「稼ぎ少ないんだから当然でしょ」――同居して3年、義母は温かい朝食を新太郎にだけ用意し、私の席には冷たいご飯と梅干しを置いて、そう鼻で笑った。朝まで店で働いて帰ってきた私に向かって。横で新太郎は黙ったまま、焼き魚に箸を伸ばしている。私の夫は、無職だった。だから、この家の生活費をずっと支えてきたのは私だ。なのに、私は“稼ぎの少ない水商売の女”として扱われてきた。そして、その瞬間、私はある決断を…

「稼ぎ少ないんだから当然でしょ」――同居して3年、義母は温かい朝食を新太郎にだけ用意し、私の席には冷たいご飯と梅干しを置いて、そう鼻で笑った。朝まで店で働いて帰ってきた私に向かって。横で新太郎は黙ったまま、焼き魚に箸を伸ばしている。私の夫は、無職だった。だから、この家の生活費をずっと支えてきたのは私だ。なのに、私は“稼ぎの少ない水商売の女”として扱われてきた。そして、その瞬間、私はある決断を...

「稼ぎ少ないんだから当然でしょ」

義母が鼻で笑いながらそう言った。新太郎は彼女を止めようともせず、聞こえないふりをして焼き魚に箸を伸ばしている。私には義母の言葉よりも、夫の沈黙の方がずっと深く刺さった。

この3年間、一体どれだけ我慢してきただろう。勘違いや物忘れを盾にした嫌がらせ。仕事への侮辱。一方的なマウント。苦い記憶が一気に脳裏を駆け巡った。

「では、生活費止めますね」

口をついて出た一言に、義母がようやく私を見た。しかし、彼女が目を丸くしたのもほんの一瞬。すぐに余裕ぶった表情に戻り、こちらを見上げて笑った。

「小銭みたいな稼ぎで偉そうに」

「みちこ、朝から怒るなよ」

続いて新太郎が言った。彼の目には面倒そうな色が滲んでいる。二人とも、私の言葉を本気にしていなかった。

でも、私は本気だった。

私は時藤みち子、28歳。飲食店を経営している。実家は両親と8歳下の弟・慎の4人家族で、両親は地元で焼肉屋を営んでいた。幼い頃から学校が終われば家の手伝いをするのが当たり前で、店の経営が生活に直結すると分かっていたから、友人と遊ぶ時間が減ってもあまり文句は言わなかった。

大学に進学すると、飲食系のアルバイトを掛け持ちした。居酒屋、カフェ、営業のバー。接客も仕込みも会計も、覚えられることは何でも覚えた。睡眠時間はわずかで体力的にはきつかったが、苦ではなかった。いつか自分の店を持つという夢に近づいている実感があったからだ。

卒業と同時に、アルバイトで貯めた資金を元手に小さなバーを開いた。初めての店舗経営は困難の連続で、客が一人も来ない夜もあった。それでもなんとか続けているうちに常連も増え、店は形になっていった。

新太郎と出会ったのは、店を始めて1年ほど経った頃。友人の結婚式の二次会だった。彼は目立つタイプではなかったが、穏やかでこちらの話をよく聞いてくれた。飲食店のオーナーとしての私を素直に応援してくれたことも嬉しかった。間もなく交際が始まり、25歳で結婚した。郊外の一軒家で、二人きりの新婚生活が始まった。

当時の私は、この結婚が自分の人生を壊すことになるとは想像もしていなかった。

義父が病気で亡くなったのは、結婚して半年ほど経った頃だ。入院してから悪化するまでが思いの外早く、私たちは葬儀の準備に追われた。葬儀を終えた翌日、まだ重い空気が漂うリビングでぼんやりテレビを眺めていると、玄関のチャイムが鳴った。

「あら?お母さん」

「急に来てごめんなさいね。少し話したいことがあって」

尋ねてきたのは義母のフミ子。黒っぽい服を着て、髪をきっちりまとめている。

「大丈夫です。昨日の今日ですし、色々決めることもありますよね」

「そうなのよ。こういうのは早い方がいいと思ってね」

ソファーに腰掛けた義母の前にお茶を置いた時、私は役所の手続きや義実家の片付けの相談だと思っていた。けれど、次の瞬間彼女が切り出したのは予想外の内容だった。

「私ね、これから一人であの家に住む自信がないの。ここであなたたちと同居させてもらえないかしら」

「え?」

思わず声を上げてしまう。隣に座る新太郎も、湯呑みに伸ばしかけた手を止めた。

「夜になると怖いのよ。あの人がいた場所ばかり目に入るし。広い家に一人なんて、どうしたらいいのか分からなくて」

返事に詰まった私は、戸惑いながら俯いた。義母が気の毒だとは思った。夫を亡くしたばかりで心細いのも分かる。けれど、結婚して半年の私たちの家に義母が住む。それは決して簡単な話ではなかった。

「確かに、母さん一人じゃ心配だよ」

先に口を開いたのは新太郎だった。普段の彼にしては珍しく、ほとんど迷いがない。

「あら、本当?」

「俺、前から考えてたんだ。母さんをうちで引き取りたいって」

その一言に、私は思わず新太郎を見た。「前から」という言い回しが引っかかったのだ。

「前からっていつ?結婚前はそんな話してなかったよね」

「あ、いや、父さんの具合が悪くなってからさ。母さんが一人になるかもしれないって思ったら、放っておけないだろ」

「それはそうかもしれないけど」

新太郎の口調に、小さな違和感を覚えた。新婚とはいえ私たちは夫婦だ。生活に関わる大事なことなら、先に相談して欲しかった。そう思ったが、目の前には夫を亡くしたばかりの義母がいる。文句を言える雰囲気ではなかった。

「もちろんみち子さんに負担はかけないわ。家事は私に任せて。あなた、お店で忙しいでしょ」

義母は私の迷いを感じ取ったのか、身を乗り出してきた。泣き腫らしたように赤い目をした相手の頼みを一蹴するのは、さすがに心が痛んだ。

「でも、生活のリズムも違いますし…」

「心配しないで。そこは私が合わせるわ」

「みち子にとっても悪い話じゃないと思うんだ」

新太郎が私を見た。まだ昨日の疲労が浮かぶ顔で、私の反応を伺っている。

「ほら、店に出てると帰りが遅くなることも多いだろ。家に母さんがいてくれたら、食事とか掃除とか助かるし。みち子が少し楽になるなら、俺も安心できる」

新太郎は私の弱いところを的確についてきた。実際、店を始めてから家のことは後回しになる日が多い。共働き夫婦のため家事は分担していたが、帰宅が遅くなり自分の担当を終える前に眠ってしまうこともあった。誰かが家事を手伝ってくれるなら、日々の生活が楽になるのは事実だろう。

「それでも、簡単に決めていいことじゃないと思います。お母さんも今は気持ちが落ち着いてないでしょうし…」

「今だからこそ、一人でいたくないの。時間を置いたら、きっと動けなくなる気がするのよ」

「俺からも頼む。息子として母さんを支えたいんだ」

新太郎が私の手を軽く握った。その手は意外にも冷たかった。彼も父を亡くしたばかりで不安なのだろう。そう思うと、これ以上反対できなかった。

「分かりました。ただ、きちんと決め事は作らせてください」

結局、私は条件付きで同居を了承した。家事の分担、生活費、部屋の割り振りなど最低限のルールを決めると、義母はにっこり笑った。

「ありがとう。これからよろしくね。あなたたちの邪魔にならないようにするから」

何度もそう繰り返す義母。彼女の言葉を信じよう。家族なのだから。そう自分に言い聞かせた。

けれど、その後の展開は不自然なほどに早かった。義実家の処分、必要な荷物の選別、不動産屋への相談。何もかも、こちらが考えるより先に話が進んでいった。

「新太郎、実家のこと、随分急いでない?」

「えっと、まあ、母さんが不安がってるからさ。なるべく早く落ち着かせてやりたいんだよ。それに、こういうのはさっさと済ませた方が楽でしょ」

引っ越し業者の手配、どの部屋を義母のものにするか。あまりにも段取りが良すぎて、何も知らなかったのは私一人だけ。二人の間では大筋が決まっていたように思えた。

「もしかして、私に相談する前からお母さんと同居の話してた?」

「え?いや、事前に決まってたわけじゃないよ。ただ、将来的にそうなるかもしれないとは思ってたかな」

「将来的にね」

「そうそう。母さんともいつか一緒に暮らしたいねって話してて。まさか父さんがあんなに早く亡くなるとは。俺も予想外だったからさ」

どこまでが本当のことなのか。何度もその疑問を口にしそうになり、結局私は言葉を飲み込んだ。義母や新太郎の疲れた顔を見てしまうと、どうしても言い出せない。今は家族を支える時期なのだと、自分を納得させた。

