病室の静寂を破るように、私は息子の手紙を声に出して読み上げた。信じられない。これが本当に私の息子、淳が書いた言葉なのか。手が震えて、便箋がカサカサと音を立てる。
入院してまだ二週間。心臓の手術を終えたばかりの私に、看護師さんが優しく手渡してくれた封筒。差出人の名前を見て安心していた自分が、あまりにも愚かだった。
手紙の続きを読む。嫁の両親を家に住ませる。私の部屋は改装して夫婦の寝室にする。お父さんが認知症だから、仕方ない。
淡々と書かれた文字が、ナイフのように私の心を切り裂いていく。
三十年前に夫を亡くしてから、この子のためだけに生きてきた。朝五時に起きて弁当を作り、夜遅くまでパートを掛け持ちして学費を稼いだ。その息子が、私が一番弱っている時を狙ったように、こんな仕打ちをするなんて。
点滴の規則正しい音が、私の乱れた心をあざ笑うかのように響いた。涙は出なかった。代わりに胸の奥から熱い何かが込み上げてくる。それは深い悲しみを超えた、激しい怒りだった。
窓の外を見つめながら、私は遠い記憶をたどっていた。夫が交通事故で亡くなったのは三十年前。まだ小学生だった淳を抱きしめて、この子だけは立派に育てると誓った日のことを、今でも鮮明に覚えている。昼の仕事を続けながら、深夜のコンビニでもバイトをした。
淳の大学進学が決まった時、学費の総額は八百万円。でも迷いはなかった。「母さん、ありがとう」と言ってくれた息子の笑顔が、全ての疲れを吹き飛ばしてくれたから。就職活動ではスーツから交通費まで、全て支援した。結婚が決まった時も「幸せにしてあげて」と三百万円の結婚資金を渡した。孫が生まれてからの三年間は、毎日朝から晩まで無償で子守りをした。「おばあちゃん、大好き」と小さな手で私の頬を撫でてくれた温もりが、今も手に残っている。公園で一緒に遊び、絵本を読み聞かせ、お昼寝の時は子守唄を歌った。嫁に「お母さんがいてくれて本当に助かります」と言われるたびに、家族の役に立てることが嬉しかった。
それなのに、今は邪魔者扱い。三十八年間の献身は、一体何だったのだろう。病室の冷たい空気が、私の心をさらに凍らせていく。
翌日の午後、親友の佐藤洋子が見舞いに来た。彼女の表情がいつもと違うことに、私はすぐに気づいた。
「みち子、あなたに伝えなきゃいけないことがあるの」
洋子は私の手を握りながら、重い口を開いた。実は昨日、スーパーで嫁に会ったのだという。近所の奥さんたちと話していて、こう言っていたらしい。
「お母さんがいなくなって本当に清々した。あんな口うるさい人、もう二度と家に入れたくない」
胸が締めつけられた。口うるさい。私が孫の世話で疲れている嫁を気遣って、いつも遠慮がちに接していたのに。それだけじゃない。「認知症も始まってるみたいだし、施設に入ってもらうのが一番。財産だけはしっかりもらうけどね」と笑っていたという。
認知症。そんな診断は受けていない。ただの心臓疾患で入院しているだけなのに。
洋子はさらに衝撃的な事実を告げた。
「みち子の家、もう改装始まってるわよ。嫁さんの両親が先週から住み始めてる。淳さんが毎月十万円も生活費を渡してるって」
二十万円。私が必死に節約して貯めた老後の資金を思うと、怒りで体が震えた。しかも嫁は「義理の親には月五千円の小遣いで十分よね」と言っていたという。五千円。犬や猫の餌代にもならない金額だ。
「みち子、実はもっと大変なことがあるの」
洋子はバッグから通帳のコピーを取り出した。それは私の貯金通帳の写しだった。
「銀行で働いている知り合いから聞いたんだけど、先月五百万円が引き出されてるの。淳さんの委任状があったって」
五百万円。老後のために必死で貯めたお金が、勝手に引き出されていた。
「委任状なんて書いた覚えはないわ」
