「お母さん、今日からよろしくお願いしますね」
そう言った瞬間、彼女は明らかに嫌そうな顔をした。私はみ崎、31歳。自由気ままに生きてきた人間だ。高校卒業後はフリーター生活、趣味は一人旅で、電車に乗って知らない場所へブラリと出かけるのが好きだった。そんな私を両親は心配していたけど、携帯さえ繋がっていれば何も言わなくなった。
派遣先で出会った勇気と結婚してから、さすがに一人旅はしなくなった。夫の勇気はいつも「お前は奔放すぎるから心配だ」と言っていたけど、一緒に暮らし始めてからは私も落ち着いた生活を送っていた。
ある日、勇気がため息混じりに言った。
「兄貴がさ、もう母さんとは住めないって言うんだ」
お義母さんは亡くなったお父さんから相続した家でお兄さん家族と一緒に住んでいた。でもお義母さんはかなりわがままで、お義姉さんは我慢の限界だったらしい。昨年生まれた娘を抱えながらお義母さんの世話をしていたら、お義姉さんの様子がおかしくなったそうだ。
お兄さん家族はマンションを探して引っ越し準備中。お義母さんは納得していないけど、お兄さんに一括されてしぶしぶ首を縦に振ったらしい。お義姉さんは娘さんと実家へ戻っている。
「母さんは昔からそうなんだよ」
勇気はそう言ってまたため息をついた。
それから数ヶ月後、お義母さんから連絡が入った。外出先で転んで足を捻挫したという。手も負傷したらしい。勇気が病院に行って話を聞いてきた。
「しばらく不便な生活になるだろうし、一人暮らしだからちょくちょく様子を見に行きたいんだ」
勇気がそう言うのを聞いて、私はあっけらかんと言った。
「だったら、今だけ一緒に住めば?」
勇気は目を見開いた。
「え、同居ってこと?」
私は頷いた。
「あの母さんだぞ。み崎だって仕事もしてるし」
「自分の母親なのにそこまで言うか?」
私は笑ってしまった。でも私には自信があった。一人旅で初めて会う人ともたくさん話してきたし、派遣の仕事も色々なところに行って、派遣というだけで不遇な扱いを受けたこともあった。それでも楽観的な性格のせいか、あまりストレスを感じたことはなかった。
「お母さんの怪我が治るまでだったら、別にいいんじゃない?」
そう言うと、勇気は私にお礼を言った。
二日後、私たちの住むマンションにお義母さんを呼んだ。お義母さんの怪我が治るまでという短期間だし、いずれ家族が増えた時にも対応できるようにと一部屋余っている状態だったから、お義母さんにはそこで生活してもらうことになった。
ひとまず家事全般は私と勇気が担当。介護らしいことはあまり必要ないみたいで、思ったよりも楽だった。
「お母さん、今日からよろしくお願いしますね」
そう言うと、お義母さんは嫌そうな顔で言った。
「相変わらずみささんは声が大きいわね」
煙たがられているのは分かった。お義姉さんは大人しくて優しそうな人だったらしい。私は正反対でタイプも違いすぎる。お義母さんも戸惑っているのかもしれない。でも私はあくまでお義母さんの生活をサポートするだけで、一緒に仲良く生活しようとは思っていなかった。
それは勇気も承知の上だ。むしろ「そのくらい割り切ってくれた方が助かる」と言われた。まあ、お義母さんも私と仲良くしようなんて思っていないだろう。
案の定、お義母さんは私には一切歩み寄らなかった。ある日の夕食のことだ。
「なんなのこの味付け? 塩辛すぎるでしょう」
お義母さんが箸を置いて、私が作った料理に文句を言った。
「すみません、薄味にしたつもりだったんですけど」
「あなた、昔から料理下手だったものね」
確かに私は料理が得意じゃない。でも勇気は何も言わずに食べてくれていた。それがお義母さんにとっては気に入らないらしい。
その日からだった。お義母さんの私に対する態度がどんどんエスカレートしていったのは。
「みささん、洗濯物の畳み方が雑じゃない?」
「掃除機かける場所が偏ってるわよ」
「夕飯の時間が遅いんじゃない?」
我慢しなければ。お義母さんの怪我が治るまでの間だけだ。そう自分に言い聞かせていた。
でも、ある日お義母さんが言った言葉に、私はカチンときた。
「みささんはね、やっぱり育ちがなってないのよ。お坊ちゃま育ちの義姉さんとは違うわね」
確かにお義姉さんは教育の行き届いた家庭で育ったらしい。でも私は私だ。高校を卒業してからずっと働いてきた。自分の稼ぎで旅をして、自分の力で生きてきた。
「お母さん、それってどういう意味ですか?」
「そのまんまの意味よ」
お義母さんはニヤリと笑った。
「勇気がかわいそうだわ。こんな人がお嫁さんだなんて」
