「ねえ、けん二さん、あの時はごめんね」——振り返ると、あの日、猫の話で大喧嘩して一万円札を叩きつけて去っていった見合い相手が、キャバクラの燦然たる照明の下で、まるで別人のように俺の隣に座っていた。三週間前、俺は「絶対に猫より犬だ」と言い放ち、彼女は「根本的に合わない!」と怒り狂って店を出ていった…はずだったのに。して今、彼女は「これも何かの縁よ」と笑い、連絡先を教えてくれと言う…俺は半信半疑…

「ねえ、けん二さん、あの時はごめんね」——振り返ると、あの日、猫の話で大喧嘩して一万円札を叩きつけて去っていった見合い相手が、キャバクラの燦然たる照明の下で、まるで別人のように俺の隣に座っていた。三週間前、俺は「絶対に猫より犬だ」と言い放ち、彼女は「根本的に合わない!」と怒り狂って店を出ていった…はずだったのに。して今、彼女は「これも何かの縁よ」と笑い、連絡先を教えてくれと言う…俺は半信半疑...

「けん二さん、あの時はごめんね」

え、と思って振り返ると、さっきまで隣に座っていたキャバ嬢が、申し訳なさそうに顔の前で手を合わせていた。あの時って、もしかして――お見合いの時のこと? 俺の名前は宝田健二、31歳。医療機器メーカーの営業として、毎日ただひたすら働いている。職場と家の往復、帰ってからの簡単な夕食、シャワー、そしてベッドに直行。夢の中でも仕事のことが頭を離れない。気がつけば朝日が差し込み、鉛のように重い体を引きずってまた家を出る。そんな毎日が、もう5年も続いている。彼女なんて、いるはずもなかった。

地元の同級生たちは結婚ラッシュで、来月は結婚式が2回も控えている。30を過ぎても恋人さえいない俺を、両親は心配して仕方がなかった。

「現二さん、いい話があるのよ」

母が知り合いに頼まれたと言って持ってきた見合い写真を、俺は見もせずに突っぱねた。

「まあ、片肘は張らず。これも一つの出会いだと思って、会ってみるだけ会ってみたらどうだ」

そう言う母は、実はもうお見合いの約束を受けてしまっていたらしい。父も一緒になって進めてくるもんだから、断り切れず、結局会うことになってしまった。別に結婚しなきゃいけないわけじゃない。会うだけ会って断ろう――そう思っていた。

お見合い当日、駅近くの高級な和食店で、俺たちは初めて顔を合わせた。初対面の緊張感が漂う中、人見知りの俺はかなり言葉少なだったと思うが、思ったより和やかな雰囲気で会話は進んだ。お相手の名前は三宅あ子さん、俺の一つ年下だという。

お互いの仕事や休日の過ごし方、趣味の話を、特に問題なく楽しく話していた――ある話をきっかけに、雰囲気が一変するまでは。

「動物はお好きですか? 私は猫を飼っていて、毎日その子に癒されてるんです」

あ子さんがスマホの待ち受け画面をこちらに向けて見せてきた。毛がふさふさの白い猫が表示されている。

「へえ」

興味なさげな俺の反応に、あ子さんは少しむっとした表情を見せた。

「猫の何がいいって、独立心が強くて自分の時間を大切にするところが好きなんですよね。犬みたいに人間に依存してないところが」

今度は俺がカチンと来てしまった。

「俺は断然猫より犬派ですけどね。人間に忠実だし、無条件の愛情を示してくれるから。実家で飼ってる犬は、俺が帰ったら飛び跳ねて喜んでくれて、たまらなく可愛いです」

「へえ…でも猫は」

こんなやり取りが続くうち、二人の間に緊張が走り始めた。正直に言うと、猫って苦手なんだよな――つい本音を口にしてしまった俺に、彼女は烈火のごとく怒り出した。

「猫のこと何も知らないくせに、そんなことよく言えますね! ひどい!

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立ち上がり、俺を睨みつけるあ子さん。俺だっていい気はしない。

「そっちこそ、犬の何を知ってるんですか? 飼ったこともないくせに」

「その言葉、そのままお返しします! 絶対に犬より猫です! 」

「いや、絶対に猫より犬!

最後はまるで子供のように言い合い、睨み合っていた――

「もうあなたとは根本的に合わない。さよなら! 」

あ子さんは一万円札を机に叩きつけて、部屋を出ていった。おい、待てよ――一瞬追いかけようとしたが、よく考えれば、そもそも断ろうとしていた見合いだ。二度と会うこともないだろうし、別に追いかける必要もない。

気分は最悪だった。母が言っていたように確かに綺麗な人ではあったが、見合いをしたことを心から後悔した。断る手間が省けたな――でももう二度と、見合いなんかするもんか。俺は仕事に生きるんだ。そう決めて、俺はまた仕事一筋の日常に戻った。

その日の営業先は、高台の大きな総合病院だった。新しい医療機器の契約について話すべく病院を訪れていた俺は、エレベーターを待っていると、そばのベンチで、気分悪そうに俯くご婦人がいた。年は俺の母くらいだろうか。白髪交じりの頭を壁にもたれかけ、明らかに顔色がおかしい。パジャマを着ているから、入院している人に違いない。

「ちょっと待っててください! お医者さん呼んできますから」

慌てる俺の腕を、ご婦人がぎゅっと掴んでいった。

「大丈夫。ありがとうね。病室はすぐそこなの。悪いけど」

「あ、はい。もちろんです」

俺はご婦人の肩を貸し、病室までお連れすることにした。廊下一番奥の305号室というその部屋まで、ご婦人は何度も頭を下げていった。通りかかった看護師がご婦人と共に病室に入っていくのを見届けて、俺は急いで経営企画室へ向かった。約束の時間まであと5分。ギリギリだったが、気分はなんだか晴れやかだった。

ちょっとしたことではあるけれど、情けは人のためならず――だ。「俺にもいいことが起きればいいな」などと、珍しく多社交的なことを考えていた。

が、現実はそううまくいくものではない。新商品を必死でアピールしたものの、いい返事は得られなかった。

「それはそうと、宝田さん、今晩、委員長先生とここのキャバクラに行きましょうよ。接続ですよ、接続」

そう言って、取引先の担当者があるキャバクラの名刺を取り出してきた。ゃ、キャバクラは苦手だ――一度接待で連れて行かれたことがあるが、全く居心地のいいところではなく、それ以来行きたいとも思わない。居心地の悪さの原因は、多分女の子たちの営業スマイル。心からの笑顔ではなさそうな、あの表情に、なんとなく不信感しか持てなかった。

が、取引先の委員長先生が来るなら、営業のチャンスだ。気は進まないが、誘われるまま、俺はその夜キャバクラに行くこととなった。

「いらっしゃいませ~」

俺が座ると、甘えた声を出したキャバ嬢がすかさず隣に座ってきた。「仕事は何してるとか、地元はどこなのか」など、当たり障りのない質問をし続けてくる。その距離の近さにたじろぎ、目も見られずにいた俺――

「ねえねえ、聞いてる? 」

ふと俺の顔を覗き込んできた隣のキャバ嬢を見て、俺は目を疑った。化粧は濃かったが、その顔には間違いなく見覚えがあった。そう、犬より猫と言い張り、喧嘩別れした見合い相手――愛子さんだ。

俺は飲んでいたウイスキーを吹き出しそうになった。

「やだ、どうしたの?

もう酔っちゃった? 」

けらけらと笑う愛子さんは、俺に気づいていないのだろうか。まるで初対面のように話しかけてきていた。まあ、俺みたいな平凡なやつ、記憶にも残らないんだろうな――俺にとってはある意味衝撃的な出会いだったけど、相手にとってはそうでもなかったんだろうな。若干ショックを受けつつ、俺は単なる客の一人として、ただ乾杯を交わした。

そのうち委員長先生が酔いつぶれてしまう。「委員長先生、タクシーまでお連れします。大丈夫ですか? 」――支払いを済ませ、先生を抱えるようにして表に出た俺は、店の前にいたタクシーに先生を押し込んで、一息ついた。その時だった――

背後から、見送りに来ていたキャバ嬢の一人に声をかけられた。

「けん二さん、あの時はごめんね」

え、――驚いて振り返ると、さっきのキャバ嬢、あいちゃんが、申し訳なさそうに顔の前で手を合わせている。「あの時」って、もしかして――お見合いの時のこと? てっきり忘れられていると思っていたので、驚いた。

「うん。ずっと気にかかってたのよね。みたいな喧嘩しちゃったこと、大人げないよね。本当ごめんなさい」「さっきは他のお客さんもいたし、話せなくって」

「なんだ、俺はてっきり俺のことなんて覚えていないんだと思ってた」

「そんなわけないでしょ。あんな出会い方して、忘れるわけないよ。初対面で大喧嘩なんて、私、生まれて初めてよ」

あ子さんは、思い出し笑いをするようにふっと声を出した。そして――

「こんな形で再開するだなんてね。これも何かの縁よ。連絡先、教えてよ」

あ子さんはスマホを取り出した。見合い相手だった愛子さんだけど、相手はあくまでもキャバ嬢――連絡先を聞かれているこの状況に、俺は正直戸惑った。だってこれは、絶対営業のために違いない。キャバ嬢の営業ラインはうざいって、先輩がこぼしてたのを聞いたことがある――

「ね?

