三年前、私は大学病院を追われるように辞めた。神の手と呼ばれた外科医が、今は下町の弁当屋で包丁を握っている。そんなある日、店に現れたのは昔の後輩医師だった。「原田教授が入院されました。手術が必要です。教授が、加藤先生にと指名しました」――私を追い出したあの男が、よりにもよって私のメスを望んだ。断る理由なんて、いくらでもあった。なのに、その夜、娘が言った。「助けてって言われたんなら、助けてあげた…

三年前、私は大学病院を追われるように辞めた。神の手と呼ばれた外科医が、今は下町の弁当屋で包丁を握っている。そんなある日、店に現れたのは昔の後輩医師だった。「原田教授が入院されました。手術が必要です。教授が、加藤先生にと指名しました」――私を追い出したあの男が、よりにもよって私のメスを望んだ。断る理由なんて、いくらでもあった。なのに、その夜、娘が言った。「助けてって言われたんなら、助けてあげた...

朝の六時、シャッターを開けると、路地にはまだ冷たい風が流れ込んでいた。俺は深く息を吸い込み、店の中へ戻った。炊飯器から白い蒸気が立ち上り、厨房では味噌汁の鍋がことこと音を立てている。昆布の出汁の香りが鼻をくすぐる。俺は包丁を手に取り、ネギを刻み始めた。

俺の名前は加藤健吾、四十二歳。この下町で「健康」という小さな弁当屋を営んでいる。妻と娘と三人暮らしの、ごく普通の家族だ。…普通と言いたいところだが、ほんの三年前まで、俺は大学病院でメスを握っていた。外科医だった。それも、周りから「神の手」と呼ばれることもあった若手の医者だ。

その話は今はしない。今の俺は、白衣ではなく前掛けが似合う男だ。

奥からサンダルの音が近づいてきた。妻のマリだ。

「おはよう。今日も早いね。」
「ああ、生姜焼きの仕込みがあるからな。タレも昨日のうちに作っといた。」
「鈴木さん、今日も来るって言ってたよ。」

俺は手を止め、少し笑った。鈴木さんは開店当初からの常連だ。七十歳になる元郵便局員で、糖尿病を抱えている。最初に来た時は顔色が悪く、足取りも重そうだった。マリは冷蔵庫から卵を取り出し、慣れた手つきで割り始める。元看護師の彼女は、俺の世界が崩れた時も取り乱さなかった人だ。病院をやめると伝えた夜、マリはただ一言「いいんじゃない」と言っただけだった。

「今日のおすすめは生姜焼き。それと、鈴木さんには別メニューを用意してある。鶏もも肉と根菜の煮物だ。糖分控えめで。」
「相変わらずだね。」
「客に合わせるのが弁当屋だろう。」

