ママ、今すぐ逃げよう。パパがそう言ってたの。早く逃げよう。手遅れになっちゃうよ。
まだ5歳のノアが必死に私に逃げようと訴えてくる。私はノアがダダをこねているのだと思い、「分かったわ。家に帰りましょう。ごめんなさい。」と言って、夫の裕介の顔を見ずに病院を出ることにした。
「ねえ、ノア、一体どうしたの?パパに何か言われたの?」
するとノアは辺りをキョロキョロ見回すと、強く握りしめていた手を開く。ノアの小さな手のひらの中には、くしゃくしゃになった1枚のメモ用紙があった。
「パパがこれを、誰もいないところでママに見せてって。これ見て。」
そのメモ書きの内容を見た瞬間、私は絶句する。そこには裕介の筆跡で、とんでもない事実が記されていたのだ。
私の名前はとこ。30代の専業主婦だ。私はただの一般人だが、父はある企業の取り締まり役で、夫の裕介は父の下で働いている。仕事ができ、部下からの人望も厚い裕介を、私は専業主婦として支えてきた。
裕介とは父に進められる形でお見合いの後に結婚した。正直言って、欠点のない夫だ。平凡な私にはもったいないくらいの夫だと家族からからかわれることもある。
私たちの結婚から数年経つと、父は現役を退き、裕介を次期社長に任命した。元々持病があった父は、以前から体力の限界を自覚していたらしい。責任がある立場だからと気力で抑えていたのだろう。
裕介の社長就任を見届けた後、父の病状は突然悪化した。治療をしても回復することはないだろうと医師に告げられ、私は絶望する。だが父は自分の命がもう長くはないことを悟っているのか、数年前に亡くなった母のところに行けると穏やかに微笑んだ。
そしてその時は突然やってきた。
「裕介君、とこをくれぐれも頼んだぞ。」
裕介の手を握りながら父はそう言って息を引き取った。
父から社長を引き継いだ裕介は、今まで以上に仕事漬けの生活になった。そんな中で幸いにも1人であるノアを授かることができ、大変だが幸福な日々を私たち家族は過ごしている。
だがある日、とんでもない事件が起きてしまう。
父の三回忌を終えた頃、3歳になったノアと手をつないで横断歩道を歩いていると、信号無視の車が走ってきて危うく引かれそうになった。
「きゃー!」
とっさにノアを抱えるように覆いかぶさり、ぎゅっと目を閉じた。どうやら一発で車と衝突する事態は免れたようだ。だが、あともう数センチ横にずれていれば、私たちは車と接触していただろう。
震える手でノアを抱きしめながら、信じられない危険運転をする車をきっと睨みつけた。窓にスモークを張っているため、その車中は全く見えない。運転席の人影を見ても、それが男性なのか女性なのかも分からなかった。
そしてなんと、その不審な車はもう一度Uターンをしてきて、再び私たちのところに向かってこようとしていた。
さっき突っ込んできたのは事故などではなく、明らかに私たちに危害を加えようとしている。
「にげなきゃ。」
私は恐怖でガクガクと震える体を奮い立たせ、ノアを抱き上げると急いで最寄りの建物に駆け込んだ。
「はあはあ…」
様々な検査の結果、意識が戻ってみないことには分からないらしい。だが最悪の場合は、後遺症が残るだろうと言われた。
「あなた、どうしてこんなことに?」
警察に拘束された弓は、自暴自棄になって抵抗している。一方の岡田は何がなんだか分からない様子で呆然としていた。
「じゃあ、その手に持っているナイフは何だ?」
私はその場で、全てを思い出した。あの日、横断歩道で私たちを狙ってきた車。その運転席にいたのは、夫の裕介だったのだ。そして今、私の目の前でナイフを握りしめているのは、裕介の愛人だと言う弓という女。
すべては繋がっていた。父の死、裕介の社長就任、そして私たち親子を狙ったあの事件。
「ノア、目を閉じて。絶対に開けちゃダメよ。」
私はノアを背中に隠しながら、目の前の女を睨みつけた。
「あなた、何が目的なの?なぜ私たちを殺そうとしたの?」
弓は狂ったように笑いながら言った。
「裕介さんは私のものよ。あんたなんか、もう必要ないんだから。裕介さんがあんたと離婚したら、私は裕介さんの会社を乗っ取るの。あの老害の社長も、あんたの父親も、みんな逝ってしまえばいいんだ!」
その言葉を聞いた瞬間、私は理解した。父の病死は、もしかしたら自然ではなかったのかもしれない。そして、あの横断歩道での事件も、すべてこの女の計画だったのだ。
「警察を呼んだわ。もう終わりよ。」
だが弓は動じなかった。
「警察?ふん、あんたが警察を呼ぶ前に、まずはそのガキを殺してやる!」
弓がノアに向かってナイフを振り下ろそうとした、その時だった。
「やめろ!」
声のした方を見ると、そこには血まみれの裕介が立っていた。彼は床に倒れていたはずなのに、必死に私たちを守ろうとしている。
「とこ、ノアを連れて逃げろ!この女は、最初から俺を騙してやがったんだ!」
裕介の叫びが響く中、私はノアを抱きしめて出口へと走り出した。
その日を境に、私たちの人生は大きく変わった。裕介はすべてを話した。父の死の真相、弓との関係、そしてあの横断歩道の事件も、すべて裕介が弓に脅されてやったことだった。
「本当にごめん。俺はお前とノアを守りたかったんだ。でも間違えてた。」
結局、弓は逮捕され、彼女が父を殺していたことが判明した。父が倒れたとき、彼女が薬を盛っていたのだ。裕介も、弓の共犯として罪に問われることになった。
「ノア、パパはどこに行っちゃうの?」
「しばらく会えないけど、パパは必ず帰ってくる。約束する。」
私はノアを抱きしめながら、新しい生活を始める決意を固めた。過去の傷は簡単には癒えないけれど、私たちは前に進まなければならない。
あれから数年。私はノアと二人で、小さなパン屋を始めた。裕介からの連絡は、まだない。でも、ノアの笑顔を見ていると、私たちはきっと大丈夫だと思える。
「ママ、今日はどんなパンを作るの?」
「ノアの好きなメロンパンよ。」
そう言って私はオーブンを開ける。すると、店のドアが開く音がした。
「いらっしゃいませ。」
振り返ると、そこには見覚えのある人影が立っていた。
「……裕介?」
そこには、他の女性と手をつないだ裕介の姿があった。彼は私を見て、申し訳なさそうに頭を下げた。
「とこ、久しぶりだな。…その、俺、再婚したんだ。」
その言葉を聞いた瞬間、私は笑顔を保つのが精一杯だった。ノアを守るために、私はもうあの頃の私ではない。
「そう。おめでとう。」
「あ、ああ。ありがとう。」
裕介は何かを言いたそうにしていたが、結局何も言わずに店を出て行った。私は深く息を吐くと、ノアのいる方へ振り返った。ノアは何も気づいていないようで、メロンパンの生地をこねている。
「ママ、見て!パンダさんみたいになった!」
「本当だね。すごく上手だよ。」
私はノアの頭を撫でながら、胸の痛みを必死に抑えた。この日の出来事をノアに知られる日が来るまで、私はこの秘密を抱えて生きていくのだろう。
あの日、父が最後に言った言葉を思い出す。
「裕介君、とこをくれぐれも頼んだぞ。」
その願いは、もう二度と叶うことはない。私はひとりで、ノアを守って生きていくしかない。それが、私に残された使命だから。



