里帰り出産を終え、生後1ヶ月の娘を抱いて自宅に戻った私を待っていたのは、夫のあまりにも残酷な仕打ちだった。
1ヶ月ぶりの我が家。しかし玄関の鍵穴に鍵が入りきらない。困惑する私の前に、内側から現れたのは露出の多い服を着た見知らぬ女だった。
「ここはトオル君と私の家よ」
笑う彼女を押しのけて室内に駆け込むと、そこには私の知っている光景はなかった。大切にしていた家具も、思い出の品も、そして生まれてくる娘のために準備したベビーベッドまでもが、跡形もなく消えていたのだ。
「お前は実家に永住してろ。二度とその汚い顔を俺に見せるな」
トオルは冷たい言葉とともに、産後の体もままならない私と赤ん坊を廊下へ放り出した。背後で鍵を閉める乾いた音が響き、扉の向こうからはトオルとその女の下品で楽しげな笑い声が漏れてくる。
「大丈夫よ。ママが絶対にあの男を許さないからね」
震える手でスマホを取り出し、私は以前から連絡を取り合っていた弁護士に電話をかけた。
「先生、準備は整いました」
私の名前はチサト。どこにでもいる平凡なアルバイト店員だった。当時働いていたのは駅前の楽器だけが目印の居酒屋。そこで出会ったのが、後に私の人生を狂わせる男だった。彼は会社の同僚たちと連れ立って週に何度も店に顔を出す常連客だ。
「チサトさん、今日も綺麗だね。仕事が終わったら少し話せない?」
甘い言葉を並べ立て、猛烈にアプローチしてくる彼に押される形で、交際を始めるまでに時間はかからなかった。
付き合って半年が過ぎた頃、新しい命が宿っているとわかった。正直なところ、当時の私は不安で胸が押しつぶされそうだった。しかし、報告を受けたトオルは意外にも力強い言葉を口にした。
「俺が責任を取るよ。お前と子供を一生守って見せる」
その言葉を信じて、私たちは入籍し、夫婦としての道を歩み始めた。だが今思えば、その時から彼の化けの皮は剥がれ始めていたのだ。
トオルは職場の同僚に対して妻の存在を一切隠し通した。彼は会社で独身を装い続け、家庭の匂いを完全に消し去っていた。住まいは私の父が投資用に所有していた分譲マンションだ。父の好意により格安の家賃で住ませてもらえることになったのに、トオルはそんな恩など微塵も感じていない様子だった。
ある日の夜、リビングで彼が同僚に電話をしている声が聞こえてきた。
「ああ、都内にマンションを買ったんだ。男の甲斐性だろ」
電話の向こうで、自分が買ったかのように自慢を繰り返している。私はその背中を眺めながら、嫌な予感を覚えた。
そしてその予感は、すぐに的中することになる。入籍からわずか数日後のことだった。
トオルは私を妻としてではなく、給料の発生しない便利な家政婦として扱い始めた。仕事から帰宅するなり、玄関に脱ぎ捨てた靴を蹴飛ばして私を怒鳴りつけた。
「おい、いつまでこんなところに靴を放置しているんだ?気が効かないな」
「ごめんなさい。今すぐに片付けるから」
私が大きくなり始めたお腹を抱えて慌てると、彼は鼻で笑って見下してくる。
「動きが鈍いんだよ。妊娠したからっていつまでも甘えられると思うな」
家の中の掃除が少しでも行き届いていないと、彼は執拗に私を追い詰めた。棚の上のわずかな埃を指でなぞり、私の目の前に突きつけてくるのだ。
「専業主婦のくせに、掃除すら満足にできないのか。お前は本当に無能だな」
「毎日掃除はしているけれど、細かいところまで手が回らなくて」
「言い訳をするな。そんなんだからお前はいつまで経ってもダメなんだ」
私は返す言葉もなく、ただ黙って雑巾を手に取り、床に膝をついて磨き続けた。
お腹が大きくなるにつれて、彼の言動はさらに目を疑うほど過激さを増していく。ある朝、鏡の前で着替えをしていた私を見て、トオルは吐き捨てるように言い放った。