いいでしょ? 」

首をかしげながら俺を覗き込んでくる、その笑顔に、俺は負けて連絡先を交換していた。その後あ子さんから連絡は来るものの、俺が心配していたような営業の内容ではなかった。たいもない友達同士でするような会話――「おはよう」とか「お休み」とか、たった一言の時もあるが、毎日やり取りしていた。

俺たちの関係をなんて例えたらいいんだろう。キャバクラ嬢と客の関係? 友達? ――まあ、恋人ではないことは確かだが、よくわからないまま連絡を取り合っていた、ある日のこと――

俺は次の契約の話をまとめるべく、また病院を訪れていた。「え、あ子さん?

」――病院へ続く廊下を、あ子さんが歩いているのを見かけた。なんであ子さんが病院に? 誰かのお見舞いだろうか? ――約束の時間まで余裕はあったし、俺はこっそりあ子さんの跡をつけてみた。すると入っていったのは――廊下一番奥の305号室。

え、ここって――その部屋は、以前俺がご婦人を案内した部屋だろ? あのご婦人は、あ子さんの知り合いなのだろうか――俺はそっと扉の向こうの声に聞き耳を立てた。

「お花のお水変えてくるね。この前みたいに無理して外出ちゃだめだよ。分かった?

あ、やばい――と思った時には時すでに遅し。花瓶を持った愛子さんと、ばっちり目が合ってしまった。あ子さんは険しい表情を見せたかと思うと、いきなり俺の腕を掴んできた。

「ちょっとこっち来て」

そう言って、屋上へと向かう階段へ俺を引っ張っていった――そして、屋上で彼女は言った。

「お願いがある。私の婚約者のふりして」

唐突なお願いにフリーズする俺。予想外の展開に、完全に思考が停止していた。あ子さんは、そんな俺に気づいたのか、ゆっくりと丁寧に状況を説明してくれた。

「あの部屋に入院してるのは、私の母なの」

偶然にも、俺が手助けしたあのご婦人は、あ子さんの母親だという。話によると、あ子さんは父親を早くになくし、母と子一人の家庭だとか――母親が病気になり、あ子さんはその治療費のためにキャバクラ嬢になったのだそうだ。だが、治療の効果はあまりなく、お母さんの体調は悪くなるばかり。「生きる希望をなくしてしまってるお母さんに、婚約者を見せて安心させたいの」

「早くいい相手を見つけて幸せになってほしいっていつも言われてて…だからお見合いも何度かしてたんだけど」

あ子さんの目は、うっすら潤んでいるように見えた。

「嘘の婚約者のふりして、お母さんに会えばいいの? 」

話を聞いて戸惑いはしたが、状況は違うものの、俺自身も親に心配されてるし、安心させたいって気持ちはよくわかる。

「そう。お見合いがうまくいって、結婚を前提に付き合ってるってことにしてほしいの」

――切実なお願いを、断るわけにはいかなかった。

「…うん。分かった」

こうして俺たちは、偽の婚約者としてあ子さんの母親に会うことになった――心の準備もできないまま病室に行き、お母さんと対面。すると――

「あなたは確か…」

お母さんは、病院で俺と会ったことを覚えていてくれたようだった。

「え、なんで二人は会ったことあるの? 」

不思議そうに尋ねるあ子さんに、お母さんは和やかに説明した。

「話したじゃない。で、気分悪くなってたところを病室まで連れてきてくださった親切な青年がいたって――あなたよね。間違いないわ」

「へえ、そうだったの? 」

あ子さんは嬉しそうに笑い、「ありがとう」そう言って俺の手を握りしめた――

「あなたが愛子のお相手だったなんて…あ子、良かったわね。優しくて、思いやりのある方とご縁があって…お母さん、これで安心していけるわ」

お母さんは、涙を浮かべて微笑んだ。

「やだ、演技でもないこと言わないでよ。しっかり治療して、私たちの結婚式にはちゃんと出席してちょうだい。孫の顔だって見せてあげるからね」

あ子さんは、俯きがちなお母さんを必死になだめていた。

「そうね。うん…お母さん、治療頑張るわ」

心なしか、目に力が戻ったようなお母さんに、一人の男として俺もほっとした――それからも、俺はあ子さんの婚約者として振る舞った。「証拠を見せなきゃ」と言って、二人でテーマパークに行き写真撮影をしたこともある。撮った写真をお母さんに見せると、本当に嬉しそうに目を細めていた。何度も病院に足を運び、二人仲のいいところを見せる――それが功を奏したのか、お母さんの顔色は日に日に良くなっていった。

「本当にありがとうね。けん二さんのおかげよ」

あ子さんは俺に頭を下げた。そして、お礼として一度料理を振る舞いたいと言う。

「一人暮らしでしょ?

けん二さん。一度お家に行って、ご馳走させてよ。こう見えても、私料理得意なのよ。肉じゃがでもハンバーグでも何でも作れるから、リクエストしてよ」

毎日コンビニ弁当で済ませている俺としては、ものすごくありがたい申し出だった。

「じゃあ…肉じゃがが食べたいな」

「うん、わかった。今週土曜の夜はどう? 」

こうして週末、あ子さんがうちに来ることになった――俺はあくまでも愛子さんの婚約者のふりをしているだけだ。あ子さんのお母さんのために――俺はそのことを、改めて頭の中で反芻した。正直、勘違いしてしまいそうになる自分もいたが、その思いを必死で打ち消した――そして週末、あ子さんがうちにやってきた。手際よく料理を作ってくれるあ子さん。肉じゃがはもちろん、おつまみにと作ってくれた副菜も絶品だった――そして美味しいおつまみを当てに、二人ともビールがぐいぐい進み、すぐにほろよい状態に。

「私、毎日毎日、本当によく頑張ってるわよね…ねえ、けん二君、どう思う? 」

頬をほんのり赤く染めながら、とろんとした目で見つめるあ子さんに、どきどきしてしまう。

「うん…そうだね。頑張ってるね」

絞り出した返事だったのだが、あ子さんはたちまち頬を膨らませた。

「もう、言葉だけじゃなくて態度で示してよ」

「え、態度って…」

戸惑う俺に、あ子さんは身を委ねてきた――「ぎゅってしてよ」「よしよしして」――ふわっと香る、香水の甘い匂いに、俺の理性は崩壊寸前…あ子さんの頭にそっと手を置いて、思い切って抱きしめようとした――その時。

スースーと、寝息が聞こえてきた。胸元にいたあ子さんに目をやると、気持ちよさそうに目を閉じている――ね。寝てる…

あ子さんは、俺にもたれかかったまま、すやすやと眠りについていた――脱力した俺は、ほっとしたような、がっかりするような複雑な気持ちで、ぐっすり眠っている愛子さんをそっとベッドまで運んだ。

嘘の婚約者である俺だけど、現実になったら、どんなにいいか――そんなことを考えながら、その夜俺はリビングのソファーで眠りに着いた――

そんなことがあった後も、俺たちはあ子さんのお母さんのために、付き合っているように振る舞った。その生活は、意外と平和で楽しく穏やか――このままずっとこの関係が続けばいいのに、と思うほどだった。**

だが、ある日突然、あ子さんからの連絡が途絶えた。電話をしても出てくれないし、毎日くれていたメールもない――そんな日が2週間ほど続き、さすがに心配になった俺は、いても立ってもいられず、病院に行ってみることにした。**

病院に行く時はいつもあ子さんと一緒だったから、一人でお母さんと会うのは初めてだった――**

「けん二さん、来てくれたの? 久しぶりね」

体を起こし、和やかに笑ってくれたお母さんだったけど、明らかに痩せていた――顔色も悪い。少し前にあった時とは、別人のようだ。**

「びっくりさせちゃったかしら…ごめんなさいね」

お母さんのあまりの変貌ぶりに驚き、一瞬表情を変えてしまった俺に気づいたのだろう、お母さんは申し訳なさそうにしながら、俺を気遣ってくれた。**

「もう先は長くないの…今までありがとうね…愛子が迷惑かけてごめんなさい」

俺に頭を下げるお母さん――**

「迷惑だなんて…そんなこと、全然」

「もう、嘘つかなくていいのよ」

え?

