リビングで夫の手を握った時、彼のスマートフォンから、あの日、妻が水をかけられ、笑い者にされていた音声が流れ出した。あの瞬間、私は、息子夫婦の仮面が剥がれ落ちるのを見たんだ、「おばさん、その汚い格好でソファに座らないでくださいね。」という、あの冷たい言葉を、よし子は、ただ黙って聞いていた長年連れ添った妻が、実の息子から、こんな仕打ちを受けていたなんて、今でも信じられない,あの日、私は彼女のバッ…

リビングで夫の手を握った時、彼のスマートフォンから、あの日、妻が水をかけられ、笑い者にされていた音声が流れ出した。あの瞬間、私は、息子夫婦の仮面が剥がれ落ちるのを見たんだ、「おばさん、その汚い格好でソファに座らないでくださいね。」という、あの冷たい言葉を、よし子は、ただ黙って聞いていた長年連れ添った妻が、実の息子から、こんな仕打ちを受けていたなんて、今でも信じられない,あの日、私は彼女のバッ...

玄関のドアを閉めた瞬間、よし子の肩が小刻みに震えているのが見えた。彼女の手には、どこで汚したのか泥のついた古いタオルが握られていた。問い詰めても、彼女はただ「何でもないの。少し疲れただけ」と、今にも崩れ落ちそうなほどもろい微笑みを浮かべるだけだった。

私は確信した。あの家で、私の愛する妻に何かが起きている。平穏だった我が家に、不穏な影が忍び寄っている。その正体を突き止めるため、私はある決意をした。よし子が大切にしている使い古しのバッグ。その奥底に、私は小さな黒いボイスレコーダーを忍ばせたのだ。

よし子が息子夫婦の家から帰ってくるたびに、彼女の様子はおかしくなっていった。洗面所に閉じこもって、押し殺したような泣き声を漏らすようになったのだ。くつろぐはずの我が家で、彼女はただ震えていた。あの日、息子の嫁、美咲の冷たい言葉が、静まり返ったリビングに突き刺さったのだ。「ねえ、おばさん、いつまでここにいるつもり? 正直、あなたの顔を見るだけで吐き気がするの。さっさと消えてくれない? 」その言葉に、よし子は石像のように固まり、黙って俯くだけだった。つい数ヶ月前まで、あんなに仲の良かった家族なのに。

最近のよし子は、何かがおかしかったのだ。

ずれさん、このお料理、どうやって作るんですか? 今度、教えてください。結婚当初は、あんなに熱心に嫁の美咲がよし子に話しかけていたのに、いつの間にか、その関係は一変していた

ある日、よし子の顔に小さな痣があるのを見つけた。「よし子、その顔、どうしたんだ?

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」私が驚いて尋ねると、彼女は慌てて手で隠し、視線を泳がせた。「え? あ、これ、洗濯物を干そうとして、物干しにぶつけちゃったのよ。ドジよね。」力なく笑ったが、その瞳は恐怖に震えているように見えた。さらに不審な点は続いた。よし子が息子夫婦のために作って持っていったはずの特製の煮物が、息子夫婦のマンションのゴミ捨て場に、そのまま捨てられているのを、偶然私が見つけてしまったのだ

私はたまらず、息子の健二に電話をかけた。「健二、お前、よし子に何かしてないか? 」しかし、健二の返答は冷やかなものだった。「親父、何を言ってるんだよ。母さんは喜んで手伝いに来てるんだぜ。美咲だって感謝してる。被害妄想もいい加減にしてくれよ」電話は、一方的に切られた

私は決意した。このままでは、よし子が壊れてしまう。彼女が隠し通そうとしている真実を、私は何としてでも暴かなければならない。たとえ、それが息子夫婦との絶縁を意味することになったとしても

私は翌日、家電販売店へ向かった。「一番小型で、長時間録音できるボイスレコーダーをください。」店員にそう告げる私の声は、怒りで震えていた

あの日、よし子が「行ってきます」と家を出た。彼女のバッグの底には、タオルに包まれた小さなレコーダーが、冷たく潜んでいた。夕方、よし子が帰宅した。彼女の服は、なぜか水に濡れたように湿っており、髪は乱れていた。「お帰り、よし子、大丈夫か? 」「ええ、ただいま。ちょっと雨に降られちゃって。」しかし、外は雲一つない快晴だった

私は彼女が脱ぎ捨てたバッグから、慎重にレコーダーを取り出した。書斎に入り、鍵をかける。心臓の鼓動が耳元まで響いてくる。再生ボタンを押した瞬間、私の平穏な日常は、音を立てて崩れ去った

スピーカーから聞こえてきたのは、聞き慣れたマンションのオートロックが解錠される音だった。「あら、おばさん、今日もお見えになったの?

連絡くらいしてくださらないと困るわ。」それは、いつものおっとりとした上品な声ではなかった。低く、獲物を威嚇するような、氷のように冷たい声だった

「ごめんなさいね。健二さんから、今日は仕事で遅くなるから、蓮君の面倒を見て欲しいって頼まれて、勝手に上がって悪かったわね。」よし子の声は、どこか怯えているように聞こえる。「健二さんが、ふうん。あいつも余計なことを。まあいいわ。上がればいいけどね。」そして、容赦ない言葉が続いた。「おばさん、その汚い格好でソファに座らないでくださいね。その服、何年来てるんですか? 雑菌が映りそうで怖いわ。」よし子は反論しなかった。ただ静かに「気をつけるわ。」と言い、掃除機をかける音が聞こえてきた

一時間ほど経っただろうか。「バタン」という大きな音が聞こえ、息子の健二が帰宅した。「ああ、疲れた。「なんだ? お袋、また来てるのか? 」そこには、母親を慕う響きなど微塵もなかった。まるで邪魔な障害物を見つけたかのような、疎ましそうな言い方だった

「健二君、聞いてよ。「おばさんったら、今日も勝手に入ってきて掃除してるのよ。「私がちゃんとやってるって言ってるのに、当て付けみたいで嫌な感じねえ。」美咲の声に、健二が続けた。「母さん、美咲がそう言ってるんだから、いい加減にしてくれよ。「正直、母さんが来ると、部屋が古臭くなるんだよ。」その言葉は、身の母親に向けるものとは思えないほど冷たかった

地獄は、まだ序章に過ぎなかった。「ガシャーン。」何かが割れる激しい音。「きゃっ。「ちょっと、おばさん、何してるのよ。」美咲の金切り声。「おい、母さん、それ、美咲が気に入ってたイタリア製の花瓶だぞ。「いくらしたと思ってるんだ?

