てるだけで息が詰まるんだよ」
夫はビールを煽りながら、吐き捨てるように言った。
「介護なんて、嫁の義務だろう。それを恩着せがましく、正直あいつの顔を見るのも嫌なんだ。シワだらけの顔で『お疲れ様』なんて言われると、ヘドが出る」
私は熱を出して寝込んでいる時も、彼は「俺の飯はどうするんだ」と言う人だった。ふらつく足で台所に立ち、彼の食事を用意した。それでも、それが夫婦なのだと自分に言い聞かせてきた。いつか年を取れば、分かり合える日が来ると信じていた。
この温泉旅行の誘いも、ようやくその日が来たのだと信じた自分を、今すぐ殴ってやりたい衝動に駆られた。
「でも、離婚するって言っても、簡単にはいかないでしょう。慰謝料とか財産分与とか」
女の言葉に、夫は卑劣な笑みを浮かべた。
「そんなもの、一円も払うつもりはないさ。あいつは専業主婦だぞ。この家も貯金も、全部俺が働いて稼いだ金だ。あいつには一銭の権利もない。それどころか、あいつが大事に溜め込んでるへそくりも、全部俺の名義の口座に移しておいた」
私は耳を疑った。私が結婚当初からパート代や食費を切り詰めてこつこつと貯めてきた、あの口座のことだ。万が一に備えて、あるいは二人の老後のためにと準備していた大切な資金。通帳とキャッシュカードは、引き出しの奥に隠していたはずだ。
「ええ、すごい。さすがケンジさん。じゃあ、この家も私の好きにしていいの?」
「ああ、あいつが旅行から帰ってくる頃には、鍵も全部変えてある。荷物は全部、三畳間のボロアパートに送り付けてやるさ。あいつには、せいぜい一人で孤独死してもらうのがお似合いだよ」
夫と女はグラスを合わせて、高らかに笑い合った。
私は怒りで体が小刻みに震えた。今すぐドアを蹴破って怒鳴り込みたい衝動に駆られた。しかし、必死に自分を抑えた。ここで感情を爆発させても、何の解決にもならない。夫はきっと逆切れし、私を力づくで追い出すだろう。そうなれば、私は何の準備もないまま、路頭に迷うことになる。
私は深呼吸をし、静かに、音を立てずにその場を離れた。幸い、夫たちは酒と会話に夢中で、私の存在に全く気づいていない。私は玄関に置いてあった自分の鞄を掴み、外に出た。
外の空気は冷たく、火照った頬を刺すようだった。私は暗い夜道を歩きながら、冷酷なまでに冷静になっていく自分を感じていた。
ケンジさん、あなたは大きな間違いを犯した。私がただの従順な女房だと思っていたのなら、それは大間違いよ。
私は、あなたが知らない秘密を抱えている。そして、あなたが奪ったと思っている貯金についても、あなたが知らない事実がある。
絶対に、ただでは済ませない。
私は暗闇の中で一人、そう誓った。復讐の炎が、私の心の中で静かに、しかし激しく燃え上がっていた。私はスマートフォンの連絡先を開き、ある人物に電話をかけた。
「もしもし、お久しぶりです。実は、お願いしたいことがあるんです」
電話の相手は、夫が最も恐れ、そして最も会いたくないであろう人物だった。
—
「随分と楽しそうね、ケンジさん」
私の声がリビングに響いた瞬間、空気は一瞬で凍りついた。ソファにふんぞり返り、女に肩を揉ませていた夫が、まるで糸の切れた操り人形のように動きを止める。女も、手に持っていたビールの空缶を床に落とした。
「お、お前、なんでここにいるんだよ。旅行に行ったんじゃなかったのか」
「忘れ物をしたのよ。血圧の薬と、日記。でも、戻ってきて正解だったわね。まさか、家の中でこんな盛大なパーティーが開かれているとは思わなかったわ」
私の皮肉に、夫はようやく我に返ったようだった。彼は焦りを隠すように、わざと大きな声で怒鳴り始めた。
「ふん。バレちまったもんは仕方ねえな。そうだよ、見ての通りだ。こちらはリカちゃん。俺の新しいパートナーだ。お前みたいな古臭い、愛のない女とは、おさらばなんだよ」
「やだ、ケンジさん、怖い。この人が奥さん?写真で見るよりずっと、その、お疲れっていうか、おばあちゃんみたい」
女の言葉に、夫は鼻で笑った。
「そうだろう。家の中じゃいつもボロみたいな格好して、暗い顔して掃除ばかりしやがって。お前と一緒にいると、こっちまで陰気になるんだよ。せっかくの温泉旅行も、俺がお前を追い出すための準備期間として用意してやったんだ。ありがたく思えよ」
私は何も言い返さず、ただじっと夫を見つめた。怒りを越えた先にある、深い悲しみと絶望が胸のうちに広がっていく。三十年間、この男のために尽くしてきた日々が走馬灯のように脳裏を駆け巡った。
「本気なのね。私を追い出して、その人とここで暮らすつもり」
「本気に決まってるだろう。離婚届けなら、もう用意してある。お前の署名なんていらないんだよ。勝手に出しておいてやるからな。それから、この家の鍵も明日には変える。お前の荷物は全部ゴミ袋に詰めて、表に放り出しておいてやるよ」
「この家は、二人でローンを払って建てた家よ。私にも権利があるわ」
「権利?笑わせるな。ローンを払ってきたのは俺だ。お前はただ、俺の稼いだ金で飯を食わせてもらっていただけだろうが。専業主婦が何を偉そうに。お前が家でだらだらしている間、俺がどれだけ外で頭を下げて働いてきたと思ってるんだ」
夫の言葉は、鋭い刃物のように私の心を切り裂く。専業主婦の労働は、彼にとっては「だらだらしている」だけにしか見えなかった。年中無休、二十四時間体制で家族を支えてきた日々が、一円の価値もないものとして切り捨てられた瞬間だった。
「あーあ、ケンジさん、そんなに怒らなくても。このおばさん、もうすぐ行くところがなくなるんだから、かわいそうじゃない?」
リカと呼ばれた女が、くすくすと笑いながら言った。
「ねえ、おばさん。ケンジさんから聞いたわよ。貯金も全部、ケンジさんの口座に移したんだって。今更騒いでも無駄よ。法律的にも、夫婦の財産は旦那さんのものなんでしょう?」
女の無知な嘲笑に、私は唇を噛みしめた。確かに、夫は私の管理していた口座から全額を引き出し、自分の隠し口座に移したようだ。彼は私から住む場所だけでなく、生きていくための金さえも奪おうとしていた。
「分かったわ」
私は短く答えた。
「え?」
夫が間抜けな顔をする。もっと泣き叫び、すがりついてくると思っていたのだろう。
「離婚には応じます。今日、このまま出ていくわ」
「ほ、ほう。話が早くて助かる。さすが、長年俺の顔色を伺ってきただけはあるな。分かればいいんだよ。分かれば、お前みたいな価値のない女は、どこへでも消えちまえ」
夫は勝ち誇ったように、私の顔の前に離婚届を叩きつけた。
「さっさと名前を書け。それで、今すぐその薄汚い顔を俺の前から消せ。二度とこの敷居をまたぐなよ」
私は無言でダイニングテーブルに置かれたペンを手に取った。手は震えていない。むしろ、驚くほど冷静だった。夫の傲慢な態度、女の嘲笑。それらすべてを、私は心の中で記録していた。
名前を書き終えた私は、離婚届を夫に突き返した。
「これでいいんでしょう?」
「ああ、満足したぜ。さあ、荷物をまとめて出ていけ。猶予は五分だ」
夫の高笑いが背中に突き刺さる。私は二階へ上がり、あらかじめ用意しておいた小さな旅行鞄を手に取った。本当の「忘れ物」は、薬や日記だけではなかった。
一階に降りてくると、夫は玄関先で私の靴を外に放り投げようとしていた。
「おい、早くしろよ。ゴミ収集者が来る前に片付けてやりたいんだからな」
私は夫の横を通り抜け、玄関のドアノブを掴んだ。そして、最後に一度だけ振り返って彼らを見つめた。
「ケンジさん、一つだけ忠告しておくわ。あなたは、自分が何を手放したのか、まだ分かっていないみたいね」
「ああ?負け惜しみかよ。みっともねえな。さっさと消えろ」
私は冷たい夜風の中へと踏み出した。手元のスマートフォンが一通のメッセージを受信して光る。それは、先ほど電話した人物からの「作戦開始」の合図だった。
「おい、グズグズするな。早くその荷物を持って消えろと言っているんだ」
玄関のドアを乱暴に開け放ち、夫は私の小さな旅行鞄を庭の植え込みに向かって放り投げた。鞄は無惨に土の上に転がり、中に入れていた着替えが少しはみ出してしまった。
「あはは、ゴミ捨て場がお似合いね」
後ろでリカの嘲るような声が聞こえる。私は植え込みまで歩き、泥のついた鞄を静かに拾い上げた。すると、夫はさらに追い打ちをかけるように、私の靴を一足ずつわざと遠くの道路へと放り投げた。
「ほら、お前の居場所はあっちだ。この家は、お前みたいな価値のない女が住んでいい場所じゃないんだよ」
「価値のない女、ねえ」
私はぼそりとつぶやいた。その声は、自分でも驚くほど冷たく乾いていた。
「そうだ。考えてもみろ。お前はこの三十年間、一度でも俺より稼いだことがあるか?一度でも俺に贅沢をさせてくれたことがあるか?お前がやっていたことなんて、誰にでもできる掃除と洗濯と、面白くもない飯作りだけだ。そんなのは、女中を雇えば済む話なんだよ」
夫の言葉は止まらない。長年溜め込んでいた不満を一気に吐き出すかのように、彼は私を言葉の暴力で殴り続けた。
「お前は、中卒の親に育てられた教養のない女だ。俺が結婚してやらなきゃ、今頃どっかの工場で油にまみれて働いてたはずなんだぞ。俺というエリートの妻になれたことを、死ぬまで感謝して暮らすのが筋だろうが。それを、ちょっと介護をしたくらいで被害者面しやがって。恩知らずもいい加減にしろ」
私の両親のことまで持ち出し、彼は嘲笑った。確かに私の実家は裕福ではなかったが、両親は誠実に働き、私を愛情深く育ててくれた。その両親を侮辱された瞬間、私の心の中で、ぷつりと何かが弾ける音がした。
