掃除機の音を止めた瞬間、背中越しに聞き覚えのある声が飛んできた。
「ここの最場会にIT系の会社があるのよ。夫がその社長なの。あんたがここで掃除してるの?しっかり掃除しなさいよね。」
振り返ると、そこには学生時代に手ひどく俺を振った彼女が立っていた。きっちりしたスーツ姿で、まるで自分がこのビルの主であるかのような態度だった。
俺は黙ってモップを握り直した。彼女は自分の立場に酔いしれて、あれこれと暴言を吐き続ける。
「オタクみたいな奴が掃除してるなんて、このビルの価値が下がるわね。」
俺は冷静に答えた。「オタクの旦那、このビルから出ていくことになるかもね。」
彼女は一瞬、何を言われたのか分からなかったようだ。だが次の瞬間、俺の顔をまじまじと見つめて、みるみる青ざめていった。
俺の名前は池内。今は30代に足を踏み入れ、なんとなく落ち着いた日々を感じるようになってきた。20代の頃は、焦りと他人への嫉妬や妬みが心の隅に座っていた。自分なりにそれも若さの一部だろうと思っている。それを少しずつ捨てることを覚え、良い意味で自分に見切りをつけた。人生はまだ長いが、若い時期に一度の整理をしてみたいと思ったところだ。
俺は生まれてこの方、地元を離れることなく生きてきた。首都圏内のどこにでもある、それなりに規模の大きな町。そんな環境で生まれ育った。両親は夫婦で電気工事店を切り盛りしていた。父は元々大手メーカーで技術者をしていたが、若くして独立した。工業高校時代の仲間やメーカー時代の同僚数人を集めて店を立ち上げたのだ。母はその時から事務仕事を一手に引き受け、夫婦で張り切って働いていた。
俺は父から店を継げと言われたことはない。だから自分で自分の道を行こうと決めていた。高校を出たら大学に進学し、就職する。家のことを考えなくていいのであれば、しっかりと自立しようと思っていた。しかし高校2年生の冬、父が倒れて事情が変わった。
父は心臓を患い、現場で倒れた。一時は余談を許さない状況だったが、どうにか脱して安心したのも束の間、医者からは「今後一切の無理はできない体」と言われた。店は父の仲間がしばらく回してくれていたが、全員の行く末を気にしていた母の言葉はやがて現実になった。いわゆる社長だった父が仕事の第一線から抜けたことで、得意先が減っていった。母もどうにか頑張って店を立て直そうとしたが、個人経営の電気工事店では限界があった。
高校生活に区切りがついた時、俺は家の状況を目の当たりにした。父はまだ入院中で、店の方はかつての従業員たちが必死に支えていたが、技術者仲間も少しずつ離れていった。家計は逼迫し、母は昼間は店の事務仕事をこなし、夜は内職で収入を補おうとしていた。そんな母の姿を見て、俺は大学進学を諦めざるを得なかった。就職先を探す代わりに、まずは家の手伝いが必要だった。
父が退院して家に戻れるようになった時、父は俺に言った。「お前には苦労をかける。こんな店、継がなくていい。自分の好きなことをやれ。」
だが、俺は首を振った。「店がなくなったら、父さんが身体を張って築いてきたものが全てなくなる。俺が何とかする。」
父は何も言わなかったが、その目は泣いているようだった。
それから俺は地元で働きながら、店のことを少しずつ学んだ。電気工事の仕事は父と一緒に現場を回る中で自然と覚えていた。だが、数年後、店はついに閉店することになった。借金の返済が限界だった。父は自分の店が消える無念さに、何度も何度も「すまない」と言った。母は「仕方ない」と口では言いつつも、誰もいない店の隅で声を殺して泣いていた。
店を畳んだ後、俺は地元のビル管理会社に就職した。電気工事士の資格は父の仕事を見ながら独学で取っていたから、有資格者としてすぐに採用された。最初は掃除や簡単なメンテナンスから始まり、やがて電気設備の保守管理も任されるようになった。正直なところ、「電気技術者」という肩書を名乗れる仕事に戻れたことに少しだけ安堵した。だが、かつて自分が継ぐかもしれなかった店のことを考えると、いつも胸のどこかが痛んだ。
そんなある日、同僚が風邪で休み、俺は急遽、入居ビルの清掃を手伝うことになった。そのビルにはいくつかテナントがあり、その中にIT系の会社があることは前から知っていた。だが、所長として顔を出すのは初めてだった。掃除機をかけていると、アルバイトの女性が慌てて話しかけてきた。「池内さん、あの、3階のテナントの奥様が来てます。すごく、怖い感じの人で…」
俺は軽くうなずき、そのまま清掃を続けた。すると、先ほどの声が響いてきた。「あなた、このビルの清掃をしているんでしょう。手抜きしないでよ。うちの旦那はこのビルの顔みたいなものだから、周りに変な噂が立つと困るの。」\n振り返ると、そこには性格だけではなく、顔つきも昔よりもきつくなった彼女が立っていた。学生時代、俺は彼女に好意を抱き、勇気を振り絞って告白した。しかし彼女は、友人たちの前で一蹴した。「オタクくんが私の彼氏?笑わせないで。人生の目標が低すぎるよ。」
