「母さん、こんな山の綺麗な空気はあの介護施設なんかよりずっと体にいいですよ。だから、みもなく山から降りてくるなんて絶対に考えないでくださいね。」
その氷のような言葉を最後に、息子の勇気は妻のみさと共に車へ乗り込み、母親のせ子を山奥の廃墟に置き去りにして走り去った。日が沈みかけた山中、古びた花柄のベストを羽織った70歳のせ子は、ただ呆然と車のテールランプが遠ざかるのを見つめるしかなかった。
「あなた、まだつかないの?こんな山奥に本当に人が住める場所があるわけないでしょ。」みさが苛立った声で夫をせかす。「静かにしろ。知り合いが教えてくれたハオがこの近くだ。一目につかず、空気がいい場所なんてここくらいしかないんだ。」
車はやがて、窓ガラスが割れ、庭に雑草が生い茂る見捨てられた廃屋の前に停まった。勇気はエンジンも切らないまま後部座席のドアを開け、せ子を外に降ろした。「ここは介護施設なんかより100倍いいところですよ。山の空気を吸えば頭もすっきりするし、認知症の予防にも最高だって言いますから。」
せ子は抵抗せず、息子の手に引かれて車を降りた。土の地面に足をつけた瞬間、彼女の古びたモンテのポケットに、長年絞ってきたたった一つの秘密が静かに隠されているのを、誰も知る由もなかった。
その時からきっかり10分後、勇気のスマートフォンに一本の電話がかかってきた。画面に表示された相手の名前を見た瞬間、彼の顔は真っ青になり、狂ったように車をUターンさせて山道を引き返し始めたのだ。
「どうして……どうしてあの電話が今なんだ……!」勇気はハンドルを握る手を震わせながら、妻のみさに向かって叫んだ。「あの電話は、母さんが遺書に書いた連絡先からかかってきたんだ!母さんは……母さんは自分の遺産を全部、あの山の土地ごと誰かに託すって書いてあったんだ!」
みさの顔色もまた、一瞬で青ざめた。「遺産って……あの人が何か持ってたの?私たちが知らないような……?」
「知らなかったんだ……母さんは昔、この山の一帯の土地を相続していたんだ。今の価値で言えば……数億円は下らない。それを、俺たちに一銭も渡さないように手配してたんだ!」
勇気はアクセルを全力で踏み込み、廃墟へと向かって車を走らせた。だが、彼の脳裏にはこの数週間の記憶が鮮やかに蘇る。雨に濡れたカップ麺、老婆が握らせてくれた温かい札、そして燃え盛る権利証の前で感じた不思議な解放感。彼は自分が汗水流して稼いだ9万7000円の価値を忘れてはいなかった。
「あなたには俺がまだ金に狂ったクズに見えますか?」
その言葉が、勇気の耳にこだまする。彼は今、自分の母親を置き去りにした場所へと、猛スピードで戻っている。だが、本当にそこで待っているものが、母親の笑顔なのか、それとも別の何かなのか——彼にはまだ知る由もなかった。