その時、勇気が帰ってきた。お義母さんは途端に優しい顔に変わる。
「あら、勇気おかえりなさい。今日は疲れてない?」
「うん、まあ」
勇気は気まずそうな顔をした。リビングの空気が重いのを感じたのかもしれない。
「どうしたの?」
「いや、何でもない」
お義母さんが笑顔で言った。
「お母さんがね、みささんの手料理をまた食べたいなって言ってたところよ」
嘘をついた。さっきまで私の料理を貶していたのはこの人なのに。
私は何も言えなかった。言ったところで、勇気はお義母さんの味方をするだろうから。だってお義母さんは勇気の母親で、私はただの嫁だ。
そんな日々が続いた。お義母さんの怪我は思ったより治るのが遅くて、同居は一ヶ月を超えた。お義母さんは何かあるたびに私のことを貶した。私が何をしても、お義母さんにとっては不十分なのだ。
「みささん、この服シワになってるわよ。アイロンかけた?」
「朝ごはんはパンだけ? 栄養バランス考えてる?」
「最近の若い子は本当にだめね」
勇気はいつも黙っていた。私をかばうこともなければ、お義母さんに注意することもない。ただ黙って耐えていた。
ある夜、布団に入ってから勇気に聞いた。
「ねえ、私の料理、まずい?」
「なんでそんなこと聞くんだよ」
「お母さんがいつもそう言うから」
勇気は少し黙ってから言った。
「母さんは昔からそうなんだ。自分に厳しくて、人にも厳しい。でも悪気があるわけじゃないんだよ」
「悪気がないのに、こんなに傷つくこと言うの?」
勇気は答えなかった。
私は布団を被って目を閉じた。涙が出そうだったけど、泣かなかった。泣いたら負けな気がした。
お義母さんが私の家に来て三ヶ月が過ぎた頃、お義母さんの怪我はほぼ完治した。そろそろ帰ってもらえる。そう思った矢先のことだった。
「みささん、話があるんだけど」
ある日、お義母さんが真面目な顔で言った。
「何ですか?」
「私ね、このままここに住もうと思うの」
一瞬、何を言われたのか分からなかった。
「え? どういうことですか? 怪我はもう治ったでしょう?」
「それはそうだけど、一人暮らしは寂しいでしょう。勇気も私がここにいた方が安心するでしょうし」
そう言ってお義母さんは勇気を見た。勇気は何も言わない。
「勇気? お母さんはここに住みたいって言ってるんだけど」
勇気は難しい顔をして、ようやく口を開いた。
「俺は…別に構わないと思うけど」
その言葉を聞いた瞬間、私の我慢の限界がきた。
「ちょっと待って、どういうこと? 私はお母さんの怪我が治るまでの間だけって約束でこの同居を引き受けたんだけど」
「みささん、そんなに嫌なの? お母さんと住むのが」
お義母さんが悲しそうな顔を作る。演技だと分かっているのに、勇気はそれに引っかかる。
「母さんを追い出すようなこと言わないでくれ」
「追い出す? 最初から期間限定って言ったでしょ?」
「でも母さんが一人暮らしは寂しいって言ってるんだ。俺には母さんが心配なんだよ」
私はその場を立ち去った。自分の部屋に入って、ドアを閉めた。頭の中がぐちゃぐちゃだった。
このままじゃダメだ。私は自分がどうしたいのか、はっきりさせなければならない。
翌朝、私は早めに起きて、コーヒーを入れた。お義母さんも勇気もまだ寝ている。私は静かにスマホを取り出して、お義姉さんの連絡先を探した。確か、お兄さんの結婚式で連絡先を交換したはずだ。
メッセージを送る。
「少しお話ししたいことがあります。今、お時間よろしいですか?」
返事はすぐに来た。
「いいですよ。何かありましたか?」
「お義母さんのことなんですけど、実は今、うちで同居していて…」
そこまで打って、私は指を止めた。このメッセージを送ったら、もう引き返せない。でも、このままだと私はお義母さんに完全に支配される。それは絶対に嫌だ。
深呼吸をして、私は続きを打った。
「ちょっと、助けてほしいことがあるんです」
お義姉さんからの返信を待つ間、私は窓の外を眺めた。この状況をどう打開すればいいんだろう。お義母さんを追い出すのは簡単じゃない。勇気はお義母さんの味方だ。でも、私にはお義姉さんがいる。お義姉さんもお義母さんに苦しめられた一人だ。きっと力になってくれるはず。
スマホが震えた。お義姉さんからの返信だ。
「私でよければ、何でも言ってください。お義母さんのことはよく分かっていますから」
その言葉に、私は少しだけ救われた気がした。
でも、まだ何も解決していない。大事なのはこれからだ。私はどう動くべきなのか。答えは出ていないけど、少なくとも一人じゃない。そう思えただけでも、少しだけ勇気が出た気がした。



