「関係者だけで飲もっか」
その言葉を聞いた瞬間、私はテーブルの下で夫の手を握った。毎日会社で散々理不尽な扱いを受けてきたのに、新年会でも私たち夫婦は部外者扱いされた。獅は一体どこまで私たちを苦しめれば気が済むのか。
結局、私と国地は何も言い返せず、黙って座敷を後にした。背中にいつもの視線を感じたが、振り返る気にはなれなかった。
店の駐車場には、1台の黒い車が止まっていた。車の脇には秘書のしおりが立っていて、私たちの姿を認めるとすぐに一礼した。私は彼女の前まで進み、短く声をかけた。
「帰るから、車出して」
突然の予定変更にも、しおりは表情を変えず静かに頷いた。
「会長、承知しました」
車に乗り込んだ私たちは、そのまましおりの運転で新年会の会場から走り去った。
翌日、獅が窮地に陥ることになるとは、おそらく誰も予想していなかっただろう。
—
私の名前は井ゆ、28歳。広告代理店で営業事務の仕事をしている。公務員の両親のもとで一人娘として育った。幼い頃から人前に立って目立つことより、誰かのサポートをする方がずっと自分の性に合っていた。自分が手伝うことで物事が円滑に進む。おそらく私はその営みが好きだったのだと思う。
大学卒業後は広告代理店に就職。華やかな世界という印象を持っていたけれど、実際に飛び込んでみれば、そこにあるのは締め切りと調整の連続だった。派手に見える仕事ほど、裏では細やかな作業が幾重にも積み重なっている。しかし私はそういう現実が嫌いではなかった。営業担当が外で滞りなく動けるように資料を整え、数字をまとめる。自分は裏方に向いているのだと早い段階で気づいた。
夫の国地と出会ったのは、そんな広告代理店に入社したばかりの頃だ。営業マンの彼は、一つ上の先輩だった。初対面で印象に残ったのは、柔らかな口調。忙しい時ほど人は余裕を失い、本音や苛立ちが滲みやすい。だが国地はどんな時も決して声を荒げなかった。彼の落ち着いた態度に、私は何度も救われてきた。
仕事を通して少しずつ言葉を交わすうちに交際が始まり、去年、27歳で結婚。穏やかで幸せな毎日が待っていると、私は信じていた。あの日までは。
—
約2年前、私と国地が所属する営業部門に新しい課長が来た。朝礼で告げられた名前は、獅倉。30代半ばで、ニコニコと愛想よく話す獅は、パッと見た印象は人当たりのいい上司だった。けれど、その印象は私の中ではすぐに崩れ去った。
最初に引っかかったのは、距離の取り方だ。
「ねえ、昼っていつも一人?」
「日によりますけど、一人で食べることもありますね」
「ええ、そうなんだ。じゃあ今度一緒にランチ行こうよ。近くの店を教えて欲しいな」
「すみません。いつも私はお弁当なので、お店には詳しくないんです」
このくらいなら、まだ雑談で済ませることもできるだろう。
だが獅は、用もないのに私の席の近くへ来ることが増えていった。
「今日って、残業する予定?」
営業事務の仕事は、資料の修正や見積もりの確認などで手が離せないことも多い。忙しいと伝えるため画面から目を離さずに返事をしても、獅は私の机の横に立っていつまでも話を続けた。
「はい、少し残ります」
「終わったら飲みに行こうよ。新人歓迎ってことで」
「いえ、私は結構です。基本的に忘年会、新年会以外の飲み会は参加しないようにしてるので」
「ええ、硬いなあ。じゃあまた今度」
断っているのに、「また今度」と返される。こちらの意思が拒否として受け取られていないのが、不快だった。
入社して1ヶ月も経つ頃になると、今度は休日の過ごし方まで聞いてくるようになった。
「ねえ、今週の土日って何してるの?」
仕事の話だけならまだ我慢できた。しかし、休日の予定を詮索されるのは、明らかに一線を越えている。私はできるだけ素っ気なく答えた。
「特に予定はありません」
「じゃあ、今度観光案内してよ。この辺りに詳しいんでしょ?」
