駅のコンコースに、冷たい声が響いた。5年前に私を家から追い出した元夫の健一が、新しい妻のミカと一緒に立っていた。ミカはブランドバッグを抱え、私の汚れたエプロンを上から下まで見下すように値踏みした。
「慰謝料ももらえずに追い出されたからって、こんな田舎で弁当を売ってるのか。結局、男に捨てられて惨めな生活をしてるんだな」
健一は私の足元に隠れる娘を指差し、勝ち誇ったように笑った。私は怒鳴らなかった。泣きも言い訳もしなかった。ただ、エプロンのポケットの奥にある冷たい金属の鍵を静かに握りしめた。彼はまだ知らない。私がなぜこの駅で毎日弁当を売っているのか。そして、5年間黙って耐えてきた本当の理由を。
「お母さん、この人たち誰?」
みほが私のエプロンを強く握り、震える声で聞いた。私は娘を背中に隠すように立ち、健一をまっすぐに見つめた。
「ただの道に迷った人よ。気にしなくていいからね」
その静かな一言に、健一は苛立った表情を浮かべた。
「強がるなよ。他人の子を抱えて苦労することだな。俺にはもう関係ないがな」
彼は吐き捨てると、ミカの肩を抱いて改札の方へ歩いていった。私はその後ろ姿を見送りながら、ポケットの中の鍵をさらに強く握った。その小さな鍵が、彼の作り上げた人生を全て終わらせるものであることを、彼はまだ知らない。
健一の姿が消えた後、私は深く息を吐き出した。握りしめていた手が白くなっていることに気づいた。恐怖ではない。5年分の抑え込んでいた感情が、少しだけ漏れ出しそうになったのだ。
「ごめんね、みほ。怖かったね」
私はしゃがみ込み、娘の頭を優しく撫でた。みほは首を横に振ったが、その小さな手は私のエプロンを離そうとしなかった。
今日は朝からみほの体調が少し悪く、熱があった。保育園を休ませ、職場の配慮で隣に座らせていたのだ。お弁当も売り切れたから、片付けて病院に行こう。そう言うと、みほは安心したように頷いた。
片付けをしながら、5年前のあの日の記憶が蘇る。私を嘘つきの不倫女だと決めつけ、家から追い出した健一。それに同調し、私の荷物を冷たい雨の中に投げ捨てた義母。私はあの時、あえて真実を語らなかった。いや、語ることができなかった。お腹の中にいたみほを、彼らのような人間から守るためには、私が悪者になって身を引くしかなかったからだ。そして何より、私には時間をかけて集めなければならない証拠があった。
折りたたみ式のテーブルを片付けながら、冷たい風を顔に受けた。駅前の時計は午前11時を回ったところだった。
さあ、行こうか。私はみほの小さな手を引き、駅前のバス停に向かって歩き出した。ここで焦ってはいけない。もうすぐ、私が準備してきた全てのパズルが繋がる時が来るのだから。
バスに揺られて15分。市内で一番大きな総合病院の小児科にやってきた。待合室には絵本を読む親子や静かに眠る赤ちゃんたちの姿があった。消毒液の匂いが、張り詰めた気持ちを少しだけ落ち着かせてくれる。みほを座らせ、受付に診察券を出した。
ソファに戻り、みほと一緒に絵本を広げたその時だった。
「おい、お前、ストーカーか何かか」
頭上から再びあの不快な声が降ってきた。顔を上げると、会計待ちのファイルを手にした健一が立っていた。隣にミカの姿はない。おそらく別の科で診察を受けているのだろう。
「わざわざ俺たちの後を付けて同じ病院に来るなんて、いくら未練があっても非常識だぞ」
健一は周囲の母親たちにも聞こえるような声で嫌味を言った。私は絵本から目を離さず、静かに答えた。
「ここは総合病院です。子供の熱で来ただけですよ」
「嘘をつけ。俺が最近この近くの支社に転勤したのを知ってて近づいてきたんだろう」
健一の言葉には、おかしな自信が混ざっていた。5年前もそうだった。彼はいつでも自分が一番上でなければ気が済まない人だった。
私はふと、健一が持っている会計ファイルに目を落とした。そこには、彼が絶対に人に見られたくないはずの診療内科という文字が書かれていた。なぜ健一が診療内科に通っているのか。5年前に彼が私に突きつけた言葉の矛盾が、今になって少しずつ繋がり始める。
私が何も言わないのをいいことに、健一はさらに言葉を続けようとした。その時、小児科の受付のマイクから看護師さんの明るい声が響き渡った。
「田中みほちゃん。田中みほちゃん。3番の診察室へどうぞ」
その声が待合室に落ちた瞬間、健一の言葉がぴたりと止まった。私は静かに立ち上がり、みほの手を引いた。
