出張先のビジネスホテルで、ようやく一日の仕事を終えて一息ついたその瞬間、ポケットの携帯がけたたましく震え出した。ディスプレイに映る発信者は、夫の夢彦。その名前を見ただけで全身の血が引いていくのが分かった。嫌な予感を押し殺して通話ボタンを押すと、案の定、彼の不機嫌極まりない怒鳴り声が飛び込んできた。
「なんだお前。いつの間にか俺の通帳の残高がゼロじゃねえか。おい言ってるんだよ。今すぐ俺の口座に20万振り込め。さっさとしろ」
いつものように、私を人間扱いしない命令口調だった。夫でありながら、私のことをATMとしか見ていないこの態度。これまで何度、この言葉を聞いてきただろうか。
しかしその日、私は不思議なほど冷静だった。まるで長年縛りつけていた重い鎖が、ようやく断ち切れる時が来たと直感したかのように。
深呼吸を一つして、静かに、しかし揺るぎない口調で告げた
「ええ、夢彦さん。ごめんなさい。残念だけど、もうあなたにお金を振り込むことはできないわ。だって、昨日付けで私たちは正式に離婚が成立したんですもの。あなたはもう、私の夫ではないのよ」
電話の向こうが、一瞬にして静まり返った。次の瞬間、彼の絶叫が鼓膜を震わせた
「はあ。離婚だと. 今なんつった. 俺はそんな書類にサインした覚えなんて一切ないぞ。ふざけたこと言ってんじゃねえ」
彼が取り乱し、怒鳴れば怒鳴るほど、私の心は凪のように澄み渡っていくのが分かった。この日を、私はどれほど待ち望んだことだろうか。
私の名前は牧、29歳。地方の市役所に務める、どこにでもいる普通の公務員だ。今から3年前、私は野中夢彦という、まるで少女漫画から抜け出してきたような名前を持つ男性と結婚した。
出会いは、職場の同僚に半ば強引に誘われた合コンだった。私はそういった場には普段あまり顔を出さないのだが、その日はなぜか不思議と参加したい気分になっていた。
正直なところ、この出会いを単なる偶然だとは思っていない。なぜなら、私の人生は決して平坦なものではなかったからだ。
私は生まれつき、極めて珍しい難病を抱えていた。幼い頃から病院の白い天井を見上げることが日常で、入退院を繰り返す、決して恵まれたとは言えない子供時代を過ごしてきた。何度も生死の境を彷徨い、両親を心配させた。
その長く苦しい闘病生活の中で、私を文字通り献身的に支え、諦めずに治療を続け、何度も命の危機から救ってくれた担当医の先生がいた。そして、不安で押し潰されそうになる私を、いつも天使のような笑顔で励まし続けてくれた、担当の看護師さんがいた。
その2人の正体こそ、後に私の夫となる夢彦さんの両親、野中竹春先生と、元看護師長の佐枝子さんだったのだ。
あの時、命を救ってくれた2人が、将来家族になるなんて、当時は夢にも思わなかった。自分たちが必死に救おうとしたあの少女が、息子の婚約者になったと知った時、2人は目を潤ませて心から喜んでくれた
「ああ、牧ちゃんがこんなに立派に、そして何よりも健康になって、本当に嬉しいよ。夢彦のこと、どうかよろしくね」
あの瞬間の気持ちは、今も深く心に刻まれている。奇跡的に病気は完治し、今では定期検査こそ欠かせないものの、人並み以上に健康な体を手に入れることができた。このご両親への感謝は、言葉に尽くせない。一生かけても返しきれないほどの恩義だと思っている。
しかし、その恩義が、後に自分を苦しめるきっかけになるとは、当時の私は思いもしなかった。
結婚生活が始まると、夢彦さんの態度は徐々に変わっていった。以前は私の話に耳を傾け、趣味や仕事の話にも興味を持ってくれていたのに、結婚してからは、その関心が一切なくなってしまった。
「ねえ、今日ね、ちょっと嬉しいことがあって…」
私がそう話しかけても、彼はスマートフォンを見たまま「フーン」と返事をするか、そもそも反応すらしないことが多くなった。彼の意識は常に画面の中にあり、同じ部屋にいる私の存在は、まるで空気のように扱われていた。
私の心は、日当たりの悪い場所に置かれた植物のように、少しずつ元気を失っていった。