「でも銀行には確かに提出されてるの。筆跡鑑定したら偽造かもしれないけど」
病室に重い沈黙が流れた。息子が実の母親の金を盗んだ。しかも病気で入院している間に。
その時、ナースステーションから看護師が慌てた様子で入ってきた。
「松井さん、息子さんから病院に電話があって、医療費の支払いについて相談したいそうです」
医療費。手術費用は私の保険でカバーされるはずだ。嫌な予感がした。
「何でもお母様の生命保険の受け取り人を変更する手続きをしているとか。病院への支払いが心配だからって」
生命保険は一千万円。受け取り人は淳にしていたが、それは私が死んだ後の話。なぜ今変更する必要があるのか。
「受け取り人を誰に変更すると言ってました?」
「奥様の嫁さんだそうです。息子さんは、母も高齢だからいつ何があるかわからない。今のうちに整理しておきたいと」
洋子が小さく息を呑んだ。
「みち子。これは計画的よ。あなたの財産を全部奪うつもりなのよ」
そこへ、隣に住む山下さんが顔を出した。
「みち子さん、大変なことを聞いちゃったの。昨夜、淳さんと嫁さんの会話が聞こえてきて。母さんの心臓、もう長くないかもしれない。保険金が入れば借金も返せるって」
借金。息子夫婦に借金があったなんて、初めて聞いた。事業に失敗したらしく、五千万円の負債を抱えているらしい。
洋子がタブレットを取り出した。
「みち子、これを聞いて」
再生されたのは、息子の声だった。
「母さんが死んだら、保険金も家も全部もらえる。あの人ももう六十八だし、心臓も悪いし、そう長くはないだろう」
決定的な証拠だった。涙が溢れそうになったが、私は歯を食い縛った。息子はもう息子ではなかった。私から金を奪い、家を奪い、命の価値まで計算する敵だった。
洋子が私の手を強く握った。
「みち子、戦うのよ。こんな理不尽、許しちゃだめ」
その時、亡き夫の顔が脳裏に浮かんだ。「みち子、何があっても強く生きるんだよ」という最後の言葉が蘇る。私は深呼吸をして、洋子を見つめた。
「洋子、お願いがあるの。信頼できる弁護士を紹介してくれる?」
息子が私を裏切ったなら、私も容赦はしない。三十八年間尽くしてきた母親の本当の強さを、これから見せてやる。
三日後の朝、病院の事務が神妙な面持ちで私の病室を訪れた。
「松井様、少しお話があります。息子さんから医療費の件で連絡があったのですが」
私は身構えた。また何か企んでいるのだろうか。
「実は息子さんが、母の生命保険の受け取り人を変更したいと保険会社に連絡されたようで、確認の電話が病院にありました」
やはりそうだった。でも、なぜ病院に確認が。
「保険会社の方が言うには、被保険者が入院中の受け取り人変更は、ご本人の意思確認が必要だそうです。でも息子さんは、母は認知症で判断能力がないと主張されていて」
認知症。また同じ嘘をついている。私は怒りを抑えながら尋ねた。
「それで、保険会社は?」
「主治医に診断書が必要だと言われたそうです。でも松井様の主治医は、認知症の症状は一切ないと断言されました。それを聞いた息子さんは、かなり慌てていたようです」
少し安心したが、事務の表情はまだ暗かった。
「ただ、別の問題が。息子さんが提出したい委任状があるんです。これを見てください」
手渡された書類を見て、私は息を飲んだ。確かに私の名前で署名されているが、明らかに筆跡が違う。
「これは私の字じゃありません。偽造です」
「そうだと思いました。実は保険会社も疑っているようで、筆跡鑑定を求めています」
その時、洋子が慌てて病室に飛び込んできた。
「みち子、大変。あなたの家に行ってきたんだけど、金庫がこじ開けられてたわ」
金庫には亡き夫の書類や重要書類を保管していた。
「中身は土地の権利書とあなたの実印証明書が全部なくなってた。でも、これだけは無事だったの」