しかし、私はあえて何も言い返さなかった。ここで反論しても、今の夫には届かない。それどころか、私が感情的になればなるほど、彼は優越感に浸るだけだ。私はただ、泥のついた鞄を抱きしめ、黙って夫の顔を見つめ続けた。
「なんだよ、その目は。文句があるなら言ってみろよ」
夫は私の沈黙に苛立ったのか、一歩近づいてきた。私は唇を固く結び、一言も発しない。静寂が、夫の罵声より一層居心地の悪いものへと変わり始める。
「ふん。どうせ言い返す言葉もないんだろうな。自分が駄目人間だって自覚があるなら、結構だ。おい、リカちゃん、こんな湿気臭いババアの相手をしてたら、せっかくの酒がまずくなる。中に入ろうぜ」
「そうね。ケンジさん、おばさんの相手なんて時間の無駄だよ。早く二人で、これからこの家をどうリフォームするか相談しましょう」
リカは夫の腕に抱きつき、わざとらしく私に背を向けて家の中に入っていこうとした。夫も鼻を鳴らし、ドアを閉めようと手をかけた。
その時だ。
「ケンジさん」
私は、今までで一番穏やかで、一番冷静な声で呼びかけた。
「ああ?なんだよ。まだ何かあるのか?まさか、『行かないで』なんて泣きつくつもりか」
「いいえ。ただ、確認しておきたかったの。この家のローン。完済したのは、私のおかげだってこと。本当に、忘れてしまったのね」
一瞬、夫の動きが止まった。しかし、すぐに彼は大声で笑い飛ばした。
「わはは、何を寝ぼけたことを言ってるんだ。お前のおかげ?笑わせるな。あの金は、俺のボーナスと退職金の先払いみたいなもんだろうが。お前が小銭を貯めたところで、何千万円ものローンが返せるわけないだろう」
「そう、そう思っているのね」
「当たり前だ。さっさと消えろ。このボケナスが」
バタン、と凄まじい音を立てて玄関のドアが閉まった。ガチャリと鍵をかける音。さらに、内側からチェーンをかける音まで聞こえてきた。私は、完全に自分の家から締め出されたのだ。
私は暗い夜道に立ち尽くした。道路に転がった靴を拾い、汚れを払って足を通す。足元から伝わる地面の冷たさが、現実を突きつけてくる。
見てなさい、ケンジさん。あなたが「小銭」だと思っているものが、どれほどの重みを持っているのか。そして、あなたが「教養がない」と馬鹿にした私が、この三十年間、裏で何をしていたのか。
私は鞄の中から、夫に奪われた通帳とは別の、一冊の古い通帳を取り出した。それは私の実家の母から密かに受け継ぎ、私自身がある才能を使って大きく育ててきた、資産の記録だった。
夫は知らない。彼が毎日会社で上司にゴマをすり、愚痴をこぼしている間、私が自宅のパソコン一台で、彼の年収の数倍もの利益を上げ続けてきた投資家であることを。そして、彼が奪った貯金用口座は、彼を油断させるためにあえて置いておいたに過ぎないということを。
私は再びスマートフォンを取り出し、先ほどの人物にメッセージを送った。
「準備は整いました。予定通り、彼を追い詰めてください」
すぐに返信が来た。
「承知いたしました。あちらの銀行の担当者とも話をつけてあります。明日の朝、彼が銀行のATMへ行った瞬間、絶望が始まるでしょう」
私は暗い夜道を歩き始めた。向かう先は温泉宿ではない。この町で最も高級なホテルのスイートルーム。そして明日の朝、私が再会するのは、夫が最も恐れている、彼の会社の最大株主だった。
—
私は近くのビジネスホテルのロビーに座り、震える手で温かいコーヒーを握りしめていた。高級ホテルへ向かう前に、どうしても一度心を落ち着かせる時間が必要だった。
三十年。思い返せば、私の人生の半分以上を、あの家であの男のために捧げてきた。夫が仕事に集中したいと言えば、私は一切の不満を飲み込んで家事を完璧にこなした。彼が両親の面倒を見てくれと言えば、自分の親の死に目にも満足に立ち会えないほど、義両親の介護に明け暮れた。
それなのに、彼にとって私は「価値のない女」でしかなかった。
不意に涙がこぼれそうになり、私は慌てて上を向いた。泣いてはいけない。ここで泣いたら、夫の思うつぼだ。そう自分に言い聞かせていると、バッグの中でスマートフォンが激しく震え始めた。画面を見ると、夫からの着信だ。
無視しようかと思ったが、あまりにしつこく鳴り続けるため、私は覚悟を決めて通話ボタンを押した。
「何かしら」
「おい、まだこの町にいやがるのか?GPSでお前の居場所は分かってるんだぞ」
夫の怒声がスピーカー越しに突き刺さる。
「要件は何?離婚届にはサインしたはずよ」
「ふん。あの後な、お前の部屋を片付けてやったんだよ。そしたら出るわ出るわ、ゴミの山がな」
夫の背後で、あのリカという女の「うわ、気持ち悪い」という笑い声が聞こえる。
「お前が大事に持ってた、あの薄汚い木箱。あれ、なんだ?中に安っぽい着物や手紙の束が入ってたが、あんなもんこの家に置いとくだけで運気が下がるんだよ。さっき全部、庭の焼却炉に放り込んでやったぜ」
心臓がどくんと大きく波打った。その木箱には、亡くなった母が私が嫁ぐ時に持たせてくれた着物と、二十年前に亡くなった父からの手紙が入っていたのだ。私が辛い時、苦しい時、何度も読み返しては心の支えにしてきた、世界でたった一つの宝物。
「やめて!あれだけは返して!お願い」
「はっ、必死だな。お前みたいな教養のない女には、ゴミがお似合いなんだよ。ああ、もう手遅れだ。今、ちょうどいい具合に燃え上がってる。お前の思い出も、親の形見も、全部灰になって消えていくんだ。満足したぜ」
そんな。嘘でしょう。膝の力が抜け、私はその場にへたり込んでしまった。物としての価値は高くないかもしれない。でも、そこには両親の愛が、私の生きてきた証が詰まっていたのだ。それをこの男は、これっぽっちの躊躇もなく燃やした。
「それからな、もう一つ教えてやろう。子供たちには、さっき連絡しておいたぞ。『お母さんが若い男と駆け落ちして、家のお金を持って逃げた。俺は被害者だ』ってな。娘もお前を軽蔑してたぜ。『信じられない。最低だね』ってよ」
「嘘よ。子供たちがそんなこと信じるはずがないわ」
「信じるさ。現に、お前は今夜中に家を出て、どこぞのホテルに泊まってるんだろう。証拠は十分だ。お前にはもう、戻る家も、帰りを待つ家族も、一通の手紙さえ残っちゃいない。文字通り、お前は全てを失ったんだよ」
夫の言葉は、残酷な宣告だった。住む場所を奪われ、財産を奪われ、ついには最愛の子供たちからの信頼と、両親の形見までも奪い去られた。私は暗い闇の底に、たった一人で突き落とされたような絶望感に包まれた。
「あ、そうそう。お前が使ってた携帯の家族プランも、明日には解約してやる。ネットも電話も使えなくなって、社会からも抹殺されるんだ。せいぜい、死ぬまで孤独を楽しめよ」
ジャ、という無機質な電子音が響き、通話が切れた。私は震える手でスマートフォンを握りしめ、しばらく動くことができなかった。悔しくて、悲しくて、情けなくて。歯を食いしばっても、涙がぽろぽろと溢れ出して止まらない。
お母さん、お父さん、ごめんなさい。守りたかったものを、一つも守れなかった。三十年間、私は一体何をしていたのだろう。こんな男を信じ、支えてきた自分自身が、たまらなく恥ずかしく愚かに思えた。
ふと見ると、ロビーのテレビでニュースが流れている。地元の経済会のニュース。そこには、夫が務める会社の社長が、どこかの投資家と握手をしている姿が映っていた。
その映像を見た瞬間、私の脳裏に、母の最後の言葉が蘇った。
「いいかい?人間は、全てを失った時こそ、その人の本当の価値が問われるんだよ。あなたは私の子。何があっても、自分を信じることをやめちゃいけないよ」
そうだ。私はただの専業主婦じゃない。母が残してくれた、あの木箱の中身は燃やされたかもしれない。でも、母が私に叩き込んでくれた生きる知恵と、私が自らの手で築き上げてきた力は、誰にも奪うことはできない。
私は立ち上がり、手の甲で乱暴に涙を拭った。鏡に映る自分の顔は青白く、ひどくやつれて見える。でも、その瞳の奥には、まだ消えていない小さな火が灯っていた。
ケンジさん、あなたは私から全てを奪ったつもりでしょう。でも、それは大きな間違いよ。
私は鞄の中から一通の封筒を取り出した。それは、夫がゴミとして捨てようとした書類の中に、紛れ込ませておいた私の真実を証明する書類の一部だ。そして、私は先ほどとは別の番号へ電話をかけた。
「私です。予定を早めます。明日の朝、彼が銀行へ行く前に、全ての口座を凍結してください。それから、臨時株主総会の開催を、社長の直通で要請して」
電話を切った私の顔に、もう涙はなかった。あるのは、冷徹なまでの決意だけだ。
ケンジさん、あなたが燃やしたのは私の過去かもしれない。でも、私が今から燃やすのは、あなたの未来そのものよ。子供たちへの嘘も、私への侮辱も、全て倍にして返してあげる。
私はホテルを出て、夜の町へと踏み出した。今度こそ、私が本来いるべき場所へと向かうために。
—
私がたどり着いたのは、市内でも一際目を引く外資系の超高級ホテルだった。泥のついた鞄を持ち、安物のコートを着た私の姿は、きらびやかなロビーでは明らかに浮いていた。しかし、フロントに向かう私の足取りに、迷いはない。
「いらっしゃいませ。失礼ですが、ご予約は」
若いスタッフが、少し困惑したような表情で私を見た。無理もない。今の私は、家を追い出されたばかりの惨めな女性にしか見えないだろうから。
私は黙ってバッグから一枚のブラックカードを取り出し、カウンターに置いた。それを見たスタッフの表情が、一瞬で凍りついた。
「大変失礼いたしました。一ノ瀬様、お待ちしておりました」
スタッフは深々と頭を下げ、すぐ奥から支配人を呼び寄せた。
