「息子が毎月のようにお金を無心し始めたのは、私が2000万円の遺産をあると話した翌日からでした。縁を切るために私が選んだ最後の手段は、投資の失敗を装うことと、財産を全部、福祉団体に寄付すると書いた遺言書でした。家族だからといって、何をしてもいいわけがない。75歳でやっと、私は自分自身のために生きようと決めたんです。誰のためでもなく、自分の人生を取り戻すために選んだ、ある晩の静かな決断。それを…

「息子が毎月のようにお金を無心し始めたのは、私が2000万円の遺産をあると話した翌日からでした。縁を切るために私が選んだ最後の手段は、投資の失敗を装うことと、財産を全部、福祉団体に寄付すると書いた遺言書でした。家族だからといって、何をしてもいいわけがない。75歳でやっと、私は自分自身のために生きようと決めたんです。誰のためでもなく、自分の人生を取り戻すために選んだ、ある晩の静かな決断。それを...

20年分の夫婦の遺産がぴったり2000万円。吉江はそれを、老後のための大切な命綱だと思っていた。

看護師だった吉江と、会社員だった夫は、決して裕福ではなかった。しかし一人息子の学費だけは、決して惜しむことはなかった。その積み重ねが、いまの2000万円と、月14万円の年金になった。健康でいられるうちは、これだけで十分暮らしていける。吉江はそう信じていた。

ある日、久しぶりに息子夫婦から電話がかかってきた。息子の克真と、嫁の真由美が、家に来るという。吉江は心を込めて手料理を振る舞った。

「ねえ、お母さん。あの2000万円って、ちゃんとあるんでしょう?」

真由美の声には、吉江が今まで聞いたことのないような明るさがあった。何か良いことでもあったのか。そう思いながら、吉江は何気なく「あるよ」と答えてしまった。その日を境に、息子夫婦の態度が、ほんの少しずつ変わっていった。

これまで何年も放っておいたのに、突然、月に二度も訪ねてくるようになった。そして、言うのだ。

「お母さん、たまには外で食べようよ」

孫の大輝の教育費だと言われて、最初は1回8万円を渡した。吉江自身、息子の教育には惜しみなくお金を使った。孫のために使うのは、自然なことかもしれない。しかし、それが毎月のことになると、さすがに胸の内で疑問が湧いてきた。

「今度はね、大輝が塾の夏期講習に行くことになってね」
「私の母が膝の手術で、個室代が50万円ほど必要で」

いつの間にか、援助の総額は150万円を超えていた。そして、吉江の年金から月8万円を差し引いた生活費は、6万円になっていた。それでも、家族のためなら、と吉江は自分を納得させていた。

だがある日、真由美が言った。

「もういま使わないと、意味がないですよ。生きているうちに、孫のために使ってくれた方がずっと嬉しいですから」

吉江は何も言えなかった。この言葉で、すべてを悟ったのだ。彼らに必要なのは、自分ではなく、お金なのだ。

その夜、吉江は長い間、夫の遺影を見つめた。そして、これまでの息子夫婦の行動を、冷静に振り返ったのだ。

「あれは、みんな計算だったんだな……次の手は、どうするんだろう」

彼女はまだ元気だった。だが、もし年を取って健康を害したとき、蓄えが尽きていたら、果たして彼らは自分を大切にしてくれるだろうか?いや、彼らは、お金があるからこそ、いま優しくしているにすぎない。

吉江は、ある弁護士の事務所を訪ねた。それが、彼女の最後の希望であり、最後の賭けだった。そして、一人の高齢者専門の弁護士、村岡に、こう告げた。

「息子が、本当に私のことを思っているなら、私にお金がなくても、同じように接するはずです」

吉江は、75年の人生で初めて、自分自身のために立ち上がる決意をしたのだ。

数日後、息子の克真と真由美が、またやってきた。しかし今回、その表情はこれまでとは違っていた。

「お母さん、友達に勧められて投資をしたんだけど、失敗してしまって……残ったのは300万円しかないんです」

彼らは、期待のこもった目で吉江を見つめた。だが、吉江の口から出た言葉は、彼らの期待を完全に裏切るものだった。

「ああ、そう。実は私も、あなたたちにあげた後、少し投資をしてみたの。でも、失敗してしまって……残りは300万円だけなのよ」

二人の顔から、期待の表情が消え、同じように震えはじめた。

「相談してくれればよかったのに」
「もういいわ。帰りなさい」

その日から、息子夫婦の態度は、一変した。それまで月に二度も来ていたのが、パッタリと来なくなった。そして、何度も電話をかけても、出ようとしなかった。吉江は、静かに弁護士へ電話をかけた。

「正式に、息子に一切の相続をさせないという、遺言書の準備をお願いします」

数ヶ月後、久しぶりに克真から電話がかかってきた。声は、明らかに疲れていた。会社を辞めたのかもしれないと思った。

「もしかして、お母さんは、俺のことを見放したのか?」
「詳しいことは言えないけど、私は大丈夫よ」

吉江は、最後に遺言書の存在を伝えた。それは、彼女の人生で、誰のためでもない、自分自身のための最初の選択だった。

半年後、春のある日、吉江は克真夫婦を家に招いた。二人は、以前よりずっとやつれた様子だった。話がある、と切り出したのは、吉江のほうだった。

「まず、これを読んでください」

それは、弁護士が作成した遺言書の写しだった。ほとんどの財産は、地域の福祉団体に寄付されること。息子に相続されるのは、わずかな分だけであること。

「お母さん、これはどういうことだよ!」
「黙って聞きなさい。私が財産を残さないと決めたことは、本当の家族の絆とは、お金では買えないものだということを、あなたたちに思い知らせたかったからです」

そして、吉江は静かに言った。

「もう、私の前から消えてください。二度と会いたくありません」

真由美が何か言おうとしたが、吉江の鋭い眼差しに、言葉を飲み込んだ。二人は、重い足取りで家を出ていった。玄関のドアが閉まる音とともに、吉江の長い戦いは終わった。

子供を育てるように、年を取った親を思うのと同じように、すべてを慈しみ、積み上げてきたものを、息子の欲深さが壊してしまった。しかし、吉江にはもう何も惜しくなかった。家族だからといって、何をしてもよいわけではない。75年生きて、ようやく本当の幸せがわかった。それは、互いに敬意を払う関係の中にあるのだと。

誰のためでもない、自分自身のための人生。それは、穏やかで、静かで、しかし確かな幸福だった。

Thumbnail