「ご希望にはお答えできません」
俺は静かに、しかしはっきりとそう告げた。高級寿司店「寿司小宮」の裏口で、2代目の小宮翔太がにやにやと笑いながら値下げを迫ってきた瞬間だった。
俺の名前は八生誠一。食品会社「海」の営業部長だ。うちはただの卸売業者じゃない。自社で魚介、肉、野菜を育て、加工し、品質管理まで一貫して行っている。料理人の経験がある俺は、ただ売るだけじゃなく、現場の目で食材を見てきた。その姿勢が評価され、業界での信頼も築いてきた。
だが、小宮の言葉は違った。
「他の業者はもっと安くて量も多いんだよね。うちの希望価格に合わせてくれない?できないなら契約終わりってことで」
あからさまな脅し。その瞬間、俺の中で何かが音を立てて崩れた。
先代の親方は違った。料理に厳しく、時に厳しい言葉もあったが、そこには職人としての筋が通っていた。うちの食材の価値もきちんと認めてくれていた。だが、病で亡くなった後を継いだのが、この小宮翔太。派手な見た目とSNS映えを最優先し、味より写真、素材より色合い。そんな男に変わってしまった。
納品の度に「量が少ない」「この価格でこんなもんなの?」と文句を言われ、しまいには「誠意がない。ただ売ってるだけなのに偉そう」と暴言まで飛んでくる。
俺は耐えてきた。取引先の顔を潰すな。それが営業の鉄則だと思っていたからだ。
「うちと取引してるってことで、そっちにも箔がついてるんだよね。ブランド料ってやつ?そういうの、もうちょっと考慮してくれてもいいんじゃない?」
小宮は目は笑っていたが、口調には確かな圧力があった。有名店の名前を盾に、値段を下げろと言っているのだ。
俺は深く息を吸った。そして、もう後戻りできない言葉を口にした。
「そのご希望にはお答えできません」
小宮の顔が一瞬で歪んだ。
「は?今なんて?」
「うちの信念は、いい品を自分たちの手で誠実に届けることです。素材の質を守り、無理な安売りはしない。それが先代から受け継いだ方針であり、俺たちの誇りです」
「ふーん。じゃあ、契約終了でいいんだな?」
「ええ。ただし、ひとつだけ言わせてください」
俺はポケットからスマホを取り出した。画面には、さっきの会話がすべて録音されている。
「その脅しの言葉、録音させてもらいました。もし不当な理由で契約を打ち切るなら、こちらも相応の対応を取らせていただきます」
小宮の顔色が変わった。
「なっ…録音だと?」
「ええ。まさか有名店の2代目が、こんな稚拙な脅しで取引先を潰そうとするとは思いませんでしたがね」
俺は背筋を伸ばし、小宮を真っ直ぐ見据えた。
「うちの食材を欲しいと言ってくれる店は、他にもたくさんあります。質を理解してくれる料理人と仕事ができれば、それで十分です」
小宮は何か言おうとしたが、言葉が出てこないようだった。顔は真っ赤になり、拳を握りしめている。
「…出て行け」
「ええ。今までのお取引、ありがとうございました」
俺はそう言って、裏口を後にした。振り返らなかった。
数日後、俺は思わぬ電話を受けた。それは、かつて寿司小宮を訪れていた常連客からのものだった。
「八生さんですよね? 小宮から聞きました。あなた方が納品をやめたって」
「はい。うちの信念に合わない取引先でしたので」
「実は私、あの店の料理にずっと違和感があったんです。見た目はきれいなのに、どこか味が安っぽくて。それって、やっぱり食材のせいだったんですね」
その人は、自分の知り合いの料理人を紹介してくれた。名門料理店の料理長で、うちの食材を昔から評価してくれていたという。
「ぜひ、あなたの会社の食材を使ってみたい」
その言葉に、俺は自然と笑みがこぼれた。失った取引先は大きかった。だが、本当に食材の価値を理解してくれる人は、ちゃんと見てくれている。
俺はあの日の小宮の言葉を思い出した。「うちと取引してるってことで、そっちにも箔がついてるんだよね」と。
箔がつくのは、どっちだったんだろうな。
あれから俺は、ますます現場に足を運ぶようになった。料理人と直接話し、食材を手に取り、その日の気候や仕入れの状況まで共有する。そんな関係を大切にしていけば、きっとこの信念を理解してくれる人は増えていくはずだ。
無理な安売りはしない。素材の質を守る。いい品を自分たちの手で誠実に届ける。
それが俺たちの誇りだ。先代から受け継いだ、誰にも譲れない誇りが、今もこの胸にある。