「おい、今なんて呼ばれた」
健一の声は、先ほどまでの余裕が嘘のように震えていた。
「みほちゃんですけど」
私は立ち止まり、彼の顔をまっすぐに見つめた。健一の目が大きく見開かれ、足元にいるみほと顔を見比べた。再婚相手の子供なら、苗字は佐藤か別の男の苗字になっているはずだ。しかし呼ばれたのは田中だった。そして目の前にいるみほの年齢。私に似た顔立ちの中にある健一の面影。健一の脳内で、5年という月日と事実が最悪の形で結びついたのだろう。彼の顔から、さっと血の気が引いていくのが分かった。
「お前、まさかその子……」
健一の唇が震え、持っていた会計ファイルが床に落ちた。ばさりという乾いた音が静かな待合室に響いた。私は落ちたファイルを拾うこともせず、ただ静かに言った。
「お大事に。田中さん」
私はそれだけを言い残し、みほの手を引いて診察室へと歩き出した。背後で健一が一歩も動けずに立ち尽くしている気配がした。
診察室の丸椅子に座ると、私は小さく息を吐き出した。みほは膝の上で大人しく先生の診察を受けている。
「ただの風邪ですね。お薬を出しておきます」
白髪の先生の優しい言葉に、私は深く頭を下げた。会計を待つ間、私は手元にあるみほの保険証を見つめていた。そこには「田中美穂」とはっきりと印字されている。
田中という文字を見るたびに、胸の奥が少しだけ痛むこともあった。しかし、これが私と娘を守るための大切な盾だったのだ。
5年前、私が離婚届を出した時、私はある決断をした。今族という手続きだ。離婚しても元夫の苗字をそのまま名乗ることができる制度。当時の私は周囲から不思議がられた。あんなにひどい裏切りをした夫の苗字を、なぜ残すのかと。早く新しい苗字に戻って人生をやり直せばいいのにと言われた。しかし、私にはどうしても「田中」でいなければならない理由があった。
私の実家はこの地方都市の郊外で小さな畑を持っていた。亡き両親が汗水流して守ってきた大切な土地だ。その土地の権利を義母に奪われそうになったのが、5年前のことだった。
記憶の中のあの日は、冷たい雨が降っていた。
「お前が浮気している証拠はあるんだ。今すぐ出ていけ」
健一は私が見たこともない男性と一緒に映る写真を床に投げつけた。それはあまりにも不自然で、誰が見ても合成写真だと分かるものだった。しかし、同居していた義母はその嘘に喜んで乗かった。
「恥さらしな嫁だこと。慰謝料代わりにお前の実家の土地をもらうからね」
義母は私の荷物を雨の降る庭に次々と投げ捨てた。私が両親から引き継いだ実家の土地は、再開発の噂が出ていた。健一と義母の本当の目的は、私の浮気をでっち上げることではなかった。私を悪者にして家から追い出し、その土地の権利を奪うことだったのだ。
そして、健一がすでに会社の若い女性と深い関係にあることも、私は知っていた。香水の匂い、深夜の電話、不自然な出張。疑いの種は前からずっと少しずつ積み重なっていた。
私は雨の中で泥だらけになった自分の鞄を拾い上げた。泣き叫んで抵抗することも、警察を呼んで嘘を暴くこともできたはずだ。でも、私は黙って家を出ることを選んだ。なぜなら、その朝、私は自分の身体に宿った小さな命に気づいていたからだ。まだ妊娠初期だった私は、強いストレスを抱えるわけにはいかなかった。もしあの場で健一たちと激しく争えば、お腹の子まで傷つけられるかもしれない。健一は自分の思い通りにならないと、何をするか分からない人だった。
それに、私にはもう一つ大きな確信があった。健一がただの中堅の経理部長ではありえない額のお金を動かしていることに。
庭に投げ捨てられた荷物の中に、私の古い化粧ポーチがあった。そのポーチの底の裏地に、私はあるものを縫い込んで隠していた。それは健一の書斎の引き出しの奥で見つけた、小さな金属の鍵だ。健一が「田中」という私の名義で作った秘密の貸金庫の鍵だった。彼は税金対策か何かで私の名前を勝手に使ったのだろう。その中には、健一が会社で横領したお金の証拠が隠されているはずだった。だから、私はどうしても苗字を変えるわけにはいかなかった。田中でなければ、その貸金庫の扉を開けることができないからだ。
私は泥だらけのポーチを胸に抱きしめ、静かに実家へと向かった。あの日の雨の冷たさを、私は一生忘れることはないだろう。
「田中さん、お薬が出ていますよ」