洋子が差し出したのは、古い封筒だった。夫の会社のロゴが印刷されている。金庫の奥の隠し場所にあったから、見つからなかったらしい。震える手で封筒を開けると、中から数枚の書類が出てきた。特許証明書、それに契約書らしきものが。
書類に目を通していると、看護師が慌てた様子で入ってきた。
「松井さん、警察の方がお見えです。息子さんの件で」
二人の刑事が病室に入ってきた。年配の刑事が身分証を見せながら話し始めた。
「松井美智子さんですね。実はあなたの預金口座から不正に引き出された五百万円の件で、銀行から被害届が出ています」
被害届。私はまだ出していないのに。銀行側が内部調査をした結果、提出された委任状が偽造の可能性が高いと判断したらしい。防犯カメラにも、息子が書類を偽造している様子が映っていたという。まさか、そんな証拠が残っていたとは。
若い方の刑事が続けた。
「さらに、生命保険会社からも詐欺未遂の疑いで相談を受けています。認知症でない人を認知症と偽って、保険金受け取り人を変更しようとした疑いです」
そして年配の刑事が、深刻な表情で言った。
「これが一番問題なんですが、あなたの医療記録に不正アクセスした形跡があります。息子さんが病院のスタッフに賄賂を渡して、カルテを見ようとしたらしい」
私の病状を詳しく知って、何をするつもりだったのか。背筋が寒くなった。
「みち子さん、正式に被害届を出されますか?」
息子を警察に訴える。普通の母親なら躊躇するだろう。でも淳はもう私の息子ではない。私の命まで狙う犯罪者だ。
「はい。お願いします」
刑事たちが帰った後、私は夫の書類をもう一度見直した。特許証明書には「省エネルギー制御システム」と書かれている。契約書を読むと、特許使用料として年間二千万円という金額が記載されていた。
洋子が私の手に手を置いた。
「みち子、あなたのご主人、すごい発明をしてたのね。知らなかった?」
夫は何も言わずに逝ってしまって。でも、なぜ今まで連絡がなかったのだろう。契約書の日付は三十年前。その謎は、明日には解けることになる。
翌日の午後二時、一人の紳士が病室のドアをノックした。
「失礼します。松井美智子様でいらっしゃいますか?」
銀髪を綺麗に整えた七十代の男性は、高級なスーツに身を包み、穏やかな笑みを浮かべていた。
「私、水沢と申します。実はご主人の松井健一様とは、かつて同じ会社で研究開発をしていた仲間でした」
夫の名前を聞いて、私は身を乗り出した。
「主人のことをご存知なんですか?」
「ええ、親友でした。そして今は大手企業グループの会長をしております」
水沢と名乗る紳士は、古いアルバムを取り出した。若き日の夫が白衣姿で実験装置の前に立っている写真があった。
「健一君は天才でした。彼が開発した省エネルギー制御システムは、今や世界十か国の工場で使われています」
私は昨日見つけた特許証明書を思い出した。
「実は昨日、夫の特許証明書を見つけたんです。でも詳しいことは何も」
水沢氏の表情が曇った。
「美智子様、大変申し上げにくいのですが、特許使用料の件で重大な問題が発生していたのです」
胸が高鳴った。まさか、また何か問題が。
「実は三十年前、健一君が亡くなった直後、ある人物が我が社を訪れました。健一君の遺族代表だと名乗って」
「それは息子の淳ですか?」
「いいえ、健一君の弟さんでした。正式な相続人だという書類を提示して、特許使用料の振り込み先を自分の口座に変更したのです」
夫の弟、健二。確かに存在したが、夫の葬儀以来、音信不通だった。でも相続人は、私と息子のはずだ。
「その通りです。しかし当時、我々は提出された書類を信じてしまいました。美智子様が子育てに追われていることを理由に、弟さんが管理すると」