「一ノ瀬様、お久しぶりでございます。本日も、スイートルームをご用意しております」
「ありがとう。急な予約で済まないわね」
私は一ノ瀬しずかという旧姓を名乗り、案内されるがまま、最上階の部屋へと向かった。夫の妻として生きてきた佐藤しずかではなく、投資家として、そしてある資産家の娘としての一ノ瀬しずかに戻る瞬間だ。
広い部屋に入り、私はようやく深く長いため息を吐いた。窓の外には、夫とあの女がいるであろう、あの町の夜景が広がっている。
夫は私のことを「中卒の親に育てられた教養のない女」と罵った。確かに、私の父は学歴こそなかった。しかし、父は一台の機械からこの町の製造業を支える会社を築き上げた、稀代の相場師でもあった。私は幼い頃から父の膝の上で新聞の経済欄を読まされ、数字の裏にある人間の欲と時代の流れを読み解く術を叩き込まれてきた。
二十五年前、父が亡くなった時、私は父から莫大な遺産と、それ以上に価値のある投資のノウハウを受け継いだ。しかし、その当時の私は若く、愛する人と穏やかな家庭を築くことを何よりも優先したいと願っていた。
「俺がこの家を支える。お前は家で笑っていればいい」
新婚当時の夫が言ってくれたその言葉を、私は純粋に信じてしまった。だから、私は自分の資産を隠した。夫に余計な劣等感を与えたくなかったし、何よりお金で繋がる夫婦ではなく、心で繋がる夫婦でありたかった。
私は、純粋な専業主婦を演じ続けた。スーパーの特売に並び、夫の少ない小遣いのやりくりに頭を悩ませるふりをして。でも、その裏で私は父から受け継いだ資金をもとに、着実に資産を増やし続けてきたのだ。
十年前、夫の務める会社が倒産の危機に瀕したことがあった。「もうダメだ。俺の人生は終わりだ」と家で酒を煽り、泣き言を言っていた夫。その時、匿名で巨額の出資を行い、会社を救った「謎の投資家」が誰だったのか。夫は今も知らない。その投資家こそ、私だったということも。
私はデスクに置かれたノートパソコンを開いた。画面には、夫の銀行口座の動きがリアルタイムで表示されている。彼は今、リカという女と一緒に高級ワインを開けて、豪遊しているようだ。クレジットカードの利用履歴が次々と更新されていく。高級ブランド店、宝石店。
私の貯金を、そんなことに使っているのね。夫が自分のものだと思い込んで奪った三千万円。それは、私が夫を試すためにあえて置いておいた罠だった。あの口座の管理権限は、実はすでに私の弁護士が握っている。彼が使っているそのカードも、明日の朝にはただのプラスチックの屑に変わる。
その時、部屋のチャイムが鳴った。
「失礼いたします。一ノ瀬様、工藤でございます」
部屋に入ってきたのは、シャープなスーツに身を包んだ知的な雰囲気の女性だった。彼女は工藤弁護士。私の父の代から、一ノ瀬家の資産管理を任せている信頼できるパートナーだ。
「工藤さん、夜分に悪かったわね」
「いいえ。お顔、どうされました?少し晴れているようですが」
工藤弁護士の鋭い目が、私の頬の赤みに気づいた。
「夫に突き飛ばされた時に、ぶつけた痕よ。なんでもないわ。それより、準備はいいかしら」
「はい。佐藤健二氏に対する横領及び不当な財産差し押さえの証拠は、全て揃いました。それから、奥様が気にされていたあの件についても」
工藤弁護士は一通の調査報告書をテーブルに置いた。そこには、夫の愛人であるリカの正体と、彼女が夫に近づいた真の目的が、詳細に記されていた。
「なるほど。そういうことだったのね」
報告書を読んだ私の口元に、冷たい笑みが浮かんだ。夫は自分を愛してくれる若い女を手に入れたつもりでいる。でも実際には、彼は私以上に残酷な蛇に狙われていたのだ。
「しずかさん、本当によろしいのですか?このまま手続きを進めれば、佐藤氏は社会的地位も財産も、そして自由も、全て失うことになります」
工藤弁護士の問いに、私は窓の外を見つめながら答えた。
「ええ。彼は私の両親を侮辱し、形見を燃やした。それは私の魂を殺そうとしたのと同じことよ。慈悲なんて、もう一滴も残っていないわ」
私は工藤弁護士に最終的な指示を出した。
「明日の朝、彼が会社の招集会議に出席したその瞬間、全ての真実を突きつけてちょうだい」
その時、私のスマートフォンに一通のメールが届いた。それは、夫が偽りの情報を流して味方につけたはずの、私の娘からだった。
「お母さん、ごめんなさい。お父さんの言ってること、どうしても信じられなくて、隠れて調べてみたの。お母さん、今どこにいるの?助けて。お父さん、大変なことをしようとしてる」
娘からの悲痛な叫び。私は娘に返信しようと指を動かしたが、ふと手を止めた。
ケンジさん、あなたはまだ知らない。あなたが最後にすがろうとしている絆さえも、すでにあなたの身勝手な嘘によって崩壊し始めていることを。
さあ、始めましょう。一ノ瀬家の流儀で、徹底的に。
—
翌朝、私が滞在するホテルのスイートルームに、朝日が眩しく差し込んだ。ふかふかのベッドの上で、私は一度も目を覚ますことなく、久しぶりに熟睡していた。三十年間、あの家でいつ夫が怒鳴り始めるか、いつ義母が夜中に呼び出すのではないかと神経を尖らせていた日々がいかに異常だったかを、改めて痛感する。
一方、私の自宅であったはずの場所では、泥沼の騒動が繰り広げられていた。工藤弁護士が手配した調査員からの報告が、私のタブレットに次々と送られてくる。
「ケンジさん、すごい!この時計、本当に私にくれるの?」
リビングでは、リカが夫から贈られた高級ブランドの腕時計を掲げてはしゃいでいた。
「ああ、お前に似合うと思ってな。あいつから奪った貯金に比べれば、こんなのは可愛いもんだよ」
夫は朝の十時だというのにビールを片手に、上機嫌に笑っている。しかし、夫の傲慢は、私の想像をはるかに超える方向に暴走し始めていた。
彼はリビングに、派手なスーツを着た見知らぬ男を呼びつけていたのだ。男の名は、悪名高い不動産ブローカーの金子。
「それで佐藤さん、この家と土地、本当に今すぐ売りに出してよろしいんですか?」
「ああ、構わん。どうせあいつを追い出したんだ。未練なんて一ミリもねえ。更地にして売るなり、好きにしろ。ただし、一週間以内に手付け金として一千万円は用意しろよ」
夫は、私たちが三十年かけて守ってきたこの家を、私の同意もなしに勝手に売却しようとしていた。さらに驚くべきことに、彼はこの土地が私の実家から相続した私有財産であることを完全に無視していた。登記上、土地の名義は一ノ瀬しずか、つまり私のものだ。しかし、夫は自分が世帯主でありローンの支払い者である以上、全てを自分の意思で処分できると信じ込んでいた。
そこへ、一人の女性が飛び込んできた。私の娘、マキだ。
「お父さん、何してるのよ、これ!」
マキは、庭に散らばった私の荷物や、黒焦げになった思い出の品の残骸を見て、肩を震わせていた。
「お母さんはどこ?駆け落ちなんて嘘でしょ。お母さんがそんなことするはずない」
「うるさい!親に向かって、その口の聞き方は何だ?」
夫はソファから立ち上がり、マキを指さして怒鳴り散らした。
「あの女はな、愛想を尽かして勝手に出ていったんだよ。家のお金も、大事な書類も、全部持ち逃げしてな。お前もあの女の味方をするなら、今すぐここから出て行け。お前みたいな、まともに就職もできない不良債権を養ってやる義理はないんだ」
マキは一年前から体調を崩し、現在は療養しながら自宅で細々と仕事をしている。私はマキを温かく見守ってきたが、夫にとって娘は、稼ぎのない邪魔者でしかなかったようだ。
「お父さん、変わっちゃったね。ううん、これが本当のお父さんだったんだね」
マキの瞳から涙が溢れる。
「ああ、そうだよ。俺は自由になりたいんだ。こんな空気の読めない家も、古臭い嫁も、お前みたいな出来損ないの娘も、全部まとめてゴミ箱行きだ。ほら、リカちゃんを見ろ。若くて綺麗で、俺の才能を認めてくれる。お前たちとは月とスッポンなんだよ」
夫の暴言は止まらない。
「いいかマキ、お前がここにいたければ、リカちゃんを新しい母親として敬い、家事の一切を任せろ。それができないなら、今すぐその安物の服をまとめて消え失せろ。お前に相続させる財産なんて、一円たりとも残してやらんからな」
隣でリカが、マキを見下すように嘲笑した。
「ねえ、お嬢さん。お父さんの言うことを聞いた方がいいわよ。これからここには私の友達もたくさん呼ぶんだから。あなたの部屋、私のクローゼットにする予定なの。邪魔だから、早く片付けてくれない?」
マキは唇を噛みしめ、拳を握りしめていた。
「お母さんを返して。お母さんがこの家をどれだけ大事にしてたか、お父さんだって知ってるはずでしょ」
「知るか。あんな女、今頃どこかのアパートで震えてるさ。それとも、新しい男にでも捨てられて、泣きついてくるか。まあ、その時にはこの家はもう影も形もないけどな」
ガチャリ。その時だった。夫のスマートフォンが鳴った。画面を見ると、銀行担当者からの文字。夫は勝ち誇った顔でスピーカーフォンに切り替えた。
「ほら見ろ。金の話だ。お前たちみたいな底辺には縁のない、お金が動く音を聞かせてやるよ」
「はい、佐藤です。例の三千万円の引き出しの件ですが、準備はできましたか?」
夫が得意げに用件を言うと、電話の向こうから、困惑したような、どこか冷ややかな声が返ってきた。
「佐藤健二様。大変申し上げにくいのですが、先ほど佐藤様の全口座に対し、法的な仮差し押さえの申し立てがなされました。それに伴い、現在全ての預金の引き出し及びクレジットカードのご利用が停止されております」
夫の顔から、一瞬で血の気が引いた。
「な、何を言ってるんだ?差し押さえ?誰が、何の権利で?」