マリは笑って、卵焼きを焼き始めた。甘くない、出汁の効いた卵焼きだ。鈴木さんのために砂糖を入れない別バージョンも、一切れだけ作る。

二階から階段を駆け下りる音がした。娘のユイだ。

「お父さん、おはよう。お味噌汁ちょうだい。」
「ユイ、まだ寝巻きじゃないか。学校間に合うのか?」
「大丈夫。ちゃんと十分前に着くもん。」

十歳になる娘。俺が病院を辞めた頃は七歳だった。あの頃の混乱を、この子はどれくらい覚えているのだろう。

「お父さんのお味噌汁、世界一美味しい。」
「世界中の味噌汁飲んだことないだろう。」
「飲まなくても分かるの?」

俺は前掛けで手を拭きながら笑った。

午前十一時半、店先に営業中の札を出すと、すぐに最初の客が入ってきた。鈴木さんだ。ステッキを軽くつきながら、ゆっくりと、しかし背筋を伸ばして歩いてくる。

「加藤さん、こんにちは。」
「鈴木さん、いらっしゃい。今日は冷えますね。」
「年を取ると寒さが応えるよ。でも、ここの弁当を見ると安心するんだ。」

カウンターの前の椅子に鈴木さんは静かに座った。俺は厨房からいつもの弁当を取り出した。鈴木さんは弁当の蓋を開けると、しばらくそれを見つめていた。

「加藤さん、聞いてくれよ。昨日病院に行ってきたんだ。」
「検査結果はどうでした?」
「また下がってた。先生がね、不思議そうな顔をするんだよ。『お薬を増やしたわけでもないのに。なんで下がってるんですか?』ってね。」
「食事に気をつけていらっしゃるからでしょう。」
「馬鹿言っちゃいけない。気をつけているのはあんただよ、加藤さん。私はただ毎日ここの弁当を食ってるだけだ。」

鈴木さんは箸を持ち、ゆっくりと口に運んだ。よく噛んで味わうように食べる。俺はカウンターの内側で次の客のために米を装いながら、その様子を見ていた。

「加藤さん、あんた、本当はただの弁当屋じゃないだろう。」

俺は手を止めた。

「いや、何をおっしゃいますか。」
「隠さなくていい。ただ、この味付けは素人のもんじゃない。塩の使い方も油の量も、食べた後に体が分かるんだよ。喉が乾かない。胃にもたれない。こりゃあ、料理人の腕じゃない。誰かの体のことをずっと考えてきた人間の手だ。」

俺は少し迷ったが、笑って首を振った。

「買いかぶりですよ、鈴木さん。ただ、お客さんの顔色を見て作っているだけです。」

鈴木さんは何も言わず、ただゆっくりと頷いた。それ以上聞かないというのが、鈴木さんの優しさだった。

「鈴木さん、孫娘さん、今度運動会だっておっしゃってましたよね。」
「そうそう。今度の日曜だ。私もね、見に行こうと思ってる。去年は足が痛くて行けなかったんだが、今年はね、行ける気がする。」
「よかった。」
「ここに通うようになって、階段も登れるようになったんだよ。前は手すりにしがみついていたのに。」

鈴木さんはそう言って味噌汁をすすった。俺は調理台の前で、その横顔を見ていた。

鈴木さんが帰った後、店は昼の客でしばらく賑わった。近所の工務店の若い職人、商店街の夫人会、保育士の女性。顔は毎日決まっていて、誰がいつ何を頼むかも大体覚えている。午後一時を過ぎ、客足が引いた頃、俺は一人で厨房の椅子に腰を下ろした。

午後二時を回り、ランチタイムの客足はすっかり途絶えていた。夕方の煮物を仕掛けようと鍋を火にかけた。その時、店の引き戸ががらりと開いた。

「すみません、ランチは二時までで……」

顔を上げて、言葉が止まった。立っていたのは、見覚えのある男だった。細身の体に紺色のコート。その下には白いシャツと地味なネクタイ。佐草太。俺が大学病院にいた頃の後輩医師だ。

「加藤先生、お久しぶりです。」

俺は鍋の火を止めた。

「突然押しかけて申し訳ありません。ここだというのは、あちこちで噂を聞きまして。下町で弁当屋をやってると。来るかどうか随分迷ったんですが。」

マリが奥から顔を出し、佐草の姿を見て少しだけ表情を変えた。俺はカウンターの椅子を進めた。

「立ち話もなんだ、座ってくれ。」
「ありがとうございます。」

佐草はコートを脱ぎ、丁寧に畳んでから椅子に腰を下ろした。昔から礼儀正しい男だった。手術の手元も丁寧で、俺はそれを評価していた。

「元気そうだな。今はどこの科にいるんだ?」
「先生がいらした頃と同じ、第二外科です。原田教授の元で。」

原田という名前を聞いて、俺は湯飲みを置く手をほんの少し止めた。佐草はそれを見逃さなかったようだったが、何も言わなかった。しばらく沈黙が流れた。

「先生、今日伺ったのは、お願いがあるからなんです。」
「お願い?」
「原田教授が入院されました。膵臓に腫瘍が見つかって、手術が必要な状態です。」

俺は黙って佐草の顔を見た。

「教授本人が指名で、加藤先生に、と。」
「何の冗談だ?」
「冗談じゃありません。教授が自分の口ではっきりとおっしゃいました。『加藤を呼んでくれ』と。」

俺は何も言えず、ただ厨房の壁にかかった時計の音を聞いていた。

佐草が帰った後も、俺は厨房の椅子に座ったまま動けなかった。マリが奥から出てきて、向かいの椅子に腰を下ろした。何も言わずに新しいお茶を注ぐ。湯気がゆらゆらと立ち上った。