「すみません、私もあまり詳しくなくて」
何度断っても、獅はめげることがなかった。まるで私の拒否が一切届いていないかのように、毎日のように話しかけてくる。同僚の前ではいい上司のふりをしているくせに、二人きりになると、やたらと馴れ馴れしい態度を取ってくる。
ある日、私は国地に相談した。
「獅課長、最近ずっと話しかけてきてうるさくて」
「獅が?」
国地は少し困ったような顔をした。
「まあ、気にしなくていいんじゃないかな。多分、人懐っこい性格なだけだと思うし」
そう言われてしまうと、私もこれ以上何も言えなかった。私の感じている違和感を、うまく言葉にできなかったからだ。
—
状況が一変したのは、獅倉が異動してきて半年ほど経った頃。私は営業事務の中でも、特に数字の管理を任されるようになった。売上の集計や予算の管理、クライアントへの請求書の作成。それまでベテランの先輩が担当していた仕事を、少しずつ引き継いだのだ。
獅は私に仕事を振りながら、こう言った。
「井ゆさんは数字に強いからね。これからは大事な書類も任せるよ」
仕事を任されるのは嬉しかった。認められているのだと思った。しかし、それは少しずつ私を縛っていくものだった。
「ねえ、この書類、確認してくれる?」
「この数字、間違ってない?」
「明日までに、この資料まとめておいて」
最初は普通の依頼だった。しかし、次第にそれは私だけに降ってくるようになった。他の営業事務のメンバーではなく、必ず私に。しかも、獅は私が残業している時に限って、こう言うのだ。
「大変そうだね。無理しないでね」
その言葉が、どれだけ空虚で心がこもっていないか。私にはすぐに分かった。彼は私を便利な駒として使っているだけ。数字に強い営業事務。獅にとって私は、自分が楽をするための道具だった。
それでも、私は文句を言わなかった。やるべき仕事はやる。そういう人間だと、今まで生きてきたのだから。
—
ある日、獅は私に言った。
「井ゆさん、明日の会議資料なんだけど、うちのチームの成績が悪いから、数字を少し調整してくれないか?」
私は固まった。
「調整って、どういうことですか?」
「ほら、営業の成績が悪いと上から目をつけられるだろ。だから、少しだけ見栄えを良くしてくれればいいんだ」
つまり、数字を改ざんしろということだ。私はきっぱりと断った。
「それはできません。私の担当する数字は、正確であるべきです」
獅の顔が一瞬で曇った。
「真面目だねえ。まあ、分かった。もういいよ」
その日はそれで終わった。しかし、獅の私に対する態度は、それから徐々に変わっていった。
—
ある朝、出社すると、私の机の上が真っ白になっていた。書類もペンも何もない。驚いて周りを見渡すと、獅が近づいてきて、ニヤニヤしながら言った。
「井ゆさん、今日から席が変わってもらうから」
「席を変える? なぜですか?」
「こっちの都合だよ。上から指示があったんでね」
そう言って獅が指さした先は、窓際の一番日当たりが悪く、人の出入りが激しい場所だった。しかも、そこは他の部署の人間ばかりが座っているエリア。私は営業事務としての仕事を持つ身でありながら、そこにポツンと一人で座ることになった。
自分の席がなくなることの不便さは、言葉にできないものがある。書類を取りに行くたびに、一々立ち上がらなければならない。電話も取りづらい。同僚との会話も自然と減った。
何よりも辛かったのは、私が孤立していくのを感じることだった。
—
そんなある日、後輩の女の子、戸塚さんが私の席に来て、声を震わせながら言った。
「井ゆさん、私……辞めようと思ってます」
彼女は入社してまだ半年。私と同じように、獅にしつこく話しかけられ、仕事を押し付けられていた。私は彼女を茶室に呼んで、話を聞いた。
「獅課長に、何かされたの?」
「いえ、そういうことじゃなくて……ただ、居づらくて」
彼女はうつむいたまま、小さな声で言った。