「うわ、見るに耐えない姿だな。まるで太った豚じゃないか」
「そんな言い方しないで。あなたの子供を育てている体なのよ」
「勝手に膨らんでいるだけだろう。顔までパンパンで、見ているだけで不愉快だ」
彼は私の体型の変化を笑い、精神的に追い込むことを楽しんでいるかのようだった。私は怒りで指先が震えたが、今は反論するべきではないと自分に言い聞かせた。
実はこの頃から、私はトオルの派手な女遊びに確信を持っていた。彼は週の半分以上を朝帰りで済ませ、シャツには常に安っぽい香水の香りが漂っている。
「仕事の付き合いだよ。稼いでいる俺に文句を言う権利がお前にあるのか」
「仕事なら仕方ないけれど、せめて連絡くらいはしてよ」
「うるさいな。お前は黙って俺に養われていればいいんだよ」
私が帰宅時間を尋ねるだけで、彼は逆切れして周囲のものを投げ倒す。私は静かにスマホの録音機能を起動し、彼が放つ暴言を一つ残らず記録した。トオルが先に酔いつぶれて寝ている隙に、彼の鞄から通帳を取り出してコピーを取る。さらに彼が巧妙に隠していたネット銀行の隠し口座情報まで、私は特定することに成功した。
「おい、夕飯はまだか?腹が減って倒れそうなんだよ」
「今盛り付けているところだから、もう少し待って」
「遅いんだよ。家事すら満足にできないなら存在価値がないと思え」
リビングから聞こえる罵声を聞き流しながら、私は淡々と証拠を積み上げていく。
こんな生活の中、少しでも子供との生活資金を稼ごうと考え、私は在宅でのデータ入力の内職を始めた。重い体で深夜までパソコンに向かう私を見て、トオルは冷ややかな笑みを浮かべて近づいてくる。
「そんな無能の稼ぎなんて、どうせ数円の小銭にしかならないだろう」
「例え小銭でも、この子のために少しでも貯めておきたいの」
「無駄な努力だな。お前みたいな無能が必死になる姿は滑稽だよ」
彼は私の努力を鼻で笑い、さらには信じられない仕打ちに出た。私がコツコツと貯めていた内職の報酬、5万円が消えていたのだ。引き出しの中を確認すると、隠しておいたはずの封筒が空っぽになっていた。帰宅したトオルを問い詰めると、彼は新しいゴルフバッグを自慢げに撫でながら答えた。
「ああ、俺が養ってやっているんだ。お前の小銭くらい俺が好きに使って当然だろ」
「それは生まれてくるこの子のために必死で貯めたお金なのよ。返して」
「黙れ。俺の稼ぎで飯を食っている分際で、偉そうな口を叩くな」
私の絶望をよそに、妊娠中期に入るとこれまでにない激しい悪阻が私を襲った。水すら受け付けず、トイレと布団を往復するだけの私に、トオルは慈悲など見せなかった。枕元で震える私の横で、彼はわざと匂いのきついカップ麺を啜り始める。
「飯も作れないなら、俺が美味そうに食っている匂いでも嗅いで満足しろよ」
「お願い。今はその匂いが本当に辛いの。向こうで食べて」
「そんな嫌そうな顔をするな。腹の子も匂いを喜んでいるはずだぞ」
込み上げてくる不快感に耐え切れず、私はトイレへ駆け込んで何度も激しく嘔吐した。背後から追いかけてきたトオルは解放するどころか、侮蔑の視線を私に向ける。
「これだから豚は下品で嫌いなんだ。見ているだけでヘドが出るよ」
「ひどい。どうしてそんなひどいことが言えるの?」
「事実を言って何が悪い。さっさと片付けて寝ろよ。見苦しい」
冷たい言葉を浴びせられながら、私はこの男を必ず社会的に抹殺すると誓った。
ある日の昼過ぎ、私はトオルが玄関に忘れていった弁当を職場まで届けることにした。少しでも夫のメンツを保てればという、今思えば愚かで無意味な親切心だった。会社の受付でトオルを呼び出すと、彼は鬼のような形相でロビーに現れた。