「申し立て人は、奥様の佐藤しずか様の法定代理人、工藤弁護士でございます。理由は、共有財産の不当な占有及び横領の疑い。さらに、銀行員は一呼吸置いてから続けました。佐藤様が昨日からご利用になっていたカード、及び今回引き出しを希望されていた口座の元手の大部分が、奥様の特有財産であることが判明いたしました。佐藤様、あなたはご自身の口座だと思い込んでいらしたようですが、その口座の実質的な権利者は、一ノ瀬しずか様です」
「バカな!そんなはずがあるか。あれは俺の稼いだ金だ。あの女はただの専業主婦だぞ!」
夫の叫びが、虚しくリビングに響く。
「いいえ。記録によりますと、その口座に資金を供給していたのは、国内有数の投資ファンド、一ノ瀬キャピタルからの配当金となっております。佐藤様、お気づきではありませんでしたが、あなたの給与口座とは別に、奥様が管理されていたあの多額の資金は、奥様ご自身が運用されていた資産だったのです」
夫は呆然と立ち尽くし、スマートフォンを落としそうになった。隣にいたリカも、顔を引きつらせて後ずさる。
「一ノ瀬キャピタル?なんだそれは。聞いたこともないぞ」
その時、家の前に黒塗りの高級車が数台、音もなく止まった。車から降りてきたのは、ビシッとしたスーツ姿の男たち。その中心にいたのは、工藤弁護士と、そして私だった。
私は、夫が放り投げた私の靴を履き、凛とした足取りで、自分の家の敷地へと足を踏み入れた。
「おはよう、ケンジさん。随分と騒がしい朝ね」
私の姿を見た夫の目が、驚愕で見開かれた。しかし、本当の絶望は、まだ始まったばかりなのだ。
—
「し、しずか!な、なんだ、その格好は!それに、後ろに連れている連中は、誰だ?」
リビングの真ん中に立ち尽くす夫の声は、怒りと困惑で裏返っていた。私は、昨夜のボロボロのコートを脱ぎ捨て、父から譲り受けた一ノ瀬家の家紋が入った、最高級の着物のアンサンブルを身にまとっていた。髪を整え、凛とした立ち姿で彼を見据える私の姿に、夫は一瞬言葉を失った。
「しずかさん、お怪我はありませんか?」
工藤弁護士が私の横に立ち、鋭い眼光を夫に向けた。その後ろには、体格の良い数人の男たちが控えている。彼らは、一ノ瀬家の資産を守る警備会社のスタッフだ。
「お母さん!」
マキが駆け寄ってきた。私は震える娘の肩を抱き寄せ、優しく頷いた。
「大丈夫よ、マキ。もう、悲しい思いはさせないわ」
「ふ、ふざけるな!何が大丈夫だ!」
夫が、空になったビールの缶をテーブルに叩きつけた。
「し、しずか、お前、どこでそんな服を手に入れた?銀行の件もそうだ。何かの間違いに決まってる。工藤だかなんだか知らんが、勝手に俺の口座を止めるなんて、営業妨害だぞ。今すぐ解け!」
夫は私に向かって一歩踏み出そうとしたが、警備の男たちが静かに、しかし圧倒的な存在感で道を防いだ。
「そこまでです。佐藤健二さん」
工藤弁護士が、冷静な声で告げた。
「あなたが『俺の口座』と呼んでいるものは、法的には一ノ瀬しずか様が婚姻前から所有していた資産、及び彼女の特有財産から派生した利益を、一時的に管理していた場所に過ぎません。あなたが無断で引き出した三千万円、及び昨日から使用しているクレジットカードの利用分。これらは全て、不当利得として回収の対象となります」
「特有財産?婚姻前?ケッ、何を言ってるんだ?こいつは親の遺産なんてない、貧乏人の娘だろうが。中卒の親が残せるものなんて、借金くらいのもんだ」
夫の侮辱に、私は沈黙を守った。ただじっと、彼の歪んだ顔を見つめ続けた。その沈黙が、逆に夫を苛立たせる。
「おい、黙ってないで、何か言えよ。お前、俺を騙してたのか?専業主婦のふりをして、裏でこそこそ金でも隠してたってのか?」
「騙していた?随分な言いぐさね、ケンジさん」
私はようやく口を開いた。
「私は一度も嘘をついたことはないわ。あなたが勝手に私のことを無能な女だと決めつけて、話を聞こうとしなかっただけ。私が父から会社の一部を引き継いだ時も、あなたは『女が仕事の話をするな。飯がまずくなる』と言って、書類を投げ捨てたわね」
夫の顔に、かすかな記憶の断片がよぎったようだった。
「そう。私は何度も伝えようとした。でも、あなたは常に自分の方が立場が上だと誇示するために、私の言葉を遮り続けてきたのよ」
「それに、この土地についても、そう」
私は工藤弁護士から手渡された登記簿を、夫の目の前に置いた。
「この家が立っている土地は、私の父、一ノ瀬竜像が私のために残してくれたものです。建物のローンを払っていたのはあなた。でも、その頭金の二千万、そして毎月の返済の補填として私が私の口座からあなたの口座に移し続けていたお金。あれがどこから出ていたか、考えたことはなかったの?」
夫は震える手で登記簿を手に取った。そこには、確かに私の旧姓である一ノ瀬の名が刻まれていた。
「一ノ瀬竜像…。あの、伝説の投資家と言われた…。まさか」
「ええ。あなたが『中卒の教養のない男』と罵った私の父。父は学歴こそなかったけれど、独学で経済を学び、一台の機械から数千億の資産を築き上げたの。私はその娘として、幼い頃から資産運用の全てを叩き込まれてきたのよ」
夫の顔から、急速に生気が失われていく。隣で様子を伺っていたリカも、形勢が不利だと悟ったのか、夫の腕からそっと手を離し、後ずさり始めた。
「ちょっと、ケンジさん、話が違うじゃない。この家も貯金も、全部あなたのものだって言ったじゃない」
「う、うるさい!黙ってろ、リカ!」
「け、ケンジさん、何かの間違いだ。三十年も一緒に暮らしてきた、夫婦じゃないか。そんな他人行儀なことを言わなくても」
夫の声が、急に弱々しいものに変わった。自分の立脚点が崩れ去ったことを、本能的に察知したのだろう。しかし、私は彼の謝罪めいた言葉を、冷たく遮った。
「三十年。そうね、三十年よ。私があなたに尽くし、あなたの家族を守り、下げすまされても耐えてきた時間。それを、あなたは昨日、自らの手で灰にしたのよ」
私は庭の方を指さした。そこには、夫が燃やした私の両親の形見の、無惨な燃え殻が残っている。
「あの木箱の中には、父が私に残した最後のメッセージが入っていた。お金なんかより、ずっと大切なものが。ケンジさん。あなたは、私が一番大切にしていたものを、思い出ごと燃やしたの。だから、私もあなたの全てを、思い出すことに決めたわ」
「な、何を…」
その時、家の前に新たな車が到着した。降りてきたのは、夫が務める会社の常務取締役、佐藤だった。夫にとって、神様よりも恐ろしいはずの上司だ。
「じ、常務!なぜ、ここに!」
夫が慌てて玄関へ走ろうとしたが、常務は彼を無視し、私に向かって深く頭を下げた。
「一ノ瀬会長、本日は急な呼び出しに応じられず、こちらから伺わせていただきました。佐藤健二君、君は一体、我が社の筆頭株主に対して、何という非礼を働いているんだね」
「え…?筆頭株主?」
夫の喉から、引きつったような音が出た。
「そうだ。君が務めている東洋産業の株式の三割を保有しているのは、一ノ瀬しずか様個人、及び彼女が代表を務める一ノ瀬キャピタルだ。君がこれまで、さしたる実績もないのに部長まで昇進できたのは、奥様が影ながら会社を支え、君の立場を守ってこられたからだ。ということに、まだ気づいていなかったのか」
常務の言葉は、夫のプライドを根底から粉砕する一撃だった。自分がエリートだと思い込み、妻を「教養のない女」と見下していた根拠。その全てが、実は妻の手のひらの上で転がされていた結果に過ぎなかったのだ。
「そ、そんな…。俺が、し、しずかに養われていたっていうのか…」
夫は膝から崩れ落ち、頭を抱えた。その姿を、リカは冷ややかな、ゴミを見るような目で見つめていた。
「あーあ、最悪。お金持ちの奥様を追い出して、全財産奪うって言うから協力してあげたのに。ただの勘違い男だったわけね」
リカは吐き捨てるように言うと、自分のバッグを掴んだ。
「ケンジさん、さよなら。あ、昨日買ってもらったこの時計、売ってお金にするから。精神的苦痛の慰謝料ってことで」
「ま、待て!行かないでくれ!」
夫の叫びも虚しく、女は一度も振り返ることなく家を出ていった。静まり返ったリビングで、夫はただ震えていた。私はそんな彼を、一ミリの情けも感じることなく見下ろした。
「ケンジさん、これはまだ始まりに過ぎないわよ。あなたが昨日私に言った言葉、覚えているかしら?『お前の居場所はあっちだ』『この家は、お前みたいな価値のない女が住んでいい場所じゃない』。その言葉を、そっくりそのままあなたに返すわ」
私は工藤弁護士に合図を送った。
「佐藤健二さん。今この瞬間を持って、あなたにこの家からの退去を命じます。土地の所有権、建物の共有持分の一部等、全てにおいて法的な手続きは完了しています」
夫の絶望に満ちた顔を見ながら、私は心の中で父に語りかけた。
お父さん、見ていて。あなたの教えてくれた力が、ようやく正しい場所で使われる時が来たわ。
—
「な、なあ、しずか。冗談だろう?ドッキリか何かなんだろう?頼むよ、笑ってくれよ」
膝をついたまま、夫が這うようにして私の足元に近づいてきた。つい数分前まで、私を「ゴミ」と呼び、靴を投げつけていた男とは、到底同じ人物とは思えない。その顔は油汗でテカテカと光り、必死に私の顔色を伺っている。
「筆頭株主だなんて、そんなありえない。お前は、ずっと俺の後ろを、ちょこちょこ歩いてきたじゃないか。特売のチラシを握りしめて、百円のネギをどっちにするか悩んでたじゃないか。あれは、全部俺を騙すための演技だったのか」
「演技?失礼ね」
私は、泥のついた自分の鞄を抱き直しながら、冷たく言い放った。