「獅さんが席を変えたのは、井ゆさんだけじゃないんです。私も、先月、席を変えられました」
私は息を飲んだ。
「え?」
「井ゆさんが席を変えられた後、私も目をつけられたみたいで……獅さんが言ったんです。『戸塚さんはまだ新卒だから、無理しなくていいよ』って。そう言って、私の仕事を全部、他の人に回しちゃったんです」
つまり、仕事を奪われたのだ。私と同じように、彼女も獅の標的になった。私は悔しさで胸が締め付けられた。私一人ならまだ耐えられた。しかし、私のせいで後輩までが苦しむことになった。それは許せなかった。
「獅が、全部やったの?」
「はい。でも、私が下手に動くと、きっと獅さんがもっと変なことをします。だから、もう辞めるしかないって……」
「待って。あなたは何も悪くない」
私は彼女の手を握った。
「私が何とかする。だから、もう少しだけ待って」
その日、私は決心した。もう獅の好き勝手にはさせない。何か手はないか。私は必死に考えた。そして、あることに思い至った。
獅が私に任せた仕事。その中に、彼がやったことを証明できる資料があるかもしれない。私は業務上、必要な書類として、獅の指示を記録したファイルを保管してきた。それらを整理すれば、獅の不正を証明できるかもしれない。
—
しかし、そんな私の思いも虚しく、状況はさらに悪化した。
獅はついに、私を含めた営業事務の全員の前で、私を口頭で叱り始めた。
「井ゆさん。この書類、期限が遅れているよ。どうして?」
「すみません。資料の確認に時間がかかってしまって」
「言い訳はいいんだよ。約束の時間にできないなら、最初から受けるべきじゃない」
そんなことが毎日続いた。周りの同僚は、私が獅に目をつけられていることを知りながら、誰も助けてはくれなかった。助けようとしてくれる先輩もいたが、獅の権力が強いため、表立って動くことはできなかった。
私は次第に、会社に行くのが辛くなった。朝、目が覚めると、一番に胸のあたりが重くなる。あの職場に行けば、また獅の嫌がらせが待っている。そう思うだけで、涙が出そうになる。
国地には言えなかった。彼にも獅が絡んでいることを知られたくなかったし、心配をかけたくなかった。私は一人で抱え込むことにした。
—
そして、新年会の日。
会社の新年会は、毎年、近くの料亭で行われる。今年は国地も参加することになり、私は少しだけ気が楽だった。獅がいても、夫がそばにいれば大丈夫だと思っていた。
しかし、その日の会場での獅の行動は、私の予想をはるかに超えていた。
会も中盤に差し掛かった頃、獅が突然、立ち上がった。
「皆さん、ちょっといいですかー!」
獅は場を仕切りながら、私と国地を見やった。
「今日はせっかくの新年会ですから、ちょっと楽しい企画をやりたいと思います!」
私は嫌な予感がした。獅の顔には、いつもの作り笑いが張り付いている。あれが何かを企んでいる時の表情だと、私はもう分かっていた。
「この場所は、部外者には関係ない場所ですからね」
獅が言った。周りの連中がどっと笑う。私と国地に視線が集まる。獅が続ける。
「ここの新年会は、社員とその家族の集まりです。ただ、中には、あんまり馴染めてない人もいるみたいですから……そういう人は、今日は帰っていただいても構いませんよ」
周りがシンと静まり返った。獅は私と国地を交互に見ながら、ニヤリと笑った。
「井ゆさんも、国地さんも、気を使わなくていいですからね。無理してここにいることもないですよ」
それは、明確な追い出しだった。夫婦揃って、部外者扱い。その場の空気が凍りつく中、私は頭の中が真っ白になった。何も言い返せない。国地も黙ったままだった。
獅は満足そうに続けた。
「関係者だけ飲もっか」
その言葉を聞いた瞬間、私はテーブルの下で夫の手を握った。毎日会社で散々理不尽な扱いを受けてきた挙げ句、新年会では夫婦揃って部外者扱い。獅はどこまで私たちを苦しめれば気が済むのか。