「何しに来たんだ。さっさと帰れと言っているのが聞こえないのか」
「お弁当を忘れていたから」
「そんなものいらないんだよ。恥をかかせに来たのか」
感謝の言葉など欠片もなく、彼は私を力任せに突き飛ばして追い返そうとする。あまりの剣幕と周囲の視線に押され、私はすごすごとその場を立ち去るしかなかった。しかしエレベーターに向かう途中、同僚たちに話している声が聞こえた。
「すみません。今の女、俺にずっと付きまとっているストーカーなんです」
「うわあ、それは大変ですね。トオルさんも災難なんだ」
「警察に相談しているんですけど、ああいう狂った女は本当にしつこくて困ります」
実の妻をストーカー扱いして笑いものにする彼の卑劣さに、私の心は完全に凍りついた。
やがて出産の時期を迎え、私は実家へ里帰りすることになった。トオルはせいぜいゆっくりしてこいと、厄介払いするように私を送り出した。実家で無事に元気な女の子を出産し、私は一か月の産褥期間を過ごすことになる。慣れない育児と寝不足に追われながらも、ようやく自宅へ帰る日がやってきた。
生後一か月の我が子を抱き、重い荷物を背負って懐かしいマンションに到着する。しかし玄関の鍵穴に鍵を差し込んでも、全く回る気配がなかった。何度も確認したが、鍵が中まで入りきらず、何かに拒絶されているような感覚がする。私が困惑していると、突然内側からガチャリと扉が開いた。そこから現れたのは、派手なメイクをして露出の多い服を着た見知らぬ女だった。
「あら、どちら様かしら?」
「どちら様って?ここは私の家です。あなたは誰なんですか?」
「私の家?何言ってるの?ここはトオル君と私の家よ」
彼女はリコと名乗り、まるで自分の城であるかのように堂々と振る舞っていた。強引に家に上がり込むと、寝室から出てきたトオルは、赤ちゃんを抱く私を見ても眉一つ動かさなかった。
「ああ、ようやく帰ってきたのか。でも残念だが、もうお前の居場所はないぞ」
「ちょっと待って。この子はどうするの?それに私の荷物はどこにやったの?」
「邪魔な荷物は全部業者に頼んで処分させた。彼女と住むから、お前はもういらない」
部屋の中を覗き込むと、私が大切にしていた家具も思い出の品も消えていた。さらには赤ちゃんのために用意していたベビーベッドや肌着までもが消えている。
「豚は実家に永住してろ。二度とその汚い顔を俺に見せるなよ」
彼は力任せにドアを閉め、鍵を閉める乾いた音が廊下に虚しく響き渡った。閉ざされた扉の向こうからは、トオルとリコの下品で楽しげな笑い声が聞こえてくる。私は冷たい廊下で驚いて泣き出した我が子を必死に抱きしめることしかできなかった。
「大丈夫よ。ママが絶対にあの男を許さないからね」
しかし、この絶望的な状況こそが、彼が自ら掘った墓穴の始まりだった。震える手でスマホを取り出し、私は以前から連絡を取り合っていた弁護士に電話をした。
「先生、準備は整いました。今、家から追い出されました。荷物も全部捨てられました。もう情け容赦はしません」
数日後、私は実家で入念な準備を整え、信頼できる弁護士と共に作戦会議を行った。弁護士は私の収集した証拠の数々を見て、感嘆したように深いため息をついた。
「不当な追い出し、不法行為、そして不倫。全てこちらに勝ち筋があります」
「先生、あいつが一番痛がる方法で全て終わらせたいんです。協力してください」
「承知いたしました。彼の隠し資産を含め、徹底的に洗い出しましょう」
心強い言葉を胸に、私は数日間牙を研ぎながら決行の日を待ちわびた。