弁償できるのかよ。」健二の怒鳴り声。「ごめんなさい。」よし子の震える声。しかし、その後の音に、私は凍りついた。「ジャー」という、大量の水が浴びせられるような音。「うわっ。」よし子の短い悲鳴。「あら、ごめんなさい。「手が滑っちゃった。」お母さん、掃除で汚れてるみたいだから、綺麗にしてあげようと思ったの。」美咲がクスクスと笑っている。そして、あの日、よし子が濡れて帰ってきた理由が、繋がった

「あわ、ありがとう、美咲さん。」よし子の、壊れたような笑い声。そして、健二は笑っていた。身の母親が水をかけられ、恥ずかしい目に遭っているのに、美咲と一緒に笑っていたのだ。「おい、母さん、濡れたまま部屋に入らないでくれよ。「廊下で拭いて、さっさと帰れ。」吐き捨てるような言葉だった

録音は、そこで一旦途切れた。その後、ノイズの中から、よし子が帰った後の夫婦の会話が聞こえてきた。「ねえ、健二君、例の計画、うまく進んでる? 」美咲の、ねっとりとする甘い声。「ああ、生成したのおばさん、水をかけられた時の顔見た? まるで捨てられた子犬みたいに怯えちゃって、傑作だったわ。」「わはは、本当だな。「まあ、お袋も、いい加減空気を読めばいいんだよ。」「ねえ、健二君、そんなことより、本題に入りましょうよ。「Aの計画、いつ実行するの? 私、もう限界なの。」「分かってるよ。「だが、焦りは禁物だ。」まずはあいつらを精神的に追い詰めて、自分たちの無力さを思い知らせる。「そうすれば、あの古い実家を売り払って、その金を俺たちに渡すって言う提案を、スムーズに受け入れるはずだ。」」

実家を売り払う。私は耳を疑った。あの家は、私が35年のローンを組んで、血の滲むような思いで守ってきた、私たち夫婦の唯一の住処だ。よし子と一緒に庭に四季折々の花を植え、健二の成長を刻んできた、思い出の詰まった場所なのだ

さらに、健二の言葉は続いた。「大体、親父も親父だよな。「定年退職した後に、嘱託で働いてるみたいだけど、あの年で小銭を稼いだって、三文にもならないと思わないのかね。「中卒の叩き上げだかなんだか知らないけど、時代遅れなんだよ。」中卒。私は確かに、裕福な家の生まれではない。中学を出てすぐに働きに出て、現場で泥にまみれながら、必死に技術を磨いてきた。学歴がないことを馬鹿にされないよう、人一倍努力を重ね、役職にまでたどり着いたのだ。その稼ぎで、健二を中学校に入れ、大学まで卒業させたのだ。それを、身の息子から、「三文にもならない、時代遅れ」と切り捨てられるとは

美咲も、追い打ちをかけるように言った。「本当よね。「お義父さんも、お義父さんだわ。」あの学歴コンプレックスの塊みたいな顔、見てるだけでイライラする。「おばさんも、中卒の夫に尽くして一生を終えるなんて、ある意味、お似合いの惨めな人生よね。」

まあ、あと少しの辛抱だ。「あの実家を売却した金が入れば、俺たちの借金もチャラになるし、このマンションのローンも一括で返せる。」借金。健二には、借金があるというのか。「あいつらは、適当な格安の老人ホームにでも放り込めばいい。」「ああ、そうだ。「母さんには、ボケが始まってるって嘘をついて、施設に入れる手続きを進めよう。」」認知症という嘘で、よし子を施設に隔離し、財産を奪おうとしているのだこれは、私が育てた息子なのかこれが、私が新しい家族として迎えた女性の正体なのか

私は、怒りで目の前が真っ暗になり、椅子から崩れ落ちそうになった。涙が溢れて止まらなかった。「許さない。」この録音が、まだ終わっていなかった捕「ねえ、健二君、実はね、おばさんについて、もう一つとっておきの情報があるのよ。」「あの、おばさん、自分は誰の面倒を見てると思ってるのかしらね。」「ふふふ。」私の秘密、私が誰の面倒を見ている?

一体、彼女は何を知っているというのか

私は録音機の停止ボタンを押した。夜の静寂が、以前よりもずっと重く、冷たく感じられた

翌朝、私は思い詰めた顔でリビングに向かった。よし子はキッチンで、昨晩の出来事などなかったかのように、黙々と朝食の準備をしていた。しかしその手元はわずかに震え、時折、深いため息をついている

午前10時、静かな住宅街に、不似合いな高級車のエンジン音が響いた。インターホンが鳴り、モニターに映し出されたのは、健二と美咲さん、そして、見知らぬスーツ姿の男だった。私は冷や汗が背中を伝うのを感じながらも、思い切って玄関の扉を開けた。「よう、父さん、急に悪かったな。「大事な話があってさ。」健二は、昨日レコーダーで聞いたあの冷たい声とは打って変わって、いかにも親思いの息子という風体で入ってきた。「おばさん、お義父さん、ご機嫌いかが? 今日は、これからの家族のために、専門家の方に来ていただいたのよ。」美咲さんが紹介したのは、「シニアライフ・コンサルタント」と名乗る男、田中だった

リビングのソファに座ると、美咲は露骨に嫌悪感を示した。「おばさん、担当直入に言うわね。「この家、もう限界だと思わない。」ほら、そこの壁の壁紙も剥がれてるし、何より、古い家特有のカビ臭い匂いが鼻につくわ。」よし子が「ごめんなさい。」と小声で謝ると、美咲の言葉はさらに鋭さを増した。「掃除の問題じゃないのよ。「構造上の問題。」そして、よし子を病気扱いし始めたのだ。「おばさんだって、最近、物忘れが激しいんでしょう? 昨日だって、急に雨が降ったなんて、わけのわからないこと言ってたって、健二君から聞いたわよ。」「それ、認知症の初期症状よ。」

健二が身を乗り出してきた。「田中さんの提案なんだが、この家と土地を売却して、その資金で母さんを、最新のケアが受けられる施設に入れないか。」「親父も一人で母さんの介護をするのは無理だろう。「悪いようにはしない。」残った金は、俺たちが責任を持って管理してやるからさ。」田中という男が、鞄から何枚かの書類を取り出し、テーブルに広げた。「佐藤様、ご主人様の仰る通りです。「奥様のご様子を伺う限り、一刻も早い専門的なケアが必要です。」こちらは資産売却の委任と、施設入所の手続き書類です。」「今すぐサインをいただければ、全てこちらでスムーズに進めさせていただきますよ。」

よし子は真っ白な顔をして、震える手で書類を見つめている。「さあ、おばさん、あなたのためなのよ。「ここにサインしてね。」」美咲がペンよし子の手に握らせようとする。その時だった。美咲は、追い打ちをかけるように、私に向かって笑みを浮かべた。「そういえば、お義父さん、あなた、よし子さんには内緒で、毎月どこかにお金を振り込んでるわよね。「銀行の通帳、こっそり見せてもらったわ。」建設現場時代の愛人にでも貢いでるのかしら? それとも、学歴がないことを隠すための、怪しい裏口工作?

どちらにせよ、そんな不誠実な人の元に、よし子さんを置いておくわけにはいかないわ。」「ねえ、よし子さん、こんな夫、信じちゃだめよ。」よし子が、目を見開き、私を振り返った。「あら、図星かしら? たんまり貯めてるんでしょ。そんなの、卑怯ね。」「お母さん、見て、これがあなたの夫の正体よ。」美咲の声がリビングに響き渡る。私は、追い込まれていた

よし子の手が、ゆっくりとペンを握り、書類に向かって動き出した。その瞬間、私は彼女の手を、優しく、しかし力強く制した。「よし子、書かなくていい。」「あら、お義父さん、やっと喋ったわね。」美咲は勝ち誇ったように笑った。「でも無駄よ、「証拠は上がってるんだから。」しかし、彼女はまだ気づいていなかった。私が沈黙していたのは、追い詰められていたからではない、奴らの罪を、一滴残らずこの部屋の空気に刻み込ませるためだったのだ

私はポケットの中から、一台のスマートフォンを取り出した。そして、もう一つのボタンを押した。「ああ、生成した。あのおばさん、水をかけられた時の顔見た? 」リビングに響き渡る、美咲の卑劣な笑い声と、身の息子である健二の冷酷な言葉。スピーカーから流れるその音声は、今この場で、上品な仮面を被った二人の正体を、白日のもとにさらけ出していた

美咲の顔から血の気が引き、持っていたハンカチが指の間から滑り落ちた。「な、何よこれ。「違うの。」おばさん、これ、犯罪よ。「警察に訴えてやるわ。」美咲が狂ったように叫んだ. 私はゆっくりとスマートフォンの音量を下げ、深く息を吐き出した。「犯罪か。「自分の母親に水をかけ、認知症に仕立て上げて、財産を奪おうとする行為は、一体何と呼ぶのかな?