こうして、私と新太郎二人きりの暮らしは、あっけなく終わった。玄関には見慣れない靴が並び、廊下にはダンボールが積まれている。変わっていく我が家を眺めながら、胸の奥に一抹の不安を抱えていた。

同居が始まった当初は順調だった。義母は約束通り主な家事を担ってくれた。洗濯、掃除、料理。深夜に帰ってきて、鍋に味噌汁が用意してあるのを見た時には素直にありがたいと思ったし、彼女とうまくやっていけると安心した。

けれど、半年ほど経つと少しずつ様子が変わっていった。

ある日の昼前、私は店に行く前に洗濯物を取り込むために庭へ出た。物干しには新太郎のシャツと義母の服、タオルが並んでいる。ところが、私の仕事着と下着が見当たらない。嫌な予感がして洗濯機を開けると、それらは濡れたまま中に残っていた。

リビングへ行くと、義母はテレビを見ながらお茶を飲んでいた。感情を抑えて尋ねた。

「お母さん、私の洗濯物が洗濯機の中に残ってましたけど」

「あら、そうだった?ごめんなさいね。見落としたのかしら」

「見落としですか?他のものは全部きちんと干してありましたよ」

「年を取ると、こういうこともあるのよ。悪気はないの」

困ったように首を傾げて笑う。そう言われてしまうと、それ以上追求しにくい。仕方なく私は洗濯物を再度洗い、店へ出る前に干し直した。出勤前の時間が削られ、焦りと苛立ちが募っていった。

また別の日、閉店後の片付けを終えて深夜に帰宅した私は、早く風呂に入りたかった。汗と酒の匂いが服に染みついている。しかし、浴室の扉を開けると浴槽の中は空で、栓が抜かれている。

翌朝、台所で朝食の支度をしている義母を呼び止めた。彼女はこちらの顔も見ず、コンロの前で味噌汁をよそっている。

「お母さん、昨日の夜、お風呂のお湯を抜きましたか?」

「抜いたわよ。もう誰も入らないと思って」

「まだ私が帰ってないの、知ってましたよね。仕事終わりはきちんと湯舟に浸かりたいので、お湯は抜かないで欲しいんです」

「何度も言いますけど、お風呂掃除は私がするので。長年の習慣でつい片付けちゃうのよね。あなたの帰りって遅いし、不規則だから分からなくなるのよ」

悪びれない義母を前に、私は呼吸を整えた。帰宅時間が遅いことは同居を始めた時に伝えている。それなのに、私が帰宅すると風呂の水が抜かれている。一度や二度ではない。

「前にも伝えましたし、カレンダーにも書き込んであります」

「でも、毎日同じじゃないでしょ。私も全部は覚えていられないわ」

「とにかく、今度から気をつけてください」

「はいはい、分かったわよ」

さらに数日後、珍しく夕方に帰宅した私は、自分の部屋に入って足を止めた。机の横に見覚えのないゴミ袋が置かれていたからだ。中には塩済みのティッシュや古いレシート、台所から出た細かなゴミが混じっている。

「何これ?」

ゴミ袋の口を閉じ、リビングへ持っていった。義母はソファーに座り、昼の情報番組を眺めている。

「これ、私の部屋に置いたのはお母さんですよね」

「え?ああ、それね。後で分別しようと思って、つい置いちゃったのかしら」

「なんで私の部屋なんですか?」

「廊下に置いたつもりだったのよ。勘違いね」

苦しい言い訳に呆れて天を仰いだ。無意識に廊下と間違えるとは思えない。義母は意図的にゴミを私の部屋に置いたのだ。

「そんなに怒らなくてもいいでしょ。捨てればすぐ済む話じゃない」

一つ一つは、どれも小さなことに思える。洗濯物も風呂もゴミ袋も、単体なら物忘れや勘違いで済むだろう。けれど、それが何度も重なると話は別だ。

次第に、義母の態度は露骨になっていった。ある日の夕方、珍しく私と義母の二人で食事を取った後のこと。私が洗った皿を拭いていると、食卓でお茶を飲んでいた彼女がぽつりと言った。

「それにしても、夜に働くなんて嫌ね。店の営業が夜だから水商売。そんなの世間体が悪いと思わないの?」

思わず、皿を拭く手を止めた。簡単に聞き流せる内容ではない。幼い頃から両親の店を手伝い、大学で経営を学び、ようやく自分の店を持ったのだ。恥ずべきことなど何もない。

「思いません。私は自分の店を真面目にやってますから」

「真面目ね。お酒を出して男の人に愛想を振りまく仕事でしょ」

「お客様は男女問わず来ますし、ただの接客です」

「でも、普通の家の嫁がする仕事ではないわね。新太郎も気の毒だわ」

また別の日、当月分の店の収支を確認するため、支払いのメモと通帳をテーブルに広げていた。すると義母はその様子を見下ろし、薄く笑った。

「自分の店と言っても、小さなバーでしょ。そんなに大した収入になるの?もしかして、新太郎にオンブにダッコなんじゃない?」

「生活費は私もきちんと出しています。うちは共働き夫婦ですから」

「本人がそう思っているならいいけれど」

「どういう意味ですか?」

むっとしながらも、声を荒らげないように気をつけた。感情のまま怒れば、義母は私を面倒な嫁として扱うに違いない。それでも、積み重なった不満が腹の底でくすぶっていた。

「無理して一人前ぶらなくてもいいってことよ。ま、水商売なんてできるのは若いうちだからね。せいぜい頑張りなさい」

その夜、私は新太郎に義母のことを相談した。今すぐ同居を解消したいわけではないが、現状が苦しいことを分かって欲しかった。

「お母さん、私の洗濯物だけ残したり、お風呂を流したりするの。部屋にゴミを置かれたこともある」

「母さんも年だから、物忘れが増えたんじゃないかな。悪気はないんだから、許してあげて」

「でも、そういうことが起きるのは私の周りばっかりだよ。実際、新太郎は何もされてないでしょ」

「たまたまだろ。あんまり悪く取りすぎると、余計にしんどくなるよ」

困ったように肩をすくめる新太郎。事実を確認しようともしない彼に、正直内心落胆した。それでも、仕事の件に限っては引き下がりたくなかった。経験が浅いとはいえ、私にも経営者としてのプライドがある。

「でも、水商売なんて世間体が悪い。男に愛想振る舞ってるんでしょって言われたの」

「母さんの世代だと、夜の店に偏見があるんだよ。深く受け止めないでくれ」

「それだけじゃないよ。私が稼いでない。経済的に新太郎に依存してるって決めつけてる。新太郎からもお母さんに説明してよ」

「そこまで気にする必要ないんじゃないか。同じ家に暮らしているもの同士、わざわざ波風立てる必要ないだろう」

気まずそうに視線をそらす新太郎。その一言で、彼が義母に頭が上がらないことがはっきりした。

「もういい」

背を向けた私に、新太郎はオロオロするばかりだった。悔しいながらも、わずかな希望を捨てられない自分がいた。いつか、義母や新太郎が変わってくれる日が来るのではないかと。

しかし、現実は非情だった。同居開始から1年後、私の洗濯物が干されずに残されたり、帰宅前に風呂の湯を抜かれたりといった義母の嫌がらせはすっかり常態化していた。注意しても悪びれない義母と、頼りにならない新太郎。そんな二人に辟易していた私だが、結婚生活における敵は彼らだけではなかった。