――嘘って? お母さんは気づいていたようだった。俺とあ子さんの、偽りの関係に。**

「あの子、優しいから、私のことを安心させようとしたのね…あなたと愛子がそういう関係ではないってことは、最初から分かっていたわ。目を見れば分かるものよ」

お母さんは俺をまっすぐに見つめた――だが、――**

「でも俺、あ子さんが本当に好きなんです」

次の瞬間、俺は思わずあ子さんへの愛情を打ち明けていた――嘘をついていた罪悪感よりも、本当の気持ちを伝えたい気持ちの方が強かったのだ。**

「けん二君…」

いつの間にか病室の入り口に立っていたあ子さんが、俺の名前を呼んだが、俺は構わず続けた。**

「そりゃ最初は、あ子さんに頼まれて始めた婚約者役だったけど、今ではあ子さんのことを心から愛しています。れは本当です」

必死な俺に、お母さんはうんうんと頷いた。**

「ありがとう…それが分かっただけで、嬉しいわ…あ子のこと、よろしくね」

お母さんは、ベッドの端に立つ俺の手を取り、優しく撫でた――「これからが、本番なのよ」――そして、**

「ちょうどお昼の時間だし、二人で食事してらっしゃい…私は大丈夫だからね」

お母さんは、立ち尽くしたままのあ子さんに声をかけた――俺たちは、売店でサンドイッチを買い、屋上に向かった。**

「お母さん、もう長くないんだって…手術しても成功する確率は低いらしくて」

あ子さんは、涙目で呟いた――**

「くだらないことして、お母さんのこと騙したバツが当たったのね…きっと、私のせいでお母さんがいなくなっちゃう…やだ…どうしよう…私、一人になっちゃう」

パニック状態で泣き始めた愛子さんの肩を、俺はしっかりと抱いた――**

「あ子さんのことは、俺が一生かけて守る…結婚してほしい…俺が支えるから」

あ子さんの震える背中をさすりながら、思い切ってプロポーズした俺に、あ子さんはしゃくり上げながらも、――**

「けん二君…本当に嬉しい…ありがとう」

子供のように泣き続けるあ子さんを、俺はずっと抱きしめていた――こうして、本当の婚約者になれた俺たちを、お母さんも心から祝福してくれた――そして、万に一つの確率をかけて、お母さんは手術を受けることを決意した。**

とはいえ、手術をしても予後はわずかと言われており、俺たちも覚悟はしていた……だが、術後のお母さんは、医師も驚くほどの回復力を見せた――病室の曇天とした空気はすっかり消え、なんと半年後には退院することができたのだ。**

「お医者さんが、まるで奇跡だって驚いてたわ…うちに帰ったお母さんの隣で、あ子は嬉しそうに笑っていた」

「二人のおかげね…夢のまた夢って思ってた孫の顔も見られるかもしれないなんて、本当に幸せよ…男の子かな? 女の子かな? 楽しみだね」

そう――プロポーズから3ヶ月後に結婚式を挙げた俺たち。愛子のお腹には、今新しい命が宿っている。

第一印象は最悪――そして嘘から始まった俺たちの関係だったけど、こうなることは運命だったのかもしれないな。**

ちなみに、結婚当初から飼い始めたのは、小さな三毛猫と、黒い柴犬。猫派だったはずの愛子だけど、今では忠誠心溢れる柴犬を溺愛しているし、俺は三毛猫の愛らしい仕草に毎日癒されるという、初めての経験をしている――いろんな偶然が重なり、結ばれた俺たち。これからも、何気ない日々を大切に、幸せに過ごしていけるよう頑張るつもりだ。**

そして、もう一つ、俺には知られざる過去があった――英語にコンプレックスを持っていた俺は、外資系の会社を避けて就職した。そんな俺に、アメリカ人女性の上司がやってきた――なるべく関わらないようにしていたのだが、ある仕事を一緒に担当することに…一緒に行った出張先の隣が、まさかの彼女の実家…彼女に連れられていくと、母親が『ボーイフレンド?

』と聞くや否や、彼女は自信満々に『イエス』と答える――どうしてこんなことになってしまったのか…。

俺の名前は、橋本直樹。27歳。IT企業に務めるシステムエンジニアだ――俺は昔から口数が少なく、後ろ向きな性格だと自覚している。だから団体行動が必須の部活動やチーム競技が嫌いだった――かと言って、運動が苦手な俺は個人競技も得意ではない。スポーツ全般が苦手だった俺は、体育の成績も悪かった――自然と一人で遊ぶようになり、単独行動を好むようになったのだ。家で一人で過ごす時間は、最高のご褒美タイム――外出自体も、無理にしようとは思わない…出かけるとしたら、外食か映画鑑賞くらいだ…もちろん、どこに行くにもお一人様。**

初対面の人には極度の人見知りをしてしまい、人の目を見て話そうとしてもついおどおどしてしまう――接客業なんて、絶対に無理だ…自分でもそれは分かりきっている…だから、一人で作業を進められて、なるべく人と関わらなくて済むシステムエンジニアという仕事を選んだ――高校生の時から独学でプログラミングを勉強して、大学は情報学系の学部へ進学した――システムエンジニアはソフトウェアの設計や開発を専門としている…俺の性格を考えると、設計書をもとにプログラミングをするプログラマーの方が向いていた‥実際、プログラマーなら限られた人間とだけ接するだけで済む…だがシステムエンジニアは、設計するにあたってクライアントと連絡を取らなければならない――要望を聞き出し、対処したい課題を聞き取ることが重要だからだ…要するに、クライアントと綿密な打ち合わせをする必要性が出てくる…また、システムを構築していく過程でもコミュニケーションを取る機会が多い…割と高いコミュニケーションスキルが求められるので、俺にとっては非常にストレスが伴う職種だ…ただ、プログラミングを専門としているプログラマーよりもシステムエンジニアの方が、年収が高い場合が多い…正直言って、俺一人が生きてくだけなら、収入にこだわるつもりはない…俺は大学3年生の時に、父親を病気でなくし、母子家庭になってしまった…俺自身の学費は、父親が残してくれたお金で大学を卒業することができたが、10歳下の弟の大学進学費用は、厳しい…母もそれを見越して、女手一つで働いてくれたが、限界はある…それでも俺は、弟も自分と同じように十分な教育を受けさせてやりたいという思いがあった――「俺が学費を稼ぐよ」――そう母親に宣言した。**

そう言ったからには、それなりの給料がもらえる就職先を見つける必要がある…就職活動の際、アットホームな職場を売りにしている会社や、同族経営の会社は避けた…職場の人間関係は、気迫な状態を維持できる環境が理想的――その中で、少しでも俺のことを高く評価してくれる会社を選ぶ…多少の妥協は仕方ないと思うが、一つだけ譲れない条件がある――それは、外資系ではないということだ…俺は英語にコンプレックスを持っているから、どうしてもそこは避けたかった…慎重に選んだ会社だったが、まさかあんな展開が待っていたとは――あるIT企業からの転職で、俺の上司になったのが外国人だったのだ。**