「原田先生のこと、聞こえてたよ。」
「聞こえてたのか?」
「聞こえちゃったの。ごめんね。」

元看護師の彼女は、原田という名前の意味を誰よりも知っている。俺が病院を辞めた夜、何があったかを全て見てきた人だ。

「断るつもりだ。」
「うん、分かってる。」
「あの男のメスを握る理由が俺にはない。」

マリはしばらく黙っていた。

「あなたが決めたなら、それでいいと思う。でもね、健吾さん。断る理由が『あの男だから』なら、まだ縛られてるってことだよ。」

俺は顔を上げてマリを見た。マリは俺の目を見返した。まっすぐな目だった。

「三年前のこと、もう終わったってあなた言ってたじゃない。終わったなら、誰が患者でも同じはずでしょ。私はあなたがどっちを選んでも応援するよ。」

マリはそう言うと立ち上がって、台所に戻っていった。俺は冷めたお茶を一口飲んだ。苦かった。

夜七時、店のシャッターを半分下ろし、家族三人で晩飯の卓を囲んでいた。ユイはいつもより少し大人しかった。

「お父さん、今日お店に来た背の高い人、お医者さん?」
「どうしてそう思うんだ?」
「なんとなく。お父さんと話してる時、空気がちょっと違ったから。」

子供というのは、時々こちらが驚くほど鋭い。俺は箸を置いてユイの顔を見た。

「お父さんって、昔お医者さんだったんでしょ?」
「うん。十歳のお前に話そうとは思ってたんだが。」
「お母さんから少しだけ聞いた。でも、ちゃんとは知らない。」

俺は何と答えればいいか、しばらく迷った。ユイが小さかった頃、俺はほとんど家にいなかった。夜中に呼び出され、朝帰り。休日も病院。

「お父さんはな、昔、病院でお医者さんをしていた。手術をする医者だった。」
「どうしてやめちゃったの?」
「色々あってな。お父さんの考えと、病院の考えが違ってしまったんだ。」

ユイはしばらく考えていた。

「お父さん、今日、誰かに『助けて』って言われたの。」

俺は箸を持つ手が止まった。マリもユイの顔を見つめていた。

「助けてって言われたんなら、助けてあげたらいいと思う。」
「ユイ、それはそんな単純な話じゃないんだ。」
「でもお父さん、いつも言ってるじゃん。鈴木のおじいちゃんが元気になるのが嬉しいって。お弁当でも嬉しいんだから、お医者さんに戻ったらもっと嬉しいんじゃないの?」

俺は言葉に詰まった。台所の換気扇の音だけが、ブーンと低く響いていた。

「あ、でもお父さんがお店やめちゃうのは嫌。」
「やめないさ。誰がお前に味噌汁を作るんだ?」
「だよね。」

ユイはそう言って、にっこり笑った。屈託のない笑顔だった。俺はその笑顔を見ながら、胸の奥で何かが揺れるのを感じていた。十歳の娘の一言が、なぜこうも重く響くのか。答えは自分でも分かっていた。俺自身がずっとそう考えていたからだ。ただ、認めることができなかっただけだ。

翌日、俺は弁当屋の昼の営業をマリに任せ、電車に乗っていた。向かう先は、かつての職場だった大学病院。佐草には夜のうちに電話を入れた。「会うだけだ。手術を引き受けるとは言っていない」と伝えてある。

