午前6時、三叉路はまだ霧に包まれている。俺はトラックに野菜を積み、町へと向かっていた。ハンドルを握る手は、あの頃と比べて随分と荒れていた。土に触れ、耕し、水をやる手だ。メスを握っていた頃の手とは、もう別物だった。
カーブを曲がると、谷合いの小さな町が霧の隙間から姿を見せる。人口数百人の集落。コンビニもなく、信号は2つだけ。俺がここに流れ着いて、もう5年になる。
俺の名前は鈴木亮平、45歳。かつては都内の大学病院で心臓外科医をしていた。天才と呼ばれた時期もあった。今はもう誰もそう呼ばない。俺自身、その言葉を二度と耳にしたくないと思っている。
トラックを止めたのは、町の中心にある古い食堂だった。看板には「森本食堂」と手書きの文字。引き戸を開けると、味噌汁の匂いが鼻に届いた。
「おはようございます、鈴木さん。今朝も早いですね」
「いつもの大根とほうれん草、それと白菜だ。今日は出来がいいから、煮物にすると甘いと思うぞ」
「わあ、助かります。ちょうど夜のメニュー何にしようか迷ってたところで」
森本彩佳、38歳のシングルマザー。亡くなった夫から受け継いだこの食堂を、女手一つで切り盛りしている。明るい笑顔の奥に、苦労の影がある。それでも彼女は誰の前でも微笑んでいた。
野菜を厨房の隅に置くと、奥から小さな足音が駆けてきた。
「せんせい、おはよう。今日も野菜持ってきてくれたの?」
「ああ、優馬、お前の好きなトマトもあるぞ。ちょっと小ぶりだけどな」
「やった。僕、生のまま丸かじりするのが好きなんだ」
森本優馬、10歳。細い体に大きな目。学校を休む日も多いが、いつも前を向いている子供だった。彼の胸には生まれつきの病気がある。心室中核欠損症。俺がかつて何度も手術をしてきた疾患だ。優馬がトマトをかじる音を聞きながら、俺は静かに目をそらした。
野菜の納品を終え、街外れの山小屋に戻る。丸太を組んで立てた小屋は、元は林業の作業員が使っていたものだった。村田先生に紹介されて、俺はここを譲り受けた。薪ストーブに火を入れ、湯を沸かす。窓の外では山の鳥が鳴いている。
5年前、ここに来たばかりの頃はこの静けさに耐えられなかった。都会の喧騒、手術室のモニター音、若手医師たちの声。それらが消えた瞬間、自分という人間がどこにもいないように感じた。
今は違う。この静けさを俺は受け入れている。受け入れるしかなかった、というべきかもしれない。
棚の奥に白衣が1枚しまってある。畳まれたまま5年間、一度も袖を通していない。机の上には、町の診療所からの封筒が置かれていた。村田先生からだ。「今度診療所の手伝いをしてみないか」と書かれている。何度断っても、先生は同じ手紙を寄越してくる。
午後、町の診療所に薪を届けに行った。村田清先生は、70歳になる町の開業医だ。白髪に丸メガネ、いつも穏やかに笑っている。
「鈴木君、ちょうど良かった。お茶でも飲んでいきなさい」
「いえ、すぐ戻ります。次の納品があるので」
「まあ、そう言わずに。手紙、読んでくれたかね」
俺は黙って薪を下ろした。
「先生、俺は……」
「君の過去は知っている。あの手術のことは、私も記事で読んだ。だが、君がこの町に来てから、誰一人として不幸になっていない。それだけは事実だ」
俺は何も答えられなかった。あの日のことを思い出す。手術室の無菌の空気、モニターの警告音、麻酔科医の叫び声。患者は死んだ。十歳の子供だった。俺のミスだった。執刀医としての判断ミス。家族は泣き崩れ、病院は静かに俺を切り捨てた。
医師免許は剥奪されなかったものの、もう二度と手術室に立つことはなかった。俺はすべてを捨てて、この町に逃げ込んだ。そこまで考えたところで、診療所のドアが開いた。
「あ、鈴木さん! 今日は何しに来たの?」
優馬が立っていた。学校が休みの日は、診療所の手伝いをしているらしい。
「飯を食いに来たんだ。たまにはな。何かおすすめはあるか?」
「カレーライス! 母さんのが一番おいしいよ!」
俺は笑った。久しぶりに笑った気がした。
食堂に戻り、カレーを食べていると、彩佳が隣に座った。
「鈴木さん、聞いてもいいですか。どうして医者をやめたんですか」
箸が止まった。優馬は奥のテーブルで宿題をしている。声をひそめて、彼女は続けた。
「噂で聞いたんです。手術で失敗したって。でも、あなたの手を見ていると、そんな人には見えない。あの手は、人を救うために動いてきた手です」
「……患者が死んだんだ。10歳の男の子だった。俺の判断ミスで」
「事故ですか」
「過失だ。俺は……」
その時、診療所の電話が鳴った。村田先生の声が、駆け込んできた看護師を通じて聞こえてきた。
「優馬君が倒れた! 意識がない!」
俺は立ち上がった。心臓が凍るような感覚。優馬が、また。
診療所に駆け込むと、優馬はベッドに横たわっていた。顔色は青白く、呼吸は浅い。心電図は細かく乱れている。村田先生が緊張した面持ちで言った。
「心室頻拍だ。このままでは心不全を起こす。救急搬送が必要だが、ヘリが来るまで40分かかる。それまで持つかどうか……」
俺の手が震えた。あの日の手術室がフラッシュバックする。モニターの音、麻酔科医の声、死んだ子供の顔。
「鈴木君」
村田先生が俺の肩を掴んだ。
「君ならできる。この診療所には除細動器もある。だが、処置をするなら今しかない。君の手を、信じるしかないんだ」
彩佳が診療所に飛び込んできた。彼女の顔は恐怖に歪んでいたが、声は必死に抑えていた。
「鈴木さん……お願いします。優馬を……、私の息子を助けてください」
俺の目に、5年前の映像が重なった。あの時も、母親がこうして俺にすがった。白衣を着た俺に向かって、「先生、お願いします」と。
俺はゆっくりと手を上げた。荒れた、土に触れてきた手。メスを握っていた頃の手ではない。
「……道具を用意してくれ。俺がやる」
その夜、診療所の灯りは明け方まで消えなかった。村田先生が麻酔を担当し、俺は優馬の小さな胸にメスを入れた。5年ぶりに握ったメスの感触は、記憶の中のそれと少し違っていた。しかし、手は動いた。体が覚えている。俺はもう一人の医者ではなかった。
手術は成功した。ヘリが到着した時には、優馬の心臓は穏やかなリズムを取り戻していた。県立病院に搬送される際、彩佳が俺の手を握った。
「ありがとうございます。鈴木さんは……やっぱり医者なんですね」
俺は首を振った。「医者だった、だ。過去形だよ」
しかし、彼女は力強く言った。「いいえ、あなたは今も医者です。それが変わらない」
優馬が搬送されていくのを見送った後、俺は診療所の前で立ち尽くした。白衣が棚の奥で眠ったままだったことを思い出した。あれは、もう着ることはないと思っていた。
翌朝、診療所の机の上に置いてあった封筒を手に取った。村田先生からの手紙。今度は、断る理由が思いつかなかった。俺は封筒を開け、一枚の紙を取り出した。窓の外では、山の鳥たちが鳴き交わしていた。