薬局の薬剤師さんの明るい声で、私は5年前の記憶から引き戻された。ピンク色の小袋を受け取り、みほと一緒に外に出る。雨上がりの空には、少しだけ青空が見えていた。
バスに揺られながら、私は窓の外の景色をぼんやりと眺めていた。この5年間、私はみほを守り育てることだけを考えて生きてきた。実家の土地は、権利変更の手続きをわざと複雑にして義母の手から守り抜いた。義母は何度か手紙を送ってきたが、私は全て無視した。そして今、みほは4歳になり、少しずつ体も丈夫になってきた。もう逃げ隠れする必要はない。
私はエプロンの下にある服のポケットに手を入れると、小さな鍵に触れた。冷たい金属の感触が、私に前に進む勇気を与えてくれる。健一が今日病院で私とみほに偶然会ったこと。それはきっと彼にとって最悪のタイミングでの再会だったはずだ。なぜなら、私はつい数日前にある行動を起こしていたからだ。
アパートに帰り着いた私は、みほをベッドに寝かせた。薬を飲んだみほは、すぐに穏やかな寝息を立て始めた。私は静かに台所へ行き、テーブルの上に1枚の書類を置いた。それは銀行から届いたばかりの貸金庫の契約解除通知だった。この5年間、私が一度も触れることなく維持し続けてきた秘密の場所。その中身は、すでに私が依頼した弁護士の手によって安全な場所に移されている。健一が隠し持っていたはずの横領の証拠は、もうあの場所にはない。
湯のみにお茶を注ぎ、静かに一口飲んだ。その時、テーブルの上に置いていた私のスマートフォンが突然震え出した。画面には見知らぬ番号が表示されている。普段なら出ない番号だが、なぜか胸騒ぎがした。私は通話ボタンを押した。
「はい、田中です」
電話の向こうからは、荒い息遣いが聞こえた。そして、聞き覚えのある焦った声が私の耳に飛び込んできた。
「おい、ゆみ。お前、一体何をしたんだ?」
それはつい先ほど病院で言葉を失っていたはずの健一からの電話だった。彼の声は、怒りよりも明らかな恐怖で震えていた。私は黙ったまま、窓の外の空を見つめた。5年前の嘘が、ついに崩れ始めた音だった。
「今日、銀行から俺のところに連絡があったんだぞ。貸金庫の解約ってどういうことだ?」
私はスマートフォンを持ったまま、テーブルの上の冷めたお茶を見つめた。5年前、彼は私を家から追い出す時、冷たい目でこう言った。「お前みたいな女の荷物なんて全部ゴミだ。さっさと消えろ」そのゴミの中に、彼にとって自分の命より大切な鍵が紛れ込んでいたのだ。
「どういうことか分からないんですね」
私は静かに、そしてゆっくりと言葉を返した。
「私の名義の貸金庫。私が解約しただけです。何か問題でもありますか?」
健一は電話の向こうで言葉に詰まった。彼がここで「中に入っていた俺の金はどうした」と言えば、自分の横領を自ら認めることになる。
「あ、あれは俺が管理していたものだ。勝手な真似をするな」
「勝手な真似。あなたは5年前に私と縁を切ったはずですよね。他人の口座に口を出さないでください」
私の冷たい一言に、健一は唸るような音を立てた。そして何かを言い返す前に、電話は一方的に切れた。ツーという無機質な電子音を聞きながら、私は静かに画面を閉じた。
翌日の朝、私はみほを保育園に預け、駅前の銀行に向かった。どうしても確認しておきたいことがあったからだ。銀行の窓口で通帳の記帳をお願いすると、窓口の女性が少し困ったような顔で声を潜めて付け加えた。
「あの、田中様。実は昨日のお昼頃、男性の方が窓口にいらっしゃいまして……」
「男性ですか?」
「はい。田中様の旦那様だと名乗られて、貸金庫の中身について強くお尋ねになりまして」
やはり健一は病院で私に会った後、すぐにこの銀行に駆け込んでいたのだ。
「ご本人様でなければお答えできないとお伝えしたのですが、かなりお怒りで、警察を呼ぼうかという騒ぎになりまして。ご迷惑をおかけしました」
「もう夫ではありませんので、次からは迷わず警察を呼んで構いません」
私がそう言うと、窓口の女性は驚いたように目を丸くしたが、すぐにほっとした表情で頷いた。
銀行を出た私は、そのまま近くの大型スーパーへ向かった。夕飯の買い物と、みほが欲しがっていたゼリーを買うためだ。野菜売り場で大根を選んでいると、背後の通路から聞き覚えのある声が聞こえた。
「だからね、うちの息子は今度支社長になるのよ。本当に優秀で困っちゃうわ」
