「この子、児童養護施設出身なの?」
その言葉が個室の空気を一瞬で凍らせた。私は膝の上で握った拳をぎゅっと強く握りしめ、何も言えずにいた。
結婚のお見合いの席。向かいには愛想笑いを浮かべる婚約者・深夜の母、吉永光子さんがいた。黒の高級スーツに身を包み、指には大きなダイヤの指輪。戦木地方銀行の代表取締役の妻という立場をひけらかすように、彼女は私の経歴書をテーブルに投げつけた。
「施設育ちの底辺のくせに、よくこんな席に座れるわね。身のほど知れって言うのよ。施設育ちの低学歴に、うちの息子の嫁は勤まらないわ。銀行の資産を汚さないでよ。個人に嫁の資格なんてないわよ。どうせそれが底辺の身の丈に合ってるんでしょう?」
私は28歳。東北の小さな港町で生まれ、9歳の冬に両親を亡くした。漁師だった父と保育士だった母。2人が乗った車が凍結した峠道で崖から転落した。それ以来、私は県立の児童養護施設「青葉学園」で育った。
施設の夜は長かった。他の子供たちが寝静まった後、私はいつも一人で起きていた。眠れない夜。そしてある日、施設の書庫で古い文庫本を見つけた。タイトルは『初めての投資』。ボロボロの表紙には、誰かが何度も読んだ跡があった。
10歳の私には難しい言葉ばかりだった。それでも2回、3回、10回、気づけば30回も読み返した。「お金が自分の代わりに働く」という一文が、私の心に小さな灯をともした。あの夜から、私は眠れない夜には必ず図書室で経済の本を読んだ。数字は嘘をつかない。そう思っていた。
そして今、私はIT関連の会社員ではなく、ある企業の代表としてこの席に座っていた。深夜との結婚を望んだのは、私の方ではなかった。だが、光子さんの言葉はあまりにも残酷だった。
「なんで黙ってるの? 頭が空っぽだから何も言えないのかしら?」
私はゆっくりと顔を上げた。光子さんの顔には、勝ち誇ったような笑みが浮かんでいる。深夜が隣で何か言おうとしたが、光子さんが手で制した。
「もういいわ。今日のところはこの辺でお引き取りください。息子にはもっと相応しいお相手がいますから」
「……分かりました」
私は静かに立ち上がり、会釈をした。途中で一度も振り返らなかった。だが、その胸の中では、あの日からずっと育ててきた決意が、ひときわ大きく燃え上がっていた。
翌朝、戦木地方銀行が即日休業となった。原因は、総額で数十億円に上る融資の焦げ付き。その融資先のいくつかは、私が設立した東映インベストメントの関連企業だった。私は施設の小さな図書室で読んだ本の知識を、その後、独学で徹底的に磨いてきた。高校卒業後は働きながら通信制の大学で経済学を学び、株式投資で資金を積み上げ、そして会社を興した。
光子さんはどこかで私の正体を知っていたのかもしれない。それとも単に、私を「身のほど知らずの施設育ち」と侮っただけか。どちらにせよ、彼女は目の前の若い女性が、自分の夫の銀行を潰し得る相手だとは夢にも思っていなかった。
個室を出る前、私は光子さんに一言だけ残した。
「お世話になりました。……また、どこかで」
その微笑みを見て、光子さんが何かを感じ取ったのかどうかは分からない。だが、それから数時間後、銀行の取締役会は電話で問い合わせの嵐に追われることになる。私が送ったのは、ただの結婚のお見合いの礼状ではなかった。
父さん、母さん、見ていてください。私はあの日読んだ本の通りに、確実に自分の人生を動かしています。
今夜のうちに、私はすべてを清算する。あの日の侮辱を、そしてあの日からずっと背負ってきた“施設育ち”という烙印を。だが、それは始まりに過ぎなかった。私が本当に手に入れようとしているものに、誰もまだ気づいていない。あの文庫本の最後のページには、こう書かれていた。「真の投資とは、最も価値ある未来を買うことである」。