夢彦さんは、誰もが認めるいわゆるイケメンだった。堀の深い整った顔立ちに、180センチを超えるモデル並みのスタイル。スポーツ万能で、カラオケが上手で、女心をくすぐる甘い言葉を囁くのが天性の才能だった。私のような平凡な公務員と結婚した後も、そんな彼の派手な女性関係が収まることはなかった。むしろ、結婚という箔が付いたことで、彼の無責任な遊びに拍車がかかったのではないかと今では思う。
結婚して間もなく、彼が複数の女性と関係を持っていることに気づき始めた。帰宅するたびに漂う、私の知らない香水の匂い。私が寝た隙に、ベランダで誰かとこそこそと長電話する怪しげな様子。私には絶対に見せようとしない、契約者不明のもう1台のスマートフォン。それらから、彼の浮気を疑わざるを得なかった。
しかし私は、竹春さんと佐枝子さんを心から悲しませたくない、失望させたくないという一心で、彼の浮気については見て見ぬふりをした。いつか彼も落ち着くだろう、家庭を大事にしてくれるかもしれない。そんな淡い期待を、心のどこかで抱き続けていたのだ。
いつの間にか、彼はネットビジネスで一攫千金を狙うなどと目を輝かせて語っていた仕事も完全に放棄し、実質無職同然になっていた。そのくせプライドだけは人一倍高く、私が見つけてきたアルバイトの求人情報などには見向きもせず、一日中家でゴロゴロとスマホゲームに興じるか、パチンコに入り浸るかしていた。当然、私たちの生活は完全に私の公務員としての僅かな月給だけに依存する、いつ破綻してもおかしくない極めて不安定なものになった。
それでも彼は、まるで独身貴族とでも言うように、毎晩のように高級クラブやおしゃれなバーへ繰り出し、取り巻きの友人たちと派手に飲み歩く日々を送っていた。
そして当然のように金が尽きると、深夜だろうが早朝だろうがお構いなしに、まるで自分の所有物であるかのように私を電話で呼び出すのだった
「おい、会計が全然足りねえじゃねえか。さっさと払いに来い」
彼は私のことを、便利な財布としか思っていなかった。少しでも断ろうものなら「使えない」「お前のせいで友達の前で大恥をかいた」などと、耳を疑うような罵詈雑言を浴びせられた。
私は彼の無駄に高いプライドを傷つけないように、そして何よりも、この惨状を竹春さんと佐枝子さんに知られて心配をかけないようにと、泣く泣く貯金を切り崩し、時には消費者金融にまで手を出して、彼の湯水のような浪費を黙って支払い続けるしかなかった。
私の心は、借金の額と共に膨れ上がる風船のように、いつ破裂してもおかしくないほど張り詰めていた。
しかし、人生経験豊富な義両親は、私がどんなに言葉に出さなくても、私の顔に時折浮かぶ隠しきれない翳りや、無理に作った笑顔の裏に潜む深い悲しみに、とっくに気づいていたのかもしれない。
ある日の夕食後、私が一人で後片付けをしていると、佐枝子さんが背後からそっと近づき、慈愛に満ちた優しい声でこう言ってくれた。
「牧ちゃん、いつも本当にありがとうね。私たちに何も気を使う必要はないのよ。もし何か辛いことや困ったことがあったら、どんな些細なことでもいいから、いつでも私たちを頼ってちょうだいね。あなたはもう他人じゃないの。私たちのたった一人の、大切な本当の娘なのだから」
その温かい言葉に、これまで必死に心の奥底に押し殺し、見ないようにしてきた様々な感情が一気に込み上げてきて、私はその場で子供のように声をあげて泣き出してしまった。佐枝子さんはそんな私を、ただ黙って優しく抱きしめてくれた。
しかしそれでも私は、夢彦さんの具体的な問題行動や、私たちの結婚生活がすでに破綻しきっているという残酷な現実を、彼女に打ち明けることはできなかった。もしかしたら、いつか彼が心を入れ替えてくれるかもしれない。そんな万に一つの可能性に、私はまだどこかで縋っていたのだ。
そんな張り詰めた日々が続いていた、ある日のことだった。私は仕事の関係で、数日間の地方出張を命じられ、慣れない土地に赴いていた。ようやく一日の業務を終えてホテルの部屋に戻り、一息ついたまさにその矢先に、例の電話がかかってきたのだ。
あの日、私は彼に告げた。
「あなたが覚えていないのも無理はないかもしれないわね。あの時、あなたは正気を失くすほど、相当お酒に酔っていたのだから」
