「ねえ、お母さん、悪いけど、もうここには来ないでくれる?うんちの匂いが店に移っちゃうから。」
その言葉を、私は娘の口から聞いた。目の前には、キラビやかなシャンデリアが輝く超高級カフェがあった。そしてそこには、借金で首が回らないと言って私の元を去ったはずの夫が、見たこともない若い女と腕を組んで座っていた。
私はこの1年間、何のために生きてきたのだろう。
夫・正尾の借金を返すため、慣れない老人ホームで泥まみれになって働いた。食事は100円のカップ麺で済ませる毎日。ボロボロになった私の手を見て、夫と娘は冷たく笑った。
「離婚届に判を押したのはお前だろう。もう他人なんだよ。さっさと帰れよ。」
40年連れ添った夫の口から出たのは、あまりにも残酷な言葉だった。でも、彼らはまだ気づいていない。私が全てを知ってしまったことを。夫が流した悲劇の涙の裏側に、どれほど汚い真実が隠されていたのかを。
血の毛が引くような裏切りの連続。信じていた娘の残酷な一言。どん底に突き落とされた62歳の私が、最後に仕掛ける倍返しの物語。これからお話しするのは、ある家族の崩壊と、私の周年の逆転劇です。さあ、地獄へ落ちる準備はいいかしら?
元々の地獄は、1年前のあの夜から始まった。
玄関のドアが壊れそうなほど激しく叩かれ、土合が響き渡る。闇金間の取り立て屋たちが、毎晩のように家に押し寄せてきたのだ。
「金を出せないなら、この家をめちゃくちゃにしてやるぞ!」
震え上がる私をかうように、夫の正尾は膝まずいて泣いていた。
「ごめんよ、し子。俺のせいでこんなことに…」
正尾は40年、真面目に働いてきたはずだった。それなのに、友人の保証人になったせいで、数千万もの借金を背負わされたという。
「よし子、お願いだ。たった1年だけでいい。書類の上だけでいいから、他人になってくれ。」
正尾は私の手を握り、必死に訴えた。
「このままだと、お前のわずかな貯金や将来の年金まで、あいつらに奪われる。お前を守るにはこれしかないんだ。俺は必ずどこかで金を稼いで、借金を全部返して戻ってくる。だから信じて待っていてくれ。」
40年も一緒に歩んできた夫。苦楽を共にしてきた家族。この人を助けられるのは私しかいない。そう思い込んでしまった私は、震える手で離婚届に判を押した。
裁判所の前で、正尾は私の手を強く握りしめ、こう言った。
「よし子、本当にありがとう。死物狂いで稼いで、必ずお前を幸せにする。少しの間だけ辛抱してくれ。」
その言葉を、私は雲の上を歩くような気持ちで信じていた。
それから1年、今の私の現実はあまりにも過酷なものだった。
「あ、臭い。またおむつの中に手を入れて…」
鼻をつく強烈な匂いで、私は現実に引き戻される。私が今働いているのは、都心から外れた場所にある老人ホームだ。62歳。本来なら孫の顔を見て、のんびりと老後を過ごすはずの年齢。でも私の毎日は、認知症の高齢者のお世話と排泄物の処理に追われていた。
最初は吐き気がして、ご飯も喉を通らなかった。でも今は違う。ご飯を食べながらおむつの話ができなければ、ここでは生きていけない。
「話せ、この泥棒!私の金を盗んだだろう!」
今日に限って機嫌の悪い佐藤さんが、枯れた声で叫びながら暴れている。
「佐藤さん、綺麗にしましょうね。気持ち悪いでしょう。」
優しく声をかけて、私は佐藤さんの手を取った。すると、彼女は急に静かになり、私の顔をじっと見つめた。
「あんた…よし子ちゃんか?若い頃は綺麗だったのにな…」
その言葉に、私は思わず笑みがこぼれた。でも、その笑顔は長くは続かなかった。夜の勤務が終わって、疲れた体を引きずって寮に戻ったとき、一本のメッセージが届いていたからだ。
見知らぬ番号から送られてきたそれは、娘の美咲からのものだった。
「お母さん、元気?来週、パーティーを開くの。よかったら来てね。場所はこれ。」
添えられていたのは、都心の超高級ホテルの住所。そして、こう書かれていた。
「ドレスコードはホワイト&ゴールド。お父さんも来るよ。」
お父さんも来る?正尾が?借金を返すために働いているはずの、正尾が?