作戦の当日、私は強力な味方を引き連れてあの思い出のマンションへと向かった。隣に立つのは私の姉ヒサコ。彼女は現在大学ラグビー部のマネージャーを務めている。
「チサト、準備はいい?うちの可愛い弟分たちがあんたの最強の味方だよ」
ヒサコの背後には、総勢15人の屈強なラグビー部員たちが整列していた。全員がラグビーで鍛え上げた鋼のような肉体を持ち、その威圧感は凄まじい。
「お姉ちゃん、本当にありがとう。みんな、今日はよろしくお願いします」
「チサトさん、任せてください。ヒサコさんにはいつもお世話になっているので、恩返しのつもりで頑張りますから」
その力強い言葉に後押しされ、私たちは弁護士を先頭に、かつての我が家であったマンションの扉の前に立った。合図とともに、私は一気にドアを開け放ってリビングへと突入した。そこには私の家具を全て捨てた部屋で、下品にくつろぐトオルとリコの姿があった。
「な、なんだお前ら。勝手に入ってくるな。ここは俺の家だぞ」
「勝手なのはどっちよ?ここは私の父の家で、私の家なのよ。出ていきなさい」
トオルは突然の侵入者に驚き、ソファーから飛び起きてこちらを指さして喚き散らす。隣に座るリコも、私の後ろに控える男たちの姿を見て顔を真っ青にしていた。
「何よこれ。警察呼ぶわよ。不法侵入じゃない。トオル君、何とかしてよ」
「不法侵入なのはあなた方です。先ほどチサトさんが言ったように、このマンションはチサトさんのお父様の所有物です」
弁護士が冷静に告げると同時に、私は背後の部員たちに鋭い合図を送った。
「みんな、お願い」
私の号令とともに、15人の部員たちが一斉にリビングへと踏み込んだ。彼らはトオルとリコが喚き散らすのを完全に無視し、二人の私物を箱に詰め始めた。
「やめろ。俺の時計を触るな。傷がついたらどうするんだ」
「静かにしてろ。俺たちが丁寧に、このリコとかいう女の実家へ送ってやるから安心しろ」
部員たちはトオルを軽々と片手で制し、もう片方の手で荷物を次々と運び出していく。
「私の服、ちょっと。それ高いんだから乱暴に扱わないでよ」
「あんたの服なんて、先に捨てられたベビー服の痛みに比べたらゴミよ」
姉のヒサコがリコの前に立ちはだかり、鋭い視線で彼女の動きを完全に封じ込めた。トオルとリコの荷物はあっという間に廊下へ並べられ、トラックへと運ばれていく。泣き叫ぶリコと、顔を真っ赤にして怒鳴り散らすトオルの姿はあまりに滑稽だった。
「さて、トオルさん。ここからは静かにお話をしましょうか。座ってください」
弁護士は書類をテーブルに広げ、彼の目の前に一枚のリストを突きつけた。
「ここには、トオルさんが独身時代から巧妙に隠し持っていた2000万円の資産リストがあります」
「なんでお前がこれを知っているんだ?これは俺個人の、俺だけの金だ」
「あなたが油断して寝ている間に、通帳のコピーも隠し口座の番号も全部調べたのよ」
トオルは青ざめてそのリストを掴み、何度も何度も内容を確認していた。
「不倫、暴言、そして育児用品の損害賠償。これらを合わせれば、この資産は全て消えます」
「私の内職のお金を盗んでゴルフバッグを買ったことも、絶対に忘れていないわ」
トオルは言い返そうと口を動かしたが、弁護士の鋭い追求に言葉を完全に詰まらせた。
「そして、不当な追い出し行為は非常に悪質です。これが会社に知られたら、どうなりますか?」
「そ、それは待ってくれ。会社にだけは。会社にだけは連絡しないでくれ」
彼はようやく自分の置かれた状況の深刻さに気づき、その場に力なく崩れ落ちた。
「ちょっとトオル君、何とかしてよ。こんなことがバレたら親に殺されるわ」
リコがトオルにすがりついたが、今の彼には彼女を守る余裕など微塵も残っていない。
