リビングに入った瞬間、空気の重さに足が止まった。母がソファに座り込み、顔を覆っている。妹はテーブルに足を投げ出して、スマホをいじっていた。
「どうしたの?また何かやらかしたの?」
俺がそう尋ねると、妹は面倒くさそうに顔を上げた。
「また何よ。子供ができただけ。」
その言葉に、俺の思考は一瞬で停止した。
「こ、子供ができたって…どうするつもりなんだよ。」
「それが、産むつもりらしいのよ…。」
母の声は震えていた。
「もう学校に行っても意味ないし、辞めようと思ってるの。」
「相手は誰なんだよ。連れてこいよ。」
「はあ。うるさいな。いきなり父親ぶらないでくれる?相手なんて分かんないよ。」
その日の夜、俺たちは今までにないくらい激しく言い争った。しかし、揉めたところで問題が解決するわけではない。生まれてくる子供に罪はない。そう自分に言い聞かせて、俺は妹をそっとしておくことにした。
数ヶ月後、妹は無事に娘を産んだ。名前は「あん」と付けられた。あれほどイライラしていたのに、いざ対面すると、その小さな命が愛おしくて仕方なかった。俺は自分の子供のようにあんを可愛がった。
しかし、あんが生まれて三ヶ月が過ぎた頃、妹は頻繁に外出するようになり、ついには家に帰ってこなくなった。連絡も取れず、音信不通。こうなると、あんを育てるのは俺と母しかいない。母は仕事を辞めて子育てに専念し、俺は必死に働いた。なんとか三人で生活していく中で、妹からの連絡は一切なかった。
月日はあっという間に流れ、あんは五歳になり、保育園の年中さんになった。そんなある日、事件が起こった。母が突然倒れ、そのまま帰らぬ人となってしまったのだ。あまりにも突然の出来事に、俺の頭は真っ白になった。何より、あんが本当の母親のように懐いていただけに、あんの心が心配だった。妹は母の葬儀にも現れなかった。この日を境に、俺とあんの二人暮らしが始まった。
会社には事情を説明し、協力を仰いだ。すると、社長をはじめ皆がとても優しくしてくれた。
「うちの会社は男が多いからな。困ったら部長に聞いてみるといいよ。」
社長はそう提案してくれたが、正直、俺は部長が苦手だった。うちの部長はとても美人で仕事もできるのだが、すごく落ち着いた人で、なんだか近寄りがたい雰囲気があったのだ。
あんの父親代わりになって気付いたことがある。保育園というのは、意外とイベントが多い。そのイベントの度に、俺は母のありがたみを感じるとともに、自分の無力さを感じていた。おそらく、それが無意識のうちに態度に出ていたのだろう。
ある日、俺は部長に呼び出された。
「こうくん、最近なんか様子がおかしいけど大丈夫?何かあった?」
「すみません。仕事には影響が出ないようにしてきたつもりだったんですけど…気持ちを入れ替えて頑張ります。」
すると部長は深いため息をついた。
「そういうことが言いたいんじゃないの。私は何か手伝えることはないかって思ってるのよ。」
予想外の言葉に、俺の胸は熱くなった。
「いつも言ってるけど、困ったことがあったらすぐに言いなさい。みんなもあなたのこと心配してるのよ。子育てが大変なことも分かってるから。」
「部長、ありがとうございます。やっぱり一人では色々と難しくて…日常生活も分からないことだらけで、家事にも時間がかかってしまうし…そうするとあんの時間もなかなか作れないし…。」
「まあ、これまでしていなかったなら、家事も大変に感じるだろうね。しかも働きながら子育てもしながらでしょ。誰だって悩むと思うわ。」
部長の言葉を聞いて、俺の目からは涙が溢れ出した。
「すみません。泣いたって何も解決しないのに…もっと強くならないといけませんね。」
「だから、私が協力するって言ってるでしょ。保育園は給食なの?」