そして、私は、よし子の肩を抱き寄せ、彼女の耳元で静かに告げた。「よし子、今まで黙っていてすまなかった。「お前を不安にさせてしまったね。」でも、これだけは信じてほしい。「私は、お前を裏切るようなことは、一度もしていない。」」私はテーブルの上に、一冊の古い通帳を置いた。「例の、それ、それよ! 」美咲がそれを手に取り、ひったくるようにページを開く。「ほら見て、「毎月10万円、決まった個人名義の口座に振り込まれてるわ。」この、春樹って誰よ? この男、「まさか、お義父さんの隠し子、じゃないでしょうね。」「なあ、親父,隠し子がいたのかよ。」健二も、その言葉を肯定するように口を挟む

しかし、私は微動だにしなかった。「その、春樹というのは、私の弟の名前だ。」「30年前に、建設現場の事故で亡くなった、私のたった一人の弟だよ。」部屋の空気が、一瞬で凍りついた。「春樹には、身の妻がいたんだ。」「現場の安全管理を怠った会社の責任を問うこともできたが、当時の私は若く、力もなかった。」「春樹の妻は、ショックで体を壊し、子供を産んですぐに、後を追うように亡くなった。」「残されたその子は、施設に預けられた。」私は、さらに言葉を続けた。「だから私は決めたんだ。「中卒の私が、必死に働いて、春樹の息子、つまり私の甥を、立派に育て上げようと。」「毎月の振り込みは、その子の養育費であり、学費だった。」「彼は、私のことを、ただの遠い親戚の支援者だと思っている。」

美咲が鼻で笑った。「なんだ、偽善的ね。「でも、そんなことに大金を使って、自分の息子である健二君の生活を切り詰めるなんて、父親として最低じゃない。」「中卒の低所得者が、無理して格好をつけるから、私たちに迷惑がかかるのよ。」低所得者か。私は、少しだけ口角を上げた「美咲さん、君は私の通帳を見たと言ったが、残高の桁を、ちゃんと見たのかな? 」「えっ。」美咲が慌てて、通帳の最後のページを開いた.

そこには、健二が三千万と見積もっていた実家の売却益など、到底及ばないほどの数字が並んでいたスポーツ「数千万円どころではない。「一億円を超える残高。」「な、何よこれ、「どうして、中卒の作業員が、こんなにお金を持ってるのよ。」「私は、ただの作業員ではないよ。」「定年まで務めた会社では、特殊工法の特許をいくつか持っている、技術顧問だったんだ。」「嘱託で働いているのも、小銭を稼ぐためじゃない。」「私の技術を次世代に伝えるために、会社からどうしてもと頼まれたからだ。」

私は、スマートフォンの別の画面を開いた。そこには、ある大手建設会社の役員たちと並んで、笑顔で映る私の姿があった。「あ、あれ、この人、俺の会社の…」健二が息を飲んだ。写真の中で、私の隣に立っているのは、健二が務める大手企業の会長、加藤氏だった。「加藤会長とは、彼がまだ若手社員だった頃からの付き合いでね。」「当時、倒壊寸前の現場を、私の技術で救ったことがきっかけだ。」「今でも、個人的な相談を受ける仲だよ。」「そういえば、加藤会長が最近嘆いていたな。」「自社の看板を汚す、派手な生活と借金にまみれた若手社員がいるってね。」健二の顔が、今度は土色になった

「お前が欲しがっていた、この家を売ったお金なんて、私の資産からすれば、何ほどのものでもない。」「私は、健二が立派な大人になってくれると信じて、あえて質素な生活を送り、資産のことは黙っていた。」「よし子にも苦労をかけたが、将来、二人でゆっくり世界一周でもしようと、サプライズで貯めていたんだ。」私は、よし子の手を強く握りしめた。よし子は、驚きと感動で、声もなく涙を流している

すると、玄関のチャイムが、再び鳴った。「誰だ? こんな時に。」健二が、怯えたように玄関を見る。「どうぞ。」私が声をかけると、入ってきたのは、風格のある異厳のある老人だった。「しげるさん、お邪魔するよ。「おや、君の息子さんもいたのか。」現れたのは、健二が務める企業の、加藤会長、その人だった

「あ、あの、加藤会長、な、なぜ、ここに。」健二は、あまりの衝撃に、椅子から転げ落ちたていた加藤会長は、私に向けて穏やかな笑みを浮かべた後、その鋭い一瞬を、健二へと向けた。「健二君、君がしげるさんの息子さんだったとはね。」「世間は狭い。」「だが、非常に残念だよ。」「しげるさんから話を聞いて、耳を疑った。」「あ、あの、会長、これは何かの間違いで、私はただ、父と母の老後を心配して…」健二が、必死に弁明しようとするが、加藤会長はそれを手で制した。「老後の心配か、「自分の借金を、親に肩代わりさせるための心配か。」「私の耳には、別の報告が入っているよ。」「君、会社の経費を指摘に流用している疑いがあるそうだね。」「引き合い先との接待と偽り、美咲さんと高級ブランド店で買い物をしていた。」「それも、一度や二度ではない。」美咲さんが、息を飲んだ.彼女がSNSにアップしていた、キラびやかな生活の裏側は、私の息子の犯罪行為によって支えられていたのだ

加藤会長の言葉は、鋭いナイフのように、健二の嘘を切り裂いていく「現在、本社の監査部が、君の行跡を調査中だ。」「君が抱えている多額の借金、「その返済期限が、明日だったかな。」「競馬に、融資の失敗か。」「エリート社員の仮面の裏側は、実に見苦しいものだ。」健二は、顔を覆い、その場にうずくまった

すると、美咲の態度が急変した。「ちょっと、健二君、何よ、それ。「借金なんて聞いてないわよ。」あなた、会社の役員候補だって言ったじゃない。「私を騙してたのね。」」「うるさい、「お前がブランド品を欲しがるからだ。」」「お前が、他のママ友に自慢できないなんて言うから、俺は必死だったんだ。」見苦しい責任の押し付け合いが始まった

美咲は、私の足元にすがりついてきた。「お義父さん、聞いたでしょう? 全部、この人が悪いのよ。「私は被害者なの。」お義父さん、お金持ってるんでしょう? 莫大な資産があるんでしょう。」「お願い、助けて。」借金さえ返せば、また元通りになれるわ。「私、おばさんのことも、これからもっと大切にするから。」しかし、その瞳には、反省の色など微塵もない。ただ、目の前の黄金に対する、浅はかな執着があるだけだ

私は、すがりつく美咲の手を、静かに、しかし冷たく振り払った

すると、よし子が、震える声で、しかしはっきりと言った。「美咲さん、あなたは、私の夫を中卒だとバカにしたわね。」「でも、この人が、その手でどれだけの橋をかけ、どれだけの建物を支えてきたか、あなたには分からないでしょう。」「私は、学歴なんて、一度も気にしたことはないわ。」「この人の、誠実で温かい手が、私たちの家族を守ってきたの。」「でも、あなたは、あなたたちは、その手を自分から振り払ったのよ。」

加藤会長が、私に決断を促した。「しげるさん、君の意思を聞かせてほしい。」「この息子を、どうしたい?