彼女の名前は、スーザン・ハワード。31歳。アメリカ人の彼女は、IT企業での専門職でキャリアアップを目指しているそうだ……この業界は、こういった理由で転職する行為は珍しくない……また引き抜きも多く、条件が合えば気軽に転職を繰り返す渡り鳥のような人もいる……スーザンは、うちのチームにチーフエンジニアとして配属された――両親共にアメリカ人という生粋のアメリカ人だが、彼女は幼い頃から日本で育ったらしい…スーザンは、ブロンドヘアーで鼻が高く大きな瞳、周りの人を圧倒する美貌を持っていた…やや厚めでぽってりとした唇が、妙にセクシーだ――などと言って、同僚の何人かはしゃいでいた…日本語もペラペラだから、英語でコミュニケーションを取る必要はない…それでも俺は、なるべく彼女と会話することを避けていた…あの透明感のあるグリーンの瞳で見つめられると、俺は勝手に気まずく感じて、すぐに目を背けてしまう――元々人見知りなところに、相手が外国人となると、体が勝手に拒否反応を起こしてしまうのだ…しかしスーザンの方は、そんなことはお構いなしに、ぐいぐいと距離を詰めてくる――それまでチームは苗字に『さん』付けで呼び合っていた……それなのに、スーザンがチーフになってからは、ファーストネームで呼び合うことが習慣になっていった……「直樹のヘアはプリティね」――スーザンは髪型などをいじっては、よく俺のことを『プリティ』だと言ってきた…アメリカ人から見れば、日本人は年齢よりも若く見えることは理解している…それに加え、童顔だった俺はスーザンから『ボーイ』とからかわれることも多かった……スーザより4歳も年下で童顔の俺を、同僚男性として対等に見れないのかもしれない……とは思うが、やはり馬鹿にされているという思いが拭いきれなかった……スーザが着任してから3ヶ月ほど経った、ある日のこと――俺は彼女と一緒にある地方都市へ出張に行くことになった…行政が運営する公立図書館のシステムを、新たに構築し直したいという依頼だった…ここ数年は、先方のネットワーク環境が整っていたり、ITに強い企業であれば、会議もリモートで進めることが多くなってきている…しかし、まだ公共施設などは、担当と直接会って打ち合わせを望む場合が多かったのだ…図書館の館長である和田さんは45歳…あの世代の人はパソコンスキルは普通程度だと思うのだが、和田さんは珍しく機械音痴の様子だった……俺はコミュニケーション能力が高くないので、この手の打ち合わせは正直言って苦手だ……だから今回は、社交的なスーザが一緒で俺も助かっている…メインの話はスーザに任せ、俺はソフトウェアの説明などのサポート役に徹することができた……最初、チーフエンジニアがアメリカ人だということに和田館長は戸惑っていたが、スーザンの流暢な日本語を聞き安心したのか、その後は話がスムーズに進んだ…その結果、全面的に俺たちに任せてくれるという好条件を得られた……いつもの職場での接し方から関わりたくないと思っていたが、この出張でスーザへの印象が、いい方向へと変化する…顧客の心を掴むのがうまいスーザンと、サポートが得意な俺――ビジネスパートナーとしてなら、いいコンビなのかもしれない……この時俺は、少しだけ期待を持てた気がした……しかし、これも撤回したくなる出来事が起こったのだ――**

図書館での打ち合わせを終えた俺は、直帰するつもりで準備していた――するとスーザンが、いきなり俺の袖をぐいっと掴んだ…そしてそのまま、なぜか隣の建物へと引っ張っていかれた……そこは、ハンバーガーの縦看板がある…いかにもアメリカンな店──「ここ、私の実家なの」――打ち合わせをした図書館は、偶然にもスーザの実家の隣だったのだ……この時の俺は、ハートが豆を食ったような顔をしていたと思う――「アイムダディ! マミー! 」――いつの間にかスーザンは俺の腕に手を絡めていたので、俺まで一緒に店内に入っていた…スーザンの両親らしきアメリカ人の男女が、盛大に出迎えてくれる…目の前で繰り広げられるネイティブ英語の会話に、俺はたじろいでしまう……スーザンは俺に、父のトーマスと母のマリーを紹介してきた……だが、間が悪いことに、俺は思いきり大きなお腹の音を響かせてしまったのだ……「おっ、お腹空いてるんだな! 」トーマスは得意げな笑顔で言うと、厨房へ入っていった…どうやら俺に自慢のハンバーガーを振る舞ってくれるつもりらしい…はあ…帰るタイミングを逃してしまい、諦めて席に座った……するとなぜかスーザンは俺の隣に座り、マリーは向かいに座る……それからスーザンは、ざっとではあるがハワード家について話し始めた――トーマスは昔、ここの近くにある米軍基地に派遣されていた大酒軍人だそうだ…その頃、日本の大学に留学していたマリーと、在日アメリカ人のコミュニティで出会ったらしい…二人とも日本の景観や文化を気に入っていて、ずっと住みたいと考えたそうだ……マリーが大学を卒業する時期にトーマスも日本での任期を終えたので、一旦帰国し、アメリカで結婚……そしてスーザンが生まれ、5歳くらいまではアメリカで過ごしていた……退役していたトーマスは、セカンドキャリアとして日本でハンバーガー店を経営している地元の名物店主となった……スーザンと弟のトムは、そんな両親と一緒に日本に移住……それからずっと日本で暮らしているそうだ……トーマスは60代になっても現役で働いている……トムは両親を手伝っているということだったが、この日は用事があって休んでいた――スーザンの家族の話が終わったら、流れ的に俺の番になるのだが、何を話せばいいのかわからない……その時、マリーが俺の方に手をかざし、スーザに問いかけた――**

「ボーイフレンド?

そういえば、さっき隣の図書館に仕事で来たことや、俺が部下だということは話していた……俺は英語を話すのは苦手だが、ヒアリングは得意な方だ……スーザンが家族に紹介したことで、マリーは俺のことをただの部下だと思っていなかったようだ――**

「イエス」

スーザンが大きな声で返事をすると、マリーは満面の笑みで頷く――**

「は? 」

全く身に覚えのない俺は、驚いて声が出てしまった――慌てて否定しようとすると、タイミングよくトーマスがテーブルにお皿を運んできた……口を全開に開いても入りきらないくらい大きなハンバーガーとフライドポテトが、皿の上に山盛り――**

「さあ、熱いうちに食べて」

嬉しそうに微笑むスーザの様子で、父親の作った料理が自慢なのだと伝わる……よだれが落ちそうなほど美味しそうだ……俺は反論する言葉を飲んで、ハンバーガーにかじりついた――**

「う、うまい…こんなの初めて食べた」

バンズが薄いファーストフードのハンバーガーしか食べたことがない俺にとっては、初めてのグルメバーガーだった……俺がこれまでに食べた中で一番美味しいハンバーガーだ……これはお世辞でも故調でもない……そんな俺の反応に、スーザンだけでなくマリーやトーマスもとても喜んでいた……俺は夢中になって食べ、あっという間に完食……お腹が満たされた俺は、さっきの勘違いを正そうと口を開く――**

「あの…俺のことをボーイフレンドって紹介してたけど、それは文字通り男の友達ってことですよね…? 」

明るくてフランクなスーザのことだから、同僚の俺のことを男友達という意味で紹介したのだろう……俺とスーザンは仕事上の付き合いしかないのだから、恋人という意味ではないはずだ…念を押す――**

「ノー。直樹は私のボーイフレンドでしょ」

「え? 」

俺とスーザンの認識の違いに驚く……どうしてそんな展開に?

むしろ俺はスーザのことを避けてたのに……どこをどう受け取ったら、そういう解釈になるのか……俺は理解に苦しむ――**

「私、いつも直樹にプリティって愛情表現してたよ」

「はあ…俺、からかわれているんだと思ってました……」

あの『プリティね』が愛情表現だったとは……俺に伝わっていなかったことに、スーザンはショックを受けていた――**

「直樹も笑っていたから、私のことを好きだと思っていたわ」

「え、そんなわけないじゃないですか」

思わず強く否定してしまった……はっとしてスーザの様子を見ると、目に涙を浮かべている――女性を泣かせてしまった経験がない俺は、どうしていいか分からずにうろたえてしまった……幼い頃に日本に移住して日本文化に触れているスーザンなら、社交辞令が通じると思っていたのに……しかしスーザンは、裏に本心が隠されているとは思わずに、言葉のままに受け取っていたようだ――**

「オーマイゴ…」

トーマスはオーバーなくらい肩をすぼめた――**

「あらあら、スーザンはブロークンハートね…」

マリーはスーザンの背中をさすりながら、娘と一緒に嘆いた……俺が悪者の構図が出来上がってしまい、気まずくて下を向く……だが、その雰囲気を一変したのは、一番傷ついているはずのスーザだった――**

「大丈夫…これから好きになってもらえばいいのよ」

スーザンは、恐ろしく前向きなことを言ってきた……これから俺にアタックし続けるという宣戦布告だ――**

「これからは、上司としてだけではなく、一人の女性としても見てね」

そう言って、可愛らしいウインクをした……俺の胸は、どきっと跳ね上がる…慣れない状況に、俺はうろたえることしかできなかった……だが、この日を境に、俺はスーザンのことが気になり――そして、翌日からスーザンとペアを組んだまま、図書館の仕事を進めることになった――毎回というわけではないが、スーザの実家のお店によるのも恒例になりつつあった……トーマスとマリーは、俺のことをすっかりスーザンの未来のボーイフレンド扱いしている……そのせいか、あの時いなかったトムとも俺は親しくなった……図書館までの移動時間など、職場以外でのスーザを知るようになると、それまでの彼女のイメージが覆っていく……スーザは、見た目は純粋なアメリカ人だが、中身は日本人よりの性格のようだ――リアクションや表情はオーバーで、陽気なアメリカ人だと思っていたが、周囲が求める人物像に答えているに過ぎなかった……そんなある日のことだ――**