「私はただ、質素に誠実に暮らしたかっただけよ。あなたと二人、穏やかな老後を過ごせるなら、父の遺産なんて使わずに、死んでもいいとさえ思っていたわ」
「だったら!だったら、今まで通りでいいじゃないか。俺が悪かった。舞い上がってたんだ。あの女が、しつこく誘ってきて、断りきれなかったんだよ。本当だ、信じてくれ!」
夫は恥も外聞もなく、今度は逃げた愛人のせいにし始めた。その見苦しい姿に、後ろで控えていたマキが「最低…」と、吐き捨てるようにつぶやいた。
「お父さん、さっきは私を『不良債権』って呼んだよね。お母さんの思い出も、全部燃やしたよね。それが『舞い上がってた』で済むと思ってるの?」
「マキ、お前は黙ってろ!これは夫婦の問題だ!」
夫は一瞬だけマキを睨みつけたが、すぐにまた私に向かって手を合わせた。
「しずか、やり直そう。温泉旅行のチケットだって、本当にお前にゆっくりして欲しくて買ったんだ。少しだけ俺のやり方が強引だったかもしれないけど、それもこれも、お前との新しい生活のためだったんだよ」
「新しい生活?私を家から追い出し、鍵を変えて、愛人と暮らす生活のことかしら」
私の問いかけに、夫は言葉を詰まらせた。しかし、彼の焦りはこれだけでは終わらなかった。
合流していた常務の佐藤が、手元のタブレットを開きながら追い打ちをかけるように告げたのだ。
「佐藤君。君が今奥様に必死にすがりついている理由は、単なる愛情の問題ではないようだな」
常務の声には、底知れない怒りがこもっていた。
「君が担当していた大規模プロジェクトの予算及び経費に、説明できない不自然な流れがあることが判明した。調査の結果、君は過去三年にわたり、架空の発注を繰り返して、会社の資金を私的に流用していた疑いがある。その額、現時点で確認できているだけで、四千万円を超える」
リビングに、冷たい沈黙が流れた。夫の顔から、さっと血の気が引いていくのが分かった。元々青白かった顔が、今や蝋のような色に変わっている。
「そ、それは、あれは、必要な経費で…」
「必要な経費?リカという女性との密会に使った高級ホテルの宿泊費や、宝石店での支払いが、我が社のプロジェクトにどう必要な経費だったのかね。詳しく聞かせてもらおうか」
常務は、夫が裏に付けていた証拠の数々を、無常にも突きつけた。
「君は、奥様の資産を奪えば、その穴埋めができると考えていたようだな。だが、哀れよ。我が社は不正を許さない。そして何より、最大株主である一ノ瀬様に対してこれほどの不義理を働いた人間を、会社に置いておくわけにはいかないのだよ」
夫は、ガタガタと震え始めた。
「ま、待ってください!首にするって言うんですか?この齢で!あと数年で定年退職なんですよ!退職金だって…」
「退職金?ふざけるのもいい加減にしろ」
常務は鼻で笑った。
「懲戒解雇だ。当然、退職金など一円も支払われない。それどころか、君には会社から損害賠償請求が行くことになるだろう。刑事告訴も辞さない。君の人生は、ここで終わりだ」
「ああ…」
夫は床に崩れ落ち、獣のような声を上げて泣き出した。名誉、収入、そして退職後の安泰。彼が自分の力で手に入れたつもりでいた全てが、一瞬にして砂の城のように崩れ去ったのだ。
「しずか!助けてくれ!お前なら、会社に行って止められるだろう!筆頭株主なんだろう!俺を助けるのが、妻の役目じゃないか!」
夫は私の裾を掴み、涙と鼻水で顔をぐちゃぐちゃにしながら叫んだ。
「お前だって、俺が刑務所に入るなんて嫌だろう!世間体が悪いじゃないか!子供たちのためにも、内々に済ませてくれ!金なら、金なら、さっきお前から奪った三千万がある!あれを返せば、会社だって許してくれるはずだ!」
私は、自分の裾を掴む彼の汚れた手を、冷たく振り払った。
「ケンジさん、勘違いしないで。その三千万円は、元々私のものよ。私のものを私に返すことで、どうしてあなたの罪が消えると思うの?」
私は一歩下がり、工藤弁護士に目配せした。
「それにね、ケンジさん。あなたが一番恐れているのは、会社からの訴えじゃないはずよ。ねえ、リカさんとは、連絡が取れたかしら?あの契約書のこと、忘れたわけじゃないわよね」
夫の動きが、ぴたりと止まった。
「け、契約?な、何のことだ」
「あら、しらじらしい。リカさんは、ただの愛人じゃなかったのよ。彼女の後ろにいる協力者についても、私は全て把握しているわ。あなたが彼女を信じて、判を押したあの書類。今頃、町の闇金業者たちの間を回っているんじゃないかしら」
夫の目が、これ以上ないほど大きく見開かれた。
「な、なんで、お前がそれを…」
「あなたが私を温泉旅行に追い出し、浮かれ気分で女とシャンパンを飲んでいる間、私はあなたのスマートフォンのデータを全て同期し、メールも通話記録も、全てチェックさせてもらっていたの。うちの調査員を、舐めないことね」
私は、夫が絶望の淵に立たされているのを確認し、最後の事実を告げることにした。
「ケンジさん、あなたがこれから立ち向かわなければならないのは、会社でも、私でもない。あなたが自分で招き入れた、本当の悪魔たちよ」
その時、玄関のチャイムが、今度は乱暴に何度も鳴らされた。ドアを叩く音と共に、野太い男たちの声が響き渡る。
「佐藤健二、いるのは分かってんだぞ!さっさと出てきて、借金、返してもらおうか!」
「ひっ!」
夫は悲鳴をあげ、リビングの隅へ逃げ込もうとした。しかし、そこにはもう、彼の味方は一人もいなかった。
「さあ、お望み通り、ゆっくりしなさい、ケンジさん。これから始まる地獄のような長い時間の中で、ね」
—
どんどん、どんどん、と玄関のドアが壊れんばかりの勢いで叩かれている。
「佐藤!開けろ!逃げられると思ってんのか!」
怒声が家の中にまで響き渡り、夫はガタガタと震えながら、リビングの隅に縮こまっていた。
「ひっ、しずか!助けてくれ!警察だ!警察を呼んでくれ!」
さっきまで私を「ゴミ」扱いしていた男が、今は私の足にすがりつき、涙ながらに命乞いをしている。私はその手を冷たく振り払い、工藤弁護士に頷いた。
「開けてあげてちょうだい」
工藤弁護士が玄関の鍵を開けると、いかつい体格の男たちが三人、土足でリビングになだれ込んできた。
「佐藤健二さん、ですね。ほう、随分と賑やかなお集まりだ」
先頭に立つ黒いスーツの男が、嗜虐的な笑みを浮かべた。
「な、なんだ、君たちは!不法侵入だぞ!」
常務の佐藤が、断固とした態度で問いかけるが、男は構うことなく一通の書類を突きつけた。
「不法侵入?人聞きの悪いことを言わないでください。私たちは、正当な債権の回収に来ただけですよ。佐藤健二さん、あなたが昨夜、港区のバーで署名押印した、こちらの契約書。身に覚えがありますよね」
男が広げたのは、金銭消費貸借契約書。そこには、夫の実印で五千万円という数字と、彼の署名が記されていた。
「五千万!?そんなバカな!俺は、リカちゃんに頼まれて、彼女の事業の保証人になっただけだ!」
「ええ、その通り。リカさん、本名、村岡リカは、昨夜のうちに弊社から借り入れた全額を持って、姿を消しました。連帯保証人であるあなたには、今すぐこの全額を支払う義務が生じている、というわけです」
夫は目を見開き、金魚のように口をパクパクさせた。
「姿を消した…?リカちゃんが?そんなはずはない!彼女は俺を愛してるって、一緒に暮らそうって言ったんだ!」
「愛してる?おめでたい方だ」
男は鼻で笑った。
「彼女は、あなたのようなプライドだけは高い自称エリートの年配男性を専門に狙う、結婚詐欺グループの一員ですよ。あなたが会社のお金を使い込んでいたことも、奥様に隠れて資産を奪おうとしていたことも、全て彼女たちは把握した上で、近づいたんです」
夫の顔が、今度こそ真っ白になった。
「お、俺を、最初から騙していたのか…」
「その通りよ、ケンジさん」
私は静かに口を開いた。
「あなたがリカさんと出会った、あのゴルフコンペ。あれを仕組んだのも、彼女たちのグループよ。あなたは自分がモテていると思い込んでいたけれど、彼女たちにとってあなたは、ただの『太った鴨』でしかなかったの」
「な、なんで、お前がそんなこと…まさか…」
「私は、あなたが会社のお金に手をつけ始めた二年前から、ずっとあなたの動きを監視していたわ。あなたが夜中にこっそりパソコンを叩いて架空の請求書を作っていたこと、それをリカさんとのデート代に当てていたこと、全部、私の耳に入っていた。あなたが少しでも自責の念を感じて、私に謝ってくれるのを待っていたのよ。でも、あなたは最後まで私を下げ、ついには両親の形見まで燃やした」
私は黒スーツの男に向き直った。
「黒田さん、この男には、一円の支払い能力もありません。今この瞬間を持って、彼は会社を解雇され、全財産を差し押さえられますから」
「なんだと?」
「佐藤健二、お前、金がないのか?」
黒田と呼ばれた男の目が、一瞬で険しくなった。
「この立派な家はどうした?土地だってあるだろう!」
「残念ながら、この土地と家は、私の所有物です」
私が冷たく告げると、黒田は夫の胸ぐらを掴み上げた。
「おい、佐藤!話が違うじゃねえか!『嫁を追い出せば、この家も土地も手に入る』って、お前が言ったから、こんな大金の貸し付けの保証を認めてやったんだぞ!」
「ひっ、ま、待ってくれ!こいつが、こいつが金を持ってるんだ!こいつは一ノ瀬キャピタルの会長なんだ!五千万くらい、こいつにとっては、はした金だ!しずか、払ってくれ!頼む!夫婦だろう!」
夫の叫びに、部屋中の視線が集まった。私は深呼吸を一つして、ゆっくりと夫の目を見つめた。その瞳には、もはや怒りすらない。ただ、深い深い諦めだけが宿っていた。