ある休日の昼前、買い出しの確認をしていた時、玄関のチャイムが鳴った。扉を開けると、新太郎より4歳年上の義姉・ヒロ子が子供二人を連れて立っている。

「ヒロ子さん、お邪魔します。ああ、疲れた」

夫と子供たちと隣の市に住んでいるヒロ子だが、最近は何かにつけて家にやってくるようになった。あまり遠慮のない人で、正直苦手だった。

「今日来るって聞いてませんでしたよ。何かあったんですか?」

「ああ、急に決まったの。お母さんいる?」

「はい、リビングにいますけど」

大きな荷物を肩にかけたヒロ子は、私の案内を待たず、当然のように玄関へ上がってくる。子供たちも続いて家の中へ駆け込んでいった。慌てて追いかけながらリビングへ入ると、義母はヒロ子たちを見るなり表情を明るくした。

「あら、いらっしゃい。よく来たわね」

「お母さん、今からちょっと買い物行こうよ。セール、今日までなんだって」

「あら、そうなの?いいわね。私もちょうど出かけたいと思ってたところなのよ」

「みちこさん、子供たち見てて。お母さんと買い物してすぐ帰ってくるから」

あまりに自然に言われて、一瞬返事が遅れた。事前の相談はもちろん、私の予定を聞くつもりもないらしい。

「急に言われても困りますよ。私はこれから店の準備がありますし、夕方までには家を出ないと」

「いいじゃない。ほんの少しの間でしょ。子供なんてテレビを見せておけば大丈夫よ」

「そうそう。放っておいても平気だし。子供がいなくて余裕あるんだから、こういう時くらい手伝ってよ」

「無理です。今日は本当に時間がないので」

何度説明しても、私の言葉は二人の耳には届かない。ヒロ子は子供用の水筒とお菓子をテーブルに置き、義母は鏡の前で口紅を直している。結局、私は店に連絡し、仕込みの一部をスタッフに頼んだ。電話を切ると、上の子がリモコンを探して棚の中身を出していた。下の子は私の書類にクレヨンで線を引こうとしている。

「それはお仕事の書類だから、こっちに描こうね」

「ジュース飲みたい」

「ママが置いていった水筒があるよ。こぼさないように座って飲んでね」

仕事の段取りが頭をよぎるたびに、焦りで胃が重くなる。それでも、幼い子供たちに当たるわけにはいかない。時計を気にしながら、散らかった床を片付け、こぼれた飲み物を拭き、どうにか時間をやり過ごした。

ヒロ子と義母が帰ってきたのは夕方だった。手には洋服店の紙袋がいくつも下がっている。満足げな顔をしたヒロ子は、子供たちの様子を見るより先に買った服をソファーへ広げた。

「ああ、いい買い物した。子供がいると試着もゆっくりできないから、助かったわ」

「助かったじゃないですよ。こういうことは、今後一切やめてください」

「え、そんなに怒ること?」

「当たり前です。私は仕事の予定を変更したんですよ。こちらの都合も確認せずに一方的に預けられるのは困ります」

かなり強めに注意したつもりだが、ヒロ子は悪びれもせず笑った。義母に至っては注意するどころか、きた服の値札を見て満足そうにしている。

「子供がいない人は暇でいいよね」

「暇じゃありません。スタッフに頼んで、店に出る予定を変更したんです」

「もう、身内なんだから助け合いでしょ」

「助け合いなら、少しはこちらの都合も聞いてください」

そう言うと、ヒロ子は肩をすくめた。一方の義母は、突然話を別の方向へ向けた。私に攻められている状況が気に食わなかったのだろう。

「みち子さんも、早く孫を抱かせてくれればいいのに」

「今、その話は関係ないでしょう。子供のことは新太郎と話し合って決めていますから」

「決めてるって、産まないってこと?」

「今はまだ、ってことです。生活や仕事を考えて、二人でベストなタイミングを話し合いました」

その言葉を聞いた瞬間、義母の表情が険しくなった。続いてヒロ子も鼻で笑い、子供たちの荷物を乱暴にまとめ始める。

「何言ってるの?女は子供を産んで一人前よ」

「そういう考えを押し付けられるのは困ります」

「理屈ばっかり。子供を育てたこともないくせに」

「だからこそ、簡単には決められないんですよ」

その夜、私は新太郎に全て話した。突然の来訪で仕事に支障が出たこと。子供を産んでいないことで義母とヒロ子から受けた侮辱。夫婦の問題に土足で踏み入られたようで辛かったと、自分なりに言葉を尽くして伝えた。

しかし、新太郎の反応は芳しいものではなかった。

「でも、母さんが言うことも一理あるんじゃないかな」

「一理って何?迷惑をかけられた上に、理不尽な理由で責められたんだよ。子供はお互い30歳になってからって決めたじゃない」

「いや、その、確かにタイミングは話し合ったけどさ。孫を見たい気持ちも分かるだろ。姉さんだって子育てで大変だからさ」

「じゃあ、私の気持ちは誰が分かってくれるの?」

冷たく睨みながら問い返すと、新太郎は口を閉じた。都合が悪くなると沈黙するのは彼の癖だ。私はまた、自分の言葉が虚しく響くのを感じた。この人と一生添い遂げると決めたのだから、と自分に言い聞かせながらも、徐々に限界が近づいているのを悟り始めていた。

同居が始まって3年。その朝、私は夜通しの営業を終えて8時過ぎに自宅へ戻った。食卓には朝食が綺麗に並んでいたが、私の席だけ様子が違う。

「これ、私の朝ご飯ですか?」

茶碗には冷えたご飯が盛られ、その横には梅干しが一つ乗った小皿が置かれているだけ。一方で、義母と新太郎の前には温かいご飯と味噌汁、焼き魚、卵焼き、小鉢まで揃っていた。

「そうよ」

義母は味噌汁をすすりながら、こちらを見もしない。新太郎は焼き魚に箸を入れたまま、黙っている。

「私は夜働いて帰ってきたところです」

「だから何?」

「新太郎とお母さんには暖かい朝食がありますよね。どうしてこうも扱いが違うんですか?」

すると義母は、待っていたかのように口元を歪めた。

「稼ぎ少ないんだから当然」

そう言って鼻で笑った。新太郎は彼女を止めるどころか、聞こえないふりをしている。私には義母の発言よりも、彼の沈黙の方がよほど応えた。

この3年間、一体どれほど我慢してきただろう。勘違いや物忘れを盾にした嫌がらせの数々。仕事に対する侮辱。一方的なマウント。苦い記憶が一気に脳裏を駆け巡った。

「では、生活費止めますね」

口をついて出た一言に、義母がようやく私を見た。しかし、彼女が目を丸くしたのもほんの一瞬。すぐに余裕ぶった表情に戻り、こちらを見上げて笑った。

「小銭みたいな稼ぎで偉そうに」

「みちこ、朝から起こるなよ」

続いて新太郎がそう言った。彼の目には、いかにも面倒そうな色が滲んでいる。二人とも、私の言葉を本気にしていなかったのだろう。けれど、私は真剣だった。

「もういい。あなたたちのことは、よくわかった」

そう言って私は自分の部屋へ戻り、クローゼットから大きめの鞄を出した。夜勤明けで体は重かったが、頭は妙に冷えている。

「おい、みちこ、どこへ行くんだよ」

「飯はいらない。私は家を出ていく」

「ちょっと待てよ。出ていくほどのことじゃないだろう。朝飯が少ないくらいで、大げさだって」

「出ていくほどのことよ。私にとってはね」

通帳、印鑑、店の鍵、そして仕事用の書類。必要最低限の持ち物を次々と鞄に入れていく。迷いはなかった。きっと私は、今まで無意識に何度もこの家を出ることを考えていたのだと思う。そして、ちょうど今朝、実行する理由が揃ったというわけだ。

「新太郎、追っておきなさい。どうせすぐ戻ってくるわよ。みちこさんも、勢いで言ってるだけなんだから」

「母さん、今は刺激するようなこと…」

「何言ってるの?あんたがそうやって下手に出るから、嫁が付け上がるんじゃない?大体ね、稼ぎの少ない水商売の女が家を出て、どこで暮らすっての?」

「行く当てはありますので、ご心配なく」

リビングへ戻ると、義母はまだ椅子に座ったままだった。荷物を抱えた私を前にしても、強がるように口元を歪めている。新太郎だけがオロオロと立ち上がっていたが、私を止める言葉はどれも薄っぺらい。

