「一度だけ、ほんの一度だけ、おとっさんと呼ばせてください。妹の命さえ助けていただければ、それで十分です」…

「一度だけ、ほんの一度だけ、おとっさんと呼ばせてください。妹の命さえ助けていただければ、それで十分です」...

「一度だけ、ほんの一度だけでございます。おとっさんと呼ばせてください。妹の命さえお助けいただければ、それで十分でございます」

十二歳の少年が、幼い妹を背負ったまま見知らぬ男の袖にすがりついた。峠の向こうからは、棒を手にした荒くれ者どもが父を追い立てるようにして迫ってくる。少年の素足は泥にまみれ、背中の妹は高い熱に浮かされ、苦しげなうわごとを繰り返すばかりだった。男は古びた番傘を傾け、汗ばんだ顔に道中装束を纏っていた。その姿だけを見れば、どこにでもいる旅人にしか見えない。だが、少年が必死に掴んだその袖は、この白峰の里で生きる者なら誰一人として軽々しく触れてよいものではなかった。

空には、登り始めたばかりの満月が遠い道を静かに照らしていた。少年はなぜ、病に臥せった妹を背負い、命を狙われていたのか。そして、父を知らぬ少年がすがったこの男は、一体何者だったのか。すべては、この兄妹がまだ幼い流れ者として、飢えと寒さの中をさまよっていた頃から始まったのである。

時は天明年間。上州のとある藩の領内でのことであった。あの年は天の大飢饉の爪痕が深く残り、村々には打ち捨てられた旗が寒々しく靡いていた。この山里に、土吉という少年が暮らしていた。年は十二。痩せてはいたが、日に焼けた顔に力強い目をした子であった。そして、五つになる妹が一人いた。名をお月といった。二人には親もなく、家もなく、身を守るために名字を名乗ることもできなかった。あるものといえば、互いに握り合う二つの手と、古びた守り袋一つだけであった。

今から七年前のことである。土吉が五つになった頃、お月はまだ生まれて間もない赤子だった。父は芦田竜之進という藩士に使える実直な侍だった。ところがある夜、屋敷に大勢の者たちが押し入り、父は無実の罪を着せられて連れ去られた。あの夜のことを、土吉はおぼろげにしか覚えていない。ただ、母が赤子を抱いて自分の手を強く引いた感触と、外で人々が叫び合う声、そして屋敷の裡を赤々と照らす炎の色だけが、今も時折夢に現れるのであった。

母は幼い二人を連れて逃げようとしたが、追手の目を引きつけるため、自ら屋敷に残る道を選び、その夜ついに命を落としたのである。母が最後に老僕へ託した言葉は、「この子らに父の名を名乗らせてはならぬ」というものだった。屋敷が踏み込まれる直前、父もまた老僕を呼び寄せ、ある短い数え歌を託していた。「この歌を必ず土吉に覚えさせよ。いつの日か、我が無実を明らかにする鍵となろう」と。屋敷に長く仕えていた老僕は、火の手の中をくぐり抜けて二人を抱え、いくつもの峠を越えてこの山里まで逃れてきたのである。

老僕は、土吉に素性を悟られぬよう、満月の夜に生まれた女の子をお月と名付け、それから幾年もかけて父より託された数え歌を土吉に教え込んだ。意味はまだ分からずとも良い。いつか必ず役に立つ日が来るだろうと。土吉は幼心に、なぜこのようなわけの分からぬ歌を覚えねばならぬのか不思議に思いつつも、老僕の真剣な眼差しに逆らえず、何度もその歌を口ずさんだ。

そんなある日、老僕は病に倒れた。床に伏せたまま、老僕は土吉の手を握り、最後の言葉を残した。「土吉よ、お前の父上は決して悪人ではない。いつかこの歌がお前を真実へと導いてくれるだろう。そして、もし道中で困ったことがあれば、この守り袋を開けるがよい。そこにお前の父上が遺したものがある」