「リコさん。あなたにも不倫の慰謝料をたっぷり請求させてもらうから、覚悟してね」
弁護士は鞄から一通の重要書類を取り出し、トオルの目の前に静かに置いた。
「ここに離婚届と慰謝料の支払いに関する合意書があります。署名を」
「これを書けば、これ以上は騒がないんだな。警察沙汰にしないんだな」
「合意書にサインし、資産を即座に引き渡すのであれば、今は見逃しましょう」
トオルは震える手でペンを握り、自らの破滅を認める署名を渋々書き込んでいった。2000万円という大金を、彼は自らの愚かな過ちによって全て失ったのだ。
「これで全て終わりだと思わないでね。あなたの罪は、これからもっと重くなるから」
私は署名が終わった書類を確実に回収し、部員たちに最終的な撤収を指示した。トオルとリコは、自分たちの荷物が詰まれたトラックを呆然と見送るしかなかった。
空っぽになったリビングで、私はようやく深く長い呼吸をすることができた。
「おい、せめて今夜寝る場所くらいは確保させてくれよ。ひどすぎるだろう」
「私と赤ちゃんを追い出した時に、そんな心配をしてくれたかしら。さあ、あんたたちも早く出ていきなさい。これ以上ここにいるなら力づくだよ」
屈強なラグビー部員たちが腕組みをして取り囲むと、トオルは怯えたように後ずさりした。
「わ、分かったよ。行けばいいんだろ」
「行けば?言い訳するなよ」
捨て台詞を吐きながら、トオルはリコの手を引き、逃げるようにマンションを後にした。彼らが立ち去った後の静寂の中で、私は窓を開けて部屋の空気を入れ替える。気配の悪い二人の気配を、一刻も早くこの部屋から追い出したかった。
「まずは成功ですね。ですが、彼の資産を完全に回収するまで気を抜かないでください」
「はい、先生。次のステップについても準備を進めていただけますか?」
「もちろんです。彼が会社でどのように振る舞うか、監視を続けましょう」
私は窓の外に広がる景色を眺めながら決意を新たにした。赤ちゃんとの平穏な生活を取り戻すために、私は最後まで戦い抜く覚悟だ。
「トオル。あなたが失ったのはお金だけじゃない。これから社会的な信用も全て失うのよ」
私は握りしめた離婚届を大切に鞄にしまい、姉や部員たちに深く頭を下げた。
「皆さん、本当にありがとうございました。おかげで一歩前に進めそうです」
「チサトさん、困ったことがあったらまたいつでも呼んでくださいね」
彼らの力強い笑顔が、傷ついた私の心に少しずつ勇気を与えてくれた。
マンションからトオルとリコを追い出した翌日、私のスマホに一件の奇妙な着信があった。表示されたのは知らない番号で、私は警戒しながらも通話ボタンを押した。耳の向こうから聞こえてきたのは、感情を排した不気味な機械音声だった。
「お前の住んでいるマンションに爆弾を仕掛けた。すぐに逃げなければ命はないぞ」
あまりにも非現実的な内容だったが、万が一ということもある。私は震える手で赤子を抱き上げると、即座に警察に通報を行い、最低限の荷物を持って部屋を飛び出した。
「大丈夫よ。ママが絶対に守ってあげるからね」
階段を駆け下りながら、私は必死に自分に言い聞かせ、マンションの入り口へと急ぐ。通報から数分後、現場にはパトカーが数台到着し、辺りは物々しい警戒体制が敷かれた。警察官がマンションの住人を避難させ、私の部屋の周辺を慎重に捜索し始めた。
そんな騒動の最中、信じられないことにトオルが会社の同僚たちを引き連れて姿を現したのだ。その隣には、ちゃっかりとリコも寄り添い、トオルの腕に下品に絡みついている。
「おっと、なんだなんだ。随分と派手なことになっているじゃないか」
トオルはわざとらしく驚いたふりをして、マンションを囲む警察官たちに近づいていった。