その声に私は思わず立ち止まった。声の主は、5年前まで一緒に暮らしていた義母の和子だった。義母は近所の奥さんらしき人とカートを押しながら、楽しそうに話していた。
「お嫁さんも若くて、気が利くし。本当に前の嫁とは大違いでね。家の中が明るくなったわ」
和子は相変わらず私の悪口を言いながら、自分の息子を自慢していた。しかし、私はその言葉の中に小さな違和感を覚えた。支社長になるという健一は、昨日病院の待合室で「支社に転勤した」と言っていた。しかし、本当に支社長になるようなエリート社員が、平日の昼間に診療内科を受診するだろうか。それに、健一の会社は最近大規模な内部監査が入っていると、私の弁護士から聞いていた。
私は大根を棚に戻し、少しだけ義母たちの会話に耳を傾けた。
「でも和子さん、最近お嫁さん、実家に帰ってるって噂じゃない?」
近所の奥さんのその遠慮がちな一言に、義母の顔からさっと笑顔が消えた。
「そ、そう?それは若いからたまには実家で羽を伸ばしたいのよ。健一が優しすぎるのよ」
義母は慌てて言い訳をしていたが、その声は明らかに上擦っていた。私は静かにその場を離れ、レジへと向かった。健一の完璧なはずの人生は、すでにどこかで狂い始めている。若い妻のミカは昨日、健一と一緒に駅にいた。しかし義母は、ミカが実家に帰っていると言い張っている。彼らは家族の中でお互いに見栄を張り、嘘を付き合っているのか?それとも、ミカが健一から何か重大なことを隠しているのか?
買い物を終えてアパートに戻ると、スマートフォンの通知音が鳴った。画面を見ると、私が依頼している小林弁護士からのメッセージだった。
「田中さん、少し動きがありました。健一氏の会社で、過去の経理記録について本格的な調査が始まったようです」
私は画面を見つめながら、深く息を吐き出した。いよいよ、5年間の沈黙を破る時が近づいている。健一は今頃、自分の足元が崩れ落ちていく音を聞いているはずだ。
私はスマートフォンの画面を閉じ、仏壇の前に座った。そこには優しかった両親の写真が飾られている。私は静かに手を合わせ、目を閉じた。
「もう少しです。もう少しで、お父さんたちの土地を完全に守り抜くことができます」
夕方になり、みほを保育園に迎えに行った。みほはすっかり熱も下がり、元気な笑顔を見せてくれた。
アパートの階段を登り、自分の部屋の前に着いた時だ。郵便受けに、一通の茶色い封筒が半分はみ出した状態で入っていた。切手は貼られていない。誰かが直接入れたようだ。差出人の名前はなかった。しかし、その封筒の表に書かれていた私の名前の筆跡を見た瞬間、私は持っていた買い物袋を取り落としそうになった。それは5年前に亡くなったはずの私の父の字に、そっくりだったからだ。
手の中にある茶色い封筒が、かすかに震えていることに気づいた。5年前に病気で亡くなった父の字。見間違えるはずがない。独特の右上がりの癖字で、私の名前がしっかりと書かれていた。
みほに手洗いをさせ、テレビをつけてから、私は台所のテーブルに座った。ハサミで慎重に封を切り落とし、中身を取り出した。入っていたのは、古い1枚の便箋と、小さな付箋が貼られたメモ用紙だった。付箋には、見知らぬ丁寧な字でこう書かれていた。
「田中ゆみ様。父様からお借りしていた本を整理していたところ、このメモが挟まっていました。大切なことのように思えたのでお届けします。鈴木」
鈴木さん。実家の隣に住んでいた、古い付き合いの男性の名前だった。私は胸のざわめきを感じながら、父の字で書かれたその古いメモを開いた。そこには、鉛筆の薄くなった字でこう記されていた。
「健一君が実家の土地の権利書と実印を貸してくれと言ってきた。会社の新規事業の担保にしたいと言うが、あの目は嘘をついている。ゆみには絶対に内緒にしてくれと言われた。ゆみを悲しませるわけにはいかない。絶対に渡さない」
日付は、父が突然倒れて亡くなる、わずか1週間前のものになっていた。私はメモを持つ手に力を込めた。5年前、健一は私が浮気をしたと言いがかりをつけ、私を追い出した。そして義母は慰謝料代わりに実家の土地をもらうと騒ぎ立てた。あの不自然な出来事の点と点が、今はっきりと1本の線で繋がったのだ。
健一は5年も前から、私の実家の土地を狙っていた。会社のお金を横領し、その穴埋めをするために土地を担保に入れようとしたのだろう。しかし父が実印を渡すことを拒否した。そして父が亡くなり、焦った健一と義母は、私から直接土地を奪う計画を立てた。それがあの合成写真を使った卑劣な偽装不倫の真相だったのだ。