」健二が、すがるような目で私を見上げる。「親父、助けてくれ。「会社を首になったら、俺、もう生きていけないよ。」よし子は、何も言わなかった。ただ静かに目を閉じ、一粒の涙をこぼした

私は、ゆっくりと息を吐き出した。「健二、お前に、最後にもう一度だけ聞く。」「よし子に水をかけた時、お前は何を考えていた? 」「あの場の空気を壊したくなくて、身の母親を辱めるのか? 」「分かった。」「それが、お前の答えだな。」私は、スマートフォンの画面を操作した

すると、再びインターホンが鳴った。今度の来客は、健二たちにとって、最大の、そして決定的な破滅をもたらす人物だった。私はよし子の肩を軽く叩き、安心させるように頷くと、静かに立ち上がって玄関へ向かった。「お待たせしたね。」「入ってくれ。」私が招き入れたのは、一人の若い男だった。仕立ての良いスーツを完璧に着こなし、背筋を真っすぐに伸ばしたその姿は、かつての弟、春樹に驚くほど似ていた。

知的で落ち着いた眼差し、その奥に秘められた強い意志。彼こそが、私が30年間に渡って支え続けてきた、亡き弟の息子、陽太だった

陽太がリビングに入ると、それまで床に崩れていた健二が、惹かれたように顔を上げた。「えっ、あっ、佐藤、先生。」健二の声が、驚愕で裏返った。「お久しぶりですね、佐藤健二さん。」「いえ、今は、調査対象者と呼ぶべきでしょうか。」陽太の声は、低く冷静で、そして、一切の私情を廃したプロフェッショナルの響きを持っていた

加藤会長が、陽太に向けて満足げに頷いた「陽太君、ご苦労様。」「準備は整ったかね? 」「はい、会長。」「監査法人及び弁護士チームによる調査報告書、完成しております。」「佐藤健二氏による、総額八千万円に及ぶ公金流用及び架空請求の証拠、全てここに揃っています。」陽太が鞄から取り出したのは、ずっしりと重みのある一冊のファイルだった「な、なんで。」「なんで、お前がここにいるんだよ。」「お前、うちの会社が依頼した外部の特別調査員じゃなかったのか。」健二が絶叫した。「ええ、そうです。」「私は、加藤会長から個人的な依頼を受け、貴殿の不正を徹底的に暴けと言われました。」「ですが、今日ここへ来たのは、仕事のためだけではありません。」

陽太は、ゆっくりと私の方を向き、深々と頭を下げた「おじさん、いえ、父さん。」「今日まで、私を育ててくださって、本当にありがとうございました。」「あなたが注いでくださった愛情とご支援のおかげで、私は今日、この場所に立つことができました。」「よた、立派になったな。」私は、熱いものが込み上げてくるのを必死に抑えながら、陽太の肩に手を置いた「父さん、おじさん、ちょっと待てよ。」「どういうことだ?

こいつは、俺の会社が最も恐れている内部監査官だぞ。」「なんで、親父の、中卒の親父の知り合いなんだよ。」健二の動揺は、もはや限界に達していた

「健二さん、君が中卒の作業員と蔑んでいた、私の父、しげるさんは、私にとっては命の恩人であり、誰よりも尊敬する技術者です。」「君が親の金を当てにして遊び歩いている間、父さんは泥にまみれて働き、その汗で私を大学へ、そして大学院へと通わせてくれました。」「君たちが昨日、お母様に水をかけ、侮辱したことも、全て記録に残っています。」陽太の言葉は、静かだが重かった

そして、陽太が、タブレット端末を操作し、画面を私に見せた。そこには、息子夫婦のマンションの廊下に設置された監視カメラの映像があった。よし子が水をかけられ、廊下で震えながら服を拭いている姿、「そして、そのすぐ横で、健二と美咲が笑いながら部屋に戻っていく姿が、鮮明に記録されていた。」「これ、どうやって手に入れた。」「あのマンションのオーナーは、加藤会長の関連会社です。」加藤会長が、冷たく言い放った。「健二君、親を敬う心を持たぬ者に、我が社の舵取りを任せるわけにはいかない。」「そして、犯罪に手を染めた者を、放置しておくわけにもいかないのだよ。」

健二は、もはや言葉を失っていた. 一方の美咲は、ようやく事の重大さを理解したのか、急に陽太の方へ駆け寄ろうとした。「佐藤先生、お願いです。「健二君のことは、私が何とかしますから。」借金も、お義父さんのお金で返せば問題ないですよね。」「家族の絆を大事にするなんて、そんなの、あなたにとっても悪くないはずです。」美咲の浅ましい交渉。「家族? 君のような人が、その言葉を口にするのは、吐き気がする。」陽太は、その瞳に深い嫌悪を浮かべ、一歩下がって彼女を避けた捕「私が今日ここへ来たのは、単なる告発のためではありません。」「父さんとお母様が、これ以上君たちの犠牲にならないよう、法的に、そして社会的に、制裁を加えるためです。」

陽太は、ファイルの中から、もう一枚の書類を取り出した捕「健二さん、明日、会社へ行く必要はありません。」「君の席は、もうありません。」「そして、君が指摘に使い込んだ八千万円の返済が、これから君の人生に、重くのしかかることになります。」「は、八千万。」「そんなの、返せるわけないだろう。」「親父、助けてくれよ。」「お願いだよ。」「身内だろう、身内なら、助け合うのが当たり前だろう。」健二が、私の足元にすがりついてきた昨日のボイスレコーダーの音声が、頭をよぎる捕「あいつらは、適当な格安の老人ホームにでも放り込めばいい。」あんなことを平然と計画していた男が、今更、身内という言葉を口にする捕その図々しさに、怒りを通り越して、ただただ悲しみが溢れてきた

私は、健二を静かに見つめ、そして、彼が最も恐れていた言葉を口にした。「健二、私は、お前を助けない。」「お前が犯した罪は、金で解決できるものではない。」「よし子の心を傷つけ、親の信頼を裏切り、社会のルールを無視した。」「その報いは、自分自身で受けるべきだ。」私は、よし子の手を取り、彼女を立たせた捕「よし子、もう行こう。」「この家は、もう私たちのものではない。」

すると、陽太が、少しだけ口角を上げた捕「ああ、言い忘れていました。」「健二さん、美咲さん、この家は、先ほど父さんから、私へ正式に譲渡されました。」「そして、私は本日付で、この不動産を、ある団体へ寄付する契約を結びました。」「寄、寄付? 」「え?

」「おい、何言ってるのよ。「バカじゃないの? この一等地にある家を、ただで他人に渡すっていうの? 」」美咲の金切り声が、静かなリビングを切り裂いた捕「この家を売れば、数千万、いや、一億に近いお金になるのよ。「それを寄付するなんて、ドブに捨てるのと同じじゃない。」」「そんなことさせるくらいなら、私たちに、「私たちにちょうだいよ。」」「私たちが、有効に使ってあげるから。」

私は、何も答えなかった捕ただ、椅子に深く腰掛け、美咲の姿をじっと見つめていた捕この沈黙こそが、今の彼女にとっては何よりの恐怖であり、屈辱であることは分かっていた捕すると、陽太が、霊鉄な事務作業をこなすように、鞄から一束の封筒を取り出した捕「美咲さん、あなたが心配すべきは、寄付のことではありません。」「ご主人、健二さんの借金についてですが、調査の結果、驚くべき事実が判明しました。」「借金の保証人、全てあなたの名前になっていますね。」「それも、あなたが自分で署名した形跡があります。」美咲の顔が、一瞬で土色に変わった捕「え、嘘よ。」「私は、そんなの、健二君が投資の書類だって言うから。」「健二、お前、内容も読まずにサインしたのか? 」健二が、かれた声で呟いた捕「健二君、どういうことよ。」「お前がもっと広い家に住みたい、あのブランドの新作が欲しい、ってうるさく言うから、俺は金が必要だったんだよ。」「お前だって、俺が稼いできた金だと思って、贅沢三昧してたじゃないか。」「全部、お前のせいだ。」

