この3年、私は自分の給料を全部、義母に預けていた。それなのに、ある日そんな生活が突然終わった。「あなた、嫁のくせに何偉そうなこと言ってるの?」— その言葉が聞こえた夜、私は家を出た。そして、もう戻らないと決めた。私が彼らに告げた一言が、夫の家族を壊し始めた。何を言ったのか、そして私の選択の行く末は…? CTA: この話の続きが気になる方は「続きが気になる」とコメントしてください。

この3年、私は自分の給料を全部、義母に預けていた。それなのに、ある日そんな生活が突然終わった。「あなた、嫁のくせに何偉そうなこと言ってるの?」— その言葉が聞こえた夜、私は家を出た。そして、もう戻らないと決めた。私が彼らに告げた一言が、夫の家族を壊し始めた。何を言ったのか、そして私の選択の行く末は…? CTA: この話の続きが気になる方は「続きが気になる」とコメントしてください。

「母さんに預けた方が安心だろう。」夫のタヤが封筒を母の前に押し出した。中身は30万円、その日の午前に振り込まれた私の給料だ。義母のかず子が封筒を受け取り、財布から1万円札を1枚だけ抜き出した。「みささんのお小遣いは今月も1万円ね。」その札が食卓を滑ってきた。私は働いて稼いだ30万円ですよ。「結婚したら家族のお金でしょ。」かず子は当然の顔をしていた。この3年間ずっと同じ顔だった。

私が嫌だと言えば、タヤは一度黙ってから言った。「じゃあ自分で勝手にすれば。でもこの家にいるなら母さんのやり方に従ってくれよ。」私は1万円札を見て、それから2人の顔を見た。「はい。」そう答えて椅子を引いた。バッグを取り、靴を履く。「どこ行くんだ?」「ちょっと用事。」

3月の風が冷たかった。時刻はまだ午前11時過ぎ。この時間なら間に合う。3年の間、私は自分の給料の使い道を誰かに許してもらってから決めていた。その日、私はそれをやめた。

私は不破崎みさ、39歳。結婚する前は王野美だった。給食会社の管理栄養士をしている。会社が請け負っている事業所に入り、そこから近くの施設へ朝と昼の食事を届ける仕事だ。私の受け持ちは1回に160食。朝の5時半に厨房へ入り、届いた食材を検品して火を入れ、盛り付けの列を回す。現場をまとめる主任という肩書きがついたのは4年前だった。

人手はいつも足りない。パートさんの多くは私より年上で、子供が独立した人や親の世話をしている人がいる。誰かが急に休めば、その回の160食は残った人数で作ることになる。誰にどの持ち場へ入ってもらうか、それを私が朝の5分で決める。献立を組むのも私の仕事だ。材料費は1食320円と決まっている。その中で栄養と味と彩りを全部揃えなければならない。2ヶ月先の分は前の年の相場と在庫を見て組む。それでも当日に魚が入らない日はある。その時は栄養価が大きく変わらない別の魚へ差し替えて味付けも調整する。足りない分をどこから持ってきて、余った分をどこへ回すか。限られた金額を配ることが私の仕事だった。

届いた食材も作った食事も50gずつ取り分けてマイナス20度で2週間残す。何かあった時にその日の一食を後から取り出せるようにするためだ。記録を残す仕事に長くいると、紙を捨てられない人間になる。手取りは月に30万円。主任手当てと勤続17年分の積み上がりでこの額だ。この会社では上の方になる。賞与は夏と冬に分けて手取りで年に88万円ほど入る。大手の住宅会社で賞与だけは業界の中ではいい方だ。現場の人間にはそれが唯一の楽しみのような会社だった。

夫のタヤとは12年前の5月に結婚した。住宅設備の施工会社で営業をしている人で、共通の友人を通じて知り合った。私より2つ上だ。実家には母が1人でいる。王野の母、68歳。父は8年前に亡くなった。電車を乗り継いで40分の距離だ。子供はいない。2人で話して決めたことだった。

結婚した時、私たちは共働きで生活費は2人で出していた。タヤは毎月25日に自分の口座から私の口座へ14万円を移す。それで家賃も光熱費も保険も落ちる。食費と日用品は私が持つ。最初の1年はそれで回っていた。タヤの母、かず子が私たちの家に来るようになったのは結婚して2年目の春からだった。最初は週に1度、夕食の支度を手伝いに来ると言った。それが週に2度になり、3度になり、気がつけばかず子は毎日のように私たちの家にいた。鍵も渡した。タヤが「母さんに預けた方が安心だろう」と言ったからだ。

かず子は私たちの家計を全部把握したがった。私の給料明細を開けるのも当たり前のような顔でやった。「みささんの給料って、この額で足りてるの?」と聞かれた時、私は何も言い返せなかった。かず子は私の給料から「お小遣い」として1万円だけを渡すようになった。残りは全部かず子が管理する。食費も日用品もかず子が買う。でも実際に買われるのは、かず子が決めたものだけだった。