怒りよりも呆れが先に立った。夫の弟まで、私たちを裏切っていたのか。
水沢氏は続けた。
「しかし三か月前、健二が亡くなりました。彼の遺品を整理していた税理士から連絡があり、不正が発覚したのです。三十年間の特許使用料は、年間二千万円。三十億円になります。健二氏は慾張って使い果たしていました。本当に申し訳ございません」
三十億円。夢のような金額が、私たちの知らないところで消えていた。でも、水沢氏の表情が少し明るくなった。
「ただし、朗報があります。特許の有効期限はあと十年残っています。今からでも正当な相続人である美智子様に、年間二千万円をお支払いできます」
年間二千万円。それも十年間。私は言葉を失った。
「さらにお詫びの気持ちとして、我が社の景品館を美智子様に無償で提供させていただきます。健一君との友情に鑑みて、どうかお受け取りください」
水沢氏はタブレットを取り出し、写真を見せてくれた。美しい日本庭園に囲まれた豪華な邸宅。まるで高級旅館のようだ。最寄りから車で一時間。専属のスタッフもいるという。
「健一君が生きていたら、きっとこういう家で美智子様と暮らしたかったはずです」
涙が溢れてきた。夫は死してなお、私を守ってくれていた。
「ありがとうございます。でも、こんな高価なものを」
「みち子様、水沢氏は真剣な眼差しで私を見つめた。健一君の特許がなければ、我が社は今の規模になれませんでした。これでも恩返しには足りないくらいです」
その時、洋子が目を丸くして口を挟んだ。
「みち子、受け取りなさい。これはご主人からの贈り物よ」
水沢氏は立ち上がり、深々と頭を下げた。
「退院の日は、私どもの車でお迎えに上がります。もう息子さんに頼る必要はありません」
車というのは、ロールスロイス。美智子様にふさわしい車を用意させていただきます、という。
病室を出ていく水沢氏の後ろ姿を見送りながら、私は不思議な感覚に包まれていた。全てを失ったと思った瞬間に、夫が残してくれた財産が現れた。三十年前の「何があっても強く生きるんだよ」という夫の言葉の意味が、今になってはっきりとわかった気がした。
洋子が興奮気味に言った。
「みち子、退院の日が楽しみね。息子さんたちの顔を見てみたいわ」
そう。息子と嫁は知らない。母親が今や年収二千万円の資産家になったことを。そして高級車で迎えられる身分になったことを。
「洋子、一つお願いがあるの」
「何?」
「退院のこと、誰にも言わないで。息子たちにも、ないしょにしておいて」
最高の復讐は、相手の予想を完全に裏切ることだ。入院中に家を奪い、金を奪い、命まで狙った息子夫婦に、最高の仕返しをしてやる。
退院の朝が来た。四月の春がすみ渡る空気が病室の窓から流れ込んでくる。私は鏡の前で、洋子が持ってきてくれた上品なスーツに袖を通した。
「みち子、本当に綺麗よ。まるで別人みたい。四十年ぶりかしら、こんなに高い服を着るのは」
水沢会長が手配してくれたスタイリストが昨日来てくれたのだ。高級ブランドの服、バッグ、アクセサリー。「美智子様にお似合いのものを」と選んでくれた品々は、どれも私を若返らせてくれた。
午前十時、病院の職員たちがざわめき始めた。正面玄関に、漆黒のロールスロイスが滑り込んできたのだ。
「すごい。あれ、誰の車?芸能人でも来たのかしら?」
看護師たちが窓に張り付いている。車から降りてきた運転手が恭しく後部座席のドアを開けた。そして、水沢会長自らが姿を表した。
「お迎えに上がりました、美智子様」
私は堂々と歩いて病院を出た。職員たちの驚きの視線を感じながら、ゆっくりと正面玄関へ向かう。
そこへ、一台の軽自動車が慌てたように駐車場に入ってきた。淳と嫁だった。
「母さん、待って」
淳が早足で走ってくる。嫁も後ろから小走りについてきた。二人の顔は、まるで幽霊でも見たかのように青ざめていた。