結局、私と国地は何も言い返せず、黙って座敷を後にした。背中にいつもの視線を感じたが、振り返る気にはなれなかった。
店の駐車場には、1台の黒い車が止まっていた。車の脇には秘書のしおりが立っていて、私たちの姿を認めるとすぐに一礼した。私は彼女の前まで進み、短く声をかけた。
「帰るから、車出して」
突然の予定変更にも、しおりは表情を変えず静かに頷いた。
「会長、承知しました」
車に乗り込んだ私たちは、そのまましおりの運転で新年会の会場から走り去った。
翌日、獅が窮地に陥ることになるとは、おそらく誰も予想していなかっただろう。
—
翌朝、私はいつものように出社した。机に着くと、獅が早速話しかけてきた。
「おはよう、井ゆさん。昨日は早くに帰っちゃったみたいだけど、大丈夫だった?」
作り笑顔。私を傷つけたことなど、全く気にしていない様子だ。私は深呼吸をして、獅を見上げた。
「獅さん、ちょっといいですか?」
「ん? 何?」
「この書類、見てください」
私は机から一枚の書類を取り出した。それは、獅が私に指示して改ざんさせようとした数字の資料と、彼が私に仕事を押し付けていた記録の一部をまとめたものだった。
獅の顔色が、見る見るうちに変わっていく。
「こ、これはどういうことだ?」
「獅さんが私に指示したことです。この書類には、日付と時間も記録されています。あと、私の他にも、あなたに同じような指示を受けた人が、何人かいます」
獅の額に、嫌な汗が浮かんでいた。
「何を言ってるんだ。私はそんな指示を……」
「問い詰めて申し訳ありませんが、もう大丈夫です」
私はそう言うと、席を立ち、営業部の部長のところへ向かった。獅が後ろで何か言っているが、振り返らなかった。
部長室のドアをノックして、中に入る。
「部長、お時間よろしいでしょうか」
「ああ、井ゆさん。何か?」
私は持ってきた資料一式を部長の机の上に置いた。
「獅課長の件で、お話があります。一つの報告をさせてください」
—
その日から、獅の態度は一変した。私に対しては、何も言ってこなくなった。しかし、獅は内部で何かを探っているようで、まだ何か仕掛けてくるかもしれないという不安は、私の中にずっと残っていた。
あれから数日後、獅が別の部署に異動になるという噂を聞いた。私はその知らせに、安堵と同時に、何とも言えない虚しさを覚えた。結局、獅は表向きの処分を受けることもなく、ただ配置転換されるだけ。私が受けた嫌がらせは、なかったことにはならない。しかし、私がこれ以上この会社で獅と張り合う気はなかった。
私は自分の感情を整理するために、しばらく時間がかかった。それでも、国地は黙ってそばにいてくれた。すべてを話した後、彼は怒りよりも悲しみを滲ませて、こう言った。
「ごめん。もっと早く気づいてやれなかった」
その言葉だけで、私は救われたような気がした。
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私は今も、あの広告代理店で営業事務の仕事を続けている。獅は異動になり、今の職場にはいない。けれど、私は思う。あの時、たとえ獅が異動にならずに残っていたとしても、私はきっと負けなかっただろう。自分を守る方法を、もう知ってしまったから。
あの新年会の夜、車の中で国地が言った。
「なあ、転職するか?」
私は少し考えて、首を振った。
「まだ、やめるつもりはないよ」
「そうか」
国地は笑った。
「なら、俺も一緒にこの会社に残るよ」
その言葉が、どれだけ私の心を強くしたか。
私はもう、誰かに煽てられて流されることはない。私は私の道を行く。それが、獅のような人間に負けないための、私なりの答えなのだから。
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