「はい。普段は給食なんですけど、二週間に一度のお散歩ではお昼にお弁当を食べるので、作らないといけないんです。料理も全然してきたことがないので、とても苦戦していまして…。」
「お弁当か。確かに難しいわね。」
「まあ、お弁当の中身は冷凍食品とかでなんとかやっているんですけど、問題なのは遠足でして…。」
「ん、遠足に何か問題でもあるの?」
「どうやら遠足にはキャラ弁を持ってくる子が多いらしくて、僕も作ってって言われてしまったんですよ。」
「なるほど。キャラ弁か。わかった。私に任せなさい。」
「え、部長、キャラ弁を作れるんですか?でも、さすがに部長にそんなことまでしてもらうわけにはいきません。自分でなんとかしてみます。」
「はあ。自分でなんとかするって、できないことが分かってるんでしょ。私がなんとかするって言ってるんだから、素直にやってもらったらいいじゃない。それとも、私が代わりにお弁当を作ることに何か問題でもある?」
「いえ、問題なんてとんでもない。ただ、お弁当を作るとなると朝早いですよ…。」
俺がそう言うと、部長は微笑んだ。
「私、朝五時に起きてランニングをしてから出社してるんだけど、それよりも早起きしなくちゃいけないのね。」
「そうなんですね。五時に起きれば十分かと…。」
「だから、そんな心配しなくていいのよ。それで、どんなお弁当をリクエストされたの?」
俺は部長の言葉に甘えて、あんにリクエストされたキャラクターの写真を見せた。
「ほお。これはなかなか難しいわね。初心者にはハードルが高いわ。」
「そうですよね。あんからこれを作ってって言われて、そのことで頭がいっぱいでした。ああ、でも、仕事中はちゃんと仕事のことを考えていますよ。」
「分かってる、分かってる。じゃあ、その写真、私に送っておいてくれる?」
「すみません。よろしくお願いします。ちなみに遠足は来週の火曜日です。」
「オッケー。分かったわ。じゃあ、仕事に戻りましょうか。」
そう言って俺たちは解散した。本当にかっこよくて頼れる上司だ。
そして遠足の日がやってきた。朝の七時に家のインターホンが鳴った。
「おはよう。約束通りお弁当持ってきたよ。」
「部長、おはようございます。本当に作ってきてくれたんですね。ありがとうございます。とりあえず上がってください。」
「ありがとう。お邪魔します。」
突然現れた綺麗なお姉さんに、あんは驚いていた。
「あんちゃん、おはよう。見てみて。お姉ちゃんね、可愛いお弁当作ってきたんだよ。」
「あん、このお姉さんはパパの会社の先輩なんだ。今日はあんのために、お弁当を作ってきてくれたんだぞ。」
「そうなの?嬉しいな。」
「そっか。嬉しいか。あんちゃんが嬉しいなら、お姉ちゃんも嬉しいな。」
「お弁当、見てみる。」
「後でのお楽しみにしよう。」
「そう。偉いね。また感想聞かせてね。」
部長は、俺が三十分近くかけて結んだあんの髪の毛を見て言った。
「髪の毛って、これでいいの?変ですか?結構自信あったんだけどな。」
「あんちゃん、どう思う?」
「パパ、頑張ってくれたから。」
「微妙だったかな?」
「あんちゃんは優しいんだね。お姉ちゃんがやってあげるから、こっちおいで。」
そう言って部長は手際よくあんの髪の毛を結び直した。そして五分もかからないうちに、可愛い髪型が出来上がった。
「すごい。とっても可愛い。」
「うん。とっても似合ってるよ。」
あんは嬉しそうに何度も鏡を見ている。こんな嬉しそうにしてるあんを見るのは初めてかもしれない。
「よかった。じゃあ、私はそろそろ会社に向かうね。」
「え、やば、もうこんな時間か。部長、ありがとうございました。また後ほど。」
