手首を掴まれた瞬間、心臓が跳ねた。逃げようとしたのに、二人の男に挟まれて道を塞がれた。桃貝——この地域でホテル街を意味する言葉。駅への近道だと分かっていても、夜のこの場所を一人で抜けるのは危険だと分かっていた。でも、龍太に電話を切られた悔しさと、冷蔵庫で冷やしてある塩バニラ味の酎ハイのことばかり考えていた。
「姉ちゃん、いい体してんじゃねえか。一緒に遊ぼうぜ」
「結構です。急いでるので」
「俺らが暇なんだよ。三人でも遊べる場所ができたって言うからさ。喜ばせてやるよ」
男の手を振りほどいて、回し蹴りを食らわせた。顎にヒールが入り、男がその場にうずくまる。ああ、龍太がくれたあのスニーカーで蹴ってしまった。つい最近もらったばかりなのに。
「おい、浩二、大丈夫かよ」
「ああ、なんとか」
隙を見て走り出したけど、二人がかりで再び捕まった。その時、男の一人が言った。
「ここは大和組の持ち物だから、フロントに大和組って言えば通せるらしいぜ」
大和組——この土地で勢力を持つ組。私はその名前を聞いて、逆に冷静になった。
「あんたたち、大和組って言ったわね。この土地で暮らしてたら常識でしょ」
「お姉ちゃん、知ってんのか?」
「そりゃね。で、あんたたち、私がどんなに抵抗したって、仲間を呼んで抑え込むつもりでしょ。だったら二人を相手にした方がマシよ」
私は両手を上げて降参のジェスチャーをした。男たちはほくそ笑みながら言った。
「分かってんじゃねえか。じゃあ入ろうぜ」
ちょっと待って、と私は言った。
「私、そういうところでするの、なんとなく不衛生な感じがして嫌なんだよね。いつもうちでって決めてるの。うちに来ない? いっぱい気持ちいいことできるよ」
「なんだよお前、男二人でもいいのかよ。変態だな」
「最初にやるのはじゃんけんだからな。がっついちゃって子供みたい」
私はにっこり笑いながら心の中で「バカとしか言いようがない」と思っていた。私は東大寺なゆた、24歳のごく一般的な会社員——いや、正確には東大寺組の次期組長。この土地で一番のヤクザの組長の娘だ。
男たちが期待に胸を膨らませて私の家に向かう。駅の北口を出てすぐの寂しい通りに入った時、私は低い声で言った。
「いいか、あんたら逃げなよ。もうここから逃げられないからね」
玄関のカードキーをかざし、暗証番号を打ち込んだ瞬間、二人の男はようやく何かおかしいと気づいた。
「て、てめえ、何者なんだよ!」
「私のうちよ。文句ある?」
その瞬間、数人の男性が玄関から駆け出してきた。
「お嬢さん、お帰りなさいませ」
「龍太、迎えにも来ないでなんで家にいるのよ」
「すみません、お嬢さん。仕事中に屋根から落ちまして、ついさっきまで病院にいたんです」
龍太はギプスで固められた左腕を見せた。彼は私の父、東大寺剛造の側近であり若頭。私の護衛も務めてくれている。
「あの、俺たち、これ、どういう状態なんですか?」
「大和組の組長の娘を傷物にしようとしたのよ。覚悟はできてる?」
「覚悟って、おい、あんたが誘ったんだろうが!」
私はいじめにされながらも悪態をつく男に回し蹴りをした。
「うるさい。あんたたちが鼻の下を伸ばして勘違いしただけでしょうが」
このやり取りは、私のバッグに忍ばせてあるGPSタグと隠しマイクで全部親父に筒抜けだ。私は幼い頃から父の監視対象。大切な娘だから何かあってからでは遅いという理由で。
「勘違いさせるようなこと、お嬢さん結構言ってましたね」
「ちょっと龍太、あんたも聞いてたの?」
「その、聞くつもりはなかったんですが、病院から帰って親父さんに報告に行った時に」
龍太が顔を真っ赤にして私を見た。あの「締め上げる」と言い間違えた言葉や「家の中で服を脱がない」といった発言を全部聞かれてしまったようだ。