「何よ、それ。」「あなたが会社のエリートだって言うから、結婚してあげたのに、借金まみれの犯罪者なんて、死んでもごめんだわ。」リビングは、見苦しい責任のなすり付け合いの戦場と化した捕すると、「静かに。」加藤会長の低い声が響いた捕その一言で、二人は凍り着いたように動きを止めた捕「健二君、美咲さん、君たちがどう言おうと、現実は変わらない。」「明日の朝、君たちの銀行口座は、全て差し押さえられる。」「そして、君たちが住んでいるあのマンションの解約手続きも、すでに私の指示で始まっているよ。」「あそこは、会社名義の契約だからね。」「か、会長、お願いです。」「それだけは、「行く場所がなくなっちゃうんです。」」健二が、這いつくばって加藤会長の靴にすがりついた

「行く場所を、自分が親を追い出そうとしていた場所を、今度は自分が失う番だよ。」陽太が、静かに言った捕「よし子さん、こんな見苦しいもの、もう見る必要はありません。」「移動しましょう。」「陽太君が用意した場所へ。」「あなた、行こうか。」私は、よし子の肩を抱き寄せ、立ち上がった捕「待って、行かないで。」「お父さん、助けて。」「借金、八千万よ。」「払えるわけないじゃない。」美咲が、私の服の裾を掴もうとしたが、陽太がそれを無造作に振り払った捕「美咲さん、お引き取りください。」「これ以上、父さんたちを煩わせるなら、不法侵入及び脅迫で警察を呼びますよ。」「ああ、すでに外には、あなたの不倫相手と連れ立った探偵も来ているようです。」「健二さんの不正調査の過程で見つかりましてね。」「あなたの実家のご両親にも、報告済みです。」美咲の、表情から、完全に感情が消えた

私は、玄関に向かい、一歩踏み出した捕背後からは、美咲の絶叫と、健二の慟哭が聞こえてきた捕かつて愛した息子、そして、新しい家族として迎え入れた嫁捕彼らに向ける情けは、もう一滴も残っていなかった

車に乗り込み、走り出すと、よし子が、ふと口を開いた捕「お父さん、良かったのね。」「これからは、私たちの本当の人生を始めましょう。」夜の冷たい空気が、リビングの淀んだ空気を一気に押し流した

車の中、陽太が、静かなジャズを流していた捕助手席に座るよし子は、まだ少し緊張した面持ちだったが、ようやく肩の力が抜けたようだった捕「お父さん、洋太君、本当に、あんな風に家を出てしまってよかったのかしら?

健二は、あの子は、これからどうなるの? 」よし子の問いに、陽太は、前を見据えたまま、落ち着いた声で答えた捕「お母様、お母様が心配される気持ちは、痛いほど分かります。」「ですが、真実を知ることは、時に残酷であっても、必要なことなのです。」「健二さんがこれまで歩んできた道は、彼自身の選択の結果です。」「そして、彼が信じていた、美咲という女性の正体も。」「美咲さんの? 」よし子が首をかしげた捕私は、鞄の中から、一冊の青いファイルを取り出し、よし子に手渡した捕「これを見てくれ。」「陽太が、数ヶ月かけて調べ上げた、美咲さんの調査資料だ。」

よし子が、震える手でページをめくる捕そこには、美咲がこれまで私たちに語ってきた華やかな経歴とは、正反対の事実が並んでいた捕「え、有名私立大学卒業じゃない。」「帰国子女でも、大手広告代理店勤務でもない。」よし子の声が、驚愕に震える捕「資料によれば、彼女は地方の高校を中退し、偽造した経歴を使って、都内のキャバクラや高級クラブを渡り歩いていた。」「そして、ターゲットとなるエリート予備軍の男を見つけては、結婚を餌に金を毟り取る、いわゆる結婚詐欺師に近い手口を繰り返していたのだ。」「そんな、じゃあ、あの子の実家の立派なご両親は? 私たちがお会いした、あの方たちは、誰だったの?

」「あれは、彼女が雇った役者ですよ。」「彼女は、健二さんの年収と肩書きに目をつけ、佐藤家の資産、父さんの隠し持っていた技術特許や不動産を、最初から狙っていたんです。」陽太の声には、怒りよりも深い悲しみが混じっていた捕「健二さんも、被害者といえばそうかもしれませんが、彼は彼女の美貌とハイスペックな経歴という飴に目がくらみ、自分の親を捨てるという道を選んだ。」

一方その頃、誰もいなくなった佐藤家のリビングで、健二は呆然と立ち尽くしていた捕美咲は、狂ったように部屋中を荒らし、金目のものを探していたが、やがて、床に投げ捨てられていた調査ファイルを手に取った捕「嘘よ。」「なんで、なんでバレてるのよ。」「健二、お前、中卒なのか? 英語なんて一言も喋れなかったのか。」「あの時、取引先とのパーティーで英語で話してたのは、決まり文句を丸暗記してただけよ。」「健二、あんたこそ何よ? 会社の役員候補なんて、真っ赤な嘘じゃない。」「借金だらけで、挙げ句の果てには、親の金にすがるなんて、あんたこそただの無能じゃない。」

健二は、言葉を失った捕自分が、どれほど愚かな選択をしたのか捕完璧だと思っていた妻は、偽物の塊だった捕そして、自分が時代遅れの中卒だとしていた父親は、業界の重鎮から尊敬される本物の技術者であり、莫大な資産を持つ成功者だった捕さらに、自分が親父の隠し子だと決めつけていた陽太は、実は亡き叔父の息子であり、自分をはるかに凌駕する本物のエリート弁護士として成長していた捕「ああああ! 」健二は、頭を抱えて叫んだ捕全てを失った捕家も、仕事も、社会的信用も、そして何より、自分を誰よりも愛してくれていた両親を

すると、健二の瞳に、浅はかな光が宿った捕「親父は、甘いんだ。」「お袋だって、俺が泣いて謝れば、きっと許してくれる。」「そうだ、あの海沿いの別荘に行けば、あそこならまだ話し合いができるはずだ。」健二は、美咲を突き飛ばし、玄関へと駆け出した捕しかし、その足元を、数人の屈強な男たちが遮った捕「佐藤健二さんですね。」「警視庁捜査二課です。」「公金流用及び背任の疑いで、同行願います。」健二の腕に、冷たい手錠がかけられた捕同時に、部屋の奥で悲鳴が上がった捕美咲もまた、別の刑事によって拘束されていた捕彼女には、余罪が山ほどあった捕「話して、私は何もしてないわ!

」「全部、この男がやったことよ。」最後まで、見苦しく責任を擦り付け合う二人捕その様子を、物陰からじっと見つめている一人の人物がいた捕それは、先ほど逃げ出したはずの、コンサルタント田中だった捕しかし、田中の表情には、先ほどまでの卑屈さはない捕彼は、耳につけたイヤホンに向かって、静かに報告した捕「はい、対象者両名の身柄確保を確認しました。」「佐藤陽太先生、ご指示通りです。」「ええ、家の中の証拠品も、全て保全してあります。」「はい、お疲れ様でした。」

田中は、実は、陽太が送り込んだ調査員の一人だったのだ捕最初から、この結末は決まってした捕私が沈黙を守り、彼らが自らを曝すのを待っていたのは、この法的な裁きを完璧なものにするためだった

