インターホンに手を伸ばしたその瞬間、隣の家に住む岡本千津子が血相を変えて駆け寄ってきた。
「押しちゃだめ。今すぐ帰りなさい」
まるで何かに怯えているような様子に、私は不安を覚えた。何が起こっているのか、まったく見当がつかない。ただ、息子の尚弥と嫁の由美子が住む家に入ることに、どんな危険があるというのか。
その直後、玄関が開き、中から由美子が笑顔で出てきた。
「あら、お母さん。早かったですね。さあ、どうぞ、中へ」
昨日までとは打って変わった、いつもの優しい笑顔。だが、千津子は私の腕を掴んで離さない。
「ちょっとだけ、うちに来てくれないかしら。すぐのことだから」
千津子の視線には、強く訴えかけるものがあった。私は戸惑いながらも、彼女に押し切られる形で、岡本家のリビングに通された。そこには、庭師をしている千津子の夫である銀治が、厳しい表情で座っていた。
そこで私は、人生を揺るがす真実を知ることになる。
私は田島さや、58歳。夫を早くに亡くし、女手一つで息子の尚弥を育て上げてきた。夫が亡くなったのは、私が32歳の頃。出張先で災害に見舞われたのだ。朝、いつもと変わらず家を出ていった夫が、その日、帰らぬ人になった。
当時10歳だった尚弥の前で、弱みを見せるわけにはいかない。私は必死で涙をこらえ、ただ前を向いて生きてきた。幸い、夫の遺産があったおかげで経済的に困ることはなかったが、思春期を迎えた尚弥の気持ちを理解するのは難しく、何度も夫の存在を恋しく思ったものだ。
そんな尚弥も就職し、ようやく子育てに区切りがついた時は、心の底から安心した。数年前には、亡き父のように自分の会社を持ちたいとIT企業を立ち上げた。開発した画期的なシステムが評価され、会社は半年も経たないうちに業績を大きく伸ばした。若き実業家としてメディアに取り上げられ、高級車を乗り回し、身につけるものも高級ブランドへと変わっていった。
変わりゆく息子の姿に不安がないわけではなかったが、私はその成功を素直に喜んでいた。
尚弥が結婚すると言って、由美子を家に連れてきた。美容系のインフルエンサーとして活躍する、清楚で美しい女性だった。言葉遣いも丁寧で、尚弥にはもったいないくらいだと思ったほどだ。結婚後も、由美子は決して気取ることなく謙虚で、「お母様のような素敵な女性になりたい」と言ってくれた。
尚弥は毎月仕送りをしてくれ、由美子は頻繁に家事を手伝ってくれた。高級レストランに連れて行ってくれたり、ブランド品のプレゼントをくれたりと、ありとあらゆる手で私を喜ばせてくれた。周囲からは理想の家族だと羨ましがられていた。私はこの幸せがずっと続くと思っていた。
しかし、2人が新居を購入してから、少しずつ異変が起こり始めた。
半年ほど前から、尚弥からの仕送りが減り始めたのだ。「世界情勢の混乱で売上が落ちている」と説明されたが、私は息子夫婦の生活が心配になった。それでも尚弥は「今だけのことだから心配いらない」と言う。
ある日、由美子から料理を教えてほしいと頼まれた。「節約して尚弥さんを支えたいし、お母さんの味を勉強したい」と言うのだ。その健気な態度に関心し、私は喜んで引き受けた。毎週、息子の家に通い、得意料理を披露しながら家事を手伝った。
そんなある日、ベランダで布団を干そうとして、手すりに手をかけた瞬間、手すりが突然外れたのだ。一歩間違えば、高所から転落していたかもしれない。由美子に話すと、「新築なのに。きっと工事業者のミスですね。すぐに連絡しておきますね」と、心配そうな顔で言ってくれた。
だが、それから不思議なことが続いた。尚弥の家に行くたびに、財布からお金が減っているのだ。最初は私の勘違いかと思ったが、何度も繰り返されると、そうとは思えない。バッグに入れていたアクセサリーがなくなることもあった。
尚弥の家に行かない日は、何も起こらない。お金や物がなくなる理由は、由美子が知っているのではないか。私は由美子に尋ねることにした。
「ここに来ると、私の財布からお金がなくなるの。何か知らない?」
「え?何も知りませんけど。まさか、私を疑ってるんですか?」