あれは、数ヶ月前のある嵐の夜のことだった。いつものように泥酔して帰宅した彼が、リビングで私を見つけるなり、くだらないことで因縁をつけ、絡み始めたのだ。そして、どこからか持ってきた一枚の離婚届の用紙を取り出すと、呂律の回らない口で何か喚きながら、そこに自分の名前を殴り書きしたのだ。
「お前みたいな、何の役にも立たない見てくれだけの嫁は、俺様がその気になればいつでもポイ捨てできるんだぞ。分かったか」
彼は高笑いしながら、その離婚届を私の顔に投げつけてきた。その時の、私を心の底から見下して嘲笑うような、彼の歪んだ顔は、今でも脳裏に焼きついて離れない。
彼は翌日には、そんなことなどすっかり忘れてしまっていたようだが、私はその離婚届を、いつか来るべき解放の日のために、誰にも見つからないよう机の奥深くに、まるで呪いの札のように大切にしまっておいたのだ。そして、この長い出張に出る前日、私は一人で市役所の窓口へと向かい、準備していた全ての書類と共に、その離婚届を正式に提出したのだった。
もう彼に盲目的に尽くす義理も、彼の理不尽な言動にひたすら我慢し続ける理由も、今の私には何一つ残ってはいなかったのだから。
私はこれまで、竹春さんと佐枝子さんへの深い恩義ゆえ、どんなに毎日が辛くても、どんなに心が引き裂かれそうになっても、私の方から離婚を切り出すつもりはなかった。私が我慢すれば全てが丸く収まるのだと、そう信じようとしていたのだ。
でもね、もう本当に限界なのよ。
電話の向こうで、彼は今度は虎の威を借る狐のように、義両親の名前を盾にして私を恫喝し始めた。
「お、お前、そんな勝手な真似をしてただで済むとでも思ってるのか. お前は、俺の親父とお袋を裏切ろうとしてるんだぞ.

あの人たちが、実の娘でもないお前のことをどれだけ大切に思い、どれだけ可愛がってくれていたか、まさか忘れたとは言わせないからな. この恩知らずが」
あまりにも見当違いな言葉に、私は思わず乾いた、そして冷えきった笑いを漏らしてしまった。
「裏切る. あら、それは全く違うわね。むしろ、あなたが盾にしているその2人から、正式に背中を押していただいたのよ◦あなたは知らないかもしれないけど、お2人はとっくの昔に、あなたの愚かな行いに気づいていらっしゃったの◦そして私以上に、心を痛めてらしたわ◦」
電話の向こうの彼は、その衝撃的な事実に完全に言葉を失い、ただ呆然としているようだったう。彼にとって絶対的な味方であるはずの両親が、まさか私の側につき、離婚を後押しするなどということは、彼の貧弱な想像力では到底思いもよらなかったのだろうう。彼のプライドは、木っ端微塵に打ち砕かれたに違いない。
実は今日この日も、彼は都内の有名な高級クラブで、いつものように取り巻きの遊び仲間たちとシャンパンを何本も開けて、派手に飲み明かしていたそうだう。そしていざ支払いの段階になって、自分の銀行口座の残高が綺麗さっぱりゼロになっていることにようやく気づき、いつもの決まり事のように、私に金の無心をしようとしてきたというわけだう。
しかし、私ももう彼の妻ではない◦完全な赤の他人である◦支払いができないと悟った彼は、電話口で見る見るうちに焦燥し、そして最終的には情けなく泣きついてきたう
「ま、頼む◦お願いだから今回だけは本当に助けてくれ◦このままじゃ俺、みんなの前で大恥をかいてしまう◦友達にも見放されて、一人ぼっちになってしまう◦お願いだ◦愛してるんだ◦」
電話を切っても、彼はまるで壊れたレコードのように、何度も何度も電話をかけ直してくる◦「助けてくれ」「金がないと困るんだ」「お前しか頼れないんだ」と◦見苦しいにもほどがあるその癇癪に、私は最後の、そして最も効果的な止めを刺すことに決めた◦
「そんなに心配しなくても大丈夫よ◦あなたがこれ以上恥をかかないように、強力な助っ人を今ちょうどそちらのお店に派遣しておいたから◦きっとあなたのそのどうしようもない窮地を救ってくれるはずよ◦安心してちょうだい◦」
電話の向こうで一瞬の沈黙が流れた後、彼の、悲鳴にも似た裏返った絶叫が聞こえてきた◦
「お、お親父. なんでこんなところにいるんだ.