車の中、陽太がスマートフォンを閉じ、私に向かって頷いた捕「終わりました、父さん。」「二人とも、今頃は警察の車両の中です。」私は、深く、深く息を吐き出した捕窓の外には、夕日に照らされたオレンジ色の海が広がっている捕よし子は、私の隣で、そっと私の手を握った捕「お父さん、私、今が一番幸せよ。」「よし子、苦労をかけたな。」「うん。」「あなたがずっと私のことを守ってくれていたこと、分かってたわ。」「あのレコーダー、私がわざと見えるところに置いていたこと、気づいてた? 」私は、目を見開いた捕「え? あ、あのバッグ、「わざとだったのか。」」よし子は、悪戯っぽく微笑んだ捕「だって、お父さんは優しいから、私が直接言ったら、あなたが健二を許せなくなって、悲しむと思ったの。」「だから、自分の耳で確かめて、自分の意思で決めて欲しかったのよ。」私は、妻の底知れない深さと強さに、改めて胸を打たれた捕私が彼女を守っていたのではない捕彼女の沈黙と優しさが、私を、そしてこの家族の真実を、支えていたのだ

だが、ここで終わりではない捕加藤会長が、わざわざこの別荘にまでやって来たのには、もう一つの理由があった捕それは、三十年前の事故に関する、陽太すら知らない、最大の事実を伝えるためだったのだ捕「陽太君、そして、しげるさん。」「もう、隠し続ける必要はないのではないかな。」「この悲劇を終わらせるためにも、全てを明らかにするべきだ。」加藤会長の言葉に、陽太が困惑したように眉を潜めた捕「会長、隠し続けてきたこととは、一体何なのですか? 私がおじさんに支援を受けてきたこと以外に、まだ何かあるというのですか?

」私は、深く息を吐き、よし子の手を握りしめた捕彼女の手は、冬の外気に晒されたように冷たく、震えていた捕私は、決意を固め、ゆっくりと口を開いた捕「陽太、お前に、まだ話していなかったことがある。」「お前の父、春樹と、私との関係。」「そして、健二のことだ。」

「健二さんが、どうしたというのですか? 」私は、遠い過去を見つめるように目を細めた捕「三十年前、あの建設現場で起きた事故、「それは、私の人生を決定的に変えた日だった。」「あの事故で亡くなったのは、私の弟の春樹だけではなかった。」「実は、春樹には、幼い息子がいたんだ。」「それが、健二なんだよ。」その瞬間、陽太の動きが止まった捕「え、健二さんが、おじさんの息子を、じゃあ、私は? 」よし子も、知っていたはずの事実を改めて突きつけられ、苦しそうに胸を押さえた捕「ああ、陽太、お前こそが、私とよし子の、たった一人の身の息子なんだ。」時が止まったかのような静寂が、テラスを支配した捕陽太は、信じられないという表情で、私とよし子を交互に見つめた捕「そんな、じゃあ、なぜ、なぜ私は施設に入れられ、おじさんからの支援として育てられたのですか? 」「なぜ、赤の他人である健二さんが、佐藤家の長男として育てられたのですか?

」陽太の声が、震えていた捕無理もない、自分が恩人だと思っていた人物が身の父親であり、自分が軽蔑していた男が、自分の居場所を奪っていた、偽物の息子だったのだから

私は、重い口調で真実を語り始めた捕「三十年前のあの事故の原因は、現場の安全管理を怠った、会社側のミスだった。」「だが、その責任を一手に背負わされようとしていたのが、私の弟の春樹だったんだ。」「春樹は、私の身代わりになろうとしていた。」「兄貴には才能がある。」「ここで潰れてはいけない、と言って、全ての泥を被って、死んでいったんだ。」「春樹の妻も、後を追うように亡くなった。」「残されたのは、まだ赤ん坊だった健二だけだった。」よし子が、涙を流しながら言葉を繋いだ捕「私たちは、春樹さんへの恩と罪悪感で、一杯だったわ。」「だから、しげるさんと相談して決めたの。」「春樹さんの息子である健二を、私たちの身の子として、不自由なく育てようと。」「佐藤家の正当な後継者として、最高級の教育を受けさせようとね。」

「それで、身の息子である私を、捨てたというのですか? 」陽太の問いは、私の心に深く突き刺さった捕「捨てたのではない。」「守りたかったんだ。」私は、陽太の目をまっすぐに見つめた捕「当時の会社は、事故の責任を追及する者に対して、徹底的な報復をすると言っていた。」「加藤会長も知っている通り、あの頃の建設業界は、まだ暗部が多かった。」「もし、春樹の息子ではない、私の身の息子であるお前がそばにいれば、お前もその闇に巻き込まれる可能性があった。」「私は加藤会長の助けを借りて、お前を戸籍上は養子として施設に預け、外部の人間として守り抜くことを選んだんだ。」加藤会長が、深く頷いた捕「しげるさんは、あえて自分の息子である陽太君を遠ざけ、厳しい環境で育てさせた。」「それは、君が自分の力で立ち上がり、いつかこの業界の闇を暴けるような、強い男になって欲しかったからだ。」「一方で、健二君には、春樹さんへの償いとして、ありったけの愛情と富を与えた。」「だが、その結果が、これですね。」

陽太は、自嘲気味に笑った捕「甘やかされて育った健二さんは、親の恩も知らず、欲に溺れ、身の親ではないお母様を、ゴミのように扱った。」「一方で、私は、父さんに会いたい一心で、必死に勉強し、弁護士になった。」「なんという、皮肉だ。」私は、陽太の前に歩み寄り、その肩に手を置いた捕「陽太、すまなかった。」「お前に寂しい思いをさせたことは、一生かかっても謝りきれない。」「だが、お前は、私の期待をはるかに超えて、立派な男になってくれた。」「お前こそが、私の自慢の息子だ。」陽太の目から、大粒の涙がこぼれ落ちた捕彼は、私が差し出した手を、震える手で握り返した捕「父さん、母さん。」初めて呼ばれたその言葉によし子は、声を上げて泣き崩れた捕三十年間胸の中に溜めていた重みが、ようやく溶け出していくような感覚だった

しかし、この感動の再会を打ち砕くような音が響いた捕「ガタガタガタッ。」テラスのすぐ下の茂みから、何かが逃げ出すような音が聞こえた捕「誰だ? 」陽太が鋭い声を上げ、茂みから身を乗り出した捕暗闇の中、一台の車が、猛スピードで走り去っていくのが見えた捕「まさか、健二さん。」陽太が呟いた捕どうやら、健二は、全てを聞いていたらしい捕自分が身の息子ではなかったこと、自分がバカにしていた中卒の親父が、実は自分の父親の恩人であり、身の親以上の愛情を注いでくれていたこと、そして、自分が手放した資産の本当の継承者が、陽太であったこと捕「逃がすなよ。」陽太の瞳に、鋭い光が宿った

陽太の読みは正確だった捕健二は、まだ諦めていなかったのだ捕自分が手に入れられなかった富と名声を、せめて破壊という形で、お金に変えようとしている捕「父さん、おそらく健二さんは、あそこへ向かっています。」「彼が執着していた、あの古い実家です。」「あそこにはまだ、父さんが長年かけて集めた、技術や特許関係の重要書類が保管されていると思い込んでいるのでしょう。」「それを、持ち出し、海外の競合他社に売り払う。」「それが、追い詰められた彼が考える、唯一の逆転手段です。」

私たちは、加藤会長の用意した車に乗り込み、後を追った捕数十分後、たどり着いたのは、私たちが長年暮らしてきた、あの古びた実家だった捕玄関の鍵は、強引に壊され、リビングの明かりがついている捕中に入ると、そこには、狂ったように床板を剥がし、壁を叩き壊している、健二の姿があった捕「どこだ? どこにあるんだ?