三年ぶりだった。廊下を歩く看護師の足音。ストレッチャーのキャスターの音。誰かを呼ぶ館内放送。全てが昔のままだった。そして、全てがもう自分の場所ではなかった。

特別病棟の七階。佐草が病室の前で待っていた。

「来てくださって、ありがとうございます。」
「いい。中にいるのか?」
「はい。お一人です。」

佐草が扉を開けた。俺はゆっくりと中へ入った。ベッドの上に、原田教授がいた。背中に枕を当て、半身を起こしている。三年前に見た時よりも随分分痩せていた。頬がこけ、目の下に隈がある。あれだけ威圧的だった男が、薄い病衣を着て点滴の針に繋がれている。

「来たか。」

「お久しぶりです、原田先生。」

「座れ。立ったままでは話しにくい。」

俺はパイプ椅子を引き寄せ、ベッドの脇に腰を下ろした。

「弁当屋をやっているそうだな。」

「ええ、おかげ様で。」

「うん。神の手が包丁を握っているわけか。」

「包丁もメスも、刃物に変わりはありません。」

原田はふっと息を漏らすように笑った。笑うと頬の辺りが痩せて見えて、痛々しかった。

「単刀直入に言う。私の膵臓をお前に切ってもらいたい。」

「なぜ私なんですか? 腕のいい外科医は、この病院にいくらでもいるでしょう。」

「いる。だが、私の体を任せられるのは、お前しかいない。」

俺はすぐには答えなかった。原田は点滴の刺さった腕をゆっくりと持ち上げた。

「三年…いや、お前を追い出したのは私だ。研究費のため、異動のため。そう自分に言い聞かせて、お前のような医者を切り捨てた。私は今でも変わらん。だが、自分が患者になってみると、見えてくるものがある。」

俺は黙って聞いた。

「私はな、加藤。お前のような医者に切られて死ぬのなら、それでいいと思っているんだ。」

窓の外で、イチョウの葉が一枚、風に舞い落ちた。原田は目を閉じ、しばらく黙っていた。それから、絞り出すように言った。

「頼む。これは教授としてではなく、一人の患者としての頼みだ。」

その言葉が、俺の胸の真ん中にまっすぐに届いた。俺は目の前にいるこの男をもう「原田教授」として見ることができなくなっていた。ただ、病気を抱えた痩せた男がそこにいた。

俺はゆっくりと立ち上がった。

「少し考えさせてください。」

「ああ、分かった。」

病室を出ると、廊下の窓から差し込む西日が床を赤く染めていた。佐草が心配そうな顔で立っていた。俺は何も言わず、その横を通り過ぎた。歩きながら、ユイの声が耳の奥で蘇った。

「助けてって言われたんなら、助けてあげたらいいと思う。」

俺は廊下を歩きながら、自分の右手を見つめた。三年間、包丁を握ってきた手だ。その手が、わずかに震えていた。

朝五時半。昨夜はほとんど眠れなかった。冷蔵庫を開け、卵を取り出す。いつものようにネギを刻む。包丁の音がリズムを刻んでいく。トントントン。その音を聞きながら、俺は自分の右手を見つめていた。三年前、この手はメスを握っていた。今は包丁を握っている。だが、手のひらに残る感覚は、不思議と変わらない。