」
そう、私がお店にご迷惑をかけないようにと派遣した頼もしい助っ人とは、他でもない、彼の両親であり、私の恩人でもある竹春さんと佐枝枝子さんだったのだ◦彼らには、私がこの計画を実行に移す前に事前に連絡を取り、全ての事情を詳細に説明した上で、彼がいつものように入り浸っている例の高級クラブへと向かってもらっていたのだった◦
奏の後の、クラブでの修羅場とも言える展開は、私がいちいち説明するまでもない◦
翌日、出張から戻った私は、空港から直接竹春さんと佐枝枝子さんと合流し、3人で、まるで抜け殻のようになった夢彦さんの前に改めて対峙した◦場所は、重い空気に包まれた野中家の広々としたリビング◦私は、勤めて冷静に、そして心の奥底からの怒りを込めて、彼に対してこれまでの不貞行為と経済的DVに対する慰謝料を正式に請求した◦そして、私がこれまで来る日も来る日も密かに集め続けてきた証拠資料の束を、テーブルの上に広げていった◦
それは、彼が長年に渡り複数の女性と浮気を繰り返していたという数々の動かぬ証拠だった◦浮気相手との親密なツーショット写真◦高級ホテルの宿泊費の領収書◦私には内緒で購入していたブランド品の購入記録や高価な食事代が記録されたクレジットカードの利用明細◦そして最後の切り札として、とある探偵に依頼して撮影してもらった、浮気相手と腕を組み楽しそうにラブホテルへと入っていく彼の、鮮明なカラー写真の数々◦調査費用は、有り難いことに竹春さんが全て負担してくれた◦
あまりにも赤裸々な証拠の山を突きつけられてもなお、彼は言い逃れを図る◦「これは何かの間違いだ◦俺は絶対に浮気なんてしていない◦全部お前のでっち上げだ」と◦あまりにも見苦しく、情状酌量の余地もないその言い分に、私は最後の、そして最も効果的な手段に出ることにした◦私は、彼のスマートフォンを手に取ると、彼が特に最近頻繁に連絡を取り合っていた、三鷹という派手な風貌の若い女性に、スピーカーフォンモードで電話をかけたのだ◦
「おい、やめろ◦勝手なことするな◦人のスマホをいじるな◦」
彼は慌てて私を妨害しようとしたが、その両腕は、すでに臨戦態勢に入っていた竹春さんと佐枝枝子さんによって、がっちりと押さえられていた◦数回の呼び出し音の後、電話の向こうから、まるでアニメ声優のような、甲高く艶めかしい若い女性の声が、スピーカーを通してリビングに響き渡った◦
「もしもし〜、夢ぴょん◦こんな真夜中に電話なんて珍しいじゃん◦もしかして今夜のデートのお誘い◦今夜はばっちり空いてるよ◦てかさ、いつ結婚してくれるの◦」
その余りにも馴れ馴れしく、艶めかしい声を聞いた瞬間、夢彦さんの顔からさっと血の気が引き、まるで幽霊でも見たかのようにその場に凍りついた◦私は、勤めて冷静に、そして祝女郎とした声で、彼女にゆっくりと、そしてはっきりと告げた◦
「三鷹さんでいらっしゃいますね◦私、野中夢彦の妻の、野中牧と申します◦本日は突然お電話を差し上げまして、大変申し訳ございません◦実は、あなたにどうしてもお伝えしなければならない重要なことがございまして◦」
浮気相手も、事情を察したのか、急に黙り込んだ◦私は、直截に、そして明快に言い放った◦「私ども夫婦は、昨日付けで正式に離婚が成立いたしましたの◦ですから、こんな、あなたの言葉を借りるなら『夢ぴょん』などというふざけた呼び名で呼ばれるような、最低で、そして救いのない男ではございますが、どうぞご遠慮なく、あなたにそっくりそのまま差し上げます◦ご自由にどうぞ◦」
電話の向こうで、三鷹さんが息を大きく飲む音が、スピーカーを通してはっきりと聞こえた◦彼女は、夢彦さんが既婚者であることなど露知らず、彼が独身であると完全に、そして巧妙に騙されていたのだ◦
「え、離婚◦夢ぴょん、あなた結婚してたの◦嘘でしょ◦だって私には独身だって言ってたのに◦」
さらにこの後の会話で、夢彦さんはこの三鷹さんに対して、他にも色々と詐称していたことが明らかになった◦自分は将来を約束された超エリート医師であり、いずれは父親の後を継いで都内の一等地で大病院の院長になる身なのだと◦あまりにも現実離れした、途方もない嘘を何十にも重ねて騙していたのだ◦ここで、これまで黙って成り行きを見守っていた竹春さんが、私から静かに電話を受け取った◦そして、厳格な、しかし心の底からの怒りを滲ませた口調で、三鷹さんに残酷な真実を告げた◦