「お父さん、守ってくれていたのね」
私は便箋に顔を押し当て、静かに目を閉じた。涙は流れなかった。代わりに、私の中に冷たくて静かな決意が、より一層強く固まった。父が残してくれたこの小さなメモは、健一の嘘を根底から崩す決定的な証拠になる。彼が初めから土地を狙っていたという動機の証明になるからだ。
翌日、私はいつものように駅前の弁当屋でパートの仕事をしていた。お昼を過ぎ、客足が少し落ち着いた頃だ。店の前に1台のタクシーが止まった。降りてきたのは、昨日駅で見かけたミカだった。ブランド物のコートを羽織ってはいるが、昨日のような余裕のある笑顔はない。足取りは重く、周囲を気にするようにキョロキョロと見回している。
ミカは私に気づく様子もなく、お弁当の陳列棚の前に立った。そして、自分のスマートフォンを取り出し、誰かに電話をかけ始めた。
「ちょっと、どういうことなのよ」
店内に響かない程度の、しかし明らかに苛立った声だった。私はカウンターの奥で食器を洗いながら、静かに耳を澄ました。
「あの貸金庫に5000万あるって言ったわよね。なんで空っぽなのよ」
5000万。その金額を聞いて、私の手が一瞬止まった。健一が会社から横領していた正確な金額を、私はその時初めて知った。
「もう入ってるんでしょ。お金が戻せなかったら、あなた捕まるじゃない。私の人生まで巻き込まないでよ。ふざけないで」
ミカの磨き上げられた長い爪が、スマートフォンの画面をカツカツと叩いている。電話の相手は、間違いなく健一だろう。彼女は自分の夫を心配するどころか、ただ怒り狂っていた。健一の完璧なはずの新しい人生は、こうして裏側からボロボロと崩れ落ちていた。
「もういいわ。実家のお母さんに頼んで、あの土地を売らせなさいよ。それがダメなら、私にも考えがあるからね」
ミカはそう吐き捨てるように電話を切ると、一番安い幕の内弁当を一つだけ手に取り、レジに来た。私は顔を上げないようにして、静かにバーコードを読み取った。
「540円になります」
私の声にも、彼女は全く反応しない。小銭を乱暴にトレーに投げ入れると、お弁当を引ったくるようにして店を出ていった。私はその背中を見送りながら、静かに息を吐いた。やはりミカの目的は、健一が隠し持っていたはずのお金だった。健一は会社のお金を横領し、それを私の名義の貸金庫に隠した。そしてミカには「自分には5000万の蓄えがある」と嘘をついて引きつけたのだろう。しかし、そのお金はすでに私の弁護士の手によって安全な場所に移されている。健一は今、会社からは監査で詰められ、新しい妻からはお金を要求されている。逃げ場は、もうどこにもない。
その日の夕方、仕事を終えて保育園にみほを迎えに行った私は、小林弁護士の事務所に立ち寄った。父の残したメモを渡すためだ。
「田中さん、これは非常に大きな証拠になりますよ。会社の横領の件も、いよいよ警察が動く可能性が高いです。ただ、追い詰められた彼らが最後に田中さんの実家の土地を無理やり奪おうと、強硬手段に出るかもしれません。十分に気をつけてください」
「はい。覚悟はできています」
私は静かに答えた。もう5年前に雨の中で震えていた私ではない。みほを守るためなら、私はどんなことでも立ち向かうことができる。
夜になり、アパートに帰って夕飯の支度を始めた。みほは楽しそうにお絵かき帳に絵を描いている。鍋から味噌汁の湯気が立ち上り始めた、その時だった。突然、玄関のドアをどんどんと激しく叩く音が響いた。
「ゆみさん、いるんでしょう。開けなさい」
その声に、私は味噌汁のお玉を持ったまま立ち尽くした。みほが怯えたように私のエプロンにしがみついてくる。インターホンの小さなモニター画面に映っていたのは、信じられない人物だった。息を切らし、髪を振り乱してドアを叩いているその人は、5年前に私をゴミのように追い出した義母の和子だったのだ。
モニター画面の中の義母は、ひどく取り乱していた。いつも綺麗にセットされていた髪は乱れ、服のボタンも掛け違えている。私はエプロンで手を拭き、ゆっくりと玄関に向かった。みほが不安そうに私の足にすがりついている。
「大丈夫よ、みほ。ここで待っていてね」
私は娘に優しく言い聞かせ、ドアのチェーンをかけたまま、少しだけ扉を開けた。細い隙間から、義母の顔が覗く。