「ねえ、直樹」

その日は打ち合わせ終了後、直帰許可が出ていたので、俺たちはまたスーザの実家に立ち寄った……**

「前から疑問に思ってたんだけど…直樹はどうして、英語ができないふりをするの? 」

「え? 」

そんなことを聞かれたのは初めてで、俺は面食らってしまった――**

「あの日、ハワード家で話した時も、直樹の英語はとても発音が良かった…できない人には聞こえなかったよ? 」

ネイティブアメリカンに褒めてもらえるのは素直に嬉しい……だが、それとは別に、苦い思い出が蘇える……俺はしぶしぶ、説明を始めた――**高校生の時、人前に出るのが苦手にも関わらず、学校代表で英語コンテストに参加したことがあったのだ…上位に入賞すれば、大学の推薦枠を得るのに有利だと聞き、挑戦した……父がする前から経済的に裕福とは言えなかったので、入試の時に払う受験料を出さずに済む推薦入学は魅力だったのだ……それに、成績優秀者は奨学金制度の利用に大きく近づけるというのも理由の一つにある……頑張った甲斐あって、俺は余裕で入賞することができたのだ……しかし、ディベート大会では、自分の主張をうまく伝えることができず、言い任されることが多かった……チーム戦だったから、他のメンバーのおかげで勝つことはできたが、俺が足を引っ張っていたことに変わりはない……しかも、ライバル校の出場者にも、裏で見下されて――**

「決まった原稿を喋るだけなら、誰でもできるんだよ」

俺は何も言い返せなかった……**

「ほら、何も言い返せずにだまりだ…英語はコミュニケーションツールとして活用しなければ意味ないんだよ」

こいつは、スピーチコンテストで俺に負けたのが面白くなかったようだ……だから自分が優位に立てる話題で、俺に喧嘩を吹っかけてきたのだろう……気が弱い俺は、何も言い返すことができなかった……むしろ、相手の文言を、その通りだとさえ思って受け入れたのだ……ディベートで必要な英語が、出てこないことが多かったのは事実なのだから……そんな俺が英語が得意と言っても説得力がない――と、自信をなくしてしまった……それからだ……人前で英語を話すことに恐怖を覚えたのは……こういうことがあったから、俺は英語にコンプレックスを持ってるんだ――この話を人にしたのは、初めてだった――**

「分かるわ…」

意外な言葉に、思わず声をあげてしまった……「へえ、なら気にすることない」と一周すると思っていたからだ……**

「私も日本に来たばかりの時、慣れない日本語で苦労したから…」

スーザンは、暗い表情をする……そりゃそうか……生粋の日本人の俺が英語で苦労したように、生粋のアメリカ人のスーザンも、日本語で苦労するのは当然だ……アメリカで生まれたスーザが、両親の都合で日本に移住して、大きな不安を抱えないわけがない……言葉や言語や文化が全く違う環境に来たのだから、まるで異世界にでも移り住んだような感覚だったのではないだろうか……**

「自分だって大変なのに…スーザンはいつも、僕がいじめられていると助けてくれたんだ」

その日店に出ていたトムは、子供の頃の姉の武勇を、誇らしそうに話した――近くに米軍基地がある……この土地の住人は比較的アメリカ人に馴染みがあると思っていたが、外国人へのいじめがあるんだな……幼い頃の二人への差別みたいなものに、俺は痛み入る思いを感じた……まあ、最も俺自身も、つい最近までスーザンのことを『アメリカ人』と言うだけで苦手意識を持っていたっけ……今思えば、俺って恥ずかしいことしてたな。**

「トムだけは、私が守らなきゃって思ってたの」

そう言って、スーザンはトムに愛情深い視線を注ぐ――そんなスーザを見て、俺が弟に向ける感情と同じだと気づいた……俺にとって家族は、何よりも大切なものだ……そんな俺と同じくらい、スーザンも家族を大切にしている……俺は改めて、スーザンのことを素敵な女性だと感じた――**

「ねえ、直樹…」

「…はい?

「直樹は、笑った顔が一番プリティだよ」

直球で愛情表現してくるスーザンに、どぎまぎしながらも、俺は期待に答えるように微笑んだ……スーザンが配属されてきたばかりの頃、俺は彼女のことを『脳天気なアメリカ人』という認識を持っていた……しかしこの半年、スーザンと一緒に仕事をすることで彼女のことを深く知り、俺は浅見で見ていた自分に気づく……きっとスーザの明るさは、辛い経験や苦しみを乗り越えてきた強さから来るものだろう……だから彼女は強いし、人に優しくできるんだ……**

倉庫をしているうちに、図書館の仕事の納品日を迎えた……会社でも試験運用をしてきたが、現地でも試験を重ね、無事に納品完了……機械音痴の和田館長からも「扱いやすいシステムを構築してくれた」とお褒めの言葉をいただいた……嬉しい言葉に、自信を持って終えられたと思ったのに……心地いい気分のまま帰ろうとしたが、まさかの和田館長がナンパを仕掛けてきたのだ――**

「このままお別れするのは寂しいなあ…個人的な連絡先を教えてくれませんか」

彼女に言ってきたのだ……コミュ力高いスーザンは、相手が不快にならないようにやんわりと断る……しかし和田館長は、しつこく食い下がってきた――**

「金髪碧眼の外人さんに、一回でいいから手合わせ願いたいでしょ? 」

和田館長は、セクハラまがいの言い回しで口説き始めた……スーザの仕事ぶりや人柄を評価して好感情を持ったのならまだいい……だが、外国人女性に対する興味本位で誘っている下品さに、腹が立った――**

「あの、実は俺が彼女のパートナーなので…では、これで失礼します」

俺は一礼すると、スーザンの手を引いて背を向ける……**

「おお、興奮するなあ…俺も日本人以外と、そういうことをしてみたかったんだよねえ」

俺たちの背中に向かって、和田館長が余計な言葉を投げかけてきた……そんな挑発に乗るものか……俺はスーザンの手を引いたまま、ずんずんと歩いて外に出た――**

「スーザン…和田館長が言った言葉の意味、分かった? 」

「…ええ。外国人女性の尊厳を踏みにじる、失礼な言葉だったわ」

やはり日本語を完璧にマスターしているスーザには、分かってしまったか……あんな悪質な言葉、スーザンには理解してほしくなかった……**

「あのさ…日本人男性がみんな、和田みたいだとは思わないでほしいんだ…」

俺がこう言うと、スーザは大爆笑した……日本人男性を代表したかのような言い回しが、いけなかったのだろうか……一しきり笑うと、スーザンは魅力的なグリーンアイで俺を見つめる――**

「分かってるわよ…それよりさっき『彼女のパートナー』と言ったのは、方便ってやつかしら? 」

俺は小さく首を横に振る……**

「いや…できれば、現実にしたいと思ってる」

俺が顔を真っ赤にして答えると、スーザンも頬を赤く染めて頷き、俺に抱きついてきた……そして――そこはなんと、スーザの実家の店の真ん前……全面ガラスになっている店内から、俺たちの様子は丸見え……マリーとトムがすぐに店の外に出てきて、俺たちを祝福しながらも冷やかす――そして照れながら店内に入った俺を、待ち構えていたようにトーマスがハグしてきた……喜びのハグかと思ったが、かなり力が込められたハグに、父親の嫉妬も含まれているんじゃないかとか思ってしまう……ハワードの家族愛を改めて実感する……「スーザのことを、大切にしなくちゃな」――俺はそう心に誓う――**

こうして俺とスーザンは付き合い始めた――そしてそれから2年後に、俺たちは結婚した……俺としては、弟が大学を卒業してからと思っていた……だが――**

「そんなことじゃ、私がおばあちゃんになっちゃうわ」

スーザンがそう言って、逆プロポーズしてきたのだ――若ければ若いほど価値があると刷り込まれた日本人女性とは違い、年齢を重ねれば重ねた分だけの魅力があると、スーザンは知っている……だが年齢を重ねると出産へのリスクがあることも、スーザンは分かっていたので、逆プロポーズをしてきたのだ……愛情溢れる家族で育った彼女のことだから、自分の子供を持ちたいというのは当然だと思うし、俺も共感できる……だから俺は納得した上で、スーザンと結婚した……**

スーザンは、俺の母と弟のことも、自分の家族のように大切にしてくれている……トーマスが作るハンバーガーのファンである俺は、結婚してからもせっせとハワード亭に通う……今の俺に、英語へのコンプレックスはない……学校で教わった英語ではアメリカ人に伝わらないことが多く、俺は随分狭い世界観に囚われていたのだと思い知ったからだ……それを気づかせてくれたハワードファミリーと、俺の母と弟……俺たちの結婚で、一つ屋根の下、本当のファミリーとなった……来年には、子供が生まれる予定だ……とにかく、日本人は愛情表現が希薄だと言うが、俺は生まれてくる子供や家族には、オーバーなくらい愛情を伝えていこうと思う……それが、俺の目指す家族の形だから……。