「ケンジさん。一つ、大きな勘違いをしているわね。私が一ノ瀬キャピタルを動かしているのは、あなたを助けるためじゃない。あなたのような人間が、二度とこの社会で誰かを傷つけられないようにするためよ」
私は鞄の中から、もう一通の書類を取り出した。それは、夫が今まで必死に隠してきた、さらに恐ろしい真実を証明するものだった。
「常務。彼が会社から横領していたのは、四千万円だけではありません」
「え…?」
常務の声が震えた。
「ケンジさん、あなたが十年前、先代社長がお亡くなりになった際に、役員の印影を偽造して引き出したあの資金。どこに消えたのか、今ここで説明してくださる?」
夫の顔が、土気色を通り越して、まるで死人のような色に変わった。
「な、なぜ、それを…」
「あなたが一番隠したかった真実。そして、私が三十年間、あなたを許せずにいた、本当の理由。さあ、全てのカードは揃ったわ」
夫の混乱は、もはや頂点に達していた。彼が信じていた自分の優位性が、音を立てて崩れ落ちていく。
「十、十年前?何を言っているんだ?そんな昔のこと、俺は、何も、何も知らないぞ」
夫は泳ぐような手つきで空を描き、必死に否定した。しかし、その顔色はもはや人間のものではなく、灰色に変色している。額からは大粒の汗が流れ落ち、リビングの絨毯に染みを作っていた。
「しらばっくれても無駄よ、ケンジさん。あなたが当時の経理部長と結託して、先代社長の遺産の一部と、社員の厚生年金基金、合わせて一億円を私的に流用したこと。私は全て知っているわ」
私の言葉に、その場にいた全員が息を飲んだ。常務の佐藤は、あまりの衝撃に椅子から立ち上がり、夫を凝視している。
「な、なんだと?一億円?あの時の、使い込み不明金騒動は、結局、事務ミスということで片付いたはずだ!」
「そうです。事務ミスなんかじゃなかった」
私は冷静な声で続けた。
「ケンジさんは、その金で当時通い詰めていた銀座のクラブの女性に、マンションを買い与え、残りを自分の隠し口座に分散させた。でも、その穴を埋めたのが誰だったか、覚えている?」
夫は、ガタガタと歯の合わないほど震え、言葉にならない声を漏らした。
「私が、父から譲り受けていた個人資産を投げ打って、匿名で会社に寄付したのよ。社員たちの老後の資金が消えるなんて、あってはならないことだと思ったから。あなたが犯した罪を、私が尻拭いしたの。家族のため。そして、何より、あなたを信じていたからよ」
私の告白に、マキは「お母さん…そんなことまでしてたの…」と声を詰まらせた。一方で、夫は救いのない絶叫を晒らしていた。
「じ、じゃあ、あの時の金は、お前が出したのか!?なんだ、だったらいいじゃないか!お前の金は俺の金だろう!夫婦の間で金が動いただけじゃないか!それを、今更、罪だなんて…!」
夫の口から、信じられない言葉が飛び出した。自分の罪を、妻が金で解決したのだから、問題ないと。言い放ったのだ。
その言葉を聞いた瞬間、リビングにいた黒田の男が、呆れたように鼻で笑った。
「おいおい、佐藤さん。あんた、どこまで救いようのないクズなんだ。奥さんの優しさを、都合のいい『金』としか思ってねえのか。俺たちみたいな、裏家業の人間でも、そこまで下劣な真似はしねえよ」
黒田は夫の髪を掴み、無理やり顔を上げさせた。
「いいか?佐藤。あんたが署名したこの五千万の契約。そして、奥さんが言っている十年前の横領。これが表沙汰になれば、あんたは一生、塀の中から出てこれねえぞ。それとも、なんだ?今すぐこの場で、指の数本でも置いていくか?」
「ひっ、ひいっ、助けて、しずか!」
夫はもはや言葉を失い、赤ん坊のように泣き叫んだ。しかし、彼の混乱はこれで終わりではなかった。
工藤弁護士が、鞄からもう一つの資料を取り出した。
「佐藤健二さん。あなたの混乱に、さらに追い打ちをかけるようで心苦しいのですが。あなたがリカさんに貢いでいた資金、それから今回の五千万の借金。これらは全て、ある特定の人物が、裏で糸を引いていました」
「裏で、糸を…?」
夫は、涙でぐちゃぐちゃの顔を上げた。
「十年前、あなたが横領した金でマンションを買い与えた、銀座のクラブの女性。彼女の名前は、村岡静香。そして、今回、あなたを騙して姿を消したリカさん、本名、村岡リカ。この名前に、見覚えはありませんか?」
夫の瞳が、驚愕で見開かれた。
「む、村岡…?リカ…まさか、親子…?」
「その通りです。静香さんは、あなたが横領した金でマンションを手に入れた後、別の男と再婚しました。しかし、その生活も長くは続かず、彼女は数年前に亡くなっています。娘のリカさんは、母親を使い捨てにしたあなたを、ずっと恨んでいた。今回の結婚詐欺は、彼女による十年越しの復讐計画だった、というわけです」
リビングに、冷たい衝撃が走った。夫が「恋」だと思っていたものは、彼が捨て去った女の娘が仕掛けた、残酷な罠だったのだ。
「そ、そんな!リカちゃんが、俺を恨んでいた!?あんなに優しくしてくれたのに!俺の才能を認めてくれると言ったのに!」
「才能?笑わせないで」
私は冷たく言い捨てた。
「彼女は、私に接触してきたわ。『お母さんを苦しめたあの男を、地獄に叩き落としたい。その手伝いをしてほしい』とね。私は、彼女の計画を全て知った上で、あえて泳がせておいたのよ。あなたが自ら破滅の道を選ぶかどうか、最後の最後まで見極めるために」
夫は頭を抱え、床に何度も頭を打ちつけ始めた。
「うわあああ!嘘だ!全部嘘だ!俺はエリートなんだ!部長なんだぞ!こんな惨めな最後、認められるか!お前らが、全部、俺を落とし入れるために仕組んだんだ!」
精神が崩壊したかのように、夫は意味不明な言葉を吐き散らし、部屋の中の家具を蹴倒した。私が大切にしていた花瓶が床で砕け散り、水の匂いが立ち込める。
「ケンジさん、もう、いい加減にしなさい」
私の静かな一言が、錯乱する夫を射抜いた。
「あなたが燃やした父の手紙。そこには、こう書いてあったのよ。『人を許すことは強さだが、悪を正すことは愛である』と。私は、あなたを三十年愛し、十年前には許した。でも、あなたは愛を踏みにじり、許しを当然の権利だと勘違いした。だから、今、私はあなたを正すことにしたの。法と、現実という名の審判によって、ね」
その時、玄関の外に、パトカーのサイレンが鳴り響いた。一台ではない。何台もの赤い灯りが、リビングの窓を不気味に照らし出す。
「な、なんだ!?警察!?警察が来たのか!?」
「ええ。常務が通報された、十年前と今回の二重の横領容疑。そして、黒田さんたちが持ち込んだ、闇金融への不法な署名行為。全て、法の裁きを受ける時よ」
「ま、待て!しずか!俺は、まだ…」
警官たちが家の中に入ってくると、夫は必死に私の足元へ這い寄ろうとした。しかし、その手は虚しく空を切り、警官たちのたくましい腕によって抑え込まれた。
「佐藤健二さん、同行願います」
「嫌だ!離せ!俺は筆頭株主の夫だぞ!しずか!言ってくれ!こいつらに、命令してくれ!」
夫の叫びが夜の町に響き渡る中、私は一度も目をそらすことなく、連行されていく彼の背中を見送った。
しかし、彼の絶望は、これで終わりではなかった。連行される間際、黒田が夫の耳元で、冷酷なとどめを刺したのだ。
「おい、佐藤。一つ言い忘れてたぜ。あんたが『俺の子供じゃない』と決めつけて、冷たくしていたあの息子さん。今、俺たちの組織のトップと、取引してるぜ。あんたを一生、暗い場所から出さないようにってな」
夫の瞳から、最後の光が消えた。最悪の事実。それは、彼が捨てた家族の絆が、すでに彼を葬り去るために動いていたことだった。
—
パトカーの赤い回転灯が、住宅街の闇を不気味に切り裂いていた。警官に両脇を抱えられ、無様に地面を引きずられながら、夫はまだ必死に喚き散らしている。
「離せ!俺を誰だと思っているんだ?東洋産業の部長だぞ!エリートなんだ!」
「大人しくしてください。佐藤さん。署でじっくりお話を伺いますから」
警官の声も、今の夫の耳には届かないようだった。その時だ。パトカーの列の後ろに、一台、静かに、しかし圧倒的な存在感を放つ、一台の最高級セダンが止まった。運転席から降りてきた男が、後部座席のドアを開ける。そこから現れたのは、スリーピーススーツを着こなした、一人の若い男性だった。眼鏡の奥にある知的な瞳は、凍てつくような冷徹さをたたえている。
「あれは誰だ?」
野次馬の中から、そんな声が漏れる中、夫の動きが止まった。彼は泥にまみれた顔を上げ、その男性を凝視した。
「た、たつや…お前、達也なのか…」
そこに立っていたのは、夫が五年前に「二度と敷居をまたぐな」と勘当したはずの、長男、達也だった。
「お久しぶりですね、父さん。いえ、もう、『父』と呼ぶ必要もありませんか」
達也の声は、低く冷たかった。
「な、なんだ、その格好は!お前、派遣のプログラマーじゃなかったのか!その車はどうした!誰から盗んだんだ!」
夫は、自分が警察に連行されようとしている状況も忘れ、息子への侮辱を口にした。彼にとって、達也は自分の思い通りにならない「失敗作」であり、見下すべき対象でしかなかったのだ。
「父さんは、相変わらずですね。自分の想像力の及ばないものは、全て否定せずにはいられない。僕が海外に飛び立ったのは、母さんの勧めがあったからです。母さんの支援を受けて、僕はロンドンで金融工学を学び、向こうで投資顧問会社を立ち上げました」
「投、投資顧問だと?」
「ええ。そして、日本に戻ってきて最初に手掛けた仕事が、母さんから依頼された、東洋産業の内部監査と、ある『不適切な役員』の排除です」
夫の顔が、さらに一段と青ざめた。
「お前が…まさか…」