「ゆみさん。ああ、よかった。探したのよ」
義母はドアの隙間に顔を押し付けるようにして、無理やり笑顔を作った。
「何の用ですか?ここは私の家です」
私が静かにそう言うと、義母は一瞬目を泳がせた。しかし、すぐにまた作り笑いを浮かべて、甘えるような声を出した。
「水臭いこと言わないでよ。私たち、家族じゃないの。ちょっと中に入れてちょうだい」
家族。その言葉を聞いた瞬間、私の胸の奥で冷たい怒りが静かに燃え上がった。冷たい雨の中、私の荷物を庭に投げ捨てたあの手を、私は忘れていない。
「家族ではありません。5年前、あなたが私を追い出した時に終わっています」
私が冷たく言い放つと、義母の顔から一瞬だけ笑顔が消え、苛立ちが見えた。しかし彼女は必死にそれをごまかし、今度は私の足元を覗き込んだ。隙間から、不安そうに私を見上げているみほの姿が見えたのだろう。
「あら、その子がみほちゃんね。まあ、健一の小さい頃にそっくりだわ」
義母は突然、猫なで声を出してドアの隙間から手を伸ばしてきた。
「おばあちゃんよ。さあ、こっちへいらっしゃい」
その言葉は、私にとって最も許せないものだった。5年前、私の浮気をでっち上げ、この子の存在を否定したのは、彼女自身だ。義母のしわだらけの手が隙間からみほに向かって伸びてきた、その瞬間だった。みほは両手で私の足を強く抱きしめ、きっぱりと首を横に振った。
「やだ。怖い。お母さん、この人誰?」
その声は震えていたが、拒絶ははっきりとしていた。義母の伸ばした手が、空中でぴたりと止まった。
「帰ってください。この子はあなたを知りません。あなたもこの子を知らないはずです」
私の言葉に、義母はついに作り笑いをやめた。ドアの隙間から見える顔が、見る見るうちに赤黒く染まっていく。
「偉そうな口を聞かないで。こっちだって好きで来たんじゃないわよ。健一が大変なのよ。会社で少し、そう、少しだけ計算間違いをしただけなのに。あの女、ミカさんがひどいのよ。健一を見捨てて実家に帰ってしまったの」
やはりスーパーでのミカの態度は本物だった。ミカは健一の横領を知り、さっさと泥船から逃げ出したのだ。義母はすがりつくような目で私を見つめた。
「だからね、ゆみさん。あなたの実家の土地、少しだけ貸してちょうだい。担保に入れてお金を借りるだけよ。健一が社長になれば、すぐに返せるわ」
その言葉が義母の本当の目的だった。私はあまりにも身勝手な言葉に、呆れ果てて言葉を失った。5年前と同じだ。彼女たちは他人のものを奪うことに、何の罪悪感も持っていない。自分の息子を守るためなら、誰の人生を壊してもいいと思っているのだ。
私はチェーン越しの義母の顔を、静かにそしてまっすぐに見つめた。
「あの土地は、もう私の名義ではありません」
私がそう言うと、義母は目を見開き、息を飲んだ。
「な、なんですって?嘘よ。そんなはずないわ」
嘘ではない。5年前、家を追い出された後、すぐに信託の手続きをした。私は小林弁護士の助言を受け、土地の権利を簡単には動かせないようにしていたのだ。私が勝手に売却したり担保に入れたりできない仕組みに変えてあった。もちろん、義母や健一が手出しできるはずもない。
義母の顔から、さっと血の気が引いていくのが分かった。
「そ、そんな。じゃあ、健一はどうなるのよ。会社のお金を……」
義母はパニックになり、自分で「会社のお金」と口を滑らせた。私は静かに、用意していた言葉を投げかけた。
「義母さん、5000万円の横領は計算間違いとは言いません。犯罪です」
その金額と犯罪という言葉を聞いた瞬間、義母の手から力が抜けた。ドアの枠を掴んでいた手が滑り落ち、彼女は崩れ落ちるように膝をついた。
「どうして、どうしてその金額を知っているの」
義母の震える声に、私は答えなかった。ただ、5年前に亡くなった父の言葉を思い出していた。「健一君があの土地を狙っている。ゆみには絶対に内緒にしてくれ」。父が命がけで守ってくれたもの。私は最後まで守り抜いたのだ。
「もう二度と、私たちに関わらないでください」
私はそう言い残し、義母が何かを言いかける前に、静かにドアを閉めた。外からはしばらくの間、くぐもった泣き声のようなものが聞こえていた。しかし、私はもう振り返らなかった。