今日は、『ありがとう』という感謝の気持ちの話をしたいと思う――公務員という安定した職についていた俺は、突然その安定とは真逆の仕事をすることになってしまう……高級なマンションから、ボロボロのアパートに移り住むことになるし、壁が薄いから、隣の家の声は丸聞こえ……そんなトラブルだらけの中、俺は一人の女性と出会う……それはアパートの隣に住んでいる人なのだが、この女性との出会いが、俺の人生を大きく変えることになる――**

「ちょ、ちょっと…これ絶対あいつがやったんだ…」

俺の名前は新太郎。今年で35歳になる…仕事は公務員で、収入も安定しているし、よっぽどのことがない限り首にもならない……俺は自分の将来は安泰だと思っていた……一人暮らしだというのに、結構いいマンションにも住んでいる……今はまだ独身だけど、音楽やスポーツ等の趣味にも恵まれ、俺は自分の人生を割と気に入っていた……独身とは言ったけど、これまで彼女がいなかったわけではないし、週末には同期や友人を家に呼んで、ホームパーティーもよくやってた……とにかく俺にとっては、今の仕事とマンションがすごく大切で、なくてはならないものだった……しかし俺はこの両方を、手放すはめになる――それは、ある日のこと……突然母親から連絡が入った――**

「新太郎、大変!

おじさんが…」

「分かった。仕事を終わらせてすぐに行くよ」

親戚である俺のおじさんが、交通事故にあったという……そのおじさんは、息子が欲しかったのだが、残念なことに娘に囲まれてしまい、俺のことを実の息子のように可愛がってくれていた……そんな人の一大事だから、駆けつけないわけにはいかない……しかし、事故の際打ち所が悪かったらしく、俺が病院に着いた時には、もう手遅れだった……**

「これから…どうなるのかしら? 」

母がぽつりと呟いた……その議題は、葬儀中も親戚同士で議論になっていた……**

「まあ、おじさんがやってた旅館のことね…でも、誰か継ぐのかな? 」

俺の両親はもう高齢で、これから旅館を継ぐなんて到底不可能だろう……親戚の中には若い者もいない……仕方ないけど、畳むしかないんかね…――**

「あんた、昔よく遊びに行ってたのよ…覚えてる? 」

母からそう問いかけられたが、俺は当然覚えている……俺にとってあの旅館は、大切な記憶の一つだから……客室の畳の香りや、木製の階段のきしむ音……決して大きな旅館ではなかったけど、俺は大好きだった……第二の家と言っても過言ではない……そんな旅館を、潰すわけにはいかないと思った――**

「じゃあ…俺が旅館を継ごうかな」

「あんた、それ本気で言ってるの?

俺の発言に、母だけでなく親戚中が驚いていた……**

「まあ、なんとかなるでしょう…旅館に女将さんがいたよね…その人から仕事は教えてもらうから」

「ああ、確か…お内儀の妻だったかしら…」

そんなことで、俺の第二の人生が始まった……しかしそれは、あれだけ大切にしていた仕事もマンションも捨てることを意味する……さらに想定外だったのは、おじさんが亡くなったことによって、従業員の半数が退職してしまったのだ……みんな、旅館が潰れると思ってやめてしまったらしい……旅館の女将であり、おじさんの内儀の妻だった人も、そのうちの一人だった――**

「この旅館を継いでもらえるのは、とても嬉しいんだけど…私が今までやってこれたのは、あの人がいたから…引き継ぎが終わったら、私もここを去るつもりよ」

はっきりとそう言われてしまった……このように、俺の第二の人生は、最初から問題だらけだった……俺は旅館の近くに部屋を借りて、近くのボロボロなアパートに引っ越してきた……これまでの生活とは全く違い、俺は気分が落ち込んでいた……しかも、俺よりはるかに若いであろう隣人の女性が、かなりの頻度でイケメンを部屋に連れ込んでいる……見ず知らずの人に八当たりするなんてダサいってことは分かってる……旅館を継ぐと決めたのも、ここに住むと決めたのも、俺自身だ……しかし、思ってたより大変な旅館の経営に、俺のストレスは溜まっていき、隣人から挨拶をされても冷めた返事しかできなかった……彼女が全く悪くないことも分かっている……悪いのは、彼女の生活や若さを妬んでいる、俺自身なのだ――**

引っ越しから1ヶ月ほどが過ぎた、ある日のこと……時刻はすっかり深夜になっていたのだが、ボロいアパートの壁は薄く、例の女性の部屋から、男性の大きな声が聞こえてくる……それもどうやら一人ではなく、複数名が家にいるようだ……幸いなことにまだ眠気はなかったが、しばらくは眠れそうにない……結局その晩、隣の部屋からの声は止まず、俺は耳塞ぎをしてイライラしながら夜を乗り越えた――**

「ああ、腹立つな…今度あったら、直接伝えよう…」

俺はイライラしながら仕事に行くため、ドアを開けた――**

「え? あ、あなたは? 」

ドアを開けると、俺を待ち構えるように隣人女性が立っていた……さっきまで文句を言ってやろうと思っていたのに、突然の出来事に驚き、そんな気持ちもなくなってしまった……しかもその彼女は、とても申し訳なさそうな表情で立っている——**

「私は隣に住んでいる、はなと申します…昨日はうるさくしてしまい、本当にすみませんでした」

「いや…別に、気にしてないですよ」

「そのお詫びと言ってはなんですけど…よかったら、これ召し上がってください…ちょっと昨日作りすぎてしまって、」

はなはビニール袋にいくつかのタッパーを入れていて、その中には冷凍されたカレーが入っていた……**

「これは…カレーですか? 」

「はい。1ヶ月くらいは持つと思うので、食べたい時にチンしてください…では、私はこれで失礼します」

「あ、ちょっと…」

俺は彼女を呼び止めたが、部屋に入って行ってしまった……カレーか……俺の大好物なんだよな——数分前まで文句を言おうと思っていたのに、俺はすっかり毒気を抜かれていた……そして、彼女からもらったカレーを食べ、その美味しさに、俺は隣の部屋にちょくちょくやってくるイケメンに本気で嫉妬していた……市販のカレーだけでは、こんな味は出せないはず……料理に疎い俺でも分かるほどだった……ちょっと待てよ、これが『胃袋を掴まれる』という現象なのか……俺はこの時すでに、はなに会いたいと思っていた——**

その翌日――**

「あ、おはようございます」

「おはようございます」

俺の出勤のタイミングと、彼女の玄関掃除のタイミングが重なった……挨拶してみたはいいが、これまでの自分の態度を思い出すと、それ以上何を話したらいいか分からなくなってしまった……**

「カレー、食べてくれましたか?

一人で勝手に煩悶している俺に、はなの方から話しかけてくれた――**

「ああ、戴きました…本当に美味しかったです」

「まだ全て食べきったわけじゃないですけど、空になったタッパーは洗って持っていきますね」

「いや、そんなに急いでないので、いつでも大丈夫ですよ」

俺たちの会話は少しずつ増えていき、はなのプライベートの話までするようになった――**

「はなさんは、今日はお休みですか? 」

「お休みというか…私、今、無職でして…あ、でもちゃんと理由があって…前職での競争と嫌がらせに耐えられなくなったんです…それで、しばらくの間休もうと思ったんです…まあ、情けない話なんですけどね」

「なるほど…無職じゃなくて、療養中ってことですね」

「確かに、その表現の方がいいかも…」

話し方も雰囲気も穏やかな彼女と話していると、なんだか心が落ち着いてくる……ちなみにはなは、俺よりも10歳も年下だった……**

「ちなみに…仕事って、どんなことをされていたんですか? 」

「飲食系ですね…そこは女性ばかりで、競争意識が高い人ばかりでした…自分が一番って思っている人しかいなくて、私はそれが苦手だったんですよね…」

「それで、仕事をやめてここに越してきたんですか? 」

「はい…ここは私の地元なんです」

「へえ…地元なのに、実家には帰らなかったんですか?