「危険ですから下がってください。現在爆発物が仕掛けられたとの通報があり、捜索中です」
その言葉を聞いた同僚たちは「爆弾、マジかよ」と騒然となり顔を強張らせる。しかしトオルとリコだけは、この緊迫した状況をどこか楽しんでいるように見えた。
「あら、物騒ね。トオル君、こんなところにいたら私たちまで危ないわ」
「そうだな。せっかく同僚のみんなを招待しようと思ったが、これじゃ無理だ」
トオルは同僚たちの方を向き、呆れたように肩を竦めて大声で提案した。
「おい、みんなこんな騒がしい場所は早く立ち去ろうぜ。近くの店で俺が奢ってやるよ」
彼はそう言うと、警察官の警告などどこ吹く風で同僚たちを誘導し、駅前の方へと去っていった。そして私は弁護士を呼び出し、彼らが向かった居酒屋へ行くことにした。私たちはトオルたちから見えない席に座り、彼らが陣取った座敷の様子を伺うことにした。
座敷からはトオルの得意げな声が漏れ聞こえていた。
「いやあ、驚かせて済まなかったな。実はさっきの騒ぎ、例のストーカーの仕業なんだよ」
彼は同僚たちにビールを注ぎながら、さも自分が被害者であるかのように語り始める。
「あの女、俺に執着しすぎて、ついに自作自演で警察まで動かすようになったらしい」
リコもトオルの言葉に合わせ、嘆かわしい妻を演じるようにため息をついて同調した。
「本当に怖いわ、あの女。私たちの幸せを壊すためなら、どんな嘘でもつくのよ」
「みんなも気をつけてくれよ。あんな狂った女に関わると、人生が台無しになるからな」
トオルはリコの肩を抱き寄せ、彼女を自分の唯一の妻として同僚たちに紹介していた。同僚たちは彼の話を鵜呑みにし、「最低な女だな」「トオルさんも大変だ」と口々に私をののしる。トオルは満足げに酒を煽り、私がいかに異常な人間かを種にして酒宴を盛り上げていた。
私は弁護士と顔を見合わせ、絶好のタイミングで座敷の扉を勢いよく開け放った。
「誰が狂った女だって?随分と楽しそうな飲み会じゃない?」
私の突然の登場に、トオルは手に持っていたグラスを床に落として激しく動揺した。
「ストーカーが来たぞ。おい、誰かこの女を追い出せ」
彼が叫ぶと、同僚たちからも一斉に「帰れ」「警察を呼ぶぞ」という声が飛ぶ。私は冷静にスマホを取り出し、先ほどかかってきた脅迫電話の番号を画面に表示させた。
「みんな、静かにして。今から面白いものを見せてあげるから」
私はスピーカー機能をオンにして、その番号へとかけ直した。すると静まり返った店内に、トオルのすぐ隣に置かれたリコのバッグから着信音が鳴り響いた。
「え、あ、これ私のスマホ」
リコが慌ててバッグを隠そうとしたが、もう手遅れだった。同僚たちの視線が一斉に彼女へ集中する。
「そのスマホから、チサトさんの元へ機械音声による爆破予告が行われました」
弁護士が前に踏み出し、名刺を差し出しながら同僚たちに向けて冷静に説明を始める。
「この女性は妻ではありません。トオルさんの不倫相手であり、真実の妻はここにいるチサトさんです」
「嘘だ。こいつはただのストーカーだ。証拠でもあるのかよ」
トオルは必死に否定したが、私は用意していたボイスレコーダーの再生ボタンを押し込んだ。スピーカーから流れてきたのは、里帰りから戻った私を彼が冷たく追い出した時の声だ。
「彼女と住むから、お前はもういらない」
「豚は実家に永住してろ」
「ふふふ。私たちの邪魔をしないでよね。荷物は全部捨てちゃったわよ」
店内に響き渡るリコの下劣な声に、さっきまで私をののしっていた同僚たちは凍りついた。トオルの嘘が、衆人監視の中でこれ以上ないほど見事に粉砕された瞬間だった。