老僕はそう言い残して、静かに息を引き取った。土吉とお月は、たった二人だけの身となり、老僕の墓を築き、その前で静かに手を合わせた。それからというもの、二人は麓の村々を渡り歩き、畑仕事や薪拾いをして細々と暮らしていた。土吉はお月の親代わりとなり、飢えさせないように必死で働いた。お月は兄の背中が好きで、いつも「土吉、土吉」と呼びながら、兄の後を追いかけた。

だが、ある日突然、悪い噂が流れ始めた。芦田家の生き残りの子がこの辺りにいるらしい。すると、かつて父を陥れた者たちが、その噂を聞きつけて動き出したのである。ある夜のこと、土吉とお月が藁小屋で眠っていると、突然外から足音が近づいてきた。土吉はお月を背負い、裏口から逃げ出した。しかし、追手は二人の後を追ってくる。土吉は草むらに身を隠し、息を潜めてやり過ごそうとした。しかし、そのときお月が高い熱を出してうわごとを言い始めた。声を聞きつけた追手は、草むらに向かって棒を振りかざした。

土吉は必死に走った。草をかき分け、川を渡り、藪を抜け、何とか追手の包囲を掻い潜った。しかし、そうして逃げるうちに、二人は気づけば白峰の山道に迷い込んでいた。お月は熱でぐったりとして、もう自分では歩けない。土吉はお月を背負い直し、ふらつく足で山道を登り続けた。そして、その先で一人の男に出会ったのである。古びた番傘を差し、汗ばんだ顔で道中装束をまとった、どこにでもいそうな旅人だった。

土吉は、もう追手が目前まで迫っていることを悟った。このままでは二人とも捕まってしまう。藁にもすがる思いで、土吉はその旅人の袖に掴まった。そして、初めて会ったこの男に向かって、こう言ったのである。

「一度だけ、ほんの一度だけでございます。おとっさんと呼ばせてください。妹の命さえお助けいただければ、それで十分でございます」

男は少年の言葉を聞き、足を止めた。そして、少年の背後から迫り来る追手の足音に耳を澄ませた。男は静かに番傘を地面に突き立てると、ゆっくりと口を開いた。「その歌、どこで覚えた」

土吉は驚いた。この歌は老僕から教わったもので、誰にも話したことはなかった。しかし、この男は知っている。土吉が黙っていると、男はさらに言った。「お前の名は土吉か。芦田竜之進の息子であろう」

その瞬間、土吉の脳裏に、老僕の最期の言葉が蘇った。「いつか必ず役に立つ日が来る」と。そして、この守り袋を開けよと。土吉は震える手で守り袋を開け、中から一枚の小さな紙片を取り出した。そこには、ある屋敷の場所と、一通の手紙が入っていた。手紙にはこう書かれていた。

「この手紙を読む者よ。我が無実を証する者は、この書状とともに白峰の麓に住む一刀流の師範、井上道庵のもとへ行け。されば、我が無実は明らかになるであろう」

土吉は顔を上げ、男を見つめた。男はほんのわずかに口元を緩めると、「俺が井上道庵だ」と言った。そして、手にした棒を軽く持ち上げ、迫り来る追手の一団に向かって一歩踏み出した。「お月ちゃんを背負って、俺の背中に隠れていろ」

土吉には理解できなかった。なぜ父の無実を証する人物が、こんな場所で自分たちと出会ったのか。だが、男はまさに武士だった。ひと振りの刀で数人の追手を斬り伏せ、残る者たちは一目散に逃げ去っていった。男は刀を鞘に収め、振り返って土吉に言った。

「よく頑張った。お前の父上は誠の侍だった。そして、お前もまた立派な侍の子だ」

土吉の目から涙が溢れた。お月は兄の背中ですやすやと眠っていた。男は二人を連れて山道を下り、麓の隠れ家へと導いた。そこで土吉は、父の無実を証明するための手続きを整え、やがて藩の上層部に手紙が届けられ、父の名は晴れたのである。

そして、その夜も、二人が最初に男と出会った道のように、縁辺には静かに月の光が川面を照らしていたのである。

本日のお話はこれにておしまいでございます。

Thumbnail