サンダルの音がした。マリが寝巻きの上にカーディガンを羽織って降りてきた。

「眠れなかったの?」

「ああ、少しな。」

マリは何も言わず、コンロに火をかけた。

「マリ。手術を引き受けようと思う。」

マリは振り返り、俺の顔を見た。

「あの男のためじゃない。患者として頼まれたからだ。」

「うん、分かってる。」

マリはそれだけ言うと、また卵焼きのフライパンに視線を戻した。菜箸がゆっくりと音を立て始めた。

階段からユイが降りてくる音がした。

「お父さん、おはよう。」

「ユイ。お父さん、な。しばらくの間、お店を休む日が何日かあるかもしれない。」

「お医者さんに戻るの?」

「戻るんじゃない。一回だけメスを握る。それだけだ。」

ユイはしばらく俺の顔を見ていた。それから、にっこりと笑った。

「『行ってらっしゃい』って言えばいいの? それとも『頑張って』って言えばいい?」

「どっちでもいい。ユイの言葉なら、どっちでもいい。」

「じゃあ、両方。」

ユイはそう言って、勝手口の階段にちょこんと腰を下ろし、味噌汁のお椀を抱えた。

手術当日、俺は白衣を着ていた。三年ぶりの白衣だった。袖を通すと、その重みが肩にじんわりと乗った。更衣室の鏡の前で、俺はしばらく自分の姿を見ていた。四十二歳の男が、そこに立っていた。

手術室の前で、佐草が待っていた。

「加藤先生、本日はよろしくお願いします。」

「最後だ。お前が第一助手だな。」

「はい。光栄です。」

俺はその肩を軽く叩いた。

「いつも通りやれ。俺もそうする。」

手術室に入ると、消毒液の匂いと機械の電子音が一気に押し寄せてきた。俺は深く息を吸い、ゆっくりと吐き出した。原田はすでに台の上にいた。麻酔がかかり、目を閉じている。俺は看護師から手袋を受け取った。ぴたりと指に吸いつく。メスがトレーの上で銀色に光っていた。俺はそれを手に取り、軽く握り直した。

「メス。」

「はい。」

そこからは、全てが流れるように進んだ。俺のメスは、三年のブランクなど感じさせなかった。いや、むしろあの頃よりも深く、静かだった。腫瘍は無事に摘出された。最後の縫合に入る前、ほんの一瞬だけ原田教授の顔を見た。何かを言うわけでもない。ただ見た。それから、糸を結び始めた。

「終了。」

手術室の空気がふっと緩んだ。俺は手袋を外し、ゴミ箱に捨てた。

それから二週間が経った。原田の経過は順調だった。退院の目処も立ったと、佐草から電話があった。電話の最後に、佐草はぽつりと言った。

「先生、教授が『ありがとう』と一言だけおっしゃいました。」

「そうか。」

「先生は、戻ってこないんですか? 病院に。」

「戻らない。俺の場所はもう決まってる。」

電話を切って、俺は厨房に戻った。鍋から味噌汁の湯気が立ち上っていた。昆布の出汁の匂いが、いつもと同じように店の中に満ちていた。

午後の遅い時間、店の引き戸が開いた。鈴木さんだった。

「加藤さん、今日もよろしく。」

「鈴木さん、いらっしゃい。」

「あんた、しばらく休んでたみたいだね。どこか具合でも悪かったのかい?」

「いえ、ちょっと昔の用事がありまして。」

「そうかい。まあ、人には色々あるからな。」

鈴木さんはいつもの席に腰を下ろした。俺は弁当を温め、味噌汁をお椀によそった。湯気がふわりと立ち上る。

「ああ、この匂いだ。これを嗅ぐと、生きてるって気がするんだよ。」

俺は何も言わずに、ただ頷いた。カウンターの内側から、その横顔を見ていた。病室で見た原田の痩せた顔と、今味噌汁を前に微笑む鈴木さんの顔が、不思議と重なった。誰の命も、同じ重さなのだと思った。当たり前のことを、俺はようやく本当の意味で受け入れたのかもしれなかった。

奥からマリが出てきた。

「鈴木さん、お孫さんの運動会、どうでした?」

「行ってきましたよ。一等だった。私も、最後まで立って見られた。」

「良かったですね。」

「ここのおかげですよ。本当に。」

夕方の光が店の中に斜めに差し込んでいた。窓の外で商店街のスピーカーが夕方の音楽を流し始める。学校帰りの子供たちの声が遠く聞こえる。

「お父さん、ただいま。」

「お帰り。手洗い。」

「はい。」

カウンターの向こうで鈴木さんがゆっくりと味噌汁をすっている。そのすぐ横でマリがお茶を注いでいる。ごく普通の夕暮れの店の光景だった。

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