その週末。私はクローゼットの奥から、5年間一度も袖を通していなかった黒い喪服を取り出した。義父の七回忌の法要に参列するためだ。義父は亡くなる直前、私に一通の封筒を託してくれた人だった。義母と健一の嘘を暴くための、最後の切り札。それを今、使う時が来た。
法要の会場である寺の控え室に足を踏み入れると、親族たちの視線が一斉に私に突き刺さった。
「何の真似よ。離婚した女が、どの面下げてやってきたの」
義母が湯呑みを畳に叩きつけるようにして立ち上がった。義兄の正木も立ち上がり、私を威圧するように睨みつける。
「おい、ゆみ。帰れ。お前が警察で余計なことを言ったせいで、健一はまだ帰ってこないんだぞ」
私は静かに、控え室の中へと足を踏み入れた。
「義父さんの七回忌に手を合わせに来ただけです」
「ふざけないで。あなたにそんな権利はないわ。さっさとつまみ出しなさい」
義母の合図で、正木が私の腕を掴もうと一歩前に出た。その時だ。背後の廊下から、静かでしかしよく通る声が響いた。
「私がお呼びしたのですよ」
その声に、正木の手が空中でぴたりと止まった。そこには、この寺の住職が立っていた。住職は義父の古くからの友人で、5年前の葬儀でも私に優しい言葉をかけてくれた方だった。
「住職さん、どういうことですか?」
義母が戸惑ったように尋ねると、住職は静かに私の隣に立ち、義母をまっすぐに見つめて言った。
「和子さん。ご主人の七回忌、本当の真実を仏前に明らかにするために、ゆみさんの立ち合いが必要だったのです」
住職の言葉に、控え室の空気が凍りついた。義母の顔から、見る見るうちに血の気が引いていく。
「住職さん、仏事とはいえ、他人の家のことに口出ししないでください。今日は親族の大事な話し合いがあるんです。部外者には帰ってもらいます」
義母は必死に強がったが、その声は上擦っていた。すると住職は、静かにこう続けた。
「和子さん、ご主人が亡くなる3日前、私は病室へお見舞いに伺いました。その時、正尾さんは右手をぴくりとも動かすことができませんでした。医師の診断書によれば、右半身の完全麻痺。自力での筆記は、医学的に完全に不可能だったとあります」
住職が手にしていた診断書を読み上げると、義母の手から、あの見事な筆文字で書かれた遺言書が滑り落ちた。
「そ、それは何かの間違いよ。お医者様が間違えたのよ。あの人は最後に、奇跡的に右手が動いたの。私、この目でちゃんと見たんだから」
あまりにも見苦しい言い訳だった。親族たちの間に、ざわめきが広がる。私はテーブルの上に、もう1枚の紙を置いた。義父が震える左手で書き残した、短い手紙だった。私は親族全員に聞こえるよう、はっきりと読み上げた。
「妻の和子と息子の健一が、私の遺産を全て健一に相続させるという遺言書を偽造しているのを知っている。私は絶対にそのようなものを書いていない。ゆみさん、もしあいつらがこの偽の遺言書を使って、お前の人生を壊そうとしたら、迷わずこの診断書を出して嘘を暴いてくれ」
私は手紙を読み終え、義母をまっすぐに見つめた。義父は全て知っていた。妻の和子が健一の横領を知りながら、それを隠すために私の実家を奪おうとしたことも、そして自分の遺産を勝手に操ろうとしたことも。
義母はもう、一言も言い返すことができなかった。顔を覆った指の隙間から、ぼろぼろと涙がこぼれ落ちる。しかしそれは反省の涙ではなかった。自分の完璧な嘘が暴れ、親族たちの前で恥をかいたことへの、悔し涙だった。
その時、隣に立っていた長男の正木が突然、大きな声を出した。
「お、俺は知らないぞ。親父の遺言書を偽造したなんて、俺は一切知らなかった。全部、母さんと健一が勝手にやったことだ」
長男の突然の裏切りに、義母は信じられないという顔で息子を見上げた。
「ま、まさ、あなた、何を言っているの。あなたも賛成したじゃないの」
「ふざけるな。犯罪の片棒を担がせる気か。俺の仕事に傷がついたらどうするんだ」
正木は義母を冷たく突き放した。義姉の則子も慌てて正木の隣に並んだ。
「そうよ、私たちは騙されていたの。和子さんが全部仕組んだことなのよ」
数日前に私のアパートに押しかけた時、正木は健一からお金を受け取っていたことを私に指摘され、青ざめていた。彼らは自分たちの保身のために、全ての責任を母親に押し付けようとしているのだ。あまりにも見苦しい、身内同士の責任の押し付け合いだった。