親父が隠し持っていた、あの権利書の原本は! 」「あれさえあれば、俺はまだやり直せるんだ。」健二の目は、血走っていた捕その足元には、よし子が大切にしていた家族写真の額縁が転がり、ガラスが粉々に砕けていた捕よし子は、それを見て、短く悲鳴を上げ、口元を両手で覆った捕「健二、もうやめるんだ。」私の声に、健二が、惹かれたように振り向いた捕その手には、思い切り振り上げたバールが握られている捕「親父、いや、おじさんか。」「よくも、今まで俺を騙してくれたな。」「身の息子を施設に捨てて、俺を身代わりにして、贅沢させたのか。」「感謝しろってか? 笑わせるなよ。」「お前が俺に与えたのは愛情じゃない。」「ただの、罪滅ぼしだろ。」「賠償金で、俺の人生を飾り立てやがって。」健二は、私に向かって、ありったけの罵詈雑言を投げつけた捕その言葉の一つ一つが、かつて彼を愛していた私の記憶を、汚していく捕「お前みたいな中卒の作業員に、俺がどれだけ恥ずかしい思いをしてきたか、分かるか? 」同僚に親の職業を聞かれるたびに、嘘をつくのがどれだけ苦痛だったか、陽太みたいな本物のエリートが息子なら、お前も鼻が高かっただろうよ捕俺は、ただの失敗作だったってわけだ」

私は、ただ黙って、彼の言葉を全て受け止めた捕怒りは、不思議となかった捕ただ、底知れぬ深い悲しみと、自分の教育という名の甘やかしが、一人の人間をここまで腐らせてしまったという後悔だけがあった捕「黙ってろよ、この無能なじじい。」「何とか言いなさいよ。」「いつもそうだ。」「お前は黙って笑ってるだけで、中身は何もないんだよ。」「学歴がないから、反論もできないのか。」健二が、バールを振り上げ、私に襲いかかろうとした捕その時、横から伸びてきた陽太の手が、健二の腕を止めた捕「そこまでです、健二さん。」陽太の力は、エリート弁護士とは思えないほど、強く正確だった捕「あなたが探している重要書類なら、もうここにはありません。」「全て、安全な場所へ移してあります。」「そして、あなたが今しようとしている行為は、強盗及び器物損壊、さらに企業秘密の持ち出しに及ぶ背任行為の証拠として、全て記録されています。」陽太が部屋の隅を指差すと、そこには小型の監視カメラが設置されていた捕健二は、絶望したように、膝から崩れ落ちた捕「なんでだよ。」「なんで、お前ばっかり。」「親父の愛も、地位も金も、全部お前のものになるのか。」「俺は、俺は、どうなるんだよ。」

そこで、私は初めて、重い沈黙を破った捕「健二、お前は、一つ大きな勘違いをしている。」「私は、お前を身代わりにしたことなんて、一度もない。」「お前の父、春樹が亡くなった時、私は誓ったんだ。」「春樹の形見まで、お前を立派な佐藤家の長男として育て上げると。」「陽太を遠ざけたのは、お前に全ての愛情を集中させるためでもあった。」「お前が、中卒の私の背中を見て、汗水たらして働くことの尊さを学んでくれると、そう信じていたんだ。」私は、壊された床の下から、一冊の小さなノートを拾い上げた捕それは、私が健二のために書きためていた、技術の神髄と、彼へのメッセージが詰まった手帳だった捕「ここには、私が三十五年かけて築き上げた、技術の全てが記してある。」「これさえあれば、お前は学歴がなくたって、世界中のどこでも通用する、一流の技術者になれたはずだ。」「私は、これをお前の三十歳の誕生日に、渡すつもりだったんだよ。」手帳のページをめくると、そこには幼い頃の健二と、私とよし子が笑っている写真が貼られ、その横に、私の拙い字でこう書かれていた捕「健二へ。」「学歴はなくても、誇りは持て。」「お前の手は、人を助けるためにある。」

健二は、その手帳を、奪い取るようにして見つめた捕文字を追うごとに、彼の肩が激しく震え始める捕「これを、俺にくれるはずだったのか。」「金や地位ではなく、一生食べていける腕と誇りを、私はお前に継がせたかった。」「だが、お前はその手を、人を辱めるために使い、金を騙し取るために使った。」「健二、お前が捨てたのは、私の資産ではない。」「お前自身の未来だったんだよ。」健二の目から、それまでの憎しみとは違う、本物の後悔の涙が溢れ出した捕彼は、私が差し出した手帳を抱きしめ、子供のように声を上げて泣いた捕「ああ、親父、すまない、すまなかった。」「俺は、俺は、なんてことを。」その時、家の外に、赤色の光が反射した捕警察の車両が到着したのだ捕陽太が、静かに健二の背中に手を置いた捕「健二さん、時間はかかりますが、罪を償い、もう一度、一からやり直してください。」「父さんが残したこの手帳が、いつかあなたの力になる日が来るかもしれません。」健二は、抗わなかった捕刑事に連行される間、彼は一度だけ振り返り、私の目を見て、深く、深く頭を下げた捕それは、彼が生まれて初めて見せた、偽りのない、心からの謝罪だった

一方で、もう一人の市販である美咲は、どうなったか捕彼女は、健二が実家へ向かっている隙に、隠し持っていた裏金を持って、高飛びしようとしていた捕しかし、彼女が空港のゲートをくぐる直前、彼女の前に現れたのは、意外な人物だった捕「美咲さん、どこへ行くつもりだ?

」そこに立っていたのは、加藤会長でも警察でもない、美咲が役者として雇っていたはずの、彼女の偽の両親だった捕「何よ、あんたたち、契約は終わったでしょう。」「消えなさいよ。」美咲が叫ぶが、偽の両親の男が、不気味な笑みを浮かべて封筒を差し出した捕「いやあ、お嬢さん、実はね、あなたの正体を全て知っているという人から、面白い依頼を受けましてね。」「あなたがこれまで複数の男から巻き上げた、隠し財産、「その在り処を、全て警察に報告させていただきましたよ。」美咲が持っていたバッグから、次々と偽造パスポートや、他人名義の通帳が滑り落ちる捕彼女の逃げ道は、彼女自身が信じていた協力者たちの裏切りによって、完璧に断たれたのだ捕「そんな、私が、私が何をしたっていうのよ。」「私は、ただ幸せになりたかっただけよ。」

事件から数ヶ月後、季節は巡り、庭の梅の木が爽やかな香りを漂わせる頃、都内にある瀟洒なホテルの大宴会場では、建設業界の重鎮たちが一堂に会する、佐藤しげる氏の顕彰授賞祝賀会が、華やかに取り行われていた捕私は、慣れないスーツに身を包み、鏡の前で、少し照れ臭そうにネクタイを直していた捕「お父さん、とっても素敵よ。」「よく似合ってるわ。」隣で、最高級の訪問着の着物に身を包んだよし子が、慈愛に満ちた微笑みを向けてくれた捕数ヶ月前まで、息子夫婦の家で水をかけられ、痩せ細っていた彼女の姿は、もうどこにもない捕今のよし子は、内側から溢れ出すような気品と、揺るぎない自信に満ち溢れていた捕「よし子、お前こそ、本当に綺麗だ。」「苦労ばかりかけてしまったが、今日という日を迎えられたのは、お前が信じて待ってくれたおかげだ。」私は、よし子の手を優しく握った捕あの地獄のような日々を乗り越え、私たちは今、本当の意味での黄金の平穏を、手に入れていた