「はい…うちの両親はとても厳しくて、無職なんて、とてもじゃないけど言い出せません…」

「なるほど…実は僕も…あ、やばい、もうこんな時間だ…仕事に行かなくちゃ」

「あ、足止めしてしまってすみません…お仕事、頑張ってくださいね」

この日以降、俺たちの立ち話が日常となり、俺が仕事に遅刻しそうになるのも日常になった……それだけ、俺ははなとの会話を楽しんでいたのだろう——一方、仕事の方はと言うと、旅館の経営には慣れてきたが、客足が少ないことや人手不足という問題は変わらなかった……俺は経営しながらお客さんのお迎えして、客室にご案内もする……時には料理の盛り付けや配膳の手伝いをすることもある……そんな状況が続き、俺は体力的にも精神的にもボロボロになっていた……昔のように趣味を楽しむ余裕など全くなく、家に帰ったら倒れるように眠るだけ——こんな毎日を送っていた時、はなの部屋から女性の声が聞こえてきた……しかもその声は、話し声とかではなく喘ぎ声のようなもので、俺の気持ちは一気に高まった——部屋の壁が薄いことは、彼女も十分理解しているはず……だからこの前も、俺に謝罪をしてきたのだろう……それなのにどうして——俺の心の中は、興奮や嫉妬が混じって、ぐちゃぐちゃになっていた……どうせ、いつものイケメンだろうな……しばらくして声は収まったものの、俺は隣の部屋の様子が気になって、なかなか寝つけなかった……「今度あったら、注意してみようかな」――そんなことを考えているうちに、夜は明けていた——そしてチャンスは、すぐに訪れた——その日の朝、俺ははなに出会った……どうやら彼女は玄関の掃除をするのが日課らしい……**

「おはようございます」

俺はあえて、にこにこ微笑みながら挨拶をした……**

「頂いたカレー、全部完食しましたよ…またいつか、お願いします」

俺がそう言うとはなは、嬉しそうに笑っていた……しかし本題はここからだ——**

「あ、あの…実はですね…」

「はい…どうかしましたか? 」

「昨晩、はなさんの部屋の方から声が聞こえてきまして…きっとあれの最中だったんだと思うんですけど…どうしても壁が薄いから気になってしまって…はなさんのためにも、少し注意をされた方がいいのかなって…」

俺が恐る恐る言うと、彼女は恥ずかしそうに顔を真っ赤にしていた——**

「え、聞こえてたんですか? …恥ずかしい…で、でもこれには深い理由がありまして…」

はなが話を続けようとすると——**

「おい、さっきからうるせえぞ」

はなの部屋から出てきたのは、例のイケメンだった……**

「うん…その人は誰? 」

「こちらはお隣の新太郎さん…そんなことより、あんたのせいで大恥書いたじゃない!

「ああ、人のせいにすんなよ…そもそも何のこと? 」

「昨日の夜、大音量で流した動画のことよ! 新太郎さんの部屋まで聞こえてたらしいわよ! 」

どうやら、昨日のあの喘ぎ声は、はなのものではなく、成人向け動画の声だったらしい……俺はそれを知って一安心だったが、気になる女性とその彼氏との喧嘩を見ていると、メンタルがやられてしまいそうだ……**

「そんなこと言って、姉ちゃんだって興味真々身々で見てたくせに…」

「ちょ、ちょっと、もうそれ以上言わなくていいから、部屋に戻っててよ!

本当に空気の読めない弟なんだから…」

「え? …ひょっとして、弟さんですか? 」

「はい…実は、弟なんです…恥ずかしいところをお見せしてしまい、すみません」

はなが部屋に連れ込んでいたイケメンは、彼女の実の弟だった——**

「先日、私が仕事を辞めた話をしましたよね…まだ両親には言ってないんですけど、あいつにだけは話したんです…だからあいつは、私のことが心配になって、しょっちゅう家に来るんです」

先日彼女の家が騒がしかったのも、弟やその友達が、彼女を元気付けに来ていたらしい……昨夜の動画も、彼女を元気づける一環だったという……**

「私を笑顔にするためなら何でもする、弟なんですよ…本当にすみません」

「いや…いい弟さんじゃないですか…あれくらい元気な方が、一緒にいて楽しいですよね」

「そうですかね…元気すぎて、ちょっと困ってます」

その日の俺は、いつもより笑顔で仕事ができた……そしてその晩は、珍しく自炊まで楽しんでしまった——カレーをくれたはなに感化されて、久しぶりに料理をしたくなったのだ……俺はキッチンの窓を開け、自然の音を聞きながら、心地よく料理をしていた……「住めば都」という言葉があるように、あれだけ嫌だったこのアパートも——虫の声や、階段のきしむ音も、今ではもう、風情として気に入ってきた——**

「じゃあ俺、帰るから…なんかあったら連絡して」

窓を開けていることもあって、近隣の声もよく聞こえてくる……この声は、はなさんの弟だ——今日はもう帰るんだな……俺が独り言を呟いていると、廊下にはながいたようで、俺に声をかけてきた——**

「おや、新太郎さん、なんかいい匂いがしますね…自炊もされるんですね」

「あ、はなさん、こんにちは…本当にたまに料理はするんですよ…今日は、豚の角煮を作ってるんです」

「へえ、そうなんですね…じゃあ今日は、私が美味しくできてるか、味見してあげますよ」

今日のはなは、いつになく機嫌が良さそうで、やたらと味見を所望してきた——**

「え、いいでしょ…この前は私が自分のこと話したので、今日は新太郎さんの番ってことで」

「分かりました…この前のカレーのお礼ってことで、食べていってください」

こうして、はなが家に来る事になった——すると彼女は宣言通り、無数の質問を投げかけてきた——**

「新太郎さんは、どこから来たんですか? 」

「年齢って、私よりは上なんですよね?

「以前は公務員だったので、県の中心に住んでいました…年は、今年で35歳ですね」

「へえ…公務員だったんですね…すごい…それに、新太郎さんは私より10歳も年上なんだ…見えないですね」

「そんなこともないと思いますが…ありがとうございます」

はなは、さっきまでお酒でも飲んでいたのかと思うほど、テンションが高かった——**

「あれ? 今日ははなさん、酔っ払っています? 」

「いえ、全然シラフですけど…たまには、こんなテンションの日もありますよ…でも、どうして公務員をやめちゃったんですか? 」

「ああ、それはその…」

ぐいぐい来るはなに圧倒された俺は、旅館の経営をしていることや、それに至る経緯も、全て話した——**

「ま、住み込みで働いた方が、ここの家賃も浮くんですけど…あの旅館、何かいる気がして…実は俺、昔から霊感が強くて、たまに見えてしまうことがあるのだ…」

「何かって…まあつまり、普通の人じゃ見えない存在ですよね…誰もいないのに音が鳴ったりもしますので…」

「え、じゃあそれが怖くて、ここに住んでるんですか?

俺は恥ずかしくて顔を真っ赤にしながら、黙って頷いた——大の大人が情けないと思ったのか、はなはニヤニヤしながら、俺のことをじっと見ていた——**

「新太郎さんって、ビビりなんですね」

「そ、そんなことはないですよ! あそこに行ったら、誰だってビビりますから」

「へえ、なるほど…そんなに怖いなら、一緒に住み込みで働いてあげましょうか? 」

はなにとっては、冗談の提案だったのかもしれないが、冷静になって考えてみると、俺にとってはメリットしかなかった——彼女は料理ができるし、住み込みで働けば、お互いに家賃も浮く——それに、ずっとはなと一緒にいられる——まあ、最後のやつは本心だとしても、こんなに喜ばしい申し出はない——**

「ほ、本当ですか? 是非、一緒に働いてください!

俺は、はなの両手を強く握った——それと同時に、俺は彼女を上回るほどハイテンションになった——**

「ちょっと、喜びすぎじゃないですか…なんか、子供みたい…」

俺たち二人は盛り上がったのだが、なぜはなのテンションが高かったのかは、最後まで分からなかった——**

「実は、私、本職はパティシエなんです…だから、旅館の料理が作れるかな…」

突然不安になるはなだが、彼女は洋菓子店で働いていたようで、そこは有名な洋菓子店で、同世代の気の強い女性も多くいたそうだ……彼女はそこでの競争が嫌になったのだが、そもそも料理のスキルが高い……和食の試作品をいくつか作ってもらったが、どれも素晴らしかった——**

「さすがは、元パティシエ…飾り付けがめちゃくちゃ綺麗ですね」

「洋菓子は、見栄えもとても大事なので…」

彼女の作る料理は、見た目が素晴らしいだけでなく、味も完璧だった……これまでずっとうちの旅館で料理を担当していたおばさんも、はなのことを快く受け入れていた……その様子を見て、俺はとりあえず一安心だった——**

「うちの旅館の強みは、浴室や部屋から見える景色なんです…しかしこれからは、はなさんの作る料理を全面に打ち出していきたいと思ってます…どうですか? やっていただけますか? 」

「はい、是非やらせてください」

こうしてうちの旅館は大きく方針を変えたのだが、この判断が見事に刺さった——はなは洋菓子店で働いていた頃のスキルを生かして、SNSで広報活動もしてくれて、料理のクオリティもバリエーションもどんどん増えていった……すると噂はまたたく間に広まり、年配のお客さんは料理の味を楽しみに、若い層のお客さんは映える料理を喜んでくれるようになった……それによって従業員は忙しい毎日を送るようになったのだが、それを解決したのもはなだった——**

「以前、アパートでお騒がせした、私の友人で、今仕事を探してる子がいるんです…それってもしかして…」

「はい…ここの旅館の話をしたら、一緒に働きたいって言ってくれて…」

「本当ですか? めちゃくちゃ助かります!