私は彼らの醜い争いを静かに見つめていた。胸の奥にあった怒りや憎しみは、もうすっかり消え去っていた。残っていたのは、そこはかとない虚しさと、冷たい哀れみだけだった。こんな人たちのために、私は5年間も怯えて暮らしていたのか。そう思うと、不思議と心がすっと軽くなるのを感じた。
「もう、終わりにしましょう」
私の静かな一言が、親族たちの言い争いを止めた。
「この偽造された遺言書は、弁護士を通じて正式に無効を申し立てます。そして、義父の遺産は法律に従って正しく分割されることになります。もちろん、健一が会社から横領した5000万円の返済に、義父の遺産や私の実家の土地が使われることは、絶対にありません。健一の借金は、健一自身が、そして彼を甘やかしてきたあなた方が、どうにかしてください」
冷たく私の宣告を聞き終えると、正木は奥歯を強く噛みしめた。義母は俯いたまま、声を殺して泣き続けている。親族たちは誰も、彼らを助けようとはしなかった。むしろ自分たちに借金の火の粉が降りかからないようにと、そそくさと荷物をまとめ始めていた。これが、彼らが何よりも大切にしてきた「世間体」の末路だった。
私が深く息を吐き、住職に向かって深く頭を下げようとした、まさにその時だった。控え室の扉が勢いよく開けられ、息を切らした小林弁護士が立っていた。その後ろには、険しい顔をしたスーツ姿の男性が2人立っている。
「田中さん、申し訳ありません。遅くなりました。こちら、警察の捜査員の方です」
警察という言葉に、親族たちが一斉に悲鳴のような声を上げた。小林弁護士が静かに、しかしはっきりと告げた。
「健一氏の横領事件について、新たな事実が判明しました。彼が横領した5000万円のうち、約1000万円が、和子さんの名義の口座に振り込まれていました。しかも、それは5年前に田中さんを家から追い出した、まさにその直後のことです」
義母は勇気のような目で捜査員を見つめたまま、固まっていた。
「ち、違うわ。そんなお金、知らない。私は受け取っていない」
「記録ははっきりと残っています。健一さんが警察の取り調べに対し、『母親の口座にも金を流した』と供述しているんです。和子さん、書類まで同行願えますか?」
その言葉は、義母にとって決定的な宣告だった。彼女は、自分の最も愛した息子に裏切られたのだ。健一は警察の厳しい追及に耐えきれず、自分だけが罪を背負うことを恐れ、実の母親をも巻き添えにしたのであった。
「嘘よ。健一がそんなこと言うはずない。私を助けてくれるはずよ」
義母の虚しい叫び声が、寺の控え室に響いた。しかし、誰も彼女を助けようとはしなかった。私は静かに目を閉じ、5年間の記憶を巡らせた。あの冷たい雨の日、義母は「恥さらしな嫁」と私を罵り、慰謝料代わりに実家の土地を奪おうとした。健一は「お前みたいな女の荷物なんて全部ゴミだ」と吐き捨てた。彼らは自分たちが常に強者であり、弱者を踏みにじっても許されると信じて疑わなかった。しかし、嘘だけで繋がっていた絆は、いざ自分が窮地に陥ると、こんなにもあっけなく崩れ去る。これが、彼らが選んだ人生の結末だった。
捜査員に両脇を抱えられ、義母が立ち上がった。足元がおぼつかず、まるで糸が切れた操り人形のようだ。義母はすれ違い様、私に向かって震える手を伸ばしてきた。
「ゆみさん、お願い。あなたからも言ってちょうだい。私がそんなお金を知るはずがないって。私たち、家族じゃないの」
そのあまりにも身勝手な懇願に、私は一歩も動かなかった。
「私とあなたは、5年前のあの日、赤の他人になりました」
私の静かで冷たい言葉が、義母の最後の希望を完全に断ち切った。義母の手が力なく落ち、そのまま彼女は捜査員に連れられて控え室を出ていった。数日後、私はみほを連れて市役所へ向かった。戸籍係で、氏の変更届を提出するためだ。5年前に健一の横領の証拠である貸金庫の鍵を守るために、どうしても捨てることができなかった「田中」という苗字。その役目は、もう完全に終わった。
窓口で手続きを終え、新しい住民票を受け取った時、私の目からぽろりと一粒の涙がこぼれ落ちた。それは悲しみの涙ではなかった。5年分の重圧から完全に解放され、本来の自分を取り戻した喜びの涙だった。
「お母さん、佐藤みほちゃんになった?」
みほが首を傾げて私の手元の書類を覗き込もうとする。私は涙を拭い、しゃがみ込んでみほを抱きしめた。
「ええ、そうよ。今日から、本当の佐藤みほちゃんよ」
「やった。お母さんも、佐藤ゆみちゃんだね」
みほの明るい声が、市役所のロビーに響いた。