「常務に、あなたの横領を告発したのは、僕が引き入れたチームです。一年前から、あなたの金銭の動きは全て補足していました。あなたが『リカ』という女性に貢いでいた資金の出所も、銀座での浪費も、全てね」
達也は、一歩、夫に近づいた。その足取りには、かつて夫に怯えていた子供の影は、微塵も存在しなかった。
「そして、これが今日、僕がここに来た、本当の理由です」
達也は内ポケットから一通の封筒を取り出し、夫の目の前に突きつけた。
「父さん。あなたが十年前に横領した一億円。母さんが尻拭いして、隠してくれたあの金ですが。実は、あれ、母さんの個人資産ではありませんでした」
「何…だと?」
「あれは、僕たちの祖父、一ノ瀬竜像が、僕とマキの将来のために残してくれた、信託財産だったんです。お母さんは、僕たちの未来を守るために、自分自身の相続分を削って、あなたの罪を埋め合わせた。あなたは、自分の子供たちの未来を、銀座の女のために食いつぶしていたんですよ」
夫は、呼吸することさえ忘れたかのように、達也を見つめた。
「俺が…達也たちの…」
「それだけではありません。父さん。あなたが『俺の子供じゃない』と言って、マキを蔑んでいた理由。母さんが昔、一度だけ会社の同僚と食事に行ったことを疑って、マキは『赤の他人の子』だと思い込んでいたんですよね」
リビングの入り口で、マキが私の袖を掴んだ。私はマキの肩を抱き寄せ、夫を見据えた。夫は、何も言えずに黙り込んだ。
「残念でしたね。ここに、僕とマキ、そしてあなたの親子関係を証明する、DNA鑑定書があります」
達也は封筒の中から、一枚の書類を取り出した。
「僕もマキも、間違いなくあなたの血を引いている。あなたは、自分の本当の家族を信じられず、嘘をついて自分を敬うふりをする、詐欺師の女を信じた。そして、本物の絆を、自らの手で切り捨て、泥を塗ったんです」
「うわあああ!」
夫は獣のような咆哮を上げ、頭を地面に打ち付けた。
「嘘だ!認めん!俺が間違っていたはずがない!お前たちは、俺に貸しを作るべき存在なんだ!」
「最後まで、それですか?哀れな人だ」
達也は深くため息をつき、警官たちに目配せをした。
「連れて行ってください。この男には、もう、失うべき誇りも、守るべき家族も、残っていません。塀の下で、自分の罪の重さを噛みしめてもらいましょう」
「待て!たつや!助けてくれ!お前、成功したんだろう!だったら、俺にいい弁護士を雇ってくれ!このままじゃ、俺の人生、終わりなんだよ!」
パトカーに押し込まれながらも、夫は恥知らずな要求を叫び続けた。しかし、達也は二度と振り返ることはなかった。
パトカーが去り、辺りに静寂が戻った。私は、立派に成長した息子の姿を、眩しく見つめた。
「達也、ご苦労様。本当に、助かったわ」
「母さん、ごめん。あんな奴のために、三十年も耐えさせてしまって」
達也は私の元へ歩み寄り、その手で私の肩を包んでくれた。
「もう、何も心配いらないよ。母さんの全財産も、この家も、そして僕たちの名誉も、全て取り戻したから」
私は達也の胸で、小さく頷いた。
—
取り調べ室の冷たい空気の中で、夫はパイプ椅子に深く沈み込んでいた。手錠の冷たさが手首に食い込み、ようやく彼は自分の置かれた状況を理解し始めていた。しかし、その厚顔無恥さは、骨の髄まで染み付いていた。
「刑事さん、何度も言ってるでしょう。あれは、夫婦の痴話喧嘩がこじれただけだ。横領なんて、人聞きが悪い。俺は会社の将来のために、一時的に資金を動かしただけなんだ。それに、俺には金がある。三千万だ。それを使えば、損害賠償だって、すぐに払えるんだよ」
夫は、自分が差し押さえたと思い込んでいる、私の口座の金を唯一の希望として、すがりついていた。そこに、私の代理人である工藤弁護士と、息子の達也が入ってきた。
「佐藤健二さん。残念ながら、その三千万円に期待するのは無駄ですよ」
工藤弁護士が、宣告を下した。
「な、なんだと?お前、まだそんなことを言っているのか?あの通帳とキャッシュカードは、俺の手元にあるんだぞ!暗証番号だって、あいつの誕生日に決まってる!」
夫は机を叩いて喚いた。すると、達也が冷静な声で尋ねた。
「父さん、母さんの誕生日、いつか言ってみてよ」
「な、誕生日?そんなの、三月…いや、五月だったか…。そんな細かいこと、どうでもいいだろう!」
「母さんの誕生日は、十一月だよ。あなたは三十年間、一度も母さんの誕生日を祝わなかったから、そんな簡単なことも知らないんだね」
達也は深くため息をついた。
「あなたが持ち出した、あの口座の暗証番号。それは母さんの誕生日じゃない。僕とマキを出産した、あの日の数字だ。母さんは、あなたがいつか裏切ることを予見して、あえてその番号に設定していたんだよ」
夫の顔から、再び血の気が引いていく。
「それにね、父さん。あの口座に入っていた三千万円。あれ、実は現金じゃないんだ」
達也が、一通の通知書を夫の目の前に置いた。
「現金じゃない?何を言ってるんだ?通帳を確認したら、確かに三千万って書いてあったぞ!」
「あれは、父さん。あなたが十年前に行った横領の利息分を、母さんが個人的に積み立てていた、いわば『賠償準備金』としての名目上の数字だよ。あなたがその口座から一円でも引き出そうとした瞬間、それは自動的に、東洋産業の被害弁償口座に送金される仕組みになっていたんだ」
夫の瞳が、驚愕で見開かれた。
「つまりね、あなたが自分のものだと思って奪ったその三千万は、あなたが過去に犯した罪を償うために、最初から予約されていたお金なの。あなたが昨夜、リカさんと一緒に使ったカードの決済も、全てあなたの未来の給与と退職金を担保にした『前借り』として処理されているわ」
取り調べのドアが開き、私が入ってきた。私は夫の正面に座り、黙って彼を見つめた。
「し、しずか…。お前、全部、仕組んでいたのか?俺を、こんな目に合わせるために…」
私は、しばらくの間、何も答えなかった。静寂が取り調べ室を支配し、夫の荒い呼吸音だけが響く。この沈黙が、今の夫には何よりも恐ろしい拷問のように感じられたはずだ。
「ケンジさん」
私は、ようやく、氷のように冷たい声で口を開いた。
「私は、ただ、あなたにチャンスを与え続けていただけよ。もし、あなたがあの温泉旅行のチケットを、本当に私への感謝として渡してくれていたなら。もし、あなたが家に戻った私に対して、『悪かった』と一言、謝ってくれていたなら。この三千万円は、本当に二人の老後の資金として使うつもりだったわ。でも、あなたは私をゴミのように追い出し、両親の形見を燃やした。その瞬間、あなたの未来は、完全に閉ざされたのよ」
私は鞄の中から、一冊の、手入れの行き届いた通帳を取り出した。
「これはね、一ノ瀬家の本当の全財産。父から受け継ぎ、私が三十年かけて育て上げた、数百億円に上る資産。あなたは私が特売の卵を買いに走る姿を見て笑っていたけれど。私はその裏で、あなたの年収を、一時間で稼ぎ出していたの」
夫は通帳を奪い取ろうとしたが、手錠に阻まれて、転げ回るだけだった。
「数百億…。嘘だ…。そんなの、ありえない…。お前みたいな、中卒の教養のない女が…」
「『学歴が人間を決めるのではない』と、父は教えてくれたわ。ケンジさん。あなたは私を『価値のない女』と言ったけれど。価値がなかったのは、私の愛に値札を貼って、自分を磨くことを忘れた、あなたの方よ」
私は立ち上がり、達也とマキを振り返った。
「さあ、行きましょう。この人に費やす時間は、もう一秒も残っていないわ」
「ま、待て!しずか!待ってくれ!全財産があるんだろう!だったら、俺の借金も、横領も、全部チャラにできるじゃないか!頼む!夫婦の縁に免じて、一度だけ助けてくれ!」
夫は床に膝をつき、額を床に擦りつけて叫んだ。その姿は、かつて私を見下していた「エリート部長」の面影など、微塵もない、ただの犯罪者のそれだった。
「夫婦の縁?そんなもの、あなたが昨夜、離婚届を叩きつけた瞬間に、消滅したわ」
私はドアに手をかけ、最後に一度だけ振り返った。
「言い忘れていたけれど。あの家と土地、来月中には売却の手続きが終わるわ。跡地には、私と達也たちが運営する、犯罪被害者支援のためのシェルターが建つことになっているの。あなたの思い出は、文字通り、跡形もなく消えるわよ。それから、あなたの『全財産』と言っても、マイナスの資産ばかりだけど。それら全てを清算するために、私は私の私有財産を、別の場所へ移したわ。あなたが一生かかっても、たどり着けない。海の向こうの、信託口座に」
夫の叫び声が、取り調べのドアの向こうで、小さくなっていく。それを聞きながら、私は廊下を歩き出した。背筋を伸ばし、一歩一歩、確かな足取りで。
「お母さん、本当に良かったの?あの家に、未練はない?」
マキが、心配そうに尋ねてきた。
「ええ。思い出は、あんな男に焼却されるようなものじゃない。私の心の中に、そしてあなたたちの中に、ちゃんと残っているから」
私は、窓の外に広がる、澄み渡った青空を見上げた。三十年間の重みが、嘘のように軽くなっていくのを感じていた。
—
数週間後、私は拘置所にいる夫と、最後の手続きのために面会していた。かつて、私を顎で使っていた男の姿は、そこにはなかった。無精髭が生え、頬はこけ、目はうつろ。高級スーツの代わりに与えられたグレーのスウェット姿は、彼がこれまでで最も「負け組」そのものだった。
「しずか…。来てくれたのか。やっぱり、お前は俺を見捨てないと思ってたよ」
夫は震える声で、すがりつくように私を見た。
「なあ、聞いたぞ。お前、あの家の土地だけじゃなく、俺の負債も、全部買い取ろうとしてるんだって?さすがは、一ノ瀬の娘だ。だったら、俺のことも助けられるだろう?時効を主張して、告訴を取り下げさせてくれ。そうすれば、俺はまた、お前の夫として…」