「そんなんで責めないでよ。こっちが恥ずかしくなるでしょ。それに龍太の周りには女なんて五万といるんでしょう」
「いえ、俺は小さい頃からずっとお嬢さん一筋です」
まっすぐな目でそんなことを言われたら、私はもう何も言えなくなってしまった。
その時、扉が勢いよく開けられ、父が登場した。右手にはしっかりと磨かれた真剣が握られている。
「お前らか、俺の可愛い娘を手ごめにしようとしたのは」
「パパ、大丈夫よ。私、無事だから。むしろこの人たちは私の回し蹴りを食らった被害者だから」
父が笑った。
「さすがなゆただ。武術を教え込んでおいてよかったよ」
「そのせいで向こうももらい手がつかないんですけどね」
すると突然、龍太が父に向かって言った。
「親父さん、俺がなゆたさんの片腕となって東大寺組を支えます。お嬢さんを、なゆたさんを俺にください」
私は目をまんまるくして龍太を見た。
「ちょっと龍太、あんた空気読めよ。今そんなことを話し合う時間じゃないわよね。それにそのギプスで固定されてる腕で私を支えるって? そんなの100万年早いわよ」
私は憎まれ口を叩くけど、顔が真っ赤になっていたのでどうにも憎まれ口には響かない。
「いや、ツンデレなお嬢さんのそういうところが好きなんですよ」
私は恥ずかしくなってその場にうずくまってしまった。父はそれを怯えているものだと思ったらしい。
「なあ、お前ら、海と海外、どっちがいい?」
「海と海外?」
「おおよ。お前らには馬のように働いてもらうぞ。簡単に殺めたりはしねえから安心しな。漁業の漁船の乗り組み員か、海外なら発展途上国の土地の開拓、もしくは日本の業者が船便で送ってきた古い自動車や金属機械の仕分けだ。もちろん引き受けてくれるのは国外の業者だから、労働に関する法律なんて無視よ。それにあんたたちに落とし前をつけさせるんだから、もちろんただ働きよ」
大和組の組長にはすでに話はつけてあると父は言った。二人の男は恐怖で声も出ず、東大寺組の構成員たちによって外へ連れて行かれてしまった。部屋には父と私と龍太の三人だけが残された。
「そのスニーカー、やはりお嬢さんに履いてもらえたんですね」
「いつものパンプスのかかとが折れたから仕方なく履いてやったのよ」
「あの、さっきの告白なんですけど」
「だから空気読めって言ってるの。なんで私が龍太がくれたスニーカーを履いているか、少しは気づきなさいよ。誕生日だから受け取ってあげたこのバッグも、ピアスも、財布を忘れたって言って龍太に買わせた口紅だって、全部龍太がくれたものだから使ってあげてるんでしょ」
「なゆた、お前、随分ひねくれてるな」
「だから俺がお嬢さんをお引き受けします。こんなひねくれた女を扱えるのは俺しかいません」
「龍太、お前、よくも娘を——」
「パパ、ストップ! 龍太は一応怪我人だから」
私は父に言った。
「私も龍太が東大寺組を背負ってくれたら言うことないわ。この人を逃したら、もう絶対それ以上の人見つからないからね」
父は黙ったまま龍太と握手を交わした。右手には日本刀が握られたままだ。
「だから私が電話したら、三分以内に迎えに来ること。私が塩バニラの酎ハイを飲みたいから早く帰りたかったのに、迎えに来れないって言い出したあんたが悪いんだからね」
変な始まり方だったけど、これでいいことにしよう。あの私に絡んだ二人の男は、今海外のマンション建築現場で働かされている。日本の建築現場とは訳が違うのでなかなか慣れないという報告が来た。これが終われば海外の貿易会社で中古車の流通に携わるらしい。その後は山で鉱物採掘、とスケジュールはびっしりだ。逃げ出そうと思えば逃げ出せるはずなのに、真面目に働いているようだ。
時は流れ、来月は私の結婚式。数年後には私の組長就任の予定だ。それまで奥様修行よりも組長修行に精を出すと決めた。龍太に背中を押してもらいながら頑張ります。