それは俺の青春を真っ二つに折る言葉だった。あの日から、俺は人前で感情を見せることをやめた。
「ねえ、聞いてるの?」彼女の声がさらに尖る。「掃除するならさっさと終わらせなさいよ。そっちの仕事でしくじったら、俺の旦那が責任取らせるからね。」
俺はモップを置き、彼女の目を真っ直ぐ見つめた。「大丈夫です。ここの清掃は、私が責任を持って完璧に仕上げます。とはいえ、今日は人手が足りないので、この後の別の作業は別の日に回します。」
「何言ってるの?不足するなんて許さないわよ。今すぐ対応しなさいよ。」
彼女はさらに食い下がった。俺はもう一度だけ落ち着いて言った。「奥様、このビルの設備管理を担当しているのは私です。必要な作業には優先順位があります。清掃は明日、きちんと対応いたします。」
それを聞いた彼女は、一瞬、言葉を失った。だが、すぐに侮蔑の表情に戻った。「あんたが設備管理?ふざけないで。掃除夫が自分の仕事を過大評価してるんじゃないわよ。」
俺は口元をわずかに緩めて、静かに対応した。「私の名は池内といいます。三年前からこのビルの電気設備を担当しています。その前は、自分の家で電気工事の店をやっていた。父から技術を受け継いだんです。」
彼女の顔色が変わる様子はなかったが、俺は続けた。「ところで、奥様のご主人は、確か社長さんでしたね。もしかして、三年前に倒れた電気工事店の関連企業から取引先を引き継いだと聞いていますが、本当ですか?」
その言葉を聞いた瞬間、彼女の顔から血の気が引いていった。口を開けたり閉じたりしながら、何かを言いかけて止める。俺は彼女の反応を待たずに言った。「父の店が潰れた後、元の従業員たちが食い扶持を得られるように、私は必死で仕事を回してもらった。その中のひとつが、奥様のご主人の会社だったんです。だけど、ご主人は父が倒れる前に交わした工事の契約を、突然一方的に打ち切ったと聞きました。なぜか心当たりはありますか?」
彼女は完全に動揺していた。足が地面から離れないように必死に踏ん張っているように見えた。周りの従業員たちも、そのやり取りを静かに見守っていた。俺はそこまで言って、言葉を切り、穏やかな口調で付け加えた。「奥様、私はあなた方に対して何の恨みもありません。ただ、今日の清掃はこれで終わります。明日、あらためて設備の点検に伺います。それでは、ごきげんよう。」
俺はモップを片付け、清掃カートを押して廊下へ出た。背後で、彼女が何か叫びかけたような気がしたが、振り返らなかった。エレベーターに乗り込むまで、俺の心臓は激しく打ち続けていた。だが、不思議なことに、長年胸のどこかで燻っていた痛みが少しだけ消えた気がした。
翌日、俺はいつも通りにビルへ出勤した。管理室のドアを開けると、所長が難しい顔で待っていた。「池内、昨日の件、聞いたぞ。お前が3階の奥様と何か言い合いになったらしいな。」
俺は正直に事の経緯を話した。所長はしばらく考え込んだ後、ため息混じりに言った。「悪いが、来週からあのビルの担当を外れてくれ。向こうのクレームがすごくてな。」
俺は何も言わなかった。ただ、自分の中で何かが固まっていくのを感じた。その日の帰り際、俺はスマホを手に取り、ある人物に連絡を取った。かつて父の店で一緒に働いていた技術者の一人だった。
「もしもし、池内です。突然すみません。ちょっと、相談したいことがあって。」
「おう、久しぶりだな。どうした?」
「実は、昔付き合いのあった会社から、先方が一方的に契約を打ち切った件があってな。それで、取引先の実態を調べたいんだ。詳しいことは、直接会って話したい。」
相手は一瞬間を置いて、静かに言った。「分かった。いつもの場所で会おう。」
俺は通話を切り、窓の外を見つめた。かつて手ひどく振った彼女が、今の自分の人生にこうして絡んでくるとは思っていなかった。だが、これで終わらせるわけにはいかない。父が何年もかけて積み上げたものが壊されたのなら、その理由を明らかにするのが筋だ。
翌週、俺は昔の仲間と落ち合い、資料を集め始めた。すると、意外な事実が浮かび上がってきた。取引先の会社が、父が倒れる直前から別の電気工事会社と交渉を進めていた形跡があったのだ。しかも、その会社の代表者は、俺のことをよく知る人物だった。
「まさかな…」俺は小さくつぶやいた。
その人物は、かつて父の店で一番の腕利きとして信頼されていた技術者、通称「カトー」だった。父は彼を自分の息子のようにかわいがっていた。だが、独立の話を持ち出した時、父はそれを快く思わず、結果的にカトーは店を出ていくことになった。