「その車、なんで母さんが乗ってるんだ?!」
私は振り返ると、冷たい笑みを浮かべた。
「ああ、淳。お見舞いには来てくれたのね。でも、もう必要ないわ」
「必要ないって。母さん、これはどういうことだ?」
水沢会長が前に出た。
「意見するわ。私は水沢グループの会長です。美智子様は我が社の最重要パートナーのご遺族。これから私どもが責任を持ってお世話させていただきます」
嫁が不機嫌そうに口を開いた。
「最重要パートナーって。お母さんはただの主婦でしょう」
ただの主婦。私は鼻で笑った。
「あなたたちこそ、ただの犯罪者でしょう」
その瞬間、パトカーが病院の駐車場に入ってきた。昨日の刑事たちが降りてきて、まっすぐ淳に向かって歩いてくる。
「松井さんですね。詐欺及び窃盗の容疑で逮捕状が出ています」
「え、何の話ですか?」
刑事は淡々と告げた。
「母親の預金五百万円の不正引き出し、生命保険金詐欺未遂、実印の窃盗。全て証拠が揃っています」
「母さん、これは誤解だ!」
淳が必死に弁解しようとするが、私は淡々と言った。
「誤解?銀行の防犯カメラに、あなたが委任状を偽造している姿がはっきり映っていたそうよ」
手錠をかけられる淳を見て、嫁が泣き叫んだ。
「お母さん、お願い、許してください!」
私は淡々と言い放った。
「お荷物の母親に、同情するの?」
「違うんです。あれはつい」
「口が滑った?もう家族じゃないんでしょう。外部の人に頼るのはおかしいんじゃないかしら」
嫁の顔が絶望に歪んだ。私は続けた。
「それより、五千万円の借金はどうするつもり?もう私の保険金も家も手に入らないわよ」
「どうして知ってるんですか?」
「全て知っているわ。事業の失敗も、私を殺して保険金を手に入れようとしたことも」
嫁が顔を真っ赤にして後ずさった。水沢会長が私に優しく声をかけた。
「美智子様、もうよろしいでしょう。新しい人生が待っています」
運転手が恭しくロールスロイスのドアを開けた。私が乗り込もうとした時、嫁が地面に膝をついた。
「お母さん、お願いです。私たちもう生きていけません。家のローンも払えないし、生活費もないんです」
私は足を止め、振り返った。
「あら、そう。だったら嫁の両親がいるでしょう。月に十万円も渡してるんだから、きっと助けてくれるわよ」
「違うんです。あの人たちが家を乗っ取って、私たちを追い出したんです」
何という皮肉だろう。人を裏切った者が、同じように裏切られる。
「お母さんの部屋を改装したら、ここは俺たちの家だって言い出して」
淳がパトカーの中から叫んだ。
「母さん、頼む。弁護士を。金を貸してくれ!」
私は静かに首を横に振った。
「あなたは誰?私には息子なんていないわ。私の本当の息子は、もうどこにもいないの」
「母さん、そんな」
「私を認知症扱いして、保険金目当てに殺そうとした人を、息子とは呼べません。さようなら」
そして私は優雅にロールスロイスに乗り込んだ。革張りのシートが体を包み込む。運転手がゆっくりと車を発進させると、窓の外で嫁が泣き崩れているのが見えた。
車内で水沢会長が封筒を差し出した。
「美智子様、これは当面の生活費です。二千万円入っています」
「そんな、高すぎます」
「特許料の前払いとお考えください。それから、これも」
手渡されたのは、高級住宅地にある邸宅の写真だった。
「景品館の準備ができるまで、こちらにお住みください。家具も全て揃っています」
「本当にいいんですか?」
「健一君が生きていたら、きっと美智子様にこういう生活をさせたかったはずです」
涙が止まらなかった。でも、それは嬉しさの涙だった。病院から離れていく車の中で、私は亡き夫に語りかけた。
「あなた、見ていますか?私、ちゃんと強く生きていますよ」
