ごちそう様で母の誕生日を祝った夜、伝票に書かれていた金額は45万円。明らかな不当請求に母が挑発的な態度で応じると、店員が私に向かって言ったんだ。「あら、店員さん。うちの息子は何もしてないんだけどね」。その瞬間、私は聞き覚えのある声に全身の血が凍る思いがした。この10年間、人と関わらないようにしてきたのに。何故この店員が私のことを知っているのか。母の手から湯呑みが落ちて、割れる音が店内に響いた…

ごちそう様で母の誕生日を祝った夜、伝票に書かれていた金額は45万円。明らかな不当請求に母が挑発的な態度で応じると、店員が私に向かって言ったんだ。「あら、店員さん。うちの息子は何もしてないんだけどね」。その瞬間、私は聞き覚えのある声に全身の血が凍る思いがした。この10年間、人と関わらないようにしてきたのに。何故この店員が私のことを知っているのか。母の手から湯呑みが落ちて、割れる音が店内に響いた...

あの日の出来事を、私は今でも鮮明に覚えている。ごちそう様で母の誕生日を祝った日のことだ。程よいタイミングで店員がバインダーに挟んだ伝票を私に渡してきて、私は記載された金額に思わず声を上げてしまった。

「あら、45万円って」

「母さん、声でかいって」

私は矢坂直樹。34歳の独身サラリーマンで、窓際に追いやられた幽霊社員みたいな存在だ。会社では「母子家庭だからはっきりしない性格なんだ」とか「仕事はできるのに、なんで営業職を嫌って内務の経理処務にこだわるんだ」とか言われている。私は会社以外の場所で人と関わるのが苦手だ。それを理解してもらおうと思っても、うまく言葉にできない。だからこのままの仕事で全く問題なかったし、不満もない。不満を言ってはいけない。そう自分に言い聞かせてきた。

私はマンションで母親と一緒に暮らしている。母はシングルマザーで、女手一つで私を育ててくれた。私には3歳になるまで父親がいた。その頃にはもう物心がついていたから、父親の名前も、どんな家に住んでいたのかも覚えている。しかし両親の離婚後、母からは「父親の名前は今後一切口にするんじゃない」と言われていた。父親がいた頃の生活は、人の出入りが激しくて落ち着かなかったという記憶が残っている。小学生くらいになると、父親との記憶はほとんど消えてしまった。それなのに、私の苗字は父親のもの。母だけが旧姓に戻っている。

大学生になって、なぜ両親が離婚したのか、なぜ私が父親の姓を名乗っているのかを母に教えてもらった。その時は「何ドラマみたいなこと言ってんだよ」と母に悪態をついてしまったが、なぜ父親の名前を口にしてはいけなかったのか、なぜ父親と無関係を貫こうとしたのか、その気持ちが痛いほど分かった。実は両親は、私の将来を考えて離婚を決めた。いわゆるペーパー離婚だったのだ。今住んでいる家も、母が目立った仕事をせずに悠々と暮らしてこれたことも、私が大学を無事に卒業して今の職場で働き続けられることも、全て父親の力があったからこそだった。

私はのびのびと育った。学習塾にも通わせてもらい、私立のハイクラスなエスカレーター式の小学校に入学した。そこから大学を卒業するまで、何不自由なく学業に専念できた。その頃までは私自身やんちゃしたこともあったし、ドラマや漫画にあるような青春も楽しんだ。それなのに今となっては、中堅企業の冴えない経理処務課長。大学卒業から今までの10年の間に、人には言いたくない事件があり、人と関わらないようにしてきたのだ。

職場では「陰気臭い社員」とか言われているが、私はそれで納得している。「矢坂さんって身長高いし、顔立ちもはっきりしてるんだから、もうちょっとおしゃれすればモデルデビューできるかもしれないよ」と、いつだったか若い女性社員に言われたことがある。しかし私は目立ちたくない。仮にモデルとして活躍していたとしても、私のポスターや雑誌のグラビアなどがこの世に残ってしまうのは、どうしてもダメなのだ。空気のように生きていきたい。それが私の今一番の願いだった。

「母さん、今日の夜の約束大丈夫だよね」

「もちろん大丈夫さ。直樹が久々に食事に誘ってくれるんだもの。楽しみだね」

今日は母の誕生日。私は久々に外食に連れて行くことにした。店を予約して、母を連れて夜の街へ繰り出した。店は高級な料亭で、私は母にいい思いをさせてあげたかった。食事はとても美味しく、母も嬉しそうだった。私も久しぶりに母とゆっくり話せて、心が温かくなった。そして食事が終わり、会計の時が来た。店員がバインダーに挟んだ伝票を私に渡してきた。私はその金額を見て、目を疑った。45万円。こんなに高いわけがない。明らかに不当な請求だった。

「あら、45万円って」

「母さん、声でかいって」

私は母を静かにさせようとしたが、母は大将の方をじっと見ていた。すると、厨房の奥から「ちょっとよかったかな」という声が聞こえた。声の方を向いたら、店員がスマホで電話をしていた。私たちに気づかれないよう、小声で何かを訴えていたようだ。スマホを切った店員が大将に目くばせすると、大将は勝ち誇ったようにこちらを見た。

「お支払い、いけないのですか」

「適正価格での請求だったら支払うけどね」

母はあざ笑うかのように大将を挑発している。私は「母さん、やめときなよ」と止めようとした。しかしその時、店員が言ったのだ。

「あら、店員さん。うちの息子は何もしてないんだけどね」

その言葉を聞いた瞬間、私は全身の血が凍るような感覚に襲われた。何故だ。何故この店員が、私のことを知っているんだ。しかも「息子」と呼ばれた。私はこの店員に何かしたのだろうか。この10年間、人と関わらないようにしてきたのに。この店員が何かを知っている。そう確信した。母の顔色も変わった。食卓にあった湯呑みが床に落ちて、割れる音が響いた。店内の視線が一気にこちらに集まる。私はその場から逃げ出したい気持ちでいっぱいだった。

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