是非連れてきてください」

しかも、はなの友人は一人ではなく複数名いて、二人はフルタイムで働いてくれて、もう二人はたまにお手伝いとして働いてくれることになった——**

「はなさん、ありがとうございます…本当に助かりました」

かつては閑古鳥が鳴いていたうちの旅館だったが、はなや彼女の友人が来てくれたことで、活気を取り戻すことができた……狙い通り、料理は評判となり、従業員の負担も減った……俺自身も、経営に力を入れられる余裕も生まれたし、とにかくはなさんには、感謝の気持ちしかありません——**

「本当にありがとうございます…はなさん」

ある晩、仕事が落ち着いたタイミングで、俺ははなに深く頭を下げた——**

「いえ…お礼を言うのは、私の方です」

「え、どうして? 」

「だって、ここの職場は、前職のようにみんなで競い合ってる感じはしないし…むしろ1丸となって、みんなで頑張ろうって感じじゃないですか? …私にはそういう職場の方が合っていると思うし…今は、辛い過去の記憶も思い出さなくなったんですよ」

「そうなんですね…それなら良かった」

「それに、新太郎さんはいつも、私のことを気にかけてくれましたよね? 」

「なら、バレてたか…こそこそやってたつもりなんだけどな」

「そんなの、バレバレです」

はながここで働くにあたって、俺は従業員に声をかけておいた——「しばらく社会から離れているということと、人間関係に悩んだ過去があるから、優しく接してあげてほしい」と——俺も出勤した時は、彼女に笑顔で挨拶するようにしていたし、くだらない話をして笑わせたりもしていた——**

「でも、私にとってはそれが、すっごく嬉しかったです…初めて私が新太郎さんのおうちにお邪魔した時、すごくテンションが高かったのを覚えてますか?

…あの時、実は将来についてすごく不安に感じていて、それをごまかすために無理やりそうしてたんです…でも今は、新太郎さんが毎日のように気にかけてくれるから、もう不安に感じることもなくなりました…だから、私の方がお礼を言うべきなんです…本当にいつも、ありがとうございます」

こんな素直な気持ちをまっすぐに見つめながら言われて、俺はどきっとした——それと同時にはなが、俺にとって掛けがえのない存在になっていくのを感じた——**

「じゃあ、そろそろ私は寝ますけど…新太郎さん、怖くないですか? 一人で寝れます? 」

「…もし怖かったら、いつでも呼んでくださいね」

唐突にこうしてからかわれるのも、日課になりつつあった——**

「そんなこと言ってると、本当に出てきますよ…お化けを甘く見ないでください」

「お化け…新太郎さん、可愛いですね…じゃあ、おやすみなさい」

なんだか、カップルが付き合う直前の、一番楽しい時期のように感じていた——どんな会話をしていても、どんなことをしても、相手にどきどきして、不自然にリアクションが大きくなってしまう、あの時期——俺ははなという女性に、完全に惹かれていたんだろう——**

「明日はボイラー室の点検がありますので、臨時休業となります…皆さん、ゆっくり休んでくださいね」

俺は、全従業員に改めて告げた——そして、この臨時休業を利用して、ある計画が立てられていた——それは、今から1週間前のこと——**

「へえ…弟さんが、ここで…」

「はい…休みなら、宴会場を貸し切って、みんなでぱーっとやろうって」

はなの弟は、たまに旅館を手伝ってくれていて、その明るい性格ですぐに従業員の輪に溶け込んだ……その弟が、臨時休業の日に宴会をしようと提案したらしいのだ……**

「もちろん、新太郎さんにも参加していただきたいんですけど、いかがですか? 」

「はなさんのお友達も来るんですか?

「もちろん、許可が降りればの話ですけどね…やっぱり、難しいですよね」

はなは、困った顔で俺のことをじっと見てきた——そんな可愛い顔で見つめられて、断れるわけがない……そもそも俺は日頃からはなや弟に感謝しているのだから——**

「彼らしい案ですね…なんだか面白そうなので、やっちゃいますか」

「本当ですか? やった! 嬉しい…みんなに伝えておきますね」

こんなやり取りがあって、この日は、俺にとっても楽しみだった——しかし、どうも様子がおかしい——宴会当日、時間になっても、誰も会場に現れないのだ——指定された時間に旅館にいたのは、俺とはなだけだった——**

「皆さん…遅くないですか? 」

「そうですよね…ちょっと連絡してきます…俺も電話してみます」

はなは弟や誘った友人に、俺は参加すると言ってた従業員に、それぞれ連絡をしてみるの——**

「なんか…みんな来れなくなっちゃったって」

「え、みんな?

「はい…これなんか、おかしくないですか? 」

「おかしいですよ…僕が連絡した人たちも、みんな来れないって言ってたので…」

きっとこの時、俺もはなも同じことを考えていたと思う——俺たちは、騙されていたのだ——**

「これって、もしかして…」

「絶対そうだと思います…どうせあのバカな弟の仕業です…私たちを二人きりにさせようとしたんですね」

「やっぱり、そういうことですよね…僕、たくさんお菓子を持ってきちゃいましたよ」

「私だって、もうピザの注文しちゃいました…」

「じゃあ、僕たちだけで楽しんじゃいますか? 」

「そうですね…そうしましょう」

俺たちは二人で宴会場へと向かった——するとそこで、驚くものを目の当たりにする——**

「え、これ…どういうこと? 」

「ちょ、ちょっと…これ、絶対あいつがやったんだ…」

宴会場のテーブルの上には、一本の成人向けDVDが置かれていた——**

「それって、もしかして…」

「はい…以前、私の部屋で爆音で流して、新太郎さんにご迷惑をおかけした時の、やつですね…」

「やっぱり…はなさんが興味真々身々に見ていたという…」

「こんなの、興味ありませんよ!

…そんな意地悪するなら、私帰っちゃいますよ」

「一人になったら、お化けが来るかもしれませんね」

こういうやり取りこそ、付き合う直前に、互いの気持ちにうすうす気づいているけど、口には出せない、あの感じそのものだ——**

「やっぱり俺たちは、互いに意識し合っているんだ…」

「でも、二人きりになるのって、久しぶりですね」

「それも、そうですね…なんか、緊張しちゃいますね」

「それって、お化けが出てくるかもしれないっていう緊張ですか? 」

「だから、お化けは怖くないってば…」

「あれ? 怖がってませんでしたっけ? 」

「だって、今ははなさんがいますから…あなたと一緒にいると、なんか心強いっていうか、何でもできそうな気持ちになるんです…うちの旅館がここまで息を吹き返したのも、全てはなさんのおかげだと思ってますし」

「いきなりそんなこと言うのは、卑怯ですよ…前にも言いましたけど、私だって新太郎さんには感謝してるんですから」

俺はなんだか恥ずかしくなってしまい、話題を変えることにした——**

「…なので、これ、一緒に見てみます?

…はなさん、おすすめのDVD」

「お気に入りじゃないです…まあでも、食事が終わったら、一緒に見てあげてもいいですよ」

「じゃ、じゃあ、そうしますか…」

そして、食事を終えた後——俺は、はなと向き合って、言った——**

「あの…僕は、はなさんのことが好きです」

「私も…新太郎さんのことが、好きです」

その日、俺たちは同じ部屋で、一夜を共にした——**

「悔しいけど…あの弟には、感謝しないとね」

「そうだね…俺も今度、お礼を言っておくよ」

「調子に乗るだけだから、言わなくていいです」

それから数年が経ち、俺たちは結婚式を挙げた——もちろん、式にははなの弟も参列してくれた——**

「はなと結婚できたのも、君のおかげだよ…本当にありがとう」

「ああ、全然いいっすよ、兄貴」

「ほら、調子に乗ってる…」

俺は、はなだけでなく、いろんな人から支えられている…その支えがあるから、今の俺があるんだ……これからも、感謝の気持ちを忘れずに生きていこう——そう心に決めて、俺は幸せな毎日を過ごしている——**

最後までご視聴ありがとうございます。もしよろしければ、チャンネル登録よろしくお願いいたします……では、次の動画でお会いしましょう——