祝賀会の会場には、加藤会長を始め、各界の著名人が顔を揃えていた捕その中心に、弁護士として、そして私の身の息子として、誇らしげに胸を張る陽太の姿があった捕彼は今や、弱者を守る正義の弁護士として、メディアからも注目される存在になっていた捕私は、壇上に立ち、マイクを握った捕会場中が静まり返り、私の言葉を待っている捕「私は、中卒の叩き上げです。」「学歴も、華やかな経歴もありません。」「ただ、この手で土を触り、橋をかけ、家族を守ることだけを考えて生きてきました。」私は、よし子と陽太を眩しそうに見つめた捕「人生には、取り返しのつかない間違いもあります。」「ですが、誠実にまっすぐに生きていれば、必ず光は見えてくる。」「私は、今日この勲章を、私のことを支えてくれた最愛の妻と、そしてようやく出会えた大切な息子に、捧げたいと思います。」万雷の拍手が、会場を包み込んだ捕加藤会長が涙を拭い、陽太が誇らしげに頷き、よし子が半ば呆けたように目を輝かせていた

祝賀会が終わった後、私たちは三人で、ホテルの最上階にあるレストランへと向かった捕ここからは、私たちが守ってきたこの町の夜景が、宝石を散りばめたように美しく輝いていた捕「お父さん、これからは、三人でたくさん旅行に行きましょうね。」「お母さんもずっと行きたがっていた温泉旅行、計画しますから。」陽太がシャンパングラスを掲げて笑った捕「ああ、楽しみだな、よし子。」「ええ、お父さん、私たち、本当に幸せね。」私たちは、静かにグラスを合わせた捕その澄んだ音は、かつて息子夫婦が傲慢に響かせていた、あの音とは全く違う、愛と信頼と、そして不屈の精神が奏でる、勝利の祝典だった

翌朝、窓を開けると、初春の少し冷たいけれど爽やかな潮風が、部屋一杯に流れ込んできた捕キッチンからは、トントンと軽快な、まな板の音と、出汁の優しい香りが漂ってくる捕かつて息子夫婦の家から帰るたびに、洗面所で結び泣いていたよし子の姿は、もうどこにもない捕今の彼女は、鼻歌を歌いながら、庭で取れたばかりの菜の花をおひたしにしている捕家族三人で囲む食卓は、静かだが温かさに満ちていた捕特別な豪華な料理があるわけではない捕よし子が心を込めて作ったおにぎりと温かい味噌汁、そして出汁巻き卵だが、その一口一口が、私の心の奥底に染み渡るように美味しかった捕本物の家族とは、高級なレストランで贅沢に会食することではない捕こうしてお互いの存在を慈しみながら、何気ない朝を共に迎えることなのだと、改めて実感する

食後、私たちは三人で、近くにある霊園へと向かった捕そこには、三十年前に亡くなった私の弟、春樹と、その妻が眠っている捕墓石を綺麗に磨き、新しい花を備える捕私は手を合わせ、心の中で弟に語りかけた捕「春樹、見てくれ。」「お前の息子である健二を、私は立派な人間に育て上げることはできなかった。」「それは、私の力不足だ。」「だが、健二は今、自分の犯した罪と向き合い、一からやり直そうとしている。」「お前が命をかけて守ってくれた、私の息子、陽太は、こんなに立派な男になったぞ。」隣で手を合わせている陽太の姿を、春樹もきっと、空から喜んでくれているだろう捕三十年前、あの泥沼のような工事現場で交わした、名無しの兄弟の約束捕それは、長い年月を経て、ようやく一つの結末を迎えた

「父さん、健二さんのことですが。」陽太が、墓前を去りざま、静かに切り出した捕「先ほど、刑務所の担当官から連絡がありました。」「健二さんは、あの日私が渡した手帳を、毎日ボロボロになるまで読み込んでいるそうです。」「そして、他の受刑者が嫌がるような過酷な作業も、自分から進んで引き受けていると。」「そうか。」「彼は、初めて自分の力で働くということの意味を、理解し始めたのかもしれません。」「いつか彼が出所した時、もし彼が本当に自分の足で立てるようになっていたら、その時は、遠くからでも見守ってあげてもいいのではないでしょうか。」私は、空を仰いだ捕憎しみが、完全に消えたわけではない捕よし子を傷つけたことは、死に値する罪だ捕だが、彼の中に眠る春樹の血が、いつか彼を本物の人間と再生させてくれることを願わずにはいられない捕「そうだな。」「その日が来るのを、楽しみに待つことにしよう。」

霊園からの帰り道、私たちは海岸線をゆっくりと歩いた捕陽太が私の隣を歩き、よし子が少し後ろから、私たちの背中を穏やかそうに見つめている捕ふと私は、ポケットの中にあった、あの小さなボイスレコーダーに触れた捕今はもう、録音ボタンを押す必要はない捕人を疑い、証拠を集めるための道具だったそれは、今では私たちの人生を救ってくれた恩人のように感じられた捕私は、そのレコーダーを取り出し、海に向かって高く掲げた捕「お父さん、どうしたの? 」よし子が、不思議そうに尋ねる捕「いや、これに、今の音を録っておこうと思ってね。」私は、録音ボタンを押した捕ザザーンという穏やかな波の音、陽太の力強い足音、そして、よし子の明るい笑い声捕「ねえ、お父さん、今日の夕飯は何がいいかしら? 」普段は、そんな何気ないけれど、宝石のように輝く会話を、私はレコーダーに刻み込んだ捕この音こそが、私たちが手に入れた、本当の財産なのだ

家に戻ると、陽太が玄関先で言った捕「父さん、母さん、私、一度事務所に戻ります。」「抱えている案件が一つ片付いたら、また来週末に帰ってきます。」「その時は、三人で温泉に行きましょう。」「ああ、気をつけてな。」「仕事も大事だが、体も大切にするんだぞ。」「分かっています。」「お母様、また美味しいご飯、楽しみにしています。」陽太は晴れやかな顔で車に乗り込み、手を振って去っていった捕私たちは、車の影が見えなくなるまで、いつまでも手を振り続けた

夕暮れ時、私たちは海辺のテラスにあるベンチに腰を下ろした捕沈みゆく夕日が、空を燃えるような赤に染め上げ、やがて紫色の闇が降りてくる捕「お父さん、私、あんなに毎日泣いていたのが、遠い昔のことみたい。」よし子が、私の肩に頭を預け、静かに呟いた捕「苦しかったわ。」「健二に何を言われても、美咲さんにどんなにひどいことをされても、私が耐えれば、波風が立たないと思っていた。」「でも、それは間違いだったのね。」「沈黙は美徳だと思っていたが、時にそれは、大切な人を傷つけることもある。」「お前を守るために、私はもっと早く動くべきだった。」「すまなかったな。」「うん。」「お父さんがあの日レコーダーを隠してくれたから、私たちは真実に出会えた。」「私、あの時気づいたの。」「お父さんは、言葉は少ないけれど、誰よりも私のことを見てくれているって。」「だから、ちっとも怖くなかった。」私は、よし子の肩を強く抱き寄せた捕中卒の現場叩き上げ、人から見れば不器用で、学がなく、不格好な人生に見えたかもしれない捕だが、私には、この腕の中に守るべき宝がある捕そして、私の技術を継ぎ、私の心志しをついでくれる、誇り高い息子がいる捕「よし子、これからも、二人で歩いていこう。」「何があっても、俺が守ってやるからな。」「ええ、どこまでも、ついていくわ。」

夜のとばりが降り、岬の灯台が、静かに光を放ち始めた捕その光は、暗い海を行く船たちに、安全な道を教えている捕私たちの人生もきっと、この光のように、これからは穏やかで、迷いのないものになるだろう捕過去を悔むのではなく、今ある幸せに感謝して、傷ついた心は新しい思い出で塗り換えていけばいい捕私たちは、静かに目を閉じ、寄せては返す波の音に、耳を傾けた捕そこには、嘘も偽りもない、透明な真実だけがあった捕愛し、愛され,信じ合う,たったそれだけのことなのに,こんなにも温かい、私たちの物語は,ここから新しく始まっていく。