由美子は、見たこともないような不機嫌な顔になった。激しく取り乱し、私を泥棒扱いするなんてひどいと避難した。そこへ尚弥が帰ってきた。事情を説明すると、尚弥は「由美子が可哀想だ」と、頭を振って見せた。
「これまで由美子がどれほど母さんを大事にしてきたか分かってないのか?もういい。今後の仕送りは停止する。お母さんとの付き合いも、これきりだ」
尚弥は、親子の縁を切ると宣言したのだ。
「ちょっと待ってちょうだい!尚弥に縁を切られたら、私は一人ぼっちになってしまうわ!」
「家族を信じない母さんが悪いんだろ。許して欲しかったら、明日から毎日ここへ来て、家中の掃除をしろ」
縁を切られるのが怖かった。両親はすでに他界し、親戚付き合いもほとんどない私にとって、尚弥は唯一の心の支えだった。私は彼の命令に従うことにした。
その日の夜、スマホで何気なくSNSを見ていると、「姑トメうざい」というタイトルが目に入った。どこの世界にも嫁姑問題はあるものだと思いながら動画を見ていると、姑が図々しく押しかけてきて迷惑、料理を作れ、女は家庭を守れ、といった音声が流れてきた。そして、画面に映る人物を見て、私は大きな衝撃を受けた。そこにいたのは、明らかに私だったのだ。
配信者のアカウントを確認すると、由美子のものだった。コメント欄には私を非難する言葉が並び、私の個人情報まで特定されていた。
これが由美子の本心なのか。これまで、私に批判的な態度を取ったことは一度もなかった。表面上は仲良くやっていたはずなのに……。由美子のことが信じられなくなった。しかし、行かなければ本当に親子の縁を切られてしまうかもしれない。それだけは避けたかった。
翌日、パート先に出勤すると、店長に呼び出された。
「申し訳ないけど、しばらく休んでもらえないかな?」
「え?それは構いませんが、何か理由があるんですか?」
「実は、さやさんが嫁いびりをしているって動画が流れたせいで、店にも誹謗中傷の電話がかかってきてるんだ。もちろん、さやさんがそんなことをする人じゃないのは分かってる。でも、動画でパート先まで特定されてしまったらしくてね」
まさか、事実ではない情報のせいで、仕事先にまで迷惑をかけるとは。由美子に許してもらい、動画を削除してもらわなければ、他にどんな影響が出るか分からない。私はパート先を出て、まっすぐ息子夫婦の家へ向かった。
由美子はいつから、私を誹謗中傷する動画を流していたのか。表面では笑顔を見せながら、本心では私のことを快く思っていなかったのかもしれない。そんなことを考えていると、岡本家の前で、千津子に引き止められた。そして、銀治から、恐ろしい真実を聞かされることになった。
「実は、先週、尚弥さんから解雇を言い渡されまして」
銀治は、突然「もう来なくていい」と解雇されたという。納得がいかず、翌日、直接話をしに行くと、家の中から話し声が聞こえるのに、インターホンに応答がない。不審に思った銀治は、庭に回って窓の隙間から中を伺った。すると、リビングで話し込む尚弥と由美子の姿があった。
「いいか、絶対にバレないようにうまくやれよ」
「ええ、分かってるわ。これであの人の保険金と遺産は私たちのものね」
2人は私の財産を狙って、よからぬ計画を立てていたらしい。階段にワックスを塗って転倒を装い、ベランダの手すりのネジを緩めて落下させる。寿病の薬を毒に変えようとも言っていた。
銀治が録音していた2人の会話を聞いた瞬間、私は大きな絶望感に包まれた。私の宝物であるはずの息子が、嫁と共に、私の命を狙っていたのだ。
余りにも信じがたい話だった。私は銀治たちに感謝しつつ、その足で、以前から交流のあった弁護士のもとを訪れた。銀治の録音データ、由美子のSNSの投稿、そして私が毎日つけていた日記。これらを見た弁護士は、難しい表情を浮かべた。
「息子さん夫婦は、なぜさやさんの命を狙おうとしたんでしょうか?事業をされていて、経済的にはとても裕福なんですよね」
弁護士に言われ、考えるが、心当たりが浮かばない。弁護士は、探偵に2人の素行調査を依頼してみてはどうかと提案してきた。調査には2週間ほどかかるという。