そして洋子にメールを送った。「全てうまくいったわ。これから新しい人生を始めます」。すぐに返信が来た。
「みち子、あなたは本当に強い女性よ。淳さんたちの顔、見たかったわ。きっと一生忘れられない顔してたでしょうね」
後日、洋子から聞いた話では、淳は執行猶予付きの有罪判決を受けたという。前科がついた淳は会社を解雇され、嫁は離婚を申し立てた。実家に帰ろうとしたが、両親からも「他人の親を追い出した報いだ」と拒絶されたらしい。結局、二人ともアパート暮らしですって。
「因果応報って、このことね」
洋子の言葉に、私は複雑な気持ちになった。でも、同情はしない。自分のしたことの責任は、自分で取るしかないのだ。
それから三か月が経った。私は今、水沢会長が用意してくれた景品館で暮らしている。朝の光が差し込む広いリビングで、専属シェフが作ってくれた朝食を楽しむ。庭園では春の花が咲き、小鳥たちのさえずりが聞こえる。
「おばあちゃん、今日は何して遊ぶ?」
隣に座る孫の笑顔が、私の一番の宝物だ。嫁が親権を放棄し、施設に預けられることになった孫。私は迷わず引き取った。今では正式に私が親権者となり、二人で幸せに暮らしている。
「今日は、お庭でお花を摘んで、押し花を作りましょうか」
「やった!おばあちゃんと一緒なら、何でも楽しい」
この子は両親の醜い争いを見て、心に傷を負っていた。でも今は安心できる環境で、子供らしい笑顔を取り戻している。
朝食後、私たちは広大な庭園を散歩した。専属の庭師が丹精込めて手入れをしている日本庭園は、まるで絵画のような美しさだ。池には鯉が優雅に泳ぎ、あずまやでは野鳥たちがさえずっている。
「おばあちゃん、この前お父さんとお母さんが来た時、門の前で追い返されてたね」
孫の言葉に、私は少し胸が痛んだ。
「そうね。でも、悪いことをした人は、きちんと反省するまで会えないの」
「お父さんたち、悪いことしたの?」
「うん。おばあちゃんのお金を勝手に使ったり、嘘をついたりしたの」
孫は少し考えてから言った。
「じゃあ、ちゃんと謝ったら許してあげるの?」
子供の純粋な問いかけに、私は答えに詰まった。許すということの難しさを、この子はまだ知らない。
午後になると、洋子が遊びに来てくれた。
「みち子、本当に若返ったわね。まるで五十代みたい。環境って大事ね。ストレスがないと、こんなにも体が軽くなるなんて」
私たちは庭園を見下ろすテラスでお茶を楽しんだ。イギリスの高級ティーセットに注がれた紅茶の香りが、優雅な午後のひとときを演出する。
「そういえば、淳たちのこと聞いた?洋子の表情が少し曇る」
「ええ、風の噂で。淳さんは前科がついて、まともな仕事につけないらしいわ。日雇いの仕事でなんとか生活してるって。嫁さんは、実家からも見放されて、今は水商売で働いてるって。借金の返済に追われて、昼も夜も働いてるらしい。でも五千万円の借金なんて、一生かかっても返せないでしょうね」
「嫁の両親は?」
「あの人たちも大変みたい。息子夫婦を追い出したはいいけど、家のローンが払えなくて、結局家を手放したらしいわ。今はアパートで年金暮らしですって」
人を裏切った者たちが、次々と報いを受けている。因果応報とは、本当に存在するのだと実感した。
「でもみち子、あなたは優しいわ。お孫さんを引き取って育てるなんて」
「この子に罪はないもの。それに、夫も天国で喜んでいると思うの」
その時、家政婦の田中が私を呼んだ。
「奥様、水沢会長がお見えです」
月に一度、水沢会長は様子を見に来てくれる。今日は重要な書類を手にしていた。
「美智子様、特許の更新手続きが完了しました。これで無事、年間二千万円の収入が保証されます」
「本当にありがとうございます」
「それからもう一つ。健一君の功績を称えて、我が社の名誉顧問に就任していただけませんか?」