部長は家を出ていった。本当に何でもできるすごい人だな。よし、あん、行くぞ。
ご機嫌なあんを保育園に送り届け、俺も会社へと向かった。そこにはいつも通りの部長がいた。
「部長、おはようございます。さっきはありがとうございました。あんもすごく喜んでいました。」
「あんちゃん、とても可愛いわね。朝から癒されちゃった。」
部長はそう言って、俺に携帯の画面を見せてきた。そして俺はそれを見て大きく驚いた。
「これ、今日私が作ったお弁当。」
「え…これ、全部部長が作ったんですか?」
「そうだけど。もしかして疑ってる?私、一人暮らし歴が長いから、料理はそれなりにできるの。」
「いや、これ、SNSに投稿してるインフルエンサーよりも上手ですよ。」
俺がそう言うと、部長は照れながら返した。
「そんなに褒められると恥ずかしいでしょ。こういう細かい作業が好きなだけよ。またいつでも言ってね。お弁当作るから。」
「本当にありがとうございました。」
今思えば、俺はこの頃から部長に惹かれていた。
仕事が終わり、保育園に迎えに行くと、思っていた通りあんのテンションは高かった。
「今日のお弁当、すごかったですね。クラスのお友達も羨ましがっていましたよ。」
「そうなんですね。ありがとうございます。って言っても、僕が作ったわけじゃないんですけどね。」
「なんか、あんちゃんが綺麗なお姉さんが作ってくれたって、嬉しそうに言っていました。それに、可愛い髪型もみんなから大人気でした。素敵な方なんですね。」
先生は事情を汲み取ろうとしてくれたが、俺は慌てて否定した。
「ああ、その人は僕の上司の人で、特別な関係ってわけじゃ…。」
「そうなんですね。まあでも、あんちゃんが嬉しそうなら、それでいいですよね。」
恥ずかしさと嬉しさが交差して、複雑な心境だった。きっと俺の彼女だと思ってるよな。
その帰り道、機嫌のいいあんはいつも以上に俺に話しかけてくれた。その内容は、お弁当と髪型を褒められたことばかり。あんは今までずっと我慢していたんだろうなと思うと、心が痛くなった。
家に帰ると、あんは突然お絵描きを始めた。
「できたよ。これ、お姉ちゃんに渡すの。」
そう言ってあんが見せてくれた絵は、髪の毛を結んでいる部長と、嬉しそうにしているあんが描かれていた。
「上手に書けたね。じゃあ、これは明日パパが渡しておくよ。」
そして翌日、俺は部長にお礼の品と、あんから預かった絵を渡した。
「部長、昨日はありがとうございました。あんも一日中嬉しそうにしていました。」
「それならよかった。お弁当が傾いていないか心配だったの。」
「お弁当は大丈夫だったみたいです。ああ、それで、あんから部長に渡して欲しいって絵を預かってきました。もしよかったら受け取っていただけませんか?」
俺が部長に絵を渡すと、その絵を見た部長は突然涙を流し始めた。
「ちょ、ちょっと部長。いきなり泣き出した部長のことが心配になった。」
「ごめんね。これ、昨日の朝の絵だよね。私もこの時、幸せだったな。とにかくあんちゃんのことが愛しかった。あんちゃんも同じ気持ちでいてくれたんだって思ったら、なんか嬉しくて。」
「私、またあんちゃんに会いたいから、今度時間作ってもらってもいいかな?」
「もちろんです。うちはいつでも大丈夫なので、部長の都合のいい日を教えてください。」
プライベートで部長に会えると思うと、俺も嬉しい気分になった。と言っても、部長の目当てはあんなんだけど。
「じゃあ、いきなりだけど今晩はどう?一緒に食事とか。」
「大丈夫です。あんも喜ぶと思います。是非お願いします。」
「よかった。じゃあ決まりね。仕事が終わったら合流しましょう。」
そう言って部長は仕事に戻っていった。なんだか部長との特別な関係になれたような気がして、俺は嬉しかった。