「この家を出るなんて、本気じゃないよな」

「本気よ。冗談でこんなことしない」

「いつ戻る?」

「戻る予定はないわ。さようなら」

ピシャリと言い放つと、新太郎の顔色が変わった。義母も一瞬驚いたように黙ったが、すぐに鼻を鳴らして湯呑みを持ち上げた。まだ私が感情的になっているだけだと信じているのだろう。

「はいはい、もう好きにしなさい。しばらく外で頭を冷やせばいいわ」

「ええ、そうします」

「反省して帰ってくる時には、もう少し嫁らしくすることね。でないと、今度こそ家を追い出されるわよ」

「だから、ここへはもう戻りませんよ。あなたたちがいる限り」

そう吐き捨てて、私は玄関へ向かった。靴を履いていると、新太郎が後ろから近づいてきたが、強く引き止めることはない。いつもと同じだ。彼には私を守る気概も、義母に向き合う覚悟もない。あるのは、今この場をやり過ごしたいという思いだけ。

「おい、どこに行くんだよ」

「実家。後で迎えに来ないで」

鞄を持ち上げて、私は扉を開けた。朝の冷たい空気が当たり、清々しい気分になった。車に乗り込み、エンジンをかける。バックミラーに映る家を、私は振り返らなかった。

「ただいま」

宣言通り、行き先は実家だ。玄関には木の香りが残り、奥からは懐かしい仕込みの匂いがした。

「お帰り、みちこ。顔色が悪いわよ」

「急にごめんね。悪いけど、しばらく家に置いてほしい」

「ここはお前の家だ。好きなだけいたらいい」

「姉ちゃん、荷物持つよ」

両親は連絡もなしに帰ってきた私を温かく迎えてくれた。大学生の慎も何も聞かずに鞄を受け取ってくれた。普段と変わらない家族の自然な態度が、何よりありがたい。

「まずは寝なさい。夜通し働いてきたんでしょ」

「詳しい話は落ち着いてからでいい」

「何か連絡が必要なら、俺も手伝うよ」

「みんなありがとう。でも、先にやることがあるから」

温かいお茶を受け取った時、スマホが震えた。画面に表示されているのは新太郎の名前だ。電話には出ずにいると、今度はメッセージが届いた。そこに並ぶ文面が目に飛び込んできた瞬間、私は小さく息を吐いた。

「なあ、生活費を止めるなんて冗談だよな。いつ帰ってくる?」

「新太郎さんから?うん。私じゃなくて、お金の心配ばっかり」

画面を向けると、慎は眉を寄せた。父と母も無言で顔を見合わせる。私はスマホを伏せ、再び深く息を吐いた。悲しさよりも先に、呆れが立った。事なかれ主義の新太郎に何を期待しても無駄だ。そう、はっきりと目が覚めるような感覚があった。

「決めた。私、あの人と別れる。家計への入金も止めるわ」

「なんか、全部が馬鹿らしくなってきた」

「自分で決めたなら、そうしなさい」

「必要な書類は後で一緒に確認しましょう。やり取りの記録は残した方がいいよ」

その日の午後、私は家計用の自動入金を停止した。スマホの家計簿やカードの明細も確認し、私が負担していた支払いを一つずつ見直した。一通りの手続きを終えた頃、また新太郎からメッセージが届いた。

「母さんが怒ってる。早く帰ってきてくれ。素直に謝れば許してくれると思う」

まるで検討違いな文章に、思わず笑いが込み上げてくる。新太郎は事態の重さを全く理解していないようだ。

「生活費の入金は今日で止めました。今後の話し合いは書面でお願いします」

他人行儀な返信を送ると、スマホをテーブルに置いた。実家の台所では母が夕飯の支度をする音が静かに響いている。久しぶりに、心から安心できる自分の居場所にいる気がした。

1ヶ月後、私は実家の焼肉屋で開店準備をしていた。夕方の営業前で、厨房からは仕込みの匂いが漂っている。入口の戸が勢いよく開いたのは、開店まであと少しという時間だった。

「みちこさん、いるんでしょ?」

その叫び声を聞いた瞬間、テーブルを拭いていた手元が止まった。驚いて顔を上げると、入口に義母と新太郎が立っていた。青い顔で俯く新太郎と、怒りを隠しもせず店内を見渡している義母。

「今は開店準備中です。要件があるなら、後で聞きます」

「後でで済む話じゃないわよ。あなた、何をしたの?梅干しくらいで臍を曲げるのもいい加減にしなさい」

「何の話ですか?」

「みちこ、俺たち今、ちょっと困ったことになってて」

そう言って新太郎は財布から数枚の通知書を取り出した。カードの支払い、光熱費、動画や音楽のサブスクリプション。どれもこれまで家計用の口座や私のカードから落ちていたものだ。1ヶ月前、私が入金を止めた影響が出ているらしい。

「困ったことって?」

知らぬふりをして、新太郎に続きを促した。

「カードとかサブスクとか、全部引き落としができなくなってるんだ。このままだと解約されちゃうかもしれなくて」

「だから何?どうして不思議がるの。私、1ヶ月前に伝えたでしょ。生活費を止めますって」

「伝えたからって、勝手に止めていいわけないでしょ」

「勝手にって何ですか?元々私名義の口座から出していたお金です。払うも払わないも、私の自由ですよ」

義母は通知書を奪うように手に取り、私の前へ突きつけた。だが、本当に起こっているのは支払いのことだけではないようだ。その目には別の疑いが混じっている。

「それより、新太郎の通帳はどこにあったのよ。通帳、ないのよ。家を出る時に持っていったんでしょ。さっさと返しなさい」

「持っていません」

思わず眉をひそめて新太郎を見ると、彼ははっきりと視線をそらした。その態度で、義母がなぜそんな話を信じているのか分かった気がした。

「新太郎、あなた、お母さんに何て言ったの?」

「いや、お母さんが引き落としされてないって騒いでたから…」

「それで、私が通帳を持っていたことにしたの?そう言えば落ち着くと思って?」

義母はその言葉を聞いても聞かず、むしろ新太郎の曖昧な説明を都合よく受け取ったようだ。店の外では開店を待つ客たちがこちらを見ている。声を荒らげれば、すぐに聞こえてしまう距離だ。

「ほら、やっぱりそうじゃない。返しなさい」

「新太郎は、私が持っていないと分かっているはずです」

「言い訳しないで。今すぐ返さないなら、警察に訴えるわよ」

「事実でないことを大声で叫ぶのはやめてください」

義母の声はさらに大きくなった。入口のガラス越しに、外の客が顔を見合わせている。父が厨房から出ようとしたが、私は視線で止めた。ここで家族まで前に出てくれば、さらに火に油を注ぐことになるだろう。

「皆さん、聞いてください。この嫁はひどいんです」

「お母さん、店の前で騒がないでください」

「同居していた私に家事を押し付けて、少しでも失敗したらダメ出しばかり。食事だって、自分たちだけいいものを食べて、私には残り物を出したのよ」

まくし立てる義母に、私は一瞬呼吸を忘れた。洗濯物を残し、風呂の湯を抜き、食事で差をつける。それは、他でもない彼女が私に対してきたことだ。しかし、何も知らない客たちのざわめきは店の入口の向こうで少しずつ広がっていく。

「何かあったのかしら?」

「開店前に大変そうだな」

騒ぎに気づいたのだろう。裏で掃除していた慎が店内に戻り、入口の内側に立った。険しい表情で、何も言わずに私の横へ来る。

「姉ちゃん、大丈夫?」

「大丈夫。平気?」

軽く頷いて答える。ここで怒鳴れば、義母の思う壺だ。

「ちょっと態度を注意しただけで家を出て行ったのよ。息子の通帳を奪った上に、生活費まで止めて、年寄りを困らせて楽しいの?これだから水商売の女は。お里が知れるわね」

「職業は関係ないでしょ。それに、実家の店を巻き込まないでください」

「バレるのが怖いなら、最初からまともな嫁でよかったのよ」

「母さん、これ以上は人が見てるから」

新太郎が弱々しく静止しても、義母は止まらない。むしろ、他人の目があることに気づいてから一層声を張っている。私と客に聞かせ、私と実家の店の評判を落とすつもりだと分かった。やむなく、私はエプロンのポケットからスマホを取り出し、録音中の画面を向けた。