「三鷹さん、本当に申し訳ない◦このバカ息子は、医師でも何でもない◦ただの無職の男だ◦そして私は、無職で大病院の院長などでは断じてない◦息子があなたを騙していて、本当にすまなかった◦父親として、心からお詫び申し上げる◦」
あまりにも衝撃的な言葉に、電話の向こうの三鷹さんはヒステリックに絶叫した◦
「む、無職ですって◦そんなの絶対に嘘よ◦だって私、夢彦君の子供、今お腹の中にいるのよ◦どうしてくれるのよ、この嘘つき男◦」
事態は、まさに泥沼という言葉がこれ以上なく相応しい修羅場と化していた◦
「こんな甲斐性なしの男なんて、私の方から願い下げよ◦慰謝料と、生まれてくる子の養育費、一円たりとも負けずにきっちり払ってもらうんだからね◦覚えてらっしゃい◦」
こうして彼は、私と、そして新たに現れた妊娠中の浮気相手である三鷹さんの、双方から完全に愛想を尽かされ、まさに自業自得という言葉がこれ以上なく相応しい、惨憺たる状態に陥った◦私への高額な慰謝料に加え、三鷹さんへの慰謝料、そしてこれから生まれてくるであろう我が子への養育費と、天文学的な金額の負債を、無職の彼が支払えるはずもない◦結局は、当分の間は父親である竹春さんが全て取り纏めて支払うことになった◦が、その代償として、夢彦さんは竹春さんへのその莫大な借金を完全に返済し終えるまでの長い期間、父親の病院で清掃員として、文字通り身を粉にして働くことを強制されることになった◦時給換算で数百円という最低賃金以下で、来る日も来る日も馬車馬のように朝から晩まで酷使される◦さすがの竹春さんも佐枝枝子さんも、この救いようのない息子の愚行を見て、完全に匙を投げたらしい◦
「もうお前の面倒は、見きれない◦自分の撒いた種だ◦自分の始末は、これからは全てお前自身で何とかしろ◦」
そう言って、実の息子である彼を冷たく、そして完全に、永遠に見放したのだった◦彼のかつて女性たちを魅了したであろう甘いマスクはもはや見る影もなく、労働で疲弊し、無精髭だらけで、風呂にもまともに入れない毎日だそうだ◦
彼の人生は、自身の愚かで勝手な行いによって、あっけなく音を立てて崩れ落ちていった◦まさに、因果応報という言葉がこれほどまでに相応しい結末も珍しいだろう◦
一方、あの地獄のような結婚生活から解放された私は、その後も元義両親である竹春さんと佐枝枝子さんとは、良好な関係を続けている◦まるで血の繋がった本当の親子であるかのように、以前にも増して温かく、そして揺るぎない関係となった◦
「牧ちゃんには、本当に悲しい思いをさせてしまって、父親として、心から申し訳なかった◦」
竹春さんも佐枝枝子さんも、会うたびに私に対して深々と頭を下げ、涙ながらに謝罪してくれる◦しかし私にとって、この2人は、どんな時も私の味方でいてくれる、血の繋がりなどをはるかに超えた、かけがえのない本当の家族だ◦今ではそう確信している◦週末には3人で一緒に近所の美味しいレストランに出かけたり、佐枝枝枝子さんと2人きりでデパートへ行き、お互いの洋服を選び合ったりと、穏やかで心満たされる時間を過ごしている◦あの出口の見えない悪夢のような日々で負った心の傷が、まだ完全に癒えたわけではないけれど◦でも、彼らの変わらぬ深い愛情と優しさに支えられ、私は少しずつ、本当に少しずつだが確実に、前を向いて自分の足で新しい人生を歩み始めている◦
もう二度と、誰かに自分の大切な人生を一方的に踏み躙られたり、自分の心を傷つけられたりするような、そんな愚かな生き方はしない◦これからは、自分の力でしっかりと稼ぎ、自分の足で確実に大地を踏みしめ、自分の人生を、自分の意思で、明るく、そして力強く輝かせていくのだ◦
ホテルの窓の外には、どこまでも果てしなく広がる、抜けるような青い空が広がっていた◦私の未来も、きっとこの空のように明るく、そして希望に満ち溢れているに違いない◦そう、心の底から強く信じている◦もう、私の笑顔を曇らせるものは、何一つないのだから◦