そしてその日の夜、約束通り部長が家にやってきた。
「あ、お姉ちゃん来てくれた。嬉しいな。あのね…。」
部長を見た途端、あんはひたすらにお話をしていた。部長もあんの話を真剣に聞いてくれて、ちゃんと相槌まで打ってくれている。部長といる時のあんは、とにかく嬉しそうなのだ。そんなあんを見ているだけで、俺は幸せだった。
「あんちゃん、今日は何食べようか?」
「あんはね、駅前のレストランのお子様ランチが食べたいの。」
「そうなんだ。じゃあ、今日はそこに行こう。」
「でも部長、ファミレスなんかでいいんですか?普段ファミレスなんて行かないですよね。」
「たまにはいいじゃない。なんかファミレス行きたくなってきちゃった。早く行きましょう。」
「やった。」
そう言って部長とあんは手をつなぎながらファミレスへと向かった。もし母親がいたら、こんな風に甘えるのかな。そんなことを考えると、胸がちくりと痛くなった。
しばらくしてファミレスに到着し、三人で食事をした。部長がいるのが嬉しいのか、あんはいつもよりもたくさん食べていた。すると、あんは突然こんなことを言い出した。
「今度の親子遠足にも来てほしいな。お友達はみんなパパもママも来るんだもん。」
「あん。そんなに部長を困らせちゃだめだよ。パパが行くからいいでしょ。」
すると部長はカバンから手帳を取り出し、ペラペラとめくり始めた。
「あんちゃん、親子遠足っていつかな?」
「来月の一日ですね。」
「さすがに一日は忙しいですよね。ただでさえ僕が休むのも迷惑かけているのに。」
「私も行ってもいい?」
「え?お姉ちゃん来てくれるの?」
「お姉ちゃんも一緒に行きたいもん。こうくん、私も行ってもいいかな?」
「え、僕たちは問題ないというか、すごく嬉しいというか。でも、本当にいいんですか?迷惑じゃなかったらね。その日もお弁当がいるんだよね。」
「迷惑なんてそんな。そうですね。その日もお弁当はいりますが、さすがにその日は僕の方でなんとかします。」
「じゃあ、その日はお姉ちゃんのお弁当食べられないの?」
「大丈夫、食べられるよ。お姉ちゃんがちゃんと作るから、安心してね。」
「部長、でもいいからいいから。」
「私がやりたくてやるんだから、気にしないで。」
「やった。遠足みたい。」
そう言ってあんは部長の腕にしがみついた。俺も内心喜んでいた。そして俺の部長への気持ちは、どんどん大きくなるばかりだった。
食事も終わり、少し時間もあったので、俺たちは近くのショッピングモールに行くことにした。
「じゃあ、今度の遠足に着ていくお洋服でも見に行こうか。」
そう言って部長とあんは、入ったこともないようなおしゃれなお店に入っていった。俺も一緒に入ろうとすると、部長が言った。
「こうくんは好きなところ見てきていいよ。私たち、一緒に買い物してくるから。」
「いいんですか?じゃあ、ATMだけ行ってきますね。」
買い物は部長に任せて、俺だけ別行動をすることにした。そして数分後、店に戻ると、二人はとても楽しそうに買い物をしている。何も知らない人が見たら、間違いなく親子だと思うだろう。
二人は俺のことを見つけると、機嫌よく俺のところにやってきた。
「ごめんね。お待たせ。」
「いえ、こちらこそお任せしてしまってすみません。洋服でしたか?」
「お金はいいからいいから。素敵な絵をもらったし、遠足にも連れてってくれるんだから、そのお礼よ。」
「すみません。ありがとうございます。」
あんはすっかり部長に甘えていて、俺がちょっと嫉妬してしまうほどだった。