「今の話、全部記録していますよ。お母さんたちが店内に押しかけてきた時からずっと録音してます。通帳の件も、私を泥棒扱いしたことも、店の前で話した内容もです」

「みち子、そんなことしなくてもいいじゃないか」

震えながら弱々しく反論する新太郎。一方、義母は一瞬たじろいだが、すぐに表情を変えた。今度はわざと泣きそうな顔を作ってみせる。

「ああ、嫌だ。家族の財産を盗までして、年寄りを追い詰めるつもりなのね」

「人聞きの悪いこと言わないでください。私は自分を守るための証拠を残しているだけです」

「あら、皆さん見たでしょ?この嫁はいつもこうやって私を悪者にするのよ」

「これ以上は営業の妨げになります。まだ騒ぐなら通報しますけど、いいですか?」

もう間もなく開店時間だ。だが店内では義母が泣き真似をし、新太郎がオロオロと立ち尽くしている。注文を聞くことも、待っている客の案内もできない。

「あなたの家族も、この店も同じね。都合が悪くなると、そうやって逃げて」

「みちこ、とにかく通帳のことだけでも、なんとかしてくれよ」

「私、持っていません。嘘をついたのは、あなたでしょ」

「まだ言うの?皆さん、この嫁は平気で人を落とし入れるんです」

その声は開店待ちの列へまっすぐ届いた。客たちの表情には、心配と戸惑いが混じっている。録音中のスマホを握ったまま、私は自分がどう動くべきかを考えていた。

「この嫁は、年寄りから生活費を取り上げたのよ」

「取り上げたのではありません。私が払っていた分を止めただけです」

「だから、それがひどいって言ってるのよ。この恥知らず」

義母が叫んだその時、何かが自分の中で切れる音が、はっきりと聞こえた。ここまで馬鹿にされて、黙っている必要はないだろう。

「恥知らずは、どちらですか?」

低い声で呟くと、義母が眉を釣り上げた。彼女の横に立つ新太郎は一瞬私を見て、すぐに視線を落とした。先ほどより、明らかに顔色が悪くなっている。

「この3年、あなたたちを養っていたのは私ですよ」

「はあ?何を言っているの?」

「無職の新太郎の代わりに、私が生活費を出していました。あなたたち親子は、たった今お母さんが馬鹿にした私の稼ぎでご飯を食べてたんです。感謝はされても、責められる理由はありません」

「ちょ、みちこ、その話は…」

慌てて私を止めようとする新太郎。慌てふためく彼を振り返り、義母は鋭く目を細めた。

「無職?そんなはずがないでしょ。新太郎は会社員よ」

「今でもそうだと思っていたんですか?あなたが私を養ってた?笑わせないでよ。水商売の稼ぎなんて高が知れてるわ。家を支えられるわけないじゃない」

「そう思い込んでたから、息子が無職でも何も気づかなかったんですね。同じ家で暮らしていたのに。3年も騙されてたなんて、お気の毒様です」

しん、と店内が静まった。表の客たちも、事情が分からないままこちらの会話を聞いているようだ。

「新太郎、違うわよね。今の話は出鱈目でしょ」

「母さん…ここでは…」

「はっきり答えなさい。あなたは会社員で、毎日仕事をしているはずよ。本当のことを言って」

「…実は、会社は3年前にやめた」

絞り出すような新太郎の言葉が落ちた瞬間、義母の顔がみるみるうちに青ざめた。新太郎は肩を落とし、その場に立ち尽くしている。まるで悪事がバレて叱られるのを待つ子供のようだ。

「やめたって…しかも3年も前に?新太郎、あなた、自分が何を言ってるのか分かってるの?どうしてそんなことに?」

「移動先の部署で、人間関係が合わなくて…」

「なんで、すぐ私に言わなかったのよ。隠し事をするなんて、信じられない」

「ちょっと待って。じゃあ、今までうちの生活費を払ってたのは…」

「さっき言ったでしょ。ずっと私が負担してました。新太郎に頼まれて、お母さんには黙ってましたけど。泥棒扱いされてまで約束を守る理由はありませんから」

淡々と説明する私の前で、義母は口を開けたまま固まった。信じられないというような表情で、新太郎と私を交互に見ている。自分が見下していた嫁の稼ぎで、自分が暮らしてた。その事実をようやく理解したらしい。

「新太郎、あなた、私に嘘をついていたの?」

「だって、母さんに言ったら怒ると思って…」

「当たり前でしょ!いい年して仕事がないなんて!大体、どうして3年経っても働いてないのよ。就職活動はどうしたの?」

「それが、なかなかうまくいかなくて…」

ものすごい剣幕で新太郎に詰め寄る義母。裏切られた怒りから肩が激しく震えている。その姿を見ても、同情の余地はない。

「そ、それじゃあ、通帳がないのはどう説明するのよ。みちこさんが持っていったっていうのは…」

「新太郎の通帳は、普通に家にあると思いますよ。諸々の支払いに紐づいていたのは私の口座ですし、わざわざ新太郎の通帳を持っていく意味はありませんから。人を疑う前に、まずは新太郎の部屋を探してみてください。すぐに見つかると思いますよ。まあ、中身が入ってるかは知りませんけど」

唇をきつく結び、泣き出しそうに俯いている新太郎を見て、義母はさらに顔を強張らせる。どちらの主張が正しいかは、誰の目にも明らかだった。

「そういうことなので、お引き取りください。すでに開店時間を過ぎています。これ以上、営業を妨害しないでください」

「待って。まだ話は終わってない」

「いいえ、終わりです。続きは書面でお願いします。突然仕掛けられるのは迷惑ですから、今後はやめてください」

「みちこの言う通りだ。店の中で騒ぐなら、帰ってくれ」

厨房から父の低い声が響いた。慌てた新太郎が義母の腕を軽く引き、店の入口へと促す。張り詰めた空気の中、私は二人が連れていかれるのをじっと見届けた。

1週間後、その日、私は自分のバーで開店準備をしていた。カウンターを拭き、氷の状態を確認し、グラスを棚に並べる。店内にはまだ客はいない。そろそろ看板を出そうかと思っていたその時だった。

「みちこ、出てきなさい」

扉が乱暴に開き、義母と新太郎が入ってきた。義母は封筒を握りしめ、顔を真っ赤にしている。新太郎はその後ろで、相変わらず困った顔をしていた。

「要件は何ですか?こういう突然の訪問は遠慮して欲しいと、前回お願いしたはずですが」

「うるさい。嫁の分際で調子に乗るの」

「とりあえず、落ち着いてください」

「落ち着けるわけないでしょう。この無礼者が」

唾を飛ばしながらまくしたて、義母は封筒をカウンターに叩きつけた。散らばった書類は、先日私が代理人を通じて送ったものだ。中身は離婚の話し合い、慰謝料、そして私が負担してきた生活費の返還に関する内容。細かな手続きは専門家に任せている。

「慰謝料?生活費の返還?よくもそんなことが言えたわね」

「根拠はあります」

「何の根拠よ?家族のために使ったお金でしょ」

「同居中の嫌がらせ、職業への侮辱。店での泥棒扱い、営業妨害。新太郎が無職を隠して生活費を私に負担させていたことも含めています」

見る見るうちに、義母の目が釣り上がった。私はカウンターの内側に置いていた鞄の中のファイルへ手を伸ばす。録音、メッセージ、入出金の記録。全て事実として残されていた。

「そんなもの、あなたの被害妄想でしょ。私は払わないわよ」

「お母さんならそう言うと思ったので、こうして記録を残しました」

「みちこ、ここまでしなくてもいいだろう。話し合おう」

「当事者同士で話し合う段階は、とっくに過ぎてる。私が何度相談しても、まともに取り合わなかったのは誰?ここまでこじれる前に、あなたが止めればよかったじゃない。見て見ぬふりをせずにね」

冷たく突き放すと、新太郎は言葉に詰まった。私が言ったことが正論だと分かるからだろう。隣に立つ義母が封筒を握りつぶし、紙がくしゃりと音を立てた。

「なあ、みちこ。本当に離婚する気なのか?」

「ええ、そのために書類を送ったの」

「俺、反省してるよ。母さんにもちゃんと言って聞かせるから」

「私が苦しんでるのを3年も見て見ぬふりしてた人の言葉を、今更信じる理由はないよ」

倒れそうになるのを防ぐように、新太郎はカウンターの端に手を置いた。顔色は悪く、声にも力がない。この後に及んでも、私を心配しているというより、生活の基盤を失いたくないだけのようだ。

