七之助の手には、母が残した三百枚の一文銭があった。その中の一枚を指で弾き、彼は呟いた。「表が出れば山羊を買い、裏が出ればあの死にかけた娘を助ける。」三十五にもなって妻もなく、錆びた鍬一本しか持たぬ男が、天に続く道を歩んでいた。この一文銭の行方が、後にこの男の人生を根底から変えることになろうとは、この時誰も知るよしもなかった。
話は七之助がまだ幼かった頃へ遡る。山波が折り重なる里に、七之助という男が暮らしていた。その名は父の太平が七福神にあやかって、七つの福に恵まれるようにと願って付けたものであった。ところがこの男の生涯は、名とは裏腹に気難しい巡り合わせに満ちていた。太平はこの里で指折りの豪農であった。畑を広く持ち、牛を飼い、下男下女まで使う暮らし向き。太平の屋敷の前を通る村人は、思わず頭を下げたくなるほどの構えであったという。妻のおふさは元は船頭の娘で、働き者で心根の優しい女であった。毎年秋が終わると暮らし向きの苦しい家に米を分けて回り、村人たちはその恩を忘れず口々に褒め称えた。二人の間に生まれたのが七之助であり、六つ下に弟の七蔵がいた。
幼い頃の七之助には何ひとつ不自由がなかった。祭りの日には父が菓子を買ってくれ、母の仕立てた晴れ着で寺子屋に通った。弟の七蔵と裏山で虫を追いかけて遊んだ日々は、今にして思えば夢のような時間であった。しかし人の運というものは実に測りがいのないもので、一度傾き始めると坂を転げ落ちるように崩れていくものらしい。七之助が十七になった年の春、父の太平は町へ出たはずみで博打に足を踏み入れてしまった。最初はほんの座興のつもりで、わずかな銭を張っただけであった。ところが初めの勝負で大きく勝ってしまい、その味が忘れられなくなった。金というものは不思議なもので、汗して稼いだ銭には重みがあるが、労せずして転がり込んだ銭には羽が生えていて、追えば追うほど高く舞い上がっていくものである。太平は負うごとに博打場から足が抜けなくなった。それから二年ほどの間に、太平は次々と土地を売り払い、人手も減らしていった。牛を手放し、下男下女にも暇を出した。おふさが涙ながらに諭しても、耳を貸すはずもなかった。「今度こそ大きく当てて、全て取り返す」と繰り返すばかりであった。
七之助が十九になった年の冬。太平は借金取りに追われるうち、宿場の裏路地で冷え死にしているところを見つかった。手には博打の札が固く握られていたという。おふさは夫の死体の前で、声も出さずに泣いた。それからというもの、おふさは日に日に痩せ細っていった。顔から血の気が失せ、咳が絶えなくなり、春を待たずして後を追うようにこの世を去った。残されたのは七之助と七蔵、そしてわずかな借金と、母が必死に縫い続けた衣服だけだった。
十七の七之助は弟を養うため、里の有力者のもとへ日雇いに出た。朝から晩まで田畑を耕し、薪を割り、荷を運んだ。それでも暮らしは楽にならず、借金は雪だるまのように膨らんでいった。七蔵は十三になると、奉公に出ると言い出した。「兄ちゃん、俺は町で働くよ。楽になるぞ。」七之助は反対したが、七蔵の決意は固かった。「このまま二人でいても、食えなくなるだけだ。」そう言って七蔵は里を出ていった。それきり、七蔵からの便りは一度もなかった。
七之助は独りになった。持ち物は母の形見の一文銭三百枚と、錆びた鍬一本だけ。それでも彼は働き続けた。天に続くような険しい山道を越え、峠の茶屋で力仕事を請け負い、辛うじて食いつないだ。ある日、峠で一人の娘が倒れているのを見つけた。痩せ細り、着物はぼろぼろで、息も絶え絶えであった。娘は流行り病にやられ、家族もなく、行く当てもないのだという。七之助は娘を介抱し、茶屋の主人に頼み込んで一晩泊めてもらった。娘は翌朝、礼を言って去っていった。その背中を見送りながら、七之助は何か引っかかるものを感じていた。
それから数日の後、七之助は峠の茶屋でふと一文銭を取り出した。母の形見の一枚だ。表が出れば山羊を買い、裏が出ればあの娘を探して助けると決めた。指で弾いた銭は、くるくる回って、表を向いて落ちた。山羊を買うためには金がいるが、娘を助けるためにはもっと金がいる。どちらにせよ、この一文では足りない。七之助は自嘲気味に笑い、銭を懐に仕舞った。しかし、その夜、彼は眠れなかった。あの娘は今もどこかで苦しんでいるのだろうか。自分のように助けを待っているのだろうか。