それから数日後、待ちに待った親子遠足の日がやってきた。今回は遠足でクッキーを作るらしく、俺だけでは難しかっただろう。部長が来てくれて本当に良かった。あんはすごく楽しみにしているが、俺も負けないくらい楽しみだった。
そしてこの日も早朝に部長がお弁当を持って家まで来てくれた。
「おはよう。今日は一日よろしくね。」
「こちらこそよろしくお願いします。これ、あんちゃんのエプロン。」
「もしかして、もう買っちゃった?」
「いえ、レンタルできると聞いていたので、買ってませんでした。」
「よかった。じゃあ、これも持っていきましょう。」
そんな話をしていると、あんが起きてきた。
「お姉ちゃん、もう来てくれたんだ。昨日は楽しみでなかなか寝れなかったから、いつもの時間に起きれなかったよ。」
「まだ間に合うから大丈夫だよ。じゃあ、今日も可愛い髪の毛にしよっか。」
「うん。」
あんの目はキラキラと輝いている。そして物の数分でおしゃれな髪型が出来上がった。
「パパ、見て。可愛い。」
この日もあんは鏡の前から動かなかった。
「よし、そろそろ行こうか。」
「うん。」
そして俺たちは三人で遠足に出かけた。あんが言っていたように、ほとんどの子が両親と来ている。部長のおかげで遠足は大成功だった。エプロンもみんな可愛いものを自慢していて、レンタルしている子は誰もいなかった。それどころか、部長が用意してくれたエプロンは部長が手作りしてくれたものだったようで、どのエプロンよりも可愛かった。
それによって、あんはこれまで以上に部長に懐くようになった。しかし俺には嬉しい反面、不安な側面もあった。確かにあんは部長に懐いているが、この生活がずっと続くわけではない。今大きな幸せを感じている分、別れる時の辛さが待っていると思っていたのだ。
今回は秋の遠足だったこともあり、最後には保育園のクリスマスコンサートのお知らせが配布された。
「お姉ちゃん、コンサートも来てくれる?」
部長はそのお知らせを見ている。
「あん、お姉さんは忙しいんだ。また他の時に会えたらいいだろう。」
さすがにクリスマス当日に予定を合わせてもらうのは申し訳ない。俺自身も少し期待していたが、来れるかどうかを知るのは怖かった。俺は本格的に部長のことが好きになってしまったようだ。
「行ってもいい?私も行きたいな。」
「お気持ちは嬉しいですが…本当に無理はしないでください。お時間のある時に僕たちの相手をしてくれたら、それだけで嬉しいので。」
「大丈夫よ。クリスマスも特に予定はないから。」
「え、じゃあお姉ちゃん見に来てくれるの?」
「いいよ。今からすごく楽しみだな。」
あんは部長に抱きついた。あんのおかげで次の約束もできたから、別れ際も寂しくなかった。
そしてクリスマスコンサートの日がやってきた。あんは合唱やハンドベルを演奏して、俺はなんだか胸が熱くなってしまった。上着のポケットからハンカチを取り出そうと横を見ると、部長が隣で涙を流していた。
「ぶ、部長。」
「ごめんごめん。つい感動しちゃって。」
少し恥ずかしそうに俺にそう言った。俺は彼女の姿を見て、さらに胸が熱くなった。
その後コンサートは無事に終わり、俺たちはチキンとピザを買って帰った。夜はそのまま家でクリスマスパーティーをして、それにも部長は付き合ってくれた。この日も一日中楽しくて、俺はこんな毎日がずっと続いて欲しいと思っていた。
コンサートは緊張していたのか、あんはパタッと眠りについてしまった。
「部長、今日もありがとうございました。おかげで最高に楽しいクリスマスを過ごせました。部長、この後予定ありますか?」
「こちらこそありがとう。私もいい一日だったよ。予定はないわよ。一緒に乾杯でもする?」
そう言って部長はシャンパンを取り出した。
「え、部長も。」
実は俺もシャンパンを用意していたのだ。