「頼むよ。もう一度やり直そう。俺、仕事も探すから」

「今更遅いよ。何を言われても、信用できない」

「母さんと別に暮らすことも考える。だから、お願いだ」

「別に暮らすことも考える?どうせ決断できないくせに、適当なこと言わないでくれる。本当に私に戻ってきて欲しいのなら、口先じゃなくて誠意は行動で示すべきじゃないの?」

まくし立てると、新太郎はすぐに黙った。その沈黙が、彼が自分を変える気がないことを証明してしまっている。

「それと、あの家からは近いうちに出ていってくださいね。今、売却の手続きを進めていますから」

豆鉄砲を食らったような義母の顔を見て、私は内心「やはりそうか」と思った。私たちが同居生活を送ったあの自宅についても、新太郎は重要なことを彼女に黙っていたらしい。

「お母さんは知らなかったみたいですけど、あの家は私の名義です。今後の日程については、また書類で送ります。引っ越し先が決まったら、教えてください」

「いや、そんな急に出ていけと言われても、困るよ」

「拒否する権利はないよ。離婚したら私たちは他人。自分の家に住まわせてあげる義務はない」

「ふざけないで!息子から家まで奪う気なの?」

次の瞬間、義母がそばの椅子を蹴り飛ばした。重い音が店内に響く。

「お母さん、暴れないでください。店の備品に傷をつけたら、その分も請求しますよ」

「母さん、やめろって」

「あんたは黙ってなさい」

肩を上下させて荒い息をしている義母。新太郎は止めるふりをするばかりで、前には出ない。ため息を飲み込みながら、私は倒れた椅子を確認した。これ以上暴れられたら、営業どころではなくなる。

「姉ちゃん、下がって」

その時、扉が開き、慎が店に入ってきた。大学終わりに、私の様子を見に来てくれたらしい。慎はそっと倒れた椅子を起こし、義母たちの前に立った。

「慎、来てくれたの?」

「うん。ちょうど調べ物が終わったからね。それにしても、営業時間なのに看板が出てないから心配したよ」

「ごめんね。ちょっとしたトラブルが起きて」

「ほんと、なるほどね」

カウンターの上には封筒の中身が散らばっている。慎はそれを一目見て、状況を察したようだ。離婚、慰謝料、生活費の返還。書類の見出しだけで、何を話していたのかは大体分かる。

「姉ちゃん、これ、先週送ったやつ?」

「そう。無事に届いたのはいいけど、また怒鳴り込まれちゃった。誰がこんなの払うかってね」

「今、私が話してるの。学生は引っ込んでなさい」

「何を笑ってるのよ」

「いや、失礼。あなたの状況を考えれば、そんな風に切羽詰まるのも無理はないなと思いまして」

椅子に腰掛ける慎。口調こそ丁寧で落ち着いているが、その目の奥は笑っていない。不穏な雰囲気を感じ取ったのか、義母が警戒して一歩後がった。そして眉をひそめ、慎を睨みながら低く尋ねる。

「どういう意味?あなたに私の状況が分かるとでも言うの?」

「ええ、ある程度は分かってますよ。ただでさえカツカツなのに、これ以上借金が増えるのは困りますもんね」

「は?借金?何の話だ」

「なあ、何を言ってるの?そんなものあるわけないでしょ。いい加減なことを言って人を惑わすのはやめなさいよ」

反論する新太郎に対して、義母は明らかに顔色を変えた。先ほどまで怒りで赤く染まっていた顔が、一気に白くなっていく。明らかに動揺している彼女を横目に、私は慎に話しかけた。

「慎、あの件、調べてくれたのよね」

「ああ、ばっちり調べてきたよ。新太郎さん、フミ子さん、ヒロ子さんのこと。三人とも、あまり褒められた人間じゃないみたいだね」

「ちょっと待ってくれ。本当に何の話だ?調べたって、何を?」

「いわゆる興信調査。金の流れも含めて」

焼肉屋で騒ぎがあった後、慎は私に断った上で、義家族のことを調べていた。彼らを貶めるためではない。私の権利を守るために、事実を揃える必要があったのだ。

「人のことを勝手に調べるなんて、卑怯よ」

「卑怯?店で姉ちゃんを泥棒扱いした人が、それを言いますか?そもそも、あなたたちが非常識な行動したせいで、俺があれこれ調べることになったんです。元を辿れば、原因は自分でしょ」

「本当に生意気な子供ね。私は被害者なのよ」

「何の被害者ですか?ギャンブル三昧で借金をしたのも、慰謝料を請求されるようなことをしたのも、全部自分ですよね」

わなわなと、義母の唇が震える。新太郎は彼女の横顔を見つめ、ようやく異変に気づいたようだ。

「母さん、今の話、本当なのか?本当に借金なんて…」

「違うの、新太郎。それは昔の話で、あなたたちを育てるために仕方なく…」

「いやいや、パチンコも競馬もボートも、今も続いてますよね。つい昨日も競馬場で見かけましたよ。昼間からビール片手に競馬とは。いい趣味ですね」

「やめなさい!」

義母の金切り声が響く。しかし、慎の暴露は止まらない。

「長年の借金があるんでしょ?複数の会社から少しずつ借りて、家族には隠してた。旦那さんが亡くなった後、家を売ったお金を使って多少は返済したみたいですけど、焼け石に水だったんじゃないですか?ギャンブル沼からはなかなか抜け出せないって言いますし」

「うるさい!」

追い詰められた義母は頭を掻きむしった。尋常でない彼女の様子に、新太郎の顔からも色味が引いていく。

「母さん、俺、そんな話何も聞いてないぞ。どうして借金なんて。しかもギャンブルで…」

「あなたに心配をかけたくなかったのよ」

「心配じゃなくて、都合の悪いことを隠してたんですよね」

「お母さんがそこまでお金にだらしなかったと。同居話を持ちかけたのも、借金で生活に余裕がなかったせいなんですね」

ぽつりと呟いた私の声は、自分でも驚くほど冷たかった。義母は私を睨んだが、いつもの勢いはない。長年隠してきた秘密が白日の元にさらされている。その事実が、義母の立場を崩していた。

「母さん、父さんの遺産も使い切ったのか。実家を売って、俺たちの家で同居してたのも、全部、金のため…?」

「そうじゃない!一緒に暮らしたいと思ったのは、あの人が亡くなって寂しかったからよ。愛する息子のそばにいたかったの」

「父さんの遺産。俺の分も母さんが管理するって言ってたよな。まさか、それもギャンブルに注ぎ込んだのか」

「それを…ほんの少し借りただけ…。いずれ返そうと…」

言い訳が尻すぼみになっていく義母。新太郎は力なくカウンターに持たれかかって、頭を抱えた。うんともすんとも言わなくなった二人をしばらく眺めてから、私はゆっくりと口を開いた。

「そろそろ店を開けたいので、お引き取りください。出ていかないのなら、通報しますよ」

「ああ、帰るよ。急に押しかけて、悪かったな」

意外にも、新太郎は素直に応じた。義母の手を取って、フラフラと出口へ歩き始める。二人が去り、ようやく静かになった店内で、私は深く息を吐いた。が、慎は何か言いたげな顔をしている。義母の借金以外にも、秘密があるのだろうか。私は看板を出そうとした手を止め、カウンターの端に腰を下ろした。

「慎、話があるんだね」

「ある。ただ、ちょっと内容的に言いづらくて」

「もしかして、ヒロ子さんのこと?」

「うん。あまり大きな声では言えないけど、姉ちゃんには報告しておく」

そう言って、慎は声を落とした。先ほど義母を追い詰めていた時とは、まるで別人のようだ。

「ヒロ子さんって、頻繁に子供を預けてるだろう」

「うん。私も何度も押し付けられたよ。買い物とか美容院とかネイルとかを理由にね」

「そうなんだ。でも、ヒロ子さんの用事は買い物や美容院じゃなかったんだ。こっそり会ってた相手がいる」

「え、それ、浮気してたってこと?」

尋ねると、慎は短く頷いた。正直驚きはしたものの、すぐに腑に落ちた。毎回急にやってきては子供を置いて出かけるヒロ子。そのために、何度仕事の予定を調整させられたか分からない。