カトーが新しく立ち上げた会社が、父の店の取引先を次々と引き継いでいた。そして、その背後で彼女の夫が資金援助をしていたらしい。全てがつながって見えた。父が倒れたのは事故だが、店が潰れる運命は、もしかすると前から仕組まれていたのかもしれない。
ある日、俺はカトーの会社があるビルの前まで足を運んだ。入口に立っていると、後ろから声がかかった。「お前、池内か。」振り返ると、そこにはカトー本人が立っていた。彼は俺を見て、複雑な表情を浮かべた。「久しぶりだな。父さんは元気か?」
「倒れてからは、ずっと療養中だよ。」俺は静かに返した。「そして、店は潰れた。」
カトーは何も言わなかった。しばらく沈黙が続いた後、彼は口を開いた。「俺からも、言わなきゃならないことがある。ここで話すのは難しい。時間を作ってくれないか。」
俺は迷ったが、うなずいた。「いいだろう。いつどこで?」
「明後日、夜に市営の食堂で。あの時、一緒に昼飯を食った店だ。」そう言って、カトーは背を向けた。
明後日の夜、俺は約束の店に足を運んだ。あの食堂は、父の店の近くにあり、昼時はいつも従業員たちで賑わっていた。今は夜の時間帯で、客の姿はまばらだった。カウンターの奥に、カトーが既に座っていた。俺は隣に座り、コーヒーを注文した。
「サッポロラーメン、まだ食べられるか?」カトーが言った。
「ああ、いつでも。」俺は答えた。
互いにしばらく言葉を探しているような間があった。やがてカトーが重い口を開いた。「聞かされていた通りだ。取引先の件は、俺が動いたんだ。だが、全て俺の意思じゃなかった。」
俺は眉をひそめた。「どういうことだ?」
「父さんが倒れる前、ある会社の幹部から話が来た。『お前の力なら独立できる。うちが資金を出すから、父さんの店の仕事を回してくれ』と。俺は独立したかった。だが、父さんの店を潰すつもりはなかった。しかし、相手は俺が断っても、別の方法で動いていたらしい。その頃には、もう引き返せなかった。」
カトーは顔を上げ、俺の目を真っ直ぐ見据えた。「お前、父さんの店を継いでもよかったんだぞ。それなのに、なぜ辞めた?」
俺は手に持ったコーヒーカップをじっと見つめた。「父さんに継げとは言われなかった。それに、あの時は自分に技術があると思っていなかった。ただ、無責任だったのかもしれない。」
その時、店の時計が八時を指した。カトーが言った。「もう決めたことがある。明日、警察と取引先に話をしに行く。全てを明かすつもりだ。」
俺は驚いて聞き返した。「本当に? お前が証言すれば、お前自身も罪に問われるかもしれないぞ。」
カトーは苦い笑みを浮かべた。「もう覚悟している。父さんにすまないことをした。それに、お前にも。」
俺は何も言えなかった。カトーが立ち上がり、勘定を払おうとした時、俺は言った。「待ってくれ…明日の話、俺も同伴してもいいか?」
カトーは振り返り、小さくうなずいた。「ああ、その方が心強い。」
翌朝、俺はカトーと共に警察署と、取引先の重役たちが集まる会議室を訪れた。カトーは包み隠さず、自分の行動と、それに関わった人物の名前を証言した。彼女の夫がその後、どのような処遇を受けたのか、詳しいことはまだ報道されていない。だが、少なくとも、父の店を潰した原因の一端が明らかになった。
数週間後、父から電話があった。「ニュースで見た。お前、何か知っているのか?」
俺はすべてを話した。父はしばらく沈黙した後、低い声で言った。「そうか…カトーが…」
「父さん、すまない。もっと早く気付いていれば。」俺は謝った。
父は優しい口調で返した。「いいんだ。お前は何も間違っていない。むしろ、よくここまで真実を突き止めた。」
そして、父は続けた。「店は潰れたが、技術は受け継がれる。お前はこれからも電気の道をやっていくんだろう?それを俺は誇りに思う。」
それから数年後、俺は同じビル管理会社で、主任として働いている。掃除だけでなく、電気設備の設計や施工管理も任されるようになった。先日、同じビルでエレベーターの点検をしている時、後ろから声をかけられた。「あの…池内さんですよね?」
振り返ると、かつての彼女が立っていた。彼女は何か言いかけたが、俺は軽く会釈して言った。「お勤めご苦労さまです。設備には問題ありません。失礼します。」
そのまま背を向けて歩き出した。後ろで、誰かが何か言っている気配がしたが、聞こえないふりをした。
あの日の出来事から学んだことは、一つだけだ。過去に引きずられるよりも、今の自分ができることを積み重ねていくしかない。家の店は無くなったが、父が教えてくれた仕事への誇りは、今も俺の中で生きている。そして、その誇りを胸に、今日も俺は安全な電気設備を守り続ける。
(完)



