浴室の大きな鏡の前に立ち、私は絹のネクタイを締め直した。今日の午後、リナがプレゼントしてくれた深緑のそれは、鏡の中の42歳の男を誰が見ても成功者に見せる。滑らかに整えた髪、高いエステで保たれた肌、東京で名を馳せるインテリアデザイン会社の社長。広いマンションに、賢い妻と優しい娘。その仮面があまりに完璧で、時には私自身さえも真実を忘れそうになる。
5年間、私は二つの人生を生きてきた。昼間は厳格な社長であり、夜は秘書リナの熱い恋人。リナと過ごす時間は若さを取り戻した気分にさせ、家に帰れば退屈な夫の役割を演じる。味噌汁の香りが立ち込める食卓で、静香が焼き魚を私の茶碗に乗せる。彼女はいつもそうだ。不平も言わず、毎日同じ優しい微笑みを浮かべて。
だが成功の頂点に立つ今、その従順さが目障りだった。冷めたご飯のように退屈で、味気ない。私は箸を無心に動かしながら、来週の沖縄旅行の言い訳を考えていた。出張という言葉は、静香が一度も疑ったことのない定番メニューだ。
「それより、あなた。話があるの」
静香の声に、私は手を止めた。彼女は珍しく、私の目をまっすぐ見つめている。
「あなたが出張だと言ってた日、リナさんと沖縄にいる写真が届いたの」
私は時が止まったように感じた。静香は泣きもせず、怒りもせず、ただ静かにバッグから封筒を取り出した。その中には、青い海の前で笑い合う私とリナの姿があった。
「5年間、気づかないふりをしてきた」
彼女の声は震えていたが、目は少しも揺れていなかった。私は何と言えばいいのか分からず、ただネクタイを握りしめた。
「でもね、あなた。私が一番許せないのは、リナさんが妊娠してるって知った時よ。あなたは私に何も言わなかった。私がどんな気持ちでこの家を守ってきたか、考えたことあるの?」
私は口を開こうとしたが、言葉が出なかった。静香は立ち上がり、キッチンに向かって言った。
「今日から、あなたの人生は私が決めるわ。覚悟しておいて」
その背中を見つめながら、私は初めて彼女の強さを知った。そして、自分がどれほど彼女を甘く見ていたかを思い知った。