「実際に義母さんと出かけてる日もあったけど、ほとんどは浮気相手と会ってたみたい。俺が子供たちを預かってる間にも、その可能性は高い。姉ちゃんや義母さん、ママ友とか、手当たり次第に子供を預けまくってたって」

「そう…」

ふと、子供たちの顔が浮かんだ。退屈そうにテレビを見ていた姿。ジュースをこぼして泣き出した顔。あの子たちには何の責任もない。だからこそ、ヒロ子の不貞が余計に罪深く感じられた。

「最近は姉ちゃんがいないし、義母さんたちもバタバタしてるから、ママ友に預ける回数が増えてるらしい」

「周りも困ってるんだろうね」

「うん。かなり迷惑がられてるみたい。中には、はっきり付き合いを断る人も出てるって聞いた」

「自分の都合で他人を利用するからだよ」

ヒロ子の調査結果を受けて、私はため息をついた。金回りのことを調べてもらうはずが、思いもよらない秘密を掘り出してしまったものだ。

「新太郎は無職なのを隠してた。お母さんは長年の借金を。ヒロ子さんも裏で家族を裏切ってた。三人揃って、秘密だらけだったんだね」

「うん、そうだね」

慎は静かに頷いた。呆れ果てて、笑う気にもなれない。彼らはそれぞれ自分の問題を棚に上げて、ずっと私を貶めてきたのだ。

「子供たちのこと、姉ちゃんが気にする必要はないよ」

「分かってる。でも、腹が立って仕方ない。浮気相手との遊びに、都合よく利用されてたなんて」

「そうだね。俺も怒ったよ。でも、あの人たちと同じ土俵には乗らなくていい」

「うん。この件を暴露するつもりはない。泥棒扱いされたのは許さないけど、諸々の請求はお母さんと新太郎だけにする」

そう口に出してみると、わずかに気持ちが整った。義母たちのように、相手を貶めるために騒ぐつもりはない。客観的な記録と事実に基づいて、淡々と決着をつける。それが私の選んだやり方だ。

「姉ちゃんは悪くない。最後まで堂々と立ってればいい。俺もついてるから」

「ありがとう。最後までやるよ」

慎に向かって微笑みかけ、私は散らばった書類を封筒へ戻し、カウンターの奥にしまった。外では、そろそろ街の灯りが増え始めている。私は深く息を吸い、開店の準備に戻った。そして、自分の人生を取り戻すために、義母たちとの戦いを終わらせると心に決めた。

さらに1週間後、私は法律事務所の小さな会議室にいた。机の上には書類の束と、録音内容をまとめた資料が置かれている。義母と新太郎は向かい側の席に並んで座っていた。二人とも、以前より明らかに疲れている。義母の髪は乱れ、新太郎は何度も膝の上で手を組み直していた。

「今日は、話し合いを終わらせるために来ました」

「みちこ、俺はまだ終わらせたくない。なあ、このまま別れるなんて、絶対に嫌だ」

「あなたの気持ちは関係ない。今更何を言われても、私の意思は変わりませんから」

「随分偉そうね。何様のつもりよ」

嫌味を言う義母の声には、以前のような勢いが感じられない。怒鳴るほどの力が、もう残っていないようだ。不満を漏らす彼らを無視し、私は机の上の書類を一枚めくり、改めて請求内容を確認した。

「まずは離婚に応じてもらいます。その際には、慰謝料の支払い、私が立て替えてきた生活費の一部返還。今住んでいる家を期限内に退去することに同意してください」

「そんなに全部、急に言われても…」

「急じゃない。何度も書類で送ったよね。請求を変えるつもりはないよ」

「でも、俺たちは夫婦だろ。こんな、金を絞り取るような真似は…」

抗議する新太郎の声は、いつにも増して弱々しい。泣き出しそうな彼を前にしても、私の心は動かなかった。ここで同情しては、今まで準備してきた全てが無駄になってしまう。非常識な義母と新太郎の無関心に苦しめられた日々を思い出し、私はピンと背筋を伸ばした。

「夫婦だって言うなら、どうしていつも私一人が負担を背負ってたの?お母さんの嫌がらせから、助けてくれなかったのはなぜ?あなたは私の夫として、何か一つでも責任を果たしたことはある?」

「それは…その…悪かったよ。これからは心を入れ替えて働く」

「今度こそ、本当に今度こそ。って、そのセリフ、何回目?信じられるわけないでしょ」

「今回は本当だ。頑張って稼いで、みちこに楽をさせてやる」

「一人で働くより、ずっといいだろ?」

私は静かに新太郎を見つめた。彼は本気で、それが切り札になると思っているらしい。けれど、私はもう新太郎に頼る気などなかった。そもそも、この3年間、経済的に彼らを支えていたのは私の方だ。

「私は一人でも十分やっていける。あなたに楽をさせてもらう必要はない」

「また強がりを言って」

「強がりじゃない。私の店は順調だから」

「店って、あの小さいバーでしょ?いくら生活費を賄えても、将来を考えれば夫がいた方がいいに決まってるわ。所詮、水商売に将来性のある業界なんだし」

離婚を思いとどまらせようとする二人に、私は鞄から資料を出し、机の上に置いた。

「実は、経営しているのはバーだけではないんです。レストランもカフェも、少しずつ軌道に乗ってきた。今では人を雇い、複数の店舗がきちんと利益を出しています。私は複数の飲食店のオーナーです。このリストを見てもらえば、分かると思います」

「レストラン、カフェ…。これも、あなたの店だっていうの?」

「そうです。あなたが水商売と馬鹿にしていた仕事も、突き詰めれば大きな利益を上げられるんですよ」

「だって、ただの小さなバーだと…」

みるみるうちに、義母の顔が歪んだ。散々自分が見下していた私が、実際には経営者として成功を収めていた。その事実を、ようやく飲み込んだようだ。むやみやたらに自分の力をひけらかすのは嫌いだが、彼女に現実を分からせるには仕方のないことだろう。勝手な偏見で私を踏みつけてきたことを、許すわけにはいかない。

「あなたが、思い込みすぎてただけですよ」

「じゃあ、金には困ってないんだろ。だったら、こんな請求しなくても…」

「お金に困っていないからと言って、自分の権利を放棄する必要はない。あなたたちには、きちんと責任を取ってもらいます」

「家族なのに!あなたって、人の心がないのね」

まるで被害者の顔をして、義母は唇を噛んだ。新太郎は助けを求めるように義母を見たが、彼女にももう言い返す材料はないらしい。会議室には、書類をめくる音だけが響いた。

「私を家族として扱わなかったのは、そちらですよ。さあ、こちらの条件は再三説明しましたよ。どうしますか?」

「みちこ、もう戻ってこないのか?」

「請求通り金を払うと言っても、離婚は私の中では決定事項。いくらお金を払っても、あなたのところには戻らない」

「本気なんだな…。今住んでるあの家のことも…」

新太郎はまだどこかで、私が折れると思っていたのかもしれない。けれど、あの家は最初から私の名義だった。義母を住ませたのも、新太郎を信じていたからだ。その信頼は、もうどこにも残っていなかった。

「私名義の家だから、当然でしょ。期限までに退去して」

「でも、行く場所なんて簡単に見つからないわ。お父さんと住んでた家も売ってしまったし…」

「それは、私が考えることではありません。ヒロ子さんにでも相談したらどうですか?」

「…分かった。支払いには応じる」

低く唸りながら頷いた新太郎。義母も深く息を吐いた。悔しさと不安が混ざった表情をしている。これ以上粘っても、条件が良くならないことは二人にも分かったらしい。

「払えばいいんでしょ。期限までに出るわよ」

「今日の話し合いは、記録に残ります。口約束では済みませんからね」

「分かった」

二人は、慰謝料と返還分の支払いに同意し、家についても決められた期限に引っ越すことを約束した。手続きを終えた私は立ち上がり、彼らに背を向けて事務所の扉を大きく開けた。顔に当たる冷たい風が心地よい。ようやく、長い戦いに幕が下ろされたのだ。