「トオル、お前、奥さんと子供を追い出したのか」「ストーカーって嘘だったのか」「爆弾騒ぎまで自分たちで仕組んだのかよ」「警察まで騙して何考えてるんだ?」
同僚たちの視線は、一瞬にして侮蔑の色へと変わった。トオルは顔を引きつらせ、脂汗を流しながら言い訳を探して視線を泳がせていた。
「ち、違うんだ。これは、騒ぎを起こせばあの女が怖がって出ていくと思っただけで」
彼が口にした、あまりにも短絡的で自己中心的な動機に、その場にいた全員が呆れた。
「俺はただ、リコと二人で静かに暮らしたかっただけなんだ。悪いのは、しつこい女の方だろう」
最後まで自分の非を認めようとしない彼の姿に、同僚たちは本気でドン引きしていた。
「爆破予告は威力業務妨害及び脅迫罪に当たります。すぐに警察にあなたを突き出すこともできるんですよ」
「いや、私、捕まりたくない。トオル君がやれって言ったのよ」
リコは責任をトオルになすりつけ始め、二人は同僚たちの前で見苦しい言い争いを始めた。私はその様子を冷ややかに見つめながら、心の中でようやく溜飲が下がるのを感じた。トオルの積み上げた嘘の城は、今ここで完全に崩れ落ちたのだ。同僚たちの侮蔑に満ちた表情が、トオルにとって何よりの罰になることを、私は知っている。
やがてパトカーのサイレンが近づき、トオルとリコは青ざめた顔で店を連行されていった。私は同僚たちに一度だけ深く頭を下げ、弁護士と共に堂々とした足取りで店を後にした。
居酒屋での醜態が知れ渡った翌日、トオルを待っていたのは想像を絶するほど冷酷な現実だった。全社員に嘘をつき、実の妻をストーカー扱いした挙句、爆弾騒ぎまで起こした男を許す者などいなかった。出社した彼に向けられたのは、情けのかけらもない氷のように冷たい視線の刃だ。上司からも同僚からも完全に無視され、彼は職場での居場所を完全に失うことになった。
トオルは針のむしろのような環境に耐え切れず、わずか一週間で逃げるように会社を辞めた。しかし彼の悪評は業界全体に瞬く間に広がり、再就職の道はどこを探しても閉ざされていた。
弁護士は、警察に連行された件に対して非常に有利な条件での示談交渉を突きつけた。
「刑事罰を免れる代わりに、資産の全額を慰謝料として支払うことが条件です」
トオルは逮捕の恐怖に震え上がり、2000万円を超える全資産を私に譲渡する合意書にサインをした。一文無しになったトオルは、身内からも「一族の恥」と絶縁され、完全に孤立した。
一方、不倫相手のリコも多額の慰謝料請求を受けて、実家を追い出されるはめになった。金という絆で繋がっていた二人は、困窮すると同時に互いを激しく罵り合い始めた。最後には道端で取っ組み合いの喧嘩を繰り広げ、警察に保護されるという情けない結末を迎える。
現在トオルは、都会の片隅にあるボロアパートでその日暮らしの日払い仕事に追われる日々だ。
「どうして俺が、こんな汚い仕事をして生きていかなきゃいけないんだ」
かつて私を豚と呼び捨てにした傲慢な姿はなく、彼はただ怯えたように日々を過ごしている。一方の私は、回収した慰謝料を元に、実家の近くで念願だったカフェをオープンさせた。
「いらっしゃいませ。今日もいいお天気ですね」
お店には、姉のヒサコやあの時助けてくれたラグビー部の学生たちがスタッフとして集まってくれる。笑い声の絶えない店内で、彼らは「チサトさんの料理は最高だ」と笑いながら手伝ってくれるのだ。私は健やかに育つ娘を抱き上げ、窓から差し込む柔らかな陽ざしを全身に浴びた。かつての地獄のような日々は、もう遠い過去の出来事である。
「さあ、今日も一日、笑顔で頑張りましょうね」
私は心からの幸せを噛みしめながら、大切な仲間と共に新しい人生を力強く歩んでいる。