次の朝、七之助は茶屋の主人に尋ねた。「あの娘は、どこの者か知っておりますか。」主人は首を振った。「いや、見かけない顔だった。だが、峠の向こうの村で、同じような病が流行っていると聞いたぞ。もしかすると、その村の者かもしれぬ。」七之助はためらった。自分に何ができるというのか。一文銭の力では何も変わらない。しかし、母の言葉を思い出した。「情けは人のためならず、巡り巡って我が身に返る。」七之助は決意した。娘を探しに行こう。たとえ一文しか持っていなくても。彼は峠を越え、向こうの村へと足を踏み入れた。そこで見たのは、病に倒れた者たちが路傍に横たわり、助けを求める声もなく息を引き取っていく無残な光景だった。七之助は呆然と立ち尽くした。己の無力さが、身に沁みた。
その時、一つの行列が現れた。馬上の人々が疫病の村へ乗り込んでいく。先頭の若者は、絵図を広げて村人に何かを説明している。手振りを交えながら、気迫に満ちた様子で。七之助はその若者から目が離せなかった。何とも言えぬ胸の騒ぎを覚えたからだ。その時、荷車の一台が険しい道で傾き、積み荷が崩れ落ちた。若者はすぐに駆け寄り、荷を起こそうとした。七之助は迷わず走り出した。「手伝います。」そう声をかけて、荷を支えた。若者は振り返り、笑った。「ありがとう、助かった。」その笑顔に、七之助はかつて弟の七蔵が持っていた面影を見た気がした。
若者の名は圭介といった。疫病に立ち向かうため、薬草や食料を集めて村々を回っているのだという。「一人ではどうにもならないからな。力を貸してくれるか。」圭介の言葉に、七之助は頷いた。それから七之助は圭介と共に、疫病の村々を回るようになった。荷を運び、薬を煎じ、病者の世話をした。一文銭の力など、何の役にも立たなかったが、それでも彼が動くことで、助かる命があった。娘を見つけることはできなかったが、その代わりに、自分にできることを見つけたのだ。
それから何年かが過ぎた。七之助はもはや、あの痩せ細った日雇い労働者ではなかった。圭介と共に、困っている人々を助ける仕事に身を投じ、里の人々からは「七之助殿」と敬意を込めて呼ばれるようになった。かつて彼を「父の名を継げぬ落ちこぼれ」と嘲った者たちも、今は頭を下げる。七之助は母の形見の一文銭を、今も懐に持ち続けている。あの日、表を向いて落ちた銭が、彼の人生を変えた。いや、彼自身が、その一枚の銭に背中を押されて、歩き始めたのだ。山を越え、人を助け、天に続く道を。
ある日、七之助は久しぶりに故郷の里へ足を向けた。かつての自宅の跡は、草が生い茂り、見る影もなかった。そこに、一人の年老いた女が立っていた。七之助を見て、女はゆっくりと口を開いた。「あなた…七之助さんですか。」七之助は頷いた。「私は、あの時、峠で助けていただいた者です。」女はそう言って、深々と頭を下げた。七之助は息をのんだ。あの時、一文銭で裏を引いていれば、自分はこの娘を探しに行っていた。表が出たから、山羊を買うはずだった。しかし、結局はどちらも選ばず、ただ自分のできることをした。それが、巡り巡って、この再会につながったのか。女は続けた。「あの時、助けてもらわなければ、私は死んでいました。そして、今度は私の番です。私はこの里で、小さな宿を営んでいます。どうか、あなたも泊まっていってください。」七之助は微笑み、頷いた。母の言葉は、本当だったのだ。情けは人のためならず、巡り巡って我が身に返る。
その夜、七之助は宿の縁側で、一枚の一文銭を眺めていた。表も裏もない、ただの古い銭。しかし、この銭がなければ、彼はあの娘を思い出すこともなく、ただ峠で働き続けていたかもしれない。運命というのは、偶然の積み重ねなのか、それとも必然なのか。七之助には分からない。ただ、自分が歩んできた道が、決して間違いではなかったことだけは、確かめられた気がした。彼は銭を懐にしまい、立ち上がった。明朝、また山を越えて、次の村へ向かうのだ。天に続く道は、まだまだ続いている。