1週間後、その日の午後、私は実家の焼肉屋にいた。先ほどようやく昼の営業が落ち着いたばかりで、座敷はまだ片付けの途中だった。父と母は厨房で仕込みを始め、慎は帳簿を見ながらレジに座っている。そこへ、慌ただしい足音と共にヒロ子が入ってきた。

「みちこさん、いるんでしょ?」

「ここはお店です。大声を出さないでください」

「誰のせいで大声出してると思ってるのよ。いきなり来て、何なんですか?」

ヒロ子は上着も脱がず、入口に立ったまま私を睨んだ。髪も服も乱れていて、以前会った時よりも余裕のない顔をしている。約束通り同居していた家を退去した義母と新太郎が、ヒロ子の家へ転がり込んだことが原因だろうと、すぐに察しがついた。

「お母さんと新太郎がうちに来て、家の中が滅茶苦茶なのよ。なんとかしてちょうだい」

「それは、私に言われても困ります」

「あなたが追い出したんでしょ?」

「ええ、あの家は私の名義ですから。新太郎と離婚する以上、期限までに出てもらうしかありません」

乱暴に椅子を引くヒロ子。座るわけでもなく、ただ音を立ててこちらを威圧している。うんざりしながら書類を閉じていると、彼女はとんでもないことを口にした。

「あなた、随分儲けてるんですってね。なら、二人の生活費くらい出しなさいよ。子供もいないんだし、余裕あるでしょ」

「意味が分かりません。私には払う理由がありませんし」

「でも、お母さんたちがうちに来る原因を作ったのは、あなたでしょ。グダグダ言わずに、責任を取りなさい」

「二人からどう聞いているのか知りませんけど、原因を作ったのはお母さんと新太郎自身ですよ。他人の私に責任を取らせるつもりですか?」

私が淡々と返すほど、ヒロ子の興奮はひどくなっていく。奥にいる両親が心配そうにこちらを見ていたが、私は首を横に振った。ここで家族に手伝わせれば、ヒロ子は余計に騒ぐだろう。けれど、慎はすでに立ち上がっていた。

「こっちには小さい子供もいるのよ。お母さんたちの面倒まで見られないわ」

「そんなに嫌なら、最初から受け入れなければいいでしょ」

「そんな冷たいこと言えるわけないでしょ!みちこさんじゃないんだから!」

「ヒロ子さん、浮気相手と遊ぶ時間が減ったからって、姉に八つ当たりしないでください」

一瞬、慎の表情が固まった。つい口をついて出てしまったのだろう。息を飲んで見守っていると、見るみるうちにヒロ子の顔から表情が失われ、次の瞬間にはより強い怒りで真っ赤になる。

「あんた、どこで浮気相手のことを…!」

その時、入口の戸がまた開いた。義母と新太郎が、暴走するヒロ子を追ってきたらしい。

「ヒロ子、やめなさい」

「姉さん、勝手に来るなって言っただろ」

「今の、聞こえた」

ヒロ子は口を継ごうとしたが、もう遅かった。義母たちの顔色を見れば、会話が聞こえていたことは一目瞭然だ。

「ヒロ子、浮気相手って、何の話なの?」

「し、知らないわよ!」

「姉さん、本当なのか?子供たちだっているのに」

「あんたに言われたくないわよ!無職を隠して、嫁に養われてたくせに!」

一気に場が崩壊した。ヒロ子に詰め寄る義母。浮気が露見した驚きと焦りから、ヒロ子は椅子を蹴り飛ばす。卓上の調味料入れが大きく揺れる。

「母親がそんな真似をして、恥ずかしくないの?」

「借金を隠してたお母さんに言われたくない!」

「おい、二人ともやめろよ。店の中だぞ」

「あんたが誰よりも情けないのよ!」

そう叫ぶや否や、ヒロ子は卓上の調味料入れに手を伸ばした。力いっぱい投げ落としているらしい。私は反射的に一歩下がり、慎がすぐに間に入った。父も厨房から出てきたが、なおも義母とヒロ子は互いに怒鳴り続けている。もう、話し合いで済む状態ではない。

「警察に通報します」

「大げさなことしないで!」

「店のものに手を出した時点で、十分な迷惑行為です」

「全部、あんたのせいでしょうが!」

慎はためらわずに電話をかけた。数分後、警官が到着すると、三人は急に大人しくなる。義母は言い訳を並べ、ヒロ子は泣きそうな顔で黙り込み、新太郎に至ってはただ俯いていた。

「私は悪くないのよ!」

「そうよ。私だって被害者なのに!」

「みちこ、助けてくれ。頼む」

「被害者面をする前に、自分たちの行いを振り返ってください。全て、自業自得ですよ」

やがて三人は警官に促され、店の外へ連れて行かれた。入口の戸が閉まると、静寂が訪れる。私は深く息を吐き、卓上で倒れた調味料入れを起こした。ついに、非常識な家族から解放された瞬間だった。

3ヶ月後、新太郎との離婚が成立。慰謝料と私が立て替えてきた生活費の一部は、こちらが希望した形で支払われることになった。無職の新太郎と元々借金漬けの義母に十分な蓄えがあるはずもなく、二人は新たに借金をして私への支払いに当てたらしい。

ヒロ子の方も、無事では済まなかった。焼肉屋での騒ぎがきっかけとなり、不貞行為の件が夫の耳にも入ったのだ。当然ながら夫は大激怒。すぐさまヒロ子に離婚と慰謝料を請求し、さらに子供たちの親権は自分が持つことを求めたという。現在、夫妻は別居中。離婚に向けた協議が続いていると聞いた。子供たちのことを思うと、正直気が重くなる。あの子たちには、せめて父親の元で幸せに暮らして欲しいと思う。

また、ヒロ子の離婚話は義母と新太郎にも影響した。彼らが転がり込んだ家はヒロ子の夫の名義だったため、そのまま住み続けることができなかったのだ。義母と新太郎、そして夫に追い出されたヒロ子。行き場を失った三人は、今では古いアパートで一緒に暮らしている。三人はそれぞれアルバイトを掛け持ちしているが、生活はかなり苦しいらしい。家賃を払い、借金を返し、日々の食費を工面するだけで精一杯だという。

私は、彼らを不幸に陥れたわけではない。ただ、自分の人生から彼らを切り離したかっただけだ。自分たちの嘘や不始末の後始末を、自らが引き受ける。それは、人間として当然のことだろう。

半年後、私は実家を出て都内のタワーマンションへ移り住んだ。引っ越しには、慰謝料や返還された生活費を当てた。受け取ったお金は、失われた時間を取り戻してくれるものではないが、新しい生活を始めるための区切りにはなったと思う。

仕事は、以前にも増して忙しくなった。経営するレストランやバー、カフェは、どの店も順調に業績を伸ばしている。スタッフたちが育ち、店ごとの色もはっきりしてきた。レストランは記念日に選ばれる店になり、バーには常連客が少しずつ増え、カフェは昼間の客層を広げている。やがて、テレビや雑誌から取材の話が来るようになった。

最初に「若手女性実業家」と紹介された時は、正直戸惑った。私はただ、お客様にまた来たいと思ってもらえるよう動いてきただけだ。それでも、自分の仕事を正面から評価されることは、やはり嬉しい。かつて水商売と笑われた仕事が、今は多くの人に認められている。その事実は、密かな誇りになった。

慎も、自分の道を決めた。大学を卒業したら、実家の焼肉屋を本格的に継ぐことになっている。両親は最初、まだ若い慎に背負わせすぎるのではないかと心配していた。けれど、慎はあっという間に仕入れや帳簿、接客、宣伝まで覚え、今では父と対等に意見を交わしている。大学卒業後は、正式にオーナーとして店に立つ予定だ。成長した慎の姿を見るたび、私は胸が熱くなる。

結婚生活は、確かに辛いものだった。信じた相手に利用され、家の中で居場所を奪われていく日々は、今思い出しても苦しい。それでも、あの時間だけが私の人生ではない。

週末、焼肉屋の営業が落ち着いた後、父と母と慎と一緒に食卓を囲む。その何気ない時間が、私にはたまらなく大切だ。自分の店を持つという夢を叶え、どんな時も私を支えてくれる家族がいる。それだけで、十分幸せだ。

遠回りはしたが、私はようやく自分の人生を取り戻したのだ。

Thumbnail