嫌な予感がした。でも、私はそのパーティーに行くと決めた。何が何でも、真実を知るために。
パーティーの当日。私は持っている服の中で一番マシな、くたびれたワンピースを着て、ホテルの前に立った。中からは、華やかな音楽と笑い声が聞こえてくる。深呼吸をして、私は重いドアを押し開けた。
目がくらむようなシャンデリアの光。きらびやかなドレスを着た人々。そして―
「よし子…?な、なんでここに…!」
真ん中で堂々と立っていた正尾が、顔色を変えて立ちすくんだ。
「あら、正尾さん、この方、どなたかしら?」
正尾の隣にいた綺麗な若い女が、優雅に首を傾げる。正尾は慌てて私から目をそらした。
「い、いや、何でもない。ただの…知り合いだ。」
ただの知り合い?40年連れ添った妻が、ただの知り合い?
「お母さん?!」
振り返ると、そこには娘の美咲が立っていた。シルバーのイブニングドレスを着て、まるで別人のように輝いている。でも、その顔は私を見るなり、みるみるうちに歪んでいった。
「何で来たの?メッセージ、送るべきじゃなかったわ…」
「美咲、これはどういうこと?お父さんは借金を返すために働いてるんじゃなかったの?」
私の問いかけに、美咲は鼻で笑った。
「借金?あんなの、全部演技よ。お父さんはこのカフェのオーナーで、私はその店で働いてるの。お母さん、本当に何も知らなかったの?私たちがあなたに嘘をついてたのが、そんなにショックだった?」
嘘。全部、嘘だったの?
「離婚届に判を押したときから、お母さんとはもう他人よ。お母さんの年金を使うために、あの老人ホームで働いてもらってただけ。本当はあなたに少しでもお金を残しておきたかったけど、もう仕方ないわね。」
美咲の言葉が、頭の中をぐるぐると回る。私は毎日、泥まみれになって働いていた。食事はカップ麺だけ。それなのに、この人たちは―
「よし子さん、どうした?早く帰ったほうがいいよ。ここは君の来る場所じゃない。」
正尾が、まるで他人のように言う。その隣で、若い女が嘲笑うように私を見ていた。
「あら、可哀想に。こんな場違いな服で来て。飲んだらすぐに帰りなさい。あんたの居場所はここにはないのよ。」
私は震えながら、バッグの中に手を入れた。そこには、1年前からずっと持ち歩いていた、あるものが入っている。定年退職する前に、会社の同僚からもらった、小さなボイスレコーダー。
「ねえ、お母さん、何してるの?」
美咲が不気味そうに私を見る。私はゆっくりと微笑んだ。
「何も。ただ、少しだけあなたたちの話を聞きたかっただけよ。ねえ、教えて?この1年、あなたたちが私に隠してたこと、全部。」
私の手の中のレコーダーが、静かに赤いランプを点滅させていた。ホテルの壁に貼ってあったカレンダーには、今日の日付が大きく印刷されている。あと1時間後、このパーティーの主催者である商工会議所の会長が来るはずだった。その男こそ、正尾の借金の正体を知る人物だと、私は調べていた。
「さあ、もう帰りなさい。」
正尾が強く言い放ち、私の腕を掴もうとした。そのとき、私は小さな声で言った。
「そう。じゃあ帰るわ。でも、あなたたち、忘れないでね。私がこれから何をするか、楽しみにしてて。」
私は振り返らずに、ホテルを後にした。でも、その足はもう震えていなかった。私は知っている。弁護士に相談したときのことを。この裏切りを、決して許さないと決めたことを。
これから始まるのは、私の反撃だ。