「しかも全く同じシャンパンだね。こんな偶然ある?」
「本当ですね。すごい偶然。じゃあ、乾杯しましょうか。」
そう言って俺たちは乾杯した。俺たちの話題はあんのことばかり。話が盛り上がって、シャンパンも進んだ。
「ねえ、これからも保育園のイベントに参加してもいいかな?」
「え、本当にいいんですか?遠慮なく誘いますよ。」
「いいよ。あんちゃんが成長していく姿を近くで見ていきたいからね。」
この日は俺にとって特別な夜になった。お酒の力を借りて告白をしようとも考えたのだが、先のことを考えた瞬間怖くなってしまい、結局できなかった。
それでも部長はその後のイベントに全て参加してくれて、あんの本当の母親のように接してくれた。俺はこの幸せがどうしたらずっと続くかを真剣に考えていた。
そしてあんの卒園式がやってきた。もちろん式には部長も参加してくれた。部長は入場からすでに泣いていて、どの母親よりも泣いていたと思う。その後、俺たちは駅前のファミレスに行った。俺はなんだか寂しい気持ちでいっぱいだった。卒園すれば今までのように行事はなくなる。そうなれば、こうして三人でいる頻度も少なくなってしまうと思ったのだ。
そしてその夜、家に帰ると、
「ねえ、パパ。お手紙書いたから読んでもいい?」
「あん、いつの間に文字が書けるようになったの?」
「ちょっと、今更あんちゃんは上手に書けるわよ。」
するとあんは手紙を読み出した。
「お姉ちゃんへ。私はお姉ちゃんのことが大好きです。これからもずっと一緒にいたいし、できたらママになって欲しいです。」
俺はあんの手紙を聞いて顔が真っ赤になった。そして部長の方を見ると、やはり泣いている。あんはそんな部長をぎゅっと抱きしめた。
「お姉ちゃんに会えなくなるのは嫌。だからこれからも遊びに来てね。パパも本当は寂しがってるんだよ。」
そう言ってあんは泣き出してしまった。その姿を見ていたら、思わず俺も涙がこぼれてしまった。そして俺はある覚悟を決めた。
「部長、僕は本気で部長のことが好きになりました。だから、僕もあんと同じ気持ちです。これからもずっと一緒にいたいと思っています。結婚を前提にお付き合いしていただけませんか?」
すると部長は涙を拭いながら、深く頷いてくれた。
「なんか幸せなことが起こりすぎて、少し戸惑ってるの。ねえ、これって夢じゃないよね。」
「はい。夢なんかじゃありません。」
「私も、こうくんもあんちゃんも大好き。これからもよろしくね。」
「じゃあ、これからもずっと一緒。」
「そうよ。私たちはずっと一緒。」
「やった。あん、嬉しいよ。」
そのままはしゃいで疲れてしまったのか、あんは寝てしまった。こうして俺たちの交際は始まった。
それからも順調に交際期間を重ね、俺たちは幸せな毎日を送っていた。あんの表情もどんどん明るくなっていき、成長と共にいろんなことを話すようになった。職場ではクールな部長も、あんの前では優しい母親の表情になる。今でも毎日のように彼女への気持ちが大きくなっていて、そのおかげで仕事も頑張れる。
そして交際から一年が経ち、俺は部長にプロポーズをした。
「部長、僕と結婚してください。」
「はい、こちらこそよろしくお願いします。でも、一つだけお願いがあるんだけど。」
「お願い、何でしょうか?」
「いい加減、部長って呼ぶのやめない?私たち、夫婦になるんだよね。」
「確かにそうですよね。でも、今更呼び方を変えるのはちょっと時間がかかるかも。」
「じゃあ、三人で呼び名を決めよっか。」
「それならできそうじゃない。」
そして俺たちは、どんな呼び名がいいかあんに考えてもらった。俺たちは本当の家族になったのだ。これからも三人でもっと幸せな生活を送っていきたいと思う。