その夜、尚弥から電話がかかってきた。
「初日から約束を破ったな。罰として、明日は庭の掃除をやれ。それから、罰金として10万円を払ってもらう」
一方的に怒鳴る尚弥の声を聞いた瞬間、私の中で何かが冷めた。尚弥は昔から、思い通りにならないことがあると、全て私のせいにして暴れまくる子供だった。その度に、私は彼の要求を飲んできた。就職に成功し、ようやく親孝行してくれるようになったと喜んでいたが、それが私を盲目にさせてしまっていたのかもしれない。
「何黙ってるんだ?親子の縁を切られてもいいのか?」
脅し、自分たちの思い通りに動かそうとする。そう思った瞬間、私の中から息子夫婦への全ての感情が消え去った。
「あなたたちに振り回されるのは、もううんざりよ」
それだけ言って、私は電話を切った。
2週間後、探偵から調査結果が送られてきた。それによると、尚弥の会社は2年前、不透明な株取引に手を出し、大きな損失を抱えていた。詐欺師のブローカーに唆され、多額の資金を投入したが、全て偽の情報だった。気付いた時には会社の資金は底をつき、倒産寸前。新居のローンも滞り、差し押さえの通知まで届いていた。銀治を解雇したのも、給与が支払えない理由から。私のバッグから現金やアクセサリーを盗んでいたのも、生活費を賄うためだったのだろう。そして、会社の立て直しと自宅を守るため、保険金殺人を思いついたのだ。
私は怒りと失望で震えた。尚弥が正直に話してくれていたら、私はできる限りの協力をしただろう。それなのに、プライドを守るため、会社がうまくいっているふりをして、笑顔の裏で私の命を狙っていたのだ。
数日後、私は尚弥に電話をかけ、由美子と共にすぐに家に来るように伝えた。「遺言書を作成したい」と言うと、2人は喜んで飛んできた。由美子は私の好きなワインを手土産に持って。
「この前はきついこと言ってすみませんでした。これ、仲直りの印です」
「それはありがとう。だけど、そのワインは飲めないわ」
「そんなこと言わずに、乾杯しようじゃないか」
尚弥はワインをグラスに注ぎ、私の目の前に差し出した。
「あなたたちが何を企んでいるのか、知ってるわ。そのワインの中にも、何か混ざっているんでしょ」
「何を根拠に!」
「残念だけど、私の財産はあなたたちのものにはならないわ」
私の言葉に腹を立てた2人は、力づくでワインを飲ませようと、私を押さえつけた。
「大丈夫だ。このワインを飲めば、全て丸く収まるんだ」
「やめて!こんなことをしても、必ず証拠が見つかるわ!」
その直後、家の中に複数の警察官が踏み込んできた。
「そこまでだ!お前たち2人を、殺人未遂の現行犯で逮捕する!」
実はこの日、私は弁護士と共に警察署を訪れ、これまでの経緯を説明していた。探偵の調査報告書と録音データを提出し、「尚弥は必ず反抗に及ぶだろう」と伝えると、警察は自宅での待機を提案した。飲ませようとしたワインからは、水銀の成分が検出された。餃子の皮に入れるような見た目だが、命を奪うほどの猛毒だ。2人は殺人未遂の容疑で起訴され、それぞれ長期の懲役刑が言い渡された。
尚弥の会社は倒産し、地位や名誉は全て失われた。SNSでは実母殺害未遂として実名と顔写真が晒され、由美子のフォロワーたちは手のひらを返したように2人を罵った。新居は差し押さえられ、当事者不在のまま競売にかけられた。
その後、私は尚弥を相続人から除外する手続きを取り、由美子の両親も彼女との縁を切った。すべては自業自得だ。しっかり罪を償ってほしい。
私は命の恩人である岡本夫婦を自宅に招き、感謝の気持ちを込めて手料理を振る舞った。銀治は私の家の庭を無償で手入れしてくれるようになり、夫婦とは家族のような付き合いが続いている。
ある日、千津子から提案された。
「一緒に定食屋をやらない?さやさんの料理は、きっとみんなに喜ばれるわ」
私はその言葉に背中を押され、小さな定食屋を開くことにした。開店当初からたくさんの客に恵まれ、店は順調に売上を伸ばしている。息子がいなくなり、寂しい日々が続くだろうと思っていたが、千津子たちのおかげで、私の人生は満たされたものになったようだ。