私は、夫が話し終えるのを、一言も発さずに待った。何も言わず、ただ無表情に彼を見つめる。その沈黙が、夫には耐えがたい恐怖だったようで、彼は次第に言葉をつまらせ、視線を泳がせた。
「な、なんだよ、その目は。お前、俺をバカにしてるのか?中卒の小娘の分際で、俺を哀れんでるのか?」
言葉に詰まった夫が、突然、以前のような傲慢な口調で叫んだ。
「気にするなよ!お前が金を持ってるのは、全部、父親の遺産のおかげだろうが!お前自身の力じゃない!俺がいなきゃ、お前はただの、価値のないババアなんだよ!」
夫の罵声が、面会室に響き渡った。警官が静止しようとしたが、私は手でそれを制し、口を開いた。
「ケンジさん。最後の最後くらい、もう少しマシな言葉が出てくるかと思ったけれど。本当に、器が浅いのね」
私はバッグの中から、一通の手紙を取り出し、アクリル板に押し当てた。
「これ、誰からの手紙か、分かる?」
夫は目を細めて文字を読み、一瞬で顔色を変えた。
「リカ…!あいつ、どこにいるんだ!?俺の金を返せ!」
「彼女、今頃は南の島でバカンスを楽しんでいるわよ。この手紙には、あなたへの『最後のメッセージ』と、私への『感謝』が綴られているわ」
「感謝?どういうことだ!」
「ケンジさん。あなたが『運命の出会い』だと思っていた、あの夜。彼女があなたに近づいたのは、彼女自身の復讐心もあったけれど。実は、私が彼女のグループを雇ったからなのよ」
夫の時が、止まった。
「お前が、雇った…?」
「ええ。あなたが会社のお金を使い込み、私を裏切り続けている証拠は、揃っていた。でも、私はあなたに、自ら全てを吐き出させる必要があると思ったの。だから、彼女たちに依頼した。『佐藤健二という男の自尊心を煽り、本性を曝け出させて、最後には全財産を差し出させるように仕向けてほしい』とね」
夫は、壊れたおもちゃのように、首を横に振った。
「嘘だ…。嘘だ…!リカちゃんは、俺に愛してるって…!」
「『愛していた』のは、あなたの背後にあった、私の金よ。彼女は私の指示通り、あなたにあの五千万の保証人契約を結ばせた。そして、あなたが知らない、最大の事実はね。その五千万の債権を、今、誰が持っているか、ということよ」
私は、工藤弁護士から受け取った債権譲渡通知書を、夫に見せた。そこには、夫が署名したあの借金の新しい債権者として、私の運営する投資会社の名前が記されていた。
「ケンジさん。あなたがリカさんのために背負った五千万の借金。そして、会社への損害賠償額。それら全ての債権は、今、私が握っているわ。あなたは、これから一生、私に対して借金を返し続けなければならない。刑務所を出た後も。あなたが手にするわずかな賃金は、全て、私の口座に自動的に吸い上げられるの」
夫は椅子から転げ落ちるようにしながら、アクリル板を拳で叩いた。
「お前…!どこまで残酷なんだ!俺を、一生、奴隷にするつもりか!」
「残酷?いいえ。私はただ、あなたが私に言った通りにしているだけよ」
私は身を乗り出し、夫の目をまっすぐに見つめた。
「『お前は、俺の稼いだ金で飯を食わせてもらってるんだから、死ぬまで感謝して暮らせ』。あなたが私に敷いた、三十年間を。今度は、あなたが味わう番よ。あ、そうそう。あなたが『俺の子供じゃない』と否定した達也とマキだけど。彼ら、私の会社の役員に就任したわ。あなたの借金の管理、彼らが担当することになったから、楽しみにしていてね」
「う、うわああああ!」
夫は発狂したように叫び、自分の髪を掻き毟った。自分が最も見下していた妻と子供たちが、自分の「飼い主」になった。プライドだけで生きてきた夫にとって、これ以上の地獄はなかった。
「もう一つ。『全財産を持って消えてやる』と言ったけれど、あれ、勇気じゃないのよ」
私は立ち上がり、とどめを刺した。
「あなたが愛した、この国での『佐藤健二』という男の社会的地位、信用、人脈、そして未来。それら全てを、私が買い取って、跡形もなく消し去ってあげたわ。今のあなたは、戸籍上に名前があるだけの、空っぽの抜け殻よ。さようなら、ケンジさん。二度と、その名前で呼ばれることはないでしょう」
面会終了のベルが鳴り響いた。警官に引きずられていく夫の背中は、まるでゴミ袋のように小さく、惨めだった。彼が最後に残した言葉は、聞き取れないほどの、情けない嗚咽だけだった。
私は面会室を出て、外の空気を胸いっぱいに吸い込んだ。建物の前には、達也が運転する車が止まっており、マキが笑顔で手を振っていた。
「お母さん、終わった?」
「ええ。全て、終わったわ」
私は車に乗り込み、一度も振り返ることなく、その場を後にした。新たな人生を、そして自分自身の人生を、誰にも邪魔されない自由という名の新天地へ運ぶために。
—
あの嵐のような出来事から、一年が経った。私は今、伊豆の海を一望できる小さな丘の上に立っている。一年前、夫が私を追い出すために用意した偽りの温泉旅行。結局、私はあの旅館に泊まることはなかった。しかし、今、私の目の前には、それよりもはるかに美しく、穏やかな景色が広がっている。
「お母さん、お茶が入ったわよ」
後ろから、明るい声がした。振り返ると、テラスのテーブルにハーブティーを並べている、マキの姿があった。一年前、家の中で怯えるように過ごしていた娘の姿は、もうどこにもない。彼女は今、私が設立した「一ノ瀬女性自立支援財団」の理事長として、溌溂と働いている。
「ありがとう。本当に、いい風ね」
私はマキの隣に座り、海を見つめた。夫の怒鳴り声に震え、シンクの汚れを落とすことだけに追われていた日々が、遠い前世のことのように感じられる。
あの後、夫には厳しい判決が下された。横領、闇金融との不適切な契約。そして、十年前の余罪。それらが積み重なり、彼は現在、刑務所の中で服役している。彼が刑務所内で行う作業の報酬は、全て損害賠償の返済に充てられている。身寄りもなく、友人もなく。ただひたすらに、失ったものの大きさを噛みしめる毎日だと聞いている。
先日、工藤弁護士を通じて、夫から一通の手紙が届いた。そこには、「すまなかった。やり直したい」という、身勝手な言葉が並んでいた。でも、私はその手紙を読み終える前に、静かにシュレッダーにかけた。許さないことが私の復讐ではない。彼の存在そのものを、私の人生から綺麗に消し去ること。それが、私なりの決着だったからだ。
「母さん、お待たせ。役所の手続き、全部終わったよ」
達也が、坂道を登ってきた。彼は今、私の資産管理だけでなく、若手起業家を支援するエンジェル投資家としても、活躍している。
「ご苦労様。これで、ようやくおじいちゃんの願いが叶うわね」
私たちが今いるこの場所。ここは、かつて父が「いつか引退したら、しずかと一緒に暮らしたい」と言って購入していた土地だった。夫に燃やされてしまった父の手紙。でも、その内容は、私の記憶の中に、しっかりと刻まれている。
私たちは、この丘に小さな施設を建てた。名前は「一ノ瀬メモリアルハウス」。家を追われた女性や、家族の絆に傷ついた人々が、次の人生へと踏み出すための準備をする場所だ。私が夫から「奪い返した」全財産を、自分だけの贅沢のために使う気は、初めからなかった。彼のような人間によって踏みにじられた人々の尊厳を取り戻すために、その資金を使いたかったのだ。
「お母さん。あの時、お父さんに言ったよね。『全財産を持って消えてやる』って。今なら、その意味がよくわかるよ」
マキが、私の手を握った。
「お母さんが持っていったのは、お金だけじゃなかった。おじいちゃんの知恵、私たちの未来、そしてお母さん自身の誇り。お父さんが一番欲しがっていたのに、一番理解していなかったもの。全部、守り抜いたんだね」
達也も、力強く頷いた。
「あの人は、数字に見えるものしか信じなかった。でも、本当に価値のある資産は、目に見えない絆や、人を思いやる心なんだ。母さんは、それを僕たちに教えてくれた」
子供たちの言葉に、目頭が熱くなるのを感じた。三十年間の苦労は、決して無駄ではなかった。あの忍耐の日々があったからこそ、今のこの自由の尊さを、心から噛みしめることができる。そして、子供たちがこんなにも立派に育ってくれた。それこそが、私が手に入れた最大の財産なのだと、確信している。
太陽がゆっくりと海に沈み始め、空が美しい茜色に染まっていく。私は鞄の中から、一冊の新しいノートを取り出した。一年前、夫に燃やされた日記の代わりに、新しい人生を綴り始めるための、真っ白なページ。
その最初のページに、私はこう記した。
「人生は、何度でもやり直せる。自分を信じる勇気と、守るべき愛がある限り」
私は今日から、私自身の物語を、私だけの足取りで歩んでいく。夕陽を見つめる私の横顔に、もう迷いも悲しみもない。あるのは、穏やかな微笑みと、明日への確かな希望だけ。
かつて「価値のない女」と呼ばれた一人の主婦は、今、一ノ瀬という一人の人間として、最高の幸せの中にいる。
ケンジさん、あなたは今、あの暗い窓から、どんな空を見ているのかしら。でも、もう、それは私の知ることではない。私は愛する子供たちと共に、新しい風に乗って、どこまでも高く、自由に羽ばたいていくのですから。
「ああ、夕飯にしましょうか。今日は、お父さんが大好きだった、あの煮魚を作ったのよ。もちろん、私たちの口に合う、優しい味付けでね」
笑い声が、潮風に乗って、海の上に広がっていく。それは、どんな宝石よりも輝かしく、どんな資産よりも尊い、幸福のメロディだった。
私の新しい人生は、今、始まったばかりだ。