「名誉顧問?私のようなものが?」
「もちろん名誉職ですが、年間五百万円の顧問料をお支払いします。年に一度、若い研究者たちに健一君の思い出を語っていただければ、さらに喜ばしい」
水沢会長は続けた。
「美智子様のお孫さんの教育費用も、全て我が社で負担させていただきます。大学院まで、望むだけの教育を受けさせてあげてください」
涙が溢れた。夫の存在が、こんなにも大きかったなんて。そして、その恩恵が孫の代まで続くなんて。
「喜んでお受けします。主人も、きっと喜んでいると思います」
水沢会長が帰った後、私は夫の遺影の前に座った。仏壇には、夫が好きだった花と和菓子を備えてある。
「あなた、見ていますか?私、こんなに幸せになりました。息子は道を踏み外してしまったけれど、孫は立派に育てます。約束します」
夕方、孫と一緒に近所を散歩していると、偶然淳とすれ違った。やつれ果てた息子は、作業着姿で疲れきった顔をしていた。かつての面影はなく、まるで別人のようだった。私を見つけると、立ち止まってうつむいた。
「母さん」
小さく呟いた声が聞こえた。でも、私は足を止めなかった。
「おばあちゃん、あの人誰?」
「知らない人よ。行きましょう」
孫の手を引いて歩き続ける私の後ろで、淳が土下座をしているのがわかった。アスファルトに額を擦りつけ、泣きながら何か叫んでいる。でも、振り返ることはなかった。
家に帰ると、孫が不思議そうに聞いてきた。
「おばあちゃん、さっきの人泣いてたよ。ごめんなさい。って言ってた」
「そう。でも、涙を流せば全てが許されるわけじゃないの」
「どういうこと?」
私は孫を抱きしめながら、優しく説明した。
「人を裏切ったり、傷つけたりしたら、その報いは必ず帰ってくるの。だから、あなたは絶対に人を大切にする子になってね」
「うん、わかった。僕、おばあちゃんみたいに優しい人になる」
その夜、私は日記を書いた。革張りの高級手帳に、ペンで思いを綴る。
「入院中、息子に裏切られた時は、人生が終わったと思った。でも今思えば、あれは新しい人生の始まりだった。理不尽な仕打ちを受けた時、泣き寝入りしていたら、今の幸せはなかった。勇気を出して戦ったからこそ、正義は実現された。人生に遅すぎることなんてない。六十八歳の私でも、こんなに素晴らしい第二の人生を歩めている」
もし誰かが理不尽な目に合っているなら、諦めないでほしい。必ず道は開ける。正義は必ず勝つ。理不尽に屈しないことの大切さを、私は身を持って学んだ。我慢することが美徳ではない。自分の尊厳を守ることは、誰にでも許された権利なのだ。
翌朝、庭園を散歩していると、一羽の蝶が舞い降りてきた。亡き夫が好きだった、あの蝶だ。
「あなたなのね」
蝶は私の周りを優雅に舞い、そして青空へと飛び立っていった。まるで「よく頑張ったね」と言ってくれているようだった。
私は心から言える。人生で最も幸せな時を過ごしていると。息子夫婦の裏切りは確かに辛かった。でも、それがなければ、夫が残してくれた財産にも気づかなかった。水沢会長との出会いもなかった。そして、何より今の幸せな生活もなかった。全ては必然だったのかもしれない。
「おばあちゃん、また蝶ちょが来たよ」
孫の明るい声に、私は微笑んだ。理不尽に屈しない強さ、正義を信じる心、そして人を許す寛容さ。これら全てを、私は六十八歳にして学んだ。人生に無駄なことなど、一つもない。辛い経験も、全ては幸せへの道標だった。
これからも私は強く生きていく。夫が天国から見守ってくれているから。孫がいるから。そして、私自身の人生を最後まで輝かせるために。正義は必ず実現される。因果応報は必ず巡ってくる。そして、強く正しく生きる者には、必ず幸せが訪れる。これが、私が学んだ人生の真実だ。