私はかず子に「先に何を買うか教えてもらえませんか」と聞いた。かず子は笑った。「私が決めた方が安く済むから。」豚コマが3パック重なった。冷凍しても味は落ちる。私は生姜焼きと肉じゃがと汁の具に振り分けて3日で使い切った。同じ肉が3日続いた食卓でタヤが箸を止めていった。「また豚か。」買ってきたのはあなたの母親だ。その言葉は口の中で止めた。「お母さん、買ってくださるのはありがたいんですが、先に何を買うか教えてもらえませんか?」かず子は首を傾げた。「何で?私が考えた方が安いでしょ。」

給料の話をタヤにした夜があった。「給料は全部母さんが預かってるんだ。俺たちの家のためなんだから、それでいいだろ。」タヤはテレビを見たまま言った。私はその日から、自分の給料が自分のものだと思わないことにした。それがこの家で生きる方法だった。

それでも仕事は続けていた。朝の5時半に起きて厨房に立つ。160食を作る。献立を考えて、材料をやり繰りして、記録を残す。給料はかず子に渡すけれど、仕事そのものは誰にも取られない。そう思っていた。

あの日もいつもと同じ朝だった。5時半に起きて、6時には厨房にいた。パートの田中さんが「主任、今日の魚はアジですよ」と教えてくれた。私は献立表を見直して、アジの塩焼きとほうれん草の胡麻和え、味噌汁、ご飯。材料費を計算して、足りない分は冷蔵庫の余りで補う。昼の配膳が終わったのは12時近くだった。給料日だった。

昼過ぎに銀行へ寄って、30万円を下ろした。いつもはかず子に手渡しで渡す。でもその日は違った。私は封筒にお金を入れず、財布ごと持ち帰った。帰宅した時、かず子はもうソファに座ってテレビを見ていた。「あら、おかえり。今日は早いのね。」私は「はい」とだけ答えて、自分の部屋へ行った。給料のことを言わないまま、夜になった。タヤが帰ってきて、食卓でかず子が言った。「みささん、今日は給料日でしょ。封筒は?」私は箸を置いた。「今日は、自分で管理しようと思います。」

沈黙が落ちた。タヤとかず子が同時に私を見た。「は?」タヤが言った。「どういうこと?」「私が稼いだお金です。これからは自分でやりくりします。」かず子が笑った。軽く、あっさりと。「何言ってるの、みささん。あなた、うちの嫁でしょ。嫁が稼いだお金は全部この家のものよ。そんなこと、常識でしょ。」私は自分の膝を見ていた。3年間、毎日のように言われてきた言葉だ。その言葉に私はずっと頷いてきた。「でも、私が働いているんです。私が朝の5時半に起きて、160食を作っているんです。」声が震えた。かず子の顔が一瞬で固まった。

「あら、偉そうに。あなたの仕事なんて、誰にでもできるでしょ。私だって若い頃は働いてたわよ。でも結婚したら全部旦那の家のために使うのが当たり前だったわ。今の若い人は自分勝手ね。」タヤが口を挟んだ。「みさ、母さんの言う通りだろ。俺たち夫婦なんだから。」私は立ち上がった。「あなた、何を言ってるの?」タヤは目をそらした。「母さんに任せておけば間違いないんだよ。今までだって上手くやってきたじゃないか。」上手くやってきた。本当にそうだろうか。

私はそのまま台所へ行き、冷蔵庫を開けた。かず子が買い置きした食材が詰まっている。私が買ったものは何もない。私は冷蔵庫を閉めて、自分のバッグを取った。「どこ行くの?」タヤの声が後ろから聞こえた。「ちょっと用事。」ドアを閉めた。3月の風が冷たかった。私は銀行へ急いだ。もうすぐ午後3時。間に合う。私は自分の口座で、給料の振り込みを止める手続きをした。それから、実家の母に電話した。「お母さん、しばらく帰っていい?」母は一瞬驚いたように黙って、それから「いいわよ」と言った。

私はその夜、家に帰らなかった。翌朝、会社にはいつも通り出た。仕事を終えてから、タヤにLINEを送った。「しばらく実家にいます。給料はこれから自分で管理します。話し合いたいなら、いつでもいい。」返事はなかった。3日後、かず子から電話があった。「みささん、何考えてるの?早く戻ってきなさいよ。タヤがかわいそうでしょ。」私は言った。「かわいそうなのは、私の方です。」電話は一方的に切られた。

1週間後、タヤが実家に来た。「帰ってきてくれ。」「給料は?」「母さんに任せたままでいいなら。」私は首を振った。「それなら、私は戻らない。」タヤは怒った顔をした。「お前、俺の母さんを馬鹿にしてるのか?」「馬鹿になんかしてない。ただ、自分のお金を自分で管理したいだけ。」タヤは何も言わずに帰った。私はその背中を見ながら、これで終わったんだと思った。3年間、私は自分の給料も、自分の生活も、自分の言葉も、全部誰かに預けてきた。もう預けない。

2ヶ月後の夜、タヤから書類が届いた。離婚届だった。同封された手紙には「お前の考え方は理解できない。母さんが悲しんでいる」と書いてあった。私はその紙を見て、静かに引き出しにしまった。まだ出さない。私はあの朝、厨房で自分の仕事をしたように、自分の人生を自分で作っていく。それが私の答えだ。

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